昭和43年

年次世界経済報告

再編成に直面する世界経済 

昭和43年12月20日

経済企画庁


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第1章 1967~68年世界経済

2 国際通貨体制の動揺

すでに述べたようにこの1年間は,戦後最大の国際通貨混乱が発生した年であった。1967年秋まで比較的順調に推移していた国際金融情勢は,11月のポンド切下げを契機として著しい混乱に陥り,ドル不安の高まりと金投機の発生,フランの動揺とマルク切上げ思惑の発生などが相次いで起った。

(1) ポンドの切下げとその効果

1) ポンド切下げ

この1年間に相次いで発生した国際通貨面での動揺は1967年11月18日のポンド切下げをきっかけとするものであった。

このポンド切下げは,直接的には,67年秋以降の国内消費需要の増加に,中東紛争,港湾ストなど偶発的要因が加わって,経常収支が急激に悪化し,ポンド不安の激化と大量の短資流出が生じたことによるものであった。

イギリスの国際収支は,保守党政府時代から慢性的な赤字を続けていたが,その主因は貿易収支と政府貿易外収支の赤字にあった。

第22表 イギリスの国際収支

貿易収支の恒常的赤字をもたらした要因は,後述のように基本的にはイギリスの経済力が,戦後一貫して相対的地位を低下させてきたという経済の体-質の弱さにあることはいうまでもないが,その他にも①1949年のポンド切下げに際し,ヨーロッパ諸国やスターリング諸国がほとんど同一幅の切下げをもって追随したため,予想ほど輸出競争力が大きくならなかったこと,②しばしば発生した国際収支危機に対し,歴代政府は抜本的な対策を講ずることができず,いわゆるストップ・アンド・ゴー政策と国際借入れによって当座をしのいできたことなども大きく影響したと考えられる。

ポンド切下げと同時に,公定歩合の8%への引上げ,銀行貸出制限,賦払信用規制の再強化などの措置がとられた。政府は,これらの措置によって,生産資源を国内需要から解放して,輸出の伸長と輸入の代替を図り,68年の国際収支を1.5億ポンドの黒字,69年は5億ポンドの黒字とすることを目標とし,68年下期に入れば,ポンド切下げの効果が現われるものと期待した。

第4図 ポンド相場(ロンドン市場)

2) ポンド切下げの効果

しかし,その後の推移は,68年1月の政府支出大幅削減,4月の大幅増税など緊縮政策の強化にもかかわらず,政府の期待に遠く及ばないものとなっている。

改善が期待された貿易収支は,67年12月,68年1月と港湾スト解決の影響でやや好転したものの2月以降は再び悪化し,7月まで国際収支ベースで8,000万ポンド程度の赤字が続いた。その原因は輸入が輸出を上回る伸びを示し,高水準を続けたことにある。

輸入水準が低下しなかったのは,第1に,個人消費支出を中心に国内需要が根強く,消費,生産活動が活発で消費財をはじめ原材料,資本財の輸入が多かったためである。

第2に,平価切下げの結果,輸入単価が上昇し,食糧,原材料など必需品のポンド建て輸入価額が増大したが,完成財などの輸入数量は輸入単価の上昇の割には減少しなかったためである。

このように,輸入の高水準が続いたため,1~9月間の貿易収支赤字累計は,5億ポンドをこえており,最近では,68年の貿易収支は6億ポンドの赤字になるだろうという見方も出ているなと,ポンド切下げによる国際収支の改善は,政府の当初目標とは大きくくい違ってきている。

第5図 輸出入の推移

ここで,67~68年の輸出入の推移の特色を一層明らかにするために,前回の平価切下げ時の状況と比較してみると,次のような差異があった。すなわち①49年の切下げ率は,30.5%で67年の切下げ率14.3%より2倍以上も大幅であった,②49年には,西ドイツ,フランス,イタリアなど,主要工業国を含む多くの主要国が追随切下げを行なったが,67年には追随切下げを行なった国は,デンマークなどを除き低開発国に限られていた。また③イギリス国内では,49~50年には,政府支出が減少したのに対し,67~68年上期には,政府支出は増加し,また,個人消費支出の伸びも大きかった,④49~50年には,物価の上昇が賃金の上昇を上回ったが,67~68年には賃金の上昇が物価の上昇を上回り,またその上昇の程度も大きかった,などである。

