昭和40年
年次世界経済報告
昭和40年12月7日
経済企画庁
1960~61年に経済規模の縮小に落ち込んだ中国経済は,その後,調整政策の浸透によって回復テンポを早め,64年から65年にかけて,ほぼ減産前の水準にもどることができたようである。
経済規模の縮小をもたらした直接的要因は,自然災害にもとずく農業減産と大躍進政策ならびに人民公社制度の政策上の誤りによるものだったが,また対外的要因としては,中ソ対立の激化によるソ連の経済・技術援助の全面的停止も大きく影響した。したがって,調整政策は以上のような諸要因の是正という点に重点がおかれた。
第1に,農業減産に対しては,農業優先開発を骨格とする開発方式を取り上げることによって,農林漁業部門に対する固定投資の配分率を高め,人民公社制度については,分配面にとくに問題があったので,農民の労働結果が直接収入面に反映できるように,組織の細分化を計って,独立採算制の基礎を村落(20~30戸)程度の生産隊単位とすることに定められた。
また,ソ連の経済・技術援助については,援助額の規模そのものはそれほど大きくなかった(中国側の発表によると借款および利子総額14億600万新ルーブル)が,援助対象が,鉄鋼,石油,機械など基幹産業に集中していたこと,建設中途でソ連技術者が全面的に引き揚げたことなどによって決定的な影響を蒙った。
中国はまず技術労働者を養成することからはじめて,徐々に自給化による輸入代替の体制を固めることに成功した。また,国内経済の回復によって需要度が増した主要機器およびプラントを,西側先進国に輸入市場転換が進められた。
こうした調整政策の実施過程で,計画当局が強く意識し,積極的な啓蒙運動を展開したのは,「自力更生」という思想である。この「自力更生路線」を生み出した背景には中ソ対立によるソ連の経済・技術援助の停止と,政治的・経済的諸困難を克服して,自らの力で経済回復をもたらしたという自負がある。
したがって当然,酷しい消費抑制と貯蓄増強への勧奨が前提条件となっている。しかし「自力更生路線」は,中国の計画当局の度々の言明にもあるように,自給自足を基礎にした経済的自立(アウタルキー)を意味するものではない。先進国経済と中国経済との間に技術格差が認められ,中国が工業技術水準の向上を期待するかぎり,先進国との間に経済交流が進み,技術導入が行なわれるだろう。
以上のような1962年にはじまった調整政策の浸透によって,中国は大躍進の失敗を清算し,工・農業生産の回復をは達成することができた。そして,1966年から第3次5ヵ年計画(1966~70年)を発足させようとしている。しかし,これまでの経済回復段階とはちがって,第3次5ヵ年計画の発足という本格的な経済開発段階では,国内資金調達や設備機械入手の面でかなりの困難を伴うことも当然予想される。したがって経済開発テンポも第1次5ヵ年計画(1953~57年)当時のような,ソ連の経験と経済援助を支柱にした大規模企業中心の重工業優先開発段階と異なって,かなり緩慢なものとならざるをえないであろう。
1964年の農業生産は前年に引き続き改善をみた。計画当局の発表によると,農業生産はこれまでわりと高い収穫をあげた年(1957年)の水準に達し,食糧生産はほぼ過去の最高水準(1958年)に近づいた。また経済作物(農産原料)も綿花は64年には前年比37%増,甘蔗は57%増,ジュートは13%増と,軒なみに増産となっている。65年も概して農業生産の好調が続き,小麦は64年に比べ増加率の減少が予想されるものの,早稲は地域によって相異はあるが,平均して10%程度の増産となった。中・晩稲もまた比較的増産が見込まれている。
現在,計画当局が重点をおいている農業増産対策は,主として土地生産性の向上をねらいとしたものである。第1次5ヵ年計画期間には,開墾による耕地面積の拡大,あるいはアルカリ地帯の土地改良による耕地面積の拡大などが重点的に取り上げられた期間もあったが,立地条件,費用の面も考慮して,耕地面積の拡大による農業増産対策は,現在ではほとんど見送られた形となっている。
