昭和44年
年次世界経済報告
国際交流の高度化と1970年代の課題
昭和44年12月2日
経済企画庁
中国は,1949年に新政権が樹立して以後,69年10月の国慶節までに20年を経過した。この20年間の経済発展の推移は,①経済復興期(49~52年)②第1次5ヵ年計画期(53~57年)③第2次5ヵ年計画期(大躍進期~経済調整期,58~62年)④第3次5ヵ年計画期(文化大革命期,66~70年)の4っの段階に分けることができる。そして現在66年に着手された第3次5ヵ年計画の第4年目に当っている。
周知のように中国では,この20年間の経済発展の歩みの中で,58~59年の「大躍進」,66~69年の「文化大革命」という2つの画期的な変革が実施された。そしていずれも経済発展の上で大きな変動と混乱をもたらしている。
コーネル大学の劉大中(Ta-ChungLiu)教授の推計によると,比較的安定的な経済成長を示した第1次5ヵ年計画期には年率8.6%,さらに高成長を遂げた58~59年をふくめると,52~59年には年率14.5%の経済成長が達成されたのに対し,大躍進政策の失敗による経済混乱期をふくめると,52~65年の経済成長率は年率4.8%にすぎなかった。
ところで,大躍進政策そのものの失敗,人民公社政策のゆき過ぎ,3年連続の自然災害,ソ連の経済技術援助の全面的停止などの諸要因が重なってもたらされた経済後退は,その後61~65年期間中に相次いで打ち出された数々の「調整政策」によって何とか経済危機を乗り越えさせた。
「調整政策」はたとえば,①人民公社機構の整備②重工業重視から農業,軽工業重視への投資パターンの変革,③企業管理面での専門家,技術者の重視,④緊急食糧輸入の開始など広汎にわたって展開された。そして「調整政策」の実施によって経済は回復に向い,65年の国内純生産は大躍進前の57年水準を大きく上回ることができた。
こうした経済回復を足場として66年に第3次5ヵ年計画が着手されたのである。
しかし,66年央から激化した「文化大革命」は,経済発展の上でふたたぴ混乱と停滞をもたらした。
農業に対する文革の影響は工業およぴ輸送に比べればずっと軽微だったし,67年には天候条件にもめぐまれて歴史上最高水準の穀物生産を収めることができたが,68年には工業生産の,低下ならぴに輸送停滞からくる農業関連資材の供給が不円滑になって,農業生産は不振に陥った。
一方,工業生産は67年に前年比15%減産し,68年に入ってやや好転したものの文革前の66年水準にはまだ及ばなかった。なかでも石炭,電力,鉄綱,化学肥料の減産が目立った。
では経済発展の上でこのような大きな混乱と停滞をもたらした文革の影響とは,一体どのようなものであったか。
第1に考えられるのは反主流派のいわゆる「経済主義」の実施である。「経済主義」とは要するに,主流派の政治優先主義に反対して,反主流派が企業労働者を使嗾し,賃金,ボーナスの増加,厚生施設の拡大等を要求させて生産資金の中から勝手に支出させ,また職場離脱を企てさせたことである。
第2に文革の遂行にともなう行政機構の弱体化があげられる。第3の要因は主流派,反主流派間あるいは主流派相互間の武闘の発生である。第4に輸送機関の混乱を指摘することができよう。
ところで,68年9月に全国29の省および自治区の1級行政地区に革命委員会が成立したことによって,文革収拾に一応の目安がつき,経済混乱も収まってきた。そして69年4月に開催された9全大会(中国共産党第9回全国大会)以後,中国経済は本格的な回復に向っている。
計画当局の発表によると,69年上半期の工業生産は,石炭,電力,鉄鋼,化学肥料,繊維を中心に前年同期比50%以上も増加した地域(広東,江蘇,黒竜江)があったといわれるが,全国の工業生産水準は69年末にようやく文革前の66年水準に回復する見込みである。
農業生産もまた天候条件にめぐまれ,作付面積の増大(早稲は前年比6%増),品種改良,肥料増投などもあって,69年の夏作(小麦,米,雑穀など年間穀物生産の3分の1)は豊作または比較的よい収穫であったと報ぜられ,また秋作も良好で,年間穀物生産量は過去最高水準の200百万トン前後に達したとみられている。
