昭和43年

年次世界経済報告

再編成に直面する世界経済 

昭和43年12月20日

経済企画庁


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第7章 中  国

1 中国の経済発展の推移

中国経済は1953年に第1次5ヵ年計画(53~57年)に着手していらい,68年までにすでに16年を経過した。この16年間は,中国経済が文字どおり波瀾と神秘に満ちた「大躍進」,「文化大革命」という世界史的なできごとを通じて大きく変動しながら発展してきた期間でもある。

ところで,中国から公表される経済諸指標は58~60年間に急激に質が低下し,60年以後になると,断片的な経済情報を除いてまったく公表されなくなった。この断片的な工,農業生産実績をもとに,コーネル大学の劉大中(Ta-Chung Liu)教授が独自に推計した国内純生産額をみると,52~65年を通算した国内純生産の年間平均成長率は3.3%であった。この意外に低い経済成長率は,58年に国内純生産が戦後最高水準に達したが,その後自然災害の発生,ソ連の経済援助停止,大躍進政策の失敗などにより,60年から経済後退が始まり,61年にはピーク時の85%相当の国内純生産規模に縮小したためである。62年に入ると,大躍進政策の緩和,物的刺激政策の再導入など諸政策が講ぜられ,また天候条件も幸いして経済情勢は回復に転じ,65年の国内純生産規模はほぼピーク時の58年水準に戻った。結局58年から65年にかけて7年間というものは,実質的な経済成長がみられなかったということになる。因みに安定的な経済成長が示された第1次5ヵ年計画期には,年率6.0%の成長率が維持された。(中国公表の国民所得によって算定すると年率8.9%)

(1) 第1次5ヵ年計画の特徴と問題点

53年に着手された第1次5ヵ年計画の特徴を一言にしていうと,理論的にも実際面でもソ連の社会主義建設の歴史的経験を取り入れた計画ということができる。つまり「重工業優先発展」の古典的社会主義工業化理論に則して,重工業建設および大規模企業建設に重点をおいたソ連の工業化方式が踏襲されたところに特徴がある。中国が第1次5ヵ年計画でいかに重工業部門の建設に重点をおいてきたかは,中ソの第1次5ヵ年計画期における投資配分比率を比較した 第59表 にもっともよく示されている。

これでみると投資率は中ソほぼ等しいが,工業(とりわけ重工業)向け投資配分比率は中国の場合の方が圧倒的に大きい。

このように「重工業,大規模企業優先開発」の社会主義工業化方式を円滑に遂行できたのは,主としてソ連の経済技術援助に支えられるところが大きかった。ソ連の借款供与額に関しては,中ソの公表額に若干の喰い違いがあり,周恩来の発表する中国側の見解では14億600万新ルーブル(返済利子をふくむ),スースロフの発表するソ連側の見解では18億1600万新ルーブルとなっている。この違いは,おそらく経済援助の概念規定が相違するためであろう。

ともかく第1次5ヵ年計画期から第2次5ヵ年計画期にかけて,ソ連が中国に援助を与えた企業建設のプロゼクト数は291単位で,これはソ連が社会主義諸国に援助したプロゼクト総数668単位(1960年末現在)の44%弱に相当する大きなものであった。

こうしたソ連の経済・技術援助と,この期間に急速に高まった貯蓄率の増大とによって,社会主義工業化は順調にすすみ,劉大中(Ta-Chung Liu)教授の推計によると年率6.O%(公表数字では8.9%)の経済成長率が達成された。

しかし,第1次5ヵ年計画末に中国経済が当面したのは,①農業生産の停滞②過剰人口圧力という2つの大きな問題であった。第1次5ヵ年計画期間を通算して,農業生産の成長率は公表数字によると年率4.5%,穀物生産は3.7%で,工業生産の18.0%と対比していかにも低水準である。しかも農業生産は天候条件に左右されて年々の豊凶の差が激しい。このような農業生産の停滞は要するに,第1次5ヵ年計画期の経済政策の重点が,工業生産とりわけ重工業生産に偏って指向された結果,農業投資が比較的軽視されたためである。

