昭和47年
年次世界経済報告
福祉志向強まる世界経済
昭和47年12月5日
経済企画庁
国際通貨問題については,一般に次の3つの面から接近することができる。
(1) 流動性(国際取引が円滑にすすめられることを妨げないだけの国際通貨が出回っているか)
(2) 信認(取引当事者の間をつぎつぎと受領されていくに必要な信頼性が,ある国際通貨について失なわれてはいないか)
(3) 調整(ある国における金・外貨の異常な累積を防止したり,あるいはその国の通貨の信認を回復するためにはどのように通貨と通貨との交換比率を変更したらよいか)
きわめて大雑把な時代圧分をすれば,1950年代前半まではドル不足がやかましくいわれていたように,流動性不足に悩まされた時代であったし,その後はドル流出にともなってドルの信認が低下し,ドルを唯一の基軸通貨とする限り,国際市場に出回る量が増大すればその信認は低下するという矛盾が指摘されるようになった。その矛盾を解決する方策として,SDRが案出されたが,それが実施に移された1970年以降ドルの流出は,いっそう加速化されて国際問題通貨の関心は「調整」に移行した。
この数年来,IMFが中心となって検討をすすめていた為替弾力化の具体案の方向は,つぎの3点にしはられるともいえるものであった。
1) 平価の迅速な調整
現行制度では平価変更は国際収支の基礎的不均衡の是正を目的とする場合のみ認められるということが,基本原則であるが,この範囲で必要に応じ平価をより小幅かつ漸進的に変更することを容易にして,従来ややもすると平価変更に際してみられた不必要な遅滞を遅けようとするものである。
2) 平価遵守義務からの一時的離脱
平価変更にあたって,新平価設定までの過渡期などについて一時的に変動相場制を導入するものである。
3) 変動幅の小幅拡大
現行協定の平価変動幅は上下各1%と決められているが,これを国際的短資移動の安定化に有効であり,かつ,各国の経常取引に重大な影響をおよぼさない程度に拡大しようとするものである。
諸通貨の中でドルの信認がとくに問題にされるのは,ドルが金に結びついているという意味での基軸通貨であったし,準備通貨としても取引通貨としても,もっとも重要な役割を果していることによる。しかし,そのドルも大量に流出するに及んで,ヨーロッパの一般的論調は「望まざるドル」(unwant-ed dollar)と評価するようになった。これに対してアメリカでもこの問題がとりあげられ,一部の経済学者はビナイン・ニグレクト(いんぎんに無視する)論をとなえた。黒字国が好んでドルを蓄積したいならアメリカとしては,事態を放置していっこうさしつかえはないというのである。しかし,8月15日にドルの金への交換を中止することによって,アメリカ政府はビナイン・ニグレクト論に立っているものではないことを鮮明にした。この措置は不意に出てきたものではない。はるか以前から通貨問題の専門家たちが提案していたものである。金の支援を保証されないことがはっきりした以上,各国はもはや衣裳ダンスの中の洋服はふえればふえるほどよいといった調子で,ドルを無制限にためこむ根拠を失った。各国の通貨は変動相場制に追いこまれたのである。
今回の多角的通貨調整は,為替相場に関してこれまでの固定観念に修正を求めるものである。戦後長い間,主要通貨の平価はきわめて安定的に維持されてきたため,IMFの固定相場制の運営は「釘付け」(peg)に偏しているかの如き観があった。しかし,1971年における各国通貨当局の対処ぶりは「調整可能」(adjustable)を追求したものといえよう。
10ヵ国蔵相,総裁会議の多角的通貨調整に関するコミュニケは次のとおりである。
(1) IMFの一般借入れ取決め(GAB)に参加している10ヵ国の大蔵大臣および中央銀行総裁は,1971年12月17,18日の両日,ワシントンのスミソニアン博物館においてコナリー米財務長官を議長として会合した。
(2) 蔵相および総裁は,国際通貨取決めの安定回復および国際貿易の拡大を目的とする相互に関連する一連の措置につき合意した。これらの措置については,早急に他の諸国政府に伝達する。蔵相および総裁は,これらの措置を秩序ある形で実施するため,すべての国の政府がIMFを通じて協力するよう期待する。
(3) 蔵相および総裁は,各国通貨の為替相場関係の体系(a pattern of exchange rate relationships among the ircurrencies)につき合意した。これらの決定については,各国政府の望むところに従い,平価(par values)もしくはセントラル・レートの形で各国政府が発表する。ほとんどの国の為替市場は20日(月)には閉鎖される予定である。カナダの蔵相はグループの他の諸国に対し,同国が暫定的に変動為替相場を継続し,秩序ある状態を維持するのに必要な場合を除き市場に介入せず,為替相場を市場の実勢(fundamental market force)にゆだねる意向である旨通告した。
(4) より長期的な通貨制度の改善に関する合意が成立するまでの間,為替変動幅を新為替相場の上下各2.25%とする措置についても合意をみた。蔵相および総裁は,本会議に参加しなかったIMF全加盟国がIMFと協議のうえ,緊急に自国の為替相場を決定する必要があることを認めた。蔵相および総裁の見解によれば,この際とくに重要なことは,いずれの国も為替相場政策を通じて不当な競争上の利益を追求してはならないということである。平価(parities)の変更が正当化されるのは,それが不均衡な状態にあることが客観的に認められる場合に限られる。
(5) 蔵相および総裁は,通商取決めに関する諸問題が国際経済における新しい,かつ持続的な均衡を維持するうえで関連があることを認めた。現在,米国とEEC委員会,日本,カナダの間では懸案となっている短期的な諸問題を可及的早期に解決するため,緊急の交渉が進行中であり,またEECとの間でも1972年およびそれ以降において相互協力のわく内でより基本的な問題を検討するに際してはいかなる議題をとりあげるのが適当かをめぐって交渉が進められている。米国は,一連の短期的な関連措置が議会で審議できる態勢になりしだい,米ドルを金との関係において1オンス当たり38ドルに切り下げるための適当な措置を議会に提案することに同意した。
このわく内において所要の立法措置が議会で成立すれば,米国はIMFに対しこれに見合ったドルの新平価を提議する。
(6) 為替相場の調整の即時実施に合意したことにかんがみ,米国は最近賦課した10%の輸入課徴金および設備投資税額控除措置の関連条項をただちに撤廃することに同意した。
(7) 蔵相および総裁は,より長期にわたる国際通貨制度改革について,とくにIMFのわく内において,ただちに検討を開始すべきであることに合意した。その際,次の諸点すなわち,為替相場の安定を守り,新制度においてしかるべき程度の交換性(aporper degree of convertibi11ty)を保証するための適切な通貨上の措置と責任の分担,新制度運営にあたっての金,準備通貨およびSDRのしかるべき役割,流動性の適切な量,設定された為替相場を中心とする許容変動幅および為替相場の適度の弾力化のための他の諸措置について留意すべきことに合意した。以上の各問題についての決定は相互に密接に関連するものである。
平価を据置いた24ヵ国は別にして,新平価を設定しなければならない国々のうち,4月末までに平価制度に復帰したのは13ヵ国,5月には米ドルの新平価が8日に発効したほか16ヵ国が復帰し,復帰後の合計は30カ国となった。しかし,10月までで17ヵ国がいぜんとして新平価を設定せず,セントラル・レートを続けている。その中には10ヵ国蔵相会議の構成メンバーである西ドイツなど主要7ヵ国が含まれている。