中国における経済発展のための生産諸要素のうち,資本と労働力という2つの生産要素を取り出してみると,基本的には「資本不足,労働力過剰」という低開発国に共通した特徴を指摘することができる。しかし中国では,労働力過剰の中にあっても,これまで季節的あるいは局地的に労働力不足という現象がしばしば発生した。これは政策的に労働集約的な農地造成,濯概施設および道路建設などが強力に進められ,機械で代置しうるような多くの作業を,機械よりもむしろ労働力を使用して行なってきたためである。
こうした特徴をもった中国の資本および労働力状況についてその推移をみてみよう。
1)貯蓄率,投資率
経済開発の条件として,まず投資率の大きさが問題となる。中国では経済復興期ならびに第1次5ヵ年計画期に,ソ連を中心とする海外諸国からの借款,贈与に一部依存して投資が行なわれてきたが,投資総額に占めるその比重は小さく,粗固定投資額に占める比率は8%程度でほとんど国内貯蓄によってまかなわれてきたといってよい。とくに中ソ対立が深まった60年以後には,海外からの借款,贈与の供与は,資本主義諸国からの輸出信用を除いて全く停止された。
貯蓄率の推移を第64表でみるとかなり高水準であり,趨勢としては52~59年にかけて上昇し,その後調整段階でいくぶん低下したものの,貯蓄動員機構はすでに制度的に確立されたとみてよい。
これは貯蓄動員のチャンネルとして国家財政が効率的に運用され,労働分配率を抑制することによって貯蓄率を高め,またこうした貯蓄を生産的に使用しうるような機能が充分に発揮されるようになったためである。
貯蓄率の趨勢的な上昇にともなう投資率と粗固定投資率の推移は,第65表~第66表に示されるとおりである。
まず投資率の推移について観察される特徴はつぎの2点に要約することができる。
第1に,戦前に比べ戦後投資率が高まり,第1次5ヵ年計画期には平均して21~24%の投資率,16~17%の粗固定投資率に達し,また,58~59年の大躍進期には平均して32~33%の投資率,24~25%の粗固定投資率の水準にまで高まった。しかし60年以降には大躍進政策の失敗によって低下した。W,Wホリスターの推計によると61年の投資水準は59年に比べ50%前後低下したとみている。こうした投資水準の低下傾向は63年に入ってようやく回復に向った。
第2に,中国の粗固定投資率の推移をみると,年々の変動がきわめて激しいことがわかる。変動要因としては農業サイクルおよび政策要因の2点をあげることができる。
まず農業サイクルについては,中国の国民生産構造に占める農業生産の比重が大きいため,農業生産の豊凶がほぼ1年間のラグをもって国民経済全般に波及し,財政収入の変動を通じて貯蓄および投資水準に大きく作用するためである。
つぎに政策要因については,党の一元的かつ集中的な管理体制を特質とする社会主義体制のもとでは,党の政策の在り方が直接経済発展に作用する。
当面中国では物的刺激よりも精神的刺激を優先させ,「大衆の意識高揚による主観的能動性」を最高度に発揮させて労働力を生産力化し,投資率を高めようとする政策的な動きがある。58年に高揚をみた「大躍進」,あるいは66年央から激化した「文化大革命」段階の経済政策の動き等がそれである。しかしこうした精神的刺激政策が定着し,生産力化するまでにはかなりの社会的混乱をともなうし,経済発展の上で大きな変動をともなうことは必至である。
2)投資構造
投資構造については在庫投資と固定投資の構成比率を示したものと,固定投資について建設投資と生産者耐久施設投資の構成比率を示したものが第65表に示される。
投資構造について観察される特徴はつぎの3点に要約することができる。
第1に,在庫投資は1950年代に平均して投資総額の28%を占め,戦前の比重を大きく上回っている。これは第1次5カ年計画期に大規模投資が着手されるようになって,在庫投資の大幅増加がみられたこと,あるいは計画経済についての経験不足により,適正規模を上回る在庫蓄積が行なわれたことなどを反映するものである。しかし50年代後半になると,輸送効率の上昇や在庫処理の習熟等によって在庫投資率は漸次低下傾向を辿るようになった。