第23表 イギリス国内経済と輸出

つぎに,輸出入の推移についてみると,まず,輸出については,50年の輸出の伸びが22.3%と大きかったのに対し,68年上期の輸出は,前年同期比12.8%増であった。つぎに輸入についてみると,50年には,前年比14.5%増であったが,68年上期の輸入の前年同期比は,22.1%増で,今回の輸入の伸びは極めて大きかった。この輸出入の推移は,第6図に明瞭に示されている。すなわち49~50年には,輸出入が切下げ後約10ヵ月,ほぼ歩調をそろえて伸びたのち,輸出が輸入をかなり上回るようになったが,67~68年では,輸出は一貫して輸入を下回っている。

第6図 賃金・物価の上昇と輸出入の伸び

(2) ドル不安の高まりとドル防衛の強化

1) ドル不安の高まり

ポンド切下げを契機として,ドルに対する不安が高まり,金投機が激化することとなった。

ポンド切下げ後,ジョンソン大統領は直ちに声明を発表し,1オンス35ドルの現行金価格を堅持する旨を明らかにしたが,ドルは主要欧州諸国通貨に対しほとんど底値をつけ,ロンドン,パリをはじめ金市場の相場は高騰した。この金投機は,11月26日,フランクフルトで開かれたフランスを除く金プール7ヵ国中央銀行総裁会議において,ドルの金平価維持に関する決意表明がなされた結果,一応鎮静したものの,12月上旬になると,アメリカが金市場を通ずる取引に制限を加えるとの憶測が広まり,金投機は再び激化した。この第2回目の金投機の激化も,12月16日,アメリカ政府めロンドン市場における金取引を従来どおり維持する旨の声明によって一応収束の方向に向ったが,11~12の2ヵ月間にアメリカの金流出は約10億ドルに達し,1~10月間の流出額合計の5倍にもなった。

68年1月1日ジョンソン大統領は,①企業の対外投資規制(改善目標10億ドル),②金融機関の対外投資規制(5億ドル),③政府海外支出の削減(5億ドル),④海外旅行制限(5億ドル),⑤貿易黒字幅の拡大(5億ドル)を内容とするドル防衛強化策を発表し,また,1月17日の一般教書において法定金準備の撤廃を議会に要請した。これらのドル防衛に対する決意表明により,金相場は低落し,為替市場も2月には小康をとり戻した。

しかし,その後増税法案や法定金準備撤廃法案が難航するなかで,金売却の一時停止が伝えられたため,金需要が再び高まり,一方,イギリスの歳出抑制が不十分であるとの見方が強まってポンド相場が新平価を割るに至った。このため3月中旬にかけて金市場,為替市場で不安感が強まり,金投機の規模は再び拡大した。こうした状況の下で,アメリカは公定歩合を0.5%引上げると同時に15日のロンドン市場閉鎖を要請し,16~17の両日にわたってフランスを除く金プール参加7ヵ国の中央銀行総裁会議が開かれた。

この会議の結果,61年以降,機能してきた金プールの市況安定操作は廃止され,金の二重価格制が実現することになった。

2) ドル不安の要因

ポンド切下げをきっかけとしてドル不安が高まり,金投機が激化したのはアメリカの国際収支の赤字継続や,金需給のひっ迫を要因とするものであった。

アメリカの国際収支は,戦後しばらくの間は巨額の黒字を保っていたが,1950年を境に赤字に転じ,60年以降数次にわたるドル防衛策にもかかわらず,ドルの流出が続いた。赤字の主因は,政府贈与と資本流出にあったが,60年代に入ってからは貿易収支の黒字幅も次第に縮小の方向に向った。

