昭和54年
年次経済報告
すぐれた適応力と新たな出発
昭和54年8月10日
経済企画庁
53年8月,経済企画庁は,国際連合が提示した(1973年)国民経済計算体系(新System of National Accounts=新SNA)にそって,我が国の国民経済計算の整備,改善をはかるため国民経済計算調査会議の協力を得て作業を行った。その結果,53年8月4日,閣議に対し「新国民経済計算(昭和40~51年度)について」及び「同計数表」を提出,政府として新SNAへの移行を確定すると同時に一般に公表した。
以下では,石油危機前後から53年度に至る時期を,①46~48年末までの石油危機前の時期,②49~50年度までの石油危機後の混乱期,③51年度以降の混乱からの脱出期に分け,今回新たに公表された国民経済計算(新SNA)のデータに基づいて概観してみよう。
46年から48年末の石油危機に至るまでの日本経済は,景気循環の自律的なメカニズム,海外経済環境などが相乗的に作用して,急速な景気上昇からスタグフレーションへと変化していった時期だった。
景気循環という点からみると,46年の経済は,41~44年にかけて急増した設備ストックの調整局面にあったと同時に,45年に積み上がった在庫を調整するという短期的な在庫循環の下降局面にあった( 第14-1図 )。しかし,財政・金融両面からの景気対策がとられ,輸出も46年の円レートの切上げ(360円→308円)にもかかわらず高い伸びを続けたこと等のため総需要は47年以降かなり増加した。こうした中で,企業の停滞感は急速に薄れ,47年半ば以降は将来に対するブーム的な明るさが広がり,企業の成長期待が急速に上方にシフトしたため,設備ストックの調整は比較的短期に終了し,48年以降は再び設備投資の上昇面に入った。景気に対してマイナスに作用した在庫調整も46年でほぼ終了し,48年からは上昇局面に入った。
実需の増大と企業の成長期待によって盛り上がり始めた設備・在庫投資は,それ自身が需要の増加となり,加速度的に景気を盛り上げ需給をひっ迫させていったのである。
政策的にも景気拡大的な措置が相次いでとられた。46,47年度は財政面から公共事業を中心とした景気の回復が図られ,48年度も地域開発を中心に,財政支出がかなり拡大した。新SNAによって目的別公共投資の動きをみても,46年度以降の政府固定資本の拡大,特に47~48年度については地域開発に関連した公共投資のウエイトの高まりを読みとることができる( 第14-2表 )。金融面でも,公定歩合が45年10月から47年6月まで6次にわたって引下げられる(6.25%→4.25%)など,かなり緩和的に運営された。
これは,需給ギャップがかなり大きい状況の下では設備投資の停滞局面がかなり続くと考えられていたこと,ニクソンショックとその後の円レートの切上げが輸出を低下させ,経済全体にかなりデフレ的な作用をもたらすと予想されていたためである。また,固定レート制の下で,需給ギャップと国際収支の大幅黒字が併存していたという状況も,こうした景気刺激的な政策の発動を容易にした。
我が国を取り巻く当時の海外経済環境も,景気刺激的に作用した。すなわち,70~71年のリセッションの後,主要国の景気は一斉に急テンポで上昇し,同時的景気拡大が生じた。これに,リセッションからの脱出のためほとんどの国が拡大策をとり,これに加えて71年のアメリカのドル切下げによるデフレ効果を阻止するため西欧諸国が一層の刺激策をとったためである。当時,アメリカの国際収支が大幅赤字であったため,その他の国は国際収支の制約を感じないで拡大策をとることができた。
このため,世界貿易全体はかなりの伸びを示し,円レートの切り上げにもかかわらず,我が国の輸出を高水準で持続させる一因となった。また,72~73年にかけてこうした国際的な需要の拡大によって工業原材料の価格が急騰したのに加えて,72年の国際的な農産物の不作,南米におけるアンチョビーの不漁といった突発的な要因も加わって,大豆,小麦などの価格も急速に上昇した。こうした全般的な一次産出価格の上昇は,輸入価格の上昇を通じて,コスト面から我が国の物価を引き上げた。
