第1章 中国の経済成長と貿易構造の変化(第1節)
第1節 質の高い成長を目指す中国
中国は、改革開放以来、外国資本の導入に加えて、農村部からの出稼ぎ労働者という安価かつ豊富な労働力を生かして、製造業を中心とした労働集約型産業において比較優位を獲得し、「世界の工場」として大きな成長を遂げてきた。しかし、2000年代半ば頃から特に沿岸部で労働力不足が叫ばれるようになり、前後して賃金上昇が顕著に現れ、労働投入や資本に依存した成長を継続することは次第に難しくなった。その後、10年代に入ると、一人っ子政策、教育費や住宅費の上昇等を背景に、少子化が進み生産年齢人口が減少に転じた。また、総人口も当面は緩やかに増加を続けるが、そう遠くない時期に減少に転じると見込まれている。こうした労働投入量の減少に伴い、賃金も継続して上昇しており、安価かつ豊富な労働力を背景にした従来型の労働集約的な産業は相対的に競争力が弱くなっている。その結果、中国進出企業において、より低賃金で労働者を雇用できるベトナム、カンボジア等東南アジア諸国に工場を移転する動きが出てくるようになった(いわゆる「チャイナ・プラスワン」)。
こうして、中国において、これまでの成長パターンからの転換の必要性が高まる中で、労働生産性の向上、産業構造の高度化や技術革新への努力を怠れば、経済成長が鈍化する懸念が従来から指摘されている(いわゆる「中所得国の罠」)。こうした中で、中国政府は、ここ10年来、生産性の向上やイノベーションを積極的に進める姿勢を示しており、21年3月に策定された「第十四次五か年計画及び2035年までの長期目標綱要」(十四次五か年計画)では、「質の高い発展」(高質量発展)という言葉でこれを表現し、35年までに一人当たりGDPを中等先進国水準まで引き上げるという中長期目標を設定した1。
以上のような昨今の中国における経済成長パターンの変化に関する動きと関連する政策の動向は、賃金のより安いASEAN諸国への生産拠点の移転や貿易構造の変化等を通じて、アジア諸国等を中心とした世界経済に影響を及ぼすものと推測される。そこで、まず、本節では、「質の高い発展」に向けて中国経済が直面する、人口、賃金、労働生産性、産業構造の高度化等の課題について整理するとともに、中国政府がどのように対応しようとしているのかについて整理、分析する。
1.「質の高い発展」とは何か
そもそも「質の高い発展」という用語は、17年10月18日の中国共産党第19回全国代表大会の場で、習近平総書記の報告の中で用いられたのが始まりとされている。本報告では、「高速成長段階から質の高い発展段階」への転換が目標に掲げられ、具体的には、「供給側の構造改革を主軸に据えて、全要素生産性を高めながら、実体経済、科学技術イノベーション、現代金融、人的資源の共同発展を通じた産業体系の建設を加速していく」ものとされている。このような方針を受けて、21年3月に策定された十四次五か年計画では、「質の高い発展」が5年間の計画期間中の政策の方向性として初めて掲げられた(第1-1-1表)。本計画は、これまでのような計画期間中の経済成長率目標は設定されず、各年の状況をみて設定していくこととしており、成長「率」よりも成長の「質」を重視する姿勢がうかがえる。また、前計画に引き続き、イノベーションにより成長をけん引することを第一編に掲げ、続く第二編で産業構造の高度化を位置付けていることからも、経済の発展方式の転換を更に進めようとする政府の姿勢がみえる。なお、十四次五か年計画では、「デジタル経済の中核的な産業付加価値対GDP比」を20年の7.8%から25年に10%に引き上げる数値目標を初めて掲げており、全要素生産性の向上への取組として重要なイノベーションの中でも、特にデジタル分野での技術進歩を産業横断的に進めていくことを重視していることがうかがえる。このように、労働投入が限界を迎え、資本投入による経済成長への寄与が以前ほど期待できなくなることが予想される中で、「質の高い発展」の実現に当たっては、労働生産性と全要素生産性の上昇を軸とした経済成長が重視されていると解されている2。
ただし、それ以前の五か年計画でも、「質の高い発展」に通じる施策は既に取り入れられていることを意識する必要がある3。まず、製造業の高度化による粗放型成長(生産要素投入量の増加による経済成長)からの転換やサービス産業の発展の加速、科学技術の強化は、十二次五か年計画でも取り入れられていた視点である。また、十三次五か年計画以降は、イノベーションの推進が編立ての最上位に位置付けられるとともに、数値目標の観点からは、全要素生産性や人的資源の向上に密接に関わる労働生産性や平均教育年数に関する目標は前計画から設定されている。このようにみると、「質の高い発展」を目指すために必要な取組や目標(科学技術イノベーション、産業構造の高度化、生産性向上等)は、10年程前から政策としての優先度が上がり始め、小康社会4の全面的な完成後の十四次五か年計画において最優先課題に位置付けられることになったと考えられよう。21年11月に劉鶴国務院副総理は「質の高い発展を必ず実現しなければならない」と題した論文を発表していることからも、政府が「質の高い発展」を重視していることが看取できる5。
2.人口動向と人口減少を見据えた動き
(1)人口動向と少子高齢化
ここでは、中国の人口構造を明らかにすることにより、中国では労働供給の増加に依存した成長からの転換が求められていることを明らかにする。まず、中国の総人口をみると、国連の推計によれば、20年時点で約14.4億人であり、30年代前半から減少局面に入ると予測されている(第1-1-2図)。また、21年5月に中国国家統計局が公表した第7回人口センサスによると、総人口は約14.1億人であり、前回調査(10年)よりも7,205万人増(年平均0.53%増)となったものの、人口の増加率は2000年から10年までの10年間と比較して0.04%ポイント低下している。このため、中国は人口のゼロ成長又はマイナス成長時代が近づきつつあり、26年から30年頃までに人口減少の転換点を迎えるのではないかと指摘されている6。生産年齢人口については、11年の9.47億人をピークに12年から既に減少局面に入っており、また、生産年齢人口比率は17年から低下している7。中国政府によれば、今後、生産年齢人口は21~25年の5年間で約3,500万人減少すると予測されている8。
