平成10年度年次世界経済報告(要約)
目次
はじめに
第1章 世界経済の現況
- 第1節 アジア通貨・金融危機の影響広がる
- 第2節 不透明感広がるアメリカ経済
- アメリカ:景気拡大は続くが、広がり始めた不透明感
- 中南米:外的要因により景気は鈍化傾向
- 第3節 景気拡大を始めたヨーロッパ
- 西ヨーロッパ:通貨統合開始に向け、最終準備
- ロシア:ルーブル切下げ
- 第4節 景気後退色強まるアジア・大洋州
- 第5節 国際金融・資本市場
第2章 アジア通貨・金融危機と世界経済
- 第1節 アジア通貨・金融危機の要因と特徴
- 第2節 通貨・金融危機後の東アジア経済の現状
- 第3節 通貨・金融危機後の東アジアの経済回復
- -メキシコ危機との比較を中心に-
- 第4節 アジア通貨・金融危機の世界経済への影響
- 第3章 労働市場の動向と改革の進展
- 第1節 アメリカの労働市場の特徴と課題
- 第2節 欧州における労働市場改革とその成果
- 第3節 急速に悪化する東アジアの雇用情勢
むすび
はじめに
97年7月のタイ・バーツ危機に端を発するアジア通貨・金融危機は、域内の経済収縮をもたらしただけでなく、世界経済全体にも大きな影響を及ぼし、ロシアや中南米諸国等の為替・金融市場にまで動揺が広がった。アメリカでは、91年3月からの長期にわたる景気拡大局面にあるが、98年8月末に株価が急落し、その後も一進一退を繰り返すなかで、先行きに対する不透明感が広がり始めている。
このように不安定化した世界経済には様々なリスクが存在しており、全体としてデフレ圧力が高まりつつある。こうした中で、世界的同時不況を防止するための政策の在り方などについて様々な議論がなされている。また、急激かつ大量の資本移動がアジア通貨・金融危機の直接の引き金となったことなどから、国際的な資本移動の拡大が世界経済に与える影響に関しても種々の議論がなされている。これらの議論を整理することは、今後の世界経済の展望を考える上でも有益であろう。
次に、雇用問題に目を転ずると、アメリカ、イギリス、オランダなどで失業率の低下がみられる一方、ドイツ、フランス、イタリアなどの大陸ヨーロッパ諸国では二桁の失業率が続き、景気が回復しているにもかかわらず、雇用の伸びは緩慢である。このように欧米において雇用情勢の二極化が一段と進んでいる。この背後には各国の労働市場の柔軟性、それをとりまく制度など様々な要因があると考えられる。また、ヨーロッパでは99年1月に始まる通貨統合と労働市場改革との関連という興味深い論点もある。さらに、東アジアの雇用情勢は通貨・金融危機後大幅に悪化しており、今後、失業保険などの社会的セーフティ・ネットを整備することなどの必要性が指摘されている。
本年度の世界経済白書は、このような問題意識に沿って、諸外国の事例の紹介と分析を行っている。第1章で世界経済情勢の年間レビューを行い、地域毎に主要なトピックをとり上げる。第2章では、アジア通貨・金融危機とそれが世界経済に及ぼした影響について分析する。第3章では、各国の労働市場の動向や、そこで行われている改革の進展状況などについてみる。
第1章 世界経済の現況
第1章のポイント
[世界経済の概観]
世界経済は、97年には先進国で成長率が高まったほか、市場経済移行国でも景気が回復したが、97年7月来のアジア通貨・金融危機の影響からアジアで成長率が鈍化した。アジア通貨・金融危機は世界経済全体にも影響を及ぼし、ロシアや中南米諸国等の為替・金融市場にも動揺が拡がった。98年の世界全体の実質GDP成長率は減速が見込まれている。
[南北アメリカ]
アメリカ経済は、98年3月で景気拡大が8年目に入り、これまでのところ内需は引き続き堅調であり、ファンダメンタルズが揺らいでいる兆候はみられていない。しかし、98年8月末の株価急落など、先行きに対する不安材料もみられ始めている。
中南米では、総じて景気は鈍化傾向にある。
[ヨーロッパ]
大陸欧州諸国では97年全体を通じた為替レートの減価傾向により輸出が好調となり、これが内需に波及する形で景気は総じて拡大している。
99年1月から開始される経済通貨統合(EMU)第3段階への最終準備が進む中で、様々な観点から、ユーロの強弱に関する議論がなされている。
市場経済移行国では、98年には、ロシアが再びマイナス成長となることなどにより、成長率はやや低下するものと見込まれている。
[アジア]
97年7月来の通貨・金融危機を経験したアジアでは、98年には東アジアを中心に成長率の大幅な低下が見込まれている。
第1節 アジア通貨・金融危機の影響広がる
(アジア通貨・金融危機の影響が世界経済全体に及ぶ)
世界経済は、1994年から97年まで4%前後の成長を遂げ、全体として順調な拡大が続いていた。しかし、97年7月のタイ・バーツ危機に端を発するアジア通貨・金融危機は、域内の経済成長を低下させただけでなく、東アジア地域への輸出減少、一次産品価格の低下等を通じて、世界経済全体にも影響を及ぼし、ロシアや中南米諸国等の為替・金融市場にも動揺が広がった。
98年の世界経済は、IMFの見通しによると、アメリカやEU諸国は引き続き順調な拡大となるが、日本はマイナス成長となり、先進国全体の成長率は2.0%と鈍化が見込まれている。途上国では、東アジアで多くの国がマイナス成長となり、中南米でも成長率が低下することから、途上国全体としての成長率は2.3%と大幅な低下が見込まれている。また、ロシアが再びマイナス成長に転じることから、市場経済移行国全体の成長率は▲0.2%となり、世界全体の実質GDP成長率は2.0%と減速が見込まれている。
世界貿易量は、97年に9.7%増と高い伸びとなったが、98年にはアジア通貨・金融危機の影響から途上国を中心に輸出入が伸び悩み、3.7%増と伸びが大幅に鈍化することが見込まれている(第1-1-1表)。
第2節 不透明感広がるアメリカ経済
アメリカ経済は、1991年3月からの約8年にわたる景気拡大局面にあるが、アジア通貨・金融危機に端を発した国際金融市場の混乱に伴い98年8月末に株価が急落、史上2番目の下げ幅を記録し、その後も一進一退を繰り返すなかで、先行きに対する不安材料も散見され始めている。
アメリカ:景気拡大は続くが、広がり始めた不透明感
(財政収支の改善と金融政策の発動)
好調な景気を背景として税収が大幅に増加したことに加え、国防費を始めとした政府支出の増加を抑制したことにより、連邦政府の財政収支は93年度以降順調に回復を続け、98年度には 700億ドルの黒字(GDP比 0.8%)と、29年ぶりに財政の黒字転換を達成した。こうした財政収支の改善による国債発行の減少などを通じた長期金利等へのインパクトを調べてみた。この結果、財政収支の改善は長期金利を低下させる影響を及ぼしたことが確認された(第1-2-1図)。この長期金利の低下は、金融政策の発動の余地を広げたものと考えられる。最近の金融政策の動向をみると、連邦準備制度理事会(FRB)は、98年9月29日及び10月15日に利下げを行った。
91年以降の景気拡大局面において、個人消費が堅調な伸びを続けてきた理由の一つに消費性向の上昇があるが、この背景としては、【1】株高等の資産効果が生じていること、【2】低金利を背景に借入が増加していること、などが挙げられる(第1-2-2図)。
(個人消費:株価の上昇による資産効果とそのリスク)
アメリカでは家計資産に占める株式の割合が比較的大きい。この傾向は、90年代以降さらに強まっており、90年代の個人消費の伸びは、株価の昂進とともに生じている(第1-2-3図)。98年8月末には、国際金融市場の混乱などに伴い大幅な株価の下落が生じたが、今後の株価の動向によっては「逆資産効果」を通じて個人消費を冷え込ませる可能性も考えられる。そこで、金融純資産残高を取り込んだ計算を行ったところ、96~97年にかけての実質個人消費の伸びに対する寄与率は17.6%となった。これは、株式の直接保有のみの効果であり、年金基金や投資信託を通じて間接的に保有する株式を含めると、1.6倍程度大きくなる。この効果を、87年ブラックマンデー時の個人消費の変化に対する寄与率▲3.3%に比べると、家計部門の金融資産に占める株式の割合が高まっていることから、株価が消費に与える影響が大きくなっていることが分かる。次に、株価の下落を通じた逆資産効果を試算すると、株価が現状の約8,000ドルから約7,000ドルに下落した場合(約12.5%の下落)、実質個人消費の伸び率は、株式の直接保有分のみで1年間に約0.08~0.26%ポイントの低下、間接保有まで考慮すれば、約0.12~0.42%ポイントの低下となる。さらに、約6,000ドルまで下落した場合(約25%の下落)には、実質個人消費の伸び率は、直接保有分のみで約0.15~0.52%ポイントの低下、間接保有を含めれば約0.25~0.84%ポイントの低下となる。個人消費のGDPに占めるシェアが約7割であることから、株価が7,000~6,000ドルまで低下した場合、1年間の実質GDP成長率の下落幅は約0.05~0.57%ポイント程度と見込まれる。
