経済審議会国民生活文化部会(第2回)

経済企画庁

経済審議会国民生活文化部会(第2回)

経済審議会国民生活文化部会(第2回)議事次第

日時 平成11年2月25日(水)10:00~12:00

場所 経済企画庁長官官房会議室(708、709)

  1. 開会
  2. 国民生活文化部会の検討内容について
  3. 人々を結びつける新たな機能(人材育成、教育)について2名の委員からの意見発表
  4. 閉会

(配付資料)

  • 資料1  経済審議会 国民生活文化部会 委員名簿
  • 資料2  「あるべき姿」における我が国の国家像をどう考えるか
  • 資料3  第1回基本理念委員会議事概要
  • 資料4  我が国の国家像についての意見集計
  • 資料5  各部会の検討事項対比表
  • 資料6  国民生活文化部会の検討事項について(案)
  • 委員意見発表資料
  • 参考資料

経済審議会国民生活文化部会委員名簿

部会長
清家   篤  慶応義塾大学商学部教授
部会長代理
大田  弘子  埼玉大学大学院政策科学研究所助教授
井堀  利宏  東京大学大学院経済学研究科教授
川勝  平太  国際日本文化研究センター教授
黒木  武弘  社会福祉・医療事業団理事長
鈴木  勝利  日本労働組合総連合会副会長
ピーター・タスカ  ドレスナー・クライン・オートベンソン証券会社ストラテジスト
永井 多惠子  世田谷文化生活情報センター館長
        日本放送協会解説委員
西垣   通  東京大学社会科学研究所教授
浜田  輝男  エアドゥー北海道国際航空咜代表取締役副社長
原   早苗  消費科学連合会事務局次長
福武  總一郎 (株)ベネッセコーポレーション代表取締役社長
森   綾子  宝塚NPOセンター事務局長
湯浅  利夫  自治総合センター理事長

〔 部会長 〕 ただいまから、第2回の国民生活文化部会を開催させていただきたいと思います。

 本日は、こ多用中のところをご出席いただきましてありがとうございます。

 それでは、早速ですが、本日の議題に入らせていただきたいと思います。

 本日はまず、前回の部会でご議論いただきました「『あるべき姿』における我が国の国家像について」及び本部会の個別の検討テーマについて、引き続きご議論いただきたいと思います。

 その後、「人々を結びつける新たな機能(人材育成、教育)」というテーマについて、2名の委員から意見発表をいただいて、それを受けてご議論いただくことを考えております。

 「『あるべき姿』における我が国の国家像について」に関しましては、前回事務局より提出された7つの論点につきまして、各部会共通の前提を持つ観点から、去る2月19日に行われました第1回の基本理念委員会で検討が行われました。

 当部会からは、私と大田部会長代理が出席いたしました。

 そこで最初に、基本理念委員会での議論の結果につきまして事務局の方から紹介していただきたいと思います。

 また、基本理念委員会での議論の結果も踏まえまして、事務局の方に本部会の個別検討内容について改めて若干詳しく整理していただきましたので、これについても事務局よりあわせて説明をお願いいたします。

〔 福島推進室長 〕 それでは、お手元の資料でご説明させていただきたいと思います。資料2を見ていただきますと、これは前回ご議論いただきました7つのテーマということで、本日も引き続き若干の時間をとっていただいて議論していただきたいと思います。今、ご紹介ありましたように、このテーマにつきまして、2月19日に基本理念委員会が開催されまして、各部会の部会長、部会長代理の方にご出席いただいて議論されていますので、その概要について、資料3ということで整理をさせていただいておりますので、これにつきましてご説明させていただきます。

○ここにある各部会に出された意見をつなぎ合わせても、なかなか10年先のイメージが湧いてこない。

○「会社人間」という言葉はよく使われるけれども、会社自体が個人のあり方に本質的にインパクトを与えているというのはやや表現が強過ぎるのではないか。

○あるべき姿を議論する場合、世界全体の中での日本の位置づけという大きな形よりは、個人がどこに帰属するかという問題から議論していった方がいい。

○あるべき姿を1つだけ描くことにこだわらず、もう少し幅広く描いてみればいいのではないか。

○国民生活文化という観点で「あるべき姿」というのを1つ出すということはなかなか難しいけれども、個人が自分の選択と自己責任において生活のあり方を整えるための条件として議論することはできる。

○議論の前提として何を与件とするのかということは非常に重要な問題である。

○会社人間という観点で、今後は、個人が今よりも働く期間が長くなるであろう。一方、競争が非常に激しくなる中で、企業の寿命もこれまでよりも短くなると考えられるので、むしろ、1つの会社にリンクした能力開発とか所属配分は見直さざるを得なくなる。

○ワンセット主義とグローバリゼーションという関係で、これは両者両立するということはあり得ず、グローバリゼーションが進んでいけば、安くていいものを作れば、その場所はどこでもよいということになっている。

○法体制や税制のグローバル化が進むということで、日本だけ特殊な法律や税制を続けることはできない。

○グローバリゼーションという観点で、アメリカ的な市場主義が世界を席巻することを前提としなければいけないのか。こういうことをもう一度よく、それに反対する立場の意見も考えた上で、日本の「あるべき姿」を検討していくべき。

○日本は世界各国でこれから起こりうる問題を集約している。例えば、高齢化の問題ということでは、ほかの国でも起こることが日本で時間的には近いところで起きている。こういうことから、自国の問題を解決していって、その情報を世界に発信することで、世界から尊敬されるようなことにつながる。

○自由と社会的秩序はトレードオフの関係にあるのではなく、ルールという秩序のある中に自由が存在するので、これらは両立するものである。

○日本では、少し前までは「平和」という言葉、現在では「環境」という言葉、こういう価値観が出てくると、それがすべて「善」であるというふうに受け止められがちなわけで、柔軟な発想はそこから出てこない。価値観をいきなり出すのはよくない。

○個人は会社に帰属する面が非常に強く、社畜というような状態になっているので、こういうものをぜひ変えていくべき。

○時間と空間が今の個人にはないのが非常に大きな問題。こういうものをうまく解決していく必要がある。

○業種による給与格差が労働移動を阻害している。女性労働についての差別も言われているぼど改正されていない。

○女性というのは今後、どんどんと職場進出とかをしていくだろうけれども、むしろ、今後は若い男性の働き方というのが問題になる。

○「尊敬される国」という点について、尊敬というのは上下の関係であり、適当ではないのではないか。むしろ好意を持たれる国という考え方がいいのではないか。

○自由と社会的秩序については、日本は自由がなさ過ぎるので、むしろ思い切って自由を強調するスタンスがあってもよい。

○ワンセット主義については放棄するというよりも、転換せざるを得ないものと考えるべきではないか。

 そこに挙げておりますような議論がされました。

 それから、資料4が次にございますが、これはこれまで4つの部会がそれぞれ1回ずつ開いてまいりまして、それに基本理念委員会の今ご紹介しましたご議論、そういうものを合わせて7つの論点について、どういうような議論の対立軸があるのかというのを対比したものでございます。

 これについて簡単に説明いたします。四角の囲ってあるところに、両者の対立するような意見がございますのでご覧いただきますと、1.「世界における我が国の位置づけについて」ということで、最初に、「世界秩序への関わり方」につきまして、「グローバルスタンダードの受容という、受身的な発想だけではなく、積極的な姿勢が必要」、「グローバルスタンダードに関して、広い意味での知的基準を作り出していくことを考えるべき」、「いつまでも世界秩序を所与のものとして自国だけいかに発展していくかを議論すべきではない」など、この点については積極的に関わっていくべきという意見が出されました。

 2枚目に、2.「自由と社会的秩序などのトレードオフについて」という問題があります。こちらは、「自由、個人、応報優先」という考え方が比較的多く出されました。先ほどもちょっとご紹介いたしましたが、「日本は自由がなさ過ぎるので、中途半端になるより、思い切って自由を強調するスタンスがあってよい」。あるいは、3ページにまいりまして、「格差がなさ過ぎることが、日本経済に現在の停滞をもたらしているのではないか」、「集団主義が経済の活性化を阻害している」。その一方で、右側にありますように、「相対的に格差の少ない社会をどのように維持していくかという議論も今後引き続き必要」、という意見がございました

 4枚目にまいりまして、3.「産業・技術等のワンセット主義について」という論点ですけれども、ここは「ワンセット主義を維持する」あるいは「放棄する」というところで意見が多少分かれておりますけれども、維持するという観点では、「日本の中で地域ごとの分業構造があることから、日本がフルセット主義を捨てると地方を捨てることにならないか」。あるいは、「エネルギー・食料といった将来の日本経済に係る安全保障の議論も重要」ということであります。それから、一部あるいは全部放棄という観点では、「ワンセット主義は、放棄するというよりも、転換せざるを得ないということではないか」。あるいは、「護送船団方式や弱体産業の保護には反対。しかし、淘汰されるものの中からも後世に伝えていくべき技術をいかに保護し、伝えていくかが大事」、という意見がございました。

 4.「日本固有の良さについて」ということで、これは特に対立軸というものはございませんけれども、「ステークホルダーにおける日本の特色が今や問題になっているのではないか」などという意見がありました。

 5.「経済成長について」、ここのところはいくつか分かれて議論が出ておりますけれども、5ページでは、右側「経済成長以外に追求すべき価値がある」というところで、「先進国で経済成長率を考える必要があるのか、また考えられるのか。先進国の行き詰まりは経済成長率に注目をし過ぎていることが問題ではないか」。それから、「可処分所得、豊かさ、可処分時間、便利さ等々を選べる、自己実現性、こういうものが追求すべき価値ではないか」。それから、「人間としてもっとゆっくり生活できるような何らかの仕組み」。それから、6ページでは、「『生活水準』を計る1つの指標は、『一人当たりの所得水準』ではないか」。

 7ページ目、6.「個人の帰属先について」でございます。ここも対立軸でとらえているものではございませんけれども、「家族と地域が本当に個人の帰属先として機能するような社会にすることが必要」。あるいは、「個人の帰属先としては、職場、地域、趣味、NPOというものが考えられないか」、という意見などがございました。

 8ページにまいりまして、7.「地域のあり方について」では、過疎・無人地帯を「許容する」「許容しない」ということで、許容しないという意見の方が多くなっております。「許容する」というところでは、「ワンセット主義を捨てるべきだとすれば、地域的にも偏在は当然ではないか」、というご意見がございました。「許容しない」というところでは、「国土全体で、地方の文化、風土、産業を持続させる、それにより国土保全や環境保護を考えていくべき」、「中央集権的な統制によりコミュニティーが失われてきた地域が自主的に考える体制を作らないと活性化にならない」、ということがご意見として出ておりました。