過剰人口圧力に関する問題点は,大規模企業,近代セクターを重視する第1次5ヵ年計画期の工業化の過程において,増大する労働人口を完全に吸収し得なかったという労働吸収の問題である。中国の人口増加率は新政権樹立後急速に増大し,第1次5ヵ年計画期に年率2.3~2.5%増,絶対数で1300~1500万人の増加をみた。労働力人口も人口増に比例して年間平均400万人の増加となった。これにたいし,公式概念による「全国労働者職員数」は年率9.1%増,絶対数で170万人の増加にすぎない。要するに差額230万人が毎年潜在失業者として農業部門に沈澱せざるを得なくなった。

(2) 第2次5ヵ年計画の特徴と問題点

第2次5ヵ年計画(58~62年)を着手するにあたって,中国が取り組まねばならない問題は,要するに,①農業生産の安定的成長,②過剰人口圧力の回避という2つの問題であった。しかもソ連の経済援助供与の見通しが次第に期待薄となったため,国内貯蓄の範囲内で経済開発をすすめざるを得なくなった。こうした条件のもとで発足した第2次5ヵ年計画の特徴を一言にしていうと,ソ連経済体制からの離脱と中国独自の社会主義建設路線の開拓という表現で特色づけられると思う。具体的には工業も農業も平行的に重視するという開発パターンが採用され,大躍進の展開,小企業生産方式の重視,人民公社の設立,労働集約的農法の展開といった諸政策が実施されることになった。

さて「イギリスに追いつき追いこす」という目標をもって大躍進政策が展開されたのは58年からである。「追いつき追いこす運動」の内容は,68~72年期間中に,鉄鋼,石炭,セメン卜,化学肥料,工作機械など重要工業品の生産量についてイギリスの生産水準を凌駕し,また,農業生産では,67年末を目標として56年に制定された「全国農業発展要綱」の農業生産目標を,期限前に達成することであった。

つぎに人民公社の設立は,社会主義段階から共産主義段階への過渡期理論に関する中ソ論争の論点の一つとして,ソ連から強い批判をうけたものであるが.中国が,①計画管理制度の地方分散化,②農業部門の資本蓄積の強化③農業潜在失業者の生産的活用などをねらいとして,独自に開拓した新しい社会主義制度である。なお,人民公社は所有制の面では国営農場(全人民所有制)とは異なり「集団所有制」であるが,分配面において,「共産主義の分配の原則」の適用を指向して,当初生活物資の重要部分(食糧,衣服,住宅,医療,教育,育児など)の無償供給にふみ切った人民公社も現われた。

第3に,農村労働力の動員による手工業生産様式の拡大は,中国農村の伝統的な生産様式を踏襲したものであって決して目新しいものではない。しかし,今回はとくに労働吸収(過剰人口圧力の回避)と経済成長(大躍進の展開)とを同時にねらって,単に農村副業面だけではなく,鉄鋼(小高炉),石炭,セメント,繊維,化学肥料など近代的工業分野にまで業種を拡大して,小企業生産方式を大規模に取り入れたところに特色があった。

第4に,労働集約的農法の展開については,農法の基本方向について,①耕地面積の拡大(開墾の奨励),②土地生産性の増大(既耕地の改善)という2つの路線について論争があり,結局資本投入量が相対的に少なく,労働投入量が大きくて増産が期待できる第2の方向が採択された。これは要するに,過剰人口圧力を排除しつつ,農業生産の安定的成長を企てる最善の方向と見なされたためである。具体的には,人民公社単位における灌漑,治水工事の普及,密植,深耕など農法の改良,ならびに米作北上化(従来准河以南とされた米作地帯を准河以北に拡大普及する),あるいは楊子江流域における米作二毛作化の普及など作物栽培体系の変更が試みられることになった。

(3) 調整段階の特徴と問題点

中国の国内純生産は,大躍進の展開により58~59年にかけて急増したが,その後自然災害の発生(60年の自然災害は総耕地面積の55%が被災),ソ連の経済援助の供与停止(60年7月,ソ連技術者の全面的引揚げ),大躍進政策の失敗などにより60年から経済後退が始まった。第2次5ヵ年計画も結局中途で放棄されることになり,61年1月の中国共産党第8期9中全会において,投資規模の縮小,経済成長率の引下げを内容とする国民経済の「調整,強固,充実,提高」という調整政策の指針が確認された。