第2に,粗固定投資額に占める建設投資の比重は,戦前,戦後を通じて約65%前後を占めている。なお固定投資のなかで個人住宅投資の占める比重が,52~57年にわずか6%と低いが,これはソ連の1927~37年当時の9%,低開発国の平均19%(カプラン・クズネッツ推計)よりもはるかに低い。
中国の比重が低いのは,非個人住宅を優先的に取扱う計画当局の住宅政策や,個人住宅の建設コストが低廉で,かつ粗末なことによるものとみられている。
第3に,粗固定投資額に占める生産者耐久施設の比重は,戦前,戦後を通じて約35%前後で,低開発国における50年代の比重もほぼこれに近い(クズネッツ推計)。しかし50年代後半になると,生産者耐久施設の占める比重は漸増傾向を示すようになっている。これは投資の懐孕期間の長い,資本集約的な大規模プロジェクトが増加したためである。
3)産業間投資配分
粗固定投資の産業間配分を工業,農業,運輸通信,その他の4部門に分けてみると,工業部門の投資シェアが最も大きい。また52~59年にかけて工業部門の投資シェアの増大がみられるが,これは明らかに計画当局の投資配分の重点が重工業を中心とする工業開発におかれていることを示している。重工業投資はほとんどソ連の技術援助と機械設備の供与に依存して進められてきたが,第1次5ヵ年計画期の重工業投資の約2分の1はソ連援助によるプロジェクトであった。これらの新規重工業企業の大部分が第2次5ヵ年計画期(58~62年)に入って操業を開始した。また58~59年の大躍進期に重工業投資が著増したが,これには中小企業投資の増大が大きく寄与している。
なお重工業投資も産業別にみて,鉄鋼,機械が重視され,化学肥料,農業機械など農業関連部門は比較的軽視された。しかし61年9月の10中全会で農業重視の経済開発の基本方針が打ち出されてから,農業関連産業投資も重視されるようになった。
つぎに農業投資のシェアは工業投資のそれをかなり下回っているが,これは計画当局の農業政策が制度変革を主体として進められ,農業投資については農民個人あるいは集団に多く依存し,政府の直接投資の比重がきわめて小さかったためである。
しかし58年あたりから農業投資のシェアも漸く増大しはじめたが,当面農業投資の重点は土地生産性増大のための灌漑施設の拡充と化学肥料投入に向けられている。
最後に運輸通信部門に対する投資シェアをみるとその比率は最も小さい。
第1次5ヵ年計画期における運輸通信投資のうち約70%は鉄道部門の投資に向けられている。中国の貨物輸送量の輸送手段別構成比率をみると,鉄道輸送,道路輸送,水路輸送,空路輸送,パイプラインという構成のなかで鉄道輸送の占める比率が圧倒的に大きく,その比重は戦前戦後を通じてあまり変化していない。ソ連においても同様な傾向が看取されるが,これはアメリカ,日本など先進資本主義国において,最近道路輸送の比重が急速に高まってきているのと対照的である。
なお鉄道部門に対する投資額のうち,75%は鉄道建設,21%は鉄道車輛購入に充当され,鉄道投資の重点はやはり線路拡張におかれている。
1)生産年令人口
生産年令人口という概念を中国の農業セクターに適用することはなかなか厄介である。そこでは10歳台の初期から労働に従事し,また老令者も物理的に労働が不可能になるまで労働に従事する。
中国では生産年令人口については男子16~60歳,女子16~55歳という一応の基準が設定されているが,かなり弾力的な取扱いがなされているのが実状である。
第67表にはChi-MingHou推計に係る15~59歳の男女生産年令人口の年間増加率が示されている。ここで興味がもたれるのは,人口の自然増加率を上回るテンポで生産年令人口が年々増加していることである。周知のように中国の人口増加率は,50年代に年率2.3~3.0%の増加を示し,絶対数でみて毎年1500万人前後の人口が累増してきた。しかも第68表に示されるように,人口の増加形態を急増型,停滞型,減少型の3つのタイプに分けたズンドベルグ(Sundbareg)方式を当てはめてみると,中国の人口年令構成は急増型に相当し,1978年段階になってようやく停滞型に落ちつくことが明らかにされている。こうした年令構成に加えて,年令構成が若いということは,それだけ生産年令人口の増大要因となる。