(個人消費:貯蓄率の低下とバランスシートの悪化)
アメリカの家計部門の貯蓄率はもともと比較的低いが、最近の株高などを反映してますます低下してきている。他方、低金利などにより借入れも大きくなっており、消費者信用残高の可処分所得に対する比率は前回の景気拡大期を上回っている(第1-2-6図)。このため、所得や金利、株価などの動向によっては、家計部門のバランスシート調整が生ずる可能性も指摘されている。他方、消費者信用残高の前年同期比は、消費や所得が伸びているにもかかわらず、96年以降伸び率が低下している。この背景としては、【1】残高自体の水準が高くなっているため借入れにブレーキがかかっていること、【2】株高などにより金融資産が増加し、資産効果等によって借入れによらず消費が伸びていること、【3】94年以降金利が引き上げられたため、その後借入れが抑制されたこと、【4】銀行などの審査基準が厳しくなったことに呼応して借入れが抑制されたことなどが考えられる。したがって、現在は、所得に比して借入れが大幅に伸びているとは言えないものの、消費者信用残高は過去最高水準にあることから、家計部門のバランスシートが大幅に悪化している可能性もあり、今後の動向には注意が必要であろう。
(設備投資:情報化投資の行方)
情報化投資の設備投資に占めるシェアは拡大しており、設備投資の動向をみる上で極めて重要である。情報化投資は、景気変動の影響を受けにくい(独立投資化している)といわれているが、実際に情報化投資成長率の変動係数を調べたところ、他の投資に比べて変動が小さいという結果が得られた。情報化投資の変動が小さい要因としては、コンピュータやソフトウェアの技術革新が速く、アメリカ企業による新しい情報化装備に対する需要が大きいことが考えられる。情報化やコンピュータ関連ストックの年齢(ビンテージ)を計算したところ、特にコンピュータ関連ストックのビンテージが1年と若く、アメリカ企業における情報化投資、特にコンピュータ関連投資に対する意欲が高いことが分かった(第1-2-12図)。情報関連の技術革新は今後も続くと考えられるため、今後、株式市場や企業業績、金利動向によっては、設備投資自体は、減速する可能性は否定できないものの、情報化投資は今後とも設備投資を牽引していくと考えられる。
中南米:外的要因により景気は鈍化傾向
メキシコの実質GDP成長率は、98年1~3月期前年同期比6.6%増、4~6月期同4.3%増と景気の拡大テンポが鈍化している。また、97年末頃から原油価格低下の影響が経済にも現れ始め、歳入減から(97年の歳入に占める石油関連の割合は約36%)、98年に入り、政府は3回にわたり、合計363億ペソ(98年当初GDP見込み額の1%相当)の歳出削減を行った。金融面では、日本を含むアジア経済への懸念に加え、ロシア経済の混乱もあり、株価は8月末の対前月末比で29.5%下落した。通貨ペソはドルに対し減価している(第1-2-14図)。
ブラジルでは、97年7月のタイの通貨危機、10月の香港株式市場の下落に端を発した世界的な株価下落に際し、金利引き上げや財政健全化措置を発表、市場の混乱を収拾した。しかし、緊縮政策の影響等により98年に入り国内景気は減速している。金融面では、ロシアのルーブル切下げやベネズエラの為替切下げ不安により、株価は98年8月末の対前月末比で39.6%下落した結果、97年のアジア通貨・金融危機時を下回る水準となった。
アルゼンチンの実質GDP成長率は、98年1~3月期前年同期比7.4%、4~6月期同6.9%増と景気拡大テンポは緩やかになっており、主要な貿易相手国であるブラジルの景気減速や世界需要の低迷による輸出減少などから、今後は経済成長の鈍化も予想される。他の中南米諸国同様、このところ株価は大きく下落しており、98年8月末の対前月末比で39.1%の下落となった。
第3節 景気拡大を始めたヨーロッパ
西ヨーロッパ:通貨統合開始に向け、最終準備
EUの統合が、新しい段階に入ろうとしている。90年7月に始まった経済通貨統合(EMU:Economic and Monetary Union)は、市場統合を行う第1段階、通貨統合への準備期間である第2段階を経て、99年1月から最終段階である第3段階に入る。第3段階では、実際に単一通貨「ユーロ(Euro)」が導入され、一元的金融政策が行われ、民間部門においても、金融取引の多くはユーロ建てで行われる。
EU加盟国がEMU第3段階へ参加するにあたっては、マーストリヒト条約に規定された経済収斂基準を97年までにクリアすることが要求された。そして、98年5月の臨時欧州閣僚理事会において、11か国がこれらの基準をクリアしたと認められた(第1-3-1表)。新たに誕生する単一通貨圏は、人口約2.9億人、名目GDP約6.9兆ドルとなり、人口規模でアメリカ(約2.7億人)を抜き、GDP規模でもアメリカ(約7.3兆ドル)とほぼ同等となる。
EMU第3段階への参加国が決まる中、単一通貨を導入し、運営するための枠組みもほぼ整備された。単一金融政策の面では、98年6月には欧州中央銀行(European Central Bank:ECB)が設立され、マーストリヒト条約では決められていなかった、金融政策におけるターゲットの決定、外貨準備の構成、最低準備制度の導入など、ユーロの運営の枠組みが決定された。
(ユーロランド経済の現状)
西ヨーロッパ全体の景気を、通貨統合参加予定国11か国全体(ユーロランド)でみると、97年全体を通じた為替の減価傾向により輸出が好調となり、これが内需に波及する形で景気が拡大している。内需主導の景気拡大を支えた要因として、97年から98年にかけてユーロランドで持続的に行われている低金利政策によって、個人消費や機械設備投資が好調となったことが挙げられる(実質GDP成長率は、97年前年比2.5%、98年1~3月期前期比年率2.8%、4~6月期同0.4%:第1-3-2図【1】)。
一方、97年後半からアジア地域で発生した通貨下落によって、ユーロランドからアジア地域への輸出が減少し、これがGDP成長率を若干押し下げた(第1-3-2図【2】)。
雇用情勢をみると、ユーロランドにおいても、景気拡大を受け失業率の低下がみられている。これに伴い、いくつかの国では賃金上昇率がやや高まりをみせているが、消費者物価は安定して推移している(第1-3-2図【3】)。
(域内各国中央銀行における外貨準備と短期的なユーロの強弱)
99年以降、各国の中央銀行においては、自国通貨のユーロへの転換の際に、たとえばドイツ連銀の保有するフランやリラなどは、外貨ではなく自国通貨と同じ立場になる。したがって、各国の中央銀行が、外貨準備の減少を少しでも補填しようとした場合には、ユーロが短期的に売られ、相対的に減価することが考えられる。
一方、外貨準備の大きさは、先進国では、輸入量との相関が高い(第1-3-4【1】図)。これは、外貨準備が対外的な支払能力の保有を意味することから、輸入量と比例するだけの量を持つべきであると考えられていることによる。ユーロランドの外貨準備高は、97年末現在では先進国の平均に比べて妥当な水準であるが、ユーロが導入された後には過剰となる(第1-3-4図【2】)。外貨を必要とする輸入の量が減少し、ユーロとはならない外貨の準備高を減少させるインセンティブが生じた場合、ユーロが短期的に買われ、相対的に増価することが考えられる。
高い外貨準備高はEU各国の対外的な支払能力の高さという観点から、国際的な信頼を高めるのに寄与するが、外貨準備高が多すぎれば、それだけ自国内の資金が生産的な用途に使われていないということになる。99年以降、各国中央銀行の保有する外貨準備は、最終的には各国の中央銀行がどの程度の外貨準備を持つのが適当と考えるかによって変わってくるが、短期的な為替の動向に大きな影響を与えることから注目される。