この結果,アメリカの短期対外債務は60年末の210億ドルから67年末には332億ドルにまで増大し,このうち金交換要求が可能な公的機関に対する流動債務だけでも67年末には157億ドルに達した( 第24表 )。

短期対外債務が増加する一方でアメリカの保有する金は,西欧諸国を中心に流出を続け,58年末に各国通貨当局保有分合計の54%に当る206億ドルの保有額が67年末には121億ドル(31%)にまで低下した。一方,この間に西欧工業10カ国の保有する金は,92億ドル(24%)から192億ドル(49%)へと激増した。

このようなアメリカの金流出はドル不安を高めたが,これに対し,スワップ網の拡大,ローザボンドの発行,対米債務の期限前返済など金交換圧力の緩和を目的とする国際協力が62年以降進められている。

しかし,他方では民間における金需要は著しい増加を示し,金生産の停滞傾向と相まって,民間の金需要はひっ迫の度を強めている。第25表にみられるように,民間金需要は退蔵をも含めて50年代後半は年間5~6億ドル台で安定していたが,60年には,アメリカからの大量の金流出と金政策変更懸念などによって一挙に10億ドル台に急増した。さらに65年になると,ベトナム戦争の拡大もあってドル不安が強まり,民間需要は新産金量を上回る16億ドル台へと拡大した。66年にはソ連の金売却が停止されたこともあって,公的金準備はわずかながらも純減となった。また,67年には,前述の金投機を中心に民間金需要は約30億ドルに達し,公的金準備は16億ドルの大幅減少となった。

こうして民間金需要が増大する一方,67年の自由世界の産金高は53年以来はじめて微減し,ソ連の金売却も僅小に止まったうえに,下期には投機的需要の増大から,金需給は次第にひっ迫してきたのである。

第25表 世界の金需給

3) 国際収支の改善

金の二重価格制採用後,金投機は一応おさまり,アメリカの国際収支の赤字幅も第1四半期の年率27.2億ドルから第2四半期には6.4億ドルに縮小した。さらに第3四半期には1.4億ドルの黒字を示すに至っている。

第26表 アメリカの国際収支

国際収支改善の内訳をみると,第26表からも明らかなように,資本収支の好転が著しかったが,なかでも,民間資本取引は,67年第4四半期の9.6億ドルの流出から,68年第1四半期には5.2億ドルの流入へと15億ドル近く改善され,第2四半期においても1.3億ドルの流入がみられた。

このような民間資本取引の改善は主として次のような事情によるものであった。第1は,従来,アメリカ本国から資金援助を受けていた海外におけるアメリカ系企業が,資金を現地で調達する割合が高まったため,資本流出が阻止されたことである。

これはドル防衛の一環である海外民間直接投資の規制によりヨーロッパの新規投資が禁止されたことによると同時に,ヨーロッパ市場での起債が企業にとらて有利に働いたことにもよっている。68年第1四半期にアメリカ企業はユーロ市場での起債を67年の四半期平均より5倍も増加させたが,その平均コストは低下した。これには63年の利子平衡税によるアメリカ資本の流出禁止のためユーロ市場が拡大を余儀なくされたことと,アメリカの投資銀行が海外資本市場の育成に努めたこと,ヨーロッパ各国が成長政策を推進し通貨供給を増大し続けたことなどのため64年に比べ3倍以上の市場規模に現在達していることが影響している。

第2は,外国人によるアメリカ国内での株式投資が増大していることである。

外国人による株式投資は 第7図 でみるように67年初めから上昇し続けており,68年第1四半期は2.9億ドル,第2四半期は5.3億ドルと増加し,67年の平均2億ドルを2倍以上上回っている。そしてここ18カ月で160億ドル増となり国際収支改善に大きく寄与した。このような株式投資増加の原因はヨーロッパの株価不振とアメリカの株価上昇によるものであった。アメリカの国内景気の大幅な上昇によって企業収益が増大し,株価が上昇したことが結果として外国資本の流入をもたらすこととなったといえよう。