 以上、簡単ではございますけれども、これまでの各部会及び基本理念委員会で論点につきまして出された意見を紹介させていただきました。

 資料5で「各部会の検討事項対比表」を載せております。これは第1回目の部会で、こういう問題も議論しなければいけないのではないか、というご指摘がいくつかございまして、全体として、各部会でどのようなものを論点として議論するかということでお示ししたものでございます。前回のこの部会で出された、例えば、地域と東京の格差というものが重要な問題であるということ。この辺は、地域経済・社会資本部会でも論点になろうかと思います。あと、リサイクルが重要だというようなこと、その辺は、構造改革推進部会の方で、循環型経済社会の実現ということが議論されることになっております。それから、外国人労働問題につきましては、グローバリゼーション部会の方で、外国人労働・移民政策のあり方ということで議論されることになっております。現在のところは、各部会がこういうような論点で全体的に議論していこうということになっております。

 次に、資料6がございます。国民生活文化部会の個別の検討テーマということで、前回お示ししたものと柱立てにつきましては変わっておりません。その柱立てにつきまして、事務局の方でこういう考え方で議論していただいたらどうかというものを少し書き込んだものでございます。

 見ていただきますと、まず最初に、人々を結びつける新たな機能の構築ということで、これまでの人々の生活の比重が、企業を中心としたものに傾き過ぎていたのではないか。こういう姿から、家族や他の社会的集団にも、新たな人々の結びつきや活動の機会を拡げていくということで、社会全体としての活力を高めていく姿を模索していく必要があるのではないか、ということが基本的な考え方になっておりまして、以下、個人と企業との関わり、家族との関わり、NPO、ボランティア等様々な活動との関わりということで、そこにありますようなことでやっていくということを検討してみたらどうか。

 企業との関わりにつきましては、日本型雇用慣行に変化の兆しが生じつつあるということで、「ポスト会社人間」という言葉を使っておりますが、多様な自己実現を図っていくための、個人と企業の間のシステムというのはどのように作り上げていく必要があるかということでございます。

 家族との関わりにつきましては、これまで企業がかなり生活集団としての機能を持ってきたということですけれども、再び、家族の生活集団としての絆や働きは回復していくという方向が出てくるのではないかという考えがある一方、個人主義の浸透とか、生活環境の改善ということで、個々人の独立化ということが一層進んでいくのではないかという考え方もありまして、この辺どういったものの見方ができるのかということでございます。

 それに絡みまして、税や社会保障のあり方を考えるときに、経済単位を家族で考えるのか、個人で考えるのかという問題も出てこようかと思います。

 NPO、ボランティア等とありますけれども、ここでは地縁的なこれまでのコミュニティー活動、こういうものがだんだん縮小していくということで、今後は意識なコミュニティー、個々人の自発的な参加意識に基づいて形成される、そうしたコミュニティーの構築が進んでいくのではないか。あるいは、インターネットの普及等、情報通信手段の発達で、そういうコミュニティーの形成というものは幅広く行われていくのではないか、そういった点でございます。

 2枚目にまいりまして、そういった社会のシステムの変革の中で、どういった人材を育成していくべきか、あるいはどのような教育が必要になってくるのかということで、・として、新しいものを生み出せる力を有した人材というものが、今後、キャッチアップを経た我が国の人材育成として重要な観点になってくるのではないかということでございます。そうした人材を育成していくために、例えば、学校だけに頼るというのではなくて、家庭、あるいは地域社会、企業、NPOといったような各主体がネットワークを構築して、どのような役割を果たしていくべきかということでございます。この点につきましては、本日の後半の方でご議論いただきたいと考えております。

 2番目の柱としまして、国民生活における社会保障制度ということでございます。ここでは、社会保障制度の中で、年金制度と雇用システムというものを取り上げております。今後の高齢化社会を迎えるということで、生活の安定を担う公的年金、企業年金、私的年金の位置づけ、及び適切な役割分担、それから雇用との関連、こういうものを明らかにしていきたいということでございます。

 特に、高齢者の雇用ということにつきましては、現在、公的年金制度の安定化のために、支給開始年齢の引き上げ等の制度改革が考えられておりますけれども、こういうものとの関係で高齢者雇用というのをどう位置づけていくかという問題もございます。

 2番目の医療と介護の相互関係につきましては、公的な介護保険制度の導入が決まっておりますけれども、老後の介護に関する不安は依然として大きいということで、医療と福祉が互いに有機的に連携し、最大限に相乗効果を発揮できるような仕組みというのがどのようなものであるか、その具体像を探る。それと同時に、こうした医療介護分野での需要増等に伴いまして、どれくらいの経済効果があるのかということも、あわせて考えていきたいと思っております。

 最後に、(3)で「高齢者の雇用・社会参加」とありますけれども、これは先ほどの年金制度の改革との関連もございます。そういう観点以外に、高齢社会を迎えて、高齢者が名実ともに新たな社会の主役として、意欲と能力を十分に発揮し、活き活きと生活することのできる社会というものはどのようにして形成できるのか、ということも1つの大きな論点であろうということで、ここに掲げさせていただいております。

 以上が、国民生活文化部会の個別の検討テーマということでございます。

 3枚目は、今後の審議スケジュールでございます。前回お示ししたものとほとんど変わっておりませんけれども、このようなテーマ、このような日程で議論していただいてはどうかという提案でございます。

 説明は以上でございます。

〔 部会長 〕 どうもありがとうございました。

  1つだけ付け加えさせていただきますと、前回、皆様方の中から、特にこの部会で議論する際の前提条件はどういうものかというのを、特に基本理念委員会の方で整理してほしいという宿題をいただいておりましたが、十分に時間がありませんので、その点について議論までは行かなかったのですが、先ほど紹介していただいた基本理念委員会の議事概要の2枚目のところの最初の3つぐらいの○が私の発言ですけれども、その2つ目の○のところで、議論の発散を防ぐために、議論の前提の与件を何らか決めておいた方がいいのではないかという意見が国民生活文化部会で出ましたということを申し上げておきました。その中では、特に人口構造の高齢化ですとか、国際競争、あるいは国内的な規制緩和によって国内的にも市場競争というものの範囲が拡大していくということ、あるいは人々の豊かさの基準というものがだんだん活動とか行動の選択肢の多さで規定されるようになっていく、こういうような基本的な流れについては、我々が何かそれを変えることができるというふうには考えずに、むしろ与件として考えた方がいいのではないか、というようなことを一応その席では申し上げました。特に異論はありませんでしたので、この辺は前提として議論してよろしいのではないかと思っております。

 それでは、ただいまの事務局からの説明につきまして、ぜひ活発なご議論をいただきたいと思います。特に、今日は、今回初めてご出席の委員の方々もいらっしゃいますので、素朴な質問も含めて、いただきたいと思います。

〔 A委員 〕 前回欠席しましたので、最初に、全体の問題意識に関して、素朴な質問も含めて私の簡単なコメントを述べさせていただきます。

 「あるべき姿」における我が国の国家像というのが全体のタイトルになっているわけですけれども、これを最初に伺ったときの率直な感想として持ったのは、将来、日本の国民がどういうライフスタイルとか、あるいはどういった生活をするのが望ましいのかということを、政府の方であえて議論することもないのではないか。国民一人ひとりの意識がある程度反映されるような、そういう社会がある意味で当然だと思いますので、あえて「あるべき姿」というのを出す以上は、国民一人ひとりの生き方を直接政府がある理想像を示して誘導するというよりは、それの障害、あるいはそれに対する何らか影響を与えるような国家のシステム自体をどういう具合に変えていったらいいかという形で議論するのかなというのが率直な感想です。

 その意味から、ここで挙げられている課題と多少違った視点で一言コメントしますと、国家像というのは、基本的に政府が何らかの行政的あるいは経済的な権力を行使するわけですけれども、そのときに大きな問題になるのは、国民全体の国家に対する期待とか、あるいは国家に対するいろいろな思いと、それから、実際の政府の取っている政策とのギャップがかなりありうる。それを具体的に、一番端的には、政治不信とか、投票率の低下とか、そういった形で国民の特に若い人が政治に参加しない。そういった、民意がある意味で国家の政策的な意思決定と乖離しているとすれば、そこがあるべき国家像を考えるときの1つの問題点で、せっかく国民のある意味でマジョリティがこういった形の国家なり、あるいは経済政策、社会保障制度を望んでいるにもかかわらず、なかなかそれが実現し得ない。そういうものが政治的な意思決定の中にありうるのではないか、そういう気がします。

 これはもちろんここでの検討課題ではないと言ってしまえばそうだと思うのですけれども、広い意味では、特に将来世代とか、これは年金の場合もかなり効いてくると思いますが、若い人の意思がなかなか政治的なプロセスに反映されないような現状の意思決定システムをどういう形で改革していくのかというのも、国家像を考える場合の1つの論点ではないか。

 これをここでやれということではないですけれども、一言、それだけをお話ししたいと思います。

 それから、こことの関連で言えば、国家像の大きなポイントというのは、先ほど、部会長もお話しになられたように、機会・選択のチョイスの幅が大きくなっているということがこれから重要で、その結果としていろいろな、例えば格差が出たときにも、それをあえて横並びで抑えるような結果の平等をあまりにも求めてきたというところが、今後問題になるのだと思いますので、結果の平等と機会の平等とをどういう具合に考えていったらいいか、もうちょっと言いますと、結果の平等から機会の平等の方に移っていくような、そういう政策、制度、あるいは法制度も含めて考えていくのが1つの視点になるのではないかと思います。

 もう一つは、政策的な観点から言えば、裁量的な行政をなるべくやめて、透明なルールの方にコミットしていくという、それは「あるべき国家像」の1つの視点になるのではないかと思います。

 最後にもう一つ、簡単に加えれば、国家像という場合は、「地域のあり方」のところで多少出てきたと思うのですけれども、中央政府と地方政府の役割分担をどう考えるかというのが、狭い意味での国家のあり方を考える場合にはかなり重要な論点になってくると思いますので、いわゆる地方分権をどう進めていくのか。地方分権の中でも、単に財源だけを出して、勝手にやれというところで止まるのか。あるいは、受益と負担のリンクを地域の中で完結するところまで行くのか。いろいろな形の分権のシステムがあると思うのですけれども、そこも含めて中央と地方の政府の役割分担をどうするのかというのが、これからの国家像の1つの大きな問題ではないかという気がします。

〔 B委員 〕 私も前回欠席をしましたので、今回初めてなのですけれども、2月末までに、何か意見があれば寄せてくださいという宿題をいただいておりまして、それで私どもの会の中でも話をしたのですけれども、今おっしゃられたようなところに、みんなの意見がかなり集中しまして、特に今回、都知事のああいった選挙のごたごたというのもあったかと思うのですけれども、政治とか政策のあり方、そういったところに国民がどれだけの情報を得て、どういうふうに関与していくのか、それから投票率も低いというようなあたりをぜひ取り上げるべきではないかというので、項目の中に上がっていなかったので、みんなのところから、一番最初のところの「世界における我が国の」……というあたりで、そういう意見がどんどんと出てきまして、私としては、ぜひ入れていただきたいと思います。

 それから、1回目を欠席していますので、議論として出たのかどうかわからないですけれども、今、議事録などを拝見しますと、魏志倭人伝の話なども出ていて、例えば、明治時代の宰相などというのは、あるべき国家像を描いて、あのときスタートしたのかとか、第二次大戦後はどうだったのだろうかとか、それから、各国もそういう将来像を描いて基本計画を立ててやっているのだろうか。先ほどの冒頭の質問のところもありましたけれども、そういう国家像を描いている10年計画という形を本当に、今、日本がやろうとしているのかどうかというところが、時代的な比較、それから世界的な比較でみてどうなのかというのが、これはお詳しい方があったら少し聞かせていただけたらという気がいたします。