ところで生産年令人口の増加は,経済発展に対しては情況に応じて促進要因にも阻害要因にもなりうるが,現在の中国では工業生産の未発達による雇用機会の不足によって,むしろ阻害要因として作用する度合いが強い。中国が当面している緊急課題の一つは,増大する人口増加に対し如何にして食糧を与え雇用機会を造成するかという問題である。
2)非農業セクターの雇用
中国の農業は伝統的にかなり労働集約化された農耕法に依存しており,限界生産性を低下させないかぎり,これ以上の労働力を吸収することはほとんど不可能な状態にある。したがって農業部門に新規労働力の吸収を期待し得ない以上,増加する労働力人口の吸収は近代工業セクターに頼るほかない。
こうした点から53年に工業化の実現を目ざして第1次5ヵ年計画が着手されるとともに都市化が進み,都市人口は急速に増大して,53~57年間の年間平均増加率は7%に達した。
こうした都市人口の急増とともに,非農業セクターの雇用労働者数も急速に増大した。とくに58年に始まる大躍進段階において,非農業近代化セクターをはじめ,手工業,輸送業分野に吸収された雇用量は58年には2000万人を上向ったと伝えられている。これは農業原材料あるいは工業原材料などの生産分野において,労働節約的な新しい機械設備の入手が困難なため,生産増強の唯一の方法として労働力の追加雇用が行なわれてきたことを示している。
しかし,以上のような非農業セクターにおける雇用増加は,59年以降の経済後退とともに急速に収縮しはじめた。60~61年になると,自然災害による農業減産あるいはソ連の援助停止などの影響をうけて都市工業が軒並みに操業を停止し,地方工業もかなりの工場が閉鎖されて,非農業雇用労働者の帰農が積極的に促進されるようになった。同期間に都市から農村に移動した都市人口は2000万人に達し,非農業セクターの雇用労働者の帰農も1000万人を大きく上回ったとみられている。非農業セクターの雇用労働者数の減少は64年まで継続し,同年の雇用水準は58年水準を約25%下回った。その後雇用量は若干増大に向ったが,現在もなお知識人,学生の農村,山間地区,僻地への分散(下放)が促進されているところから判断して,非農業セクターの雇用増加率はきわめて緩慢なものと思われる。
中国の国際収支バランスの推移をみると,第69表にみられるように,1950年代初期(50~55年)と60年代初期(62~64年)には全体として受取超過,50年代後期(56~61年)には全体として支払超過という傾向が示されている。この50年代初期における受取超過は,主として対ソ借款の受取りが大きく影響したもので,60年代初期の受取超過は主として貿易収支上の大幅な出超によるものであった。これに対し,50年代後期における支払超過の主要因は,対ソ負債の返済開始によるものである。
なおこの国際収支バランスはおおまかな推計値を基礎としており,おおよその傾向を示唆するにすぎないが,このバランス表でみると,50~64年を通算した国際収支尻は5億1000万ドルの受取超過となっている。しかし,この受取超過額をもってただちに外貨保有高の純増と考えるのは早計である。何故ならは,同期間における貿易収支の地域別動向をみると,アジア共産圏およびキューバに対する受取超過額が実に9億3400万ドルに達している。ところで,アジア共産圏およびキューバに対する受取超過は,全額ではないにしても同地域に対する輸出貿易形態をとった経済援助を示すもので,実質的な外貨受取りを意味しない。
したがって,この貿易収支上の黒字額を除外すると,むしろ国際収支バランスの上では4億3300万ドルの赤字となる。そしてこの赤字は中国の64年における穀物輸入金額,あるいは61年から64年にかけての西側諸国からの短期クレジット総額にほぼ相当している。
なお中国の金,外貨保有高を推計することはなかなか困難だが,ポンド,フラン貨の不安に際してこれまで数次にわたって金の買入れを行なっておF),現在金の保有量だけでもすくなくとも1億5000~2億ドルを上回るものとみてよい。金,外貨保有高については,外務省および,アメリカ上下両院合同経済委員会等の資料を綜合して,68年末に4億~6億5000万ドル程度を保有しているものとみられ,またヨーロッパ(スイス)筋ではさらに多額の金外貨保有高を推計する向きもある。