こうした変化に伴い、高齢化も急速に進んでいる。19年時点の国連の推計では、65歳以上の高齢者の割合は20年に12.0%に達し9、25年には65歳以上人口が人口の14%以上を占める高齢社会に到達することが予想されている(第1-1-3図)。このため、高齢化対策をこれまで以上に充実強化することが求められている。
出生率は、一人っ子政策が緩和され始めた2000年代以降やや上昇傾向にあるが、大きく改善するには至っていない(第1-1-4図)10。高齢化が進み、今後も出生人口数の低下は避けられない状況にあるものの、どのように少子化対策を進め、出生率を上昇させていくかが課題となっている。
こうした少子高齢化が急速に進むことにより顕在化している課題の中で最も重要なものが、持続可能な社会保障制度の構築である11。この点、日本の年金保険に相当する都市職工基本養老保険基金12についてみると、14年から保険料収入では給付を賄えない状況であり、政府による補てんや運用収益により収支のバランスをとっている(第1-1-5図)。中国社会科学院の19年の試算では、35年に都市企業職工基本養老保険基金の積立金が枯渇すると指摘している13。今後、生産年齢人口が減少し高齢者が益々増加していく中で、都市部での就業者数の増加や定年延長を含めた対応策について政府による検討が進められている(後述)。
そこで、就業者数全体をみると、15年以降減少に転じ、その後も低下傾向にある(第1-1-6図)。内訳をみると、都市部の就業者数が増加する一方で、農村部の就業者数は減少している。さらに都市部の新規就業者数の動向をみると、感染症の影響がみられた20年を除くと、13年以降毎年1,300万人台で安定的に推移している(第1-1-7図)。都市部新規就業者数を引き続き安定的に推移させる方向性は、21年8月に策定された国務院の十四次五か年就業促進計画に盛り込まれており、5年間で合計5,500万人以上の新規就業を実現する目標が掲げられている。
安価で豊富な労働力の源泉となっていた農村部からの出稼ぎ労働者数(農民工数)については、10年代に入ると伸びが頭打ちとなって低下傾向となっている(第1-1-8図)。20年を除けば依然として増加傾向にあるものの、前年比の伸びは感染症拡大前の19年に1%を下回るまで低下している。農村人口は90年代半ばから減少傾向にある中で、労働力の主な供給源と考えられる20~40歳代の人口比率が低下していることを踏まえると14、今後も低下傾向は継続していくと思われる。このことから、中国の経済成長を長年支えてきたとされる農村部からの出稼ぎ労働者の増加に頼った産業発展パターンの転換が迫られていることが示唆されよう。
農村から都市への人口流入に関連して、都市化率15をみると、順調に上昇を続けている16(第1-1-9図)。政府も農村人口の市民化(農業従事者の都市部への移住)の加速を継続的に重点課題として位置付けており、十四次五か年計画では、戸籍制度改革の深化17、都市部移住者に対する住宅保障やその子女への義務教育等の公共サービスの充実に取り組む方針を示している。また、十四次五か年就業促進計画では、農村からの出稼ぎ労働者の送り出し地域と受入れ地域とのマッチング精度を高めるための調整システムの健全化18や新世代農民工19の職業技能の向上等に取り組むこととしている。後述する「共同富裕」においても、農村部からの出稼ぎ労働者は中所得層の重要な供給源とされており、安心して都市部に流入できる環境整備と就業の安定が重要視されている。
このように、中国では、総人口は増加しているものの、生産年齢人口及び就業人口の減少という労働供給面での課題に直面しており、少子高齢化、将来的な人口減少への対処の必要に迫られているといえる。
(2)少子高齢化対策の動向と課題
先にみたとおり、中国では、総人口は当面は緩やかな増加が維持されるものの、急速に少子高齢化が進み、生産年齢人口及び就業者数は減少傾向にある。そこでここでは、特に中国政府の少子高齢化対策について概観する。
(高齢化対策)
高齢化の急速な進展に対処するため、19年11月、共産党中央及び国務院は「国家が人口の高齢化に積極的に対応するための中長期計画」(高齢化対応中長期計画)を策定し、国家戦略として人口減少や高齢化対策に取り組んでいく方針を打ち出した(第1-1-10表)。本計画は、高齢化問題への戦略目標として、社会全体の財産の蓄積20、労働供給の質の上昇、商品及びサービスの質の向上、科学技術による支援の強化、高齢者にやさしい社会環境の整備の5つを柱に設定している。中長期的なスパンをもった高齢化対策のための計画は、中国では初めてであり21、22年までの高齢化に関する制度枠組みの初歩的な構築、35年までの制度配置の科学的有効性の強化、今世紀半ばまでの制度配置の成熟と完成を目指している。高齢化への適切な対応は、「質の高い発展」を実現するための必要条件であり、人的資源の蓄積の加速、全要素生産性の引上げ加速、イノベーション型国家の建設加速により、高齢化の負の影響に対抗することが重要であると捉えられている22。
その後の十四次五か年計画では、一章(第四十五章)を割いて高齢化対応中長期計画の内容が盛り込まれており、高齢化への対応を国家戦略として取り組む方針が読み取れる。また、定年延長についても検討課題とされている。具体的には、十四次五か年計画において、「平均寿命の高まり、高齢化の加速、教育年数の上昇、労働力構造の変化等の要素を総合考慮し、小幅な調整、柔軟な実施、区分ごとに分けた推進、統一した計画と各方面への配慮の原則に従って、法定定年年齢を徐々に引き上げ」ていくこととされ、現在、人的資源・社会保障部23において慎重に検討が進められている24。
(少子化対策)