以上のように,多くの要因が重なって,景気は拡大テンポを速めていったが,48年に入るころから供給力の制約が顕著になり始め,成長率はスローダヴンし始める一方,需給の引締りに,前述のような輸入物価の上昇もあって,物価は加速度的に上昇率を高めていき,典型的なスタグフレーション(インフレと景気停滞の併存)の色を濃くしていった( 第14-3図 )。
需給,コスト両面から物価上昇圧力が強まる中で,インフレの病理ともいうべき徴候が48年頃から現われ始めた。
その一つは,インフレ期待に基づく在庫の積み上がりである。物価上昇率の全般的な高まりは,将来に対するインフレ予想を強める。こうした中で,企業は原材料の早期手当により将来の生産コストの増加を防ごうとしたり,価格が上がった段階での販売によって得られるキャピタルゲインを目的とした意図的な在庫積み増しを図った(いわゆる「買い占め」)。こうした仮需的な在庫投資の増加は,それ自身が需要の拡大となるとともに,市場への財の供給量を減らし(いわゆる「売り惜しみ」),需給のひっ迫を通じて先取り的に物価を上昇させたのである。
形態別の在庫投資の動向をみると,47~48年にかけては,インフレ期待の高進によって,原材料,中間製品,流通段階での在庫積み増しが積極的に行われ,製品についてはむしろ在庫が不足して「モノ不足」の状態が生したことがわかる( 第14-4図 )。こうした,製品段階の在庫不足に示されるような状況が需給をひっ迫させ,物価上昇を加速したのである。しかし,こうした在庫の積み増しは,49年以降の需要の停滞により,一転して過剰在庫として積み上がり,生産,出荷を抑制する方向に作用するようになった。第14-4図における49年における製品在庫の急増は,意図せざる在庫増であり,50年の在庫減は,強い在庫調整過程にあったことを示している。
もう一つは,土地,株式といった実物資産への投資活動が活発化したことである。新SNAによって部門別のストック保有の変化をみると47~48年にかけては,企業が豊富な手元流動性を利用して,土地,株式の保有を増加させた。また,家計部開も,先高感から土地のストック保有を増加させたことがわかる( 第14-5図 )。
以上のような,石油危機前夜の経済の動きは,ますます相互依存度を強めつつある世界経済との結びつきを念頭に置きなから,景気循環の現状についての適確な判断に基づいて,機動的に政策運営を行っていくことの重要性を改めて再認識させるものだった。
48年末の石油危機の発生は,48年頃からすでに歩み始めていたスタグフレーションの状況をさらに一段と押し進める役割を果した。
49年の実質成長率はほぼゼロとなり,経済の血液ともいうべき石油価格の上昇は,前述の仮需的な在庫取引をさらに全般的なものとし,激しいインフレーションが進行した。景気が過熱する中で48年には赤字に転じていた国際収支は,価格弾性値の低い石油価格等の輸人原材料の大幅な価格上昇によって,さらに赤字幅が拡大した。こうして,48,49年の日本経済は,インフレ,不況,国際収支赤字が同時に発生するという,いわゆるトリレンマの状態になったのである(前掲 第14-3図 )。
この間,経済の各面にはさまざまの変化が生じたが,それらの変化は結果的には以下に示すような国民経済計算上の四つの側面における変化に代表される。
第1は,需要構造の変化である。各期における各需要項目の平均的な伸び率の変化をみると,49~50年にかけてかなり激しい変化が生じていることがわかる( 第14-6表① )。
すなわち,46~48年には,民間需要,海外需要(輸出)に加えて財政支出も比較的高い伸びを続けていたが,49~50年には,全般的な投資,消費活動の停滞によって民間需要が伸びを低め,インフレ克服のための総需要の抑制を反映して財政支出も低い伸びとなったが,輸出だけは引続き高い伸びを続けた。
49~50年の需要構造は,それまでの需要超過経済から輸出のみに引っ張られた「外需依在型」の経済に変化したのである。