1972年3月31日ニクソン大統領が署名し発効したアメリカの平価変更法第2条は次のとおりである。
「財務長官は,この法律によって,1ドルが純金1トロイ・オンスの38分の1に等しい新平価の設定に必要な措置をとる権限を与えられ,かつ,命じられる。設定された平価は,1934年金準備法第14条(c)にもとづく金証券の発行のための金とドルとの関係を定義する法的基準となる。」スミソニアン合意により,各国通貨の対ドル・レート変動幅を上下各1%(実際には0.75%が普通)を上下各2.25%に拡大した。上下1%という幅も幅であるにはちがいないが,これは金本位制下の金現送点に比較しうるほど狭いものであって,固定相場の理念にきわめて近いものである。これに対して,上下2.25%は金利差にもとずく短資移動によって生ずる相場変動を吸収しうるといわれるほどの幅ではあって,理念からは遠ざかることになったが,きわめて実際的な固定相場制に移行したわけである。
70年のIMF「国際収支調整における為替相場の役割]報告によれば,変動幅の小幅拡大は次の三つの利点があるとされている。
① 為替相場の変動の余地を拡大することによって,相異なる各国の国内金融市場の状況に対して短期資本移動が敏感に反応する度合を若干少なくすることとなろうし,またその結果国内金融政策の独立性を若干拡大することとなろう。
② 民間資金の思惑的な移動を安定的な方向に誘導して,公的準備に対する圧力を減少させることがあるかもしれない。
③ 起こりうべき平価変更に対する投機の見込収益を幾分減らし,また,一つの平価から,別の平価への移行を円滑化するのに若干役立ちえよう。
こうした利点に対し生じうる欠点としては,
① 貿易その他の経常取引には好ましくない影響を与えるおそれがあるが,これも変動幅の拡大が比較的小幅なものにとどめられる場合には,さして大きなものとはならないだろう。
② 変動幅拡大を採用した国と採用しない国との間で不公平が生ずるおそれがある。
③ 一次産品産出国に不利な影響をおよぼすかもしれない。
の3点が挙げられている。
そして変動幅の大きさはせいぜい2%ないし3%とされた。このような変動幅拡大は,金利裁定的なものにせよ,投機的なものにせよ,短期資金の移動をある程度まで減じ,国内金融政策のフリー・ハンドを得やすくする可能性がある。
71年末の通貨調整後,一時小康を得た為替市場は,その後の米欧間の金利格差等によって再び動揺を示した。期待されたドルのアメリカへの還流が見られぬばかりか,逆にアメリカよりの一層のドル流出が生じたため,通貨調整後1ヵ月経たずして早くも基準レートを越えたベルギー・フラン(1月10日),オランダ・ギルダー(1月11日),ドイツ・マノレク(1月13日)に続き,2月2日にはフランス・フランが,また2月4日には日本円が,それぞれ基準レートを上回った。その後,やや落ち着いたものの,71年のアメリカの記録的な国際収支赤字が発表され,また当面のドルの交換性回復が政府筋によって否定された2月央以降主要通貨は一せいに高騰した。ベルギー・フラン,オランダ・ギルダーが変動幅の上限に張りついたのをはじめ,ドイツ・マルク,フランス・フラン,日本円等何れも変動幅の上限に接近した。
3月9日には,比較的弱い通貨とみられていた英ポンド,イタリア・リラまでも,基準レートをかなり上回るに至った。多くの中央銀行は,いずれも多額のドル買支えをした。
このときのドル売りの要因としては,基本的にはアメリカの国際収支改善ならびにドルの交換性回復の見通し難や米欧間の金利格差があげられよう。
こうした要因を背景に様々な憶測が乱れ飛ぶごとに為替市場は動意を示したのであるが,これに対し西欧諸国は,相ついで金利を引下げたり,為替管理を強化する等の対策をとった。
公定歩合の引下げは,ベルギが2月3日に0.5%引下げた(5%→4.5%)のに続き,西ドイツが2月25日に1%(4%→3%),さらにベルギー,オランダが3月2日に0.5%(4.5%→4%)と引下げた。これに対し,フランスでは公定歩合の引下げこそなかったものの,実勢金利の指標となるコール市場におけるフランス銀行の介入レートは,2月末から3月にかけて0.5%引下げられた。また直接的な短資流入抑制策としては,すでに以前から種々採用されているが,今回の為替市場の動揺に除しては,西ドイツで非居住者預金準備率の引上げや,現金預託法の実施が,オランダで非居住者預金の付利禁止措置が,またベルギーで銀行の対外ポジション規制を採用した。
米欧間の金利格差は,積極的な低金利政策推進によるアメリカ短期金利の急速な低下によるところが大きく,3ヵ月ものTB入札レートは12月の4.02%から2月央には3.07%へと低下し,またプライム・レートも一部有力銀行では2月末から3月上旬にかけて,4.375%にまで低下した。しかし,その後短期金利はいずれも反騰を示し,TBが2月末3.45%,3月20日には3.92%に,またプライム・レートも3月下旬には4.875~5.0%へと引上げられた。
憶測の流れたアメリカの平価変更法案も3月21日,政府案通り成立し,米欧間の金利格差縮小は西欧諸国の為替管理導入等とあいまって,3月央以降,主要為替相場は鎮静化した。すなわち,基準レートからのかい離率でみると,それまで上限に張りついていたベルギー・フランを初めとして,いずれも低下を示しており,イタリア・リラは再びドル高に移行した。
ガレアッツォ・サンティーのジョン・コナリー財務長官会見記(スチエッソ1972年4月号)はドルの交換性回復問題の所在を示すものとして興味深い。「短期の資本流出にたいするアメリカ政府の無関心さと,ドルの非交換性が,西側における通貨体制に脅威を与えている。ヨーロッパは新しいドル危機が発生した場合には,一年前よりはもつと強い立場をとろであろう。ヨーロッパの通貨のフロート,および協調的切上げの時代は終った。中央銀行によるドルの大量買いの時代は終った。」というフランスのジスカールデスタン蔵相の発言に関してコナリー長官は次のように答えている。
アメリカ政府が短期資本の流出に無関心であると,どうして彼がいうのかわからない。それは事実ではない。われわれはドルの交換性回復に関して無関心であるわけではない。それ以上のことを彼は知っている。
われわれはその件を話したが,ジスカール・デスタンほど情報をもっている人は誰でも,交換性回復のフイクションを維持することが不可能だということを知っている。なぜなら,アメリカの立場はそれを許すほどに強くはない。さて,ジスカール・デスタン,そしてまさにフランス政府のもっている哲学や目的がわれわれと違うものであることを承知している。彼らは管理というものについて強い信頼をおいているが,われわれはそうではない。フランスは金にたいしての哲学と執着をもっているが,アメリカはそうではない。率直にいって彼らはECにおける彼らの哲学やアイディアを追求するために,われわれをある意味でのけんか相手にしているようだ。彼らは同盟の形成を結晶させ,またEC共通通貨の創設をめざしている。これらのはっきりした目的をもっているので,不同意の領域のあることは理解できる。しかし,われわれは不同意の領域をきわめて率直,公平にみつめるべきで,こういったトラブルの原因がそうではないのにアメリカにあるといったようなことばかりいってはいけない。
さらに,なぜ部分的なドルの交換性回復について話し合うことを拒否しているのかという質問に対しては次のように答えている。