第3は,これもまたドル防衛の一環であった銀行の投融資規制がかなり効を奏したことである。アメリカの銀行の対外融資の回収は順調に進み,68年第1四半期2億ドル,第2四半期5.6億ドルの回収超となった。

このような対外融資の純減は68年1月に連邦準備により発表された削減額の目標を銀行が達成しようと努力していることと国内の景気が良いことから資金需要が国内で強いことも原因している。68年における対外融資削減の目標は上期においてすでに達成された。

こうして民間資本取引が改善されたのに加えて特別金融取引も68年に入って活発に行なわれた( 第8図 )。

第1四半期には2億7,300万ドルの取引の増加があったが,これは西ドイツによる1億2,500万ドルの米政府特別債購入と5,000万ドルの米輸出入銀行債購入,カナダによる5,000万ドルの米政府特別債購入が主なものであった。

第2四半期においても7億9,000万ドルの特別取引があったが,これもカナダ(5億ドル),西ドイ-ツ(1億2,500万ドル)の米政府特別債購入が主であった。

以上みたように資本収支の好転は銀行の対外融資削減,アメリカ企業の資本流出の減少,外国人のアメリカ企業への株式投資,政府間の特別金融取引によるものであったが,これらは決して恒常的な性格のものではなく,一時的な要因が強いとみられている。そのため今後も貿易収支の悪化を補う形での資本流入があるか否かははなはだ疑問であるといえよう。

一方,従来は年率にして40~50億ドル台を持続してきた貿易収支の黒字は66年頃から縮小し始めていたが,67年第4四半期には12.8億ドル(季節調整済み,年率),68年第1四半期2.3億ドル,第2四半期0.6億ドルとかなり縮小した。第3四半期には10.8億ドルと黒字幅を拡大したが,これには港湾スト見越しの一時的要因もかなり強かった。このような貿易収支の悪化は輸出を大きく上回る輸入がその主要因である。すなわち68年1~9月間の輸出は前年同期と比較して8.7%増であったのに対し,輸入は前年同期を23.7%も上回った。

輸入増加の内容は産銅ストに伴う銅輸入の急増,ストライキヘッヂによる鉄鋼輸入増などの一時的要因によるところもあったが,基本的には国内景気の好況を反映した輸入需要の増大によるものであった。国内の需要拡大に伴い自動車,原材料,一般機械,電気機械などの輸入が軒並み増大し,特に自動車,原材料の輸入の増加は著しかった。

また,地域別にはカナダ,EEC,日本からの輸入が急増した。

こうして貿易収支はドル防衛の目標である5億ドルの改善をみるどころかむしろ悪化しており,当面著しい好転要因もみられないことから本年の目標は達成出来ないままに終ることとなろう。

以上のように68年初めにとられたアメリカのドル防衛策は,表面的には一応の効果をあげつつあるが,内容的には貿易収支の悪化がむしろ進んでおり基本的な意味で国際収支の改善が進んでいるとはいえない状態である。

(3) SDRの創出に関する合意成立

金需給のひっ迫と基軸通貨国であるアメリカ,イギリスの国際収支赤字継続は国際通貨面では,世界貿易の拡大に対応した国際流動性の増加が必要であるとの認識を強め,国際流動性の増強とIMFの機構改革に関する組織的な研究討議が1963年のIM F総会において提案された。その後迂余曲折を経ながらも,67年9月の総会で,SDRの大綱についての意見が一致をみ,68年3月の10ヵ月蔵相会議において,フランスを除く9ヵ国の合意が成立した。そして,4月にはSDRの創出と,それに関連するIMF協定の改革案が発表された。

