昭和39年
年次世界経済報告
昭和40年1月19日
経済企画庁
第2部 各 論
第3章 東南アジア
(1)
インドは,1961年度より第3次5カ年計画を実施しているが,第3年度までの平均成長率は3.3%程度で,計画の5%を下回るだけでなく,第2次5カ年計画期の平均4%より低い。人口増加率は2.4%に達するので,1人当り所得の伸びは,年率1%にも満たないことになる。第3次計画の第1,2年度における低成長の実状を明らかにした政府の第3次計画中間評価報告(Mid-termAppraisa1 oftheThirdPlan)をめぐって,63年の終わりに議会で激しい論戦が闘わされた。
1)概 況
1963年度(4月~3月)の国民所得の増加は,5%程度と推定されている。62年度および61年度に比較すれば,かなり成長率は高まったことになるが,最大の経済部門である農業が引き続き不振で,1人当り食糧生産はさらに下落し,食糧の不足がますます激化していった。
農業の不振にもかかわらず,このようなかなり高い経済成長率を達成できたのは鉱工業,輸送,発電の各部分の急速な拡大によるものであった。
工業化計画の推進による重化学工業の伸びが大きかったのに加え,軽工業も数年ぶりの輸出の増大によって刺激を受けた。輸入は62年より微増したにとどまり,貿易収支の赤字幅は縮少した。
財政面では,軍備の充実が急がれ軍事費の支出が激増した。この歳出の拡大に応ずるため増税が行なわれ,強制貯蓄制度が部分的に導入された。
インド準備銀行の政府貸出しは,62年を大きく上回り,通貨供給はさらに膨張した。国防費と開発費を中心とする政府支出の拡大に,食糧の不足が加わって物価の上昇テンポを強め,年末が近づくにつれ食糧危機とインフレーションの様相が濃くなってきた。64年にはいって,食糧危機はさらに深刻化し,物価の上昇が続いている。
2)農業生産
第3次5カ年計画は重化学工業の建設と並んで農業に重点を置き,1966年までに穀物生産で自給体制をつくることを目的とした。しかし計画発足後の3年間における農業生産の伸びはきわめて小さく,1人当り食糧生産は,第2次計画の終了時である60/61食糧年度の水準から逐年低下を続け,アメリカからの小麦,米を中心とした輸入食糧に対する依存度は減少していない。62/63食糧年度(7月~6月)における穀物生産高は7,860万トンにすぎず,米,小麦,雑穀いずれも減産した。主要農産物で増産したものは,ジュートと綿花だけであった。63/64年度の食糧生産はかなり増加したけれども,不足をカバーできず,インド政府はアメリカに対し,pL480による米輸入を2倍にすることを要請した。政府は,公定価格小売店を大都市に開いてストックを放出したが,穀物価格は上昇を続けた。
農業生産が伸び悩む原因は,インド農業を取りまく厳しい自然条件もあるが,農業開発諸政策,とくに農地改革など農業構造の改善政策が,州の実施段階で遅延しがちである点が問題となっている。政府は,小規模灌漑と土地保全をいっそう拡充することを決定し,また化学肥料の普及を促進する目的で肥料価格の引下げを行なった。
3)鉱工業生産
中印国境紛争が激化した年末には鉱工業生産は急上昇した。63年にはいってから一時増勢が緩んだが,下期には再び早いテンポで上昇し,年間では10%増産となった。61年の生産上昇が6.6%,62年が7.7%であったことを考慮すれば,増産テンポはかなり高まったといえる。これは,工業化の推進と輸出の伸長を背景としているが,軍需生産の拡大が鉱工業生産を全体として押し上げる段階にはまだきていない。
軽工業部門では,農業生産の不振を反映し減産を続けた食品加工業を例外として,増産を記録したものが多かった。繊維産業の中心である綿業は伸び悩み状態にあるが,ジュート,羊毛製品はかなり増加し,合成繊維の生産は,ナイロン工業の建設が進んで一段と上昇した。そのほか,皮革製品,ゴム製品など他の軽工業品も大幅な伸びを示した。
重化学工業部門の増産は,計画目標に達しない分野がかなりあったにせよ,高いテンポで続いた。
化学品の生産は22%も増大したが,化学肥料は期待どおりに生産が伸びず,需要のかなりの部分がまだ輸入に頼っている。鉄鋼などの卑金属,金属製品などはかなりの増産であり,一般機械の生産は25%上昇した。そのうち,とくに伸びの大きかったものは工作機械,ディーゼル機関などである。
インドは,工業化推進の基礎とするべく,第2次計画期に粗鋼年産100万トンの製鉄所三つを国営部門に設立し,能力の拡充をはかってきたが,第4のボカロ製鉄所の建設はソ連の援助を受けることが決まった。重化学工業の分野における新工場建設の大部分は,先進工業国の援助によるものである。鉱業生産は9%の上昇であった。石炭と,輸出の伸びた鉄鉱石の生産増加が大きかった。62年から急増しはじめた石油生産は,63年には140万トンとなった。
4)貿 易
1963年における一次産品国際価格の上昇は,インドに対して有利に働かず,輸出価格は62年と同水準にとどまった。輸入価格は逆に2%上昇したので,交易条件は若干悪化したことになる。
しかし,世界貿易拡大の波に乗って輸出は233百万ドル,16%増加した。
61年の輸出増4%,62年2%と比較してもわかるように,このような輸出の伸長は数年来なかったことである。
輸出増は多数の品目に及んでおり,鉄鉱石,砂糖,植物油の伸びが大きかったほか,綿製品,皮革,茶など伝統的輸出品や少額ながら機械類,雑製品も増加した。輸出相手国では日本の増加が最大であり,アメリカ,イギリスなど先進工業国およびソ連圏,アジア諸国向けが大幅に増加し,ラテンアメリカ,中近東,アフリカ向けは減少した。
これに対し,輸入はほとんど伸びず,石油,機械の増加を,綿花など原材料と穀物,化学品の減少で相殺した。輸入相手地域ではアメリカ,ソ連圏からが増加したほかは軒並み減少した。このような情勢に応じ,原料と機械部品について輸入制限がやや緩和された。
5)財政金融と物価
中印国境紛争が激化した1962年末以来,政府支出は国防費を中心に増大を続け,63年度予算は前年度を一般会計で22%,資本会計で12%上回り,国防費予算は7割近くも膨張した。
この歳出増をカバーするために,超過利潤税,超過所得税が新設され,関税,購入税が増税になった。また強制貯蓄制度が新たに案出され,収入に応じた額を5年以上利率4%の貯金にすることとした。しかし,この制度は反対が多く,年収1,500ルピー以上の所得税納入者以外には適用しないことになった。
従来,インドの工業化政策の実施は外国援助に大きく依存してきたが,今後も援助額の大幅な増加が続くことを期待できなくなっている。対印債権国会議が決定した第3次5カ年計画の第3年度分の援助額は1,052百万ドルで,前年より増加したものの,前々年よりは少ない。