中国の人口減少対策は、高齢化への対応だけでなく、少子化対策の観点からも対応が進められている(第1-1-11図)。人口政策を簡単に振り返ると、急激な人口増加と食糧不足を懸念して、79年に一人っ子政策が上海市等で開始され、その後、憲法でも計画出産の義務が規定された。しかし、人口抑制には成功したものの、労働供給の伸びの低下や高齢化の加速化を背景に人口政策が調整され、02年に「人口及び計画出産法」が施行され、一定の条件の下で二人目の子どもを産むことが許容されてからは、漸進的にその範囲が拡大された。15年には一組の夫婦が二人の子どもを持つこと(二人っ子政策(両孩政策))が全面的に解禁されるに至った。そして、21年8月の法改正により、夫婦一組につき三人の子どもを産むことができることとなった(三人っ子政策(三孩政策))。当該改正では、託児機関の増設や託児サービスの向上、育休制度の創設奨励、社会扶養費の廃止等も盛り込まれており、単に三人目を産むことを提唱するだけでなく、政府として子育てしやすい環境に取り組むことも規定している。十四次五か年計画でも、初めて人口千人当たりの3歳以下の乳幼児の託児施設数を目標設定し、20年の1.8か所から25年までに4.5か所に増加させることを目指すこととしたほか、21年9月に国務院は「中国女性発展綱要(2021~2030年)」を発表し、3歳未満の乳幼児のケアサービス費用を個人所得税の特別控除の対象とするほか、住宅等の支援政策を推進して、家庭の出産・養育・教育負担の軽減を検討することなどの方針を示している。
しかしながら、出生率は先にみたように、現在までのところ大きく改善しているとは言い難い。第二子や第三子を産ま(め)ない原因として、特に都市部においては、住居費や教育費が高いといった「経済的負担」、乳幼児を受け入れる託児施設や保育サービスが不十分なことによる「子女の世話」や「女性のキャリアアップに対する懸念」等の点が指摘されている25。この点、都市部住民一人当たり消費支出の住居費、教育費はともに上昇を続けており、13年と比べて、住居費は約1.5倍、教育費は約1.7倍となっている(第1-1-12図)。また、前年比の推移をみても、教育費は15年以降、住居費は16年以降、全体の消費支出の増減率を上回って推移している(第1-1-13図)。
こうした状況を踏まえつつ、国家発展改革委員会及び教育部は、学生や家庭の教育支出の負担軽減を目的として、21年9月に義務教育段階の校外学習塾料金の監督管理強化策を発表した(第1-1-14表)。これによると、政府が校外学習塾の料金の基準料金を定め、基準料金から上限10%の範囲でのみ料金の引上げが許容される。なお、従業員給与についても、当該地域の教育産業の都市部非私営企業における就業人員の平均賃金を顕著に上回ることができないこととされた。
この他、大都市を中心に長年上昇が続いてきた住宅価格についても、政府は「住宅は住むものであり、投機の対象ではない」として、上昇傾向に歯止めをかける取組を進めている26。これらの取組が出生率の上昇に効果を生じるものとなるか今後が注目される。
女性のキャリアアップに対する懸念に対しても、就業環境の整備に関する取組を強化しつつある。21年7月に国務院は、産休、授乳休暇等の既存の制度の厳格な実行や、条件を備える地域における両親の育児休暇の試行の支援のほか、育児で離職した女性のための再就職教育に関する公共サービスを提供することや、雇用主が従業員の仕事と家庭の両立に資する措置を講じて育児に資する柔軟な休暇と弾力的な働き方を整えるよう奨励することとし、政府が適時に休暇及び勤務時間に関する現行政策及び規定を修正改善していく方針を打ち出している27。このうち、産休及び育休について、例えば、上海市では21年11月25日に人口及び計画出産条例を改正し、国家規定(女性職工労働保護特別規定)の98日の産休に加えて60日の産休を取得することが可能となったほか28、子どもが満3歳になるまで夫婦それぞれ毎年5日間の育休を取得することができるようになった29。
3.賃金の上昇と労働生産性の動向
(1)賃金の動向
先にみたように、農村部からの労働供給の伸びはここ10年程度鈍化しており、さらに感染症の影響があるものの、20年には農村部からの出稼ぎ労働者数は初めて減少に転じている。また、中国では、04年頃から沿岸部で労働力不足、とりわけ出稼ぎ労働者不足が起きて、それが全国に広がったとの見方がある30。このような労働需給の変化の結果に加え、08年の「労働契約法」の施行による労働者の権利意識の高まりや、11~15年を対象期間とする「十二次五か年就業促進計画」における年平均13%以上の最低賃金の引上げ率目標の設定といった政策も背景にして、都市部や沿岸部の製造業等に従事する労働者の賃金が上昇し、それにつれて低賃金による労働集約的な産業の比較優位が次第に失われてきたものと考えられる。そこで、ここでは中国の賃金の動向について、国外との比較を含めて考察する。
まず、実質平均賃金の上昇率は、実質GDP成長率をおおむね上回って推移している(第1-1-15図)。また、中国の労働コストについて、国際的な視点で確認すると、ILOの報告書31によれば、G20諸国では、08年以降、実質賃金指数が継続的に上昇したのは中国のみであり、中国の実質賃金は08年から19年までの間、2.2倍の伸びとなっている。
次に、実質賃金上昇率の推移を地域別にみてみると、日系企業を含め外資企業の進出が比較的多い広東省、江蘇省、浙江省では、10年以降でも前年比9~10%程度の賃金上昇を記録する年が複数年あり、高い伸びが続いてきていることが分かる(第1-1-16図)。指数でみても、賃金の伸びは衰えていないことが分かる(第1-1-17図)。
続いて、非熟練労働者や農村部からの出稼ぎ労働者の賃金上昇の程度をおおまかに把握するため、最低賃金上昇率の動向をみていく。中国の最低賃金制度は、日本と同様に地域別最低賃金を採用しており、また、金額の調整に当たっては、就業者とその家族の最低生活費用、消費者物価指数、平均賃金、経済発展水準等の要素を参考として、原則として少なくとも2年に一度調整されることとされている(第1-1-18図)。