  もう一つ、これは感想ですけれども、私の友達がスウェーデンに長年住んでいて、この間、15年ぶりぐらいで日本に戻って来てすごく驚いていたのは、街を歩いていても、魅力的な中年の人がいなくなったということと、それから、若い人たちがものすごく覇気がない。街の中を歩いていても元気がない、というのがすごく印象的だという話をしておりました。「あるべき姿における我が国の国家像」ではないのかもしれませんけれども、これからの日本の将来というのを考えるという意味では、今大変貴重なスタートラインにあるのかなという気がいたします。

 感想も含めて、以上です。

〔 C委員 〕 前回は欠席いたしまして大変失礼いたしました。

 部会長が出されたというこの3点の問題点は、私もそのとおりだと思います。それで、「あるべき姿」を7項目にわたって考えるということでありますけれども、第1点の、世界における我が国の位置づけについては、我が国が今や世界秩序の形成に否応なく関わる、それほどの大国になってしまったということでありますので、これは考えざるを得ないということではないでしょうか。その場合は、尊敬されるというか、好感を持たれるような国をつくるという、そういう新しい国家像あるいは国民像を提示する必要があると思います。

 したがって、それはどうしてこういうふうに大国というか、リーダーシップないし責任を取るべき国になったのかといいますと、それは第2の、自由と社会秩序に関わることで、旧来の社会秩序といいましょうか、近世以来の社会秩序を徐々に欧米型に変えていくという、それは自由がいいという価値と認められることによって追求されてきたと思いますけれども、今度はその自由が行き過ぎて、いかに自己規律を作り上げるか、そういう課題に今直面しているのだと思います。

 その結果、作り上げられてきたのが、我が国のいわゆるフルセット型――ここでは「ワンセット主義」と書かれていますけれども――の経済システムであった。要するに、欧米が持っているほどの技術、これは当時は軍事システムも入っていたわけですけれども、経済軍事技術を我が国で全部自給してみせるというところがあったかと思います。もちろん、それは国内で自給自足するのではなくて、核の部分を国内で全部賄うという、そういうシステムを取りましたが、その結果、アメリカにおいて今、我が国が劣るのは航空産業と一部情報産業となりまして、他の産業技術の分野において、匹敵するないし、それを凌駕するまでになった。したがって、今度はこのワンセット主義型ではいかないということですので、どうするかということだと思います。

 それは、5の「経済成長について」、それ自体を目的にすることができなかったので、経済成長は何のためであったのか、あるいは経済成長は何のためであるかという、当然の疑問が出てくると思いますけれども、経済成長それ自体が自己目的ではないという共通理解ができているのではないでしょうか。これは単に我が国だけてはなくて、国連のデクエヤルさんの10年がかりで考えられた、経済発展ないし経済開発というのは何のためかというのが、エコノミック・デベロップメントはカルチュラル・デベロップメントのためにあるという。そのカルチャーというのは、国連を作り上げている国民国家、ないし民族国家の基礎である。その民族国家における民族というものは、文化を共有している共同体というふうに考えられていて、その文化というのは暮らしの立て方である。それぞれの国々における風土に応じた暮らしの立て方である。それを大切にしなければいけない。それが経済成長の目的であるというふうに考えられているわけで、ある意味でこれはグローバルスタンダードになる。つまり、グローバルに経済活動が進むことによって、かえってそれぞれが固有の文化を大切にするという意識が出てきたということかと思います。

 その中でかえって、4番目の日本の固有の良さについて、我々はもう一度見直す必要があるだろうということだと思うのですが、その固有の良さは、もちろん魏志倭人伝にまでさかのぼることができるかもしれませんが、これはあまりにも遠くさかのぼり過ぎで、我が国の勃興における日本の世界に占める位置の中で、日本の固有の良さを省みますと、今、B委員が言われましたごとく、明治維新ぐらいから見てみるべきで、明治維新期に日本がどのように登場したかというと、もちろん日本人自身は富国強兵を目指した。富国強兵は、ヨーロッパの国のあり方だというふうに、日本は向こうの国をそう見たわけですけれども、ヨーロッパないし欧米諸国は自らを富国強兵だとは自己認識していなかったわけです。富国強兵のもともとの原義を探そうと思ってもありません。これは日本人がヨーロッパをそういうふうにとらえた、そのときの言葉でありますので。

 では、向こうではどう見ていたかというと、みずからを文明というふうに見ていたわけです。その見方を日本に応用したのが福沢諭吉さんで、自ら、まだ文明に達していないから半開だというふうに言われたわけです。

 ともあれ、ヨーロッパ人自身がでは日本をどう見ていたかというと、最近いろいろと訳されていますように、美しく、人々が親和力に富んで、文字どおり文明化された国、もう一つの文明として見ていた。その文明の姿というのは、恐らく、1つの言葉でいうと「美しい文明」。ヨーロッパが「力ある文明」に対して、こちらは「美しい文明」と見ていたのではないかというふうな気がいたします。

 したがって、全体の基準というのが「善」とか「真」とかというよりも、自然と調和した美しい生活景観、美しい自然景観というようなものが比較的この国の世界に占める価値基準になるのではないかという気がいたします。

 さて、個人がどこに帰属していくかという第6点でありますけれども、これが一番重要で、これは誰もが皆家族に帰属する。その次は、学校とか、企業とか、地域社会とか、国家とか、世界とかというふうに、それぞれ皆帰属している意識を持っているわけですけれども、韓国や中国と比較した場合に典型的な日本の特徴は、日本では国家に帰属しているとか、あるいは世界に帰属しているという青年が極めて少ないことであります。これを複数回答で聞いてみました場合に、韓国や中国、ソウル並びに北京の20代前後の青年たちの帰属感において、国家に帰属していると考える人は7割5分ぐらいいるわけです。世界に帰属しているというのは5割ぐらいいるわけです。日本の場合には、国家に帰属しているというのは2割5分ぐらい、世界に帰属していると考えているのは10%を下回るというような惨憺たる状態であります。今、自分たちは何を一番大事にするかというと、お金と答えている青年が一番多いわけであります。こういうふうなアイデンティティにおける自己中心主義的なものは、他国と比べて問題であるので、これはなぜこうなったのかということを追及しない限り、簡単に帰属先について目標設定することはできないと思います。

  しかし、いずれにしましても、日本のこれまでの単位におきまして、今ご説明がございましたように、企業、家族、地域、恐らく3つであろうかと思いますけれども、生産単位としての企業、ないし供給単位としての企業、それから消費単位としてのハウスホールドという見方で二分法でしてきたわけですけれども、企業も今ゼロエミッションということで、自らも消費するべき主体、また地域に帰属するべき主体というふうに位置づけがなされており、また家族の方においても、インターネットなどの普及によって在宅勤務が可能になりまして、生産ないし供給単位――財・サービスの供給単位――という動き方が起こっておりますので、企業とハウスホールドという2つの単位、これか今、両者の境界がかなりブラァになってきているというところから、それをまとめ上げていくのは、生活単位ということで地域であろうと思います。ですから、地域というものが、恐らく、企業や家族に加えて、新しき単位として出てきたものであろう。その地域ということを考える場合には、当然、中央と地方との関係ということになりますから、国家から地方へ、あるいは政府から民間へ、そういう流れの中で考えるべきで、それを促進するような国づくりをしていかねばならない。

 それは、今、大方の理解で、国土審議会などで多自然居住地域をつくろうとか、国土軸も多軸型として構想しよう、多軸型も工業地帯と農村地帯というのではなくて、地域に応じて北東軸とか、日本海軸とか、黒潮に洗われる太平洋新国土軸と、とにかく大まかに分かって、西日本国土軸と称される旧来の第一国土軸を相対化するというところにあらわれていますように、地域の多様性を生かしていく方向性を探るというところにおいて、基本的な方向性は出ているだろうということで、地域のアイデンティティと個人、その中で企業と家族を考えるという方向性が出てきているのではないかというふうに思います。

〔 B委員 〕 簡単なことでちょっと付け加えさせていただきたいのですけれども、私、消費者団体ということでここの席に連なっているのですけれども、消費という言葉が全然出てこなくて、「あるべき姿」などを考えるときに、消費のようなのは結果だからとしてタームとしては出てこないのかもしれないですけれども、少なくとも、消費者の質の変化ということは重要なことではないかと考えておりまして、今、ずいぶんみんなが物を買わない、これか今1つ不況の原因だと言われるのですけれども、例え物を買うようになったにしても、その質はかなり変化してきているのではないかと思います。

 例えば、今のガーデニングのブーム、それからもう一つ、横浜フリューゲルスがああいう形になると、みんなで支えるみたいなところには、みんなの力とかお金とかいうのが出ます。だから、みんなの消費の仕方とか、お金の使い方というのは変わってくるような気がしまして、多分、それはこの経済成長あたりとも関わってくるようなことになるかと思いますので、ぜひ付け加えていただきたいと思います。

 それから、出てきていないのですけれども、今、私たちの生活の中で、情報への接し方ということもかなり大きくて、若い人などを見ていると、自分の好きな情報にしか接していないですね。それは選択をして、選べるほどいろいろな情報が出ているということになるかと思いますけれども、情報の手段――例えば、携帯電話ですとかいろいろありますけれども――と情報の内容的なもので大きな位置を今、生活文化ということで考えれば占めているのではないかというふうに思いますので、これも付け加えていただけたらと思います。

〔 D委員 〕 この間は欠席しましたので、少しだけ申し上げます。

 今日の皆さんのお話しになっていることを聞いておりますと、大変に問題が大きいのです。こういう大きいことを話し合いということ自体が大変貴重なことですが、ところが、これだけの偉い人たちが、私は偉くはありませんが、時間を使って話し合っている以上、何らかのアプローチというものがなければ、単に一般論をたたかわせるだけでは、やや虚しいような気がしております。

 ですから、どういうことを言っているかというと、こういう一般論をベースにしながら何らかの具体的な行動が出てくればいいと思います。ここは経済企画庁ということで、私は、経済的な理念なり制度なりというものに結びつけるような方向がいいではないかと。

 それに関してちょっと言いますと、例えば、アイデンティティの問題というのが今の議論の中にも出てきたと思います。そして、家族という問題が出てきている。その問題に関して言いますと、例えば、女性の職場進出という問題と実は非常に深く関わっているわけです。ところが、それに関して、少し以前から私は疑問に思っていることがありまして、既に一部では言われているのですが、女性の家事労働です。家で主婦の人が働いている労働というのはどういうふうに、例えば、GDPというようなものに反映されるのかとか、今の税法とかだと、家事をやっていても、それは収入はゼロというふうに評価されるわけです。だから、お金を全然儲けていないのだというふうなことになってしまうわけです。それに関してはいろいろな批判が既に出ているということと、私も仄聞しております。女性の家事労働というものを一定の労働というふうにみなして、それに対して対価をある意味で家計から払っているとか、そういうような経済システムなり何なりを作る。そうすると、そこで女性が外に出て働かなくても、一定の経済活動をやっているというような位置づけも出てくるわけです。