SDRの骨子は①金,米ドルなど既存準備資産を補充する必要が起きたときに,これに応ずるためIMF参加国に配分される。②価値の単位は0.88671グラムの純金(1ドルの純金量)に等しい。③参加国は出資比率によってSDRを割当てられ,IMFの指定する参加国からSDRを行使して等額の通貨を取得できる。④SDR使用国は復元(償還)の義務を負っており最初の基本期間について参加国は直前の5年間におけるSDR保有額の平均が同期間のSDR累積配分額の平均の少なくとも30%に達するようSDRを使用かつ復元する,などである。また,創出の条件として,アメリカ,イギリスの国際収支が均衡化することがあげられており,発動にあたっては85%の多数決が必要であるとされている。

いまのところSDRの発行額は決められてはいないが,67年夏ごろ以来取り沙汰されるところでは10億ないし20億ドルとされている。

これまでドルは直接金と結びつき,他の通貨がドルと固定比率での交換を認められていたところから国際決済ないしは準備通貨とじて使用されたのであったが,SDRはそうした個別通貨の裏付けをもたない新しい国際通貨であるといえる。しかし,通貨問題の将来を考えるとき,永年にわたって不易な価値をもち,とくに,西欧諸国において異常に信頼されている金を廃貨とするまでにはまだ長い間のテストと試練を必要とするであろうことは疑いない。また,低開発国の受け取るSDRは年間の輸入を1%ふやすに過ぎず,これによって主としてうるおうのはアメリカなどの金持国だけだという非難もあり,「持たざる国」への特別割当を希望する声も強い。

さらに,創出までの過程についても基軸通貨国の国際収支がどれだけ改善されたらSDRが発行されるのかという問題が存在する。

しかし,ともかく金との交換を認められていないSDRが年々数億ないし数10億ドルの速度で発行されていけば,それは当然世界の金の不足を補うであろうし,またSDRが良貨として通用されるようになれば,いずれ金を廃貨とすることも不可能ではあるまい。こうして,金と結びつかない新しい国際通貨が生れたという意味で,SDRの創出はIMF20余年の歴史に新しいページを開いたものといえよう。

(4) フラン・マルクの動揺と今後の問題

ポンド切下げをきっかけとして表面化したドル不安の高まりと金投機の激化など一連の国際通貨不安は,金の二重価格制の採用,スワップ網の拡大など各国の国際協力の進展によって4月以降小康状態に入っていたが,フランスにおける5~6月の政治,社会危機を契機としてフランが動揺し,その後マルク切上げ思惑によるマルクの動揺も起って,11月を中心として国際通貨情勢には再び大きな波乱が起った。

1) フラン・マルクの動揺

この1年間,フラン,マルクの大きな動揺は2回にわたっておとずれた。

まず第1回は5,6月のフランスの政治・社会危機を契機としたものであった。

フランスの国際収支は,ポンド切下げにともない短期資本の金への乗換えがみられたものの,67年末から68年春にかけて基礎収支ではほぼ均衡状態にあった。しかし,68年5~6月の危機の発生によって投機筋の金やマルクヘの乗換え,居住者のフラン持出し,リーズ・アンド・ラグなどで赤字幅は急激に拡大し,金外貨準備は急速に減少した。また,フラン相場も平価を大きく下回った。

このような事態に対し,国際決済銀行やアメリカの連邦準備銀行がフラン買支えを行ない,フランス政府も5月末,為替操作,資本移動など,あらゆる決済を政府の管理下におくといった厳しい為替管理の実施,輸入制限と輸出補助金の採用など一連の対策をとった。また,7月3日には公定歩合が3.5%から5%へ引上げられた。

しかし,フランへの不信は容易に除去されず,短資の流出が続き,貿易収支も悪化したため,金外貨準備の減少は5月の3億ドルから6月には約11億ドルに増大した。これに対し,6月初旬IMFから8.85億ドルの引出しが行なわれ,また,7月初旬にはスワップ枠が13億ドルに拡大された。