62年以来の金融引締め基調のもとで,63年第1・四半期までは物価は比較的落ち着いていた。しかし第2・四半期以降は食糧を中心にした物価上昇がそのテンポを強め,年末が近づくにつれて食糧不足がますます深刻化し,これに拍車をかけた。
6)1964年の経済情勢
1964年にはいって食糧危機はさらに激しくなり,各地で食糧暴動やデモが増加しはじめた。
64年度予算は一般会計で12.5%,資本会計で11.2%膨脹した。前年度に著増した国防費の増額は6%にとどまっている。クリシュナマチャリ蔵相が財政演説で明らかにしたように,慢性的外貨危機が続き,援助の著増が期待薄な状況のもとで工業投資を進めるため,外国民間資本を誘致する方針が打ち出された。
鉱工業生産は上昇テンポをやや緩めたものの,64年上期にはなお高い増加率を維持しており,輸出の増勢も続いている。63/64年度の農業生産がやや増加したのに,依然として主食糧の出回りは悪く,64年7月の生計費指数は前年同月比を14%上回った。食糧価格だけでなく,他の消費財も値上りを続けているが,全般的品不足に加え,前年末に16品目について実施された価格統制撤廃がひびいていると考えられる。このような経済危機のなかで,第4次5カ年計画の骨子案が計画委員会の担当部局で作成されたが,年平均成長率7%を見込んだこの案は野心的にすぎるとして賛否がわかれ,その後改訂案がつくられて審議が続いている。
64年5月に死亡したネール首相の後を受け,シャストリ前無任所相が内閣を組織したが,彼は懐妊期間の長い大規模なプロジェクトより,効果をすぐ発揮できる計画の優先を説いている。
前述した64年度予算は,インフレ対策の一環として7億ルピー削減されることとなった。政府は,食糧の輸入を増加して食糧危機を乗り切ろうとしている。
(2)
パキスタンの工業化は順調に進んでおり,経済の安定的発展を続けてきた。
1960年から第2次5カ年計画を実施中であり,第4年度の63/64年(7月~6月)における成長率は6.5%と推定されている。第3年度までの国民所得の増加は,農業生産の不振がひびいて実質で11%にすぎないが,5カ年計画の目標である24%増の達成は,ほぼ可能であろうとみられている。
1)概 況
1963年のパキスタン経済は,前年より引き続いて鉱工業生産の上昇がみられ,また外国援助の増加に支えられて,安定的拡大が続いた。しかし,62/63年度の農業生産は不振で,他部門にも影響を与えた。
輸出は多少伸びたが,輸入が激増して貿易収支の赤字幅はさらに拡大し,輸出額を上回るにいたった。外国援助や外国民間資本の流入が増大して,この赤字を埋めたので,63年の金外貨準備はやや増加をみた。
通貨供給の拡大に対処するため,ディス・インフレーション政策が継続され,企業活動がある程度抑制されたものとみられている。物価の上昇は小幅にとどまった。
64年の経済活動は,63/64年度の農業生産が大きく伸びたためもあって,好調を続けたものと思われる。
2)農業生産
パキスタンの農業生産は停滞的で,1952/56年以降の10年間に12%程度しか伸びなかった。人口増加は年率2.8~3%に達するので,食糧の輸入が年を追って増大していった。
62/63年度(7月~6月)の農業生産は,天候の不順や洪水のため前年度を3%下回り,前々年度の水準に帰った。小麦と雑穀の生産は増加したが,米の減産は7%に及び,輸出を縮少せざるをえなかった。国際価格の下落があって作付けを縮少したジュートの生産は,洪水などの影響も加わって1割近くも減少し,茶の減産もはなはだしかった。しかし,綿花は2割もの増産で,国内の消費増加があったにもかかわらず,輸出にふり向けられる量は大幅に増加した。
農業の不振は農産物加工業に対し原料の供給を減少させ,また農村の購買力を低下させて他産業に悪影響を及ぼしただけでなく,収入の減少した農業労働者の多数が職を求めて都市へ流入し,従来から過剰であった不熟練労働者の失業率をさらに高めた。
63/64年度には農業生産は著しく好転し,前年度を4%上回った。とうもろこし以外の雑穀とジュートが減産したほかは大幅な生産の拡大がみられ,とくに,米は18%,綿花は13%の増産を記録した。国民総生産の半分を占める農業が好調だったので,63/64年度の経済成長率は名目では6%となった。
3)鉱工業生産
鉱工業生産は1963年に14%増加し,前年の16%につぐ拡大を遂げた。減免税措置などの優遇政策のほかに,輸入制限の緩和によって,原材料やスペア・パーツが所要量入手できたことが好影響を与えたものとみられている。
増産の著しかった品目は,石炭その他各種鉱産物,および製造業では綿糸,ジュート製品,化学繊維布などの繊維製品に多く,他はタバコなどの食飲料や化学品の一部が,かなりの増産を記録した。しかし,セメントは需要に追い付かず不足が深刻化しており,また重化学工業品の多くを輸入に仰がねばならぬ事態が続いている。
工業化の第1段階として,食品,衣料,その他の消費財工業を起こして自給することが考えられるが,パキスタンはこの段階をすでに経過したとみられ,綿製品その他の品目では,国内市場を満たして輸出に乗り出してきている。
現在では,第2段階として生産財,資本財の国内生産をはじめる時期にきていると考えられ,精油所,造船所が建設され,化学工業がおこりつつある。またトラクター,自動車工場の建設が認可になり,東西両パキスタンに15万トンと35万トンの能力をもつ製鋼所の設立が決まった。
4)貿 易
輸入総額は1963年に889百万ドルに達し,前年を20%上回った。これに対し,輸出は417百万ドルで,前年比5%増にすぎず,貿易収支の赤字はいっそうの拡大をみ,輸出総額を越えるにいたった。
輸入の激増は食糧,とくに小麦が前年の2倍半にもなったことと,鉄鋼などの原材料と機械類の輸入増が大きかったことによるものである。
輸出入のギャップが最も大きいのは,従来より対アメリカ貿易であったが,63年にも輸入はアメリカからのものが激増した。資本財の輸入がアメリカに集中する傾向があるのに加えて,食糧不足に対処する穀物輸入を,PL,480によるものに頼っているためである。
輸入を促進したいま一つの原因は,主に消費財を対象として7月にとられた輸入制限の緩和であったが,輸出産業に対し外貨の使用を認める輸出ボーナス計画(Export Bonus Scheme)などがあり, PAYE計画(”Payas you earn”ImportScheme-プラントの輸入に対する支払いを最終製品の外貨手取りで支払っていく方式)が導入されたことも,輸入を増大する方向に働くものとみられる。
輸出の伸びは依然として停滞的であるが,63年には輸出価格の下落が影響している。これは,輸出の大宗であるジュートと綿花の国際市場価格がいずれも5%程度低落したためで,ジュートの場合は輸出額も減少した。しかし,綿花輸出は著増を示し,数量では2倍近い進出ぶりであった。パキスタンの綿花は,改良種子の採用と肥料増設によって品質は向上し,収量も増大してきた。綿製品の輸出も増加したが,イギリスなどで輸入制限の動きがみられる。米輸出は62/63年度の不作で大幅に減少した。