 今、例えば女性問題というのは非常に大きいのですが、ある人の意見によれば、そういう女性が進出することによって、例えば子供がほっとかれて、非常に虚しい状況に陥っているというような意見もあるわけです、それに対する反論もあるのですけれども。私は、そこは選択肢というものを設けて、いわゆる職場に出て仕事をする女性というものの労働も、もちろん評価すべきですが、それだけではなくて、家で仕事をしている人たちの労働も何らかの形で社会の経済指標という中に組み込んでいくことによって、子供の教育というふうなことに関して、例えば、女性が家でどういうふうに仕事をしていくかということについての一種の経済的な意味というものを与えるということも大事ではないか。これは、私のたった1つのことであります。

 その他、子供の問題に関しては、実は、子供のアイデンティティなんていうものは、教育のシステムというものと非常に深く関わっているわけです。だけど、そういう問題をここであまり話し合っても、私は意味がないと思うのです、はっきり言います。それは文部省だとかいうところがやっているわけです。意味がないと言っては何だけれども、少なくとも、何らかの経済的な問題に収斂させるような形で議論を進めていくのが大変いいのではないか。

 今、私が言いました女性の問題は、私が別に専門的にやっているわけでも何でもございません。単なる思いつきでありますが、そんなふうに議論を進めていくのが建設的ではないか、それだけであります。

〔 部会長 〕 ほかに何かご意見ございますでしょうか。

〔 E委員 〕 先ほど、C委員がお話になった、経済発展の後の文化がどうしていくかということ、文化のためにというもの、日本的なるものというのはあるのですけれども、もう一つは、今も何となく我々にある虚しさみたいなものは、経済というのは一過性で終わってしまう。後世に残るものがない。もっと言えば、積み重なる文化の形式になっていないというのが、やはり、1つの問題だろうと思うのです。すべてが一過性で、創造と破壊で終わってしまって、10年たっても、20年たっても、後世に残るものをつくり出す構造になっていないというのが、1つ問題かなと思いました。

 もう一つは、尊敬される国、リーダーシップとあるわけですが、そういった中でどういう分野で世界に尊敬される際立つものを持つのかという方向性は、国としては必要だろうと思うのです。そうでないと、国の資源をどう配分するかという計画は、それに基づいてされるわけですから。会社においても、ディレクションをするということは、経営にとっても最も重要な行動です。特に、私は個人的には、組織というのは志とか目的を持った集団だと思いますから、それをどのような方向にするかということは国の責任がある。ただ、それを完全にコントロールするのではなくて、まさに個人の自主性とか自立という中で、それをどう構築化していくかと、そうすることによって自浄作用というのが出てくるという形ではないかと私は思っているのです。

 あと、先ほどの資料6のご説明について、1つは、①の企業との関わりの中で、我が国の場合は、ポスト会社人間とは言っても、会社人間であることはベースなわけですから、否定はできない。ただ、敗者復活といいましょうか、例えば、日本のアントレプレナーが育たないというのは、ベンチャー・キャピタルが発展していませんから、銀行からお金を借りる場合はどうしても個人保証になってしまう。そんなことをして、思い切った仕事ができるわけがない。ちなみに、私は、我が社の社長になったときに、銀行に一番最初に言ったのは、個人保証を全部はずしたわけです。そこからやりますと、何をやっても思いっきり仕事ができる。そこの制度をもっともっとしないと、今のままでどんなにやっても、ベンチャー・キャピタルも未熟だし、銀行も個人保証を取ることを変えないと、新しい仕事が出てくるという構造にはなれないと思いました。

 家族との関わりは、後で申し上げます。

 3番目のNPOとボランティアとの関わりというのは、最後に書いています、生きがいを人々に与える雇用機会の創出、前回に申し上げた、成熟社会における労働対価というのは、経済中心の構造社会の労働対価と多少違うのではないか。そこをもう少し理論的に解明する。要するに、報酬と、生きがいとか、手応えというのが労働対価の合計になる、そういうところが私はあるのだと思います。ですから、ボランティアがもう一つ根づかないというのは、それは完全な奉仕で終わってしまう。そこにある種の報酬みたいなものを導入することによって、継続性とか安定性というものがより精度が高くなるのではないかと思いました。

 次の(2)の①の年金制度と雇用システムのところ、4行目で、企業年金、私的年金を公的年金とどう組み合わせるかということ。どう組み合わせるかというのは、多分、ほっといても組み合わせるものが出てくるので、その組み合わせる仕方が本当は問題で、その接続性、整合性をよくするための方策としてどういうものがいいか。これは前から言っている、バウチャーとか、利用券とか、そういうものを制度として組み合わせないと、接合性がよくない。それを考えることが大事だと思うのです。さらに、組み合わせることによって、選択の自由をより保証していくということができるだろうと思うのです。

 ですから、国のやることというのは、要するにベースの部分だ、基礎の部分だという認識を、もっともっと国民にもアッピールしていかなければだめでしょうし、過剰な期待を与える必要も私はないだろうと思うのです。その辺は、今の代議士の先生中心になると、過剰な期待を与えざるを得ない。そこを、大変難しいでしょうけれども、今の民主主義というか、選挙といいますか、選ぶ制度となると、どうしても金がかかる制度になる。そこをどうにかしないと、私は、多少問題があるかなと思ったのです。

 それから、②の最後にある、効率的な医療・介護サービスを提供するために必要な施策は何か。これは、私は、多様な主体の参入というところが1番だろうと思います。現実的には、今の社会福祉事業の中でも、入所事業というのは民間はだめだ。今、社会福祉の構造改革をやっているけれども、中間まとめの段階では非常にいいことを書いたのですけれども、しかし、現実的には、施行の段階になると、既得権勢力、既存勢力が大変なロビー活動をして、これが主になって行きつつあるという状況を非常に感じるわけです。だから、ここの部分に関しても非常に問題だと思います。総論はいいけれども、各論のやつを仕込む段階で全く骨抜きになってしまう。例えば、保育などでもそうです。民間は参入はしてもいいけれども、それはあなたたち自由でやりなさい、補助金も一切出さない。そういう全く違う土俵でやってもいいけれども、違う土俵でやるのだとなると、そこに書いてある「新しい活力を民間企業に、あるいは国民に」といったことと、現実は遊離をしていっている。そういうところからもきちんと既得権益に相当強力な力で、これははっきり言えば総理のリーダーシップでそれをやっていくという方策をとっていかないと、総論はいいけれども、結局、各論倒れ。

 今、いろいろな会が進んでいるのは、今我が国もリストラだと思うのです。リストラだからこそ、通常のやり方でなくて、多少強引でもリーダーシップをもってやっていかないと。会社のリストラでも、社員のことばかり聞いていたらリストラなんてできるわけがない。本当に体を張ってリーダーシップを発揮できるかどうかというのが問われている。その覚悟がなければ、多分、無理だろうと思います。

〔 部会長 〕 どうもありがとうございました。まだいろいろご意見があるかと思いますけれども、冒頭に申し上げましたように、本日は後半部分に、委員の先生からの問題提起をいただいて、また議論する時間を取らせていただきたいと思いますので、一応、前半部分はここで終了させていただきます。今いただきました議論も踏まえることとしつつ、全体的には事務局から説明がありました資料にある形に沿って、本部会の検討を進めていくことにしたいと思います。

 次に、本日は、「人々を結びつける新たな機能」についてご議論いただきたいと思います。これにつきましては、冒頭申し上げましたように2名の委員に意見発表をお願いしております。お2人の委員からのご発表をいただいた上で、それを受けまして議論を進めてまいりいたと思います。

 それでは最初に、F委員のほうから意見発表をお願いいたします。なお、大体15分程度を目途にお願いいたします。

〔 F委員 〕 「人の育成(教育)、あるいは人々を結びつける新たな機能」ということでお話をさせていただきます。

 今、いろいろな方からご意見が出ましたけれども、経済というのは、水準で語るのか、変化率で語るのかといろいろ問題はありますけれども、変化率では非常に問題があって、失業率なども、アメリカ的に計算すると8%なんていう危機的な状況にあるわけですけれども、水準的には、世界1位、2位というところですので、私は、むしろ、そのほかのところに問題があるのかなというふうに思っております。

 それは、例えば、マザーテレサが、亡くなりましたけれども、日本を訪問したときに、日本は貧しい国だという指摘されたわけです。これは、ある意味では日本の今を看破した発言だというふうに思っております。

 社会面を賑わしております学級崩壊でございますとか、援助交際――つまり、迷惑をかけないから、体を売って何が悪いとか、最近のベストセラーの柳美里さんの「ゴールドラッシュ」――人を殺して何が悪い――、というような一種の価値基準の崩壊という現象が出てきているわけでございます。金と地位を争うことに比重が置かれてきた1つの現象というものをこういうのがあらわしているのではないかと思っております。

 ですから、こういう人間になりなさいということは、先ほどどなたかからご指摘がございましたけれども、そういうことを申すことは、多分、できないと思います。中教審はそれをやろうとして、あまり評判がないわけです。

 1つのシステムと環境を整えるということが必要かと思います。

 問題への対処でございますけれども、特に教育関係への対処につきましては、最近、経済団体などから、学舎融合説とか、文部省の審議会などでもいろいろな提言が行われております。

 文部省の審議会で行われました改革を簡単に申し上げますと、要するに、学力優先でなくて生きる力を、と。問題解決能力をつけろということで、教育過程を精選いたしまして、その代わりに、総合学習とか、体験学習の比重を増やそうということです。

  2002年に週5日体制に入るわけです。したがって、土日の受皿をどこに求めるのか。これは家庭と地域社会へという構図になります。今行われております教育課程の中にありますいろいろな諸活動、こういうものもなくなるということでございます。ですから、サイは家庭と、地域社会に投げられているというわけでございます。

 家族に対しましては、心の教育とかいうことで、躾けへの提言などがなされたり、金をつかわずに心を使えと提言したり、家庭にお父さんの出番をというふうに言ったりしております。したがって、地域でも、川崎などでも「おやじの会」というのができたりして、それなりの活動が、こういう提言を受けて始まってはおります。

 それから、今、改革の中で一番の問題は、受験競争をどうするかということですが、これは、中教審に私が参加しまして2、3年になるのですけれども、ずっと解決不能な問題でございまして、これへの提言は、高校入試では中高一貫の公立学校をもっと増やすということ、それから、大学入試改革が当面の課題でございます。

 しかし、私がお付けしました資料の2枚目をご覧いただきますとわかるのですが、太い線の方は、教員の要求する資質でございます。点線は、学生の養われた資質でございます。これで見ておわかりのように、ギャップがあるわけです。一番左の自己表現力、真ん中ぐらいの論理的思考、文章表現力、読書力、持続力、判断力、発想力、この辺は非常にギャップがあるというふうな見方ができると思います。