一般に人口,天然資源の豊かな大国では,対外貿易に依存する割合いが小さいといわれるが,中国もソ連,アメリカの場合と同様に,基本的には国民所得に対する貿易依存度は小さい。
第70表は社会主義諸国における貿易依存度を示したものである。これでみると中国およびソ連のような大国では概して貿易依存度は小さく,東欧諸国では,相対的に大きいという特徴が示されている。また,第71表は,52年以降の中国の貿易依存度の変化を示したものである。
これでみると,貿易依存度はおおむね4%前後に推移していることがわかる。
しかし,中国の国内物価体系は国際物価体系からは全く遮断されており,しかも中国の農産物と工業製品との相対価格比率は,国際物価の価格比率に比べてかなり農産物安,工業製品高となっているといわれる。したがって,中国の輸出入商品価格が国際価格を基準として実現されているとすると,公定為替レートをもって米ドル表示の輸出入額を人民元表示に換算した上で算定された貿易依存度は必ずしも実勢を反映したものとはならないであろう。
こうした点に着目して,A.エクスタインは,公定為替レート(1米ドル=2.62人民元)のほかに農産物の購買力比率(1米ドル=1.79人民元)と工業品の購買力比率(1米ドル=5.91人民元)をそれぞれ適用した場合の貿易依存度を推計している。そしてこうした実勢購買力比率を適用した場合,中国の輸出入商品購造から判断して,輸入依存度は4%を若干上回り,輸出依存度は4%をいくぶん下回るようになるだろう。しかし,いずれにしても国民総生産に対する貿易依存度はそれ程大きいものでないことは確かである。
ところで,この点から国民経済に対する輸入貿易の彼割が比較的に重要でないと即断することは難点がある。何故ならば中国の輸入商品構成において資本財の占める比率が圧倒的に大きく,国民経済の発展にとってきわめて重要なプラント,機械設備,工業原材料が輸入されているからである。
たとえば,機械設備の輸入比率をみると,53~59年に国内生産額に対しては15~20%,固定投資の機械設備需要額に対しては15~22%を占めている。
個別商品に対する輸入依存度の重要性は機械設備だけではない。経済発展および国防需要の見地から極度に重要性をもつものに,石油および石油製品,鉄鋼および非鉄金属,化学肥料,薬品,化学品(合成繊維原料,塩化ビニール),生ゴムなど資材および工業原材料がある。また消費財の中でも食糧,棉花などの輸入も無視できない。
なお,個別商品の国内生産に対する輸入比率の推移で重要な点は,53~59年のわずか7年間に機械設備および資材の輸入比率が急速に低下していることである。
これは生産財のなかでも,とくに資本財部門に対し重点的な投資が行なわれてきた結果,これまで国際的に比較劣位とみなされてきた産業部門で生産性が上昇し,コストが低減して,輸入代替が進行していることを示している。
一方,輸出商品についても,国内生産に対する輸出比率は品目によってかなりの高低がみられる。
一般的にみれば,中国の輸出商品構成に占める比重が大きい食料,農産原料(大豆,落花生,煙草,桐油,畜産品)の輸出比率は相対的に高く,工業原材料および工業製品の輸出比率は相対的に低水準である。また,食料,農産原料のなかでも,米の輸出比率は低く国内生産量に対して1%前後を占めるにすぎない。これは相対的な食糧不足状況を示すものであって,最近問題とされている中国計画当局の「米輸出,小麦輸入」という食糧輸出入政策も,必ずしも比較生産費的考慮(米麦の国際価格と米麦の土地生産性とを対比して,米を輸出し,小麦を輸入するという政策考慮)のみから実施されているわけではなく,むしろ備蓄対策をもふくめて食糧不足を補充する意味から米の輸出量をはるかに上回る小麦の輸入が行なわれているわけである。