第2は,所得構造の変化である。49年以降は特に企業所得の落ち込みが目立つ。
景気循環と所得分配の関係をみると,賃金が収益に対して遅行的に動くため,景気上昇局面では相対的に企業所得の伸びが高まり,停滞局面では雇用者所得(賃金等)の方が高い伸びを示す傾向がある
49年以後の企業所得の伸び率の低下もにこうした景気循環的な要素が反映しているものと思われるが,石油危機後はこれに加えて,後述するような交易条件の悪化によって所得が海外に流出し,そのマイナス分は原材料を輸入している企業部門に一次的に波及したという事情があったものと思われる。
こうした企業所得の低下で,投資需要の低下,人減らし,合理化等の減量経営にみられる企業行動の変化を導き出す一因となったのである。
第3は,生産構造の変化である。石油危機前の日本経済は,製造業,特に基礎資材型産業の拡大が経済をリードしてきた。しかし,49年以降,製造業の生産の伸びは大きく鈍化く,その中でも,投資活動の停滞を反映して基礎資材型産業の落ち込みが大きい一方,逆に輸出に支えられた組立型産業は相対的に落ち込み方が小さいなど,業種間の跛行性が生じることになった。
こうした中で,サービス産業は比較的好調な生産活動を持続し,雇用吸収面でも製造業の鈍化をかなりカバーする役割を果たした。
第4は,貯蓄,投資バランスの変化である。石油危機前の部門別の貯蓄,投資バランスをみると,家計部門のかなり大きな貯蓄超過を企業の活発な投資超過が埋め,政府,海外部門は長期的にはほぼバランスするという姿になっていた。しかし,49年以降は,個人の貯蓄超過がさらに大きくなった反面,企業の投資超過はかなり小さくなり,その間で政府部門,海外部門がかなりの投資超過となった( 第14-7図 )。
こうした貯蓄,投資バランスの変化は,民需の停滞を輸出,政府支出によって補ってきた経済全体の姿を象徴しているといえる。
石油危機以降の経済環境の変化に対して,家計,企業はそれぞれ適応を進めていく過程で,いくつかの特徴的なビヘイビアの変化が現われた。
その第1は,家計の貯蓄率の上昇である。石油危機前の貯蓄率の動きをみると,消費に慣性効果(過去の消費水準を簡単には変えないという行動パターン)があるため,実質可処分所得の伸びが低下する時には,むしろ貯蓄率は低下するという傾向があった。しかし,48年以降のインフレーションの中で,実質所得の伸びが低下する中で,貯蓄率がかなり上昇するという現象が現われた( 第14-8図① )。
これには,一つは,インフレ,雇用不安の高まりが,家計の将来に対する期待にマイナスの影響を与え,消費マインドを萎縮させたということが考えられる。
もう一つは,家計部門のフローとストックのアンバランスが生じ,これを回復させるため貯蓄率が上昇したという点である。48年以降のインフレの中で,フローの所得は,ある程度物価上昇率にスライドして上昇したが,それによってストックとしての金融資産保有高は相対的に小さくなった。このため,49年以降,フローの中の多くの部分をストックの補充にあてたことが貯蓄性向の上昇となって現われたものと思われる。
新SNA統計によって,家計部門の年間収入と金融資産保有高の比率をとってみると,49年に大幅に低し,その後徐々に回復してきていることがわかる( 同図② )。
第2の変化は,企業の投資性向の低下である。前掲 第14-1図 にみたように,設備投資は49年に入って,また在庫投資は49年後半からともにかなり強い下降局面に入った。こうした企業の投資行動の変化も,ストックとフローの調整過程として位置づけることができる。
在庫投資についてみると,49年に入ってから,需要水準が急激に低下したため,それまで積極的に積み増してきた在庫は意図せざる在庫として急激に積み上がることとなった。この間の動きを在庫ストックとGNPとの比率(GNPベースの在庫率)でみると( 第14-9図 ),49年に入って大きく上昇し,その後強い在庫調整の過程に入ったことがわかる。
