平成9年海外経済白書

平成9年11月

経済企画庁


はじめに

 1997年の世界経済をみると、アメリカでは、7年に及ぶ景気拡大の中で、失業率の一層の低下と低インフレが実現され、企業利益の増大などを要因として、資本を引きつけている。欧州では、主権を異にする諸国の間に共通通貨を流通させるという壮大な実験が始まろうとしている。一方、ASEANなど新興経済諸国の中には、過大評価された自国通貨によって、資本が流出し、通貨が減価した国も出ている。

 このように世界経済を概観すると、世界市場が一体化する中で、特に金融面でのグローバル化が進み、それが世界経済にも大きな影響を与えていることが理解される。資本が自由に動く中で、安い資金調達コストと効率的な運用がより一層求められている。金融システムにおいて、世界的な規模での制度間競争が生じており、各国の金融システムも変革を迫られている。

 現在、アメリカでは、銀行、証券を分離していたグラス・スティーガル法の改正が議論され、より効率的な金融システムに向けて規制の見直しが進んでいる。イギリスは86年のビッグ・バン(証券市場の規制撤廃)により、ニューヨークにならぶ国際金融市場の地位を維持している。イギリスに刺激されて、ドイツでもフランスでも資本市場の改革を進めている。さらに、アジアでは、香港やシンガポールは金融関連規制の撤廃を行い、発展するアジア地域の金融取引の核として発展を遂げてきた。

 このように、金融システムの変革が進んできた欧米諸国、香港、シンガポールに対して、タイなどのASEAN諸国は、現在金融・通貨の問題に悩まされている。アジアの成長テンポは現在も依然として高いものの、不良債権の影響が懸念されている。

本年度の白書は、このような問題意識に沿って、諸外国の事例の紹介と分析を行っている。第1章で世界経済情勢の年間レビューを行い、地域毎に主要なトピックをとり上げる。第2章では、金融の技術革新やグローバル化の中で、各国で行われた金融自由化および金融システム改革について、その要因と影響を分析する。

第1章 世界経済の現況

《第1章のポイント》

[世界経済の概観]

・世界経済は、96年には途上国を中心に景気の拡大テンポは高まった。

97年も全体として引き続き拡大テンポが高まるものと見られている。

[南北アメリカ]

・アメリカ経済は、97年3月で景気拡大が7年目に入った。近年の情報化の進展に伴う設備投資の増加や、雇用の拡大に伴う消費の増加拡 大を支えている。アメリカ経済が新しい段階に入ったとする「ニュー・エコノミー論」を検討すると、生産性上昇のデータはないが伸縮的な労働市場により、失業率と物価上昇率は四半世紀ぶりの低水準にある。

・中南米では、メキシコ、ブラジルで景気が拡大している。

[ヨーロッパ]

・96年後半から緩やかに改善していたヨーロッパの景気は、97年にはイギリスを始め回復している。失業率は、ドイツ、フランス等において高水準で推移しているが、物価は全般的に安定している。

・中・東ヨーロッパは97年に成長率が加速するものとみられる。ロシアは 下げ止まりの兆しがみられる。

[アジア]

・アジアは、総じて景気は鈍化している。ASEAN諸国では通貨が減価し、景気が大幅に減速している国がある。

・通貨減価の理由は、ドルにほぼ固定したことによる自国通貨の過大評価、経常収支赤字を支えていた外資が必ずしも生産的に用いられていなかったこと等である。

[国際金融]

・97年に入ってドルは増価し、アメリカ・欧州の株価は上昇した。国際商品と原油は96年後半下降に転じて以降調整局面にある。

第1-1-1表

第1章 世界経済の現況

第1節 拡大続く世界経済

第2節 拡大局面7年目に入ったアメリカ経済

アメリカの好況とニュー・エコノミー論

 「ニュー・エコノミー論」とは、アメリカ経済の生産性はこれまでに比べて上昇したとする見方や、過去の景気成熟期でみられた過熱・後退といった循環のパターンが弱まっているなどとする見方である。「ニュー・エコノミー論」を巡る論拠のうち、生産性の上昇を中心に検討する。

(加速していない労働生産性の上昇率)

生産性がこれまでに比べ本当に上昇しているのかをみるために、労働生産性(実質GDP/総労働時間(労働投入量))の年平均上昇率を谷-谷、山-山で整理した(第1-2-3表)。90~96年の年平均上昇率は 0.9%で、60年代のみならず、70年代、80年代よりも低下している。現在推計されている実質GDPや消費者物価指数に推計上の問題があり、生産性の上昇率は本当はもっと大きいという議論はあるが、その様な議論が正しいという証拠はない。結局のところ、90年代、もしくは80年代においても、アメリカ経済の生産性上昇率が高まったとするニュー・エコノミー論を支えるデータは存在しない。

(アメリカ経済に何が起きているか)

 ニュー・エコノミー論が想定しているような生産性の大幅な上昇という状況が現実に起こっている可能性は小さい。しかし、アメリカ経済が、失業率の低下と低インフレを達成し、長期的な拡大局面が続いていることは事実である。97年1~9月期の悲惨指数(失業率と消費者物価上昇率の和)は 7.5%ポイントと、1968年以来29年ぶりの低水準となった(第1-2-4図)。これは、現実に労働市場が大きく改善されたと考えるべきことである。

(低インフレ要因:雇用コストの伸びの低下)

そこで、労働市場に着目し、失業率の低下と低インフレが両立している要因を検討する。雇用コスト指数をみると、企業の負担する社会保険等諸手当の伸びは、96年、97年1~6月においても賃金の伸びを下回っている。これは、雇用主側が、労働者の加入する保険のカバレッジを縮小している(保険が支払われる検査項目や病名を限定したパッケージや出来高払いから定額払いへのパッケージへの切替えなど)ためである。

 賃金自体の伸びが80年代に比して緩やかになった要因としては、労働組合の組織率の低下が指摘できる。労働組合に加入している労働者は80年代前半以降、生活費調整条項(COLA:Cost of Living Adjustment Clauses)などにより賃金の物価調整を受けていたが、労働組合への加入者の割合が経済全体で低下した現在、その物価全体への影響は弱まっている。以上のように、諸手当て、賃金の双方の要因から雇用コストの伸びは低下しており、これが低インフレの要因となっている。

(低インフレ要因:FRBの金融政策)

 次に、低インフレの要因として、インフレが顕在化する前に適切な金融引締めが行われていたことが挙げられる。過去の鉱工業生産指数と、消費者物価上昇率やFFレートの動きを80年代と90年代とで比べてみた。景気後退期におけるFFレートの引下げのタイミング、インフレが懸念された時期の引上げのタイミングは、80年代よりも90年代の方が早い。そのため、鉱工業生産指数の落ち込みは、80年代よりも90年代の方が緩やかになっている(第1-2-6図)。すなわち、80年代半ば以降の金融政策は、インフレを加速する景気過熱が生ずる以前に緩やかな引締めが行われており、70年代、80年代初期のインフレが加速してから厳しい引締めを行い、景気の谷も深くするという政策運営と対照を成している。