輸出先では,中国(本土)向けが激増したほか,日本,香港,ソ連向けが大幅に伸び,イギリス,西ドイツ,インド向けが減少している。社会主義圏との貿易は,バーター協定を結んで急速に増大する傾向にある。
5)財政金融と物価
農業の不振と鉱工業の急速な拡大,輸入の激増と輸出の停滞といった経済各分野の著しいアンバランスが続いていながら,現在までのところ,パキスタン経済はきびしい緊張や危機を経験せずにきた。これは,増大する外国援助の流入と政府のディス・インフレーション政策が効果的に働いたためとみられる。
1963年5月に,パキスタン債権国会議(AidPakistanConsortium)は第2次5カ年計画の第4年度援助分として,425百万ドルを供与することを袂めた。今回はベルギー,イタリア2国が新たに加わり,参加国は8カ国となった。供与額は前年度よりかなり小さいが,これは前年度,前々年度からの繰り越しが100百万ドルあったことを考慮したためで,援助条件は大幅に緩和され,贈与の割合がふえた。
また,パキスタン最大の開発プロジェクトであるインダス河開発計画(The Indus Water Scheme)に対し,援助参加国と世銀は最終供与額として315百万ドルを決定した。当初の外国援助所要額推定は,837百万ドルであったものが1,152百万ドルに引上げられたのである。なお,このプロジェクトは,計画を上回って遂行されている。
外国援助は,パキスタンの政府支出の半分近くをまかなっており,63/64年度予算はこの高い依存度を減少させるため,国内貯蓄の奨励と輸出の促進を目標とした。このほか,東西パキスタンの較差是正や富の集中防止がねらいとされ,財産税,贈与税,資本所得税が新設になり,物品税率が高められた。また,反カルテル政策や大企業抑制策も強化されることとなった。
これらの措置は,消費需要をおさえ,大企業の活動をある程度抑制したとされたが,さらに,63年8月1日からパキスタン国家銀行が商業銀行に対する貸付けに割当制度を導入し,準備率の引上げを行なった。これは,通貨供給が63年にはいって増加率を高めたところから,インフレーションの未然の防止を企図したものであった。
通貨供給の膨張は,民間部門に対する銀行貸出しの増加によるものであったが,預金の伸びが高く,金融は緩慢化し,引締め政策の浸透とともに貨供給も縮小した。
物価は,物品税率の引上げを反映して7,8月に2%程度上昇したのち,その後横ばい状態にはいった。
公共支出は第3・四半期から増加していたが,経済活動が再び活発となってきたのは10月以降で,投資は増大し,コール・レートは上昇をはじめた。
6)1964年の経済状勢
1964年にはいって,経済活動はとくに民間部門において活発であった。
物価は一段と上昇したが,第2・四半期には落着いている。
貿易面では,輸出が前年の下期以来減少を続けており,輸入は第1・四半期に前年同期を27%上回ったのち,第2・四半期にはかなりの下落をみと。
64/65年度予算は歳入で11%,歳出で13%の拡大をみた。国防費の増加は少なかったが,なお経常予算の44%を占めている。新設産業に対する免税制度が,70年6月まで効力を延長され,財産税を民間会社について撤回し,個人についてのみ適用するなど,鉱工業の民間企業に対する優遇措置をとった。輸入がさらに自由化され,綿花の輸出税は廃止された。64/65年度のパキスタン債権国会議の援助枠は431百万ドルとなり,前年より6百万ドル増額された。
(3)
インドネシア経済は,朝鮮動乱以来,インフレーションに悩まされ続けてきた。長期間にわたった国内反乱,西イリアン紛争をとおして軍事費支出が増大し,通貨供給は膨張の一途をたどり,物価は上昇を続けた。インフレーションの高進は貿易を減退させ,生産が不振に陥っている。
1)概 況
1963年のインドネシア経済は,前年に引き続いて激烈なインフレーションの過程をたどり続けた。通貨供給が年率100%以上の速さで激増していき,物価の騰貴は加速度的に進行するなかで,工業生産は操業度が著しく低下して物資の不足に拍車をかけ,輸出が伸び悩み,外貨の不足から輸入は減少を続けた。マレーシヤに対する対決政策は,外国援助を減退させ,63年9月にとった対マレーシヤ貿易の廃止が輸出の不振と物資不足を激化させて,インフレーションをいっそう強める結果となった。
2)生 産
1963年の農業生産は前年の下落から回復したが,61年の水準には及ばなかった。人口の年増加率は2.3%に達しており,食糧の自給度は低下傾向にある。63年の回復は主作物である米の増産によるものであり,他に従来減少傾向にあった砂糖も生産が伸びた。しかし,食糧以外の換金作物は引き続き減産し,最大の輸出品であるゴムの生産は15%減少した。
鉱業では石油の生産が減少したほか,錫が減産となり,上記のゴムともども63年の世界的な輸出拡大の波に乗ることができなかった。
製造業は,原材料の入手難と輸入機械および部分品の不足が激しくなり,平均操業率は25%程度だったといわれる。アメリカからの援助輸入による原綿を,日本と香港で糸にし,これを使用する織布産業は比較的好条件に恵まれているが,生産は年々低下し,63年も前年の水準にとどまったものと思われる。
国内の資金は,農業および鉱工業の資本形成に向うところ少なく,物価上昇による減価を回避するため,商品,家屋に投下されることになる。
3)貿 易
1960年以来減退を続けてきた輸出は,63年に下げどまりをみせ,前年より2%増加した。主要輸出品目のうち,石油が22%増加したほかは不振が続き,ゴムは19%,錫鉱石30%,茶13%,コプラ2%と軒並み減小した。
外貨難から輸入の縮小が続き,63年には前年水準を20%下回った。最も大幅に減少したものは,先進国からの機械輸入だったようである。これは,工業投資の伸び悩みと関係があろう。食糧では前年より少ないとはいえ,100万トンの米が輸入された。
輸出価格が低下気味であるのに,輸入価格が上昇したので,交易条件はさらに悪化した。
61年以降減少を続けた金外貨準備は,63年第3・四半期末に68百万ドルという,きわめて低い水準に落ち込んでしまった。
4)インフレーションの進行と政府の対策
朝鮮動乱終結後にインフレーションが終息せず,悪化の過程をたどってきた主因は,国防費を中心とした政府支出の膨張とインドネシア銀行借入れのかたちをとる赤字財政であった。たとえば62年の財政赤字の幅は,歳入の規模にほぼ匹敵する大きさである。
もちろん,インフレーション進行の過程で生ずる生産の停滞,資本形成の減退,貿易の不振,通貨に対する信任の低下などが,果となり因となってインフレーションの高進をもたらすが,第一には,政府の財政赤字の縮少が実現し,それと同時に,これらの付随現象に対する対策が立てられねばならない。