土地生産性の向上対策のなかでも,もっとも重点指向されていのは水利建設および灌漑排水設備の普及である。しかも,小型発電所の建設と相まって,揚排水動力ポンプの導入は,土地生産性の大幅上昇に役立っている。これによって華南地区では,米の二毛作が全面的に普及されるようになり,また長江以北では,灌漑設備の普及によって土地生産性の高い米作の定着化に成功し,さらに米作の北上化が進められている。たとえば,山東地区・東北地区の米作地造成は1964~65年にかけて目に見えて著増しているという。
こうした水利・灌漑設備の建設には,ほとんど農閑期労働力を有効に利用し,投入労働量の割には投入資金量が小さいことが特徴である。なお,大躍進段階で一時強行された義務労働はその後すっかり影をひそめ,水利灌漑,農地改良などの建設工事や,植林・造林に農業労働者が従事するばあいは,各人民公社で,農業生産のばあいと同一基準にしたがって労働日当たり賃金が支給されることになっている。また,人民公社内における各生産隊の供出労働量は,各生産隊が公共事業の完成によって享受する利益度合いに応じて配分されるという。なお,土地生産性向上のための化学肥料投入量も,ここ1~2年あまりでかなり増大した。
一方,土地生産性向上のための諸対策が急速に進められているのに対して,労働生産性向上対策としての農業機械化の展開は相対的に遅れている。しかし,従来主として北方農業のみに使用されていたトラクター(100~75馬力)が,小型トラクター(35馬力)の製作完成によって,南方米作地帯および綿花地帯でも使用されるようになり,労働生産性の向上に寄与している点は注目してよい。また,ここ数年間にハンド・トラクター(7馬力)が急速に発展し,主として蔬菜・果樹園用に使用されている。
農業生産の早い回復テンポに対して,工業生産の量的拡大は比較的緩慢である。大躍進段階で工業生産の量的拡大のみを追求して,結局は鉄鋼生産に例示されるように,品質や採算点の面で資源のロスを招いたという経験から,調整段階では,もっぱら品質改善,品種規格の増大に重点がおかれてきた。しかし,1964年には,工業生産も新たな発展をとげ,品質・品種の改善とともに工業総生産額は63年より15%増大した。また,65年にはいって農業生産の早い回復テンポに応じて,工業生産も本格的な増産に転じ,主要工業品の上半期生産実績はいずれも年間計画の50%以上を達成して,計画当局が予定した年間11%の増産も超過達成の見込みである。
こうして,65年には,後退前(1960年)の工業生産規模に回復する見込みだが,業種別の生産動向をみると,後退期の生産構造とはかなり異なった動きを示している。
まずエネルギー産業のなかでは,石油・電力の増産と石炭の停滞とが目立っている。原油および石油製品は国内自給がもっとも進んだ分野だが,カラマイ油田(新彊省),大慶油田(遼寧省)の開発によって,基本的には自給体制が確立されたといわれている。しかし,国民1人当たり消費量では,63年に18~23リットルにすぎず,ソ連の900リットル,日本の590リットルはもとより,極東(日本を除く)の77~90リットルにも及ばない。なおソ連からの石油製品輸入量は63年以降減少し,かわってルーマニア,アルパニアからの原油輸入量が増大している。
電力開発については,63年に新安江水力発電所(最大出力65万kw)が完成したあとは,64年には西津水力発電所(最大出力5.7万kw)をはじめ,農村用小型発電所など,中小規模の発電所が全国的に建設されているのが特徴的である。
粗鋼生産も比較的回復テンポが遅れている業種の一つである。しかし,鉄鋼バランスの面で相対的に遅れていた鋼塊,圧延部門(特殊鋼をふくむ)の設備増強と,生産品種の増大に力点がおかれている。これは原子力工業,高分子化学工業,電子工業など新たな工業分野の開発に伴って,鋼材品種の多様化と品質改善が最近とくに要請されるようになったためである。なお酸素製鋼(LD転炉)も,このほど,オーストリアのプラントを導入して操業段階にはいっている。