 このように、アメリカ経済の拡大は、97年に入ってからは賃金の上昇率が徐々に高まる中で、伸縮的な労働市場や適切な金融政策により、全般的な物価の上昇が抑えられるという微妙なバランスの上に達成されている。一方で、80年から96年までで実質GDPは50%伸びたが、そのうち27%は企業利潤、22%は労働時間の増加によるもので、時間当たりの実質労働報酬(企業の社会保険負担などを含む)は1%しか増加しておらず(第1-2-7図)、この意味ではアメリカ経済の好調にも限界があると言えよう。しかし、経済全体としては、パイがより多くの人々に分配され、企業の分け前も着実に増加したことが示されており、これが長期的な景気拡大の原動力ともなった。今後とも伸縮的な労働市場によって増加する企業収益が生産性を上昇させる新規の投資へとつながれば、景気拡大が持続する可能性がある。また、エネルギー関係など90年代に入って、規制緩和の動きが加速した業界もあり、これらのもたらす経済的効果も景気拡大の要因として考慮する必要がある。

メキシコ:通貨危機後、景気拡大とインフレ低下の両立

(通貨危機の要因)

 メキシコでは、94年12月に通貨危機(ペソの暴落:通貨危機前の94年11月1ドル=3.44ペソ→95年3月6.70ペソとなり、48.7%の下落(IMF方式))が生じたが、95年2月のアメリカ主導による国際金融支援(アメリカからは200億ドル、IMFからは178億ドルの融資)、3月の政府の緊縮経済プログラムの実施により、3月下旬には落ち着きを取り戻した。緊縮経済プログラムでは、歳出削減策として95年の歳出を予算案の 4.7%削減(94年度比 9.8%削減)し、歳入増加策として付加価値税の引上げ(10%→15%)などを行った。

通貨危機が生じた要因は、・インフレ抑制のために、対ドル・レートの安定を重視した為替政策を採用していたことによる割高な為替レート、・経常収支赤字の拡大、・短期資本への依存、・財政収支の悪化などである。

(通貨危機からの回復)

 95年前半は、緊縮的政策により国内需要が落ち込み、景気は悪化したが、95年央以降、ペソ安とアメリカの景気拡大に伴う輸出増により回復してきた(第1-2-9図)。96年は、堅調な輸出により一層回復のテンポが増し、4~6月期には民間投資及び輸入も増加に転じた。97年に入ってからは、投資主導で拡大が続いている。実質GDP成長率は、94年 4.4%増、95年 6.2%減、96年 5.1%増、97年1~3月期前年同期比 5.1%増、4~6月期同 8.8%増となった(第1-2-10図)。通貨危機以降の緊縮的な財政政策により、利払いを除いたプライマリー財政収支のGDP比は、94年 2.4%、95年 4.7%の黒字と改善し、96年も 4.3%(暫定値)となった。

消費者物価上昇率は、ペソ下落後の95年に急騰したが、96年から低下が続いている(95年前年比35.0%,96年同34.4%、97年8月前年同月比19.2%)。国際収支をみると、貿易収支は、95年はペソ安、アメリカの景気拡大に伴う輸出増により黒字に転じ、経常収支赤字も大幅に縮小した。96年年央までこの傾向が続いていたが、7~9月期以降、投資の高まりにより資本財輸入が急増する一方、輸出は10~12月期からの石油価格の下落、ペソ高により伸びが鈍化し、経常収支赤字は増加している。しかし、赤字額は通貨危機前に比べて小さく、GDP比も94年4~6月期 7.7%と比較すると、97年4~6月期 1.4%と小さくなっている。

第3節 緩やかな景気回復が見られるヨーロッパ

(EUの深化と拡大に向けた取組)

 EUでは、主権を異にする国の間で共通の通貨を流通させる壮大な試みが始まろうとしている。欧州経済通貨統合(EMU:Economic and Monetary Union)は、99年1月1日よりスタートするが、そのための諸々の準備が進められている。

(通貨統合の準備状況)

 単一通貨の導入に向けた準備は、3つの段階に分けて行われることとなっている(第1-3-2図)。その第1段階では、資本移動の自由化と各国の経済状況・政策に関するサーベイランスの強化が実施され、第2段階では、欧州通貨機関(EMI:European Monetary In-stitute)が設立されるとともに、各国の中央銀行制度の見直しなどが行われている。今後、98年の春を目途に通貨統合への当初参加国を決定し、その後、各国通貨間の交換レートを決定することとなる。

 通貨統合の第3段階である99年以後は、新通貨「ユーロ(euro)」が導入され、各国通貨はユーロ及び他の通貨統合参加国通貨に対して固定され、金融機関の多くはバランスシートの資産・負債項目をユーロ建てで計算することとなる。消費活動等のための商取引は各国通貨で行われるが、遅くとも2002年には紙幣とコインも現実に流通することとなっている。

(単一通貨の安定性と財政規律)

各国は単一通貨の安定性のために、通貨統合の参加にあたり、マーストリヒト条約の5つの収斂条件(物価、金利、為替相場、単年度財政赤字、政府累積債務)を達成することが求められている。

このうち、特に財政赤字については、収斂条件の達成の度合が各国で差があり、また、強いユーロを目指してきたドイツ自身の財政赤字達成が不可能となるのではないかという観測が高まっており、この基準が注目されている。

97年10月の欧州委員会による見通しをみると、各国とも財政赤字の収斂基準を達成する動きを示している(第1-3-4図)。しかし、3.0%の厳格な達成の不可能ないくつかの加盟国が、会計的操作などを行って通貨統合に参加しようとしている、という見方があり、依然として、通貨価値の下落が生じ易い、弱いユーロになるとの観測が強い。

第4節 ASEAN諸国の通貨減価とその要因

ASEAN諸国の通貨は97年に入って不安定化している。タイ・バーツは、97年7月2日、それまでの通貨バスケット制から管理フロート制へと為替制度を変更した。この結果タイ・バーツの対米ドル・レートは約31%減価(9月末の6月末比)した。フィリピン・ペソ、インドネシア・ルピア、マレイシア・リンギ等も7月以降大きく減価している。

タイにおける大幅な通貨減価は、・自国通貨を米ドルにほぼ固定する為替政策により通貨が過大評価となり、経常収支の赤字が拡大していたこと、・経常収支の赤字が金融自由化と国内高金利、米ドルにほぼ固定されていた為替レートによる資本流入によって支えられていたこと、・流入資本のうち不動産投資等必ずしも生産的でない資金使途から生じた金融不安及び株価低迷による資本流出、等によるものと考えられる。

(米ドルとの固定性を重視した為替政策)

 通貨バスケット制の下でのタイ・バーツの実質実効レートの動きをみると、90年代前半には、タイの物価上昇率はアメリカより相対的に高く、米ドルに対する実質レートは増価傾向にあった。対円でみると、円が米ドルに対し趨勢的に増価したため、米ドルと連動性の高いタイ・バーツの円に対する実質レートは減価していた。この結果、貿易ウェイトで加重平均した実質実効レートはおおむね安定的に推移してきた。しかし、95年後半以降は円が米ドルに対し減価に転じことから、タイ・バーツの実質実効レートは増価に転じた(1-4-4図)。これが96年のタイの輸出不振と経常収支の赤字拡大をもたらし、名目レート 減価の要因となった。なお、タイの輸出不振には、輸出品目で競合の多い中国の通貨(元)の94年の対米ドルレートで約33%の切下げも影響を及ぼしているものとみられる。

