昭和61年

年次世界経済報告

定着するディスインフレと世界経済の新たな課題

経済企画庁


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おわりに

1986年の世界経済についてまず考えなければならないのは,ドル高と原油の高価格の修正の問題であろう。これに高金利の修正の問題を加えることもできる。これらの問題はいずれも80年代前半における一つの重要なプロセスのいわば仕上げというべき現象であった。そのプロセスとは,すなわちディスインフレである。

(ディスインフレの達成)

70年代の宿痾ともいうべきスタグフレーションは姿を消した。当時,各種の国際会議などで切実な目標として訴えられてきた「インフレなき持続的成長」は,80年代前半にどうやら実現に向かった。景気面では81,82年頃はかなり深刻な不況も多くの国でみられたし,83,84年の世界経済の拡大に比べてその後の拡大は弱々しいともいえるが,主要先進国での今回の景気回復は戦後の景気循環のなかでも最も長いものの一つとなっている。物価面でも80年代の初めの2,3年はなかなか鎮静化がみられなかったが,やがて多くの国で賃金の上昇率が低下し,インフレ心理が鎮静するなどはっきりした成果も現れてきた。加えてスタグフレーションの元凶であった原油価格が半分近くの水準へ下落し,石油輸出国を別とすれば,物価安定と成長の両方でプラスの効果をもたらしている。

第2次石油危機がもたらしたインフレからの脱出は日本,西ドイツなどにおいて早かった。しかし,それまでの硬直性が打破されたという意味では,アメリカの賃金,物価の基調変化も刮目すべき現象であった。さかのぼると,アメリカでの戦後最悪といわれる不況を作り出した金融面からの強力な引締めがこれのきっかけであった。

その際に作り出されたアメリカの高金利は,他の国々の為替防衛のための緊縮的な金融政策へと国際的に波及した。のみならず,ドルの価値の上昇を通じ国際商品市況を強力に押し下げ,世界的なインフレ心理の鎮静化に寄与した。

この世界的なインフレの鎮静化はついに金融政策の緩和を可能にし,まず金利低下の条件が整った。アメリカでの金利低下はドル高修正の条件を整え,5か国蔵相・中央銀行総裁会議の合意,アメリカの景気指標などを材料とする市場の心理の変化が為替相場に反映することとなった。原油価格の低下はOPECの政策,非OPECの増産等の要因があるが,高水準で固定された原油価格が,他の物資の価格低下によって一層割高になり,需要が減退したことも重要である。以上の意味で三つの低下はディスインフレの結果としての現象であるが,以下でみるようにそれを促進するという影響ももたらしている。

ところで,物価の安定化が単なるデフレーションに終わらなかったのもアメリカの83年,84年の景気回復が牽引力となったからである。戦後の先進諸国の景気循環のなかで,1980年代のものほどシンクロナイゼーションが目立ったものはないほどである。財政面で他の主要国がこの間拡張的な政策をとっていなかったことからして,こうした同時的拡大の源はアメリカにあったことは明白であろう。

(アメリカの財政収支赤字)

ディスインフレの達成はしかしコストも伴った。なかでもアメリカにおける財政赤字は重大である。アメリカの財政赤字は,意図的に金融政策の実物面へのデフレ的影響を相殺するべくとられた政策ではなかった。そもそもレーガン政権の財政政策は赤字を志向したものではなかったが,結果的には財政赤字は拡大し,これが高金利の下での景気回復という現象を作り出したのである。

87年度については財政赤字はようやく86年度に比べて削減される見込みとなったが,それまでは増大が続き86年度には2,200億ドルと81年度の789億ドルに比べて格段に大きい赤字を作り出してしまっている。

金利は82年頃に低下しかかったが,財政赤字がこのように拡大するのにつれて再上昇した。この後の景気回復がある程度軌道にのったところで財政政策はすみやかに赤字削減に向かうべきであったと思われる。高金利は,ドル高の進行を通じてアメリカ自身の国際収支にも好ましくない影響を与えたが,累積債務に対する金利負担を高め,アメリカ以外の国々の金融政策の自由度を減らすなど国際的にも歓迎されざる影響を作り出した。

(ドル,原油価格,金利の低下の効果)