ロシア:ルーブル切下げ
ロシアでは、92年の市場経済への移行開始以来マイナス成長が続いていたが、97年の実質GDP成長率は前年比 0.8%増と初のプラス成長となった。しかし、98年に入り、ロシアの主要外貨取得源である原油価格の下落やアジア通貨・金融危機の影響等により、実質GDP成長率は、98年4~6月期前年同期比 0.9%減、7~9月期同7.5%減となった。また、鉱工業生産も97年前年比1.9%増から、98年4~6月期前年同期比 1.3%増、7~9月期同11.8%減となり、再びマイナス成長へと転じた(第1-3-15図)。
(ロシア金融危機)
98年5月下旬、債券・為替市場において売り圧力が強まると同時に株価も下落し、金融危機に見舞われた(第1-3-16図)。一連の金融危機の背景には、97年に外国資金(主として短期)が大量に流入していたことが挙げられる。これらの資金が次の要因により、ロシア国内から流出し、金融危機を引き起こすこととなったと思われる。第一に、財政赤字が挙げられる。第二に、ロシアの主要外貨取得源である原油の国際市場価格の低下が挙げられる。これにより、輸出額が大幅に落ち込んだため、貿易収支黒字は大幅に縮小している。このようなファンダメンタルズの悪化に加え、アジアの経済情勢の影響や不安定な国内の政治・社会情勢等も要因の一つになったと考えられる。
(ルーブル切下げ)
8月に入り、短期国債償還のため財源が不足するとの懸念や、政府予算の歳出の削減や徴税強化を柱とした金融経済安定化プログラムの実現性への疑問等により、一層のトリプル安が進み、ロシア政府と中央銀行は8月17日、ルーブルの実質上の切下げや、民間の一部の対外債務支払いの90日間の停止、99年末までに償還期限を迎える中短期国債の新規国債への切り換え等を盛り込んだ共同声明を発表した。
ルーブル切下げ措置により、政府の緊縮政策により低下基調にあった物価上昇率は8月前年同月比9.6%、9月には同52.2%と急騰した。また、ルーブルの減価傾向はますます強まり、9月初めには、目標相場圏の放棄し、変動相場制へと移行した。
また、貨幣増刷や為替管理の強化などこれまでの経済政策の路線転換を求める国会と、市場経済化への構造改革の推進を求める国際社会との間で、今後政府がどのような対応をとっていくのか注目される。
第4節 景気後退色強まるアジア・大洋州
(大きく景気後退する東アジア)
97年7月にタイで始まった通貨危機は、ASEAN諸国、韓国に波及し、タイ、インドネシア、韓国の3か国がIMFに支援を要請した。その後の緊縮政策の実施により、一応の通貨安定と対外収支の改善がみられたが、高金利や金融システムの混乱などから、98年に入って投資・消費の不振はさらに深刻なものとなっており、景気は一層後退した。東アジア諸国の景気後退は、比較的堅調であった中国、台湾等にも影響を及ぼしている。
通貨危機発生から1年以上経過したが、生産はいまだ底を打っておらず、雇用情勢も悪化している。景気の著しい悪化にかんがみ、財政・金融政策は緩和に転じてきているが、急速な景気回復は望めない状況にあり、98年の経済成長率は、インドネシア、タイをはじめ多くの国でマイナス成長が見込まれている(第1-4-2図)。物価上昇率は近年多くの国・地域で低下していたが、98年に入り、通貨減価の影響や食糧価格の高騰などから、ASEAN諸国を中心に上昇している。
(輸入の大幅な減少により改善する東アジアの経常収支)
東アジア諸国の輸出(ドルベース)は、半導体輸出の低迷などから96年に大幅に伸びが低下した。97年には、年央以降の通貨の急速な減価から回復の動きがみられたが、期待されたほどの伸びを示していない。98年に入ると、一部の国を除き前年同期比でマイナスとなっている。一方、輸入は景気の後退から大幅な減少が続いており、多くの国で貿易収支が改善している。
東アジア諸国の経常収支は、中国、台湾、シンガポールを除き赤字が続いていたが、輸入の大幅な減少を主因とする貿易収支の改善から赤字幅が縮小し、韓国、タイでは97年10~12月期以降、マレイシアでは98年1~3月期から黒字に転じている(第1-4-4図)。
第5節 国際金融・資本市場
(これまでのドル高の要因)
1990年代に入り比較的安定していたドルは、95年以降増価基調が続いてきた。98年に入ってからも、直近8月末以降は減価基調で推移しているものの、総じて増価してきた。モルガン銀行発表の名目ドル実効レートでは、95年9月から98年9月までの5年間で17.2%増価した。為替市場における需給に影響を与える要因を特定することは困難であるが、長期的な為替相場のトレンドを説明する購買力平価説では、アメリカの物価上昇速度が、趨勢的に日本やドイツに比べ速かったことを示している。また実体経済に即してみると、対円では、70年代後半以降では、名目賃金の格差(日本がアメリカを上回った分)が減少してきたことや、日本の一人当たり労働生産性がアメリカのそれを上回った分が拡大してきたなどがドルの購買力平価が趨勢的に減価してきた要因として考えられる。 次に、やや短期的な相場の変動に重点を置いたポートフォリオ・バランス・アプローチで最近の動きみると、ドルの円に対する変動では、実質金利差要因が、97年以降ドル増価に大きく寄与している一方、対外資産残高要因は、97年以降再びドル減価要因として徐々に寄与度が増してきていることなどがわかる。(第1-5-3図)
(下落続く国際商品市況)
国際商品市況は、96年前半を境に調整局面に迎え、98年に入っても東アジアの景気低迷等による需要減退から下落基調が続いている。CRB商品先物指数の動きをみると、月平均で98年に入って220台から始まり、一旦230台まで強含んだものの、その後低下基調となり、9月現在では200台前半と低迷している。
原油価格は、96年以降は低下基調で推移している。特に、97年11月にOPEC総会において生産枠を増加させたのを機に急降下し始め、それまでの19ドル台から13ドル台へと下落した。そのため、産油国は98年3月と6月にOPEC総会を開催し、OPEC加盟国・非加盟国の協調減産に合意した。その後は減産の効果が価格動向にどのように影響を及ぼすかを見守る状況になっている。(第1-5-16図)
第2章 アジア通貨・金融危機と世界経済
第2章のポイント
[アジア通貨・金融危機の要因]
97年7月のタイ・バーツ危機に端を発するアジア通貨・金融危機の要因としては、実質的な対ドル固定相場制の維持などによる通貨の過大評価、大幅な経常収支赤字と短期資本流入の急増、金融システムの脆弱性などが挙げられる。
[通貨・金融危機後の東アジア経済回復の展望]
東アジア経済の現状をみると、輸出は期待されたほど伸びず、内需は大幅に縮小しており、生産はいまだに底を打っていない。ただし、一部諸国における金利の大幅低下など明るい兆しもみられ始めている。
東アジア経済の回復のためには、経常収支の改善や構造改革などにより、投資家の信認を回復させていくことが必要となろう。東アジアの中長期的な成長の1.貿易面を通じた影響をみると、東アジア諸国の為替減価はそれら諸国の貿易収支の改善につながる一方、その他諸国の収支の悪化をもたらす。また、東アジア諸国の内需の縮小が貿易財、特に一次産品の価格低下につながっており、これらへの輸出依存度が高い諸国に悪影響を与えている。
2.資本移動を通じた影響をみると、これまで資金流入が増加していたいわゆるエマージング市場の先行きに不透明感を与えている。特に、経常収支赤字、財政赤字などマクロ経済上の不均衡を有する国、輸出における一次産品依存度が高い国の金融・資本市場で動揺が強く現れている。
[国際的資本移動に対する規制について]
短期資本移動に規制を設けるべきとの議論があるが、世界的な資源の最適配分の達成など自由な国際的資本移動が世界経済に大きな恩恵をもたらしてきたことに留意することが重要。但し、金融システムの脆弱性を抱える国などについては、こうした部門の構造改革を行った後に、あるいはこれを行いつつ、資本の自由化を順序よくかつ慎重に進めるべきである。また、規制を導入するにしても短期資本を中心に考えるべきである。
[不安定化した世界経済をとりまくリスクと政策対応]
今日の不安定化した世界経済には様々なリスクが存在しており、全体としてデフレ圧力が高まりつつある。こうしたリスクの顕在化を回避しつつ、世界経済を安定的発展に結びつけていくために、アメリカ、EU諸国、日本などの諸国が十分な景気刺激策及び危機に陥った新興国に対する金融支援などにより適切に対応することが必要である。