64年から65年にかけていちじるしい生産拡大を示している業種分野は,やはり計画当局がもっとも重点指向している農業関連産業としての化学肥料,農業機械であろう。計画当局は化学肥料の自給達成に努力を続け,資源状況からみてもっとも適している窒素肥料の生産に力点をおいている。中国が独自の設計とプラントとをもって建設した大規模硫安工場(上海,広東,開封)はすでに操業中であり,尿素生産も開始されている。なお投資と輸送の節約をねらいとして,全国的に単位当たり年産2,000~5,000トン級の小規模硫安工場が多数建設されている。かつて大躍進段階の後半で,非能率,低品位,高コストという経済性の面から整理淘汰が行なわれてきた小企業生産方式も,窒素肥料,燐酸肥料,農器具など比較的加工度の低い業種では,採算性ならびに地域性を考慮したうえで,あらためて小企業生産方式が採用されるようになったようである。
このように化学肥料の自給化が急速に進んでいるにもかかわらず,中国は,日本および西ヨーロッパ諸国から毎年200万トン以上の肥料を輸入している。
化学肥料の投入量は1959年に耕地面積1華畝(0.067ヘクタール)当たり165グラムにすぎないので(ソ連4.3キロ,日本65.5キロ),かりに1ヘクタール当たり投入量を5キロと想定しても,現在350万トンの生産量を800万トンまで高める必要があり,需給不均衡は当分持続しよう。
農業機械については,揚排水用動力ポンプ,噴霧器,ディーゼルエンジン,トラクターの量産が進んでいる。
なお,64年から65年にかけて,石油,電力,鉄鋼(圧延部門),化学肥料,化合繊維,綿紡績など各業種分野で設備投資のための固定投資が盛んになり,鉄鋼(特殊鋼をふくむ),非鉄金属,機械(工作機械,紡織機械,各種設備用機械),セメントなどの増産が行なわれるようになっている。
繊維工業では,65年にはいってビニロン工場をはじめ,合成繊維工場が建設されて操業体制にはいったことが特記される。化合繊維の生産は,国内綿花供給の不安定性を避けて,国内衣料用繊維および工業用繊維は,極力人造繊維をもって代替するという目的に沿って促進されているものである。また天然繊維についても,輸出産業として重要であり,65年には全国に新しい綿紡績工場が建設され,1~9月間に100万錘の紡機が増設された。なお内需用綿布は,主として16番手から20番手の太物が量産されている。
1)貿易の推移と市場別構成
中国の対外貿易は1963年に回復に転じたが,64年にも拡大を続け,輸出7.1%増,輸入12%増,輸出入総額9.3%増となった。しかし貿易規模は,59年のピークには及ばない。貿易の増勢は65年にはいっても続き,各国別では日本,イギリス,フランス,イタリア,香港などで著増している。
このような貿易の回復は,ほとんど東西貿易の拡大によるもので,対ソ連東欧貿易は60年からはじまった縮小が続き,64年にも輪出入総額で対前年比約9%の減少となったのに対し,東西貿易は,対前年比23.3%の大幅増大となった。このため輸出および輸入の市場別構成は,第7-7表にみられるように,それぞれ資本主義市場の比重が65%以上を占めるようになっている。
このような対ソ連東欧貿易の縮小は,中ソ対立の激化という政治的理由によるものだが,64年には累計14億600万新ループル(借款および利子総額,ただし軍事借款をふくむ)に及ぶ対ソ借款も完済となったので,65年以降は対ソ輸出額はさらに減少することとなろう。しかし,ソ連東欧諸国のなかでも,アルバニアはもちろん,ポーランド,ルーマニアでは再び貿易の増大がはじまっている。
一方,東西貿易は,ソ連東欧諸国の縮小がはじまった60年以後も着実な増大を続け,64年から65年にかけて大幅な増大に転じている。
このように,1960~62年にかけての中国経済の後退期にも東西貿易が減少をみなかったのは,輸入面では,カナダ,オーストラリア,アルゼンチンなど各国から緊急食糧輸入が開始され,一方,外貨取得のため,香港,シンガポールなどアジア市場に輸出ドライブがかけられたためである。また,食糧輸入は65年にはいっても継続しているが,中国経済の回復とともに工業品輸入がはじまり,またアジア各国およびヨーロッパ諸国向け輸出も著増している。
2)主要商品の輸出入動向