調整政策の具体的な内容としては,経済開発の面で農業重視の経済計画のパターンが採用されるとともに,人民公社,小企業生産方式,労働集約的農法など計画管理ないし企業管理の運営面で,重大な調整が加えられるようになった点が指摘される。人民公社に関する調整でもっとも特徴的な点は,公社規模の小規模化再編成が企てられ(1社当り農家戸数を縮少する),農民の勤労意欲を刺激するために,生産,分配決定の基本単位を最終的には末端組織の生産隊の水準にまで引下げ,また生活物資の無償供給を時期尚早という理由で取り止め,自留地,農村自由市場の復活が企てられたことなどである。小企業生産方式に関する調整では,採算ベースに乗り難い不良小企業の淘汰がおこなわれたこと,農法の改善という面では,大した試験期間を経ることなしに急速に展開され,結局失敗に終った米作北上化,あるいは米作二毛作化などの作物栽培体系について再検討が加えられ,また小型水利工事を全国的に建設し,化学肥料を増投することによって反収の増大が企てられるようになった点を挙げることができる。

こうした調整政策の実施によって,65年の国内純生産規模はおおむね58年のピーク水準に回復したが,年率2.O%を上回る人口増加のため,1人当り純生産規模ではまだピーク時の水準を取り戻していない。とくに1人当り穀物消費水準は57年の194キログラムから65年には191キログラムに低下している。これは,59~61年の農業危機の期間に大量の死亡をみた役畜の飼育数が,65年になってもピーク時の水準に回復しないため,役畜用の飼料が少なくてすみ,さらに470万トンの穀物輸入をおこなってようやく到達した水準である。このことは65年の穀物生産,消費構造にまだ不安定な要素が多分に残されていることを示している。穀物輸入は61年以降,毎年500万トン以上のものが輸入されてきたが,最近輸入量はやや減少し,67年は430万トン輸入された。

(4) 第3次5ヵ年計画の展望とその足どり

66年に発足した第3次5ヵ年計画(66~70年)の構想は,ともかく以上のような穀物生産・消費構造の歪みを是正しながら,産業構造の面で農業生産に最重点を指向しつつ,国民1人当たり生産水準においてピーク時の水準を取り戻し,かつ凌駕することが目標とされた。第3次5ヵ年計画の構想について公式に発表されたものはもちろん見当らないが,経済情報の選択,吟味に関して客観的な立場を保持しているといわれるアメリカのエドウイン・ジョーンズ(Edwin.F.Jones)の推測したものを引用すると,中国の計画当局が予定した第3次5ヵ年計画の経済成長率は,国民所得,年率4~5%農業生産2~3%,工業生産5~7%( 第60表参照 )で,第1次5ヵ年計画の実績をかなり下回る控え目なものであるとしている。(注,石川滋教授は,65年を基準年次とする中国経済の長期展望作業において,農工バランスおよび雇用バランスの制約条件を満足させかつ外国貿易の制限をも満足させる経済成長率は,年率7.2%と想定している)

農業生産の年率2~3%という成長率は,農業重視政策のもとでも,予想される人口増加率2.0%を充分に上回る成長率の実現がなかなか困難なことを示唆している。また農業に対する投資優先が工業の設備拡充を遅らせ,農業生産の緩慢な伸びが穀物供出量を抑制して,近代工業の雇用増加を阻むということもあって,工業生産の伸びもかなり控え目に想定されている点を注目したい。

ところで,66年の春から本格化した文化大革命は,生産分野に対するマイナス影響を最小限度に喰い止めようとする計画当局の配慮にもかかわらず,党内斗争の規模の大きさ,根底の深さ,斗争期間の長さにおいて戦後類例をみないものであったため,そのマイナス影響は生産・輸送面にも次第に現われてきた。とくに文革が生産・輸送企業の内部深く滲透し始めた66年末から,各地方,各企業ともかなり混乱と動揺を繰り返し,67年の全国工業生産はかなり減産になったもようである。ホンコンのCurrent Sceneによると,工業生産は前年比15%減,固定投資も9%減となった。また鉄道,海運などの輸送も停滞した。しかし農業生産は文革の影響をうけることが比較的すくなく,天候条件にも恵まれて好調だったとみられている。Quarterly Eco-nomic Reviewによると前年比5%増の農業生産が達成され,また穀物生産については,国連のWorld Economic Surveyでは前年比10%増,FAO(国連食糧農業機構)では215百万トン(66年,206百万トン)の生産が達成されたとみている。( 第61表参照 )なお67年には,工業生産の停滞にもかかわらず国内消費の増大がみられた。これは農業生産の好調によって農民所得が増大したことと,企業面では,文革の混乱の最中に,中央計画当局の指令をまたず独自の判断で賃金,奨励給の追加支払をおこなうという事態が続出したためである。