第1節 アジア通貨・金融危機の要因と特徴
(高まる国際資本移動と通貨・金融危機)
97年7月のタイ・バーツ大幅下落に端を発した通貨・金融危機は、韓国、インドネシア、フィリピン、マレイシア、タイ(以下「東アジア5か国」という)を中心とする東アジア諸国に波及し、為替の大幅な減価や金融市場の混乱を引き起こした。このアジア通貨・金融危機の広がりと深まりは、国際資本移動が急速に高まるなかで、東アジア諸国のみならず、一部発展途上国経済に対するコンフィデンスの揺らぎを引き起こし、その後、一次産品依存度が高い国等を中心に、中南米や中・東ヨーロッパ、CIS諸国の為替・金融市場でも混乱が発生している。
(アジア通貨・金融危機の要因)
今回の危機はこれら諸国からの資本流出が直接の引き金になったが、それだけが原因ではなく、【1】実質的な対ドル固定為替相場制の維持、【2】大幅な経常収支赤字と短期資本流入の急増(第2-1-3図)、【3】金融システムの脆弱性といった近年の東アジア諸国の経済上の問題がその背景にあり、それが現在に至るまで、東アジア諸国の経済に対して大きな打撃を与えている基本的要因でもあることに留意すべきである。 ただし、これら3つの要因については、域内各国全てに共通して当てはまるわけではなく、程度の違いにより、危機の影響度合いは大きく異なっている。(第2-1-4表)。
第2節 通貨・金融危機後の東アジア経済の現状
(アジア通貨・金融危機の深まりと経済の現状)
東アジア5か国の危機後の経済状況をみると、これまでのところ貿易収支は大幅に改善し、外需は成長に大きく寄与しているものの、それを上回る内需の収縮から、GDP、鉱工業(製造業)生産指数が全ての国で前年比マイナスとなるなど、総じて厳しい状況にある。
これら東アジア5か国の成長回復の原動力として期待されている輸出動向をみると、通貨・金融危機で大きな影響のあった東アジア5か国においては実質ベースでみて相当大きな伸びがみられることは事実である。しかし、こうした実質輸出の伸びも、94年末に発生したメキシコ通貨危機の場合と比較してみると、相当低いものとなっている (第2-2-5図)。
(東アジア諸国の内需の停滞)
東アジア5か国では輸入の大幅減により外需は大きく成長に寄与しているにもかかわらず、GDPは縮小傾向にある。また、通常は実質輸出の増加に伴って増加する生産も停滞したままである。
これは、内需の収縮が相当程度に大きなことが原因である。これら諸国では、緊縮的な総需要管理政策がとられてきたことに加え、まず家計部門では通貨減価による輸入インフレや雇用情勢の悪化などにより消費が抑制されている。企業分門では、大幅な債務負担が大きな足かせとなっている。また、金融システムの混乱により、輸入信用開設が困難になったり、産業界への資金供給が進捗しないといった理由により、生産の維持・拡大に必要な資金手当てが円滑に進まず、また、資本財や中間財の輸入も困難になっていることが問題になる。 特に、金融機関の抱える不良債権額が相当程度大きくなっており、これが内需の拡大に対する足かせともなっている(第2-2-8図)。
第3節 通貨・金融危機後の東アジアの経済回復
-----メキシコ危機との比較を中心に-----
(メキシコ危機との比較)
アジア通貨・金融危機の影響を強く受けた東アジア5か国が、メキシコのように輸出を牽引車として、短期間で回復軌道に戻ると考えることは困難であるが、この理由としては、【1】東アジア5か国において成長軌道回復の牽引車と期待される輸出について実質輸出の伸びがメキシコほどの伸びをみせていないこと、【2】危機の対応として、メキシコ、東アジア5か国とも金融引き締めに加えて財政緊縮政策が実施されたが、主因が財政赤字にあったメキシコのケースでは、これが問題の直接的解決として有効であったが、東アジア諸国の場合には、これが危機以降の対策として適切であったか疑問がないとはいえないこと、【3】東アジア5か国の金融機関は、財務上厳しい状況が続いており、実体経済に大きな悪影響を及ぼしているが、この問題の解決には相当程度の時間とコストがかかるものと考えられることなどが挙げられる(第2-3-1表)。
(回復のシナリオ)
インドネシアを除く、韓国、マレイシア、タイ、フィリピンの各国の為替レートが98年に入ってから回復をみせていること、金利も韓国、タイなどで1月以来大きく低下してきていること、さらに、韓国、タイでは、金融システムなどの分野で構造改革が実施され始めていることなど、外需の伸び以外にも明るい兆しもみられ始めている。今後の回復のシナリオとしては、以下が考えられる。まず、各国の経常収支の大幅黒字化により、外貨準備が増加し、その結果投資家のコンフィデンスが高まる。これが資本再流入を促し、実体経済面で良い影響を与えるとともに、為替への下落圧力を軽減する。その結果、金利を下げることが可能となる。実際、韓国、タイでは既に金利は大きく低下してきており、今後他国も含め一層低下していくことが期待される。金利の低下は、資本の再流入ともあいまって、個人消費、投資を活発化する。これが外需の力強い伸びとともに、経済を回復軌道に乗せる。
(東アジア地域の中長期的成長の見通し)
高貯蓄率や比較的健全な財政運営といった基礎的なマクロ経済環境、高レベルの教育水準に基づく人的資本の蓄積、貿易及び直接投資による域内の経済的相互依存関係がもたらす成長の促進効果といった、これまで東アジア諸国の高成長を長期間にわたって支えてきた諸要因は、今回の危機により大きく変わったわけではない。こうしたことから、数年の調整期間を経た後には、今日の危機に見舞われた国々も高成長経路に戻ることは可能と考えられる。
第4節 アジア通貨・金融危機の世界経済への影響
貿易、直接投資や金融面での経済的相互依存関係の深化や情報・通信技術の進歩によるグローバル化の進展を背景に、アジア通貨・金融危機は貿易、金融取引などを通じ、世界経済全般へ様々な影響を及ぼしている(第2-4-1図)。
1 貿易面を通じた影響
東アジア諸国との貿易について、日本、アメリカ、欧州3か国(イギリス、フランス、ドイツ)の最近の動向をみると、これら3地域全てで東アジア諸国への輸出(ドルベース)の伸びは減少していることがうかがえる。
最近の一次産品価格の低下については、東アジア諸国の需要減退が重要な原因となっている。90年代から東アジア諸国は、その高成長を背景に一次産品輸入・消費を増加させてきたが、今回の危機による通貨減価、内需の低迷などにより、一次産品への需要は大きく減少し、一次産品価格全体の下落につながっている(第2-4-6表)。
2 資本移動を通じた影響
(銀行貸出の動向)
発展途上国等の主要先進国銀行への債務残高について、債務の期種別に97年6月末から同年12月末までの動きをみてみると、アジア諸国では依然債務残高は大きいものの、特に短期資本である1年以下の債務について急速に残高が減少していることがうかがえる。貸手別にアジア全体の債務残高を同期間についてみると、北米及び日本の銀行への債務残高は減少しているのに対して、欧州の銀行への債務残高は増加している。
(危機以降の直接投資の動向)
98年2月にUNCTADが日本、アメリカ、欧州などの企業500社に対して行ったアンケート調査によると、各地域の企業とも、東アジアの経済成長に対してコンフィデンスは失っておらず、今回の危機にもかかわらず、直接投資の計画は変更しないとしているところが多い。
特に製造業への直接投資については、短期・中期の直接投資計画は不変とする企業が57%であり、投資を増加させるとした企業が34%となっている(第2-4-12図)。
(エマージング市場の為替・金融市場への影響)
中南米やロシアを中心としたエマージング(新興)市場の動揺については、まず、これまで高い成長可能性を評価されてきた東アジア諸国が今回の危機で急激に成長率が低下し、さらにその回復に少なくとも2~3年は必要とされる状態になっていることがエマージング市場全体の先行きに対する不透明感を強めていることが基本的な要因として挙げられる。
しかしながら、エマージング市場を個別にみれば、動揺が強く現れている国とそうでない国が存在している。このような動揺が強く現れている国については、その背後に財政赤字や経常収支赤字といったマクロ経済面や、輸出における一次産品への依存度の高さといった輸出構造面での問題点が存在している(第2-4-13表)。