直轄市である北京市及び上海市、そして出稼ぎ労働者が多いとされる広東省(深セン市)及び浙江省(杭州市)の最低賃金の動向をみると、10年前後から16年頃までは、先に述べた労働立法や数値目標を背景に、最低賃金の伸びは一気に高まったが、最近は伸びが鈍化する傾向にある(第1-1-19図)。また、最低賃金額が中国で最も高い上海市と他地域との差をみると、沿岸部の広東省深セン市は上海市の8割程度だが、下位5省は5~7割程度と低い水準にあり、中国国内ひいては地域内でも賃金水準(労働コスト)のバラつきが大きいことが分かる(第1-1-20図)32。平均賃金上昇率との比較でみると、例えば上海市では、10~15年にかけて最低賃金の上昇率は平均賃金上昇率を上回って推移したが、数値目標の対象期間(11~15年)の終了とともに、16年以降は大きく下回って推移している(第1-1-21図)。しかしながら、上海市や杭州市(共同富裕モデル区)そして広東省深セン市でも、21年に最低賃金の引上げ幅を高めており、後述する「共同富裕」との関係でも今後の政策動向が注目される33。具体的には、「共同富裕」という単語が柱書の中に明記されている「十四次五か年計画」の第四十八章「収入分配構造の最適化」において、「一次分配における労働報酬を高める」ための具体策の第一番目に、「最低賃金基準及び賃金指導ラインの形成システムを完全なものにすること」が挙げられている。
このため、十四次五か年計画で挙げられている賃金指導ラインの動向についても概観する。本制度は、地方政府が企業の生産経営の状況に応じて労働者の賃金のベースアップ基準を上限ライン、基準ライン、下限ラインの3つに分けて示すものであり、労使交渉の目安になるものである(第1-1-22表)。賃金指導ラインは、経済成長率、労働生産性、消費者物価指数等を総合的に考慮して決定される。経営状況が比較的良い企業は基準ライン前後、人件費圧力が比較的大きい企業であっても、支払い能力がある場合は下限ラインを下回ることはできないとされる。
天津市の賃金指導ラインをみると、上限ラインは15年に20%を下回ってからは低下し21年は設定されなかった。また、基準ラインは7%まで低下している(第1-1-23図)。このため、賃金指導ライン制度の役割は、ここ5年程度で一般労働者の賃金上昇を抑制することから、賃金上昇をサポートしてその低下を防止する効果を期待するという側面が増してきていると思われる。
次に、産業別の名目平均賃金水準をみると、情報通信業が最も高く、製造業は全体平均を下回る水準となっている(第1-1-24図)。15年に「中国製造2025」が作成され、産業の高度化や労働生産性の向上が目標とされているが、製造業は中国国内では依然として低賃金業種に属していることが分かる。これに対し、国務院は十四次五か年就業促進計画の中において、雇用吸収力の高い製造業等の労働集約型産業の発展を支持し、製造業に従事する労働者の賃金水準を高めていく方針を打ち出している。
最後に、アジア諸国間の名目賃金水準を比較する。中国では賃金が上昇した結果、ベトナムやインドネシアとの水準の差が拡大している(第1-1-25図)。この結果、ある企業が海外に工場開設を検討する場合には、人件費の面で比較優位をもつ国への進出を優先的に検討すると思われるため、労働集約型産業における中国の競争力は相対的に弱まっていることが示唆される。
あわせて、非熟練労働者は最低賃金近傍で雇用されていることを想定し、最低賃金水準についても、中国とアジア諸国との間で比較を行う。中国の最低賃金水準は、20年時点では、インドネシア、ベトナムだけでなくタイやインドの水準も上回っていることが分かる(第1-1-26図)。このように、中国は賃金上昇により、労働集約的な産業での比較優位と国際競争力を徐々に弱めていると考えられる。これに対し、例えば、沿岸部の広東省深セン市では、割増賃金の抑制や最低賃金の調整頻度を下げることなどを内容とする従業員給与支払条例改正案を立案する動きが出ており、工場の中国外移転に歯止めをかけるために賃金抑制に舵をきったのではないかとの報道がみられていたが34、21年12月に最低賃金額が3年ぶりに引き上げられている。「共同富裕」や十四次五か年計画という政府全体の政策の流れとしては、第一次分配における労働報酬比率を高めることを目標としているところでもあり、今後の地方政府を含めた動向に留意する必要がある。
(2)最近の所得政策の動向
中国は、これまでの五か年計画において、最低賃金の積極的な引上げ等の格差是正策に取り組んできたが依然として課題が残されている。例えば、中国政府の統計によれば、所得格差をみるとジニ係数は09年から15年にかけて低下したものの、16年から18年にかけて再び上昇傾向にあり、社会が不安定になるとされる0.4を依然として上回っており、改善しているとは言い難い(第1-1-27図)。なお、都市と農村の所得比率は、10年前後から低下傾向にあることを踏まえると、都市と農村間の所得格差は縮小傾向にあるが、都市内等の地域内での格差が相対的に大きな課題になっていると推測される。
こうした状況の中で、十四次五か年計画において、小康社会の次の中長期目標として掲げられたのが「共同富裕」の実現である。「共同富裕」という言葉は、十四次五か年計画の中にも複数回使用されており、各論部分では、「浙江省の質の高い発展と共同富裕モデル区の建設」、「共同富裕促進行動綱要の制定による地区・都市農村・収入格差の自覚的かつ主体的な縮小」、「低所得層の所得上昇と中所得層の拡大を継続的に実施し、共同富裕をさらに積極的に促進」の3か所にみられることから、格差是正策を念頭に置いた概念と整理されよう。その後、21年10月15日付けの習近平総書記の「共同富裕の着実な推進(扎実推動共同富裕)」と題された論文(習近平論文)により、「共同富裕」の考え方がさらに明確化されている(第1-1-28表)35。これによれば、「共同富裕」の推進とは、住民の所得・消費水準格差縮小を主たる目標とし、そのために、勤労、イノベーション、教育を通じた「質の高い発展」による都市部・農村部の住民の所得引上げ、人的資本の向上、全要素生産性(TFP)の向上を進めていくものだと考えられる。具体的には、所得、税制、社会保障等の分配に関する制度調整36、高等教育の充実、技能人材の育成強化、農村部からの出稼ぎ労働者の就業安定、そして末端の第一線の公務員及び国有企業等の末端従業員の賃上げ等の政策手段による中所得層の拡大を進め、低所得層の所得を増やすことを目的としていることが分かる。
