昭和61年
年次世界経済報告
定着するディスインフレと世界経済の新たな課題
経済企画庁
第2章 ディスインフレへの道
79年10月アメリカの連邦準備制度は金融調節方式を変更し,それまでのフェデラル・ファンド・レートから預金取扱機関の非借入準備へと管理目標をシフトさせた。これは本章第1節で述べた通り,60年代末から急速に高まったインフレ期待を封じ込めることを意図した政策変更であった。
一方,こうしたインフレ期待の高まりは金融制度の面からも一つの変革を促した。というのは,インフレ期待の高まりが市場金利を急騰させた結果,アメリカの連邦準備法のレギュレーションQ等によって定められていた預金金利の上限が市場実勢から著しくかけ離れ,このことが折から進行中であった預金金利規制の緩和(いわゆる「金融革命」)に大きく弾みをつけたからである。
この預金金利規制の緩和は,その過程のなかで数々の新金融商品を生み出し,金融制度の自由化と多様化に大きく貢献したが,他面では,マネーサプライの概念を変化させることを通じて金融政策に一時的にせよ攪乱をもたらし,金融引締めスタンスに過度のバイアスを加え著しい高金利を現出させることになった。
その後も,財政収支赤字の拡大や,著しい景気拡大(83~84年)のため80年代前半を通じて高金利とドル高が継続した。しかし,83年頃からディスインフレの定着傾向がはっきりとし,一方で84年央以降これらの影響の下に外需の成長への寄与がマイナスとなり,投資項目の伸びが鈍化し,景気全体としても拡大速度が鈍化してくるに伴い,高金利・ドル高はアメリカ経済にとっても容認し難いものとなった。こうした経済情勢をうけ,市中金利が次第に低下するにつれアメリカの金融政策も緩和に向かい,これにドル高修正が加わったことによって国際的にも金利の引下げが進んだ。こうして高金利時代は終焉し,各国が新たな成長の局面へ向う条件も整いつつある。
第1節でもみたように「金融革命」はマクロ的にみれば,一時的にせよ金融政策の攪乱要因として作用したのであるが,より包括的な観点からみればアメリカの金融市場を効率化し,人々の多様な金融商品に対する要求に応えることを可能としたという点で大きな意義をもつものであった。しかも金融の国際化の進展により,その他主要国の金融市場に対するインパクトも大きかったといえる。以下では「金融革命」自体について少し触れることにしよう。
アメリカの金融制度の枠組は,1930年代の金融大恐慌を再び繰り返さないという目的の下に作られており,基本的には預金者の保護,過当競争の防止を念頭に置きつつ,①預金金利の上限規制,並びに定期預金等に係る最低預入額の規制,②銀行の業務分野に関する規制(具体的には証券業務兼営の禁止,業態別資産運用制限等),③銀行の業務地域に関する規制(具体的には州際業務の禁止)等の諸規制を設けている。これらの規制のかなりの部分は,商取引の多様化によって金融制度を取り巻く環境が変化するのに伴い,段階的に自由化されてきたが,なかでも預金金利上限をめぐる規制緩和の進展は著しい。この理由の一端が60年代末からのインフレの高進にあったことは先に述べた通りであるが,単にインフレを考慮するだけであれば,金利上限が引き上げられることはあっても,それが上限の撤廃,さらには全面的な預金金利の自由化へと発展する必然性はなかった。この意味から,預金金利規制の緩和を推進したより本質的な要因は,一方で企業や家計に金融資産が蓄積されることを通じて彼らの金利選好が高まったこと,他方で金融サービスを提供する銀行側の企業間競争が激化したことの二点に求められよう。こうした与件の変化を背景に,預金金利規制の緩和は,①金利上限の引き上げ,②新金融商品の創設,の両面から進み,特に金融制度改革法の成立(1980年)によって預金金利自由化のスケジュールが設定されて以来,その進行速度は著しく加速した(第2-5-1表)。このうち,新金融商品の創設は,証券,保険,小売,信用販売等他業種が企業買収を通じて銀行業に進出してきたこと及びこれらの他業種が独自の金融商品を導入したことに対する銀行側の対抗策という意味合いも備えており,銀行間のみならず業種間の壁を超えて競争が激化したことにより,規制緩和の進展はますます拍車をかけられたといえよう。この結果,預金金利の自由化は当初のスケジュールを上回るスピードで進み,現在残存している規制は事実上,企業が保有する要求払預金に対する付利の禁止だけとなっている。こうした80年代の急速な自由化を指して,しばしばアメリカの「金融革命」という言葉が用いられる。
「金融革命」は制度の変革を通じて,銀行の企業行動や金融政策のあり方にも大きな影響を及ぼしている。以下では,こうした問題を順次検討してみょう。
① 「金融革命」と銀行の企業行動の変化
しばしば言われているように,預金金利の上限が定められていると,80年代初頭のような高金利の局面では,資金が証券市場等に向かう結果,銀行は安定的な貸出原資の調達に苦慮し,結果として銀行貸出が量的に制限されることが考えられる。これがいわゆるディスインターミディエイションの問題であるが,アメリカの「金融革命」は,まさに高金利の局面で進行したものであるため,資金の流れを貯蓄性預金に誘導し,ディスインターミディエイションを和らげる方向に寄与したと考えられる。ただし,この結果はアメリカの金融機関に等しく及んだとは考えにくい。貯蓄貸付組合や相互貯蓄銀行では資金の調達運用手段が限られていたために確かにディスインターミデイエイションは重大な問題であり,預金金利の自由化がもたらしたメリットは大きかった反面,調達コストの上昇による経営難も顕在化している。他方,大手商業銀行は公開市場やユーロ・ダラー市場から有利な条件で資金を調達することが可能であるため,ディスインターミディエイションがあったにせよ,全体として大きな障害になったとは思われない。