(国際的資本移動に対する規制について)
1970年代以降、国際資本市場における大きな潮流は自由化であった。しかし、アジア通貨・金融危機及びその後の世界経済の不安定化の下で、国際的資本移動を規制するべきとの議論が急速に勢いを得つつある。この点については、IMFを中心とする国際金融システムの在り方も含めて、今後も様々な議論がなされるものと思われるが、まずとりあえずの留意点として、第一に、IMFが指摘するように、資本の自由化は順序良く(well sequenced)かつ慎重に(prudent)行われるべきである。また、第二に、長期資本と短期資本との区別が重要であり、国際的資本移動への規制を導入するにしても短期資本を中心に考えるべきであり、長期資本については基本的に自由化を進めるべきである。
3 不安定化した世界経済をとりまくリスクと政策対応
今日の不安定化した世界経済には以下のような様々なリスクが存在しており、全体としてデフレ圧力が高まりつつある。
- アメリカの株価暴落
- 新興国経済における連鎖的通貨安・株安と世界的信用収縮
- 先進国金融機関の経営不安と金融システムの不安定化
- 日本における景気低迷の一層の長期化と金融システム不安の更なる深刻化
- 中国・人民元の切下げ
- アメリカの経常収支赤字の拡大と保護主義圧力の高まり
これらリスク要因は、ひとつひとつを個別にとらえれば、その世界経済への影響は限られたものであるかもしれない。しかし、これらが連鎖的、複合的に発生した場合には、世界経済全体に極めて大きな影響を与えるものと考えられ、最悪の場合には世界的不況という事態さえ決してあり得ないことではない。既にみたように、大量の資本が瞬時に国境を越えて動き回る今日の世界経済では、ある地域における経済状況の変化は、貿易などの実物面での経路を通じてのみならず、資本、金融面を通じて他地域の経済に大きな影響を与える。そして、後者については、心理的側面も含めそのメカニズムには必ずしもよく解明されていない部分もある。ある地域における通貨・金融危機が思いもよらない地域に伝播する可能性も否定できない。
上述したリスクの顕在化を回避しつつ、世界経済を安定的発展に結びつけていくためには、今日の世界経済の置かれた危険な状況を十分に認識し、各国がリスクを顕在化させないための最大限の努力を行う必要がある。とりわけ、その経済的規模及び他地域への影響度からして、アメリカ、EU諸国、日本の果たすべき役割は重要である。これら地域が良好な経済状況を維持あるいは回復することが何にもまして重要である。世界的なデフレ圧力の一層の高まりに対して、これら諸国は十分な景気刺激策及び危機に陥った新興国に対する金融支援などにより適切に対応することが必要である。アメリカ、EU諸国、日本をはじめとする主要先進国は、今後とも、上述したリスク要因を含めた世界経済の動向を注意深く見守りつつ、必要に応じて協調しつつ、適宜適切な政策対応をとることが求められる。
第3章 労働市場の動向と改革の進展
第3章のポイント
[アメリカの労働市場の特徴と課題]
米国の雇用動向が好調である要因としては、労働市場の柔軟さに加えて、低インフレにより景気の長期拡大が可能となっていること、製造業における大企業のリストラによって生じた余剰労働力を中小企業や新規設立企業等の雇用創出が吸収したこと、人材派遣業の成長や高学歴化の進展等によって労働需要に見合った労働力の供給が円滑に行われたことなどが考えられる。
[欧州における労働市場改革とその成果]
構造失業率が低下したイギリスやオランダといった諸国と、低下があまり見られないドイツやフランス等の諸国の間で二極分化が起きている。OECD加盟諸国の国際比較を行うと、最低賃金や解雇コストの高い国では若年失業率が高い、失業給付が高い国では失業率が高いといった傾向を見いだせる。また、パートタイム雇用の促進が、低失業、高い労働参加率、低い賃金上昇率をもたらしていることが分かる。
イギリスでは自由主義的な労働市場の構造改革の成果が出ており、オランダでは政労使合意の下での改革が実を結んでいる。80年代のドイツ、フランスでも雇用失業対策は行われたが、高賃金促進、低所得者や失業者への厚遇、労働者の過剰な保護を図る「ソシアル・ヨーロッパ路線」とも呼ばれる政策が構造失業率を高止まりさせてきたと考えられる。
最近では、自由主義路線、ソシアル・ヨーロッパ路線のいずれでもない「第3の道」と呼ばれる新たな労働市場政策の萌芽も見られる。
[急速に悪化する東アジアの雇用情勢]
東アジアの雇用情勢が通貨・金融危機後大幅に悪化している。これまでは労働者をとりまく諸制度が不十分であったが、今後は農村地域が余剰労働力を吸収しきれなくなることも考えられ、社会保障制度を整備することが課題となっている。
第1節 アメリカの労働市場の特徴と課題
アメリカの雇用情勢は、失業率が約28年ぶりの低水準で推移しており、大変好調である。しかし他方で、実質賃金の伸び悩みなどの構造的問題も抱えている。ここでは、現在のアメリカ労働市場の好調さについて検討した。
(NAIRUは下がっているのか)
90年代のアメリカ経済は、低失業率と低インフレを両立させることによって拡大を続けている。この背景として、NAIRU(インフレを加速させない失業率)やNAWRU(賃金上昇を加速させない失業率)が、低下してきている可能性が考えられる。これらを推計してみたところ、長期的にみるとNAIRU(NAWRU)が低下してきている可能性があるが、足元においては実際の失業率の方がNAIRUやNAWRUよりも低く、潜在的なインフレ圧力が存在することが分かった(第3-1-4表)。さらに、【1】賃金・報酬以外の雇用コストの上昇が抑制されていること、【2】雇用コストの上昇分を打ち消す物価下落が存在することが分かる。したがって、現時点において低失業率と低インフレが併存しているのは、輸入品物価の下落や雇用コストの伸びの抑制などの一時的な要因によるところが大きいと考えられる。
(産業別雇用者数)
アメリカにおける90年代の雇用動向をみると、91年に景気が底を打った後も、国際競争の激化などから大企業を中心に大規模なリストラが継続的に実施されてきたため、製造業では大幅な改善はみられず、金融・保険・不動産業などにおいても93年頃まで回復しなかった(第3-1-10図)。しかし、人材派遣業やソフトウェア開発などのハイテク産業、外食産業などサービス業を中心に中小企業や新規設立企業における労働需要は強く、ベンチャーなど自ら起業する者も多かったため、就業者は増加し、全体での失業率はその後低下してきた。また、リストラを行った企業は、その後収益や雇用が改善しているところも多い。このような新陳代謝の活発な経済構造は、昨今のような急速なグローバル化や情報化に対応した技術革新や経営効率化が常に求められているような状況では、資本、労働、経営資源などの投入についてフレキシブルで迅速な対応を可能として、大きな雇用創出をもたらしたものと考えられる。
(中小企業・新規設立企業の雇用創出)
アメリカにおいては、大企業は80~90年代にかけ、総じて人員削減を始めとした効率化を進め収益力を高めた。一方、中小企業や新規設立企業などはこの削減された労働力を吸収しながら成長を続けた。89~95年にかけて創出された雇用約870万人(ネット)のうち約9割は、この中小企業が生み出した。なかでも新規設立企業の雇用創出能力は高く、アメリカにおけるネットの新規雇用のうち約半分は新規設立事業所によるものである。
新規雇用を支えている新規企業の開業率は十数%程度と高い。新規企業が存続する比率は5年後に約半分となる一方、中小企業から大企業へと急速に成長する企業も多い。株式店頭公開の時期は、NASDAQでは設立から平均約5~7年後(日本は約30年後)であり、成功した企業はその後飛躍的に成長しさらなる雇用を創出する。NASDが管理する店頭市場に登録されている約3,000社が創出した雇用は96~97年にかけて約73万人、これは増加率にして約13%である。この間、アメリカ全体の労働者数の増加は約3%にすぎない(第3-1-15表)。このうちデータの比較可能な約 1,300社についてみると、97年時点では、雇用シェア 3.3%に対して株式時価総額が 9.9%となっており、市場原理に基づき成長分野へ労働や資本の資源配分が適切に行われていると考えられる。ベンチャー企業の成長要因としては、投資対象に対する情報の充実などリスクマネーの供給を確保するスキームが確立されていること、情報化をいち早くビジネスの中に取り込んだことなどが挙げられる。