ドル高修正の景気への影響は世界的にみると一様ではない。アメリカではこれによって外需(純輸出)が成長に寄与するようになることが期待されているが,まだその効果は明白には現れていない。こうした遅れは,国際収支改善の遅れと同様に数量効果がすぐには現れないためでもあり,特別な事情があるわけではない。

アメリカ以外の主要先進国では,国際収支にあらわれる影響が「交易条件効果>数量効果」となっている間,すなわちドル安によって貿易収支の黒字がむしろ増大(ないしは赤字が縮小)している間は所得に対してプラスの効果となるが,これが逆になるとマイナスの効果となる。いずれにせよアメリカ以外の主要先進国では総需要の構成が外需から内需へとはっきりシフトし始めている。

原油価格低下の効果はドル安の効果に重なって,西ヨーロッパにおける消費の堅調をもたらしている。一般的にいっても,これがプラスの効果を持つことは石油危機の経験の裏返しですぐにわかる。しかし,石油を国内で産出する国の場合は,石油採掘業で打撃を受けている。

金利の低下はアメリカでは住宅投資の86年上半期の盛上りに明らかに寄与した。しかし,他の要因が伴わなかったため,設備投資は落ち込んでいる。日欧でも金利は低下しているが,設備投資に影響のあまり出ていない国もあるほか,西ドイツ,フランスなどでの設備投資の堅調も消費の増加の波及効果に助けられたものである。

以上のように三つの低下は,基本的,長期的には,世界経済の拡大,または国際的な不均衡の是正に大きく貢献するはずのものであるが,即時にその効果が現れるものではなく,また,すべての問題の解消といった結果は望めない。

(アメリカの国際収支赤字)

アメリカの国際収支赤字の原因については短期的要因と長期的・構造的要因がある。短期的要因はドル高であるが,これはアメリカ自身が高金利を通じて作り出したものともいえる。とすればアメリカの経常収支赤字についてはアメリカ自身の責任もかなりあるというべきである。

経常収支の悪化のうちドル高による分は,ドル安の下では改善するはずであるが,その効果はまだ出てきていないようにみえる。しかしこれはやがて効果を現わすべきものであり,為替レートの収支調整機能はやはり否定することはできない。

アメリカの経常収支赤字については,アメリカの産業がここへきて急速に空洞化しつつあるためだという議論もある。しかし,60年度の世界経済報告において指摘したように,アメリカ経済において製造業全体が競争力を失い,成長力が弱化するという意味では,空洞化は進んでいるとはいえない。具体的には,アメリカの製造業が海外生産を拡大することによる雇用などへの影響が問題とされたのは,1970年代以前からである。また,1980年代に入り,ドル高がアメリカの製造業の海外立地を促した可能性を指摘する向きもあるが,ドル高の修正に伴い,ドルに代わって強くなった通貨を持つ国からアメリカへという直接投資の流れも考えられる。

ただし,かなりの長期でみると,アメリカが戦後の非常な黒字体質からついには赤字体質へ徐々に変わってきたことは事実であり,その背景にアメリカの産業構造,貿易構造の問題があることは認められる。すなわち,アメリカの輸入の所得弾力性が輸出のそれの倍以上もあり,為替レートを不変とすれば,アメリカの輸出品の市場がアメリカの所得の成長率の倍以上の率で成長しないと経常収支が均衡しないという長期的な問題である。

このような長期的・構造的要因によるアメリカの赤字化体質とドル高の修正という要因とが合わさった結果はどうなるのであろうか。現時点までの状況でいえば,ドル安のJカーブ効果の第1局面(赤字が増える局面)にあるため見極めがつけにくいが,既に石油以外の輸入がほとんど増加しなくなっており,輸出に増加の兆しがみられるなどの変化がでてきている。しかし,もう一方の赤字化体質が長期的なものであるだけに,アメリカ側の財政赤字削減等が進まない場合には,アメリカの成長が他に比べてよほど低くならない限り経常収支赤字は今後も残る問題となろう。

(ディスインフレと資源輸出国の国際収支不均衡)

ディスインフレの下で逆に苦境に立っているのは,石油を含む一次産品の輸出国である。原油価格の低下はメキシコ,ベネズエラといった累積債務国の問題をさらに深刻にしているだけではなく,OPEC諸国やイギリス,カナダといった諸国の国際収支をおびやかしている。一次産品の国際商品市況もごく最近になって下げ止まりの兆しもみられなくはないが,それまでは長期にわたって下落傾向を示してきた。