われわれはそのことについて話し合おうと思っている。しかし,われわれはただちに交換性を回復するといったことについて話し合おうとは思っていない。なぜならそれは非現実的な希望だ。われわれはそれをこの段階でやろうとは思っていない。すぺての国の通貨の交換性回復について話し合わなければならないが,それは世界の通貨体制の中におけるそれらの国の通貨の地位如何による。しかしこれは注意を払わなければならない問題の1つにすぎない。もっと重要なことは率直にいえば世界の工業国が次のようなことについてまず決意しなければならない。第1に,アメリカの国際収支を黒字にさせることを喜び,またその用意があるのかということだ。アメリカは22年間赤字を続けてきた。アメリカの赤字は誰かの黒字である。他の工業国が決めるべき第1の問題は,アメリカが黒字になることを喜び,そしてまた,その用意があるということだ,そうしてこそ,われわれの立場が改善される。第2に,交換性問題の解決のために話し合う前に,赤字国と黒字国の双方が基本的な経済調整についてどのような行動をとるべきかを決めるべきである。こういったことについて話し合いたい。交換性回復は1つの象徴にすぎない。それは1服の薬にすぎず,病気をなおすものではない。問題は他のことからおきている。それは基本的な経済的不均衡である。そこで,交換性にもどろうとするならば,そしてそれがまた,意味あらしめなければならないとするならば,われわれのもつシステムは,もし他の1つの国がそうとうの期間黒字を続けるならば,そしてかなりの黒字を続けるならば,それを矯正するための自動的な政策といったものが,このシステムの中に組み込まれなければならない。
なお,コナリーは,5月16日辞職,シュルツ行政予算局長がこれにかわった。
72年3月7日,EC閣僚理事会は,「共同体における経済通貨同盟の段階的実現に関する1971年3月22日付け決議の実施に関する決議」について合意し,21日,これを正式に採択した。全文次のとおり。
(1) 加盟国の短期経済政策の調整強化に関する1971年3月22日付け閣僚理事会決定の実施効果を高めるため,次の諸規定を定める。
a 加盟国が閣僚理事会によって定められた経済政策の指針(orientations)に乖離する措置ないし決定を意図する場合には,これら措置ないし決定の実施に先だちすべて下記bで示される調整委員会(le Groupe de coordination)で事前協議を行なうものとする。
b 短期の経済・金融政策に関し,加盟国に相互的かつ恒常的な情報を確保し,閣僚理事会によって定められた経済政策の指針の範囲内で各国の短期の経済,金融政策の調整を行なうため,閣僚理事会に属するものとして,各加盟国担当大臣の特別代表1名およびEC委員会の代表1名とからなる委員会(Groupe)が創設される。この委員会の会合には,場合によっては,景気政策委員会,通貨評議会,財政政策委員会の各議長も出席する。本委員会は,とりわけ経済政策の調整にあたる年3回の閣僚理事会および上記a,に示された事前協議にあたる閣僚理事会の開催の準備のため,常駐代表委員会と緊密に協力する。
c EC委員会は,担当諸委員会の意見を求めたのち閣僚理事会に対し,最もよいタイミングで共同体における通貨安定,経済成長,完全雇用の促進を志向した指令(directive)案を提出する。
(2) 経済通貨同盟の期限付き実現に必要な,地域的,構造的分野での行動に即刻着手するため,閣僚理事会は次の諸点につき原則的に同意する。
a 地域開発面での行動のため,1972年以降,農業指導保証基金(FEOGA)を使用しうる。
b 地域開発基金(Fonds de developpment regional)を創設するか,またはこれとはまったく別な地域開発に充当する適当な共同体財源の制度を発効させる。
閣僚理事会はEC委員会に対し,3月22日付け決議の第3条第4項に応じた提案を提起するよう要請する。閣僚理事会は1972年10月1日までに委員会の提案に基づき必要な決定を下すであろう。
(3)
a 国際通貨制度の枠内で独自の通貨圏の形成に向かって第1歩を踏み出すため,閣僚理事会は各加盟国中央銀行に対し,国際的取決めに基づきIMFによって認められた為替変動幅を完全に利用しながら,加盟国諸通貨のうち最も高く評価された相場と最も低く評価された相場との間の瞬間的乖離幅を漸次縮小させるよう要請する。
この目的のため,諸手続が試みられる最初の段階にあっては,各中央銀行は次の原則に従って自国の為替市場に介入するよう要請される。
(a) 中央銀行総裁会議によって定められる日以降,介入は,当該日に各市場で記録された変動幅を基礎として共同体諸国通貨によって行なわれる。
(b) 変動の限度がせばまるようなことがあればそれにつれ,上記(a)で介入の基礎とする変動幅も縮小され,再び拡大されない。
(c) おそくとも1972年7月1日からは,加盟国2通貨間の瞬間的乖離は2.25%をこえることができない。
1971年3月22日付け閣僚理事会の決議に従い,依然としてより長期的な目標は,共同体諸国通貨間の変動幅をまったく除去することにある。
b この目的のため,各中央銀行は,次の原則に従って自国の外国為替市場に介入するよう要請される。
(a) 自国外国為替市場において共同体諸国通貨の自国通貨に対する相場が上記aで認められた変動の限度に達した場合は共同体諸国通貨を使用。
(b) 自国外国為替市場において米ドルの相場がIMFの規定によって認められた変動の限度に達した場合は米ドルを使用。
(c) 上記変動の限度の内部では,中央銀行間の協調的決定後においてのみ介入可能
c 各中央銀行は,共同体諸国通貨による介入の結果生ずる貸借じりの決済を,中央銀行総裁会議で例外として認められた場合を除き,1ヵ月以内に行なうよう要請される。決済の方式は中央銀行間で定められるが,貸借じりの決済方法は,債務国の対外準備の構成に即して行なうべきものとする。
4) 現情勢下において閣僚理事会は,通貨評議会および中央銀行総裁会議がおそくとも1972年6月30日までに,1971年3月22日付け閣僚理事会決議第3条第8項に従った欧州通貨協力基金の組織,機能,定款に関する報告を提出できることが重要と考える。
閣僚理事会は1972年末までにこの報告の結論について決定を下すであろう。
5) 資本の過度な流入を抑制し,その国内流動性への悪影響を中和しうるよう,閣僚理事会は,1971年6月23日付けで委員会によって提案された国際的な資本流入の規制およびその国内流動性への悪影響の中和のための指令を採択する。
(4) 閣僚理事会は,経済通貨同盟の第1段階の実現に関して委員会によりなされる諸提案,とりわけ税制の調和および単一欧州資本市場の漸進的発展に関する提案が,優先的に閣僚理事会の議事日程に記入されることに同意する。閣僚理事会は議事日程記入後6ヵ月以内にこれら提案について決定を下すであろう。
EC6ヵ国はドル不安がとりあえずおさまり,6ヵ国通貨為替相場が2.25%の幅の内におさまっている好機をとらえて,予定を繰り上げ4月24日域内変動幅縮小を実施した。EC加盟予定国通貨英ポンド,アイルランド・ポンド,デンマーク・クローネは5月1日より,ノルウエー・クローネも5月23日よりこの措置に参加して,それ自体の通貨体制を希求するEC統合へ大きく前進した。このEC域内変動幅縮小操作は,欧州通貨当局から相次いで出されたスミソニアン合意擁護の声明,ドル正式切下げ手続完了などと相まって為替市場安定化要因として働いたといえよう。