63年にはいってインフレーションの終息と経済の建て直しのため,多くの委員会が作られ,会議が開かれるようになり,3月28日にはスカルノ大統領が「経済宣言」を発表した。
その内容は,政府のとるべき経済政策の基本方針を述べているが,税制改革と財政の均衡,経済統制の簡素化,生産者や輸出業者に対する優遇策,食糧生産優先と米,原材料,部品のストック蓄積など,経済全般にわたる包括的なものである。
従来の「社会主義路線」とやや異なった点として受取られたのは,民間部門の重要性が強調され,政府企業に競争の原理を導入することを説いた部分であった。
5月末にいたって,この「経済宣言」を実施段階に移すものとして「14の規則」が発表された。貿易面では,輸出促進をねらったルピアの実質的な平価切下げと,工業用原料など必需物資の輸入優遇措置がとられた。物価対策としては宿泊料,燃料,トラックを例外に物価統制が撤廃された。
これは,生産を刺激し,財政収入を増加させる目的で断行されたが,公営企業,民間企業いずれも数倍の値上げを行ない,輸入価格の上昇とあいまって物価をさらに上昇させた。
政府は「14の規則」を補う方策として銀行に対し,貸出しの50%を生金部門へ,20%を輸出金融へ,残りを国内諸島間交易と原料・部分品の輸入だけに向けるよう指令した。
以上の諸措置は商人の抱えていた投機的ストックの放出を促進し,7~8月にいたって小麦粉,繊維品,建設材料の値下りが起こり,季節的な米の出回り増加があったので,物価の上昇はやや鈍化した。また,平価切下げ以後,輸出は増加を示した。
しかし,マレーシヤ対決政策をとったため,9月にアメリカはインドネ.シアに対する新規の経済援助を停止し,IMFは外国投資家に対する態度゛が不確定だとしてスタンドバイ・クレジット50百万ドルを停止した。この・ため経済安定化計画は実施困難となり,またマレーシヤとの経済断交はゴム,錫の輸出に打撃を与えた。
かくして,9月以降再び物価は上昇をはじめた。
5) 1964年の経済情勢
1964年にはいると,米不足が激化してきた。食糧の不足はジャバが最も深刻であったが,対マレーシヤ貿易禁止の打撃が最も大きかったのはスマトラで,商品ストックが急増し消費財の不足が激しくなった。64年第1・四半期の輸出は前年同期を18%下回った。
4月17日に政府はインフレ対策として,ルピアの為替レートを実質的に再び切下げ,物価統制を重要物資について復活した。また,主要食糧の輸出およびそのジャバからの移出を禁止し,不作見通しの砂糖についても輸出が停止された。
通貨供給は上期中に32%増大し,物価も上昇テンポを速めた。61年以来インドネシアは8カ年計画下にあるが,計画内容はほとんどその妥当性を失ってしまっている。
(4)
1962年3月の軍部クーデターによって成立したネ・ウィン政権は,革命評議会の決議にしたがい,「ビルマ社会主義」の実現を目的として,経済の各部門における国有化を急テンポで進めてきた。すでに,63年末までに主要な経済分野の多くは国有部門に吸収されたが,残存部分について国有化が実施中であり,経済は激しい変化の過程に置かれている。
1)概 況
革命政府の発表した経済報告によれば,1962/63年度(10月~9月)のビルマ経済は8%の成長率を達成した。農業生産が大きく伸び,第二次大戦後はじめて戦前水準を突破したほか,鉱工業では民間部門が停滞的であった反面,国営企業の生産が急増した。
しかし,63/64年度の主要産業の生産額は1割も減退し,前々年の水準を5%程度上回る線に帰った。農業が不振であったのに加えて,国有化の急激な進行で,民間部門の生産が激減したためである。
63年の輸出入は前年水準を若干上回ったが,64年上期にはいずれも減少している。この間,金外貨準備は増加を統けた。
通貨供給は63年はじめから急増したけれども,投機の抑制策によって物価の上昇は防止された。
63~64年にも経済の全領域にわたって国有化政策が推進された。
2)生 産
1962/63年度の農業生産は,前年を大きく上回った。これはおもに,主作物である米が10%の増産をみたためである。油料種子も増産したが,タバコは前年水準にとどまった。チーク材の産出量は1割以上伸びた。
63/64年度の農業生産は作付面積が増加したけれども,悪天候その他の原因で大幅な減産をみた。小麦と豆類が増加したほかは,おおむね減産であった。
革命政府の経済政策は,農民と労働者の利益保護を目標としており,とくに,農業は重点部門とされた。地主や高利貸から農民を保護する目的で多くの法令が発布され,4百万エーカーにのぼる不在地主の所有地を国有化することも決まった。
また,7億チャットという尨大な営農資金を貸付ける約束がなされた。
農業生産の増強策の中心は農業機械化に置かれ,2000台近いトラクターをソ連とチェコスロバキアから輸入して,トラクター・ステーションが開設された。灌漑と治水事業にも重点が置かれ,耕地面積は拡大している。
鉱業では,63年に錫の生産は微増にとどまり,石油は8%伸びた。ビルマ石油会社(The Burma Oil Company)は,1月1日から国有化されている。
製造工業の大半は,米,砂糖,テーク材など農産物の加工であり,農業生産の変動によって大きな影響を受ける。セメント,レンガ,タイルの製造業や繊維産業もあるが,セメントの生産は63年に前年の2.5倍となり,綿糸は5%増産した。ジュート袋の生産も大きく伸びた。
国有化企業の生産が上昇する反面,金融引締め政策の影響もあって民間部門の減産が続き,とくに地方の消費産業の下落が著しいと伝えられる。
民間部門の投資はほとんど停止したと思われ,2月以降外国人の国外流出が増大した。
工場や事務所,日雇い労働者の場合は,地域別に労働組合が結成され,政府による労働者の組織化が行なわれたが,失業は増大しているといわれる。
62年末までは,ビルマ経済のなかで私企業が果たすべき役割について,政府の明確な考えが固まっていなかったようにみえたが,63年になって国有化を徹底的に遂行する方針が打ち出された。
10月20日には産業国有化法が公布され,政府はいかなる産業,商業,その他の事業をも国有化できることとなった。その翌日,ビルマ真珠採取養殖会社,国防サービス会社,ビルマ経済開発公社(BEDC)が国有化された。
政府の工業化政策のうち,注目すべきものをあげれば,繊維製品の自給化をめざす工場の新設,林業部門の国有化と輸出促進1カ年計画,精糖工場の拡張,5カ年計画による石炭産業の振興,石油の増産などがある。
3)貿 易
1963年の輸出は,前年を2%程度上回った。輸出の7割を占める米は,数量では前年をやや下回ったが,輸出価格が上昇して,金額では2%の増加である。ゴムおよび錫の輸出額は前年とあまり変らず,木材輸出が激増した。
