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第I部 第1章 アジアのデフレとその要因

第1章 アジアのデフレとその要因

第1節 財とサービス価格が下落するデフレ

●90年代にはアジアでデフレが顕在化
 70年代以降、2度の石油危機を経験するなど、世界経済は高インフレに直面してきた。このため各国政府は景気動向に注意を払いながら、インフレ抑制のために金融引締め、財政赤字削減などのマクロ経済政策を実施するとともに、労働市場改革や規制緩和を含め市場メカニズムの一層の効果発揮を目的とする構造改革を行ってきた。この結果、80年代以降世界主要国のインフレ率は大幅に低下してきた(第I-1-1表)。
 こうした中でアジアにおいては、日本・中国・香港・台湾・シンガポールにおいて90年代後半に物価が下落しており、デフレ傾向に陥っている(コラム:90年代世界のデフレ参照)。同じアジアでも、韓国、インドネシア、タイなどではデフレは生じていない。むしろインドネシアでは、インフレ抑制が政策課題となっている。
 物価動向には需要面や供給面の実物要因、そして貨幣要因など多くが関係する。本章での問題意識の一つは、アジアでデフレが生じているのは中国との経済関係が深いところであり、中国の影響があるのかどうかという点にある。

コラム 90年代世界のデフレ

●アフリカ、アジアで多い物価下落の状況
 世界各地の物価下落の状況を調べてみましょう。下表は、消費者物価指数が2年以上連続して下落した国や地域をまとめたものです。IMFの統計からデータがとれた178か国と台湾の計179か国のうち、該当国(デフレ国)は25か国あります。地域別にみると、アフリカ11か国、アジア8か国、中東4か国、南北アメリカ2か国となっています。ヨーロッパやオセアニアでは、1年限りの物価下落国はあるものの、2年以上連続して物価が下落している国はみられません。

●アフリカは90年代前半に、アジアは90年代末から物価下落が続く傾向
 物価下落が2年以上続いている国や地域が多いアフリカ、アジアについて、年代を区切ってみてみましょう。90年代前半は、戦乱や経済危機などに見舞われたアフリカで物価が下落した国が目立っており、90年代末頃からアジアで物価下落が続いている国・地域が目立っています。

●消費者物価下落と経済成長の関係は?
 次に、物価下落と経済成長との関係を調べてみましょう。デフレ下でも年4%超の成長をしている国が9か国ある一方、マイナス成長に陥っている国が5か国あります。また、両グループとも地理的には散らばっていますが、どちらかと言えば、アジアや中東で高い成長をする国が多く、アフリカではマイナス成長の国が多い傾向があります。
 

●財、サービス価格がともに下落
 財とサービスに分けて90年代以降の特徴を調べてみよう。緩やかなデフレが続いている日本では財価格は下落し、サービス価格はほぼ横ばいとなっている(第I-1-2図)。他方、インフレ下にあるアメリカ、ドイツ、韓国では、財価格の上昇が基本的に続いているが、さらにサービス価格が財価格を上回る上昇をみせている。
 こうした物価動向の違いを詳しくみるため、2002年の消費者物価上昇率について、可能な限り定義を揃えて比較してみよう。デフレ下にある国(日本、中国、香港、台湾、シンガポール)の多くに見られる特徴は、3点を指摘することができる(第I-1-3表)。(i)財とサービスの価格が広範に下落している。(ii)財では、耐久消費財の価格下落が顕著である。(iii)サービスに関しては、家賃の下落が大きいことに加え、交通運賃料金、通信料金の下落が目立っている。
 インフレ国(アメリカ、ドイツ、韓国)の特徴は2点が挙げられよう。(i)家庭電気製品を中心として耐久消費財の価格下落はほぼ共通している。アメリカで財全体の物価が下落しているのはデフレ国と同様である。他方、ドイツや韓国では、財全体として物価は上昇しており、食料や衣料の価格上昇がみられる。(ii)サービスに関しては、通信料金が下落基調にあるものの、全体としては物価が上昇している。
 このような結果、デフレ国とインフレ国では耐久消費財の価格下落が共通している一方、違いとしては、(i)デフレ国では財とサービスの多数の費目で価格が下落していること、(ii)香港が特徴的であるようにデフレ国では地価下落を反映し家賃の下落がみられること、(iii)インフレ国では家賃の他、保健医療、交通、教育などのサービス分野で価格上昇がみられることが挙げられる。
 本章の問題意識に即すると、耐久消費財の価格下落は安い輸入品の増加と関係があるのではないか、他方、財とサービスで共通して生じている一般物価の下落は特定の財には帰することのできない要因があるのではないか、また、サービス価格の下落はどのような要因なのか、という論点が明らかになる。