(円滑な労働移動を支える人材派遣業の成長)
アメリカにおける90年代の職種間・産業間労働移動は従来に比し活発となってきているが、失業率は低下してきている。これは、労働需給のミスマッチが小さくなっているためと考えられる(第3-1-18図)。この要因としては、年金のポータビリティといった制度的要因に加え、人材派遣業の成長が挙げられる。人材派遣業は、80年代以降企業のリストラ進展のなか、事務補助などの業務を外部委託することから広がった。さらにサービス化や専門化の進展に従い、専門家なども対象となり、高度な技術を持った人材の迅速な確保や雇用コストの削減を目指したクライアント企業側ニーズにも合致し、90年代以降急激に拡大している(第3-1-19図)。企業が人材派遣を利用する最も重要な理由は、「雇用の柔軟性」であるが、最近では、専門家などに対する需要の高まりに伴い「専門的技術を持った人材を必要とする際に人材派遣を用いる」という企業も多い。他方、人材派遣会社においても、社員教育の充実により労働力の質の向上を図っている。このような人材派遣業の成長が、迅速、柔軟かつ効率的な労働資源配分を可能としているものと考えられる。
第2節 欧州における労働市場改革とその成果
1 欧州労働市場の長期的動向
ヨーロッパ諸国では失業率の動向が二極化している。イギリス、オランダでは、93年からの景気回復・拡大に伴い、97年まで失業率が低下を続けている一方、多くのEU諸国、特にドイツ、フランスでは、96年以降の景気回復期に失業率が上昇した。また、イギリス、オランダでは、93年からの景気回復に伴い求人数が増加すると、すぐに失業率の低下が始まった一方、ドイツ、フランスでは、97年末までの1年以上、景気回復に伴い求人数が増加していたにもかかわらず、失業率が上昇した(第3-2-2図)。これは、ドイツ、フランスには、労働需要が存在するにもかかわらずその職に就こうとしないという構造問題が存在することの表れであり、これが失業率の動向が二極化する一因となっている。
2 労働市場をとりまく制度とその影響
(各国の最低賃金制度と若年層の失業問題)
最低賃金と若年失業との関係をみると、フランス、ベルギーなど中間賃金に対して最低賃金の割合が高い国では若年失業率の割合が高く、日本、韓国など最低賃金の割合が低い国では若年失業率も低い(第3-2-7図)。これは、最低賃金制度が企業の雇用コストを増加させるため、未熟練かつ職務経験に乏しい若年層がその影響を受けやすいためと思われる。
このため各国では、若年層や見習工等には最低賃金を別に設定したり、教育と職業訓練の充実を図るための若年層向け雇用プログラムを設けており、特に基礎的・実用的な職業能力の付与・向上を目的とするプログラムが重視されている。また、最低賃金政策とともに雇用助成(カナダ、ニュージーランド、アメリカ)や、低賃金労働者に対する給与税の減税(ベルギー、フランス、オランダ)などの方法により低技術者の労働意欲を高め、働きながらも貧困から抜け出せないといった状況を解消しようとしている。
(失業給付と失業率)
失業給付は、それが高過ぎる場合には、失業者の就労インセンティブを阻害し、雇用を減少させる。失業給付の受給割合(実際の失業者のうち給付を受けている人の割合)を比較すると、アメリカ、イギリスではそれぞれ35%、20%と低くなっている。一方、ドイツ、フランスでは、それぞれ84%、90%とかなり高くなっており、失業者にとって寛大な制度となっているといえる。実際、失業給付の受給割合と失業率の間の関係をみてみると、受給者が多いほど失業率が高くなっており、失業給付を受け取り易いほど、失業率が高まるということが言える(第3-2-8図)。
(解雇コストと失業率)
労働者の雇用を保護するため、一般に、雇用者を解雇する場合には解雇補償金や解雇予告期間が定められている。解雇にかかるコストと雇用との関係をみてみると、法定解雇補償金の最高額が高い国ほど失業率は高くなる傾向があることがみられる(第3-2-10図)。解雇コストが高い場合、企業は解雇することを好まないため、解雇される者は少なくなり、短期的には失業する者は減少すると考えられる。しかし、解雇コストが高い場合には、企業の労働力に対する需要を減少させ、中長期的には雇用のレベルを低下させるため、失業者を増加させる要因になると考えられる。また、解雇コストが低い場合に比べ、平均して雇用のサイクルが長くなるため、新規の雇用が減少する。
(パートタイム労働者増加の影響)
失業率を低下させるために労働時間の柔軟化、とりわけパートタイム労働の促進が注目されるようになっている。パートタイム労働者の割合が高いほど、労働参加率は高く、子供の面倒を見る必要があるなど、家庭の事情によって常勤労働者として働けない者でもパートタイマーとしてならば就労可能となるなど、パートタイム労働は就労者にとって利用し易いものであり、自然と労働参加率は高まると考えられる(第3-2-12図)。
また、パートタイム労働者の割合が高いほど、失業率が低く、労働時間の短い労働者が増加することにより、労働市場全体の需給調整がより容易になることで、結果として失業率の低下につながっていると考えられる(第3-2-13図)。パートタイム労働は、一時的な業務量の増減に対応しやすい労働形態であることなどから経営者の雇用インセンティブが高まること、失業対策としてパートタイム労働を利用するケースが存在すること、職業訓練契約などの多くがパートタイム労働の形態をとることもその要因であろう。
さらに、パートタイム労働者の割合が高いほど、賃金上昇率が低く、国によってパートタイム労働者の権利にも差があるが、パートタイム労働者が多いほど全体としての労働需給が緩和し、賃金上昇率が低くなっているものと考えられる。
3 80年代における欧州諸国の労働市場政策-二極化への分岐点
いわゆる高賃金促進、過剰な所得補助や失業給付、厳格な解雇制限等労働者の保護を求める「ソシアル・ヨーロッパ路線」と呼ばれる動きが強まった70年代以降、この路線を採用してきたヨーロッパ諸国では、失業者が不況期に増加し、景気回復期になっても企業が労働者の新規採用に対して消極的になるとともに、労働者の働くインセンティブが削がれてしまうという状況が生じた。この結果、景気サイクルごとに雇用情勢は悪化したが、特にイギリス、オランダは、高インフレと高失業率など種々の経済的、社会的病弊がもたらされた先進国の象徴として、「イギリス病」、「オランダ病」という言葉まで生まれた。
しかしこの両国では、80年代に行った労働市場改革の効果もあり、【1】高すぎる賃金上昇率の是正、【2】労働参加率の上昇を伴う失業率の低下、【3】労働時間帯の柔軟化やパートタイム労働者の増加などの成果が現れ、90年代には構造的失業率が低下している。特にオランダは、市場主義路線を採用したイギリスと異なり、82年の政労使間の合意をきっかけに抜本的な構造改革が行われた成功例であり、「オランダ・モデル」として注目されている。
(イギリス保守党政権下での雇用対策)
サッチャーが政権についた当時、事業主が従業員を雇用する際において組合員から採用しなければならない「クローズド・ショップ協定」に代表される硬直的な労使関係があったため、経済の悪化にもかかわらず生産性を上回る賃上げ要求や争議行為が頻発した。このため保守党は、90年までに段階的に、新規にクローズド・ショップ協定の締結を廃止するなどして、当時の硬直的な労使関係の見直しを推進した。また、82年に合法的労働争議の範囲の縮小を行い、84年には争議行為前の手続きを制定するなどして組合の弱体化を図った(第3-2-19図)。
この一方で、80年代に失業者の自発的就労意欲を高めるために失業保険制度の数回にわたる見直しを行う一方で、労働者の質を高めるための職業訓練制度の見直しを行い、失業者の就労促進を図った。また、89年までに、女性に対する就業時間規制や、雇用、昇進における差別規制を廃止し、年少者の労働時間規制や休日勤務禁止規定も廃止するとともに、不当解雇に対する提訴の権利を得るために必要な雇用者の労働期間を延長した。
(「オランダ病」から「オランダ・モデル」へ)