(金融自由化と経常収支の赤字拡大)

タイでは、88年以降、日本などから高水準の直接投資が流入していたが、90年代前半には、日本の直接投資の中国等へのシフト、タイ企業による対外直接投資の増加などから、ネットの直接投資は減少している。その減少分を補填したのが、90年代になって急増した借入を中心とした直接投資以外の資本流入(主に民間の短期資金の借入)である(第1-4-6図)

 資本流入が拡大した要因としては、・90年から93年にかけて実施された金融自由化(特に93年のバンコクオフショア市場の開設)、・海外のドル建てに比べて国内のバーツ建ての金利が高かったこと、・ドルにほぼ固定された為替レートにより為替リスクが認識されていなかったことなどがあったが、一方 でタイも積極的に外資を取り入れていた(第1-4-8図)。高水準の資本流入は、それまでの直接投資に代わって国内の大幅な投資超過を可能にし、経常収支の大幅な赤字拡大をもたらした。

(外資政策の変更による不良債権の顕在化)

大量に流入した資本は、一方で輸出産業の設備投資など直接投資の減少に伴う不足資本の補填に使われたが、他方で相当量が不動産投資等、外貨の獲得に貢献することの少ない産業への投資に向けられたとみられる。タイの銀行の建設、不動産、金融業(金融業の多くはファイナンス・カンパニーであり資金は不動産業に貸し付けられた)への貸出額をみると、85年の807億バーツから、90年には3,132億バーツ、95年には9,252億バーツとな った(第1-4-9図)。この資金が90年以降の不動産市況の悪化の際も、それら企業の経営を下支えしていた。不動産市場の市況を表す指標として、バンコクのオフィス供給動向をみると、空室率が高いままで大量の供給が続いている(第1-4-10図)

ところが95年10月に外資政策が変更され、銀行が外貨貸出の際の為替リスクを部分的に負担しなければならなくなったため、銀行の外貨貸出は抑制され、不動産業への資金供給にも急ブレーキがかかった。このため資金不足から不動産業の経営が立ち行かなくなり、金融機関の不良債権が顕在化した。タイ政府によると、97年6月の商業銀行の不良債権額は3,700億バーツで、総貸出額に占める不良債権比率は8.17%であった。こうした中で97年6月と8月にはファイナンス・カンパニー91社のうちあわせて58社が営業停止処分になるなど、国内でも金融不安が生じている。こうした金融不安は、株安をもたらし、タイに対する証券投資などの資金流入を縮小させている。

(金融面での対応策と今後の経済への影響)

 為替の大幅減価に対して、97年8月5日タイ政府は10項目からなる包括的経済再建策を発表し、これを受ける形で8月11日IMFを中心とする公的支援策がとりまとめられた。

 包括的経済再建策の主な内容は、対外面では外貨準備の確保、経常収支赤字の抑制などからなり、国内面ではインフレ抑制、財政安定、金融システムの改革などからなる。具体的には付加価値税の引上げ(7%から10%へ)、公共料金の引上げ(電力、水道など)、IMFに対する金融支援の要請などである。

IMFを中心する支援策は、総額約160億ドル程度の融資である。融資の内訳は、IMFと日本がそれぞれ40億ドル、世銀等が約30億ドル、東アジア諸国等で50億ドルである(その後、中国の10億ドル等が加わり、総額で172億ドルとな っている(97年9月現在))。

タイ経済への今後の影響としては、緊縮的な包括的経済再建策の実施により実体経済の悪化が予想される。タイ中央銀行の見通しによると、97年の経済成長率は2.5~3.0%程度と96年の6.4%に比べかなりの低成長になるとしている。

(他のASEAN諸国通貨の動向)

 タイ・バーツの減価にあわせて、周辺のASEAN諸国の通貨も7月以降減価している。これは、程度の差はみられるものの、いずれもタイと同様、ドルとの固定性の高い為替政策がとられており、この結果、実質実効為替レートが増価し輸出競争力の減退をきたしていたこと、金融自由化などにより資本流入が拡大しているが、こうした資本が必ずしも生産的な投資に向けられていなかったり、過大・不急のプロジェクト建設に向けられたりしたことから、経常収支赤字が各国とも必要以上に高水準となってしまっていること、などによるものである(第1-4-11図)

 フィリピンでは、タイが管理フロート制に変更した後、ペソ売りの動きが強まり、通貨当局は介入や金利引上げで対応していたが、7月11日に米ドルに対する許容変動範囲の拡大を発表した。この結果、フィリピン・ペソは約23%の減価(9月末の6月末比)となった。インドネシアでも、タイ・バーツの為替制度変更の後ルピアに売り圧力が強まり、7月11日ルピアの対ドル変動幅を従来の8%から12%へと拡大した。その後も通貨の売り圧力は続き、8月14日には変動幅の管理を廃止し完全変動相場制に移行した。インドネシア・ルピアは約26%減価(同上)となっている。マレイシア・リンギは、当初、減価は小幅であったが、最近徐々に減価幅は拡大してきており約22%の減価(同上)となっている。

 今後の経済動向については、フィリピン、インドネシア、マレイシアの各国とも、通貨減価に伴う金融引締めから金利が上昇していること、大規模なプロジェクトの延期・中止などの措置がとられていることなどから緩やかな減速が見込まれる。

 また、他のアジア諸国でも通貨は総じて下落している。香港では、対ドルレート維持のために金利が上昇したことから株価が急落した。その影響を受けて、世界的にも株価は不安定な動きとなっている。

第2章 金融制度の改革

《第2章のポイント》

[改革の要因と概要]

・世界的に、金融制度についての競争制限的な規制は緩和されているが、 信用秩序維持のための規制は強化されている。

[業態間競争の激化 -業務分野規制の撤廃-]

・各国とも経営の健全性維持と利益相反問題発生防止のため、業務分野規 制が課せられていたが、その効果には幾つかの疑問点が存在していた。

・国際競争激化と証券化進展の中で、アメリカでは、実質的に垣根が消失 しつつあり、「範囲の経済」を重視して規制の見直しが進展中である。

・また、この規制がないドイツでも、ユニバーサルバンクによってもたら される危険性は、特に確認できない。

[制度間競争によって進展する各国金融市場改革]

・世界の資本は効率性の良い市場を求めて自由に移動し始めている。金融 市場間の競争によって、一国の金融制度改革は他国に波及している。

・イギリスでは他の欧州諸国に先駆け、86年にビッグ・バンを実施し、国 内における金融産業の重要性が高まった。また、ドイツ、フランスなど  の大陸欧州諸国もイギリスを追って金融市場改革を行っている。

・アジアでは、香港、シンガポールが国際金融市場として発展している。

[公的貯蓄制度の動向]