次に、共同富裕のモデル区に指定された浙江省の取組方針37をみると、住民一人当たりの可処分所得を25年までに7.5万元(約127.2万円)に引き上げることや38、住民所得倍増十年計画の実施等を盛り込んでおり、所得格差の縮小に焦点を当てていることが分かる(第1-1-29表)。なお、中国共産党中央及び国務院は、21年5月20日に「浙江省の質の高い発展と共同富裕モデル区建設支援に関する意見」を決定し、浙江省の取組を積極的に後押ししていく姿勢を示している。
これらの方針の下での「共同富裕」関連施策の具体化や効果分析は今後の課題になるが、中所得層の拡大により、個人消費が経済をけん引する消費主導型の経済への移行が一層進むとともに、社会の安定につながることが期待される。他方で、現在進められている、不動産・IT・教育産業への規制の強化、不動産税の試験導入等は、短期的には中国経済の景気の下押し圧力にもなり得る可能性があるものであり、注視が必要である39。
(3)労働生産性の動向
賃金の変化との関係で重要な労働生産性の各種政策の中における位置付けをみると、十四次五か年計画では、GDP成長率を上回る就業者一人当たり労働生産性上昇率の達成目標が盛り込まれている。中国政府ホームページに掲載されている十四次五か年計画のエコノミストの解説(劉世錦全国政治協商会議委員、中国発展研究基金会副理事長)では、長期的に最も重要なのは労働生産性とTFPであるとしている。また、先述の習近平論文では、「質の高い発展には質の高い労働者が必要であり、共同富裕を促進し、都市部及び農村部の住民の所得を引き上げ、人的資本を向上させてこそ、TFPを向上させ、質の高い発展の原動力・基礎を強化できる」と言及されている。このように労働生産性の向上は「質の高い成長」の実現に当たっての重要政策課題となっていると整理できる。この背景には、既に検討したとおり、労働供給の減少と賃金上昇が進んだことを受けて、中国が技術集約・資本集約的産業における新たな比較優位の獲得を目指していることが指摘できる。
その上で、労働生産性の動向について水準をみると、まず、中国の時間当たり労働生産性は、18年時点で10年の約1.7倍になっており、他のアジアの中所得国と比較して高い伸びとなっている(第1-1-30図)。
ただし、労働生産性に比べて労働コストが高い場合、国際競争力の観点からは不利になることに注意する必要がある。そこでアジア諸国の単位労働費用(物やサービスを1単位産み出すのに必要な労働コスト)の動向をみると、10年に中国は韓国を上回り、国際的にみて賃金等の労働コストが高まっていることが示唆される(第1-1-31図)。なお、他のアジア諸国の単位労働費用も上昇傾向にあり、インド、インドネシア、ベトナムは中国との間に差はあるものの、タイを上回っていることが分かる。
また、中国の労働生産性を前年比の上昇率をみていくと、2000年代後半から低下傾向にある。これを要因分解すれば、労働の質の変化(労働時間当たり労働投入量)は14年以降マイナス寄与で推移しており、資本深化(労働時間当たり資本投入量)及びTFPが労働生産性の上昇を支える構図に変化している(第1-1-32図)40。このうち、資本蓄積により限界生産性が逓減していく中では、今後はTFPを一層高めていくことが課題となる。また、「中国製造2025」で上昇率目標が設定41されている製造業の労働生産性については、全体の労働生産性が低下傾向にあるのに対し、13年から全体を上回りその後も高い伸びで推移している(第1-1-33図)。労働供給に制約がある中で、更なる経済成長を実現するためには、労働生産性の上昇が不可欠となる。他のアジア諸国との比較や製造業の労働生産性の推移を踏まえると中国では労働生産性の向上という課題について一定の成果が出つつあると考えられるが、TFPの上昇を前提とした資本装備率の引上げに加えて教育訓練等による人材育成の強化、そして、イノベーションや技術革新を促進していくことが鍵となるといえよう。
4.産業構造の高度化
(1)中所得国の罠の回避
既述のとおり中国は十四次五か年計画において、「2035年までに一人当たりGDPを中等先進国の水準にすることを目指す」との中長期目標を設定した。世界銀行の21年の所得分類によれば、中国は10年から高位中所得国に分類されるようになり、一人当たりGNIは19年に初めて1万ドルを突破し、20年は10,610ドルとなっている42。
中国が中長期目標を達成できるかを考える際には、「中所得国の罠」を回避できるかどうかという視点が1つの参考になる。「中所得国の罠」という概念は、世界銀行の07年のレポートで初めて使われた用語であり43、新興国が低賃金の労働力等を原動力に経済成長し、中所得国になった後、自国の人件費の上昇や後発国の追い上げを受ける中で、先進国の技術力に及ばず競争力を失い、経済成長が停滞し、高所得国に移行できずに中所得国にとどまる現象である44。
主な中所得国の実質経済成長率と一人当たり実質GDP成長率の関係を確認してみると、後者が1万ドルを超えてから成長率が下がっている(第1-1-34図)。
次に、中国の実質経済成長率を寄与度分解すると、労働の寄与は生産年齢人口や就業者数の減少に前後して14年からマイナスに転じた一方で、TFPの寄与は2000年代後半から低下傾向にあったがその後16年から上昇傾向となっている(第1-1-35図)45。しかしながら、中国のTFP水準はアジアの高所得国等とは依然として大きな差があり、TFPを高めることが今後の経済発展上の大きな課題になっていることが分かる(第1-1-36図)。
中国について、改革開放から高位中所得国段階に至るまでの間は、安価な労働力や外国資本の導入を中心とする要素投入型成長を主体とし、TFPについては先進国へのキャッチアップ効果による寄与を主とした経済発展パターンであった。しかし、10年頃からは、安価な労働力の枯渇、先進国へのキャッチアップ効果の低下、そして資本蓄積による発展の限界といった課題が次第に顕在化してきたと考えられる46。したがって、「中所得国の罠」を回避して先進国の所得水準への発展を実現するためには、産業構造の高度化や人的資本の蓄積、イノベーション等を通じた技術革新の推進によりTFPの寄与を中心とする経済成長に転換していくことが重点課題になる。