「オランダ病」に陥った最大の原因は70年代における生産性の伸びを上回った急激な賃金上昇であったという反省から、82年に労使間で、賃金上昇率の抑制だけでなく、労働時間短縮、早期退職制度を通じたワークシェアリング、パートタイム雇用の積極的創出等についても合意をとりつけた(「ワッセナーの合意」)。この合意以降、政府が低めに設定した法定最低賃金をガイドラインに、労使は協議を行い、賃金上昇率抑制に協力している。
また、就労可能なすべての者は原則として就労する機会を与えられるべきであるという”Chance for everyone”のスローガンのもと、失業給付及び障害給付の削減や、障害保険の見直しが行われた。
そして、「ワッセナーの合意」は雇用促進策の目玉としてパートタイム雇用の創出を掲げていた。82年に改革に着手して以来、新規に創出された雇用のうち、約3分の2以上がパートタイム雇用である。オランダにおける雇用者のうちパートタイマーの占める割合はOECD諸国中最も高く、96年36.5%となっており、その多くが女性(約70%)であることから、女性の労働参加率も高まっている(第3-2-24図)。
4 通貨統合と欧州労働市場
90年代に入り、EU諸国が徐々にではあるが労働市場改革を始めたが、これは99年ユーロの導入と無縁ではないだろう。その一方で、比較的労働コストが低いEU加盟国の一部では、通貨統合が投資を自国に呼び込む効果をもたらすと考えられている。しかし、賃金水準が低いというメリットだけで、手厚い社会保障給付や過剰な解雇制限などを続ければ、企業は税制・社会保障制度改革や、解雇制限の緩和など労働市場改革を進めている他国での生産にシフトするかもしれない。したがって、ユーロの導入は、一部の低賃金国では、それ自体が自国への投資を活発化させると期待されているが、実際に企業の立地は賃金コスト以外の諸条件にも依存することから、企業の誘致にあたっては通貨統合参加国の労働市場改革の一層の努力が重要となろう。また、「最適通貨圏の理論」の観点からも、労働市場を柔軟にすることが重要である。
5 新たな労働市場政策
イギリスやオランダの労働市場政策では、構造失業率を低下させたが、いくつかの新たな問題を生むことになった。イギリスでは最低賃金制度を撤廃したことにより、低賃金労働者が増加し、80年代からの低所得者層と高所得者層の所得格差の拡大ペースは、先進国の中でアメリカに次ぐものとなっている(第3-2-28図)。行き過ぎた低賃金は労働意欲を失わせ、若年労働者の失業率を高め、雇用訓練などの効果を弱める結果となっている。
一方、90年代に入り、ソシアル・ヨーロッパ路線からの転換を図る動きがみられるようになった。この要因は主に、高齢化に伴う将来の財政支出の増大に対する危機感と、通貨統合によって、域内各国同士の競争がさらに激化するという危機感であると考えられる。ただし、フランスの雇用対策は、こうした改革の方向性とは逆行したものになるのではないかという懸念が表明されている。
90年代における労働市場政策について、イギリスやオランダの動きと、その他の大陸ヨーロッパ諸国の動きをみると、極端な自由主義路線でもなく、ソシアル・ヨーロッパでもない新たな道(しばしば「第3の道」とよばれる)を探ろうとしている点で共通である。多くのEU諸国における「第3の道」とは、自由主義路線、ソシアル・ヨーロッパ路線のそれぞれの弊害(所得分配面での不平等と高失業)を回避するために、双方がお互いの長所(低失業と所得分配面での平等)を採り入れる方向性を持つものであるといえる。
EU各国で採用されている労働市場政策を大別すれば、【1】労働力を需要する側の雇用インセンティブを高める政策、【2】労働力を需要する企業自体を増加させる政策、【3】労働力の供給側の就業インセンティブを高める政策、【4】労働力を供給する枠を増加させる政策となる。これらの政策は、それぞれが失業率を引き下げる効果を持ち得るが、失業率を中長期的に引き下げるには、雇用機会を一時的でなく持続的に拡大させることが重要である。
第3節 急速に悪化する東アジアの雇用情勢
東アジアの労働市場を巡る情勢は、1997年に発生したアジア通貨・金融危機以降大きく変化した。これまで高成長、低失業率を享受してきた東アジアも、危機後は低成長(あるいはマイナス成長)、失業率の上昇に苦しめられている。それまでほとんど問題になっていなかった失業への対応が、東アジア諸国にとって重要な政策課題になってきている。
(高まる失業率、低下する賃金)
東アジア各国の失業率は、97年末から98年に入って韓国、香港では急上昇しており、台湾、シンガポールでも徐々に高まってきている(第3-3-11図)。韓国の失業率は、97年12月の3.1%から98年8月には8.1%に上昇し、香港でも97年7~9月の2.2%から98年6~8月には5.0%へ高まっている。これまで東アジアでは、労働者をとりまく失業保険、年金などの社会保障制度が不十分であったが、今後は、同制度を整備していくことが経済社会の安定において重要な課題となっている。
むすび
(アジア通貨・金融危機と世界経済)
この1年間の世界経済の動向は、アジア通貨・金融危機の深まりとその影響の世界大での広がりという点に集約することができよう。危機に見舞われた国では、経済は当初の大方の予想を越えて大幅に収縮し、生産はいまだ底を打っていない。雇用情勢も極めて悪化している。また、アジアの需要減退と為替減価は貿易面を通じて、他地域にデフレ圧力を加えた。特に、一次産品価格は大幅に低下した。こうした実物面での影響に加え、アジア通貨・金融危機以降、新興国市場一般の先行きに不透明感が広がり、一部の新興国では資本の流出、為替・金融市場の混乱が生じている。特に、経常収支赤字、財政赤字等マクロ経済上の不均衡の大きな国、輸出における一次産品依存度の高い国の為替・金融市場でそのような混乱が生ずる傾向が強い。こうした中で、資金が「質への逃避」を起こし、先進国の国債市場等に還流するという現象もみられている。こうして、実物面のみならず、金融面からも世界的なデフレ圧力が強まりつつある。
(アメリカ経済―インフレ懸念から景気後退懸念へ)
アメリカ経済は91年からの長期景気拡大局面にあり、しかもその間労働需要が強く、失業率が低下する中で、物価の安定が維持されてきた。こうした極めて好調な経済状況を説明するために、アメリカ経済の生産性は情報技術革新などによりこれまで以上に上昇し、インフレのない、また景気循環もない「ニュー・エコノミー」段階に達したという議論もなされてきた。このような議論については賛否両論あるが、ここ数年の状況をみるかぎり、ドル高、一次産品価格の低迷、医療費の抑制といった一時的好条件が低失業と物価安定の両立を支えてきたことも確かである。いずれにしても、労働市場を中心とした景気の過熱感は徐々に高まり、98年夏までの段階では金融政策のスタンスも引締め気味で推移した。しかし、アジア通貨・金融危機が輸出、企業収益に悪影響を及ぼしつつあることなどから、8月中旬には金融政策のスタンスは中立に変更された。さらにその後、8月のロシアの通貨・金融危機に端を発する株価の急落、その後の中南米等一部新興国における通貨・金融市場の混乱、さらにはこうした新興国市場の混乱に伴い、大きな損失を被ったとされるヘッジファンドの経営危機などから、景気の先行きに不透明感が一挙に広がり始めた。こうした中で、連邦準備制度理事会(FRB)は9月末にフェデラル・ファンド・レートの誘導目標水準切下げを行った。さらに、10月半ばにFRBが追加的利下げを発表している。また、市場では、更なる追加利下げ観測も台頭している。アメリカ経済の懸念は景気過熱から景気後退へと大きく変化したのである。
(通貨統合目前のヨーロッパ)
ヨーロッパでは、大陸ヨーロッパ諸国をはじめとして、景気は総じて拡大している。EUでは、99年1月から始まる経済通貨統合(EMU)第3段階への当初参加国(11カ国)が決定し、その最終準備が進みつつある。EMU第3段階移行後の金融政策を担う欧州中央銀行(ECB)が、物価安定という明確な目標に向かって政策運営を行い、ユーロを安定した信頼できる通貨とすることが国際社会全体の利益ともなる。ただし、ECBがインフレファイターとしての定評を確立しようとして過度に緊縮的な金融政策運営を行うとの見方も一部にあるが、世界的にデフレ懸念が強まりつつある中では、適切な金融緩和が期待される。また、EMUの成功のためには、各国の労働市場の柔軟化に向けた構造改革が非常に重要である。何故ならば、EMU第3段階移行後は、参加国間における景気局面の相違や非対称的な経済的ショックを吸収するために、各国独自の金融政策や域内の為替レート変動を用いることができなくなるから、またEU財政における加盟国間の財政移転も限定的なものにとどまっているからである。貨幣賃金の伸縮性や労働移動の円滑性がなければ、加盟国間の経済の調整は極めて困難になる。いずれにしても、経済的価値を越えた、統一欧州という理念に向けての壮大な実験でもあるEMUの帰趨が注目される。