・金融制度改革の流れの中で、公的貯蓄制度も商品の多様化などサービス  の拡充を図っている。なお、ドイツ、フランス、イタリアの郵便貯金  は、公社化あるいは株式会社化されている。

[金融の自由化と金融政策]

・金融自由化が進む中、名目GDPとマネーサプライとの関係は国、時期  により不安定化している。ドイツの中央銀行などでは、ルールによる金 融政策が採用されており、インフレ率を低下させるために重要なのは、 どのような金融政策を行ってきたかであると考えられる。

第2章 金融制度の改革

第1節 改革の要因と概要

 本節では、まず欧米主要国などで進展している金融システムの規制緩和・自由化の概要について整理し、金融システムと規制の関係、金融システムの監督制度についてまとめ、最後に金融システム改革の結果、金融業にどのようなことが起きたかをみる。

(各国で進展する金融システムの規制緩和・自由化)

 欧米主要国における金融システムに対する規制緩和の進展状況をみると、価格規制である預金金利規制は、欧米主要国では60年代後半より自由化が始まり、90年代前半には既に撤廃されている(第2-1-1表)。資本市場における証券売買手数料規制も既に撤廃されている。業務分野規制の緩和については、銀行・証券分野規制は、80年代半ば頃より徐々に各国で垣根が撤廃されている。金融市場の国際化を加速する為替管理の撤廃も、ドイツは61年に、イギリスは79年に実施され、フランス、イタリアは90年に実施されるなど、主要国においては完了している。

(経済のグローバリゼーション)

 金融システムの規制緩和・自由化が行われた要因としては、80年代に入り、経済のグローバリゼーションが進んだことが挙げられる。グローバル化の進展により、企業が世界的な視野で最も効率的な地域で事業を行うようになり、それに伴い、資金も国境を越えて最も効率的な市場を目指して集まるようになっている。金融市場のグローバル化をみるため、世界の資金移動を国際収支表の資本収支でみると、アメリカから全世界に向けて流出・流入した資金は、90年では1,440億ドルだったが、96年には8,318億ドルと5.8倍に増加している(第2-1-4図)

(セキュリタイゼーションとディスインターミディエーションの進展)

 70年代に入ってセキュリタイゼーション(証券化)とディスインターミディエーション(非金融仲介化)が進展したことも、金融システム改革を促した要因となった。セキュリタイゼーションとは、資産及び負債の証券化が進展することであり、企業の資金調達が貸付から証券発行にシフトすることや、債権を証券化して売買することであり、貸付と証券発行の区別が曖昧になり、両者が融合していくことをいう。セキュリタイゼーションの進展は、資金調達構成において銀行借入(間接金融)のウエイトが低下し、資本市場から直接資金を調達する(直接金融)ウエイトが高まる、ディスインターミディエーションを引き起こした。アメリカの企業の資金調達構成をみると、70年代央以降、銀行融資のシェアは一段と低下傾向を示している(第2-1-2図)。また、アメリカの家計金融資産を種類別にみると、銀行預金のシェアは70年代央頃をピークに急速に低下している(第2-1-3図)

(金融機関が望んだ金融自由化)

 金融システムの規制緩和・自由化が進んだ要因としては、・規制が金融機関の収益の低下や効率性低下の要因となっていることが認識されるようになり、金融機関の効率性低下は、金融業がすべての産業のインフラであることから、すべての産業の効率性低下をもたらすことが懸念されるようになったこと、・銀行、証券がそれぞれの業務に参入することにより、範囲の経済が働き、高い収益が得られると見込んだことにより、金融機関自らが規制緩和を望んだこと、があげられる。

(金融システムにとって真に必要な規制)

 金融自由化・国際化が進展し、金融機関の競争が激しくなれば、金融機関の経営が破綻する可能性が増大する。そのような状況の中で、信用秩序の維持、預金者保護を確保しつつ、金融システムの安定性を高めるためには、業態規制などの競争制限的規制によるのではなく、預金保険制度、情報開示規制、自己資本比率規制の一層の強化・拡充や早期是正措置の導入等により対応していくことが各国の流れとなっている。

(金融制度改革の影響)

 金融システムの規制緩和・自由化の中で、金融業がどのような状況にあったかをみると、GDPに占める金融部門のシェアは、アメリカは70年代初から、イギリスは80年代央から90年代央までシェアを拡大させている(第2-1-7図)。ドイツ、フランス、日本でも、アメリカ、イギリスに比べ緩やかではあるが、70年代初から90年代初まで金融業のシェアは拡大している。金融業賃金の製造業比をみると、ドイツ、フランス、日本は80年代後半以降90年代半ばまでほぼ横ばいである。アメリカ、イギリスでは80年代半ば以降をみると、金融業の相対賃金は高まってきている(第2-1-9図)

第2節 業態間競争の激化-業務分野規制の撤廃-

1.アメリカの業態間参入規制について

(疑問が残る業態間参入規制の立法趣旨)

アメリカでは、信用秩序の維持と利益相反問題発生を防止するために、銀行業と証券業を分離するグラス・スティーガル法などの規制が課せられてきた。しかし、その規制の前提となった、銀証兼営における「明白な危険性(証券引受など投資銀行業務のリスクが商業銀行業務のリスクよりも高い)」や「利益相反(融資返済などのため、経営不振となった融資先に証券を発行させ、一般投資家に販売するような行為)」には疑問が呈せられていた。

第1の「明白な危険」では、貸付業務においても、貸し倒れリスクや不良債権となるリスクが存在するため、投資銀行業務が不健全な債券を保有することと同等のリスクを持っていると考えられる。実際に、大恐慌時の両業務の損失を各々の資産に対する割合でみると、1932年以降は貸付業務の損失率の方が高かった(第2-2-3 図)

また、第2の「利益相反問題」では、そのような行為は銀行の評判を著しく低下させ、以後の業務の支障となるため、利益相反行為が行われる可能性は小さいと考えられる。さらに、1933年証券法により、企業は事前に証券発行により得た資金の使途を開示しなければならず、この様な危険性は起こり得ないと考えられる。

(実質的な業態間の垣根消失と制度改革の行方)

一方、80年代に入ってからのセキュリタイゼーションの本格化は、商業銀行の総収入における貸付利子収入のウェイト低下をもたらした(第2-2-4 図)。商業銀行の証券業務への積極的な参入を通じて、業務や商品の境界線が不明確となり、実質的な垣根消失が起こってきた。

また、国際間競争の激化の中で、他国の金融機関に対する優位性確保のため、「範囲の経済」享受を前提とした経営基盤の一層の強化が必要との認識も高まってきており、時代に即した法改正が重要視されつつある。97年の議会では、これまで対立していた各業界の利害も、相互参入を前提とした法改正を行うことで一致、議論の焦点は、各金融業態間の参入規制の問題ではなく、・一般事業との兼営をどの程度認めるか、・各業態の監督体制をどの様な形で割り当てるか、という点にシフトしている。

2 ドイツのユニバーサル・バンク制度にみる事例

現在、世界の多くで、銀行業務と証券業務を一つの銀行で行うことのできるユニバーサル・バンク制度への移行の動きがみられるが、ユニバーサル・バンク制度への移行は、株式市場の発展を阻害するなどの批判もある。