●中央銀行の物価に関する認識
 中央銀行の多くは、物価の安定を使命に掲げており、物価の現状と見通しに関して定期的に評価を示している(第I-1-4表)。過去1年をみるとほとんどの中央銀行が緩和的な金融政策を実施している。その背景としては、世界の景気回復が緩やかであり、基調として物価が安定的に推移するとの見通しを持っていることが挙げられる。デフレが生じている日本や香港では、2003年にもデフレ脱却は困難であるという見通しがある一方、中国、台湾、シンガポールでは物価上昇が見込まれている。他方、アメリカはデフレではないが、デフレに陥った場合の危険を十分意識した政策運営が行われている(コラム:FRBのデフレ認識と金融政策参照)。ドイツの金融政策は欧州中央銀行が担当しているが、ドイツ連邦銀行では物価は安定との認識を示しているだけで、特段デフレを意識した政策論議は行われていないようである。

コラム アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)のデフレ認識と金融政策

●アメリカでデフレが起きる危険はないとの認識
 デフレは日本だけではなく、アメリカでも話題になっています。全ての財・サービスを含んだ消費者物価上昇率は2002年で1.6%でした。デフレを物価の継続的な下落と定義すれば、現在デフレに陥っているとはいえません。それでも話題になるのは、将来的なデフレが懸念されるからです。その根拠は、財の価格下落です。比較的価格変動が大きい食料・エネルギーを除いた財の価格上昇率(コア財価格上昇率)は2002年平均で▲1.1%下落し、比較可能な1958年以降初めてマイナスとなりました。これに対し、政府・FRBは、現在の物価の推移はインフレ懸念の少ない安定した推移と判断しています。特にFRBは、将来デフレが起こる可能性は極めて小さいとの立場をとっています。バーナンケFRB理事は、その理由としてアメリカ経済の弾力性・構造的安定性を挙げています。すなわち、(i)労働市場や資本市場が柔軟で効率的であること、(ii)起業家精神に富み、技術革新や経済変化への受容性に優れていること、(iii)金融システムが強く、企業や家計のバランスシートがおおむね健全であること、(iv)消費者の期待インフレ率が約3%で安定的に推移していること、等のアメリカ経済の特徴がデフレ懸念を極めて小さくしているというわけです。

●なぜデフレが悪いのか
 グリーンスパンFRB議長は、インフレよりもデフレの方が経済成長に脅威であるとして、デフレがもたらす経済への悪影響を例示しています。たとえばデフレの状況下で、債務者が名目金利ゼロでローンを借りたとしても、名目金利から物価上昇率を差し引いて求められる実質金利はデフレ進行で上昇する結果、債務負担が重くなってしまいます。また、物価が下落する一方で、賃金は下方硬直性から下落しない場合には、企業収益が減少し失業率は高まっていくことになります。デフレがインフレよりも経済成長を阻害するというグリーンスパン議長の認識は、FRBのデフレ認識を象徴しているといえるでしょう。

●万が一デフレになればあらゆる手段で脱却する姿勢
 FRBは、日本の90年代のデフレに関する研究で、90年代初めの時点で日本がデフレに陥ると予測することは、非常に困難であったとしています。そして教訓として、デフレの予測は難しいとしても、物価上昇率と金利がゼロ近辺まで低下し、デフレに陥る危険が高い場合は、通常の水準を超えた積極的な景気刺激策が、金融・財政の両面で取られるべきとしています。
 このような金融・財政両面からの大胆な刺激策が必要とされるのは、(i)一度デフレに陥ると物価下落を止めることは困難になるため、事前に回避することが何よりも大切である、(ii)他方、金融緩和により仮に物価上昇が行き過ぎたとしてもそれは金融引締めによって止めることができるとの認識に基づいています。
 さらにバーナンケFRB理事は、政策金利がゼロ近辺まで低下しても物価上昇率が依然デフレ傾向にとどまる場合には、ゼロ短期金利を一定期間政策目標とすることや、長期国債金利の上限の公表等が有効な政策になると指摘しています。これは、金利の低下による需要創出から物価上昇を期待するものです。また、物価上昇を促すさらなる手段として、経済へのマネー注入についても言及しています。マネー注入の具体的な方法としては、(i)国債・民間資産・外国政府債券の購入、(ii)社債・コマーシャルペーパー・モーゲージ等を担保としたゼロまたは低い金利での銀行への貸出を挙げています。

●今後のFRBの金融政策
 90年代以降の物価安定下での長期景気拡大に対して、87年8月に就任したグリーンスパンFRB議長の貢献が大きかったと言われています。一方、最近一部で、インフレーション・ターゲティング(物価安定数値目標)の採用を推す声がありますが、この背景には、インフレーション・ターゲティングが物価安定に資するとの見方のほか、市場の信頼が厚いグリーンスパン議長の貢献という「人」による統治ではなく、「ルール」による統治で政策の透明性を保とうとの考え方があります。他方、「物価の安定」とは数値のみで表わされるものではないし、また現状においてもFRBは透明性を高めてきているとして、明示的なインフレーション・ターゲティング導入への反対論もFRBの中で出ています。
 話題となっているデフレに対しても、FRBは積極的にその現状認識と対策を示すことで、現行の政策の有効性、透明性をさらに高めているといえます。
 
