経済審議会総括部会(第2回)議事録
時:平成12年10月10日
所:経済企画庁特別会議室(436号室)
経済企画庁
経済審議会総括部会(第2回)議事次第
平成12年10月10日(火)16:00~18:00
経済企画庁特別会議室(436号室)
- 開会
- 1950年代から2000年までの日本経済の変遷の中で、経済審議会が果してきた機能と役割の評価について
- 閉会
(説明資料)
- 1950年代から2000年までの日本経済の変遷の中で、経済審議会が果たしてきた機能と役割の評価について(論点ペーパー)
- 別紙1:それぞれの時代区分ごとの経済審議会活動の評価について
- 別紙2:経済審議会の活動の総括的評価について
- 経済社会指標集
(関連資料)
- 経済指標実績と主な出来事
- 経済計画の総覧
- 各計画の課題、目標内容、達成状況等
- 各計画の記述内容分析
- 計画策定時等の新聞論調
- 長期展望のその後の状況
- 各長期展望の記述内容分析
- 長期展望策定時の新聞論調
[出席者 (敬称略)]
(委員)
香西泰(部会長)、清家篤(部会長代理)、荒木襄、伊藤進一郎、岩田一政、浦田秀次郎、角道謙一、木村陽子、嶌信彦、高橋進、長岡實、畠山襄、原早苗、福武總一郎、水口弘一、八代尚宏、鷲尾悦也
(経済企画庁)
小野総括政務次官、中名生事務次官、坂官房長、牛嶋総合計画局長、永谷総合計画局審議官、塚田総合計画局審議官、仁坂企画課長、藤塚計画課長、前川計画企画官 他
経済審議会総括部会委員名簿
部会長 香西 泰 (社)日本経済研究センター会長
部会長代理 清家 篤 慶應義塾大学商学部教授
荒木 襄 日本損害保険協会専務理事
伊藤 進一郎 住友電気工業(株)代表取締役副社長
岩田 一 政 東京大学大学院総合文化研究科教授
浦田 秀次郎 早稲田大学社会科学部教授
角道 謙一 農林中央金庫特別顧問
木村 陽子 奈良女子大学生活環境学部教授
嶌 信彦 ジャーナリスト
高橋 進 (財)公庫住宅融資保証協会理事長
長岡 實 (財)資本市場研究会理事長
畠山 襄 日本貿易振興会理事長
原 早苗 消費科学連合会事務局次長
グレン・フクシマ 日本ケイデンス・デザイン・システムズ社社長
福武 總一郎 (株)ベネッセコーポレーション代表取締役社長
星野 進保 総合研究開発機構特別研究員
水口 弘一 (株)野村総合研究所顧問
森尾 稔 ソニー(株)取締役副会長
盛岡 通 大阪大学大学院工学研究科教授
森地 茂 東京大学大学院工学系研究科教授
八代 尚宏 上智大学国際関係研究所教授
吉川 洋 東京大学大学院経済学研究科教授
鷲尾 悦也 日本労働組合総連合会会長
〔 部会長 〕ただいまから、第2回総括部会を開催いたします。
本日は、皆様にはお忙しい中をお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。
お手元にお配りしてあります議事次第のとおり、「1950年代から2000年までの日本経済の変遷の中で、経済審議会が果たしてきた機能と役割の評価」についてご審議いただきたいと存じます。前回に引き続きまして、これまでの機能と役割をご議論いただきまして、できれば次回から、引き継がれる21世紀に向けての課題に移る、その前段階というふうに理解していただきたいと思います。
議事に入ります前に、前回ご欠席された委員で、今回初めてご出席いただいた委員がおられますので、事務局よりご紹介いただきます。
〔 事務局 〕それでは、ご紹介させていただきます。
水口委員でございます。八代委員でございます。
なお、清家委員、原委員、鷲尾委員につきましては、若干遅れて来られる予定になっております。
〔 部会長 〕ありがとうございました。それでは早速本日の議題に入らせていただきます。第1回の部会での各委員のご意見、ご質問等も踏まえ、事務局で資料を準備していただいております。まず資料1の論点ペーパーをご説明いただきまして、次いで別紙1、2についてもご説明をお願いします。
〔 事務局 〕それでは、ご説明申し上げます。2枚紙の資料1をご覧ください。前回フリーディスカッションいただきました「日本経済の変遷の中で経済審議会が果たしてきた機能と役割の評価」についての論点ペーパーでございます。