設備投資の停滞も,48年までに形成されてきた資本ストックと49年以降の需要構造との変化によって生したアンバランスの調整過程において生じた現象だったと考えることができる。今,48年がほぼ設備がフル稼働だったとみなし,当時の資本係数(資本ストックと生産額の比率)を固定して,その後の需要水準に応した必要資本ストックとのギャップ(一種の稼働率)を計算してみると,49~50年にかけて,特に素材型産業においてかなり大きな過剰資本ストックが発生したことがわかる。
石油危機後の経済において,通常の景気停滞局面と異なる大きな点は,石油価格を中心とする交易条件(輸出価格と輸入価格の比率)の変化が生じたということである。
GNPベースの交易条件の動きをみると,48年以降,特に石油危機以降の輸入価格の上昇によって,かなり悪化している( 第14-11図① )。交易条件が悪化すると,今までと同じ財の輸入に対してより多くの代価を支払わなければならなくなるので,その分だけ名目所得が海外に流出する。特に我が国の場合,輸入の大部分が価格弾性値の低い原材料輸入であるため,価格上昇による輸入数量の抑制効果は,短期的にはほとんど現われず,所得の流出もかなり大きなものとなった。この動きは,名目経常海外余剰(名目輸出等-名目輸入等,ほぼ国際収支表上の経常収支に相当する)が,交易条件の悪化に伴って大幅のマイナスに転じたことによって示されている( 同図② )。この交易条件の悪化に伴う所得の流出は,生産コストの上昇という形で企業収益のマイナスという結果となって現われたものと思われる。
しかし,こうした影響は名目ベースで考えた場合は現われるものであり実資ベースでみた輸出入の動きは違ったものになっている。49年以降,実質経常海外余剰は大幅のプラス方向に転じた。これは,この間価格上昇分を除いてみた輸入数量はむしろ減少し,逆に,輸出数量は増加していったからである。
このように,49年以降の海外部門は,名目所得に対してはマイナスに,実質生産活動に対してはプラスに作用した。こうした点を見ると,49~50年の経済はマクロ成長率の低下で考えられる以上に,ミクロの所得は悪化していたのである。
51年以降の経済は前述のようなトリレンマからの脱出期としてとらえることができる。
実質経済成長率は,51年以降,5~6%台の伸びを続け,他の先進諸国を上回る成長を記録している。物価上昇率も期を追って鎮静化し,国際収支も50年後半から黒字となり,逆に黒字不均衡が問題とされる程になった(前掲 第14-3図 )。
こうしたトリレンマからの比較的順調な脱出についても,景気循環的側面,政策的対応,海外経済環境の三つの側面からとらえることができる。
まず,景気循環という観点からみると,51~52年にかけて,比較的明瞭な在庫循環がみられたが,それが設備投資の上昇局面につながらなかったため,ミニ景気循環的なものにとどまった(前掲 第14-1図 )。しかし,49年にかけて積み上がった過剰在庫の調整が終り,設備投資も次第に調整局面の最終段階に近づくにつれてマイナス方向への需要圧力が減少してきたため,自律的な民需の停滞が止まり,需要構造は49~50年当時の状況から,かなり石油危機前の姿に似たものになってきている(前掲 第14-6表 )。
政策的対応もこの間の経済の動きにかなりの影響を及ぼした。財政支出は,51年以降公共事業を中心に積極的に拡大され,盛り上がりに欠けた民需を補う役割を果した。貯蓄・投資バランスの上でも,財政部門の投資超過は51年以降大幅に拡大している(前掲 第14-7図 )。金融面からの緩和措置によって金利が大幅に低下したことも,新たな環境への企業の対応を促進した。
海外経済環境も我が国経済の立直りに大きく寄与した。すなわち,世界経済は51年以降次第に明るさを増し,貿易量も拡大して,我が国の輸出環境を好転させた。また,国際原材料価格も47~49年の急騰後は落ち着いた動きを示したため,我が国の輸入価格も比較的安定した状態で推移し,インフレの鎮静化に寄与した。
本報告第1章で詳しく述べられている53年度経済は以上のようなトリレンマからの脱出過程の最終段階として位置づけられるのである。