農業生産の好調は68年にも引続いているが,天候条件,作付遅延,化学肥料および農具の投入不足等から判断して,生産水準が前年を大きく上回ることはあるまい。なおエドウイン・ジョーンズの推計によると,大家畜(牛,馬,驢等)の飼育数は61年にピーク時の約半数に減少したが,65年には6割相当まで回復したといっている。( 第62表参照 )

しかし計画当局の発表によると67年に戦後最高の飼育量に達し,北部農耕地区の役畜不足は基本的に解消したといっている。

一方,67年末に文革の収拾のきざしが現われ始めてから,工業生産も漸次回復のテンポが高まってきた。68年9月5日には,全国29の一級行政区(省,自治区,直轄市)に臨時権力機構の革命委員会が成立し,さらに10月末の中国共産党第8期12中全会において,適当な時期に全国代表大会(9全大会)を開催することが決定された。文革の収拾テンポは一段と高まりっつある。

このまま第4四半期の工業生産が順調に推移すれば,68年の工業生産水準はおそらく停滞前の66年水準に回復するだろうとファー,イースタン・エコノミック・レビューでは観測している。

たしかに文革の収拾によって社会的混乱は収まり経済情勢は改善されつつあるが,文革に基因する減産効果が果して一時的なものに終るかあるいは長期的停滞につながるものかどうかについては,今後の経済政策の動向にかかっているといえる。おそらく,経済政策の運営に当っては,過去の経験を生かして慎重に事をすすめるに違いない。しかし,計画当局の意図する新しい計画管理,企業管理体制が,物的刺激政策を全面的に否定する精神革命に根底をおいているだけに,西側では短期的安定はともかく長期的に安定成長が維持されるかどうかについて危惧する向きもある。

2 中国の対外貿易の推移

1) 対外貿易の推移と構造変化

中国の対外貿易の推移をみると,60年代に入ってきわ立った変化が示されている。

第1点は貿易総額が59年をピークとして60年から縮小し始め,63年に入ってふたたび回復に転じたこと。

第2点は貿易相手国を資本主義圏と社会主義圏に分けてみると,社会主義圏の比重が低下して最近では25%前後となり,50年代における社会主義市場対資本主義市場の相対的地位が逆転したこと。

第3点は資本主義市場を先進国と低開発国の2つのグループに分けると,輸出では低開発国のシェアがおおむね60%台を維持し,輸入では先進国のシェアが同じく60%を占めて,低開発国で稼得した外貨をもって先進国からの入超を決済するという方式がとられている。また最近では低開発国向けの輸出努力と平行して,先進国向け輸出も促進されるようになったこと。

第63表 中国の対外貿易の推移

第4点は輸出入商品構造の目立った変化である。まず輸出商品構造については,50年代前半に圧倒的比重を占めていた食糧および加工品,農産原料の比重が工業化が進むにつれて漸次低下してきたが,60年代に入ってさらに大幅にその比重が低下し,かわって繊維品を中心とする工業品の比重が高まってきた一方,輸入商品構造については,機械および設備,基礎材など工業品の輸入比重が低下し,食糧輸入の比重が大幅に増大したことなどである。

第64表 輸出入商品構成の変化

以上4点に要約される対外貿易の構造変化は,前述したように中国経済が60年代に入って経済困難に陥り,経済成長の上で大きな凹みに落ちこみ,その後その凹みから這い上る過程を反映したものともいえる。