 日本はもともと高等教育ではあまり優れたものは見られない。しかし、中等教育まで、普通の人の教育については、成功したというふうに言われているわけですけれども、高等教育に依然としてこれだけのギャップがあるということでわかるわけですが、中等教育までの基本的な学習能力というのが非常についていない。要するに、両方とも崩壊する危機にあるのではないかというふうに、人材養成的な側面を見ますと、こういう教育的な問題というのがクリアになってくるわけでございます。

 それはなぜかということですが、1つには、受験競争に追われて実際に、本当に必要な表現力とか、判断力とか、発想力が生まれないのではないかということ――大学に入ってから本当の競争をするべきではないかというような――、いろいろな提言がなされておりまして、例えば、外部の社会学者の複数の意見でございます。

 大学の定員制を外して、資格試験を導入する。それで、定員制を外して、出口を厳しく。キックアウトの提言というようなものがなされております。そうすれば、出るのが難しいわけですから、入口を広く開けても、自ずととどまるところにとどまるだろう、というような楽天的な予測でございますけれども。そして、得意分野で競争できる環境を整える、こういう提言で、私は、見るべきものがあると思いますけれども、なかなか現実にはどうなりますか、これはちょっとまだ議論の最中でございます。

 私は、私見ですけれども、小学生から中学の低学年ぐらいまでは、やはり、自分が能力的にどの位置にいるのかということをあまり知らない方が、のびのびできるのではないかと思っております。つまり、遊ぶときには遊び、そして、高等学校から大学にかけて本当に競争的に得意分野で勉強する、というのが一番望ましいと思います。

 アメリカでも、高等教育の大衆化時代の選抜というのはどういうものであるべきかという研究が進んでおりまして、どちらかといえば、適正論、動機づけ論というのが浮上してきていると思います。将来、なにがしかの職業からの貢献、社会的な役割を果たす場合に、動機づけがあまり日本の今の高等学校あたりからはできていないのではないか。職業教育というのが非常に大事ではないかと思います。

 京都府の京阪奈に、労働省と文部省主体で職業教育センターみたいのができると思いますけれども、適正化をどういうふうに見つけるかという作業が、私は必要ではないかと思います。

 それから、社会との接点を見つける体験学習というようなことも必要でございまして、これらは一部、地域社会が担うことができるであろうと思います。

 最近出しました中教審の地方教育行政のあり方について、1枚目のペーパーを見ていただきたいと思います。先ほど、地域社会への受皿というものが必要になってくるということを申しましたが、3の「答申の主な内容」、要するに教育行政も地方分権的にするのだということで、これは法改正を今国会で予定しております。・のところを見ていただきますと、このあたりは省令などの改正でできる予定でございますけれども、学校そのものがもっと個性的な経営をやったらどうかということです、校長の権限において。しかし、今のシステムの中で校長にどの程度の権限の幅があるのかどうか、まだちょっとわからないところもございますが、その方向で今考えられております。

 その校長の個性的な自主・自立の経営を誰がサポートするのか。当然、地域社会であろうということになりまして、ここに●を付けておきましたが、学校評議員制度の導入を考えております。これは、地域社会の中のPTAはともかくとしまして、親代表とか、地域社会のしかるべき識者に出てもらって、これは会を構成するかどうかも、その学校の自由ですけれども、いずれにしろ、評議員が校長を支えるというようなシステムでございます。 地域の人材を特別非常勤講師として登用するなどは、既に行われておりまして、地域コミュニティーの拠点としての学校、公民館などの活用の促進、これはうたわれております。

 実は、学校評議員制度というのは、ヨーロッパ各国で非常に活発に行われております。3ページをご覧いただきたい思います。私が詳しくリサーチいたしましたのはイギリスの場合でございますけれども、一番左の上の方に、「イギリスの学校理事会の構成」とあります。向こうは理事会制度でございます。非常にユニークなのは、10年前、サッチャーのときから大きく変わったわけですけれども、子供の人数によってストレートに予算を、人数かける1人当たりの教育費を学校に直接下ろすというシステムです。それで、地方の教育委員会の役割というのを非常に縮小してしまいまして、その下ろされた予算をどう使うのかということを決めるのが学校理事会の役割でございます。非常にラジカルな改革でございまして、初め校長からも、まだまだブーブー言っている人もいますけれども、おおむね非常によかった点は、地域社会の関心というのがストレートに学校に行ったということです。どちらかというと、今までは、教育は学校の専売特許ということで、あまり口出ししなかった。それが、独自にやってくれということだったのですけれども、要するに、考えざるを得ないわけです。予算配分まで決めるわけです。もちろん、地方教育当局指名というのは、教育の専門家などが入ります。ロンドン大学の教育学専門の人たちなども入っておりまして、教員の罷免権などがございます。システムが日本と大分違いますので、全部公務員の我が国のシステムとは大分違うわけですけれども、学校の先生だった人がいろいろな職業に就くとかいうようなシステムがありませんので、イギリスのようにはできませんけれども、おおむね、サッチャーのやりました改革は、現在のブレアの政権にも受け継がれまして、大変にブレアは教育に、特に演説するぐらい熱心にリーダーシップを発揮しておりまして、「誰でも優秀な先生のことは覚えている」というような大キャンペーンにブレア自身もテレビに出まして発言したり、いろいろ社会的に活躍している人が、「自分の好きだった、恩恵を受けた先生」というようなことでコメントしたりする大キャンペーンを行って、教員にいい人材が集まるような大運動を繰り広げております。

 非常に民間化という流れの中でイギリスの教育改革というのは行われているかと思いますが、日本は、なかなかここまでいかないのではないかと思いますが、非常に参考になる事例かと思っております。

 地域社会への参画でございますけれども、いろいろな場があるのですが、我が子の教育ぐらい父母の関心を呼ぶものはございません。したがって、学校参画をするということは、非常に地域社会への参画ということに対してモチベーションといいますか、動機づけが大人にもあるのではないかと思います。

 女性の職業も進みまして、最近では、世田谷でございますけれども、ベース・オブ・プレイングというBOPという制度ですが、授業が終わりましても6時ぐらいまでは、退職した校長さんとか、遊ぶ相手の大人の人を3人ぐらい配置しまして、それぞれ年間600万円の人件費がかかりますけれども、カバンを置いて、その学校の中で滞在して遊ぶことができる、勉強することができるというシステムを導入し始めた地域もございます。

 そのように、地域への参画の動きなどが出てきておりますけれども、日本の現在というのは、その次の資料をご覧いただきますと、これは世田谷区の中学生などのアンケートでございますが、住んでいるところに関心があるかといいますと、若いうちはわりとあるのですけれども、全体的に、受験のことがあるのかもしれませんが、3年ぐらいになりますと地域に対して関心がないという割合が多い。次の5ページのところでご覧いただきますと、親しい友人を得た機会というのが、地域社会で得たという例が、ほかの国と比べて低い。日本の場合はこれに書いてございませんけれども、調査しなかったのかもしれませんが、ほかに比べて少ないということでございます。

 その次の6ページをご覧いただきますと、都市高齢者の学歴別で地域の役員経験を見たものでございますけれども、上の黒い方が女性で、下の白い方が男性ですけれども、特徴的に言えますのは、学歴で見ますと、高等学校の経歴がある男性の参加率が低い。つまり、ホワイトカラー、サラリーマンの地域活動というのが、一般的に言って低い。初等教育を受けた、中等教育を受けた男性というのがわりあい参加しているということが言えます。ですから、何を言わんとするかは、大体お察しのとおりでございますが、高学歴の男性にももっとそういうところに出て行ってほしいということでございます。

 地域にいろいろな公的な施設がございますので、いろいろなところで出会いの場を作ったり、参画する場としての活用というのが必要ではないかと思います。

 その次に、1つ申し上げたいのは、若い人の能力でございますけれども、最初掲げておりましたが、自己表現力というのが非常に低いという人材養成的な問題でございます。地域のいろいろな施設、あるいは教育の中も、これをもう少し取り込まなければいけないのではないかと考えております。先ほど経済のサービス化というお話もございましたけれども、グローバル化とあわせまして、アート関連の人材養成というのは非常に日本では薄いということがございます。例えば、舞台芸術関係でも、音楽、ダンス、演劇など、その周辺の技術スタッフ、舞台機構、アートマネージメント、学芸員、この辺が非常に層が薄いです。グローバル化して、相変わらず顔の見えない日本人というふうに言われるわけですけれども、最近はEUでも、フランスだけではなくて、スイスなどと一緒に共同して舞台芸術を作るというような動きがございます。それから、アメリカとイギリスは、英語圏での舞台芸術の産業化ということに成功しておりまして、ニューヨークでの成功はその1つでございます。そういう点でも非常に大きな差がございます。

 音楽の方はある程度私立も、公立もいろいろ養成大学がございまして、音楽は非常に抽象的な物ですから、留学して人材養成を海外にしてもらうというチャンスも多いわけですが、特に演劇では非常に低くて、海外から日本のアートよ来いと言われても、なかなか出すべきものがないというようなことがございまして、これは今現在を見ますと、アジアにも負けそうでございます。アジアはアジアで非常に高度の交流を持っておりますので、日本がその中で抜け落ちてしまうということで、これは国際交流基金を舞台に今、ちょっとあせっていろいろ作業をしているところでございます。

 アートの面の人材養成というのは、いわゆる経済のための能力開発という感じでございますけれども、感性教育といいますか、精神的な養成にも非常に役立つ。こういうものを見て育って、いろいろな会議のときには、フランスなどもシラクは必ず、日本の文化について言及するというような場面がございますが、しかるべきリーダーシップのある人に、文化的な内容について突っ込まれると全く会話が成立しないということのないように、そういう人材教育も非常に大事だということを、経済審議会の中できちっと位置づけていただければと思っております。

 また、美術の分野でも、インテリアデザインとか、ユニバーサルデザインとか、いろいろデザイン関係のご要望がございますし、新しい職人像というものも大事だと思います。

 こういう新しい喜びを持ったかっこいい職業のイメージというものが非常に大事なので、何か働くにしても、お金をもらうからうれしいというよりは、その職業をやって、ある程度の精神的な充足を受けてうれしいというようなことが、成熟した社会の中では必要なことであろうと思います。そういう人たちがまた、お金と地位のためばかりではなくて、地域社会への社会貢献にも向かう人々であろうというふうに思います。

 最後に1つ申し上げておきますが、我が国の教育基本法は「能力」が目的ではございません。「人格形成」を目的としております。

以上でございます。

〔 部会長 〕 どうもありがとうございました。

 それでは、引き続き、E委員、同じように15分ぐらいで発表いただきます。

〔 E委員 〕 お手元のレジュメに従いまして、細かい内容はまた読んでいただければと思いますので……。

  私に与えられたテーマは、家庭、地域、学校、企業の連携の在り方、あるいは人材育成、教育のあり方ですけれども、まず、我が国の教育の特質と課題について最初に申し上げます。

  最初に書いていますのは、公教育の確立は、18~19世紀から近代国家形成のための制度的必須条件であった。

 我が国では、明治維新以来、国民教育は欧米へのキャッチアップのための強力な手段として、文部省がその総本山となった。その急速に普及したベースとして、江戸時代における寺子屋とか民間教育があったということだったと思います。