(ドイツにおける資本市場の発展と規制)

ドイツの例をみると、確かに、株式市場が未発達となっている。しかし、株式市場の発展が遅れている要因は、ドイツの企業が有限会社形態をとり、借入による資金調達を好むことに並んで、株式市場において諸規制が存在したことである。個人部門の資産構成をみると、預金比率が低下を続ける中で、株式の比率は一連の市場改革がなされた90年代に上昇している(第2-2-7図)

ドイツにおいては、ユニバーサル・バンク制度の枠組みに変更がないままで資本市場における規制緩和を行ったところ、不十分ながらも資本市場の発展がみられた。このことから、資本市場の発展を阻害していたのは、ユニバーサル・バンク制度ではなく、資本市場における諸規制であると推測できる。

第3節 制度間競争によって進展する各国金融市場の改革

 本節では、各国の金融市場改革を「金融市場の制度間競争」という視点から考察する。各国の金融市場(特に証券市場)は、資本移動の自由化や技術革新による金融サービスの取引コスト低下によって、お互いの競合関係が明らかになってきた。自由な資本は、非効率で高コストの市場を嫌い、利便性が高く低コストの市場を求めて移動する。ある市場の制度改革は、周辺市場へ波及する傾向を持ち、1980年代から本格化した先進各国の金融市場改革は、そうした制度間の競争という力によって押し進められてきたと見ることができる。

1 イギリスのビッグ・バン

 イギリスの「ビッグ・バン」は、86年10月に行われた。ビッグ・バンとは、イギリス証券市場の制度改革、具体的にはロンドン証券取引所の制度改革である。ビッグ・バン以前のロンドン証券取引所では、単一資格制度や固定手数料制度などの旧態依然とした制度によって取引業者が保護されており、当時台頭してきた機関投資家の新しいニーズに応えられなくなっていた。

(売買手数料の自由化)

 証券業務に対する新規参入規制の撤廃と手数料が自由化されたことによって、証券取引に関するコストは低下した。ビッグ・バン以前のロンドン証券取引所の売買手数料には最低手数料を業者間で固定していたことに加え、高率の印紙税が取引毎に課されていたため、取引コスト上での国際競争力を失いつつあった。その結果、イギリス企業株式が米国ADR市場で取引されるといった現象を引き起こした。こうした事態に対処するために、86年に株式・債券の固定手数料制度は廃止され、完全に自由化された。

(手数料はビッグバン後、約半分に低下し、その後横ばい)

 手数料の自由化は、平均手数料を低下させた。イングランド銀行の調査(87年2月公表)によると、株式の平均手数料率は半分以下にまで低下した。さらに、印紙税率の引下げが実施された結果(1%から0.5%へ引下げ)、手数料に印紙税コストを含めた総コストでも、同 1.8%から 0.9~ 1.1%まで大幅に低下した。しかし、大口の取引手数料はビッグ・バン直後に劇的に低下した後は、ほぼ横ばいで推移しており、小口の取引が多い個人投資家の平均手数料率を見ても、ビッグ・バン直後にやや上昇し、その後は1%前後で横ばいで推移している(第2-3-2図)。手数料が下げ止まっている要因としては、手数料率の中に、(1)資産管理料や、(2)ソフト・コミッション(コンピューター端末の設置、情報・調査レポートの提供)などが含まれている場合が多く、正確に取引コストを反映しなくなってきているためであると考えられる。また、イギリスの株式売買手数料の平均をアメリカ、日本と比較してみると、イギリスでは売買額の 0.25%(94年)であるが、アメリカでは0.37%(96年)、日本では0.46%(96年)であり、低くなっている(第2-3-3表)

(金融業界の再編)

 86年3月の出資比率規制の完全撤廃で、外部からロンドン証券取引所会員業者への資本参加が可能となり、その結果、伝統的に棲み分けがなされていた銀行と証券の垣根は完全に崩れ去った。出資規制の完全撤廃によって、これまで取引所の会員としては締め出されていた国内外の金融機関が従来の会員への資本参加という形式で証券業務に参加することとなった。86年当時200社以上存在していたジョバーとブローカーに、ビッグ・バン直後に内外の金融機関65社が新規に資本参加することとなった。イギリス系銀行が14社、その他のイギリス系金融機関が16社、欧州の銀行が12社となり、目立った動きを見せている(第2-3-4表)

(イギリス金融業界の再編)

 ビッグ・バン後のイギリスの証券市場は競争激化の時代に突入した。株式手数料収入の低下に加えて、87年秋の株価急落による株式売買高の低下によって証券業務の収益は低下した。また、買収に関わる初期投資や、システム投資の負担も収益を圧迫し、新規に証券業務に参入した機関の中には早々に撤退を迫られる者も出てきた。また、90年代に入ってからは、欧州大陸系銀行を中心に、証券業務や国際分散投資のノウハウを持つイギリスのマーチャント・バンクを買収する動きが盛んになっている(第2-3-5図)

(国内総生産に見る金融産業の位置づけ)

 第1節で見た通り、イギリスの金融関連産業の国内総生産に占める割合は順調に拡大してきている。ここでは、金融関連産業の生み出す付加価値について更に詳細に見ていくことにする。

 金融セクター(銀行・保険業)の付加価値の伸びが、全産業の伸びを大きく上回っている。ビッグ・バンが行われた86年から96年の二時点間で比較してみると、全産業が24%拡大したのに対して、金融セクターはその2倍以上の49%も拡大している。

 British Invisibles 研究所 "UK Financial Trends & World Invisible Trade 1996"によると、金融セクターの中でも個人年金市場の拡大を背景として、保険や年金、投資顧問業は80年代に年平均10%以上で拡大し、銀行業の伸びを大きく上回った。また、シティを中心としたロンドンの国際金融センター化に伴って、金融周辺産業の集積が進展している。金融セクターの生産(GDPベース)に金融周辺産業(会計、法務、コンサルティング)の3つのビジネス・サービスを加えると、そのGDPに占めるシェアは95年に10%を超えている。

(金融産業の雇用動向)

 イギリスにおける金融セクターの雇用者数は、全産業の雇用者数の増大テンポよりも順調に増大している。84年9月金融・ビジネスサービス部門の雇用者数は177万人だったが、3年後の87年9月には32万人増加して209万人となった。この中で雇用者数の最も大きな拡大が生じたのは、金融関連のその他のビジネス部門(会計、コンピュータ・サービス、法務など)である。なお、この間のイギリスの全雇用者数は 43万人しか増加していないので、全雇用増のうちの約75%を金融・ビジネスサービスがもたらしたことになる。(第2-3-6表)

(金融取引はイギリスの重要な収入源)

 ビッグ・バン後、イギリス金融資本市場は、80年代前半の空洞化懸念から脱し、ロンドンを中心に伝統的に強みのあった国際分散投資業務を中心とした国際金融センターとしての地位を確立した。これらの国際取引は、イギリス金融市場に手数料収入の増加をもたらし、現在では国際取引上の重要な収入源となっている。

