昭和45年
年次世界経済報告
新たな発展のための条件
昭和45年12月18日
経済企画庁
文化大革命の約3年半にわたる激動をへて,1969年4月に中国共産党第9回全国代表大会(9全大会)が開催されたが,この9全大会を前後にして,中国経済もようやく安定と回復が示されるようになった。
1969年の工農業生産については,北京当局の公表は増産を伝えるものが多いが,アメリカ(Current Scene),イギリス(Quarter1y Economic Revi一ew),日本(外務省資料),国連(1970年エカフエ報告)など西側の各種資料をみても,総じて増産を伝えている。
こうした西側の工農業生産水準の見通しをベースにして推計された国民総生産規模をみると,第8-1表に示されるように,67,68年と経済後退が続いた後,69年には,66年の戦後最高水準を超えて1,674億元(680億ドル)に達した。しかし一人当り国民総生産は人口増加のため約90ドルに止まり,まだ66年の戦後最高水準を取りもどしていない。
経済の好調は1970年に入っても続き,とくに69年末から70年に入って,石炭,鉄鋼,電力(水力発電),セメント,化学肥料,機械などの工業分野で,小規模工場が全国的に建設されるようになって,増産への気運は一段と強まってきている。また農業生産も夏作(小麦,早稲)は69年に比べ増産となった。こうした工農業生産の好調を背景にして,サウス・チャイナー・モーニング・ポスト誌(香港政庁機関紙)は,70年上半期の国民総生産は前年同期比8~10%増になったとしている。このような経済の回復と上昇は,主として1965年末に初まった文革が,68年後半から収束することによって,生産秩序が回復したためにもたらされたものである。
なお,70年10月1日の林彪副主席の建国21周年祝賀演説において,第3次5カ年計画(1966~70年)の超過達成の可能性と,第4次5カ年計画(1971~75年)草案の基礎固めがすでに進行しつつある旨指摘された。
(1)工 業
1969年の工業生産について,全国的なレベルでの計画当局の報道は見当らないが,省レベルでは,黒龍江,吉林,北京,天律,上海,湖北,広東などもふくむ18省(全国29省,市,自治区)で,68年に比べ15~73%の生産増大が報ぜられた(第8-2表参照)。これらの諸省の中には主要工業都市はすべて包括されており,全国工業生産で大きな比重を占めているところからみて,1969年の工業生産は68年をかなり大きく上回ったものとみられる。
西側の各資料をみても,国連(エカフエ年次報告)の1970年報告では,「1969年の工業生産高は,これまで最高であった66年の水準を追いこすのも無理ではないように思われる」とし,アメリカ(Current Scene)では,「1969年の工業生産額は66年水準とほぼ同水準」であると観測し,イギリス(Quarterly Economic Review)では,「1969年の工業生産は,68年を上回ったが,天津,北京,上海など主要工業都市では史上最高水準に達したものの,他の多くの省では文革前の最高水準を取りもどすことができなかった」としている。こうした西側の各種観測をもとにして,外務省では「1969年の工業生産は66年水準を回復したか,またはそれにかなり接近した」という観測を下している。
文革後のこのような順調な経済回復は,1970年に入っても持続しているようである。
70年上半期の工業生産は全国的な高まりをみせ,北京,天津,上海,遼寧省など主要工業都市をふくむ13省で,前年同期比15~54%増の増産が達成された(第8-2表参照)。
業種別の生産動向をみると,70年1~8月間の生産は前年同期に比べて,石炭24%増,原油34%増,鉄鋼20~25%増となったほか,水力発電,セメント,化学肥料,農業機械,自動車(トラック)が量産体制に入り,また電子工業に関する情報も多い。
70年に入っての増産には,69年末以来急増を示しつつある地方小工業の生産が大きく寄与しているとみられる。そして地方小工業のなかでとくに注目される点は,いわゆる「5小業」と称される鉄鋼,石炭,農業機械,セメント,化学肥料,の小規模工業生産とともに,最近トラツク(2.5トン積~4.5トン積)小規模工場が全国的に建設されつつあることである。