 文部省の教育テーマというのは、戦前は「富国強兵」、戦後は「経済成長」、そして今は「生きる力、個性化、多様化」であるけれども、基本的には東京中心の中央集権的な「上意下達」国家像は一貫して変わっていない。ただ、中央集権というのも、方法論としての中央集権で、その中身、コンテンツは、新しさ、進歩、成長のシンボルとしての東京ということだと私は思います。

 この東京中心の中央集権的な政策とは、教育ばかりでなく、我が国国家全体を貫くシステムであった。一方、地方では、そこに住む人々は、黙々とそれを受動的に実行するという根深い心理構造を作り上げてしまったのではないかと思います。

 この上意下達の構造というのが、人々の自立心がなかなか育っていない大きな集団を一斉に動かすというときには効率的だったけれども、様々なギャップを生んでいるのではないか。

 特に、戦後の文部省の教育改革は、お抱えの教育学者や官僚中心に、10年おきの改訂を行う。その改訂のための準備に約10年かけ、6・3・3制の中での完成までに約10年かかる。すなわち企画から完全実施までは20年ぐらいかかる。現在、話題の「総合的な学習」も20年ぐらい前のアメリカのコンプレヘンシブスクールがモデルということである。

  こういったものが重なって、日本の教育というのは絶えず理念と現実のギャップが生まれることになる。1つは、文化的ギャップであり、これは教える内容のギャップ、現実には役に立たないカリキュラム、単元が起こってくる。2つは、時間的なギャップがある。3つは、空間的ギャップ、これは全国一斉画一教育と多様化する地域社会や家庭の現実とのズレである。

 文部省が160万人といわれる教育関係の公務員の方々、それに準ずる方々、私学への補助金等の利益、利害集団の調整機能を負っていることも、文教政策と社会の要請、及び人々との生活のリアリティとの大きなズレを生じる要因になっている。

  よって2002年の新・教育課程の制度的テーマである「学校の役割」のスリム化、「学校、家庭、地域社会との連携」は、文部省のこうした様々なギャップの解消を目的とした最後の切札のようなものかもしれません。ただ、現在の家庭、地域社会に、教育力や連携できる力、それを支えるボランティア精神などの意識の基盤が形成されているかといえば、多少疑問である。

 そうしたこともあって、文部省はさらに家庭に対しても「心の教育」の推進のための「家庭教育手帳」のようなものを出そうしているけれども、上意下達構造がさらに地域や家庭に拡大したという解釈もできるかもしれない。

  こうした「上意下達的構造」というのは、決して、一概に否定するべきものではない。海外では、効率的な教育システムとしてむしろ評価する見方もあるし、欧米でも、サッチャーの教育改革もそうだったと思うし、クリントンの昨年の年頭教書などでも、教育改革は国の政策の一大スローガンになっている。

 問題は、教育の方針とか政策を誰が誰のためにどのようにつくるかということであって、国家的な教育政策と地域の教育政策との新しい組み直しということである。特に、地域の教育政策ということが、私は、リアリティを持つ教育の中では重要だと思う。

 我々一人ひとりが「よく生きる」とは何かを自ら考え行動するべきだが、しかし、それは文部省から示され続けてきた。

 そのために、教育というのは上から与えられるもので、上から下へ雨のように降ってくるものという構造に慣れ過ぎてしまった。

 国や団体が人々に示す「よく生きること」に自分を合わせるのではなくて、ひとりひとりが「よく生きる」ことを自ら考え、行為し、家庭や地域や様々なコミュニティーの中で学び合うことから再スタートしていくしかない。

 次に、子供の育成のための「家庭、地域社会、学校、企業等の連携のあり方」について。

 今の子供たちの抱えている問題は、学習意欲の低下である。学習意欲の低下、これは広い意味での生き抜く力の低下ではないかと思われる。

  私どもの研究所が5カ年ごとにずっと実施している学習基本調査というのがありますが、高校生のその調査においても、学習や勉強の悩みの第1というのは、1990年調査では「勉強のやり方がわからない」でしたけれども、96年の調査では「なぜ勉強しなければいけないのかわからない」が第1になり、3人に2人はそういう疑問を持っている。

 この「なぜ勉強するのかわからない」という悩みは学習への意欲の低下にも多く関係していると思う。自発的に勉強したいという気持ちに基本的になっていないということだと思う。

 このような子供たちの学習に対する懐疑及び意欲の低下の原因としては、いろいろあるけれども、このようなことではないか。

 1つは、時代の空気(ポストモダン的な雰囲気、及び学歴神話の崩壊)。成熟社会となり、右肩上がりの時代の終焉で、今の楽しみを我慢してまでも勉学に励む意味を見出せない。自分の親を見てもわかるように、どうせ先は見えている。勉強をやってもやらなくても結果は同じ、というムードが蔓延している。

 2つは、少子化の影響。2008年には、大学全入時代。ブランド大学の競争は続くけれども、全体の2割程度で、学歴の魅力も相対的に低下し、あくせく勉強しなくても大学には行けるだろう。

 3つは、学校や教科そのものの意味、魅力の低下。それをやっても将来役に立つと思われないリアリティのない教科。自分や現実の社会との関連が見い出せない教科。振り落とすためやたらと難しい入試問題と、そのための無意味に使われる時間。「なんで因数分解をやるの」と聞いてもまともに先生は答えてくれない。

 少し前は、そうは言っても、「一生懸命頑張ればいい大学へ行きますよ」、いい大学に入れば幸せの特急券が手に入るわけですから、そういう脅しが効いた。年功序列と、退職金がもらえる、そこそこ仕事をやっていればどうにかなる。それが脅しが効かなくなった。以前は「そんなことを考えないで、今勉強しないとあとで困るよ」でよかったけれども、今では、「あとで困る」の実感がわかない。イザとなったら、過保護でありますから、親が保護してくれるという意識がある。

 こうした勉強に対する懐疑や意欲の低下は、今日、学校そのものの存在を問う問題になって、「学級崩壊」とか「授業崩壊」というようなことが言われているのだろうと私は思います。

 このことは、子供たちが、成長して大人になっても、人生の目的とか、目標がいつまでも持てないため定職につかず、フリーター的生活を繰り返すモラトリアム人間を更に増加させることになる。そして全体として若者の覇気と気概のない社会になってしまう。堺屋太一氏はこれを「若者たちの液状化現象」と読んでいます。

 例えば、余談ですけれども、受験という問題は、皆さんは一概に否定するのですが、私は、必ずしもそう思わないのです。多彩な能力というものを認める1つの手段であるし、最も公平なものであるけれども、そういうものに関して十分に文部省も検討なされないで、通達1つでそういったものを否定するということは問題だと思います。高校生が自分の意思で自分の進路を決める、そういうプロセスが受験だと思うのです。多くの方々が、試験を受験だと思い込んでいらっしゃる。例えば、高等学校の1年生からいろいろな情報を見て、いろいろな話し合いをして、調査をして、それで情報を集めて先輩の意見を聞いて。自分の意思決定をする最初のプロセスだという認識が、この受験という問題にない、私たちはそのことをずっと言っているのです。受験というものを表面的にみて、それを臆面もなくカットする、そういう文部省の姿勢というのは全く信じられない。そこにもっともっと意味を持たせるような考え方が、文部省には感じられません。

 この問題は「学習における意欲」という狭い問題に限らず、日本の学校や学習を支えてきたエートス(精神のあり方)であった、「勉学全体に対する意欲と熱意」も喪失させる。その結果、国民の文化のベースとなってきた、読み書き計算という基礎・基本の学習さえも崩れかねない問題を含んでいる。

 しかし、だからといって、これまでの学歴主義の再興や「勉強しないといい大学、会社に入れませんよ」という脅しはもはや通用しない。もっと根本的な対応、子供たちの学習環境を支えてきた、これまでの日本の教育の仕組みそのものの転換が必要となっている。

 もう一点は、人材論的教育からの脱皮をすべきではないかと思う。

 教育といえば、日本の将来に必要な人材、一昔前であれば工業化社会を支えるための人材、文部省は国の重要な機関でありますから、基本的にはそういう思想が底辺にあったと私は思います。将来の国の経済成長を支えるための教育の考え方があった。しかし、それは「子供の学習に対する意欲や生きる力を育む」こととは別のものとして考えていくべきでないかと思う。そこの分離ができていない。

 そうした外的に与えられたテーマに自分を合わせるのではなく、人それぞれの「よく生きる」という一人ひとりの個別のテーマに対して、その手だてやきっかけ、情報を支援するものとして教育を捉え直すべきである。

 「よく生きる意欲」というのは本来、人には備わっている(プログラムされている)、これは東大名誉教授、前の国立小児科病院の院長であった小林登先生も、「育つ力、育てる力」でおっしゃっています。そういうプログラムが、人々が様々な形態で形成する「場」の中で、人や環境との相互作用によってスイッチがONし、さらに強化されていく、そういう「場」という概念が必要だと思う。

 そのためには、一人ひとりが自分にとって「よく生きる」とは何かを気づき、意欲を出すためには、人々が交流する「場」が必要である。

 そしてその「場」とは、昔の「ムラ社会」のように閉じられているものではなく、違った他者や個性が集まり、共通の夢や目的のために交流し合う「場」でなければならない。

 そして、子供たちの共通の夢や課題、目的とは何か。21世紀の日本や世界の課題は、環境問題や情報化の問題、少子高齢化社会の問題、いろいろな問題があると思う。そういう問題を上意下達式に教え込んでも同じことの繰り返しになってしまう。

 だからといって、今文部省がやっているような画一から多様という考え方は、私は、必ずしも正しくないと思うのです。新しい時代に貢献するための新たな基礎教育というものがもっともっと論じられなければならないだろうと思う。例えば、今申し上げたような環境問題、情報化の問題、少子高齢化の問題、食料問題、いろいろな問題があると思います。そういった問題について、もっともっときちんと、同時にコンピュータとか語学のような新しいコミュニケーションリテラシーというものも、これからの時代の基礎教育として、教え込んだ上での、学んだ上での基礎教育という考え方が必要だと思いますけれども、いきなり、私は、画一から多様という流れに行き過ぎていると危惧しているのです。

 これからの子供たちの学びは、先ほどもお話があった家族、地域の問題、仲間づくりという、自分とは切り離せないリアリティのある問題から、体験的に獲得し、スタートしていく方がいいのではないか。

 ここに子供とそれを取り巻く「家庭、地域社会、学校、企業の連携とネットワーク」の必然性というのがあるのだろうと思う。だからといって、これらを全部文部省がやるのではなくて、こういったセクターがそれぞれ子供に対して何らかの働きかけをしていく、民間企業はもちろん。文部省を批判、否定するのではなくて、そういう問題認識の中で、我々としても、新しい民間ビジネスのチャンスがあるということだと私は積極的にとらえていきたいと思う。