(先進主要国で際立つイギリスの金融・保険サービス収支黒字)

 イギリスの国際収支表に注目してみると、金融・保険サービス収支黒字が大きいことが特徴である。これには、・アメリカや大陸欧州の年金基金などの機関投資家が国際分散投資経験の豊富なイギリス系投資顧問に資金運用を委託するケースが増加したこと、・外国株式取引の増大、・ロンドン市場におけるユーロ債の引受手数料の増大、などの要因が考えられる。イギリスの金融・保険サービス収支の大きさを、先進各国と比較してみる。イギリスの金融・保険サービス収支は、96年99.9億ドル(GDP比0.9%)となっている。一方、アメリカ、日本の金融・保険サービス収支は、アメリカが96年23.2億ドル(同0.03%)の黒字、日本は同15.7億ドル(同▲0.03%)の赤字となっている。また、ドイツ、フランスの金融・保険サービス収支は、ドイツ96年17.0億ドル(同0.07%)、フランス同 2.2億ドル(同0.01%)となっており、イギリスの金融・保険サービス収支黒字の大きさが際立っている(第2-3-8図)

2 通貨統合をめぐる欧州金融改革の動き~競争と協調~

 ドイツ・フランスなど大陸ヨーロッパ諸国は、「ビッグ・バン」により、ロンドン金融市場の利便性が高まった結果、自国の金融市場の相対的な地位が低下することに懸念を抱き、国際的な制度間競争を強く認識するようになった。

 フランスでは、「ビッグ・バン」から1年3カ月後の1988年1月より「フランス版ビッグ・バン(プチ・バン) 」と呼ばれる証券市場改革が行われ、ドイツでは、さらに2年後の90年1月に「第1次資本市場改革」が行われた(第2-3-10図)。フランスの証券市場改革は内容的にもイギリスの「ビッグ・バン」に似たものであるが、ドイツの資本市場改革は段階的に進められている。改革は同時に、EU域内で行われていたヒト、モノ、カネの移動の自由化という観点から出された数々のEC指令の具体化という性格も有している。

(情報システム間の競争)

 証券市場改革に先駆け、情報システムでは既に各国の競争が始まっていた。85年にイギリスSEAQインターナショナルが創設され、その利便性からドイツ、フランス株式のロンドン市場への注文流出が顕著になったことから、システムの整備が急がれることとなった。86年6月には、フランスでCACシステム(継続取引システム:Cotation Assistee en Continue)が導入され、89年にはドイツでIBISシステム(銀行間株価気配情報システム:Interbank Information System)が導入されている。

(ドイツの証券市場改革)

 ドイツは、80年代に資本流出を経験し(第2-3-11図)、またイギリス、フランスの証券市場改革を目の当たりにして、資本市場改革に着手することとなった。90年の第1次資本市場振興法で、有価証券取引税等の廃止、情報システム・インフラの整備が行われた。94年には、第2次資本市場振興法で、インサイダー取引規制を定めた「証券の売買取引に関する法律」が制定されたほか、取引所監督を強化するなど、主要なEC指令を国内法に反映させるための法改正が行われた。97年7月には、第3次資本市場振興法が閣議決定され、98年からの施行を予定している。この柱は、外国企業に対する証券発行手続きの簡素化などの緩和を行う一方で、投資家保護のための証券取引監督局の強化を行うこと、投資信託の運用規制を緩和し、また投資信託の新商品を市場に導入することなどである。

(フランス版ビッグ・バン)

 フランスでは、88年1月に「証券市場改革に関する法律」が施行、・証券取引所会員(以下会員会社と略記)が法人化され、・会員会社に対する資本参加の自由化、・監督体制の整備・再編が行われた。続いて89年7月には、会員会社にブローカー業務に加えてディーリング業務と短期金融市場関連業務の兼業が認められたとともに、証券売買手数料が自由化(ただし、小口注文の手数料については経済・財政・予算省が指導)された。一連の改革は「フランス版ビッグ・バン(プチ・バン)」と呼ばれている。

(資本市場改革の効果)

 ドイツの2度にわたる改革は、証券市場の拡大、活性化という成果を十分にはもたらさなかった。株式による企業の資金調達額は、94年には約 290億マルクと過去最高となったものの、95年、96年と再び減少し、96年は約 140億マルク(ドイツテレコムの民営化による株式放出分を除く)となった。フランスでは、株式による資金調達額は、87年の157 億フランから89年には247 億フランと大幅に拡大し、近年も高水準で推移している(第2-3-13図)。一方、競争激化により金融機関の再編・淘汰が進み、90年末に 2,027社あった金融機関は95年末には 1,445社に減少した(第2-3-16表)

(大陸欧州の協調:証券取引所の連携)

 大陸ヨーロッパ諸国では、一連の資本市場振興策と同時に、国を越えた証券取引所どうしの連携を図る動きが出てきた。

 96年2月、フランスにベンチャー向け新興市場(ヌーボー・マルシェ)が創設されたのを始めとして、97年には、1月にベルギー(ユーロNMベルギー:EURO.NM Belgium )、2月にオランダ(ニューイ・マルクト:Nieuwe Markt)、3月にはドイツ(ノイアー・マルクト:Neuer Markt )と、新興市場が相次いで創設された。これらの4市場は、市場の利便性に関する基準を均質化しネットワークを結び、「ユーロNM(EURO.NM )」を設立することを計画している。

 また97年9月には、ドイツ、フランス、スイスの証券取引所が、株式デリバティブ、債券デリバティブの取引・決済制度を共通化、各取引所間での相互取引を可能とさせることで合意した。さらにこれらの取引所は、将来的に単一通貨ユーロ建て金融商品を共同開発するなどの連携を図ることとしている。

3 香港、シンガポールの金融市場間の競争

 アジアの中で早くから金融規制を緩和してきた香港、シンガポールは、アジアにおける主要な国際金融市場として発展している。

 両金融市場が発展してきた経緯には違いが見られる。また、政府の関与を最小限で国際金融センターを目指す香港と、政府の主導のもと積極的な市場育成策を行うシンガポールでは、政府の金融市場に対する関わりも対照的である。これまでそれぞれの市場の特徴をうまく活かしながら共存してきた。しかし、今後はこれまでの市場の役割分担、共存の枠を超え、日本など他のアジアの金融市場も含めた金融市場間競争を展開していくものと考えられる。以下両市場の発展の状況を見てみよう。

(香港、シンガポールのオフショア市場の動向)

 両国のオフショア市場は創設されて以来、順調に発展してきた。また80年以降は金融取引に関する課税を撤廃したことなどにより、更に市場は拡大した。現在は香港オフショア市場が 7,450億ドル(97年8月末現在)、シンガポール・オフショア市場は 5,594億ドル(97年7月末現在)となっており、シンガポールの市場規模は香港の7割程度と差がついている(第2-3-21図)

香港の市場規模が拡大した要因としては、高度の金融ノウハウ、人材、インフラに加え、80年後半より対日取引の急増が挙げられる。シンガポール政府も、80年代に入ってから様々な優遇税制を打ち出している。