まず1番目としまして、これまで経済審議会が果たしてきた機能と役割の検討に当たっての時代区分及び評価の基準でございます。これは前回の部会で、委員の先生方から、「時代区分をはっきりすべきである」、また、「客観的な基準をもって評価をすべきである」、というご意見がありましたので、これらを踏まえたものでございます。次のページに時代区分が書いてございますが、これを図にしましたのが(関連資料1)の一番上の図でございます。前回の関連資料の上に「時代区分」を書いたわけですけれども、ここに書きましたとおり、5つの時期、「高度成長前期」、「高度成長後期」、「石油危機後の調整期」、「戦後経済の頂点期」、「日本経済の変革期」と事務局としては書かせていただきました。ネーミングも含めて、恐らくご議論いただくことになると思います。
次に、主な評価基準としましては、そこに書きました
(1)目標の達成状況
(2)政策方針、政策提言の内容の妥当性
(3)政策方針、政策提言の実施(実現)状況
といたしました。そして、それぞれの時代区分ごとに各経済計画が掲げてきた目標は、時々の状況を反映して経済審議会のメンバーによって合意されたものですので、「目標の妥当性」自体の評価は別として、「目標の達成度合い」を今回の評価の対象といたしました。
また、内容の妥当性につきましては、そこに書きました2つの観点、
1)明らかに、より大幅な、変革・改革を求めるべきではなかったか、
2)積極的に打ち出すべき政策方針、政策提言があったにもかかわらず行わなかったのではないか、
という観点から、前回もご指摘がありましたとおり、今後の内閣府の新しい政府機構の活動のあり方とも関係が深いと思われる、1980年代以降の時期を中心に検討を行ったものでございます。
1枚めくっていただきまして、資料1の2ページは、先ほど、関連資料1で見ていただきました時代区分について、上から順に書いたものでございます。
それから、2番目として、別紙1で詳しくご説明申し上げますが、5つの時代区分ごとの経済審議会活動の評価について、3番目として、別紙2でその総括的評価について、4番目として、今申し上げた時代区分等々がはたして妥当かという総括的論点でございます。
資料1につきましては以上でございます。
〔 部会長 〕ありがとうございました。別紙1、2に入っていただくわけですが、その前に、少しだけ私から意見を言わせていただきたいと思います。
「目標の妥当性自体の評価は別として」と1.(1)に書いてありまして、事務局としては、計画の目標自体が妥当であったかどうかということは、この際触れたくないというか、恐れ多いというお気持ちがおありになるような印象を受けたわけでありますけれども、当部会としては、これまでの計画の目標がはたしてそれで良かったのかどうかということも含めて一度議論をして評価をした上で、今後どういう課題を引き継ぐかを検討すべきではないかというように私としては考えるわけであります。
したがいまして、古いところはいいとして、1980年以降の計画については、現在まだ計画として生命がある一番新しい計画「経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針」は別としまして、4つになると思うのですが、これらの計画の目標について一応評価した方がいいのではないかと考えました。
この点について、清家部会長代理にもご意見を聞いた上で、我々当部会の委員の手で、それぞれの計画の時代認識あるいは目標の妥当性について評価を考えたいと思いまして、その点をまず、そういう形でよろしいかどうかということをお諮りしたいと思います。
具体的には、各計画ごとに2、3名程度の委員の方にご担当いただきまして、その成果、ごく簡単な検討で結構だと思うのですけれども、とりあえず80年以降の計画については、目標の妥当性あるいは時代認識等について、それぞれの委員の評価をこの部会に提出していただき、それを皆さんに見ていただくという形にしたいと考えております。担当される委員については、私に一任していただきたい。後でお願いに伺いますのでよろしくお願いしたいと思いますが、(この方法で)よろしゅうございますでしょうか。
(「異議なし」の声あり)
〔 部会長 〕では、そのようにさせていただきまして、担当される委員については改めてご相談させていただきますので、その際は、なるべく前向きのご返事をいただきたいと考えております。
それでは、別紙1及び2について説明を続けていただくようにお願いします。
〔 事務局 〕それでは、40分程度お時間をいただきまして、残りの資料についてご説明申し上げます。
まず、別紙1でございます。別紙1を説明する場合に、資料2の横長の指標集を適宜参照させていただきます。
別紙1、分厚い資料ですけれども、これは先ほどご説明申し上げました5つの時代区分ごとの経済審議会の活動の目標課題の達成状況と評価できる点、反省点をまとめたものでございます。