6月上旬まで小康状態を続けた為替市場に対し,全相場は高騰を示した。
4月ロンドン自由金市場で,48-49ドル台で推移した後,5月1日50ドル台に乗せ,じわじわ上昇を続けたが,ベトナム機雷封鎖発表の9日,南ア準備銀行総裁デョング発言の翌17日,著るしい急騰を示した。6月に入っても買いが買いを呼ぶ投機で上昇を続け,7日午後の値決めでは遂に64ドル85セントへ高騰した。その後乱高下を続けたが60ドル台の高水準を保っている。この金価格高騰の背景には工業,工芸用需要の着実な増大に対する全供給の減少による需給のひっ迫に加え表面小康状態を保っているがいぜん続く米国国際収支赤字,ドル交換性回復問題など根強い国際通貨不安が指摘されている。
小康状態を保っていた為替市場も6月央以降波乱を迎えた。3月央以降基準レートをわずかに上まわるところで安定的に推移していたポンドは6月15日基準レートを割り込みEC諸国は変動幅縮小措置により,15日以降ポンド買い支えに出動したと伝えられる。しかし,ポンドはその後も下落を続け,EC変動限界点のほぼ下限に張りつき,他EC通貨もポンド下落に伴いいっせいに下落した。イギリス政府は22日,公定歩合を5%から6%へと引上げ,即日実施したが,発表後も投機は止まらず,ついに23日朝,23日および26日の為替市場閉鎖を決めるとともに,ポンドの暫定的変動相場制採用を発表した。この間ポンドは10億ポンド売られたと伝えられている。その直後に,欧州諸国も大量のドル売りにみまわれ,欧州為替市場も同日閉鎖され,ポンド圏諸国も追随し,日本も24日閉鎖した。
イギリスは予定通り,27日変動相場制で為替市場を再開したが,ECも27日英ポンド,アイルランド・ポンド,・デンマーク・クローネを除いて,E C域内変動幅縮小維持,スミソニアン合意遵守,ポンドとともに弱い通貨として注目を集めていたイタリア・リラへの特別支援の線で合意に達し,28日EC諸国の為替市場は再開された。
ポンド危機の一つの原因とされているバーバー蔵相の予算演説(3月21日)の一節は次のとおりである。
諸君は同意されると思うが,ここ数年の国際収支混乱の教えにしたがえば,受け入れがたいほど国内経済をゆがめてまで,高すぎるにせよ,低すぎるにせよ,非現実的な為替相場を維持することは必要でもないし,望ましくもない。
ポンド・フロートに関する代表的新聞論調は次のとおりである。
(1) ファイナンシャル,タイムズ(イギリス)72年6月24日
「経済の動向からみていずれ切下げざるを得ないにもかかわらず,現状では切下げの理由づけが十分そろっていないため,為替市場での投機に関して難しい立場にあった蔵相にとって,政治的に適切な判断であった。また経済的にみても,たとえ切下げるにしても幅をいくらにすれば良いものか難しい状態であったから,フロートは適切であった」。
(2) ディー・ウエルト(西ドイツ)72年6月24日
「ポンドのフロートそれ自体は決して予想外の出来事ではなく,おどろくとすれば,その時期の早さと,国際収支上差し迫った必要性がない段階で打たれたことである。今次措置は対外的必要性よりも,国内政策上の配慮からとられたものであり,かかる国内均衡優先の考え方は,3月のバーバー蔵相演説にも明らかである。現在の微妙な国際通貨体制の一角から英国が脱落したことは,長期的通貨不安再燃のシグナルとなる恐れもある。」
(3) フランクフルター・アルゲマイネ(西ドイツ)72年6月24日
「かって国際通貨不安はセンセイショナルな出来事であったが,今では日常茶飯事になってしまった。ポンドのフロートにあたって,各通貨の個性を認識せざるを得ない。ポンドはすぐれて投機の対象になり易い通貨であり,それは正しくマルクについても反対の意味であてはまる。英政府はポンド相場の防衛を放棄したが,今や外貨準備高にかわって為替相場が変動する時代になった。政府が経済安定をなおざりにする限り,如何なる通貨体制をとっても,しょせんインフレを防ぐことは出来ず,経済安定を指向する意志こそ,どんな通貨制度にもまさるものでである。
71年5月のIMFのコミュニケは「留意する」という表現を使わず冷たい態度と評されたが,72年6月にはこれを使っているのは注目される。
(1) 1971年5月9日,西ドイツ等の平価維持操作停止措置等に関する声明
ドイツ連邦共和国は,巨額の資本移動をはじめとする最近の外国為替市場の動向にかんがみ,同国通貨の為替平価を一定の変動幅の範囲内に維持する操作を一時停止する旨IMFに通告した。オランダ政府は最近の外貨の動きおよび西ドイツ当局の措置にかんがみ同様の措置を採らざるをえなくなった旨,IMFに通告した。
両国は,IMFと引き続き緊密な連絡を保ち,IMF協定に従い全面的に協力し,さらに,国際通貨制度の機能円消化を図るため平価維持操作を再開する旨確約している。
ベルギーは,巨額の資本流入を防止する見地から,資本取引のための自由市場に関する諸規制を改正する旨,IMFに報告した。
(2) 1972年6月30日,イギリスの平価維持操作停止措置に関する声明
IMFは英国政府からポンドの市場相場を,しばらくの間,米ドルや欧州共同体(EC)諸国通貨のいずれに対しても,先に発表された変動幅のワク内に必ずしも収められないとの通告を受けた。英国政府はまた情勢が許せばできるだけすみやかにIMFの正常な変動幅のワク内に戻り,またECの域内変動幅縮小計画に加わりたいとの意向を表明した。
英国政府は為替管理は英国居住者とアイルランドを除くスターリング地域居住者との資本取引にも適用されると述べた。英当局はIMF第8条のもとにIMIと進んで協力する旨,表明した。
IMFは英政府が特別な情勢のため右のような措置をとらざるをえなかったことに留意する。IMFは,また英国がIMF協定を順守し,できるだけすみやかにIMFの決定に基づく変動幅のワク内に戻る意向を表明したことを歓迎する。
IMF,なかんずく,専務理事は英国の平価の枠内復帰につき英当局と密接な協議を保ち,この協議に関しては専務理事が,この協議の為,適切な措置をとる。
二重市場相場制に関して,IMFはベルギー・ルクセンブルグの制度が創設された1年後の1956年7月25日一般的な決定として次のように認めた。「経常取引に関する取決めのメカニズムをなんらそこなわず,常に資本移動規制のための便宜的なものであるかぎり,二重相場はIMFの規定に違反するものではなく,その承認を要しない。」他方, ECはIMFより厳しかったが,それは資本自由化に関して加盟国が公式に受諾した義務からみているのであって,資本移動に関する差別的制度だとして,ベルギー・ルクセンブルグを非難した。しかし,結局,自由為替相場が管理市場相場の近辺にとどまっている限り,ローマ条約に違反していても,実際的な影響はないと好意的に考慮された。
西ドイツ政府の国際通貨制度弾力化に関する考えかたは,1972年1月19日の連邦議会におけるシラー蔵相の演説の中で明らかにされている。すなわち,各国経済動向の実際の推移に類似性が見出されない以上,攪乱的な短資の流入から国内の経済安定政策の遂行を守るためには,為替変動幅の拡大など弾力化措置は必要不可欠であるとしている。これには,引続く海外短資の流入が連銀の金融政策を無力化し,政府の景気安定政策の遂行に大きな障害になったという過去の苦い経験と,71年後半のフローティングが海外短資の流入抑制策として,きわめて有効であったという判断がある。
しかし,為替変動幅の拡大,平価の弾力的変更などの国際通貨制度の弾力化措置は,輸出業者,とくにプラントなど長期輸出契約について為替相場変動による危険負担の増大を意味する。そこで,長期輸出業者の保護を計ると同時に,安定的な輸出の増大を確保するため,西ドイツ政府は将来のありうるべき為替相場変動に対し,為替損失補償保険制度の導入を決定した。