地方工場で生産されるトラックは,品質やコストの点で難点があるとしても,計画当局が志向する輸送力増強を示唆するものとして関心がもたれている。
以上のように1969年から70年にかけての著しい工業生産の高まりのなかで,われわれは2つの構造上の変化を指摘することができる。1つは企業管理面における変革と人民解放軍の役割の増大であり,2つは地方小工業の再生と工業生産に対する寄与である。
まず企業管理面では,ソ連の修正主義の代表とみなされるマグニドゴルスク鉄鋼コンビナートの企業管理方式に対置する意味で,1960年に毛沢東によって制定されたといわれる「鞍鋼憲法一鞍山鋼鉄公司憲法」の線に沿って,文化大革命以後企業管理面の改革が進められている。すなわち管理面では,プロレタリア階級の政治による統師を優先させて,従来の工場長(技術者,専門家)による企業支配を排し,労働者,幹部,解放軍の三者によって構成される革命委員会が直接経営管理に当る。また労働報酬面では,「物質的刺激」をねらいとした従来の給与体系を改め,出来高払制やボーナス,その他報償金制を廃止して労働者間の賃金格差の是正に努めている。
そして,以上のような企業管理の改革をすすめるに当って,解放軍の役割が増大し,革命委員会の構成も解放軍が主導権を握る場合が多い。これは文革収拾が解放軍を中心にして進められてきたという事情のほかに,1969年以後急速に強まってきた全国的な国防強化体制とも関連するものであろう。
しかし,国連(エカフエ年次報告)でも指摘するように,「こうした企業改革によって一部の幹部の間に無気力の気風がみなぎり,とくに若い労働者たちのあいだに労働の不規律がみられる」という企業改革の弊害が認められることは事実であろうが,この問題は短期的に結論ずけるには問題が大きく,むしろ長期的課題として,文革終束後に全般的な視野に立って判断すべき問題であろう。
つぎに1969年から70年にかけての工業生産の増大には,地方国営工業のほかに,県あるいは人民公社など末端行政組織レベルが経営主体となって展開されつつある地方小工業の生産が大きく寄与している点に注目する必要がある。
この地方小工業は,かつて1958年の大躍進段階に全国的な規模で普及展開し,その後,ちょう落と挫折が伝えられた地方小工業が再検討を加えた上で再生したものである。
地方小工業の再生の意義については次の2点が考えられる。
第1点は,毛沢東の「戦争にそなえ,自然災害にそなえ,人民のために」という戦略思想に沿って,地方ごとの経済ブロックを形成することにかかわりがある。そして,「戦争にそなえる」という意味は,決して短期的な意味で言われているのではなく,戦争への対応と経済建設を結合した長期的な方針として提起されているものである。
第2点は,計画当局の「農業を基礎とし,工業を導き手とする」,あるいは「工業の発展を農業の発展と同時におしすすめる」という社会主義経済建設の方針に沿って,農業生産の近代化と結びついた,たとえば農業機械,化学肥料,鉄銅,セメント,電力などの工業部門を重点的に,しかも全国的に発展させることにかかわりがある。
この場合も短期的な視野に立つものではなく,よりいっそう長期的な戦略的展望をもって,いわゆる農業と工業の差別解消という方向を追求するものとして提起されているようである。
そして,以上のような再生の意義に沿って展開されている今回の地方小工業が,1958年段階のそれと大きく相違する点は,まず第1に地方小工業の業種範囲が拡大されていることである。地方小工業の業種範囲は,いわゆる「5小業」と称される石炭,鉄鋼,農業機械,セメント,化学肥料のほかに,水力発電,非鉄金属,自動車(トラック),製紙など主として重工業品を中心に広汎にわたっている。第2に「自力更生」,つまり自給化政策が強く前面におし出され,地方小工業の建設および操業に必要とする資金および資材は,極力,県および人民公社レベルで供給し,国家負担(中央財政,中央割当資材)の軽減が計られることである。