輸入は6.8%増加したので,貿易収支の黒字は縮小した。しかし,金外貨準備は増大して年末には180百万ドルとなった。64年上期には,輸出入ともかなりの減少をみている。
政府は外国援助に頼らず経済開発を進めたい意向で,輸出によって得た外貨蓄積で資本財を輸入する基本方針を定めている。
63年8月から輸入業務が全面的に国有化され,ビルマ国籍を持つ中国人,インド人,パキスタン人の商人を閉め出すこととなった。同時に,米,ジュート,カポック,綿,小麦など11の農産物の取引きと輸出を国家の独占とし,その他の品目については国内取引きのみを民間の商人に許すことになった。
4)財政金融と物価
1963年2月23日,外国銀行の支店も含めて商業銀行の国有化が断行され,人民銀行と改称されることになった。これにより,政府は通貨供給を全面的に把握し,物価の上昇を防ぎながら,貯蓄を望ましい方面の投資にあてることができる。接収した外国銀行に対して補償が支払われ,国有化は6月に終了した。国有化された銀行にはそれぞれ専門業務が与えられた。この人民銀行が機能し出した4月頃から,民間部門に対する貸出しは減少の一途をたどり,3月末には670百万チャットだったものが,年末には297百万チャットヘ下落した。
政府の活動が経済の全面に及んでいくにつれ,政府支出は増加を続け,これをまかなうため,中央銀行の対政府貸出しも増大していった。通貨供給は63年はじめから激増をはじめ,政府債務とほぼ同じ歩調で拡大した。
この間,物価はむしろ低下傾向にあったが,12月以降は都市における消費財の不足が目立ち,価格も上昇気配をみせた。
5) 1964年の情勢
政府は1964年5月にいたり,膨張した通貨を削減するため,100チャットと50チャット紙幣を廃止した。
また,物資の欠乏を緩和しようとして,政府は64年3月にラングーン市内の,そして4月には全国の卸売,仲介,百貨店,その他商店および消費財製造工場を商品やストックともに国有化した。
民間企業家の消極的抵抗により,生産は減退している。
ビルマ経済の国有化がほぼ完了したので,64~65年度の予算は全国民の収支を含む国民予算(National Budget)として作成された。
(5)
タイの経済は,過去10数年にわたり安定的発展を遂げ,5~7%の成長率を維持してきた。農業生産は耕地面積の拡大と作物の多様化により伸長し,鉱工業生産は開発計画のもとで上昇した。開発需要の拡大により輸入は増加しているが,輸出も一次産品品目を多様化して増大傾向にある。貿易収支の赤字は援助,外資の流入でカバーされ,金外貨準備は増加を続けてきた。政府の健全財政のもとに通貨は安定的である。
1)概 況
1963年のタイ経済は前年より引き続いて順調な拡大を示したが,成長率は多少鈍化したものと思われる。農業生産では米の増産が著しく,鉱工業では多くの部門に増産がみられ,新規の投資計画も進んだ。輸出はやや改善したものの,前々年の水準に及ばなかった。他方,輸入は再びかなりの伸長をみて,貿易収支の赤字幅は拡大した。金外貨準備はさらに増加し,輸入11カ月分の水準にある。
商業銀行の預金は前年以来大幅に増加し,銀行は余裕資金をもって短期の政府証券を買った。通貨供給は7.1%の拡大にとどまり,物価は安定的に推移しており,食料品のいくつかについては多少の下落をみた。
10月20日には,バーツのIMF平価が純金0.0427245グラム(1ドル=20.80バーツ)に設定された。
64年にもほぼ同様に経済の安定的成長が続いたものと思われる。
2)生 産
農業生産の増勢は,1963年には3.6%とやや鈍化した。米作は好天に恵まれ,中部および北部で耕地面積の拡大があって,62/63年度には925万トンの収獲をあげ,前年度を12.2%上回った。高価格による刺激で,ケナフの生産も大きく伸びた。
これに対し,ゴムの生産は63年中に1.5%増加したにすぎず,トウモロコシは耕地面積の拡大にかかわらず,イナゴによる被害のため前年の水準通貨供給は7.1%増大したが,物価は安定しており,卸売物価で食糧など農産品価格を中心に6%の下落があり,生計費は前年水準にとどまった。
3)1964年の経済情勢と後期開発計画
1964年にはいって,輸出の増勢は著しく高まったが,輸入の増勢にも根強いものがある。金外貨準備は増加傾向を続け,バーツの為替相場は安定している。卸売物価はさらに下落し,生計費は横ばい状態を続けている。
64年度予算では,支出が8%増大し,収入はそれほど伸びないことになっているので,財政赤字は拡大するが,これはタイ銀行からの借入れなどで埋める予定である。
64年3月に,政府は後期開発計画(The NationalEconomic Deve-lopment Plan,Second Phase)を発表した。61年に発足した6カ年計画の前半が終了したところで,64年~66年の後期3カ年について開発目標を再検討し,計画内容に改訂をほどこしたのである。
人口増加率を3%と見込み,1人当り所得を3%伸ばす目標で,想定成長率は6%となっている。3年間の政府部門開発支出は前期の74%増である203億パーツを予定し,運輸・通信,社会開発(農村開発,公衆衛生,教育)に重点を置く。資金源としては,前期の2倍近い財政収入137億バーツ,外国援助借款66億バーツを期待している。
(6)
1962年1月にディ・コントロール政策が実施になり,ペソの実質的切下げを伴った貿易,為替の自由化(完全な自由化ではなく,輸出による稼得外貨の20%は中央銀行に売り渡す)が行なわれて以来,海外市況の好調もあって輸出が拡大し,他方,輸入の増勢は鈍化した。国内経済では輸出農産物の生産が刺激を受け,工業生産も増加し,経済は全般的に好調であったが,63年から64年にかけて食糧の不足と物価上昇,企業の経営内容の悪化など,さまざまな問題が表面に出てきた。
1)概 況
1963年における国民経済生産の実質成長率は4.8%となり,前年の4.4%をやや上回った。
GNPの3割余を占める農林業では,食糧生産が立遅れ気味で,62/63年度収穫は1.7%増産にとどまったのに対し,ココナット,砂糖など輸出用作物の生産は好調であった。
鉱工業生産のうち鉱業は伸び悩んだが,製造業は前年とほぼ同じく6%の増加をみた。
砂糖,ココナット油,コプラなど,フィリピンの主要輸出品の国際価格が急騰し,輸出額は3割も増大した。他方,輸入の伸びは5%にとどまり,貿易収支は4年ぶりに黒字に転じて金外貨準備は増大した。またペソの自由相場は,1ドル3.91ペソに維持されてきている。
通貨供給の増加が続き米不足とからんで物価の上昇はテンポを強めた。
64年にはいり,物価の騰勢は静まったが,貿易収支は再び逆調となった。
2)生 産
フィリピン農業は,従来から食糧生産における低い収量と輸出商品作物の高生産性という跛行性を特徴としていたが,この傾向は1963年にもさらにとどまった。