ところで,第1点の63年から回復に転じた対外貿易は,貿易総額だけに限定すれはf66年にほぼピーク時(59年)の42億ドルの水準を取り戻すことができた。

しかし,貿易の停滞には,農業災害による減産のほかに,中ソ対立によるソ連の経済技術援助供与の停止という政治的要因も大きく影響しているので,63年以降の貿易の回復過程には当然構造上の変化を伴なうことになった。第2点に示されるような市場構成の変化は,中ソ対立から派生される当然の結果で,このような対外貿易に占める東西貿易比率の上昇傾向は,67年に入って中ソ貿易がピーク時の20分の1に縮小し,東欧貿易が縮小傾向を強めるとともに最近ますます顕著になってきている。それとともに東西貿易に依存する割合が増え,ソ連からの援助供与の見込みがまったくなくなった現在では,輸入決済に必要な外貨取得のため,東南アジア市場(主としてホンコン・シンガポール)にたいする輸出拡大の要請がいよいよ強まってきている。中国の計画当局の貿易政策の動向をみると,国際市場価格の動きに敏感に反応し,最近社会主義諸国で隆盛をみつつある輸出利益係数ないしは国民経済収益性指標にも着目しながら,比較優位の商品を選択して輸出品の多様化をはかるという努力が実にたんねんに行なわれている。

第65表 中国の対ソ貿易の推移

一方,東西貿易比率の上昇と並んだもう一つの構造変化は商品構造上の変化である。第4点に示される60年代に入っての商品構造上の変化は,主として農業災害による減産と輸出力の減少によってもたらされたが,その中でもつとも典型的な特徴は,50年代の食糧純輸出国から60年代に入って食糧純輸入国に変わったことであろう。食糧輸入は61年に開始されたが,64年の640万トンをピークに漸減し,67年には430万トン,68年には380万トンに縮小する見込みである。他方,59年に166万トンに達した米の輸出量は,60年代に入って急減したが,67年,68年にはふたたび100万トン以上に増大した。また,食糧輸出入の他60年代に入って次のような変化がみられる。まず輸入面では,国内産の原油開発によって石油輸入が激減したこと,プラント輸入の相手市場がソ連圏から西側先進国に変わり,従来ソ連で供給困難だった先進的なプラント(化学肥料プラント,合成化学プラント,酸素製鋼プラント,製油プラント等)が導入されるようになったこと,農業重視の政策がとられるようになり化学肥料の輸入が著増したことなどである。つぎに輸出面では,国内経済の急速な工業化に平行して工業品輸出が増大しているが,62年代初期には農業減産による食糧および農産品の輸出減少もあって,工業品輸出比重は急増した。しかし,その後農産品の輸出回復とともにその比重はやや低下している。なお工業品輸出の圧倒的な部分は繊維品で占められているが,繊維品の中でも最近原料輸出のシェアが縮小して加工品のシェアが拡大し,また繊維品から工業用油脂,建築材料(セメントなど),鉄鋼,非鉄金属品の輸出へと輸出工業品の多様化がすすんでいる点も注目される。

2) 1967~1968年の貿易動向

中国の対外貿易は66年に59年のピーク水準に回復したが,67年に入って増勢は鈍化し,輸入は前年比6.5%の増加となったが輸出は前年比9%の減少となった。輸出の減少は文化大革命によって工業生産ならびに輸送が停滞し,また食糧調達も円滑に運ばなかったためだとされている。こうした輸出の減少によって,結局輸出入バランスの上で約2億5,000万ドルの赤字が生じた。輸出の縮小傾向は68年にも続いたが,さらに輸入も減少に転じた。前年の入超によって輸入引締めが強化されるようになったことと,西側の信用供与によるプラント輸出が減少したためである。しかし,68年第2四半期に入って輸出入とも東西貿易を中心に回復傾向を示し始めている。( 第63表 参照)

市場別にみると,中ソ貿易は67年に貿易総額で前年比66.4%減となり比重がさらに低下したが,西欧諸国との貿易は相対的に比重が高まり,東西貿易比率は高水準を維持している。

なお63年以降急増を続けてきた日中貿易も67年に入って減少に転じた。

貿易総額で前年比10.2%の減少であったが,68年1~7月も,さらに前年同期比15.1%の減少となり,とりわけ日本の輸入の減少幅が大きかった。しかし,輸出は下半期に入ってMT貿易(日中覚書貿易)交渉の遅れを取り戻し,年間輸出額としては前年水準を上回る見込みである。

3 中ソ経済関係の変化

最後に中ソ経済関係を概観することとしよう。1949年にコメコン体制が結成されることになったが,中国は50年代前半にはオブザーバーの資格で参加してきた。しかし「自己完結的な工業」体系の確立を目ざす中国は,50年代後半になって,コメコン体制が各国の経済計画の調整を通じて,いわゆる「生産の専門化と協業化」を進展させることにより,社会主義国際分業体制を強化するようになってからは,まったく局外者的立場に立ち,中ン両国の経済関係は貿易を通じての関係のみに限定されるようになった。