 (参考文献)
  Greenspan[2001] "Transparency in Monetary Policy"(セントルイス講演)
  Jim Saxton[2002] "Inflation Targeting Goals for the Federal Reserve "Joint Economic Committee
  Board of Governors of the Federal Reserve System[2002]"Preventing Deflation: Lessons from
  Japan's Experience in the 1990s" International Finance Discussion Papers
  Bernanke[2002] "Deflation: Making Sure"It"Doesn't Happen Here"(ワシントン講演)
  Greenspan[2002] "Issues for Monetary Policy"(ニューヨーク講演)
  Bernanke[2003] "A Perspective on Inflation Targeting"(ワシントン講演)
 

●デフレの原因
 デフレの原因については、いくつかの考え方がある。第一は、外国からの安い輸入品が価格の下落を引き起こしていることを強調する考えである。この典型例が、中国からの安い製品流入の影響を強調するものである。第二は、貨幣供給量の変化に注目し、供給量不足が貨幣価値を高める結果、物やサービスの価格が下落すると考えるものである。第三は、GDPギャップに示されるような需要不足が需給関係を弱め価格を下落させると考える。
 第一の考え方は、輸入品という特定の財の価格下落(すなわち、その他の価格が変化しなければ下落するのは相対価格になる)がデフレをもたらすというものである。
 他方、第二と第三は、デフレではすべての価格が下落(つまり一般物価の下落)しており、それは相対価格の変化にとどまらないので、経済全体にかかわる要因に原因があると考える。

●デフレの原因に関する議論のポイント
 このようなデフレの原因については、どれか一つが正しく、他は間違っていると判断することは困難であり、貿易を通じる要因、貨幣面の要因、需給面の要因などが複合的に効果を現してデフレを引き起こしていると考えられる。
 しかし、デフレの原因に関してはエコノミストの間で活発な議論が続いている。

 ――実物面、とくに中国要因を重視する考え方(1)
 現在の日本に生じているデフレは、貨幣供給量が過小であることが原因ではなく、実物経済面の構造変化に原因があると考える。それは、東アジア地域の工業化を背景に、海外から安い輸入品が流入することが原因であるとする考え方である。典型的には、外国資本が導入されることによって、中国が日本製品と同等に質の良い財を生産できるようになったためであるとされる。
 その経路は次のように説明される。安価な賃金と地代で生産される中国の製品は、非常に安いものとなる。このような安価な製品が日本に輸入され、市場に出回ることによって物価が下落する。そして、国内で生産される競合製品の価格が下落し、企業収益が圧迫される。その結果、賃金や地価などの生産要素の価格も下落する。
 このような物価下落は、国際的にみて著しく高価格である日本の価格水準が、国際的な価格水準に近づいていく構造的変化の過程であるとこの考え方は位置付けている。今後の政策論としては、日本が経済構造を改革し、中国では生産できないものを生産するようになれば、賃金などの生産要素の価格は中国よりも高くなりうるとされる。

 ――金融面重視:輸入デフレ論への批判(2)
 デフレは貨幣的現象であると考える立場は、デフレが海外からもたらされると考える輸入デフレ論について、次のように批判する。(i)日本以外の主要国も途上国から大量に輸入しているのに、なぜ日本だけがデフレで、アメリカがデフレにならないのか説明できない。(ii)輸入財価格の下落(=相対価格の変化)がデフレ(=一般物価の下落)をもたらすというときに、サービスの価格に変化がなければという前提が置かれている。しかし、企業や消費者は実質購買力の向上分を輸入財以外の支出に振り向けるから、それらの価格は上昇する結果、全体としての物価は下がらないはずである。しかし、現実には輸入できないサービス価格までも下落している。
 この立場は、長期的な貨幣供給量増加率が低下していることがデフレの主因であると考える。それだからこそ、非輸入競合財、サービス部門ともに価格が下落していると説明している。

 ――両者に共通する需要不足の認識
 このように、実物面と貨幣面のどちらを強調するかで両者の見解は大きく異なる。他方、需要不足が経済の停滞を引き起こし、デフレの要因となっている点においては、大きな見解の相違はないようである。しかしながら、経済の停滞が生じる原因に関してはやはり意見が異なる。
 実物面を強調する見解からは、停滞の原因として、利潤率が低くコストが高いために投資が進まず、その結果需要が弱くなると指摘される。
 貨幣面を強調する見解からは、実質金利高等が原因で投資が増えないのであり、財政金融両面の政策を用いてデフレ脱却を図ることが必要だと考えられる。
 次節では、このような議論を念頭においた分析を行い、中国の影響が対象国でどの程度働いているのかを計量的に明らかにしたい。 


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