なお,食糧,油脂原料(大豆,落花生),嗜好品(茶,煙草)および畜産品の輸出比率が相対的に高いのは,価格の引上げや配給操作によって国内消費を制限し,政策的に輸出余力を生み出そうとしたものであろう。こうした需給調整は繊維品輸出についてもみられる。中国の繊維消費水準は国際的平均水準を大きく下回り,社会主義国平均はもとより低開発国平均水準にも達していない。しかもFAO(国連食糧農業機構)の資料でみると,中国が経済困難に陥った61~63年に輸出比率は低下しなかったばかりか,国内消費を制限することによって輸出比率はむしろ上昇している。これは,繊維品の輸出が中国の外貨稼得のための重要商品となっているためである。
また工業原材料の輸出比率が低いのは,工業テンポがかなり急速なため,原材料不足が原因になっているようにみえる。したがって,輸出余力という観点から判断すると,輸出商品源としては工業原材料よりもむしろセメント,鋼材など中間材や,ラヂオ,ミシン,自転車など耐久消費財の輸出が重視される可能性が大きい。
中国の対外貿易についてみられる60年代の特徴は,第72表と第51図によっても明らかなようにおおむねつぎの3点に要約することができる。
第1に貿易総額が59年をピークとして60年から縮小しはじめ,60年代後半に入ってようやく回復に向ったが,文革の影響をうけて67年からふたたび減少したこと。
第2に,貿易相手国を資本主義圏と社会主義圏に分けてみると,50年代に70%以上を占めてきた社会主義圏の比重が低下して,最近では25%を下回るようになったこと。
第3に,輸出入商品構造の面では,60年代前半に食料および原材料の輸出比重が低下し,逆に,食料の輸入比重が高まって50年代と異なる構造変化が示されるようになったが,60年代後半になって次第に50年代のパターンに復元しつつあること。しかし,工業品輸入の面では,商品構造に変化があらわれて,化学品の比重増大に対し機械はまだ50年代の比重を取りもどしていないことなどである。
ところで,文革の影響をうけて67年に前年比11.3%,66年に前年比4.9%の減少を続けてきた対外貿易も,69年に入って再上昇に転じた。第73表にみられるように,資本主義圏主要23国との貿易は,69年上半期には,前年同期に比べて輸出9.9%増,輸入9.5%増となり,市場別にみると,先進国のなかではイギリス,西ドイツ,オランダ,低開発国ではシンガポール,マレーシアの著増が目立った。
商品別にみると,鉄鋼,化学肥料,化学繊維原料などの輸入動向にはあまり変化はなかったが,非鉄金属(銅,プラチナなど)の輸入が著増し,半面機械機器については工作機械など一部の品目を除き輸入需要が減少している。これは文革期における投資活動の停滞と同時に,最近機械機器の輸入代替がかなり進行していることを示唆している。また食糧も国内増産を反映して,68年いご輸入量が減退し輸出量が増大してきた。
なお,63年以降急増を続けてきた日中貿易は,67年および68には減少に転じた。とくにMT貿易(日中覚書貿易)と友好貿易との対比では,MT貿易の減少が目立った。
しかし,日中間の決済通貨問題など未解決にもかかわらず,69年に入って貿易は回復に転じ,輸出入合計で1~9月には前年同期比12.2%増となった。これはスェズ閉鎖や国内需要の増大を反映した西欧諸国の輸出減退が多分に影響しているようである。
文化大革命を総決算するものとして注目されていた9全大会(中国共産党第9回全国大会)が69年4月に開催された。この9全大会は56年の8全大会第1次会議から数えて実に13年,58年の第2次会議から数えて11年ぶりに開催されたものである。9全大会では経済政策の面で急激な政策転換は指示されなかったが,しかし,大会前後から明らかに静かな変革が進行しつつある。そして変革の主要方向は,66年5月7日に公布された毛沢東の「5・7指示」に沿って,いわゆる総路線,大躍進,人民公社の「三面紅旗」に象徴される「新しい社会主義社会形成の構想」を復活させることに重点がおかれている。この毛沢東構想は60年以降の調整段階で,劉少奇路線によって否定されてきたものである。
以下,この「新しい社会主義社会形成の構想」の復活状況を,農業改革,工業改革,企業管理改革の3つの面について概観することとする。