まず、最初の「高度成長前期」、1950年代初めから60年代初めですが、この時期の目標課題としましては、米国からの援助や特需に依存しない「経済の自立」、「完全雇用」、さらには「極大成長」ということでございました。
1ページめくっていただきまして、その達成状況ですが、1)「経済の自立」につきましては、(2)の下線部にもありますとおり、米国からの特需等がなくても、自力で必要な外貨を獲得できる基盤が整えられたわけでございます。
ここで資料2「経済社会指標集」(以下、指標集)の2ページをご覧ください。資料2はページ数と指標番号が一致しております。2の外貨準備高、これで見てみますと、1950年代前半は10億ドル前後で推移しておりましたけれども、これが60年代になってまいりますと、20億ドルを超えたわけでございます。後も簡単に触れておきますと、第1次石油危機直前に 150億ドルを超え、「石油危機後の調整期」になりますと 300億ドルを超え、「戦後経済の頂点期」になりますと 1,000億ドル直前となっていった。そして最近時の 2,800億ドルというような外貨準備高になっております。
別紙1の2ページに戻っていただきまして、2)「完全雇用」、これはほぼ達成されたということでございます。指標集の6ページに、生産可能年齢人口の伸び率が出ておりますけれども、このように50年代は非常に高い伸びが予想されたものですから、これを吸収できるかが課題になりましたが、経済の拡大があって吸収できたということでございます。
別紙1の2ページの一番下でございますけれども、3)「極大成長」という目標につきましては、ご案内のとおり、50年代、60年代を通じて計画を上回る高成長が実現したわけでございます。
指標集の9をご覧ください。この極大成長を1人当たり名目GDPで米国と比べたものでございます。ご覧いただきますように、1950年におきましては、米国に比べて日本はわずか 6.9%でしたけれども、これが60年代の初めになりますと20%になり、高度成長の終わりのころには50%を超え、石油危機の時代も70%程度まで増え、「戦後経済の頂点期」になってまいりますと、1987年、米国に追いつき、その後、95年には米国の約1.5倍程度になり、最近、日本経済の低迷と米国の好調によって、ほぼ日米は等しくなっているということを示しております。
以上の高度成長前期の評価できる点を別紙1の3ページの(2)にまとめさせていただきました。2点ございます。1点目が、財政、税制、外貨割当て等の諸政策手段を体系的・総合的に活用できるような枠組みを整備し、限られた資源を我が国経済の効率的・効果的発展のために活用することに寄与したこと。
2点目が、「経済の潜在力の的確な提示」でございます。ご案内のとおり、日本経済の成長能力に対してはこの時期、度々限界説が出されましたけれども、これに対し、戦後の日本経済が持つ制度的・構造的長所を明確に示し、高度成長を続けることが可能であることを具体的な数値によって示すことにより、日本経済の成長力に対する自信を国民に与え、その後の高度成長の実現に寄与したと考えております。
反省点も2点挙げております。1点目が、「日本経済の成長力の過小評価」でございます。結果論かもしれませんけれども、計画以上の高度成長により、社会資本整備の遅れ等のひずみが生じたわけでございます。
1枚めくっていただきまして、2点目が、「社会的側面の軽視」でございます。戦争直後の自立から始めましたのでやむを得ない点もありますが、産業関係に比べて生活関係が軽視されたという点は反省すべき点であると考えております。
1枚めくっていただきまして、5ページ、「高度成長後期」、1960年代半ばから70年代初めでございます。この時代の目標課題としましては、まず高度成長から発生した問題を解決するという「ひずみの是正」、そして経済成長と物価安定の両立を図る、さらには都市と地方の地域格差を是正するといった「均衡ある発展」が目標課題となりました。70年代初めには、国民福祉の充実とか国際協調の推進が目標となっていったわけでございます。したがいまして、この時期の計画から、名称に「社会」という文言が入るようになっております。
その達成状況は、1枚めくっていただきまして、1)「ひずみの是正と均衡ある発展について」でございます。これは個別の分野になりますので、まず、指標集の10ページをご覧ください。ここに物価上昇率を挙げておりますが、高度成長の後期になりますと、卸売物価は比較的安定しているのですけれども、消費者物価の方は計画の想定を上回って5%程度の上昇を続けております。