第66表 主要国の対中国貿易

中ソ貿易の推移をみると,49年に中国人民政権が成立した当時,中国の対外貿易に占めるソ連圏の比重は26%に過ぎなかった。ところで,朝鮮動乱の勃発は中ソ経済関係に対して決定的な変化を及ぼすこととなり,西側諸国の禁輸措置(チンコム・リストの設定)に対応して,中国の計画当局はソ連経済に対し「一辺倒政策(Lean to one side policy)」をとりはじめた。

この「一辺倒政策」は,50年に締結された一連の政治的,経済的諸協定を通して着々と実施に移された。これがその後数年間にわたる中ソ両国の経済関係を緊密にする基礎となったのである。中国の経済開発に対するソ連の積極的な援助が開始されたのも,同じくこの時期である。そして中国の対外貿易に占めるソ連の比重も逐次上昇して,59年のピーク時には,中国の輸出に占める比重が49.5%,中国の輸入に占める比重が47.4%にまで高まった。

ところで,56年2月のソ連共産党第20回大会における「スターリン批判」を契機として中ソ間にイデオロギー論争が始まり,その後,63年7月の中ソ会談の決裂によって中ソ対立は決定的となった。こうした対立は両国の国家利益の対立にまで発展し経済関係も影響を受けるようになった。60年7月にはソ連技術者が全面的に中国本土から引揚げ,経済技術援助の供与も全く停止された。中国の対外貿易に占めるソ連の比重も,65年には中国の輸出に占める比重が11.5%,中国の輸入に占める比重が11.0%まで低下し,その後ますます低下テンポを速めている。( 第64図参照 )

こうした中ソ貿易の縮小およびソ連技術の導入停止に対処して,中国は圏内依存の輸入市場を漸次西側諸国に転換し,またソ連の技術体系からの脱却と自主的技術体系の開発に努めるようになった。このような輸入代替の動きは,社会主義諸国のなかでも国民1人当りの貿易額がもっとも少ない中国の貿易依存度を一層低める作用をなしている。( 第67表 参照)しかし,戦前のソ連の場合と違って,技術導入意欲がなお盛んなこと,国際環境にやや恵まれていることなどによって極端なアウタルキー政策に走ることはまずあるまいとみられている。

さて,中ソ貿易の推移は,以上みるように政治的要因に大きく左右されて激変してきたことは事実だが,同時にその背景に経済的要因があることもみのがしてはならない。つまり,中国の工業化の最近の段階で要求される先進的プラント,機械,技術について,ソ連の水準がかなり遅れていること,あるいは過去において,ソ連からの輸入品がしばしば国際価格よりも高かったため,現段階において中国が国際的により合理的な市場選択を指向するようになったことなどがそれである。中国の産業構造変化に対するソ連の機械,技術水準の適応力が小さかった点は第3章において述べられているとおりである。また中ソ間の交易条件については,たしかに双務協定方式による中ソ貿易が中国の対外貿易のなかで圧倒的比重を占めていた50年段階には,価格決定の際経済外的要因が働いて,両国間の取引価格を国際価格から遊離させ差別価格を発生させたことは首肯できる。 第68表 は中ソ貿易の輸出入価格と低開発国グループ(インド,インドネシア,アルゼンチン,アラブ連合等7ヵ国平均)の対ソ輸出入価格を相互に対比したものである。これでみると,個別商品についても,全体としての商品(対ソ輸出10品目,対ソ輸入28品目)についても,中ソ間の貿易価格は低開発国グループのそれに対して相対的に割高で取引されていることがわかる。しかも中国の対ソ輸入は対ソ輸出に比較して相対的に不利である。また,差別価格発生の理由として貿易価格の決定方式に問題があることのほか,対ソ輸入の場合,主に陸路輸送によるため(ソ連国境FOB価格渡し),輸送コスト高もかなり影響しているようである。したがって,外貨保有,信用供与等の決済条件さえ許せば,交易条件という観点からすると,中国の対外貿易は西側諸国に傾斜する可能性を十分もっている。

最近,中国が貿易政策の上で外貨取得のためにアジア市場進出を強化し,西側諸国からのクレジット獲得および輸入促進をすすめているのも,経済的にみて当然の成行といえよう。