一方,内外金利差にもとづく短資流入に対しては10年以上も前から銀行の非居住者預金について規制措置を課している。
① 非居住者預金に対する金利
1971年5月10日,マルクが変動相場制に移行したが,これと同時に非居住者預金の付利を禁止した。
② 非居住者預金準備率
居住者預金と同様,銀行のランクによって非居住者預金準備率は異なるが,大銀行についてみると,最近は次のように変更されている。
このほかに,増加準備率がある。70年12月1日の改正で「70年10月23日,31日,11月7日,15日の平均水準を超える増加に対する付加準備率」を30%に,また,72年3月1日の改正で「71年10月23日,31,11月7日,15日の平均水準か,70年のそれに相当するそれの20%減の水準を超える増加に対する付加的準備率」を40%と決められた。72年6月29日の改正でこれが60%に改められた。
さらに,企業の海外短資取入れを抑制するためシラー財政経済相は1971年7月2日に,ブリュッセルの蔵相会議で初めて現金預託制度(Bardepot制度)の導入を示唆する発言を行ない,71年7月21日閣議決定された。その後,連邦議会の審議を得て12月10日可決,17日連邦参議院の同意を得た。制度の内容を規定する施行規則については72年1月11日の公聴会を経て若干の修正が行なわれた後,3月1日の閣議で正式決定した。
すなわち,この現金預託制度は対外経済法の一部改正法(1972年1月1日施行)によって,その制度の大枠が明らかにされ,さらに3月1日施行の対外経済法施行令の一部改正政令および連銀の預託率決定政令によって,細目が決定し,同日から実施に移されたものである。本制度は,内外金利差による短資流入規制を目的としたもので,有効に機能するか否かは,ひとえに今後の国際金融情勢いかんにかかっているといえる。
対外経済法の一部を改正する法律(1971年12月28日)により次の第6条aが追加された。
第6条a
外国経済領域からの国民経済上有害な資金および資本流入の防止
(1) 通貨政策および経済政策の有効性が,外国経済領域からの資金および資本の流入により,経済全体の均衡が害なわれるほど影響される場合においては,政令により居住者が非居住者より直接あるいは間接に取り入れた借入金またはその他信用供与による債務額の百分率による割合を一定期間連銀の口座にマルク建,かつ,無利息で預託する義務を有する旨,定めることができる。上記にいう信用(kredit)とは,経済的に信用の受入れとなるあらゆる法律行為および取引を意味する。非居住者たる法人の支店および営業所であって本邦経済領域内にあるものは,当該法人および法人の他の支店および営業所に対しては,本法律上,法的に独立した存在とみなされる。
(2) 第1項第1文の規定は,連銀の準備預金制度の対象となる債務については適用しない。
(3) 政令により,居住者および非居住者間の貿易および貿易外取引の通常決済に直接関連するある種の債務を預託義務より除外する旨規定される。さらに第1項に定める利益が害なわれない限りにおいて政令により一定の債務を預託義務の対象より除外することができる(注:3月1日の政令により控除額は200万マルクとなったが,これにより,対外債務を取り入れている企業約3000社のうち,預託義務を有するものは約1000社が対象となった。6月29日50万マルクに引下げられた)。
(4) 第1項にかかげる預託率は,それぞれ政令により定められる。
なお,預託率は50%を上回ってはならない。(注:3月1日施行の「預託率決定政令」により40%と定められた。)
(5) 以下略
連銀は6月29日の理事会においてポンド危機をめぐるドイツへの短期資金流入について,預金準備率の引上げなど次のような流動性吸収措置を決定した。これによって,8億ドルの流動性が凍結される見込み。
(1) 居住者預金に対する準備率を7月1日より20%引上げる。
(2) 非居住者預金残高に対する準備率を7月1日より,全ての金融機関について次のとおりとする。一覧払い預金40%,定期性預金35%,貯蓄預金30%,定期預金30%
(3) 非居住者預金の7月1日以降における増加額に対する限界準備率を60%に引上げる(従来30%)。
(4) 金融機関に対する再割引枠を8月1日より10%削減する。
(5) 現金預託率を7月1日より50%に引上げる(現行40%)。
この為替管理強化の決定をめぐって,これを推進する連銀のクラーゼン総裁とこれに反対するシラー財政経済相の間で意見対立があったと伝えられる。後者は翌7月6日辞職し,シュミット国防相が7日横すべりした。
現内閣はブラント首相のひきいる社会民主党内閣であるが,その社会民主党の論客ハイソツ・ディートリッヒ・オルトリープ教授の71年のベストセラー「無責任社会―いかにして民主主義をダノにしているか―」は西ドイツの経済思想をみる上での示唆となりうる。その要点は次のとおりである。
(1) ナチスがその悪しき目的のために利用した各種の手段-それ自体としては善でも悪でもない手段(たとえど統制経済)―がまさにそれがナチスによって利用されたという理由で,本来的に悪しきものとしてタブーとなった。戦後の西ドイツで自由経済が讃美され,一切の「統制」が道徳的な色合いをこめて拒否されてきたのも,こうしたナチス体験の一つの結果であったといってよい。
(2) 当時の個人主義的な時代の潮流は社会民主党(SPD)をも押し流し,SPDは,1959年のバートゴーデスベルク大会やマルクス主義の最後の残滓を棄てさり,エアハルト流の市場経済原則を全面的に受入れ,産業国有化の代りに私有財産制をとり,階級政党の代りに国民政党であることを宣言し,そしてSPDこそが「最良の市場経済」を提供できると主張した。
(3) 「個人主義的経済主義」の精神は,企業家の投資意欲に依存する完全雇用,成長政策にとっては有利である。市場経済にどのような欠陥があるにせよ,また,それによって,どんな社会的解体現象が発生したにせよ,資本主義がこれまでのところ成長に最も有利な経済秩序であったことは否めない。とくにそれが国家の積極的な景気政策によって支えられた場合は,なおさらそうである。1950年代の経済奇蹟がそれを実証したし,また,1966~67年の景気後退がSPDの経済相(シラー)によって克服されたこともその例証となる。
1968年5月に全国的ストの波が勃発して,経済活動が著しく阻害されたが,その収拾策として全国的な労働協定であるグルノーブル協定が締結されて大幅な賃上げが行なわれた。その結果,製造業の賃金率は,68年上期には前年同期比6.2%増であったが下期にはこれが15.9%増と一挙にはねあがった。この大幅な賃金増加は,個人消費を激増させたばかりでなく,インフレ予想から設備投資,在庫投資が膨脹し,経常収支は悪化,またフラン切下げ予想が発生して,大量の短資流出をまねいた。
こうした事態に対処して政府は,早くも68年11月から金融,財政上の引締め政策へ転換し,需要の抑制,物価統制,輸入抑制および輸出促進,為替管理など,直接的,間接的な国際収支対策をとったが,その効果があらわれないまま,ついに8月11日,フラン切下げをよぎなくされた。