 6ページの最後に、連携は何ができるかということをいろいろ書いています。

 7ページに、これからの学校とは、子供たちと大人たちが交流し、互いに学び合う「場」として提供していくということ。

 いくつかの事例を書いています。兵庫県の事例、多摩地区の事例、八千代市の事例がありますから、またご覧ください。

 8ページにいきますと、企業の取り組みにおいても、地域や、家庭の教育に、社員が参加しやすくする、企業の資源をもっと提供する、企業の技術、ノウハウを体験的にわかりやすく教える。例えば企業で活用する能力開発法やKJ法とか、小、中学生にはわかりやすい、トランプのゲームみたいですから。そういう問題解決の手法、積極的に関われる手法というもの、方法論をもっと教えていいと思う。メーカーの最新技術の原理を教える。

 企業から新しい価値、目標、夢の発信。私は、昔そうでした。車に対して夢があった、飛行機に対して夢があった。最近は無公害車とかソーラーカーなど子供たちに夢を与えるものとしてもっと積極的にオープンにしていったらいいと思う。

 もう一点は、連携そのものをビジネスとする。ボランティアといっても、恒常的に組織的にやろうとすれば、ノウハウも必要、いろいろなコストも生じる。そこで発生する様々な資本を、多様なセクターがうまくマネージメントすることによって、新しいビジネスチャンスも出てくるのではないか。

 このようなことを思いますが、あとはお目を通していただければと思います。

〔 部会長 〕 どうもありがとうございました。

 それでは、今のF委員、E委員からのご発表内容を踏まえまして、新しい社会を担う人材を育成するため、「家庭」「地域社会」「学校」「企業」といった各経済主体がどのようなネットワークを築いていく必要があるかということについて、ご議論いただきたいと思います。

〔 A委員 〕 私も大学で教えていますので、学生に関しては関心があるのですけれども、大学レベルでも、基礎的な学力部分に関しては、昔に比べるとかなり落ちている学生が多いという感じはします。

 それの大きな問題は、2次試験が非常に多様化しまして、面接、小論文だけで入ってくる学生が、どこの大学も増えましたので、少数の得意な科目だけをやっていれば入ってこれる。それがある意味では、大学に入ってからの学習なり研究で多少問題になっているような学生もいるということです。

 今日のお話を聞いて、多少感想をお話ししますと、特に義務教育に関して総合学習とか体験学習を導入するというのは非常にいいことだと思うのですが、問題は、先ほどお話も出たと思うのですけれども、そちらに重点が行き過ぎると、基本的な学力に関する教育がおろそかになっている感じがします。

 私の子供は小学校で、体験学習をかなり一生懸命やるクラスに入ったのですが、理科や社会にほとんど1年間が投入されまして、基本的な教科書を全然使わないでやってしまうような感じで、1年たっても、あまり基本的な概念が学校では教えてくれなかったという感じです。

 それで受験に関心のある人は、その後、塾に行って、夜の10時ごろになっても電車に小学生がうろうろしている、そういう状況が日本にあるわけです。

  それをどういう具合に考えるかということですけれども、1 つの考え方は、小学校とか中学校の義務的な教育でやる分野は、基礎的な学力に関しては学校できちんでやる。それを越えた部分に関しては、学校以外のところで、先ほどは企業とか地域とか、いろいろな話が出てきましたけれども、そこでやる部分を基本的に分けて、例えば、1つの案としては、1週間のうち、3日か4日ぐらいは学校で基本的な学力だけをやる、あとの2日ぐらいは学校を離れて、いろいろな形のネットワークの中で選択の余地を与えて、その中で、例えば小学校の先生も、2日ぐらいに関しては、そういうところにコミットすることによって初めて、給料なり業績が変わってくる。それに対して、小学生、中学生の方は、そういった形で学校の先生の新しいプロジェクトに入ってもいいし、あるいはもっと極端に言えば、塾の教育を受けてもそれなりの基準を満たすものに関しては単位に認定するとか、体験学習をしてもいい。

  あるいは別の見方をすれば、1年間のうち12カ月全体を小学校なり中学校の先生が雇用される。全体をカバーするというシステム自体があまりうまくいっていないと思うのです。例えば、夏休みを3カ月ぐらいとって、その期間に関しては学校を離れた形で、先生の方もいろいろなプロジェクトに関わることによって初めて、給料が出る。それに関しては、その所属の小学校とか中学校を離れて、企業とか、ボランティアとか、あるいは塾も含めて、いろいろな人たちの中で同じ形で競争して、その中で体験学習とかいろいろなプロジェクトがあれば、それに自由に教育を受ける方も参加する。それに関してはいろいろなオプションがあって、いろいろなこともできるけれども、そうではない、基本的なところに関しては、義務教育で教えていく。

 その2つが両方混在しているので、あるところで詰め込みの教育をやるところもあれば、あるところでは体験学習だけをやってごちゃごちゃしているというところがあるので、義務教育のところできちんとやるところに関しては、今よりは役割を押さえた形でちゃんとやる。それ以外のことに関しては、学校の枠を離れて、もう少し柔軟な雇用システムを含めたところで、やるという形に分けた方が、むしろいいのではないか。今の小学校、中学校にいろいろな体験学習とかを織り込む形でやろうとすると、どうもごちゃごちゃして、特に今の日本の雇用制度では柔軟な教育形態ができませんので、そのあたりはなかなか大変ではないかというのが率直な感じです。

〔 B委員 〕 私の家には中学校2年と小学校5年の男の子がいるので、ちょうど今お2人が話されたテーマにぴったりの年代のところにおります。

 それで、お2人の話されたことは、家の子も含めて、まわりの子供たちによく当てはまる部分が大変多いです。ただ、どういった道筋をつけていけばいいのかという点では、今本当に大変な時期で、文部省などでもいろいろな努力をされていて、私も母親としてはいろいろな意見があるのですけれども、それをここの場でどれだけ議論をしていくかと、限られた時間ですので、すべてについては言えないのですけれども。

 1つは、表現力がないというF委員からのご発言があって、これは将来社会に出て、大人になって社会の構成員になったときにも、やはり少し問題ではないかという感じがしております。小学生ぐらいまでは、社会科にしても、発表をグループでやってみたりと、ある程度表現力を出させる工夫というのがあるのですけれども、中学校になると、授業参観に行っても、一転して、自分を表現する場というのがほとんどないです。部活があるからということになるかもしれませんけれども、多様な才能ということになると、ほとんど授業と1つの部活に限られてしまって、そのあたりで、がたがたと落ちてしまうのではないかというふうな感じがしていて、ここはお話になった中でも大きい話かなと思います。

 それから、F委員がおっしゃられたことで、地域コミュニティーの話がありました。それは後半にも地域連携ということが話されましたけれども、私も、地元でいろいろな会に加わって、いろいろなことを地域でやろうとしているのですけれども、1つ加わっているのが、小学校2つと公立の中学校1つで、校長先生なども出ていらして、地元の母親が出てきて、そういうので年に3回ぐらい話をする場というのを設けているのです。そこの場には、子供たちが来て作文発表みたいなものをやったりとか、どなたかを呼んで来て講演を聞いて、みんなでディスカッションするのですけれども、そこでグループに分かれて話をすると、みんな我が子の話になっちゃうのです。講演を聞いて話をしましょうという言っていても、グループを組んで話をする段になると、ほとんど学校の情報とかがないものだから、家で見る我が子のことしかわからないという感じで、せっかく地域コミュニティーが作られていても、地域の中での子供だとか、学校の中での子供というのが見えなくて、そのあたりも、E委員の方から、学校を開かれた場にというご意見がありましたけれども、そういう意味ではまだまだ学校の透明化とか、それからイギリスの例がありましたけれども、父母の参加という点では不十分で、そのあたりをうまくやっていかないと、ここでのテーマである、地域の連携の中で今から大人も、子供たちも関わっていくところに結びついていかないのではないかという感じがいたします。

 それから、受験については、今度中学校3年と小学校6年になって、大変なところですけれども、基本的にはそれぞれ成長する過程での1つのチャレンジのようなところだと、私も思ってはいるのですけれども、それを取り巻く環境、そこ自体が問題で、社会の中の学歴偏重とか、これからは変わっていくと思いますけれども、そこの会社に入ればずっとそこにいるという部分をなくしていくとか、途中で、例えば30代になって新たに大学に入り直すとか、その辺の大人になってからの選択肢の流動化、そういうことを図っていくことでも、かなり15の春とか、18の春の部分の問題はそういった大人の社会の方の流動性を高めていくことで変わっていくのではないかというふうに思っております。

  母親の感覚も、受験はするにしても、多分、これからというのはいい会社・いい給料とかいうことではなくて、好きなこととか意味のあることに自分の力を注いでいくというふうな子育てをしようと、それは徐々に変わってきているように思いますので、少子化になる1つのメリットだと思いますけれども、ゆとりのある選択肢ができていくかなと思っております。

 個人的な感想は話せばキリがないほどありますので、これぐらいに。

〔 D委員 〕 教育制度の問題をここでどうして議論するのかちょっとよくわからない点もあるのですが、それは別として、私は、教育問題というのを話すときに、我々が問題を混乱してしまうのは、2つの点があると思うのです。

 教育というのは、1人の人間の能力を大きく育てていく。一種の教育理念、理想というのがあるわけです。こういう能力もつけたいという、そういういろいろなことがある。こういう公の場では、そちらが非常に強調される。しかし、もう一面で、教育というのは非常に冷たい面がありまして、それは選別機構だということです。要するに、選別していくのです。役に立つ人間と役に立たない人間を分けていくという面があるわけで、子供たちは、その面が、実は建前上その前者の方で言っているにもかかわらず、自分たちがやられているのは後者の方であるということを見抜いているわけです。それが非常に大きなポイントである。

 私、皆さんがいろいろおっしゃっていることは、本当に立派なことばかりで感心するのですが、そのあたりのことをきちっとわきまえた上で発言しないと、必ず迷走してしまう。

 特に、少し具体的に言いますと、余裕の教育、いろいろなことをやらせよう。しかし、実際に子供たちはといったら、受験で、夏休み3カ月は学校の勉強はないといったら、塾へ言って、両方勉強しなければいけない。それにまた地域でいろいろなボランティアもやらなければいけない。いろいろやらないとだめだ、内申書も。そういうふうにますます負荷がかかっているわけです。そういう状況を考えないといけないのではないか。

 以上です。

〔 G委員 〕 E委員のお話を聞きながら思いますのは、兵庫県は大変な問題、子供たちの須磨の事件があったので、トライアルウイークというのを私も関係してやりました。結果的にはよかったとは思うのですが、その一番よかったことが、地域の人たちの「自分たちも考えなければいけない」ということの始まりだったのではないかと思いました。

 もう一つ、子供たちの学習する目的、就職とかのときに、NPOへ就職するという選択肢がこれから増えていくであろう。それを言ってあげるということも必要かと思いました。

 そのNPOの就職先というのは、実はまだ少ないです。それが一番最後にE委員が書かれていました、連携そのものをビジネスとするというようなベンチャー・ビジネス的なもの、そういう仕事を作っていけば、またそこへ子供たちが就職していく。

 今までの企業に就職するためだったら、勉強したって仕方がないみたいな気持ちになっていると思うのです。新しい働き先を、自己実現できるようなNPOという就職先を、これから10年かけて、私はつくっていきたいと思ってNPOセンターを作ったのですが、そのあたりかなと。教育の先が何か見えないと学習していかないだろうなというふうに思いました。