(2)産業高度化の現状と課題
そこで、まず産業高度化の現状について検討する。産業構造の高度化とは、経済発展に伴い、第一次産業から第二次産業、第二次産業から第三次産業に産業の比重が遷移することや(ペティ・クラークの法則)、労働集約型産業から資本・技術集約型産業への構造転換が進むことである。
産業構造の動向をみると、対GDP比率は、改革開放以来、第一次産業は減少傾向にあり、第二次産業は06年の47.6%をピークに低下傾向に転じ20年は37.8%まで低下している。他方で、ペティ・クラークの法則のとおり第三次産業比率は一貫して上昇し12年に第二次産業を上回り、20年に54.5%に達したものの、依然として先進国水準には達していない(第1-1-37左図)。また、十三次五か年計画において設定されたサービス業の対GDP比56%目標(20年時点)は未達成となっており、欧米等の先進国と比べれば上昇の余地は依然として大きく、第三次産業比率の上昇は引き続き課題となっている。対就業者比率についても、第二次産業は12年の30.5%を境に低下傾向にあり(20年28.7%)、それに代わって第三次産業が20年には就業者の約半数(47.4%)を占めるに至ったが、農業等の第一次産業は依然として4分の1程度(23.6%)を占めている(第1-1-37右図)。第一次産業は対GDP比率に比して対就業者比率が高く、農業の機械化、現代化の推進による生産性の向上への取組や、農業から他産業への労働移動の傾向は継続するものと考えられる47。
さらに、実質経済成長率への寄与度をみると、14年に第三次産業が第二次産業の寄与を上回り、その後も差は拡大傾向にある。サービス産業が中国の経済成長のけん引役となっていることが分かる(第1-1-38図)。なお、十四次五か年計画では、製造業のサービス化による生産関連サービスの発展や、健康、養老、託児、家政等の生活関連サービスの高品質化と発展を掲げており、製造業との融合や少子高齢化という現在の課題を意識したものになっている。
次に、労働集約的な業種から資本集約的な業種への産業構造の転換状況を確認するため、工業収益の構造をみると、労働集約的な業種の割合は15年以降、資本集約的な業種を下回って推移しており、資本集約型産業へのシフトが次第に進んでいることが示唆される(第1-1-39図)。この背景には、先にみたような賃金(人件費)の上昇により、従来型の比較優位構造の維持が困難になってきたことがあると指摘できる。中国は現在、資本や技術・技能の蓄積による産業構造の高度化の途上にあると考えられる。
5.人材育成とイノベーション
(1)最近の人材育成政策の動向
中国が持続的な経済成長を続けるためには、産業の高度化やイノベーションを通じた労働生産性の向上を支える人材を育てることが不可欠である。人材育成の強化による労働者の技能や熟練度の上昇は労働者の人的資本の向上につながるほか、育成された人材が更なる技術進歩を生み出すことができればTFPの上昇にも資することになる。また、需要面からみれば、人材育成により労働者の技能や教育水準が高まって賃金や待遇が向上し中所得層を拡大できれば、国内需要の持続的な成長にも貢献することになるが、これは「共同富裕」の方針にも合致する。このため、人的資源・社会保障部は21年6月に「技能中国行動」実施計画を発表し、技能人材48を「中国製造」や「中国創造」49を支えるものであると位置付け、十四次五か年計画期間中に、新規技能人材を4,000万人以上育成することや、技能人材が就業者数に占める割合を30%にするとの数値目標を設定し、技能人材の育成を推進する姿勢を強めている(第1-1-40表)。中国人的資源・社会保障部の湯涛副部長は、高技能人材の育成や生涯にわたる労働者への職業訓練に重点的に対応するとした上で、人口ボーナスから人材ボーナスへの転換が必要な旨発言している50。本実施計画には、労働者が生涯にわたり職業技能研修ができるよう「終身職業技能研修制度」51の創設完成や、国家・産業・企業の多階層の職業技能基準体系の整備、入社後に集中的に労働者に技能を習得させる「中国の特色ある企業新型見習い制度」の推進、技能人材の待遇の向上や表彰制度の拡充等の施策が掲げられている52。
また、21年6月の国務院の第十四次五か年就業促進計画では、人的資源の質を大幅に引き上げ、産業構造の高度化と質の高い発展需要に対応することを主要目標の1つとして掲げ、これを実現するための数値目標として、生産年齢人口の平均教育年数及び新規労働力が高等教育を受けている割合の2つを掲げた(第1-1-41表)。特に、生産年齢人口の平均教育年数の引上げ目標は必ず達成しなければならない目標(拘束性目標53)として唯一位置付けられており、労働の質向上が政府の重要政策課題となっていることが分かる。また、具体的施策としては、「技能中国行動」実施計画に掲げられた施策のほか、製造業の所得水準の向上や高度化、農村からの出稼ぎ労働者の職業技能の向上や市民化の加速、デジタル化等も踏まえた高等教育の学科の最適化も盛り込まれている(第1-1-42表)。
(2)人材育成をめぐる現状と課題
このように、政府において、労働生産性の向上や技能人材の増加に力を入れる方向性が示されているところ、中国の人材育成をめぐる動向について概観することとしたい。まず、就業者の教育水準を地域別にみると、高等教育54を受けた就業者割合は全体として高まっている(第1-1-43図)。特に、北京市や上海市といった直轄市では半数程度(18年の北京57.4%、上海48.1%)が高等教育を受けており、他地域に比べてハイレベル人材が集積していることが分かる。また、経済規模が相対的に大きい沿岸部の省でも全国平均を上回っているが、労働集約型の製造業が多く集積する東莞市・深圳市を有する広東省では、全体をわずかに上回る程度にとどまっている。