地方小工業の再生は,大躍進段階の挫折の原因を反省しながら,1964年頃から初まったようだが,ふたたび大規模に展開されるようになったのは1969年以後である。とくに1969年末から70年にかけての建設テンポの高まりは顕著で,たとえば窒素肥料に例をとると,1970年6月現在,窒素肥料生産の43%を地方小工業生産で占めるようになった(1966年には化学肥料生産の10%が小型窒素肥料プラントによって生産された)。
なお地方小工業のもつ経済的役割については,1つには相対的に乏しい資本資源を最も有効的に活用し,第2に既存の過剰労働力からくる雇用問題を解決しつつ,第3に急速な経済成長を達成するという意味では,中国経済にとっては合理的だという考え方も多く,また技術的にも,加工産業(装置産業および加工産業のうちでも多数の部品を製造し,それを組立てる方式を採用しているアセンブル工業を除く)に限定するかぎり,地方小工業は,工程の中の設備や機械を一部労働力で置換することができ,生産コストがいちじるしく不利になることもすくなく,資本効率を高める方法であると考えられている。
ただ業種別にみた場合,鉄鋼,自動車(トラック)のように,投資効率は相対的に高くとも生産性が低く,コストや製品の品質面にはなお大きな問題が残るという見解もある。
1969年の農業生産について,計画当局は気象条件の好転と改良種子の普及および生産資材の増投により,穀物生産が1968年水準を大きく上回ったことを報じた。
西側の各資料をみても,国連(エカフエ年次報告)では,「1969年の穀物生産が68年を上回ったことが発表されたが,おそらくこれは正しいだろう。1969年の穀物生産は2億500万トンに達したとみられる」とし,アメリカ(Current Scene)では,「1969年の穀物生産は1958年,64年,61年とほぼ同水準の豊作であった」と観測し,イギリス(Quarterly Economic Review)では,「1969年の穀物生産は,全般的に好天気にめぐまれて豊作で,地域によって生産状況には若干の差異はあったが,穀物生産高は1億9,500万トンに達した」としている。こうした西側の各種観測を参考としながら,外務省では,「1969年の穀物生産は,史上最高水準に達した1967年の2億1,400万トンには及ばなかったが,1968年の生産を上回って2億1,000万トン内外であった。また綿花生産は68年をやや下回った」という観測を下した。その後FAO(国連食糧農業機構)で穀物生産量を発表Eたが,第8-4表にみられるように1968年の穀物生産高は2億1,200万トン,69年は2億2,200万トンと大幅な増産になったとしている。
なお農業生産の好調は1970年に入っても持続しているもようで,夏作(小麦,大麦,早稲)の豊作が各地域で伝えられており,小麦は全般的に前年比10%以上の増収になったと報道している。
このような穀物増産の要因としては,そそぐ灌漑面積および作付面積が拡大したこと,肥料および農業機械の供給量が増大したことがあげられるが,とくに計画当局も指摘するように,改良種子の普及が大きく寄与している点をみのがしてはならない。改良種子の普及状況については,1969年の早稲作付面積の50%以上が改良種子によって占められたと報ぜられたが,70年の豊作の要因の一つは,おそらく,これら改良種子の使用にあるものと考えられる。米については,フィリピンの国際米研究センター(IRRS)で開発されたミラクルRiceIR-8がすでに導入されていると伝えられている。
しかし,以上のような穀物生産の増産にもかかわらず,人口増加が急速なため,穀物の純輸入分を加算しても一人当たりの穀物供給高(生産+輸入一輸出)は1969年に303kgにすぎず,1957年の292kgを僅かに上回るにすぎない。さらに食糧備蓄の強化を考慮すると,種子,飼料,工業用穀物を控除した国民一人当たりの食糧消費量はおそらく1957年水準を下回るに違いない。
こうした意味から,現在500万トン足らずの食糧輸入は,ここ当分持続するものと思われ,また食糧輸入は米,麦比較生産費の観点(米を輸出し,小麦を輸入する),あるいは国内輸送負担の軽減からも,当面中国にとって有利だと考えられているようである(第8-4表参照)。