 近年マレーシアがラブアン島に、タイがバンコクにオフショア市場を設立しており、両国関連の取引は新設されたオフショア市場に流れつつある。現在香港、シンガポールの優位性は変わらないが、将来的にはアセアン諸国との競合も考えられる。

(香港、シンガポールの外国為替市場の動向)               

シンガポール、香港市場とも外国為替管理を68年、73年に撤廃しており、取引高も急激に拡大している。平均取引高はシンガポールが世界第4位( 1,066億ドル)、香港が第5位(908億ドル)となっているが、その取扱高の伸び率(92年4月比)ではシンガポール44%、香港49%と両市場とも東京市場を大きく上回っている(第2-3-22図)。  

シンガポールでは高度なインフラの整備等により通貨の先物、スワップ、オプション等の取引の面でも他のアジア諸国より進んでおり、香港ではドルとアジア通貨間の取引シェアが高まりつつある。_

コラム 資産規模拡大を求める時代の終焉

 金融システムの変革とともに、金融機関の経営も変わらざるを得ない。最近でこそ、金融機関の競争力を図る指標としてROE(自己資本利益率)などの指標が用いられるようになったが、90年代初頭までは資産規模が重要視されていた。なぜ資産規模でなく、収益性の指標が重視されるようになったのだろうか?

 90年と96年の商業銀行大手20行(総資産額世界上位20行)の資産規模と利益(税引き後)の関係を見ると、90年には、資産規模が大きいほど、利益が大きいという関係がある(コラム)。したがって、当時、金融機関の競争力を測る指標として、総資産額を用いたのは適切で、総資産規模を拡大し利益の増加を目指すのは、経営戦略として有効であった。

 ところが96年(コラム)を見ると、総資産規模と利益額の相関関係は薄れ、ほとんど関係がない。この傾向は、日本の大手銀行を除いて(不良債券の償却により、利益が低く計上されているため)見ても明らかである。

 手数料獲得に商業銀行も力を入れ始めたこと、金融技術の発展により、資産を使わないでも収益を上げることが可能となったことから、商業銀行の利益と総資産の関係が薄れたと推測される。金融機関には、規模の拡大よりも、金融技術の開発、収益性の高い貸出先の選別、不採算取引の圧縮などによる収益性の向上が求められる時代となった。

第4節 公的貯蓄制度の動向

 金融の規制緩和・自由化や効率化は主要先進国に共通の大きな動きである。金融機関は激化する競争への生き残りを図り、金融サービスの拡充や、新たな分野への進出を行っている。こうした流れの中で、公的貯蓄制度もサービスの拡充を図っている。

 主要国の郵便貯金制度をみると、アメリカでは66年に廃止されている。ヨーロッパでは、民間金融機関がサービスの多様化・拡充を進め、個人業務や住宅業務を充実させてきているのに対し、郵便貯金もサービスを拡充してきている。イギリスでは、69年に郵便貯金の業務が国営の国民貯蓄銀行に引き継がれている。ドイツ、フランス、イタリアでは、EU統合に向けた規制緩和、民営化の流れの中で、一緒に運営されていた電気通信事業分野の改革が行われたのを契機に、経営効率化を図るための公社化、株式会社化(100 %政府保有)などの経営形態の見直しが相次いでいる。     _

第5節 金融の自由化と金融政策

1.金融自由化で一時的に変化したマネーと実体経済の関係

(相関が不安定になったマネーサプライと名目GDP)

 金融自由化が進む中、マネーサプライと実体経済との関係が不安定化している、との指摘が以前からなされてきた。主要先進諸国について、マネーサプライ指標と名目GDPとの関係をみると、アメリカでは、70年代後半に現金・預金が主体であるM1について名目GDPとの関係が不安定化し、M1の伸びが名目GDPの伸びを下回っている(第2-5-1図)。また、M2については、80年代後半から90年代初めにかけて、名目GDPとの関係が不安定化した。イギリスについては、80年代当初から、M4の名目GDPとの関係が不安定となっているが、90年代以降、再び安定している。ドイツ、カナダ、日本については名目GDPとの間で安定した関係がみられる。フランス、イタリアについては90年代に入り、やや不安定な動きもみられる。

(アメリカ等で強くみられた貨幣代替性資産間のシフト)

 マネーサプライと名目GDPの関係が不安定化した要因をアメリカを例にみていく。60年代後半以降、アメリカでは金融技術革新が活発化する中、預金金利上限規制(レギュレーションQ)の対象とならない金融商品が開発され、急速に普及した。70年代後半にはM2に分類される個人向けMMFのシェアが急速に高まっている。このように現金・当座預金から広義の貨幣代替性の高い資産へのシフトにより70年代後半にはM1が名目GDPに比較して伸び悩み、70年代後半に生じたといわれる貨幣喪失の大きな要因となった。

 一方、M2については、M2に分類される貯蓄性預金からMMFへのシフトが中心であったため、M2と名目GDPとの関係は安定していた。しかし、80年代後半以降、ミューチュアル・ファンドと呼ばれる投資信託の広義流動性とミューチュアル・ファンドの和に対するシェアが高まっている。ミューチュアル・ファンドは、アメリカの最も広いマネーの概念にも含まれておらず、このため、M2のシェアは相対的に低下した。

 以上、アメリカなど金融自由化を経験した国では、マネーサプライ指標と実体経済の関係が一時的に不安定化しているが、これは、新しい金融商品の開発に伴って従来のマネーサプライ指標に含まれない資産へのシフトが生じたためであり、広義の貨幣資産と名目GDPの長期的な安定性そのものが否定されるわけではない。

3.金融政策と最適な中央銀行制度

(中央銀行の独立性とインフレーション)

 近年、中央銀行の独立性が高い国ほどインフレ率が低いという実証結果が大きな関心を呼んでいる。中央銀行に関わる法律と制度に注目して、中央銀行の独立性を指標化したものに、Alesina and Summers(1993)の研究がある。この中央銀行の独立性指数とインフレ率との関係をみると、経験則的に、中央銀行の独立性が高いほど、インフレ率は低いことがわかる(第2-5-4図)

また、金融政策に従事する機関と銀行監督機関との分離が、金融政策運営の独立性を確保するとの考え方もある。これは、通貨供給機関である中央銀行が、銀行の監督を行うことによって、銀行破綻を避けるために金融緩和政策を行う可能性があること、銀行監督者としての信認が失墜した場合、中央銀行に対する評判も落ちかねないこと、などの理由による。実際、両者を分離している国のほうがインフレ率は相対的に低いとの分析もある。

中央銀行の独立性が高いほど、インフレ率が低くなっている理由を考えるために、図の右下と左上にある国の金融政策運営についてみると、右下にあるドイツとスイスでは、ターゲティング・アプローチ(マネーサプライ・ターゲティング)を採用している。一方、左上にあるスペイン、イタリア、ニュージーランドなどは独立性が低く、これまで、特定の目標を設定しない「総合判断」による金融政策を採用してきた国が多い。

(金融政策とインフレーション)