その他の農産物では,綿花が2割近く伸び5万トンとなったほかは,ほぼ前年水準を維持したが,チーク材の産出量は従来の乱伐がたたって4割以上も減少した。
鉱業では,非鉄金属の国際価格上昇による刺激で,錫の産出量が6.3%増加し,アンテチニー,マンガン,ジプサムなども増産したが,ウォルフォラム,鉛,亜炭の生産は減少をみた。鉄鉱石は涸渇した鉱山の閉鎖があって,62年の4.5万トンから1.6万トンヘ激減した。
工業部門では,ジュート袋の生産が2工場の操業開始もあって倍増し,紙の生産は5,860トンから9,070トンヘ増大したが,これは,NEDC(theNational Econonic Deve lopment Corporation)が2年前に建設した2工場の生産が2倍となったためである。セメントの生産は3%伸びた。他方砂糖きびの減産のため砂糖生産は18%低下し,タバコも減産であった。
63年中に66企業が工業投資奨励法による優遇措置を与えられ,同法施行後の奨励適用企業は227となった。このうち,操業にはいっているものは105である。
3)貿 易
1963年の輸出額は469百万ドルで,前年を2%上回った。米,錫,トウモロコシが増加した反面,ゴム,ケナフ,チークは減少している。
米輸出は年間で13%の増加となったが,第2・四半期の輸出が意外に大きく,経済省は6月に輸出制限を課した。米輸出の4割はマレーシヤ,インドネシア,日本などとの政府協定によるものであった。
ゴムの輸出は数量,価格ともに減少した。年間を通じる国際価格の下落は,マレーシヤの生産増のほか,アメリカ,イギリスの戦略備蓄の放出,代替の競争が原因とみられている。
トウモロコシの輸出はゴム輸出と同様に日本向けが大部分であるが,63年に5割以上伸びて74万トンとなった。錫輸出は先進国の需要増とインドネシアの減産,マレーシヤ紛争の影響で8%の増加をみた。そのほかタピオカ製品の輸出は増大し,減産の著しかったケナフ,チ-ク材の輸出は減退した。
63年における輸入増大は,主として機械,輸送機など資本財が中心であった。機械,輸送機は前年を2割近く上回り,化学品が4%増加したほか,その他の工業製品も6%以上伸びている。燃料輸入は微減した。輸入先では,日本が著しくシェアーを拡大し,アメリカも増加したが,その他の国ぐには減少した。国内産業保護のため輸入制限が強化され,63年末で78品目が制限の対象となっている。
4)金融財政と物価
1961年以来,商業銀行の預金受入れ額は増大の一途をたどり,63年には25%増加した。このため銀行の手持流動性は著しく高まり,政府の短期証券の買付けに向った。
63年度の財政支出は92億バーツで,前年を11%上回り,とくに開発関係支出の伸びが大きかった。財政収入は,租税の増収が予想以上にあってかなり増加したが,なお5.6億バーツの財政赤字を出した。
63年における外国資本の民間部門(国営企業を含む)への流入は,純額で15.2億バーツであった。政府部門では,借款の利払い返却などのため,195百万バーツの流出となった。
に強められた。食糧生産は天候不順も影響して2%程度しか伸びず,主作物である米の増産は2%,馬鈴薯は9%,トウモロコシは前年水準にとどまった。人口増加率が3.4%にも達するので,食糧の不足はさらに拍車をかけられ,米取引きのフィリピン化(Philipinization)による華商の排画が,流通機構に混乱を与えたことも加わって,食糧価格は騰貴し続けた。
他方,ディ・コントロール政策の刺激が砂糖など商品作物の作付面積をふやし収量も増加した。砂糖の生産は63年に9%増加し,ココナットは13%の増産をみた。アバカ,煙草の生産も増加したが,とくに,輸出と内需の双方が伸びた木材の伐採量は著しく増大し,森林の乱伐を招いているとして木材輸出禁止の要望が出された。
農業生産の振興のために,近年需要が増大しつつある化学肥料の国内生産を増強するなど,政府はさまざまな施策を実施しているが,さらに抜本的対策として,マカパガル大統領は農地改革法案を国会に提出した。議会における修正が大幅で,かなり穏和な内容のものとされたけれども,従来の農地改革法と比較すわばなお進歩性を保持している。75ヘクタール以上の個人所有農地の解放,刈分け小作の廃止,農業労働者の最低賃金設定(日給3.50ペソ)などを定めたこの新法に対し,地主側の抵抗がはじまっているといわれる。
鉱業生産では,クローム鉱石と銅を例外として鉄鉱石,石炭その他は停滞的である。電力の生産は63年に12%伸びたが,マニラ地区では電力の不足が懸念され,発電所の建設が急がれている。
工業生産は前年とほぼ同じテンポで拡大したとみられ,製糖業,木材加工業など輸出向け一次産品の加工業が伸びたほか,セメント,化学薬品の増産もかなり大幅であった。しかし,従来急速に拡大してきた綿糸布の生産は低下しており,食品工業でも停滞的なものがかなりあったとみられ,ディ・コントロール以来のコストの上昇,資金不足,輸入品との競争などが企業の経営内容を悪化させた。農家収入の伸び悩みと物価上昇のため,消費の実質的な増加率が低く,需要をおさえ,他方投資額は増加しているけれども,工業部門へ向わず,建築部門へ流入したものとみられる。
「フィリピン第一主義」は工業化政策にも貫かれてきたため,外国資本の流入が妨げられていた。基礎産業に外資を導入しようというねらいで,民族資本と同様の待遇を与える投資奨励法(Investment Incentives Law)が三たび議会に上呈されたが,今回もまた否決されてしまった。
3)貿 易
1963年のフィリピン経済に対し,強力な動因を与えたものは大幅な輸出の増加であった。主要輸出品である砂糖およびココナット製品の国際価格がそれぞれ31%,12%と上昇し,総合輸出価格で5%の改善となったうえに,輸出農産物の生産が好調で輸出数量を増大したからである。概していえば砂糖は主として価格の上昇によって,ココナット製品,アバカ,および木材は数量の増加によって輸出額を増大させた。
輸出の増加は,とくに輸出額の5割が吸収されるアメリカ市場向けで起こったが,特恵制度による無税輸入割当量を満たした品目はココナット油だけであった。なお,アメリカのフィリピンに対する特恵制度は漸次縮少される方向にある。
砂糖,ココナットおよびココナット油についてはアメリカ向け,コプラ,アバカについてはアメリカおよび日本,EEC諸国向け,木材,銅については日本向けの輸出増が大きかった。
輸入では食糧不足の深刻化から米を中心として穀物輸入が2倍となったほか,機械類が11%増加した。卑金属は半減したが,その他の品目は前年の水準にとどまった。相手地域別の輸入パターンは,タイ,ビルマからの米輸入の激増があったほかは,前年と比較して大差がない。
4)金融財政と物価