一方,農業生産の好調とともに,文革以後農村人民公社を社会構成の基層単位とする地域社会の再編成が進行している点に着目する必要がある。
前述した地域経済ブロックの形成を目ざしながら,人民公社を経営主体とする地方小工業が普及しつつあるのも一つの実例だが,そのほか,従来国家が経営してきた小・中学校,診療所,トラックター・ステーション(MTS)などの経営権を,すべて人民公社に移行させるような地方分権化の動きがある。
だが,こうした教育,保健などの面や地方小工業の設立によって,国家財政負担はたしかに軽減したが,人民公社の経費負担はおそらく増大し,それにともなって農民の収益配分は減少したものと思われる。1962年当時,人民公社で積立てる公積金(共同積立金)は,一般に分配可能な総収入の3~5%に限定されていたが,ところによっては1967年に11%,1970年には17%まで高められている実例がある(広東省)。
なお農民の労働報酬制度は,文化大革命の遂行過程で大きく変わり,従来実施されてきた出来高払制を加味した労働点数制,すなわち,「死分活評一労働者の労働能力に応じて固定した報酬等級を評定し,作業結果に応じて奨励給(労働点数)を加算する」,あるいは「定額管理,按件計工一各種農作業ごとに基本労働点数を定め,各人の農作業の軽重,技術の高低,責任の大小,操作の難易に応じて労働点数を評価記帳する」という2つの方法にかわって,「標兵工分,自報公議一山西省の大塞生産大隊で1963年初に実施され,その後全国の模範として推奨されている労働報酬制度で,各人の農作業結果を評価するに当って,まず政治学習が最もよく,出勤日が最も多い社員を「標兵」として選び,さらに「標兵」が一日にあたえられる労働点数を定めておき,その他の社員は農作業の軽重,技術の高低および政治的自覚の程度を「標兵」と比較して,各人が自らの作業結果を評価し,その結果を全体で合議して,各人の労働点数を決める」という方法が採用されるようになった。つまり「物質的刺激」措置をともなう労働報酬制度はすべて廃止されるようになったわけである。この大稟方式の労働報酬制度は,現在全国の80~90%の地域で実施されていると言われるが,その後の推移をみていると,1969年11月,中共中央は,人民公社の思想水準が十分に高くない場合は,「大稟方式労働報酬」の実施はしばらく延期してもよい旨の指示を出したと伝えられている。
中国の対外貿易総額は文革前の1966年に最高水準44億1,710万ドル(輸出23億6,900万ドル,輸入20億4,810万ドル)に達したが,その後激動を高めた文革の影響を受けて減少し,1967年には38億8,560万ドル,1968年には37億2,030万ドルとなった。しかし,文革が収束段階に入った1968年後半から回復に転じ,1969年には輸出20億1,860万ドル(前年比4.5%増),輸入18億5,300万ドル(前年比3.6%増),貿易総額では38億7,160万ドル(前年比4.1%増)と,ほぼ1967年の水準にまで回復した(第8-5表参照)。
こうした対外貿易の増勢は1970年に入っても続いており,本年上半期の対自由圏諸国との貿易実績(主要24カ国,自由圏諸国との貿易総額の約85%を占める)をみると,輸出はほぼ前年並みの水準に止まったが,輸入は43%増と記録的な増大を示した(第8-6表参照)。このため対自由圏貿易では,1966年以来出超を続けてきた貿易収支は,1970年に入って入超に転じた。入超は主として日中貿易における輸入増大が原因で,1970年上半期の対日貿易の入超幅は実に1億8,800万ドルの多額に達した(第8-7表参照)。
中国はこれまでも,ホンコン,シンガポール向け輸出で稼得した外貨をもって,ヨーロッパ,カナダ,オーストラリア,日本など先進国との貿易赤字を決済してきたが,全体としての貿易収支面で入超になることは比較的すくなかった。1970年に入って入超に転じたのは,このところ輸入増大のため入超幅を拡大しつつある対日貿易において,1970年に入って一段と入超幅が拡大したためである。
1)対自由圏