  それと、先ほどの悩んでいるお母さんたちに対しても、じゃあどうしようかというような話し合いを持つような研修を行っていまして、子供の学校教育は文部省がやってくれるかもしれませんが、悩んでいるお母さんたちのための研修をするところがないので、それもNPOセンターでやっています。

  また、大学を卒業して就職したはいいですが、すぐに辞めていく人がいる。何でかなと思ったら、悩みの相談もよくくるのですが、若い人たちが人間関係を持てないのです。コミュニケーションの手段も、インターネット上で直接対面しないような対人関係だったら持てる、あるいは2人だけぐらいだったらできるけれども、3人目が入ると、3人の関係性が持てない若い人がいて、これもNPOセンターの方で研修という形で、人間関係講座とか、心理学とか、カウンセリングとか、そういう若い人を研修していかないと……。

 結局は地域をよくしようと思ったら、その人材育成ということからやっていかないと、今現実に、いくら地域と言っても、地域のその人たちが、しっかりしていない部分がありまして、そのあたりもやっていかないといけないと思っています。

〔 H委員 〕 教育は役に立つ人間をつくるためにあるという面が強いと思います。選別しなければならないです。しかし、現実の問題は、本当にそう問うている人が一番役に立っているか、企業社会でも一番上に出ている人が一番役に立っているか。そして、選別されて落ちてる人が本当に役に立っていないのかということだと思います。ですから、現実問題で、自己表現、あるいは自分の目標をセットする能力、そして自分でそれを一生懸命追いかける動機があることが非常に大事です。

 ですから、新規社員の面接で、なぜこの仕事をやりたいのかと誰でも聞きます。そして、マニュアルどおり、おもしろい、社会に貢献したい、そういう話が出てきます。しかし、本当に動機がある、激しい熱意のある答えがあれば、これは一番大事なポイントです。会社から見て、本当にこれをやりたい、これがずっとやりたかった、そういう人こそ使えると思います。

 その面で、D委員とE委員が言っていることは共通点があると思います。全く逆ではない。選別が大事です。しかし、本当にこれを今効率的にやっているかということは、私は疑問を持っています。

 ちょっと無関係な話ですけれども、教育と帰属性の話、地域との関わりとかです。単身赴任という現象があります。企業社会と地域社会、家族の間の関係のひずみを象徴することだと思います。ほかの国にはあまりない現象だと思います。その単身赴任問題は、具体的にそれを作る条件とかファクターがあれば、この部会で、それに対しての提案ができれば、それは非常にユースフルだと思っています。私はよくわからないのですが、これは教育の問題であるか、税制の問題であるか、1つのネックがあれば、それに対して提案ができればユースフルだと思っています。

〔 I委員 〕 先ほどのご意見を伺いまして、1、2感じましたことを申し上げたいと思います。

 1つは、学校教育の制度の問題でございますが、戦後50年、6・3・3制という、いわば画一的な教育制度が基礎学力を養成していこうと、これはある意味では1つは成功したと思うのですけれども、ある意味では、個性のある子供を養成できなかったという点があろうかと思います。

 最近は、中高一貫教育ということで、6・3・3というところをつなげてしまおうという向きもあります。あるいは、ある大学では、飛び級入学ということで、高等学校3年を終わらないうちに、大学受験してもいいよと。こういうふうに個性のある子供は速い機会に教育を受けられるようにするというものがだんだんと出てきているわけですが、こういう教育を授ける方のサイドから、もっと多様な機会を子供たちに与えるような、そういうことをこれから検討すべきではないだろうかという気がするわけでございます。

 先ほどお話しの社会人になってからの教育という問題も必要だと思います。あるいは、専門学校といいますか、私は料理人になろうというので料理の専門学校に行くと、そういうような普通の学校教育制度でないような教授制度というものが最近はかなり盛んだと聞いておりますが、そういう教育の供給といいますか、これからそういうものをなるべく多様化していく。それで子供たちに合うようなものが選択できるようにしていくということを、行政の立場から考えていくべきではないかという感じがするわけでございます。

 もう一つは、地域社会と子供との関係ですが、週5日制というものを考えてみますと、子供が学校から開放される時間がそれだけ長くなるわけですが、実際に、小学校の場合は知りませんが、最近よく問題になっています、中学生が犯罪に走るとか、いじめをするというようなことを聞いてみますと、中高生というものを地域社会にどういうふうに結びつけていくかということは非常に重要な問題ではないかと思うのですが、先ほど、F委員から、中高生に対する詳細なニーズの把握が不十分であるというお話がございましたが、確かにここのところ……。ちょうど一番難しい時代の子供ですからなかなかニーズを掴むのは難しいかもしれません。

 特に最近は家庭におきまして、個室化といいますか、子供が小さいときから個室に入ってしまっているということもありましょう。携帯電話が発達していて、子供が一体誰と交際しているか親は全然わからないというようなこともあるという話を聞きます。

 それから、ゲームが非常に盛んで、学校から帰ってくると自分の部屋へ入って、専らゲームで遊んでいる。ほとんど人と人との交流がないというようなことも聞いているわけでございます。

 こういう子供たちを地域社会に誘い出して、触れ合いの中に生きがいを見つけられるようにしてやるということは、なかなか大変な問題ではないかと思います。

 それには、1つは、魅力あるリーダーというものを地域社会にどういうふうに養成していくかということが大事で、行政の立場からいきますと、その魅力あるリーダーというものをこれからどう養成していくかということが大事な課題になってくるのではないかと考えます。

〔 J委員 〕 学校に行くのがもうちょっと楽しくてもいいだろうと思うのです。

 ということは、今、I委員の話がありましたが、消費者といいますか、子供と親も入るでしょう、その消費者の選択をもうちょっと機能させるような仕組みがいると思うのです。制度を改革するときに、上からの改革で、こういう制度がよかろうと上が決めて改革するというやり方と、需要サイドの選択を機能させての改革というのがあると思うのですが、教育の場合は、もう少し選べる――需要者の方が選ぶ――、そして選ばれないところは、教育機関であっても、もちろん大学もそうですが、市場から退出していくのだ、このことは押さえた方がいいと思うのです。

 医療と教育は似たところがありまして、どちらも非常に取返しのつかない大事なところだ。だから、雁字がらめの規制でサービスの質を確保してきた。だけれども、それがあまりに問題が大きくなっているという共通点があると思います。

 もちろん、ある程度サービスの質を管理するということは必要ですが、現段階では需要者の選択を機能させるということが必要かと思います。

 2点目として、どこに帰属するかとか、自分のアイデンティティとかということを感じるのは、異質なものに触れたときだと思うのです。そういう意味からいっても、今の小学校とか中学校は、外国人の先生が大量に増えていいと思うのです。3分の1ぐらいは外国人の先生でもいいと思います。これは学生にとっていいというだけではなくて、供給サイドに異質なものが入ってくる、外部の目が働くという意味でも必要ではないかと思います。今、大学レベルでは少しずつ増えてきておりますが、まだ雇用面で十分ではないようで、もっと初等教育レベルでも入っていいと思います。

 もう一点、先ほどからいろいろな問題点、なるほどそうだと思って聞いていたのですが、今の若い子は、働くといいますか、人生稼がなければいけないのだということを、あまりに考えずに高校3年まで来てしまうように思うのです。ずっと稼がないと生きていけないのだという基本がなくなると、相当退屈でしょうがないだろうと思います。何のために学ぶかというのは、そう簡単にわかる話ではないのだけれども、いずれ稼がなければいけないから、ある段階になったらしょうがないというところがあるのですけれども、労働ということをほとんど念頭に置かずに高校3年まで来てしまっています。だけど、今の中学生、高校生が社会に出るときは、私が出たときよりももっと厳しい状況に社会はなっている。働くということ、基本的に稼ぐということだけを取っても、もっと厳しい社会になっていると思うと、そのギャップは少しおそろしいなという感じがいたします。

 とすると、体験というのはもちろん初等教育でも必要ですが、高等教育の段階でも、早い段階で体験できるようにする。大学に1、2年行って、社会に出てからまた大学に戻る。あるいは中学校でドロップアウトしても、戻る高校はたくさんあるというような複線型といいますか、何度でも選択できる。早い段階で経験する、経験してまた戻れるという道筋を作ることが必要ではないかと思います。

〔 部会長 〕 ありがとうございました。まだいろいろとご意見もあろうかと思いますが、時間の関係もございますので、皆様方のご意見で言い足りない部分がございましたら、文書あるいはメール等で事務局の方にお伝えいただきたいと思います。

 今日は、前半は全体の議論について、後半はお2人の委員からお話を伺ったわけでございますが、前半のところで、冒頭にA委員からもお話がありましたように、私どもも、「あるべき」というものを国民生活とか、そういうようなものに当てはめることには強い違和感があるわけでございまして、むしろこれは、A委員も言われたように、個人がそれぞれ自分の好きなライフスタイルを自分の選択と自己責任において実現できるような環境を整備する。あるいは、それの阻害要因をどのように排除していくかということを考えることが大切だろうと思います。

 ただ、もう一つ大切なのは、現在の消費不況とかいうようなものの背景にも、平均的な生活像、あるいは平均的な将来像についての見通しの不透明さというものがあるかと思いますので、それは具体的に言うと、例えば社会保障制度であるとか、産業だとか、企業のあり方が、平均的にどういうふうに変わっていくのかというようなことについて、人々に一定のイメージを伝えていくということも大切ではないかと思っております。

 いずれにしても、こういう変化の大きい時代に教育も含めて、制度と国民の持っている期待の間のギャップというのは、A委員が言われたように非常に大きいと思いますので、その辺を少し具体的に検討していきたいと思います。

 最後にH委員が言われた、例えば単身赴任とかいうような問題を、少し絞って議論していくというものも1つの考え方ではないかと思います。

 教育に関しましては、私も専門ではありませんけれども、経済学的に言うと、教育というのは、それ自体が「勉強することがうれしい」という消費の側面と、「苦しいことを我慢すると後でいいことがある」という投資の側面と、両方あると思いますが、恐らく、投資の側面も「苦しいことを我慢すると後でいいことがある」という個人的な投資の側面と、「苦しいことでも我慢して勉強してもらわないと社会が困る」という公共財的な側面があると思います。一番最後の部分については、公的な介入をする理論的根拠というのがあるのでしょうけれども、消費の面とか、あるいは私的投資の面まで、どの程度公的な介入が必要なのかということについては、様々な議論がありうるかと思いますので、この点も含めてもう少し議論してまいりたいと思います。

 今日はお忙しいところをご参集いただきましてありがとうございました。

 それでは、次回の日程について事務局よりご説明いただきたいと思います。

〔 福島推進室長 〕 次回は3月19日金曜日午前10時から12時まで、場所は経済企画庁内の407会議室で行うことを予定しております。別途開催通知を郵送し、ご案内させていただきます。

〔 部会長 〕 それでは、第2回の国民生活文化部会の審議は以上で終了させていただきたいと存じます。

 今日はどうもありがとうございました。

以上