輸出の好調による国内流動性の増大,ディ・コントロール以来の商業銀行の貸出し膨張,それに政府の公共事業と社会開発プロジェクトへの支出が重なって,通貨供給は1963年上期に8%増加し,年間では17%の増大となった。この通貨供給の膨脹と,食糧生産の不振および輸入停滞による物資の供給不足を原因として,物価の上昇は5,6月頃から食糧価格を中心にそのテンポを速めた。
政府はインフレ対策として,主要食糧に対する補助金政策をとってきたが,さらに米の追加輸入を行ない,8月には中央銀行が貸出し制限を課して公定歩合を引上げ,商業銀行の預金準備率が高められた。さらに,民間商業銀行から数億ペソにのぼる政府預金が引きあげられて,民間部門の資金不足は著しく,強まった。4月には中央銀行が再割引クォータを63年3月末の純額の半分とするなど,貸出し制限をいっそう強化した。
63年中に生計費は5.4%上昇したが,賃金引上げば4%に達せず,労働争議が頻発した。10月には政府の放出した安価米が市場に出たうえ,ルソン中央部の米作地帯が収穫期にはいったので,11月には物価上昇は沈静に向った。
5)1964年の経済情勢
1964年にはいると,砂糖価格が下落しはじめ,輸出は伸び悩みを示した。
輸入は逆に激増して,貿易収支が再び赤字は転じ,前年に蓄積きれた外貨は貿易外支払の増大もあって流出し,以前の低い水準に帰った。また,前年央以来の金融引締めが滲透して,商業銀行の流動性が極度に減退し,通貨供給は64年第1・四半期に4.1%低下した。物価は落着いている。
政府の提出した64/65年度予算案は,議会で大幅に削減されて前年なみの規模に縮小し,とくに開発支出が減少する結果となる。
このような状態のもとでは,ディ・コントロール実施のときに考慮された課題,つまり単一公定レートを近い将来設定して現行自由レートの支持操作をやめること,貿易収支の好調を維持すること,生産的分野へ投資を導入することといった目標は,実現困難となってきている。
(7)
中国(台湾)は,1961年から第3次経済開発4カ年計画を実施中であり,生産活動の活発な上昇が続き,輸出も増加傾向にあって,経済の順調な拡大がみられた。これまで中国(台湾)の経済発展を支えてきたアメリカ援助に対する依存度は低下しており,自立経済の達成が経済政策の目標とされている。
1)概 況
1963年には,中国(台湾)経済は前年よりやや高い6.4%の成長率を達成した。第3次40年計画の目標達成率8%と比較すると,実績は2年引き続いて目標をかなり下回ったことになる。これは,62,63両年にわたる農業生産の停滞が主因である。鉱工業生産の増加率は10.1%で,前年より多少低くなった。
国際価格の急騰した砂糖を中心に,輸出は52%も増加し,輸入の増加が11%であったので,貿易収支は著しく改善された。金外貨準備は,年間を通じて113百万ドル増大した。
外貨の流入が大きかったので,通貨供給は急増したけれども,その大部分は銀行預金となって吸収された。卸売物価は6.5%上昇したが,消費者物価の上昇は2.2%にとどまった。また64年にも貿易の拡大,生産の上昇が続いている。
2)生 産
1963年はじめの霜害,春の田植期における早天,台風による洪水など天候が不順で,農業生産は大きな打撃を受けた。これらの被害は,農業生産を9.4%程度引下げたとみられており,生産高は前年水準を1.2%上回ったにすぎない。
主要農産物では,米作が前年より0.2%減少して211万トンにとどまり,50年来といわれる寒波の犠牲となったさつまいもや小麦など冬作の減産はさらに著しかった。バナナ,パインアップルも減産であったが,輸出好調と内需の拡大による刺激を受けて,砂糖,シトロネラ,きのこ,野菜などの生産は増加した。
輸出目当てのきのこ,玉ねぎ,柑橘類の生産地帯では,加工業が活況を呈しており,また,輸出かん詰にされる品目も他の果実,アスパラガスと拡がり,乾燥野菜,乾燥果実も輸出向けに生産が行なわれている。
セメント,アルミニウム,プラスチックが建設材料として出回るにつれて木材需要が減少し,また,資源保護のためもあって木材の伐採量は縮小された。
飼料の値上りと需要の減退から畜産物は減少したが,漁業は年々拡大してきている。
農業生産の不振による一部の農産物加工業の伸び悩み,早天のための電力不足があって,鉱工業生産増勢はやや鈍化した。しかし,消費支出の増大,輸出需要の急増,および利子率の引下げが生産活動を刺激し,拡大はなお多数の分野に及んでいる。硫安,PVC,セメント,鋼製品などの増産が著しかったが,パインアップルかん詰,板ガラス,扇風機,自動車などは減産した。繊維品は生産額の7割が輸出向けであり,アメリカの輸入制限措置を受けたので,政府は合成繊維の増産を奨励した。綿糸の生産は8%減産したが,綿布生産は伸びている。
経済活動の拡大につれ,輸送,通信の需要が増加し,アメリカ向け海運の増大,台平工業地帯の陸上交通の繁忙化が63年に著しかった。
3)貿易と国際収支
1963年の輸出激増は砂糖と米が主役を担ったが,とくは,砂糖は国際価格が30%以上も騰貴し,輸出額は2.2倍にも達した。砂糖だけでなく,バナナ,シトロネラ油などの価格も上昇し,中国(台湾)の輸出価格指数(1958=100)は62年の81から144へ急昇した。輸出増は砂糖,米(前年の3倍)にとどまらず,一次産品,工業製品の双方にわたる多数の品目に及んでいる。悪天候のため,生産が減少ないし伸び悩んだバナナ,パインアップル,茶などを例外として,きのこかん詰,シトロネラ油,野菜,木材,木製品の輸入が大幅に伸び,工業製品ではセメント,綿布の輸出増が大きかった。
輸出品目の多様化と同時に輸出市場の拡張にも努力が払われ,日本,南ベトナムをはじめ,マレーシヤ,韓国などアジア諸国向けが激増したほか,西ドイツ,カナダ向けが大幅に増加している。
輸入では鉱工業部門の拡大を反映して機械,人絹糸が2倍に増加し,化学肥料,綿花(その3分の1以上がアメリカ援助による輸入),金属,スクラップ,木材などもかなりの増加を示したが,63年の特徴は資本財,原材料輸入の停滞に対し,消費財輸入が著増したことである。とれは,小麦,豆類など,不作だった食糧の輸入が激増したためとみられる。
輸入先では,先進工業国のうちアメリカ,イギリス,ベルギー,イタリアおよび南ベトナム,オーストラリア,イラクなどの一次産品輸出国の比重が高まった。
貿易収支の赤字が著しく縮小したうえに,投資環境のいっそうの改善から,外国資本および華僑資本の流入が激増し,金外貨準備は113百万ドルも増加した。他方,アメリカ援助のうち贈与が激減して12.1百万ドルと前年の3分の1になった。
4)財政金融と物価
輸出の激増,外貨の流入によって生じた国内の流動性増加は,大部分が銀行預金となって吸収され,銀行貸出しの伸びがさほどてもなかったため,銀行の流動性は著しく高まった。1963年度(7月~6月)の政府財政は歳入で6.6%,歳出で8.9%膨張した。