1969年の対自由圏貿易は30億1,520万ドルと1968年の28億2,890万ドルに比べ6.5%増大し,全貿易に占める対自由圏貿易の比重も,1968年の輸出75.1%,輸入77.0%から,1969年には輸出76.7%,輸入79.2%に高まった。
なお自由圏諸国との貿易の約60%を占める先進工業国との貿易についてみると,1969年には中国の輸出が大きく伸びた反面(前年比,10.8%増),輸入が伸びなやむ傾向(前年比,0.4%増)があったが,これはカナダ,西ドイツ,フランスからの輸入が大幅に減少したためである。しかし,1970年上半期に入ってむしろ事情は逆転し,輸入が著増した反面輸出の停滞が目立っようになった。輸入の著増は,とくに日本(1~6月,前年同期比146%増),フランス(1~6月,前年同期比174%増),オーストラリア(1~6月前年同期比52%増)で著しかったが,昨年末から活発化した経済回復に平行して,鉄鋼,非鉄(銅),化学肥料,機械の輸入が目立って増加したためである。また輸出の停滞は原材料および農産物の国内需要が高まり輸出需要を圧迫したためとみられている。
一方,発展途上国との貿易も1969年に入って輸出入ともに増大しはじめたが,圧倒的なシエアを占めるのはやはり,ホンコン,シンガポール両市場を中心とする東南アジアの輸出市場である。最近タンザニア・ザンビア間の鉄道借款供与(建設コスト1億6,700万ポンドのうち全額を借款供与)にみられるように,アフリカに対する経済進出が盛んになりはじめているので,同地域向け輸出も漸増を示すこととなろう。なお1970年に入ってホンコン向け輸出は微増したが,シンガポール向け輸出は大きく減少した。
2)対共産圏
1969年の対共産圏貿易は8億5,640万ドルと,前年の8億9,140万ドルに比べ3.9%減少し,全貿易に占める対共産圏貿易の比重も低下した。これは中ソ関係の悪化を反映して,1960年から減少しはじめた中ソ貿易がさらに激減して,1969年には貿易総額でわずかに5,600万ドル(1968年,9,500万ドル)になったことによる。アジア共産圏および東欧諸国への貿易は,ほぼ1968年並みに推移したものと観測されている。
3)商品別動向
中国の輸出入商品構成は基本的にはここ数年変化をみていない。すなわち先進諸国へは食糧品,農・畜・鉱産物など1次産品と繊維品を主体とする軽工業品を輸出し,他方,西欧工業国および日本からは,化学品,鉄鋼,非鉄金属,機械類,カナダ,オーストラリアからは小麦を輸入している。また発展途上国に対しては,食料品,軽工業品,鉄鋼,機械を輸出し,繊維原料,ゴム,油脂原料など1次産品を輸入するという形態をとっているが,1966年から68年にかけて輸入商品構成の上で,食料,飲料の比重が低下し,化学品,鉄鋼,非鉄金属品などの比重が高まっている。
また1969年から70年にかけても,輸出入商品の動向は基本的には上述のような傾向を辿ったが,最近とみに高まってきた国防体制の強化と備蓄運動を反映して,輸出面では穀物ならびに鉱産物が伸びなやんだ。とくにタングステン,アンチモニーなどは,ここ1年あまりほとんど輸出されず,これらの世界市場価格に大きな影響を与えている。ただ,1970年に入って家畜,肉類などの輸出が若干増大した。
一方,輸入面では経済回復にともなう国内需要を反映して,化学肥料,鉄鋼,非鉄金属(とくに銅),機械類の輸入増大が目立った。1970年上半期の輸入動向をみると,日本からの化学肥料輸入は前年同期の343万ドルから4,090万ドルヘ,日本およびイギリスから(以下同じ)の鉄鋼輸入は6,290万ドルから1億2,920万ドルヘ,非鉄金属輸入は2,550万ドルから5,160万ドルヘ,機械類は2,250万ドルから6,150万ドルへとそれぞれ倍増もしくはそれ以上の伸びを示した。機械類の輸入の中でもとくに自動車の輸入増大が目覚ましく,対日輸入の場合,本年上半期の実績は前年比25.7倍に達した。これは現在,中国各地で小型自動車工場を建設し,トラックの量産体制を強化しつつある点と考え合わせて,輸送力の増強がとくに緊急課題として取りあげられつつあるものと思われる。
