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第I部 第1章 アジアのデフレとその要因

第1章 アジアのデフレとその要因

第3節 所得面からみたデフレの特徴

 
 本節では、物価動向を計るもう一つの指標であるGDPデフレータを用いてデフレの特徴を分析する。GDPデフレータは、国内で生み出された付加価値に対する物価指数とみなすことができ、利潤や賃金の変化の観点からも分析することが可能である。付加価値はコスト面からみた価格の重要な要素であり、付加価値の減少は価格決定において下落要因となる。
 GDPデフレータはGDPを加工推計することによって求められるものであり、CPIのように直接観察することはできない。CPIが輸入品価格を含むのに対し、GDPデフレータは輸入品を含まず、国内におけるインフレ圧力を示すものである。さらに、ウエイトが基準時点で固定されるCPI(ラスパイレス型指数)がGDPデフレータ(比較時点のウエイトを採用、パーシェ型指数)より高い上昇率を示す傾向にあるという違いがある。

●GDPデフレータでみるとデフレはより早く多くの国で
 これまでCPIによってアジアの5か国がデフレ傾向にあることをみた。GDPデフレータを用いると、日本、台湾、シンガポールではCPIでみるよりも早くデフレ傾向が生じていることが分かる(参考1)。また、ドイツ、韓国は2000年までにGDPデフレータは前年比マイナスを経験しているし、アメリカも2002年に上昇率が顕著に低下している。
 CPIとGDPデフレータの上昇率については、次のような特徴がある(参考3)。(i)両者の動きは同時であり、変化方向は基本的に同じである。(ii)前述したように、輸入品価格の効果や指数のウエイト年が異なるために、CPI上昇率の方が概ね1〜2%程度高い。したがって、CPIベースではデフレになっていなくても、GDPデフレータではデフレが生じていることがありうる。

●労働コスト要因の動きに違い
 データの利用可能性から日本、台湾、アメリカ、ドイツ、韓国を取り上げ、GDPデフレータの変化にどのような違いがあるかを明らかにしたい。
 90年代の前後半に分けると、90年代後半にGDPデフレータ上昇率が大きく鈍化していることが各国で共通している(第I-1-10図)。その中でも特筆すべきは、(i)アメリカでは鈍化が小幅にとどまっていること、(ii)日本でのみ下落していることである。
 次に、GDPデフレータの定義(第I-1-10図備考参照)に基づいて、上昇要因を労働コスト要因(実質付加価値1単位当りの雇用者報酬)、企業所得要因、間接税(純)要因に分解し90年代後半の動きを比較すると、次のような特徴が明らかとなる。
 第一に、アメリカでは、労働コスト要因が90年代を通じて1%超の貢献を維持しており、GDPデフレータ上昇率の鈍化を小幅にとどめている。他方、その他4か国では、労働コスト要因の寄与が90年代後半にきわめて小さくなっている。また、企業所得要因については、すべての国で90年代後半に大きく低下している。
 第二に、年ごとの動きをみると、デフレが生じている日本と台湾では、デフレ期に労働コスト要因の寄与度がマイナスとなっている。他方、アメリカ、ドイツ、韓国では2001年にその寄与度がプラス1%前後を示している。
 第三に、労働分配率(雇用者報酬/名目GDP)については、90年代を概観すれば日本では上昇傾向、アメリカでは横ばい、台湾、ドイツ、韓国では下落傾向となっている。日本では、雇用者報酬よりも企業所得の減少が大きいために分配率が上昇している。