また、産業別に高等教育を受けた就業者の割合をみると、全体として上昇している。特に、情報・ソフトウェア・ITサービス業は、18年は大卒以上の者が約7割に達しており、高学歴化と人材の集積が急速に進んだことが分かる(第1-1-44図)。卸売・小売業や製造業も徐々に高学歴者の就業割合が上昇しており、様々な分野で就業者の質の向上が進んでいることが読み取れる。他方で、必要な人材が労働市場に供給されていない問題も指摘されている。例えば、中国情報通信研究院は、20年に中国のデジタル人材55の不足が約1,100万人に達し、今後も人材不足は拡大していくだろうとしている56。また、製造業から他業種への労働者の流出についても課題となっている。21年11月の中国人民大学の課題研究チームの報告57によれば、製造業からプラットフォーム企業への労働力の流出圧力が相当程度大きく、主に若年層で能力の高い労働者がより多く稼ぎたいという理由で流出しているとし、製造業企業は賃金の引上げや外部委託割合の引上げ、生産設備の自動化により対応する必要があると指摘している。前述したように製造業の賃金水準は情報通信業に比べて低いため、製造業は人材確保のための賃金上昇圧力に晒されているといえよう。
また、労働市場に新たに出る人材の質を向上させるためには、学校教育が重要になる。政府の教育支出対GDP比をみると、十一次五か年計画(06~10年)で国民全体の平均教育年数を5年間で0.5ポイント高める目標(8.5年から9年)を背景に、2000年代後半から伸びが高まったと考えられるが、12年以降は4%台で推移している(第1-1-45図)。OECD諸国との比較(18年)では、OECD平均を下回っており、教育に対する財政支出を高める余地があるといえるが(第1-1-46図)、他方で、重点事項の財政支出の増加幅はGDPのそれと歩調を合わせる必要があるため、教育分野の財政支出の対GDP比4%維持が現在の政府内部目標となっていると考えられる58。中国政府は、十四次五か年計画で25年までに高校レベルの教育粗入学率を92%以上、高等教育粗入学率を60%に高める数値目標を掲げており、国民の教育レベルの一層の引上げに注力していることがうかがえる59。
このような教育支出を通じて、高等教育60粗入学率は上昇傾向にあり、20年には54.4%となっている(第1-1-47図)。また、高等教育機関数の推移をみても増加して推移している。なお、20年の大学院入学者数は110.7万人(前年比20.7%増)、このうち博士課程の学生は11.6万人であり、卒業者数は博士課程6.6万人、修士課程66.3万人となっている。このように、研究開発やイノベーション等の中核を担い得る人材は次第に増加していることが指摘できる(第1-1-48図)。21年11月19日の中国教育部及び人的資源・社会保障部が開催した会議において、22年の大学院及び大学(単科大学含む)の卒業生は1,076万人(前年比167万人増)となり初めて1,000万人を超えるとの見通しが示されている。
博士号取得者数は、人口100万人当たりでみると中国は43人と最も低い水準だが、取得者の総数でみるとアメリカに次ぐ規模になっている(第1-1-49図及び第1-1-50図)61。高度人材の蓄積も進んできていることが分かる。中国政府は博士号取得者に対し特にイノベーション人材としての活躍を期待しており、ポスドクの研究業務に従事する国内の博士号取得者への資金援助(年500名程度)や、国内の優秀な博士号取得者を国外の研究機関に派遣し合同研究業務に従事させ、それに対する資金援助(年100名程度)の方針を打ち出している62。また、国外の人材誘致という観点からは、世界のトップクラス校で博士号を取得した者(外国籍又は留学帰国者)が国内のポスドク拠点で研究業務に従事する場合に年500名程度資金援助する方針63も明らかにしており、国内の人材育成だけでなく、海外人材や帰国人材も積極的に活用し人的資本の蓄積を図っている64。
(3)イノベーションをめぐる現状と課題
(インプット)
生産性向上を軸とした成長や産業構造の高度化を目指すためには、イノベーションの推進は重要な課題である。まず、イノベーションを産み出す源泉となる研究開発(R&D)投資の動向をみると、11年の比率は2%を下回っていたが、15年の「中国製造2025」の策定や五か年計画での数値目標設定65を背景に継続して上昇し、19年から伸びが加速している(第1-1-51図)。なお、R&D投資対GDP比(20年)の動向を地域別にみると、全国平均値(2.4%)を上回っているのは、北京市(6.44%)、上海市(4.14%)、天津市(3.44%)、広東省(3.14%)、江蘇省(2.93%)、浙江省(2.88%)だけであり66、3直轄市及び沿岸部の3省が中国におけるR&D投資のけん引役を果たしていることが示唆される。次に、R&D投資の支出元をみると、企業からの資金が大半を占めており、16年以降は10%超の高い伸びを維持している(第1-1-52図)。この企業資金について、一定規模以上(主たる営業収入が2,000万元以上)の工業企業の企業類型別の内訳が中国政府により明らかにされているが、これによると、私営企業67が全体の4割程度を占めて最も大きく、次いで有限責任会社、株式有限会社、外資系企業が続き、国有関連企業68は全体の4%程度を占めるに過ぎず、民間企業主導で進んでいることが分かる69。また、政策からの後押しとしては、例えば、21年3月の全人代の政府活動報告で、企業所得税から追加控除できる研究開発費の比率について、製造業の追加控除の割合を75%から100%に引き上げることによりイノベーションを促す措置を決定し、支援に取り組んでいる。
さらに、中規模以上のハイテク産業(製造業)企業のR&D機関数及び特許申請件数もここ20年間で急増しており、特に特許申請件数は15年から20年までの間に約2倍になっている(第1-1-53図)。ここでいうハイテク産業(製造業)は、中国国家統計局によれば、R&D経費支出が主たる営業収入に占める割合が相対的に高い業種を指し、具体的には医薬品製造、航空宇宙関連機器及び設備製造、電子通信設備製造、コンピューター及び事務設備製造、医療計器設備及び計器メーター製造、情報化学品製造で構成されている。このうち、R&D投資の対営業収入比(20年)が最も高い業種は計器メーター製造業(3.59%)であり、次いで医薬製造業(3.13%)、鉄道、船舶、航空その他運輸設備製造業(3.13%)となっている70。これらの分野において中国の技術力や開発力が今後伸びてくる可能性が指摘できる。