中国の対外貿易のなかで,社会主義市場から資本主義市場への市場転換が東西貿易の増大に大きく寄与してきたが,さらに,東西貿易の輸出入商品のうえでも目立った動きがみられる。第1は,61年にはじまった緊急食糧輸入の動向である。緊急食糧輸入は,毎年約550万トン前後がカナダ,オーストラリア,アルゼンチン,フランスなど各国から輸入され,さらに,このほどカナダとの間に向こう3年間に4億ドル相当の小麦と,アルゼンチンから150万トンの小麦を輸入する契約が結ばれた。
中国の輸入総額(東西貿易)に占める食糧輸入の比重がいかに大きいかは,64年の輸入総額の50%を食糧で占め,機械およびプラントが21%,化学肥料が8%という点からみても明らかである。
しかし,計画当局の言明によると,食糧輸入目的は64年あたりから変わってきたとしている。たしかに,中国の食糧生産は最近かなり改善され,とくに米の増産が指摘されていること,また国際市場における米・小麦比価(小麦の価格は米の40%ないし50%)と,国内卸売価格における米・小麦比価を考慮すると,食糧輸入のうえで比較生産費的考慮が払われるようになったとする当局の見解もいちおう納得できる(上海市場の米の卸売価格は低下傾向を示しているのに対し,小麦粉の価格は上昇している。これは米および小麦の土地生産性の相対関係を反映している。だいたい米の土地生産性は小麦の2.5倍である)。
なお,中国の食糧作付体系のうえで米主・小麦従の方向がとられ,同時に米の輸出拡大が促進されているが,64年には米の輸出量は約73万トンにすぎず(戦後最高輸出量166万トン),これに対し小麦および小麦粉の輸入量は500万トンに達している。この点からすると,備蓄需要という理由があるにせよ,食糧不足という事情は基本的には解消されていない。
第2に,東南アジア市場における日中工業品の輸出競合という問題である。
とくに中国が外貨取得市場として最近輸出の増大をみている香港,シンガポール両市場において,繊維品など比較優位製品とともに,鋼材(棒鋼),セメント,扇風機,ミシン,時計,旋盤,自転車など比較的加工度の低い工業品の輸出の著増がみられるようになっている。しかも最近の特徴は,これらの工業品輸出の増加率が同市場における日本の伸びをはるかに上回るようになったこと,また,プラスチック製品,トランジスター,薄板,鋼管などの新しい中国の輸出品が出回るようになったことなどが注目されている。
こうした工業品輸出の増大は,たとえば扇風機,ミシンの売込みの際にみられるような賦払い制の実施,あるいは鉄鋼輸出にみられるような規格外の低級品の売込みなど,輸出競争によってもたらされたものである。また同時に,中国の計画当局によって進められてきた資本財産業の優先発展政策によって,鉄鋼,非鉄製品,セメントなどの製品コストが急速に低下してきていることも,輸出増大の一因として見のがすことはできない(第7-9表参照)。
3)日中貿易の推移と特徴
日中貿易は第7-2図のグラフに示されるように,1962年11月に締結されたLT総合民間貿易取決めによって上昇に転じ,64年には輸出入総額で3億1000万ドル,65年1~7月には年率4億8000万ドルと急上昇が続いている。このままで推移すると,業界がいちおう目安をおいた年間4億ドルの水準を大きく上回り,5億ドルに達することも予想される。
また,取引形態別にみると,LT貿易と友好取引との比重では,64年に輸出入総額で36.9%対63.1%,65年上半期に27%対73%と,LT貿易の比重低下がみられる。これは取引形態の正常化といった方向からすると必ずしも好ましいものではないが,延払い輸出問題の紛糾によってもたらされたものである。一方,西ヨーロッパ諸国ではこの間に,中国とのプラント商談をつぎつぎに実現させている。
輸出入商品のうえで65年にはいって著増したのは,機械および鉄鋼,化学肥料の輸出と,食糧(米およびとうもろこし),大豆の輸入である。なお貿易拡大にとってもっとも関心の高かった鉄鉱石,石炭の長期輸入契約と,ポンド不安にもとづく決済手段の改訂交渉は,現在のところ未成立に終わっている。