63年7月1日に中央銀行は公定歩合の引下げと同時に,すべての銀行の貸付け金利および預金金利を引下げたが,銀行預金の増勢は弱まらず,年間で25%増加した。
株式市場は砂糖株を中心に活況を呈し,取引高は激増した。
通貨供給は63年下期に膨張し,63年末には前年末の水準を29%上回り,卸売物価はやや上昇傾向を強めたが,消費者物価は年間2.2%の上昇にとどまった。
5)1964年の経済情勢
1964年の見通しは農業,鉱工業ともに良好で,第1・四半期の輸出は前年同期を65%上回っている。輸入の増加は8.7%なので,貿易収支はさらに改善された。
中国(台湾)経済の躍進はアメリカの援助に負うところ大であったが,5月にアメリカ政府は65年6月までに経済援助を廃止する旨の発表を行なった。ただし,PL480による余剰農産物の供給は続けられる。
(8)
1961年5月に政権を握った革命政府は,翌年早々に第1次5カ年計画を発足させたが,その後外貨の流出とインフレーションの高進によって,多くのプロジェクトを延期または中止せざるをえなかった。当初に設定された7%以上の目標成長率は,5%に引下げられた。
1)概 況
韓国銀行の推定によれば,1963年の国民総生産は実質で6%増加した。
これは,鉱工業生産の上昇とサービス産業の拡大によるもので,農業は不振であった。
輸出奨励策が強化されて輸出は著増したが,輸入も急増を示し,貿易収支の赤字はいっそう拡大した。
財政政策および金融政策が引締め基調となったにもかかわらず,食糧価格を中心に物価は高騰を続けた。64年上期にも,経済の危機的様相が引き続いている。
2)生 産
1962年秋の凶作に続いて,63年夏作(大麦と小麦)は台風と病虫害が災いして平年の6割近く減産した。このため,10月に終わる食糧年度の穀物不足量は140万トンと推定され,130万トン(110万トンはPL480によるアメリカからの輸入)が輸入された。秋の米作は大豊作を記録したが,食糧不足を解消するにはいたらなかった。
政府は農民に対する生産資金の貸出し額を増加させ,殺虫剤の普及,養蚕の拡張に努力したが,灌漑プロジェクトの予算は削減された。
インフレーションは,少なくとも63年第3・四半期までは,鉱工業生産に対して不利に働かなかったようにみえる。鉱工業生産指数は,63年第3・四半期に前年同期を13%上回る水準に達してのち,横ばい状態にはいった。
生産の増加は主として消費財産業で起こったが,インフレーションのため国民1人当り消費額が低下し,消費支出の総額は2.4%程度増加したにとどまり,輸出の伸びが需要を下支えたものと思われる。
消費財産業の中心である繊維生産は,PL480による輸入綿花を使用する綿繊維の増産が大きかった反面,羊毛,合成繊維製品が原料の輸入制限で伸び悩み,全体としては4%増にとどまった。食品加工業の14%増は,輸入小麦の精粉によるものである。そのほか,タバコ,木製品,紙,ガラス,化学品などが大福に伸びた。機械生産は減少しており,工業投資の減退を示すものであろう。
63年の国内総資本形成は24%増となっているが,これはセメント工場,通信施設,鉄道車両,発電設備など5,000万ドルの外国援助を受けて資本投下が行なわれたこと,および物価勝貴のなかで民間の資金が住宅建築に大量に流れたことを反映している。
3)貿易と国際収支
輸出は輸入の3分の1にも満たぬ水準にあるが,強力な補助金政策と輸出入リンク制(輸出に対し外貨を与える)によって,1963年1~9月には前年同期を8割も上回る急増を示した。しかし,アメリカが綿製品輸入に厳しい制限を課し,また7月以降リンク制が一時停止され,第4・四半期には輸出の減退が起こった。
他方,輸入の激増から金外貨の流出がはなはだしく,準備高は63年7月末には,輸入2カ月分を多少上回る107.7百万ドルにまで落ち込んだ。輸入の増大は食糧,原料,機械類など多数の品目にわたっており,食糧不足,鉱工業生産の上昇などを反映したものである。
7月に輸入制限が著しく強化されて,輸入は8月以降減少をはじめ,10月にはさらに現金決済による輸入を全面的に禁止するという非常手段がとられた。このため,原料とスペア・パーツの多くを輸入に頼る製造業は打撃を受け,生産が停滞した。
従来,最大のドル収入源であった国連軍からの受取りが,バイ・アメりカン政策の強化と物価上昇のために3割以上も減少し,PL480によるもの以外の外国援助が削減され,他方運賃,保険の支払が増大して,貿易外収支は悪化した。
資本収支では民間資本の流入,政府借款の増加があったが,経常収支の赤字を埋めるに足りず,外貨の流出額は63年中に27.2百万ドルとなった。
4)財政金融と物価
1963年の韓国経済は急激なインフレーションの昂進を経験した。インフレーション対策として,1963年度予算は緊縮財政の色彩が濃く,開発支出の削減を行ない,中央銀行の政府貸付けは増加をやめ,金融引締め政策もとられて通貨供給量は横ばい状態にはいった。この通貨供給の増勢鈍化については,輸入の激増が外貨をさらに流出させ,国内流動性の増加を緩和した面もある。
しかし,物価の騰勢はやまず,卸売物価指数は前年同期比でみて第1・四半期に9.6%増であったものが,第3・四半期には31%増となった。物価上昇を主導したものは,食糧危機を背景とした穀物価格の急騰であった。
62年秋作と,63年夏作の減産で,穀物価格は7月まで上げ続けたが,輸入小麦の出回りと秋作の見通し良好から9月以降下落に向った。
他方,穀物以外の物価は,生産の停滞と輸入制限強化の影響で,第3・四半期以降かえって騰勢を強めていった。生計費指数は卸売物価よりさらに急速に上昇してゆき,賃金の増加がこれに追付かず,都市住民の生活難を激化させた。
このような物価の上昇と経済の下降を反映して,第4・四半期中に民間資金のひっ迫と不渡り手形の増大が起こり,銀行預金の大量引出しがあって銀行の経理状態を悪化させた。
5)1964年の経済状勢
1964年のはじめに,生産活動はさらに低下した。インフレーションの高進のため実質所得が低下し,消費支出が伸び悩んだのに加え,輸入制限と金融引締めが影響したものと思われる。
輸出は軽工業品が増加をはしめ,輸入は著しい減退を示した。この傾向は5月の平価切下げによってさらに強められ,貿易収支の赤字は縮小した。
5月3日,政府はIMFと協議して為替レートの下限を1ドル130ウォンから255ウォンに切下げて実勢に合わせた。当初のショックを緩和するため,アメリカは10百万ドルの援助(1964年の約束額65百万ドルの枠外)と25万トンの余剰穀物を提供した。
第2・四半期中に生産は上昇をはじめ,物価の騰勢は鈍化してきており,食糧の需給は改善を伝えられる。このような経済好転の兆しがみられるが,失業者の増加が著しく,失業率は異常に高まっているといわれる。