最後にR&D投資対GDP比をOECD諸国と比較すると、2000年以降中国は大きく上昇し、OECD平均に近づいている(第1-1-54図)。中国国家統計局は、R&D投資は安定的に増加しており、16~19年は年平均+11.8%となり、米国(+7.3%)や日本(+0.7%)等の科学技術に強みを持つ国の増加速度を大幅に上回ったと評価している71。
また、世界のトップR&D企業72のうち、中国企業のシェアは上昇を続け、フランス、ドイツを15年時点で既に上回り、19年には日本を抜いている(第1-1-55図)。なお、投資額上位100社にランクしている中国企業をみると、華為(Huawei)、アリババ(Alibaba)、テンセント(Tencent)、百度(Baidu)といった中国のプラットフォーマー企業のほか、中国国家鉄路集団、中国鉄建ホールディングス、上海汽車集団、ZTEが続いている。
(アウトプット)
続いて、アウトプットの状況をみると、中国の特許申請件数は11年以降世界一となり、その後も他国を引き離し、19年は米国の倍以上の件数を申請している(第1-1-56図)。
また、特許使用料受取は、低水準ではあるもの、17~20年にかけて急増している(第1-1-57図)。こうしたことを踏まえれば、質の面での課題は依然として残るものの、ここ数年はイノベーション促進策が成果として現れるように変化していることがうかがえる。なお、十四次五か年計画では、「高付加価値」の特許保有件数が初めて数値目標化されたことから、中国政府は、特許の数の追求から質の追求への転換が課題だと認識していると考えられる。
また、グローバルイノベーションインデックス(Global Innovation Index(GII))202173によると、中国は年々順位を上げてきており、21年には世界132か国中、ドイツ、フランスに次いで12位となり、日本(13位)を3年連続で上回った(第1-1-58図、第1-1-59図)。内訳をみると、「知識と技術のアウトプット」で高い結果を出したが、「制度環境」、「人的資源及び研究調査」においては、依然として先進国に遅れをとっていることが分かる(第1-1-60図)。特に大きく遅れをとっている「制度環境」の内訳をみると、余剰人員の解雇コスト(110位)、法の支配(77位)、規制の質(91位)との結果になっている。このため、イノベーションの推進に当たっては、知的財産権の保護の強化74、国有企業改革等の市場化政策の継続強化75、教育や職業訓練といった人材育成の強化といった各課題への更なる対応が鍵となるといえよう。
6.小括
本節では、「質の高い成長」を目指す中国が抱える課題と対応策の動向について、整理、分析を行った。最後に全体を簡単に振り返ることにより、まとめとしたい。
まず人口構造をみると、総人口は当面は緩やかに増加するものの、生産年齢人口は12年から、就業者数は15年から減少が始まり、農村部からの出稼ぎ労働者数の伸びも11年以降は低下している。言い換えれば、労働投入量の増加による経済成長はもはや期待できない状況になっている。また、社会構造面では、高齢化が急速に進行しており、人口政策の転換が2000年以降漸進的に図られたものの大きく改善するには至っておらず、少子高齢化への対応や社会保障制度の持続性の確保が差し迫った課題になっている。続いて、賃金についてみると、GDP成長率を上回る実質賃金の上昇が継続しており、10年以降も沿岸部では10%前後の上昇で推移している。このことが、安価で豊富な労働力という中国の改革開放以来の比較優位を他のアジア諸国との関係で相対的に弱めることにつながったことが示唆される。こうした高い賃金上昇の背景には、最低賃金や賃金指導ラインによる政策誘導のほか、労働関係立法の整備による権利意識の高まり、そして2000年半ばからの沿岸部での労働力不足の発生といった複合的な要因があったと推察される。すなわち、農村から都市への出稼ぎ労働者数の伸びが頭打ちになり、生産年齢人口や就業人口も減少に転じる中で、労働供給がひっ迫するようになった。更に政策面において、2000年代の所得格差の高まり等を背景に労働者や低所得層への対応を重視する方向になった。これらの労働需給と政策の両面からの圧力を受けて、賃金の伸びが急速に高まってきたといえる。
以上の経済社会構造の変化に対応した新たな経済成長(質の高い成長)を目指すべく、中国政府はここ十年程度取組の強化を進めており、十四次五か年計画では、35年までに一人当たりGDPを中等先進国の水準に引き上げることを中長期目標に設定し、「共同富裕」の実現を目指すこととされた。そして、当該目標の実現のため、TFPや労働生産性の上昇に重点を置く方針を明らかにし、これらの源泉となるイノベーションの推進や質の高い人材の育成、産業構造の高度化を重視した政策を推進していくようになっている。実際のデータによってみると、労働生産性については他のアジアの中所得国を上回る高い伸びを実現しており、製造業についても一定の成果を出している。しかしながら、TFPの水準は韓国やインドを下回っており、足下で低下するといった課題も指摘できる。また、TFP上昇の鍵となるイノベーション推進をみると、R&D投資等の指標においてインプットは大きく進んでいるが、特許の質や国有企業問題を始めとする制度環境の整備の面において課題が存在していることが指摘できる。人材育成については、高等教育を受けた人材の労働市場への供給は増加しているが、高度人材は情報通信業に集中し賃金水準の低い製造業には人材が集まりづらいといった点が課題となっている。産業構造については、資本集約的な業種へのシフトが徐々に進んできていることがうかがえるが、他方で第三次産業割合は依然として引上げの余地は大きい。このように中国は質の高い成長へと経済発展パターンの転換を進める途上にあるといえるが、その中で様々な課題に直面していることが指摘できる。既述のとおり「共同富裕」は「質の高い発展」を進める中で実現されるものとして位置付けられており、本節で列挙した各政策課題の成否が中国の「共同富裕」の成否を左右する関係性にあるといえよう。