 このような金融政策の相違と独立性指数との関係をみると、中央銀行の独立性が高く、マネーサプライ・ターゲティングを採用しているドイツ、スイスでは、名目GDPが増加しても減少してもマネーサプライは変動しないことがわかる。さらに、中央銀行の独立性とマネーサプライの関係は、独立性の高い国ほどマネーサプライの増加率も低い。また、マネーサプライ伸び率とインフレーションの関係を図示すると、マネーサプライ伸び率が低いほどインフレ率は低いという関係があることがわかる(第2-5-7図)

以上の点から、これまでの経験では、独立性が高いドイツ、スイスの中央銀行では、ルールによる金融政策の採用により、マネーサプライの伸び率を抑制することができたものと考えられる。これらのことから判断すると、国民の信認を獲得し、インフレ率を低下させるために重要なのは、中央銀行の独立性とともに、どのような金融政策を行ってきたかであると考えられる。

むすび

好調なアメリカ経済と踊り場にきたアジア経済

 1997年の世界経済は、好調なアメリカ経済と踊り場にきたアジア経済の対比があらわれた時点と特徴づけられるかもしれない。

(アメリカ経済と「ニュー・エコノミー論」)

 アメリカでは、7年に及ぶ景気拡大の下に、アメリカ経済の生産性はこれまでに比べて上昇し、インフレのない、また景気循環もない「ニュー・エコノミー」段階に到達したという議論が関心を呼んでいる。しかし、アメリカの労働生産性を見ると、80年代、90年代に上昇したというデータは、現在までのところ見出すことができない。確かに、アメリカの失業率の低下と物価の安定は目覚ましい改善である。これには、金融政策運営の成功、伸縮的な労働市場、規制緩和などが寄与していると考えられる。しかし、実質賃金の上昇は限られたものである。80年から96年までで、アメリカの実質GDPは50%増加したが、時間当たりの実質労働報酬は1%しか増加していない。この意味では、アメリカ経済の好調にも限界があると言えよう。

(ASEANの通貨下落とその要因)

 ASEANではタイを中心に自国通貨の価値が下落し、景気が鈍化している。通貨下落の要因としては、自国通貨をドルに固定していたことにより、その価値が過大評価になってしまったこと、過大評価された通貨を外資の流入が支えていたこと、流入した外資が不動産投資など非生産的な用途に回されていたことなどによる。自国通貨の下落自体は、輸出競争力を復活させ、景気を回復させるものである。しかし、これまでに累積された不良債権の規模とその処理方法によっては、経済の回復は遅れるかもしれない。

(通貨統合に向かうヨーロッパ)

 ヨーロッパではイギリスを中心に景気が拡大しており、EUでは、99年から始まる通貨統合を目指した準備が行われている。統合後の通貨を安定したものにするためには、参加国が財政規律を強化し、新しく設立されるヨーロッパ中央銀行が、独立し、明確な目標をもって金融政策を行うことが必要とされている。ただし、通貨の統合によって、各国が景気対策として独自の金融政策を行う余地を失うことになる。最適通貨圏の理論によれば、域内の労働力の移動が各国の景気変動を緩和することになるが、欧州通貨統合は、完全には自由な労働移動のない地域での通貨統合という試みである。通貨統合は、経済的価値を越えた、統一欧州という理念に向けての壮大な実験でもある。

金融のグローバル化と金融システムの改革

(規制改革の動因)

 世界市場が一体化する中で、特に金融面でのグローバル化が進んでいる。金融のグローバル化の程度を、アメリカから世界に向けて流出し、また世界から流入した資本の合計で見ると、その額は、90年においては 1,440億ドルであったが、96年には 8,318億ドルと5.8倍に増加している。資本が自由に動く中で、安い資金コストと効率的な運用がより一層求められている。金融システムにおいて、世界的な規模での制度間競争が生じており、一国の金融制度改革は他国に波及している。

(業態間競争の激化)

 金融業については、いずれの国でも、金融機関の経営の健全性維持などのために、様々な規制が課せられていた。しかし、欧米諸国では、80年代までに、金利規制や証券売買手数料規制などの価格規制は撤廃され、銀行・証券業間や保険業との業態間参入規制についても、制度の改革が行われ、業態間の統合による様々なメリットを追求する動きが進められてきた。すなわち、業態間参入規制については、ヨーロッパでは、制度改革により、実態的にもユニバーサル・バンクに向かっており、アメリカでは形骸化している。

(国際的な制度間競争)

 イギリスでは、中小のブローカー中心だった証券市場の規制が86年に撤廃(ビッグ・バン)された直後、ロンドン証券取引所の200余りの業者のうち23社が米国、欧州大陸の金融機関に買収された。その後も買収は続き、ロンドン市場の主要なプレイヤーは海外の金融機関となった。しかし、イギリスでは、金融関連産業全体の雇用は以前より増加し、賃金も増加している。ビッグ・バン前後の84年から87年にかけて増加したイギリスの全雇用のうち74.8%が、金融・ビジネス・サービス部門で生みだされたものである。

 ビッグ・バンは他の欧州諸国にも波及している。ドイツ、フランスなどの大陸欧州諸国もイギリスを追って金融市場改革を行っている。アジアの中で、香港、シンガポールは早くから金融規制改革を進め、アジアの国際金融市場としての地位を確立している。

(金融制度の改革と政策対応)

 金融の自由化、規制改革は、これまで金融セクターの中で特別な地位を占めてきた公的金融に対しても、変革を求めている。ドイツ、フランス、イタリアの郵便貯金は、公社化あるいは株式会社化されている。

 市場メカニズムを導入し、自由化、効率化が進む一方で、信用秩序を維持していく重要性も高まっている。信用秩序維持のための規制は強化されており、そのための監督制度の変更もなされている。金融業の業態変化に伴い、それを監督する体制も変化しつつある。

(金融の自由化と金融政策)

 70年代末から80年代、金融自由化等を経験する過程で、金融商品の多様化などから、マネーサプライと名目GDPの関係が、少なくとも一時的には、不安定化した。名目GDPとマネーサプライの関係が長期的には安定しているとしても、金融自由化によってその関係が不安定になる可能性があり、また、いつどの程度不安定になるかの予想が難しいとすれば、マネーサプライを目標とした金融政策の運営は難しくなる。

金融政策のあり方が議論される中で、中央銀行の独立性を巡る議論が盛んになっている。中央銀行の独立性が高いほどインフレ率が低いという経験則があるが、インフレ率を低下させるために重要なのは、中央銀行の独立性とともに、どのような金融政策を行ってきたかであると考えられる。

 金融制度改革が、まったくなんの犠牲もなく、経済を活性化するとは言い切れない。銀行と証券の分離規制など金融業態間の規制を撤廃することは、諸外国で行われている金融制度改革の柱の一つであるが、規制によって保護されてきた業態では、痛みを伴うだろう。イギリスのビッグバンが、イギリス系の証券会社をほとんど駆逐してしまったということは、その痛みの例かもしれない。しかし、多くの国で、規制の撤廃によって金融システム全体が活性化され、金融業において今まで以上の雇用が創出され、GDPに占めるシェアも高まったのである。そして何よりも、グローバル化の中では、それ以外の道は残されていない。