結局,80年代の国際収支の分布をみると,資源保有国や農業国が概して悪化傾向を示しており,資源はもっぱら輸入してこれを高度に加工して輸出している国々が改善傾向を示している。1950年代,60年代において,一次産品に対する需要が工業品に比べると相対的に弱いことによって,一次産品の輸出に頼る発展途上国の開発が進まない,という説が唱えられた。開発が進まないかどうかはともかく,国際収支に関してはこれは一つの長期的傾向ともいえ,資源価格の高騰のあった70年代には一時的に被い隠され,忘れられていた問題の復活のように思われる。だとすると,石油・一次産品輸出国の収支不調,工業国の黒字という現象には構造的であって解消は必ずしも容易ではない部分があると考えられる。また,資源輸入に依存する国がある以上,輸出する国がなければならず,全ての石油,一次産品輸出国が,短期間に工業品輸出国に転換することによって,国際収支の構造的な問題を改善することも容易ではないと考えられる。

(相互依存度関係,国際協調と我が国のリーダーシップ)

アメリカも含めて80年代前半において国際的なフローの面で明暗がはっきりしてきたことは,80年代後半においてストックの面で世界経済の構図が大きく変化したものになることを意味している。すでに我が国が債権国として大きな存在になりつつある一方,アメリカは債務国へと転じているし,産油国に積み上がった債権はここ数年はむしろ取り崩されてきている。発展途上国のなかでも累積債務問題の一層の深刻化に悩む国々と,その軽減に成功しつつある国々とがある。

このようなネットでの債権・債務残高の存在は,それだけでも相互依存の関係であるが,その背後にはさらに大きな量の双方向のグロスの債権,債務関係があり,国際金融面での相互依存の度は格段に強まっている。

こうした中で,ある国の経済情勢の変動が,世界経済の秩序を揺るがすような事態を引き起こすといったことのないように,各国は一層国際協調に努めなければならない。他国の苦境や不均衡を対岸の火事として扱うことはもはやできない状況にあるという認識が必要であろう。

貿易政策の面では,86年9月,ウルグアイのプンタ・デル・エステで開かれたガット閣僚会議が,サービス貿易を含む14項目を交渉項目とする新ラウンドの開始を宣言したことが注目される。これが保護主義的な気運に対する牽制となることが大いに期待される。他方で,各国は新ラウンドやGATTの枠に止まらず,各種の市場開放を更に進める必要があろう。

累積債務問題については,債務国が自助努力による経済調整を推進するとともに,債権国,民間部門及び国際金融機関が一体となって各国の状況に応じたケース・バイ・ケースの対応を粘り強く続けていくことが必要であろう。メキシコについてのこれまでの事態の進展はこのような観点からみても歓迎すべきものである。

発展途上国の開発問題についても,国際協調の見地から先進国は途上国の工業化や経済自立のために経済協力を更に充実させる必要があり,技術移転の促進,輸出志向・輸入代替産業の育成,産業基盤のためのインフラストラクチャーの充実を支援する必要がある。

先進国間での問題としては,今年の東京サミットにおける多角的サーベイランスの合意も国際協調の一つの試みである。また,各種国際機関を始めとする多様な枠組みの下で協調政策を巡って対話が行われている。こうした状況の下で,大幅な経常収支不均衡が問題であり,基本的に採るべき態度が赤字国における財政赤字の削減と黒字国における内需拡大への努力であることが認識されている。86年10月には日米間の政策協調及び為替の安定等の問題に関する日米蔵相共同新聞発表等が行われたが,今後ともこうした政策面での努力が積み重ねられていく必要がある。

以上のいずれの面においても,我が国がリーダーシップをとらないと他にリーダーがいないということにもなりかねない。国際協調の路線の上で我が国の経済構造を変え,市場を開放していくことは我が国の国民の利益にも合致する。

なかには,調整の過程では痛みを伴う政策もあろうが,国民全体の観点からみた場合,こうした政策は究極的には利益をもたらすからである。また,リーダーシップをとることは世界経済の順調な拡大によってこれまで最も大きな利益を受けてきた我が国の義務であることも忘れてはならない。


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