政府のフラン防衛のための諸施策や国際協力に加えて,年央以降生産上昇が明らかとなり,また9月初めには為替管理令が撤廃されたのにともない,フラン投機は一応収束の方向に向い,貿易収支の好転もあって金外貨準備の減少は8月の2.5億ドル,9月の2.2億ドルと鈍化し,10月には1.7億ドルの減少にすぎなくなった。

この間に問題視されていたポンドについても20億ドルの借款に関する合意が大筋において成立し,アメリカにおいても,懸案の増税法案が6月下旬に成立するなどの事態の進展があったため,国際通貨情勢は小康状態をとり戻し,フランも一応平静にもどった。

しかし,11月に入ってから第2回目の波乱が起った。最近2年間における西ドイツの貿易黒字の異常な増大を背景として,時折,表面化していたマルク切上げ思惑は,11月に入ってから再燃し,マルク相場は異常に高騰した。

一方,11月12日,フランスは5月スト後の経済回復テンポの早さに伴うインフレ傾向の抑制と,フランの西ドイツへの流出を抑えるため,公定歩合を5%から6%へと再度引上げたが,これがフランス経済の先行きに対する不安を呼び,マルク切上げ思惑とからんでフラン相場が大幅に低落し,大量の短資がフランスから西ドイツに流出した。このため,フランスの外貨準備は,わずか2週間程度の間に10億ドル近く減少したといわれている。

こうした事態に対し,西ドイツ政府は19日に,経常収支黒字の削減を目的として,付加価値税法を改正し,商品貿易面でマルク切上げと実質的には同様の効果をもつ輸入調整税の4%の税率軽減と輸出還付率の同じく4%の引下げを実施する旨を発表し,マルク投機の根を絶とうとした。

しかし,マルク投機は,その後も続き,ポンド相場,フラン相場が低落する一方でマルク相場,金相場の高騰が続き20日から22日にかけて国際金融市場の閉鎖が相ついだ。

この混乱に対処するため,11月20日から22日にかけてボンで10ヵ国蔵相会議が緊急に開かれ,フランスに対し,20億ドルの中央銀行信用供与を含む28億9000万ドルの支援措置がとられることとなり,西ドイツの国境税調整と非居住者の預金準備率引上げが確認された。また同日,イギリスは増税と信用引締め強化,50%の輸入担保率などの一連の緊縮措置を発表した。また,フランス政府は23日フランの引下げを行なわないとの声明を発表し,フラン投機に対処して,国内経済を緊縮させるため69年度の予算規模を50億フラン削減し為替管理の全面的復活,強化,減税を中心とする輸出促進策など,貿易面の改善を主眼とする強力な対策を打ち出した。

10ヵ国蔵相会議と前後して打ち出された以上のような国際的,国内的対策により,マルク,フランの平価変更に対する思惑は若干沈静化し,25日以降金融市場はやや落着きをとり戻しつつある。

第9図 マルク相場とフラン相場

第27表 11月の通貨危機にとられた政策措置

2) フラン・マルク動揺の背景

以上のように,フラン,マルクをめぐる通貨の動揺も国際的な協力とフランス,西ドイツ政府の国内政策の弾力的措置によって一応切り抜けることができたが,このフラン,マルクの動揺の背景には注目すべき特色があった。

それはマルクとフランとでは,同じく動揺にさらされたといっても,背景となる西ドイツ経済とフランス経済の実態面には差があったことである。

西ドイツ経済は前述のように「インフレなき経済繁栄」が続き,これを背景として経常収支の黒字が異常に増大していた。すなわち,67年には,不況で輸入が減退したこともあって24億ドルと戦後最高の黒字を記録し,68年に入っても1~9月間に前年同期を上回る18億ドルの黒字を記録した。

こうした経常収支の黒字増大に対し,国内経済の拡大策をとることは失業率が0.8%とかなり低いことなどから,過熱をまねくおそれがあるとして,西ドイッ政府は黒字幅の縮小をむしろ資本輸出の奨励によって実施しようという方針を一貫してとってきた。この結果,内外金利差に助けられて長期資本の輸出は大幅に増加し,68年1~9月間に22億ドルに達した(67年全体の長期資本輸出額は8億ドル)。