(労働市場改革の重要性)
第2章で扱ったアジア通貨・金融危機、さらにはその後の世界経済の混乱の大きな背景は国境を越えた資本の自由な移動の急拡大であった。逆に国境を越えて動くことが少ないもう一つの生産要素が労働であり、この労働について扱ったのが第3章である。そして資本の自由な移動の急拡大は、一般論としては、労働市場改革の重要性、特に先進国におけるそれをますます高めるものである。資本はただ単に安価な労働力を求めて移動するわけではない。仮に賃金水準が低くても、賃金外コストが高く、解雇制限が過剰な国や労働争議の頻発する国には資本は流入しないかもしれない。99年1月からの通貨統合後のEUに典型的にみられるように、資本の国境を越えての動きがますます活発化する中で、資本の流入を促し、雇用の増加を図るには、労働市場改革を今まで以上に積極的に進める必要がある。
近年における欧米の労働市場のパフォーマンスを比較すると、従来からその柔軟性を誇ってきたアメリカの他に、イギリスやオランダなどでも、雇用が増加し、失業率が低下している。一方、ドイツ、フランス、イタリアなどのヨーロッパ大陸諸国では、景気の回復、拡大にもかかわらず、雇用の伸びは緩慢であり、二桁の失業率が続いている。こうした二極化が生じた要因は各国の労働市場政策の違いにあると考えられる。イギリスではサッチャー政権下で行われた市場原理に基づいた労働市場改革の成果が出てきており、オランダでは労使協調路線の下で、特にパートタイム労働の促進が労働市場の柔軟化に大きく寄与してきていると考えられる。他方、ドイツ、フランス、イタリアなどの大陸ヨーロッパ諸国では、雇用対策が概して近視眼的となり、痛みを伴う構造改革は遅れてきた。逆に、アメリカ、イギリスなどでは、市場メカニズムが機能している分、所得分配の不平等度が高いという問題点が指摘されている。こうしたことから、高雇用、低失業と所得分配の平等との両立を目指す「第三の道」と呼ばれる路線の萌芽も一部ヨーロッパ諸国ではみられ始めている。折しも、98年9月にはドイツの総選挙において社会民主党が第一党になり、EU諸国15カ国のうち13カ国において社会民主主義政党(あるいはそれに類似する政党)が政権を担うこととなった。こうしたなかで、ヨーロッパ諸国が高雇用、低失業と分配の平等との間にどのようなバランスを見いだしていくのか、より一般化して言えば、経済的な自由主義と社会民主主義とをどのようにバランスさせていくのか、注目されるところである。
(アメリカの労働市場)
目をアメリカに転ずると、91年以降の長期景気拡大の中で、これまでに1400万人程度の雇用が創出され、失業率も98年4、5月には4.3%と約28年ぶりの低水準となった。こうした高いパフォーマンスは、基本的には市場メカニズムを活用した効率的な労働市場によりスムーズに資源配分がなされた結果と考えられる。特に、今回の景気拡大局面においては、【1】早めの金融引締め措置の発動など金融政策の成果に加え、好条件に恵まれたこともあり、景気の拡大がインフレを招かず、景気拡大の長期化が可能となり、労働需要が長期にわたり拡大したこと、【2】製造業における大企業等のリストラによって生じた余剰労働力を中小企業や新規設立企業などの雇用創出が吸収したこと、【3】人材派遣業の成長などによって労働需要に見合った労働力の供給が円滑に行われたことなどの要因が大きく寄与したものと考えられる。しかし一方で、実質賃金の伸び悩みや所得格差の拡大などの諸課題には改善の兆しがみられていない。
(世界的なデフレ圧力の高まり)
1998年前半までの段階では、日本を含む東アジア経済では総じて景気は低迷していたものの、欧米では景気は総じて拡大しており、世界全体としてみた場合、デフレ圧力はそれほど大きなものではなかった。むしろ、アメリカ、イギリスなどでは景気の過熱が懸念され、金融政策も引締め気味に推移した。しかし、アジア通貨・金融危機の影響は実物面及び金融面から世界経済全体に重大な影響を与えた。そうしたなか、8月中旬にはロシアで金融危機が発生し、その影響もあって8月末にはアメリカで株価の急落が生じた。その後、中南米などの新興国通貨・金融市場の混乱が一層強まり、その結果これらの市場で損失を被った先進国の金融機関の経営問題も生じている。こうした状況に対応して、アメリカ、カナダ、イギリスなどで9月から10月にかけて金利引下げが行われた。こうして、98年後半にはデフレはアジアのみならず世界経済全体の懸念となった。
(国際的資本移動の重要性)
世界各国間の経済状況あるいは景気の伝播経路は、従来貿易面を通ずるそれが最も強いと考えられてきた。例えば、経済的規模の大きい国の景気後退は、その国の輸入需要の減少を通じて、世界各国の景気に影響を与える。しかし、アジア通貨・金融危機及びその後の新興国通貨・金融市場の混乱などをみると、それと並んで、あるいはそれ以上に、資本移動を通じた伝播が重要になってきていると考えざるを得ない。国際的な資本取引はモノやサービスの貿易よりも急速に拡大してきており、その重要性を増しつつある。貿易面あるいは実物面の結びつきは、データも比較的豊富であることから、実体が相当程度把握されているが、資本の流出入については、データも不十分であり、実体の把握も遅れている。したがって、ある経済的ショックが生起した場合に、その実物面での影響は比較的予測し易いのに対して、資本移動を通ずる影響は予測が困難である。また、実物面での変化は概して徐々に生じるのに対して、大幅な資本移動は一瞬のうちに起こり得る。したがって、国際的な資本移動の変化は、思いもよらない地域で、思いもよらない大きさの影響を、一瞬のうちに引き起こす可能性がある。このように、世界的資本市場の統合が急速に進展するなかで、資本移動を通じた世界経済の相互依存関係の深まりは、21世紀を目前に新たな段階に達したと評価することができよう。
(アジア通貨・金融危機の教訓)
このように今回のアジア通貨・金融危機後、国際的資本移動の重要性が急速にクローズアップされてきている。これに加え、今回の危機は、それが世界の成長センターと目されていたアジアで発生したこと、大方の予想以上の広がりと深まりをみせ、世界経済全体に極めて大きな影響を与えたこともあり、国際的な資本移動に対する規制の在り方、国際金融機関の在り方、国際通貨体制の在り方、各国の経済政策の在り方などについて以下のような様々な問題提起がなされている。
・危機後のIMFの処方箋は正しかったのか。危機の深刻化を防げなかったのは何故か。マクロ安定化政策が緊縮的過ぎることはなかったか。逆に、緊縮的政策なくして、経済は安定化し、回復したのか。危機の真っ只中に経済構造調整まで要求することが妥当であったのか。
・資本自由化についてはどのように考えるべきか。国内における金融システム基盤等が脆弱な途上国においては順序良くかつ慎重に資本の自由化を進めるべきである点についてはほぼコンセンサスができていると考えられるが、国内金融システム基盤などが整った国において、例えばチリのような形で、資本流出入を規制することの是非についてどのように評価するべきか。
・巨額の資本が瞬時に国境を越えて動き回る今日の世界経済において、発展途上国が固定相場制をとることはますます難しくなってきており、現実的な選択肢ではなくなりつつあるのではないか。通貨の過大評価や過小評価を防ぐ伸縮性を保ちつつ、過度の変動をも防ぐような、途上国にとって望ましい弾力的な為替制度とは何か。
・創設以来半世紀以上たつ世銀・IMFを中心とする国際金融機関についても、見直しの時期にきているのではないか。
こうした問題提起については、既にG7、IMF、世界銀行などの場で各国間の話合いが開始されており、また本文でも一部議論の整理を行ったところである。今後、世界各国は、互いに協力しながら、これらの問題提起に対する答えを探りつつ、21世紀の資本主義像を模索していくことになろう。