毛沢東の「5・7指示」に沿って「農村人民公社構想の再生と復活」が再提起されているが,それは人民公社を社会構成の基層単位とする地域社会の形成と自治体制の確立を目ざして進められている。
具体的な動きとしては,従来国家が直接管理してきたMTS(トラクターステーション),農業技術ステーション,農村診療所,小中学校の経営を農村人民公社の経営に移行させるような動きがある。これは機構変革を通して人民公社の生産,技術,教育管理等を直接生産面に結びつけようとするものである。
こうした変革を進めるには,調整段階の際に人民公社の独立採算制の主体が公社,生産大隊,生産隊のうち最も下部組織の生産隊に移されたものを,ふたたび生産大隊など上部組織に移行させて人民公社組織の拡大をはかることが必要である。また農民個人の所有となっている小規模の耕地面積(自留地)も廃止する必要がある。ただし,文革段階で高まったこうした機運は,農業増産に与えるマイナス影響も考慮して,9全大会以後かなり改革のテンポが緩和されているのが実状である。
なお,農業所得の分配方法については,山西省の大寨人民公社,大寨大隊の労働報酬制度が全国的なモデルとして推奨されている。大棄大隊の報酬制度は53年以来多くの改変を重ねてきたが,現在,「標準工分,自報公議」という方法が採用されている。つまり労働報酬支払のベースとなる労働点数(工分)を決める場合,まず,農作業ごとの標準点数を定め,これを基準として各社員が自己の体力の強弱,技術の高低,労働態度を考慮して作業結果につき点数を報告し,こうした報告を集めて社員大衆の討議を経て各社員の点数を決定するという方法である。
これは社員の政治意識水準を重視するとともに社員間の収入の格差縮少をねらいとしている。
工業改革の面では,従来経済計画の重点を農業および軽工業に指向してきたが,69年10月に入って重工業の重要性がふたたび強調されるようになった(北京市革命委員会写作小組,「中国社会主義工業化道路」)。
これは農業生産力の回復を基盤として,新たな工業化路線が指示されたものとして注目されるが,一面中ソ緊張に備えた国防力強化とも関連があろう。
また,工業改革の面で注目されるのは,鉄鋼増産運動および小規模工業の強化という58年当時の大躍進政策がふたたび再現しつつあることである。鉄鋼増産運動は69年9月に提唱され,今や全国的な増産運動として拡まりつつある。一方,小規模工業はすでに65年頃から過去の失敗を再検討しつつ局地的に育成されてきたが,69年に入って大躍進の展開とともにふたたび全国的な規模で,鉄鋼,石炭,肥料,セメント,機械(旋盤)等の各業種で強化されている。
企業管理改革の基本的な方向は,60年に毛沢東が制定した「鞍鋼憲法」に示されている。
この憲法はソ連のマグニドゴルスクの鉄鋼コンビナートの「修正主義的」な企業管理方式と対置する意味で制定されたものだといわれる。その内容は,第1に,労働力に対する刺戟政策について「精神的刺激」の優位性を強調し,第2に,企業管理と指導面における党委員会の役割について,ソ連式の企業管理方式(一長制)すなわち企業長の「単独責任制」を否定し,指導的幹部,労働者,軍隊の三者が一体となって管理する革命委員会方式の確立を述べ,第3に「大躍進」の新たな推進を再提起している。
この「鞍鋼憲法」の趣旨に沿って,賃金改革の面では出来高払制から時間給制への移行,ボーナスその他報償金の廃止,賃金格差の是正など大幅な改革が進められている。また,管理面では,技術者,専門家による企業支配を排し,大衆が企業管理に参加する体制を一層強化している。これは文革の主要目的の一つが,テクノクラート官僚の支配打破にあるところからして当然の成行きであろう。
なお,69年初来緊張が高まった中ソ国境紛争を契機として,中国の国防体制が急速に整備されている。経済政策との関連で云えば,中ソ緊張に備えて食糧備蓄の強化(各人民公社および個人単位で1年分の食糧備蓄を目標とする),戦略物資(生ゴム,非鉄金属)の輸入促進,生活必需品の配給制強化,財政負担の一部(文教費,医療費)を人民公社負担に振替える等の措置が講ぜられつつある。そしてこうした政策転換によって,実質的な生活水準の切下げが行なわれつつあるようにみえる。