フラン切下げ後それを支援する措置がつぎつぎととられた。まずフラン切下げと同時に,物価を一時的に凍結し(8月15日~9月15日),また凍結終了後もゆるい物価統制形態である物価契約制度が復活し,さらに9月上旬には,政府投資の年度内凍結,公務員増員抑制,景気調整基金設置,法人税の早期徴収,減価償却率の引下げ,投資減税の早期撤廃などの一連の財政引締め措置が経済再建計画の名の下に発表された。また金融面でも銀行貸出制限の強化,公定歩合の再度の引上げ,賦払信用規制の強化などが行なわれた。
政府は9月の経済再建計画の発表にさいして,具体的な政策目標とスケジュールを発表した。それによると,①70年春までに国内均衡を達成し(超過需要の除去),②70年央までに貿易収支を均衡させ,その後若干の黒字を出す,ということであったが,それは期待以上の成果をおさめたといえよう。
とくに貿易収支均衡の達成は予想外に早く,70年はじめから黒字化した。切下げを反映して輸入価格が大きく上昇し,このため輸入数量の増加率が69年の21.5%から70年の6.4%へと大幅に縮小した。
1960年代はじめ以来の慢性的な国際収支赤字と,それを背景とした危機の連続がポンドに対する信認をすう勢的に低下させていたのに加えて67年,次のような短期的要因がイギリスの国際収支を極度に悪化させた。
① アメリカおよび欧大陸諸国の経済停滞ないし後退によりイギリスの輸出が減少した。
② 引締め政策による国内需要の頭打ちと相まって経済活動が弱含みとなり,冬の大量失業のおそれも出てきたところから,政府は67年はじめ頃から政策の方向をしだいにリフレ政策へ切換えた。その結果,経済活動が再び上向きとなり,輸入も増えはじめた。
③ 4月以降アメリカの金利上昇により短資の流れが流入から流出へ変った。
④ 賃金凍結が66年末に終了,また,そのあとをうけた「きびしい賃金抑制」も67年6月末におわってその後賃金が上昇した。
⑤ 6月に中東戦争が勃発,中東産油国の対英石油禁止,スエズ運河閉鎖など,ポンドにとって不利な外的事件が発生した。
⑥ 最後に9月末に港湾ストが勃発した。
こうした経済的,政治的諸要因が重なって,基礎収支が再び赤字化,またポンドの信認も極度に低下し,ついに,11月に危機的様相を呈し,14.3%のポンド切下げに追いこました。
ポンド切下げはいうまでもなく,国際収支の改善が第1の目的であるが,それと同時に輸出,投資先導型の経済成長パターンの導入をも狙っていた。
そのため,切下げ後数回にわたって消費を中心とした需要抑制措置がとられた。
まず,切下げと同時に(1)公定歩合が6.5%が8.0%という危機レートヘ引どの財政措置がとられた。また68年4月からの法人税引下げと国防支出削減が予告された。しかし,これらの措置は,消費抑制に十分な効果をあげず,個人消費の増勢持続とそれを背景とした輸入の増大がつづいたtこめ,その後も引締め措置が漸進的に強化された。
経常収支の黒字達成はようやく69年第1・四半期であり,また,基礎収支の黒字化は69年第2・四半期であった。しかし,その後は急速に改善がすすんだ。
当初の予定よりやや遅れた理由は,国内消費の堅調を背景に輸入の情勢がかなりの期間つづいたためである。一方,世界の工業品輸出にしめるイギリスのシェアがそれまでの長期低落傾向から一応脱却して,68年以降安定化してきたことからも窺われるように,イギリスの輸出はきわめて好調であった。これは世界貿易のひきつづく大幅拡大にもめぐまれていたが,なんといっても切下げ効果が大きかったといえよう。
アメリカがドル切下げにまで追込まれる過程は,ポンドの場合にきわめて類似している。ただ,その後の経済政策をみると,イギリスがともかくも懸命に補完措置,すなわち引締め措置をとったのに対して,アメリカの場合は,「補完」といった性格のものではなく拡大策をとることによってむしろ効果を減殺しているといえよう。もし,「補完」措置といえるものがあるとすれば,他国がアメリカを上回る拡大政策をとるよう要請したことであろう。
72年に入ってアメリカ政府は,アメリカ商品の主要市場である西側11ヵ国駐在のアメリカ大使館に命じて任地国の対米貿易が通貨調整でどう変わるかを調査させた。出先の政府や実業界と接触したこの調査は,ドル切下げの効果を判断する上で有益である。以下,数ヵ国について紹介する。
周辺国の景気停滞でベルギー自体の輸出が伸び悩んでいるが,これがアメリカ商品に対する需要の伸びを抑えている,通貨調整の効果が出るまでに時間がかかるというのが貿易業界の観測だが,ベルギーの輸入に占めるアメリカ商品の割合は6~8%にすぎず,EC域内輸入がすでに60%,来年は4ヵ国が加盟するといった状況で,こういった域内貿易の高まりや,さらに日本品に対する差別的障壁の軽減がアメリカ商品に不利に働く。ベルギー・フランに対するドル切下げ分のうち一部はアメリカの輸出業者の値上げにより,また他の部分はベルギー輸入業者の利幅拡大により,最終需要者価格はほとんど下がっていない。またアメリカ以外の供給者とベルギー消費者との取引パターンは容易に変わりうるものではない。切下げの効果を無にするような価格引上げを行なわなければ,アメリカは機械,化学品,合繊などの分野で輸出を伸ばすことができるはずである。だが,長期的には在ヨーロッパの米系企業の増産で切下げ効果は減少しよう。
アメリカ向け輸出については,ダイヤ,繊維,ガラスなど,アメリカ市場を重視する産業ほどフラン建価格を引下げている。
アメリカ商品の売れ行きは好調でドルの切下げがあったからといってこれ以上には伸びないだろう。しかし,これからは金融引締めで市場は弱くなる。また,機械,化学などではアメリカの輸出価格引上げがみられるので,ヨーロッパ企業の値下げ競争が進めば,ドルの切下げ効果は失なわれよう。なお,繊維,合板では切下げた分だけアメリカの輸出価格が引上げられた。
景気が71年ほどではないので,72年中にアメリカからの輸出が大きくふえることはないだろう。73年以降はアメリカの輸出価格の動向いかんによるが,アメリカの競争力が増大したことは疑いない。多くの商品で輸入先としては西ドイツが1位でアメリカがこれを追っている。この数年,価格に敏感な商品分野では,西ドイツの方がよくやっている。
西ドイツ市場に入っているアメリカ品の20%が切下げで有利になる,一部は売上げが増加しようとし,一部は売れ行き減少をくいとめることになろう。のこりの80%は切下げの影響はない。12%のレート変更が響かないほど価格が高いか,あるいは価格が重大要素ではないからである。
アメリカ品の60%は工業原料と機械設備であるため72年は西ドイツの投資低迷の影響を大きく受ける。
西ドイツからアメリカへの輸出は通貨調整によって伸びは落ちるであろう。西ドイツの輸出業者は短期的にはアメリカ市場でめシェア確保のため,価格を下げてドル切下げを相殺するであろう。
国内の政治経済情勢や国際環境が不確実でイタリアの輸入についてはっきりしたことがいえない。生産,投資のおくれで,アメリカが得意とする原材料や資本財の輸入は振わないであろう。ドル切下げはアメリカ品の競争力を強めるであろうが,とくに競争国商品との15%以下の値開きの場合にそうであろう。価格に敏感な機械の一部にはそのきざしがあらわれているが,コンピュータのように確固たる地位を築き上げている高度技術商品には関係ない。
一部の商品では,ドル価格があがって切下げ効果を無にしている。イタリアは域内貿易を重点に考えているが,アメリカ商品はECに加盟するイギリスと高度技術商品の分野できびしい競争にさらされるだろう。
イギリスのインフレはアメリカのそれを上回るのでドル切下げは,イギリス国内の景気回復とあいまってアメリカ品の輸入を増大させよう。だが,大多数の観察者は輸出入価格でみた通貨調整の効果がはっきりするのには約2年かかろうということで一致している。イギリスのEC加盟による打撃を相殺する役目は果たそう。第3国市場とくに豪州,マレーシア,香港,シンガポール,中近東においてアメリカ品は,イギリス品に対していっそう有利になろう。