●90年代における賃金上昇の特徴
 次に、日本、アメリカ、ドイツを取り上げ、上述したような労働コスト要因の違いがどのように生じているのかを明らかにしたい。とりわけ、日米の違いは、90年代後半にアメリカでは労働コスト要因がそれまでと変わらない伸びを示しているのに対し、日本では減少しているという大きな違いがある。
 賃金上昇(以下では簡単化のため、一人当り雇用者報酬を賃金と言い換える)に対する見方のポイントは、労働生産性上昇率に見合って賃金が上昇しているかどうかである。製造業と非製造業に分けて、90年代後半の動きを調べると次のような特徴がある(第I-1-11図)。
 (i)日本:製造業の労働生産性上昇率は90年代後半に高まっているが、賃金上昇率はそれを大きく下回っている。他方、非製造業においては、労働生産性上昇率に改善が生じているものの、米独に比べてその大きさは劣っている。さらに、労働生産性上昇率に見合って賃金が上昇するどころか、賃金は下落している。この結果、90年代前半には製造業、非製造業の賃金上昇率は同程度であったが、後半には差が開いている。
 (ii)アメリカ:製造業では労働生産性上昇率の高い伸びが続くと同時に、それに見合った賃金上昇が実現している。他方、非製造業ではIT(情報通信技術)の貢献もあり、日独を上回る労働生産性上昇率が実現しているが、賃金上昇はそれを大幅に上回っている。その結果、製造業と非製造業で賃金上昇率は同程度となっている。これは、生産性格差インフレと呼ばれる現象が生じることを示している。
 なお、実質賃金でみても上昇率は同様の動きとなっている。日本では90年代後半に非製造業の実質賃金上昇率は下落し、賃金が抑制されている。他方、アメリカでは両業種とも90年代前半に比べ後半には実質賃金上昇率が高まっている。

●デフレ下の賃金上昇鈍化
 生産性格差インフレは、コスト面からインフレを説明するもので、生産性上昇率の低い非製造業での賃金上昇が価格を押し上げ、経済全体としてインフレにつながるという考え方である。労働力供給が潤沢で制約にならない場合を除けば、どの国でも基本的に成立しておかしくない動きである。
 これを踏まえると、製造業と非製造業で賃金上昇率が同程度であれば、両業種の労働生産性上昇率格差は相対価格変化率(サービス価格上昇率 − 財価格上昇率)に現れるはずである。
 確かに、アメリカでは90年代後半に生産性の格差を反映し、サービス価格が相対的に上昇している。他方、日本では生産性の格差に見合ったサービス価格の相対的上昇が生じていない。また、ドイツでも日本にやや似た傾向がみられる。
 このことは、日本では製造業、非製造業ともに90年代後半以降のデフレ状況が賃金上昇を抑制するように働いている。つまり、デフレが製品価格を下落させ企業収益を減少させる一方で、賃金上昇も抑制することによって、付加価値額を減少させている。

●ドイツでは日本同様にデフレに注意
 このように90年代後半には、日米独では賃金上昇の動きに大きな差異が生じている。そうした違いはコスト面から物価動向の動きに反映されてこよう。つまり、賃金上昇の抑制あるいは下落は、コスト面から物価上昇圧力を低下させ、財やサービス価格の下落につながる可能性が高い。
 日本では製造業での賃金抑制、非製造業での賃金下落が米独に比べ顕著な特徴となっている。さらに、こうしたコスト面の動きからサービス価格の上昇が相対的に小さいという状況にある。これは、日本のデフレの特徴であるサービス価格がほぼ横ばいとなっていることの背景となっている。
 ドイツではデフレは生じていないものの、日本同様に非製造業の価格や賃金上昇は鈍化傾向が明らかとなっている。こうした動きが加速すれば、コスト面から物価下落の要因に転じるとも限らない。また、アメリカでは生産性格差インフレの動きが生じているが、このところGDPデフレータ上昇率が大きく鈍化しており、今後の動向を注視する必要がある。

●むすび
 これまでの分析により明らかとなった点をまとめておこう。
 デフレにおいては、財価格のみならずサービス価格も下落し、一般物価が下落するという特徴がある。デフレは、多くの要因が複合して引き起こされているが、効果の大きさからみると需給面や貨幣面の影響が基本である。中国デフレ輸出論に関しては賛否両論の議論がなされている。そうした議論を踏まえて本章で行った分析結果からは、中国製品の輸出急増が90年代以降の物価引下げ圧力に影響を与えている可能性は否定できないが、日本への数量的な影響の程度は小さいと考えられる。
 デフレは、資金の借り手の実質債務負担を増大させるなど経済に悪影響を及ぼし、早期に克服することが必要である。デフレは継続的な物価下落であり、「良いデフレ」というものは存在しない。したがって、GDPギャップの縮小に努めると同時に、デフレ克服に向けた金融政策を強力に進めていくことが重要な政策課題である。そして、構造改革を断行し、生産性の高い分野への資源移動と重点的な配分を行い、生産性上昇を高めると同時に、それに見合った付加価値増加が実現するような環境を整備していくことが必要である。


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