また,預金金利の自由化後であっても,証券市場の流通利回りに比較すると預金金利の振幅は,その金融商品の性格上小さいため,金利の上昇局面では依然として資金が公開市場に流れる傾向がある。このことは,家計資金のうち,小口定期預金や貯蓄預金に振り向けられる割合が,市場金利の変化に伴ってどのようにシフトするかを調べることによって現実に確かめられる(第2-5-1図)。したがって,預金金利の自由化前にいわれていたディスインターミディエイションの大きさについては,やや誇張されていた側面があったともいえよう。
② 「金融革命」と資金フローの変化
預金金利の自由化が与えた経済的影響としてもう一つ注目されるのは,これがマネーサプライの変化と密接な関連をもっていたとみられる点である。本章第1節で述べたとおり,アメリカでは81年頃からM1(各種マネーサプライの定義については第2-5-2表および第2-5-3表参照)のマーシャルのkが従来のトレンド線をはずれ上方に乖離するようになったが,これは預金金利の自由化,より具体的には新金融商品の登場がもたらした影響であったとみられている。事実,M1のなかでどのコンポーネントが増加しているのかを調べてみると,M1のトレンド線からの乖離とほとんど時を同じくして,新金融商品(NOW勘定,ATS勘定,シェア・ドラフト勘定)からなる「その他決済性預金」のシェアが急拡大していることがわかる(第2-5-2,3図)。NOW勘定が全国的に認可されたのは80年12月31日であったから,このシェア拡大に最も資するところが大きかったのはNOW勘定ということができるであろう。NOW勘定は小切手とほぼ同様な支払指図書を振り出すことによって払出しを行う決済性預金であるが,同時に預金利子を生むという貯蓄性預金の性格をも併せ持っており,こうした特殊性が誘因となって急増をみせたものと思われる。換言すれば,本来,取引動機に基づいて保有される通貨の集合体であるM1に資産動機に基づいて保有される通貨の一部が組み入れられたために,M1に膨張圧力を生じ,マーシャルのkをトレンド線から乖離させたということになるであろう。
このように,新金融商品の登場に伴って,事後的にみると,81年頃から,M1に対して膨張圧力が働いたと考えられるが,こうした統計上の混乱の下で連邦準備制度が,このマネーサプライを中間目標として金融政策を運営しようとしたことから,金融政策に対して,過度の引締めバイアスがもたらされた。このため,市場金利は81年中頃には異例な高水準に達し(第2-5-4図),経済成長を著しく抑制したのである。
上述のような当初の意図を越える過度の金融引締め政策は,一方で,高金利という副作用をもち景気の大きな後退などの犠牲を伴いはしたが,金融政策の重要目標であるィンフレの抑制とは矛盾するものではながった。しかし,引締めスタンスの中でディスインフレが定着してくるにつれ,次第に金融政策を緩和の方向に転換する土壌が生まれてきた。この転換の時期を確定することは難しく,82~83年には一時的に金融政策が緩和ないし中立化された時期があったとも考えられるが,少なくともアメリカの景気拡大速度の鈍化がはっきりと認識されるようになったのは85年2月以降であり,市場金利が継続的に低下している事実は,当局の政策スタンスの変化を反映するものと考えられよう。
しかも,こうした金利の低下に伴って,貯蓄性預金から決済性預金(特にNOW勘定)への資金移動が生じ,M1が再び大幅に増加したにもかかわらず,連邦準備制度は以前のようにこれを強力に抑え込もうとはしなかった。その公式の理由として,M1の流通速度(マーシャルのkの逆数)が歴史的なトレンドからみて低下していたこと,またNOW勘定の新設等M1を取り巻く不確実牲が増大しつつあったことが挙げられているところから,当局には,かつてNOW勘定の増加の下で過度の金融引締めバイアスを生んだことに対する配慮があったものとみられる。しかし,更に進んで,連邦準備制度は金融政策の面から積極的に景気を刺激しようとしたとみられる。例えば,従来金融政策の運営をあくまで市場実勢に追随した形で行うことを旨としていた連邦準備制度が85年5月以来,再三にわたり大手商業銀行のプライム・レート引下げに先立って公定歩合を引下げているが,これは金融市場では市場金利を誘導しようとする当局の積極的な姿勢の表れと受け取られている。
いずれにせよ,こうしてアメリカの市場金利が低下したことは,アメリカのみならず国際的にも大きな影響を与えた。前節でみた通り,アメリカの金利低下が内外金利格差の縮小を通じてドル高修正を促進したため,国内金利の引下げをてこに景気の浮揚を図ろうとしながらも,自国通貨の減価がもたらすインフレ懸念の故にこれを果たせずにいたその他先進国が,ようやくその制約から解放されたからである。こうした環境の変化を背景に,85年中頃から西ドイツやフランス,さらに半年ほど遅れて日本でも金利の低下が進み,国際的な高金利時代は終了した。この金利低下の過程のなかで,各国の政策当局は,政策変更のタイミングのずれによって新たな国際間の不均衡が生じるこのないよう歩調を合わせて行動する姿勢をみせており,これは86年3月および4月にいくつかの主要先進国がほぼ同時に公定歩合の引下げを行った事実からも明らかである。こうして,各国は相互間の協調を促進しつつ新たな成長の局面に入ろうとしている。