アメリカ労働統計局の推計による長期的な経済成長は,1969~79年に年平均4.3%上昇すると予測されている。この成長率は60~68年の平均4.5%を,0.2%を下回っている。経済成長は労働力の増加率と生産性の上昇率によって規定される。
労働年齢人口(16歳以上)は1980年に,167百万人と予想され,これら労働年齢人口の労働への参加率は若干高くなり,労働力人口は,1968年の82百万入から1980年には22.4%増加して1億人に達するとみられている。すなわち,労働力人口の94%増加までは労働年齢人口の増加,残り6%が参加率の上昇による。
労働力の供給は労働力人口の増加とともに労働時間の動向にも左右される。1957年から1965年までに民間部門における平均週労働時間は年0.2%の割合で減少した。1968~80年については年0.1%の減少とみられる。この週労働時間の減少は戦後直後は基準労働時間の縮小によってもたらされたが,後にはこの要因よりもパートタイムの増加が原因している。1956~68年に雇用量は年1.5%増加したが,パートタイムの労働者は5.7%増加している。1956年には雇用者数の6.8%であったパートタイム雇用量の数は,68年には,11.1%になっているが,1980年にはさらに増加するものとみられる。将来の労働時間の減少は,これらパートタイム労働力の増加と現在(1968年)週平均労働時間44.8時間と非農産業の38.1時間に比して労働時間の長い農業部門の労働時間の短縮によってもたらされるとしている。
生産性の上昇は民間部門について1970年代を通じて3.0%上昇するとみられる。農業部門の生産性上昇は最近の年6%からやや下がるが,依然5.7%程度になるとみられている。これに対して非農民間部門の生産性上昇は2.9%と予測されている。生産性上昇率3%は48~68年の3.3%を下回っているが,この生産性上昇率の低下は主にサービス経済への移行によってもたらされる。アメリカの国民総生産(名目)に占めるサービス生産の割合は,1950年の31%,′1960年の37%から70年には42%と拡大しているが今後この傾向はさらに進むものとみられる。(サービス生産には運輸,通信,卸小売,賃貸その他非財項目が含まれる)。
上述の予測を補足して,構造変化の特徴といったものを摘出してみよう。
1) 労働の質的変化
労働力の質に問題が生じている。婦人労働者,若年労働者等,一般に生産性の低い労働者が増加している。また若年労働者の生産(仕事)に対する考え方が変ったという指摘が多くなっている。
1972年4月ギャラップ調査社の発表によると,全米300ヵ所から1569人の成人について勤労度の調査をしたところ,次のような結果であった。
(質問) アメリカの労働者は一生懸命働いていないといわれるが,そう思うか?
(解答) そう思う そうは思わない わからない
総 合 54% 35% 11%
男 性 60 34 6
女 性 47 37 16
18~29歳 51 44 5
30~49歳 63 34 3
50歳以上 65 26 9
(質問) あなた自身の場合,やろうとすればもっと仕事ができますか?
(解答) 男性のみ
Yes No
総 合 57% 43%
18~29歳 72 28
30~49歳 59 41
50歳以上 43 57
大学卒 70 30
高校卒 40 60
中学卒 34 66
専門職 70 30
ホワイトカラー 70 30
ブルーカラー 54 46
農 民 51 49
2) 財産業向け投資の低下
GNPに占める固定投資の割合は先進国中最低であるが,その上,投資に占める製造業の割合は66年のピークの44.4%からしだいに減少して,72年は36.3%にまで低下すると予想されている。製造業の割合の低下は将来の物的供給力,生産性向上といった点からみると問題である。
コンピューター,事務用機械,科学計測機,民生電子機器,航空機などの高度技術品の輸出は65年以来,年100億ドルで横這いであるが,逆に外国品がアメリカ市場にはん乱している。
1950年代から60年代央へかけてアメリカは年間200億ドル余のR&Dを実施した。日本とヨーロッパとを合計しても,この4分の1にすぎなかった。しかし1人当たり生産水準が飛び抜けて高いためでもあって,アメリカの新技術は生産性の上昇にあまり寄与しなかった。最近数年間,アメリカにおけるR&Dの増加率は,1~2%に落ちている(戦後の平均は2.6%)。これに対して,西欧は4.5%,日本は約10%と急ピッチにR&Dをふやしている。また,軍用目的のR&Dを除外してみると,68年のGNPを100とするとアメリカの民生R&Dは1.5%にすぎないが,一万,西ドイツの場合,すでに26%に達している。
69年の連邦R&D支出実績によると,航空機,ミサイルが過半数を占め,これにエレクトロニクスを合わせると,実に80%になる。これに対して,企業のR&D支出は航空機,ミサイル,エレクトロニクスを合わせても33%で広告,宣伝費の半分にすぎない。
4) 重化学部門における国際競争力の低下
アメリカの輸出競争力は労働集約商品のみならず,機械,化学といった部門でも後退している。
71年8月の新経済政策のうち貿易政策についていえば,それは,もはやアメリカひとりが巨人であるという考えを捨て,相互主義を強調しつつ競争者のひとりとしての認識のもとに力の交渉を進める立場を明らかにしたものである。具体的には,EC,日本との通商交渉で,農産物の自由化を要求するといった自由主義的側面をみせる反面,国内工業の圧力が加重されるにしたがい,しだいに保護主義的傾向を強めている。
アメリカは広大な土地と黒人労働力を基礎にした一大農業国であるが,各国の輸入禁止措置を受けて農産物輸出の伸びが思うように進まないのが現状である。とくにECが60年代に入って共通農業政策(CAP CommonAgricultural Policy)の推進と,農産物に関するECの地中海諸国特恵の影響を受けてアメリカのECに対する農産物輸出は実質的に減少している。一応の多角的通貨調整のさい,アメリカは国際収支改善のためには,互恵互譲の立場からドルの引下げと通商交渉とを一括して行なわなければ効果はないと主張した。この後の交渉を経て,ECとの間に72年2月11日,主として過剰小麦の調整保管,果物,葉タバコについて合意に達した。EC農業についてアメリカは保護政策,差別政策の撤廃を要求しているが,ECは現在以上に強化することは控えるといった態度のようで,現在のすう勢が続けば,1980年には全ての種類の穀物,その他農産物についても高い自給率を達成することになるともいわれている。イギリスなど3ヵ国が加盟して73年からECは9ヵ国になれば,アメリカの農産物輸出はいっそう苦境におちいる。こういったなかで,アメリカは日本に対しても6,1農産物輸入の増加を要求しつづけている。
自由化要求が前向きの解決であるとすれば,保護主義は後向きの解決である。アメリカでは失業率の高いとき,保護主義的動きが強くなるが,今回もまた繊維,鉄鋼の自主規制要求,電子電気製品に対する反ダンピング法の運営強化,相殺関税適用のための調査となってあらわれている。従来と異なるのは,第1に,国際収支建て直しという大義名分が保護主義を支持していることである。第2に,2国間の貿易収支均衡を重視するようになったことで,こういった点から,日本品がとくにねらわれているほか,カナダとの自動車協定についても問題になっている。第3に,米国国際販売会社(DISC)制度が発足し,輸出振興策を積極的にとり出したことである。