なおカナダとの国交樹立によって,カナダからの小麦輸入の増加が予想されるが,1969年にはカナダ,オーストラリア等から約470万トンの小麦が輸入された。小麦輸入は国際価格も考慮しつつ,米を輸出し小麦を輸入するという比較生産費の観点と,国内輸送負担の軽減,食糧備蓄の必要性などから今後も持続されよう。その場合,輸入相手市場としては,国交樹立によってオーストラリアに比ベカナダの優位性が保証されたとみる向きが多い。
1953年以後,中国は3つの5カ年計画を実施してきたが,1970年は第3次5カ年計画(1966~70年)の最終年次に相当する。しかし,文化大革命の過程ではたして5カ年計画が円滑に遂行されてきたかどうか,多分に疑問視されてきたが,70年10月1日の林彪副主席の建国21周年祝賀演説において,第3次5カ年計画と第4次5カ年計画(1971~75年)について言及された結果,5カ年計画そのものは遂行されていることがほぼ明らかになった。
いずれにしても,第3次5カ年計画は1966年に発足したが,第3次5カ年計画の草案について計画当局からは公式発表はなかった。
ここでアメリカのE.F.Jonesが断片的情報資料をもとに推測した第3次5カ年計画構想なるものを引用すると,第8-8表に示されるとおりである。
さて,第3次5カ年計画の構想をみると,農業生産の年率2~3%という成長率は,第1次,第2次計画と比べていかにも低く,農業重視政策のもとでも,予想される人口増加率を十分に上回る農業増産がなかなか困難なことを示唆している。
また資源配分の面で農業重視政策がとられる結果,工業設備投資の伸びが全般的に遅れ,また農業生産の緩慢な伸びが,ひいては穀物供出量の増大を阻み,近代工業分野の雇用増加を抑制するということもあって,工業生産の伸びもかなり控え目に想定されている点は注目される。
以上のような第3次5カ年計画の構想に対して,経済実績の推移をみると,もし1970年の年間成長率が上半期の前年同期比8~10%増の成長をそのまま持続すると想定した場合,1966~70年の年間成長率は3.7~4.1%となり,E.F.Jonesの推測する年率4~5%とほぼ近接したものとなる(第8-1表,第8-8表参照)。
なお,第3次5カ年計画が予定どおり進捗した場合には,1971年から第4次5カ年計画が発足することになる(70年11月8日の福建放送によると第4次5カ年計画は71年に発足することになっている)。
第4次5カ年計画策定の前提となる社会主義経済建設の基本方向については,すでに発表された2つの論文「中国の社会主義工業化の道」,および「中国の社会主義農業の発展の道」でおおむね明らかにされている。
しかし,問題は経済計画を実施に移す場合の経済計画機構が全国的に整備されたかどうかという点である。
とくに文革以降,地方分権化を強めつつある現状で,①地方経済計画機構はすでに整備されたのか,②中央計画機構(国務院の国家計画委員会)と地方計画機構との連繋をどう調整するか,③中央計画機構から地方計画機構に指示する経済計画の指令性指標はすでに定ったのか(江蘇省,某県の実例によると,指令性指標は①生産量,②生産額,③品質,④利潤,⑤生産コスト,⑥労働生産性の6指標と考えられるとしている。FEER.70.10.3)―といった諸点は重要である。
地方経済計画機構の整備については,たとえば県レベルの地方党組織の再建工作が思うように進捗せず,1970年9月現在,全国2,327県,市旗のうち,新たな党委員会が成立したのはわずかに40足らずだという事実からも,その整備は容易な問題ではないことが憶測できる。
こうした点から,1971年初までに第4次5カ年計画草案が策定できるかどうか疑ぶまれている。
なお第4次5カ年計画の予定成長率については,次期人民代表大会でその輪郭が明らかにされると思われるが,石川滋教授の「中国経済の長期Proj一ection(1966~81)」が一応参考になる。石川教授の推測によれば,最も楽観的な仮説として,計画当局が制度的緊張を高めることにより,単位労働当り報酬の増加をともなうことなしに経済成長率を高め得ると想定した場合,1981年までに年率6.2%の経済成長率の達成が可能だとしている。