第28表 西ドイツの国際収支

長期資本のうち,増加が著しかったのは,民間の融資と証券投資である。

前者は67年1月~9間の約2億ドルから68年同期の約8億ドルへと増加し,また証券投資も67年全体の5億ドルから68年1~9月の10億ドルヘ増加した。なかでもマルク建外債の購入額は67年1~9月全体でわずか3,500万ドルだったのが68年1~9月間に約8億ドルへと著しい膨張を示した。これも融資の場合と同じく銀行の流動性が豊富で,金利が国際的にみて低めに維持されていることが,主な原因となっている。

このような長期資本輸出の飛躍的な増加により,基礎収支(経常収支と長期資本の合計)は68年6月から赤字となったが,マルク切上げ思惑が根強いこともあって,1~9月間に約14億ドルの短資(誤差脱漏を含む)が流入し,その結果ブンデスバンクの金外貨準備は,1~9月間に約10億ドルの増加となり,9月末現在で90億ドル余となった。

このように,西ドイツ経済は物価の安定,生産性の上昇などに支えられて,経常収支黒字が増えつづける特色があり近い将来もこの経常収支黒字はあまり縮少しそうもないとみられている。

そのうえ,資本輸出についても,国内金利が上昇しはじめたことなどもあって,資本輸出をこれ以上増加させることが次第に難しくなってきており基本的な意味でマルクと他国通貨との不均衡が生じつつある状態にある。

一方,フランス経済は前述のように5月危機以後,経済は順調に回復し,鉱工業生産は9月には前年同期比6.1%増と上昇を続けており,輸出も前年同期比21%増という好調を続けている。貿易収支は7月以後黒字基調を維持している状態である。

ただ,賃金上昇テンポが前年同月比13~14%と大きいことから,消費者物価の上昇テンポが9月には前年同月比5.1%と次第に大きくなっていることや,69年度予算が大幅な拡大予算であることなどを背景としてインフレ傾向が強まっていることは事実である。しかし,インフレ傾向はあるものの全体としてフランス経済の実態は比軟的好調を維持していて,フランの大幅な動揺をひき起すほどの実態ではなかった。

このことは,58年のフラン切下げ当時の実態とくらべてみても明らかである。当時のフランス経済は,アルジエリア戦争の影響もあって56年以来,貿易収支は年間10億ドル前後の赤字をつづけ,金外貨準備も57年には7億5,000万ドルという低水準におちこんでいた。また財政収支も55年以来年々100億フラン前後の赤字であった。

これに対して,最近のフランス経済は貿易収支では黒字をつづけており,金外貨準備もなお11月中旬に40億ドル前後の水準にあった。また財政収支も66年,67年と50億フラン程度の赤字にすぎず,58年当時にくらべて,経済の実態はかなり好調であったといえよう。

第10図 輸出の輸入カバー率(フランス)

3) 今後の問題

以上のように今回のフラン,マルクの動揺の背景は,西ドイツの構造的な経常収支黒字の累積によるマルク価値の相対的上昇に,フランス経済の実態とはあまりかかわりのないフラン切下げ思惑がからみあっていたことであるが,しかし,より基本的には,ポンド動揺の場合も含めて戦後20年余を経た今日,各国の経済力の相対的地位にかなりの変化が生じたにもかかわらず,各国通貨間の関係は47年以来,ほとんど変更されておらず,経済力と通貨との間に不均衡が生じつつあることにあるといえよう。したがって基本的にはこの点が解決されない限り,国際通貨情勢はなお楽観を許さない状態が続くものと思われる。国際収支調整の問題は赤字国の問題であるだけではなく,また黒字国の問題でもあるという観点から,各国が相互協力的に解決していく必要があろう。


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