こういった措置は,ことの是非はともあれ,アメリカの貿易収支の改善に直接寄与するであろう。
1972年2月の外交教書は,防衛負担の分担について次のように述べている。
「大西洋同盟の1970年の戦略検討の結果,われわれの防衛努力の論理的根拠を浮き彫りにし,共同戦略の成功への各国の強い利害関係をすべての同盟国に痛感させた。有意義な成果は負担分担の増大であった。
―1970年12月,われわれの同盟諸国のヨーロッペ防衛改善計画を実施することによって,北大西洋条約機構(NATO)の通信施設の近代化,NATOの航空機のための避難施設の建設のペースアップ,そして自国の軍隊の改良に,さらに10億ドルを割り当てた。
―1971年12月,同盟諸国は,1972年の防衛分担額をさらに約10億ドル増加することを発表した。これは大西洋同盟の戦車,対戦車用兵器,大砲,戦闘機,ヘリコプター,艦船の大幅な追加という形で表われた。
防衛分担問題のもう1つの側面―ヨーロッペの駐留米軍の国際収支上の経費-は,まだ解決されていない。われわれの防衛上の公約に起因するアメリカの国際収支の赤字は,国際通貨制度とわれわれの軍事計画の両方をゆがめている。現地通貨によるわれわれのNATO支出のうちの実質的な部分は,米軍の大半が集結しているドイツ連邦共和国との財政的取り決めによって相殺されている。1972,73年のための新しい取り決めは20億ドルとなっており,これには,米軍の住宅施設を修理するための1億8,300万ドルも含まれている。これらの取り決めは協力の証拠ではあるが,長期的な解決策ではなく,更新の時期がくるたびに,大西洋同盟関係を緊張させている。
この問題に関しては,アメリカが国内で軍隊を維持する場合となんら変わらない国際収支上の影響しか受けずに,ヨーロッパにおいても軍隊を維持できるような取決めを目ざしてわれわれは努力すぺきである。
そうすることによって,国際収支問題は解決し,大西洋同盟は,安全保障上の規準にもとづいて同盟軍を計画することができるであろう。
アメリカと西ドイツとの間の外貨補償協定の推移は次のとおりである。
(ii)内容 1961年7月1日付の第1次協定(63年6月末まで有効)をはじめとして,今日まで7回の協定が結ばれている。現行の第7次協定は71年12月成立,有効期間は71年7月1日~73年6月末である。アメリカ側要求額は75億マルクであったが,結局66.5億マルク(①兵器購入40億マルク,②中期債購入20億マルク,③現金支払(駐留軍兵舎改造)6億マルク)で合意をみた。このうち兵器購入についていえば,従来の前払い金のうち,未支出分が12億マルクもあって,これがアメリカで特別勘定として凍結されている。すでに第3次協定当時から,兵器購入の実行が困難になっているのである。前回(69年)の協定においても兵器購入費32億マルクが計上されていたが,これはそっくりそのまま特別勘定に凍結されたままとなっている。今回(71年)も,兵器購入は難問題の一つであったが,ファントム戦闘機175機の購入(74年1月から納入)で解決した。だが,戦闘機については,他の欧州諸国と共同開発中の戦闘機MRCAがあり,その1部が犠牲にされることになった。今後も兵器購入は困難の度合いを増すものとみられている。「この規模の兵器購入は次の協定では実現できまい。国防軍の需要は今後更新需要のみとなるし,また,ドイツの航空機産業に不利となるからである」(Handel-sblatt紙1971年12月13日号)。
71年8月,アメリカが新経済政策を発表したあと,フランスは二重為替相場制をとって,貿易および主要サービス取引に関しては旧レートによる固定相場制を堅持した。
年末の多角的通貨調整の場においては,ドルの7.89%切下げに対して,フランはポンドと同様,平価を変更しないことで,ドルに対して実質的に8.57%の切上げを実施した。
この変動期間申におけるフランの対世界実質切下げ幅や,年末の多角的調整による実質切上げ幅は必らずしも明らかではないが,ロンドン,エコノミスト誌の計算(71年12月25日号)によると,71年11月央現在では4.7%切下げとなり,また12月18日以降においては0.5%の切下げとなるという。そこで大雑把にいえば,71年8月央から12月央までの4ヵ月間,フランは実質的に4%前後の追加切下げとなり,12月央以降はその大部分が再関係海外支出額び失われたといってよかろう。
したがって,71年の通貨調整過程のうち,フランスにとって大きな影響があったのは,8~12月間の約4ヵ月間であって,この期間はフランスの輸出入にとって有利に作用したとみることができる。
とはいっても,現実の貿易数字からそれを読みとることは困難である。たとえば第4四半期の輸出額(季節調整済み)は,前年同期比でみれば16.8%増で第3四半期の前年同期比増加率16.3%よりもやや高いが,前期比でみれば第3四半期の6.1%増に対して第4四半期は3.5%増に鈍化している。
結局のところ輸出の好調はつづいているが,変動相場期にとくにその伸び率が高まったということもできない。これは,現実の輸出が為替相場の変化のほか,輸出先の需要や自国の輸出ドライブなどにも動かされるためであり,71年暮頃には最大の市場である西ドイツの景気が停滞的であったという不利な要因があったことを考慮にいれねばならない。
だが,輸出の伸び率ではなく,世界製造品輸出にしめるフランスのシェアという観点からみると,そのシェアは68~69年の8.2%から,70年8.7%,71年9.3%(推定)という風に,かなり急速に上昇している。この点からみると,71年の輸出は,69年夏の切下げに加えて,5月以降のマルク変動相場制移行,スイス,オーストリアの切上げ,8月以降の主要国通貨の変動相場制移行といった一連の国際通貨調整過程から利益をうけたとみてよかろう。
71年8月のアメリカ新経済政策の発表後,ポンドは他の主要通貨と同じく変動相場制へ移行し,対ドル・レートは実質3%前後の切上げとなったが,西ドイツや日本などの主要通貨の大幅な実質切上げがあったので,対世界実質切上げはもっと小幅であり,前記エコノミスト法の計算では11月央現在で0.3%の実質切上げに相当するという。その後12月央のワシントンの多角的通貨調整でポンドはフランと同様,平価を変更しないことで対ドル・レートを実質的に8.57%切上げたが,対世界実質切上げ幅はやはりエコノミスト法の計算で0.8%となる。
67年のポンド切下げ効果はその後のイギリス物価の大幅上昇によってほぼ出つくしたとみられるので,71年末の多角的調整による実質切上げはポンドによってそれだけ重荷となり,こんどは一転して切下げの方向に投機が走った。
第3-9表 アメリカ,イギリスのカナダ向け直接投資残高の推移
第4-1-58表 イギリスの国内信用増加(DCE)と通貨供給
第4-1-65表 西ドイツの企業(金融業と住宅業を除く)の内部金融比率
第4-1-97表 6月27日のイタリア中銀の為替管理強化措置
第4-2-12表 エカフェ地域の対外資金の流入と対外公的債務の支払い状況
第4-2-13表 アジアにおける借款信用供与および無償供与の配分比率
第4-3-2表 A.G.Ashbrookおよび外務省推計のGNP比較表
第4-3-6表 1972年第1四半期の中国の地域別工業生産状況
第4-3-38表 ソ連・東欧の工業部門における雇用の伸びと生産性上昇
第4-3-39表 ソ連・東欧の工業生産における生産財と消費財の比率