次に、指標集の11、低生産性部門の近代化でございます。いわゆる二重構造問題で、これは大企業と中小企業の賃金格差でみたものでございます。50年代に大きくこの格差は改善され、大企業の8割前後まで中小企業が近づいております。その後は横這い傾向にあるという別の問題もありますけれども、この時期、二重構造の格差は非常に縮小した面があるということでございます。
その次の指標集の12、公害でございます。これは公害の状況を公害苦情件数でみたものですけれども、一番太い線で表れておりますとおり、60年代後半になり苦情件数が急増いたしまして、72年にはピークの88千件余りになっております。その後も非常に高い水準が続いていますけれども、60年代末の4大公害訴訟問題の提起等に対して、67年に公害対策基本法ができ、71年には環境庁が発足するということで、我が国の公害対策は総じて進展した時期でございます。
次に、その下の指標集の13、社会資本整備の立ち遅れに対してどう対応したかということでございますが、欧米諸国に比べ日本の整備水準は依然としてかなり低いという認識の下に、高度成長の後期、次の調整期におきましても、8%から10%という高い公的固定資本形成の投資が行われております。
これを個別の社会資本で見ましたのが、指標集の14以下でございます。いわゆる交通網ですが、指標集の14をご覧いただきますと、1960年には新幹線、高規格幹線道路ともまだゼロキロメートル、またジェット化空港は1という状況でございました。それが、ここにありますとおり非常に発達してきました。
指標集の15に道路網を挙げてございますが、左上の1965年にはまだ名神高速道路のみだったのが、その後、縦軸ができ、それから横断的な道路ができ、右下の昨年になってまいりますと、3本の本四架橋に代表されますとおり、ネットワーク型の道路網が整備されたわけでございます。
1枚めくっていただきまして、指標集の17、これは生活関連の社会資本の代表として下水道を挙げさせていただきました。1961年には、6%という非常に低い普及率でしたけれども、その後、60年代、70年代、80年代を通じて一貫して上昇してきまして、95年には50%を超え、直近では60%までになっております。
もう一枚おめくりいただきまして、ひずみの最後の問題として、地域間格差の是正、指標集の19でございます。いわゆる過疎過密問題の弊害の是正ですが、これは三大都市圏への人口流入数が、一番上の太い線の東京圏、それから関西圏、名古屋圏を含めまして、60年代初頭にピークを迎え、その後、趨勢は鈍化していますけれども、特に東京に対する流入は続いております。70年代に入りますとこれが大きく低下するわけですけれども、その背景には、次の指標集の20に示していますが、地域間の所得格差の縮小があったと考えるわけでございます。
次に、別紙1にお戻りいただきまして、7ページ、2)「国民福祉の充実」でございますけれども、この時期は国民年金とか、老人福祉とか、母子福祉とか、我が国の社会保障制度の基本的体系が整備された時代でございます。しかしながら、社会保障が経済に占めるウェイトはまだまだ小さいものでございました。これを指標でみたのが指標集の21で、社会保障給付費の部門別推移を挙げております。経済に占めるウェイトを対国民所得比でみた折れ線グラフですと、60年代は5%台でございます。それが福祉元年といわれた73年でも 6.5%でしたけれども、その後は急速に伸びまして、82年には倍の14%程度になり、その後若干頭打ち傾向になっておりますが、90年からまた伸びて、95年度には17%まで対国民所得比が上がっております。ただ、その部門別の内訳を見てみますと、年金部門が非常に伸びています。70年前後には、医療費が一番割合が多くて6割前後でございました。そのとき年金は25%前後でしたけれども、これが81年になりますと、医療費と年金が逆転しまして、95年度では医療費が37%に対して年金が52%という状況になっております。
また、別紙1の7ページにお戻りいただきまして、3)「国際協調の推進」でございます。60年代後半から経常収支の黒字が恒常化し、成長の制約とはならなくなったわけでございます。また、71年のニクソンショックに続き、円切り上げ、変動相場制への移行といった国際経済面での大きな動きがあり、73年に作った「経済社会基本計画」では、国際協調の推進ということが初めて大きな計画課題の1つとされたわけでございます。
これをODAの推移で見たのが指標集の23でございます。ODA援助額と対名目GDP比の推移をグラフにしておりますけれども、60年代は伸び率は高いのですが、まだ援助額は非常に少なくて、73年になりましても10億ドルでございます。その後、70年代に約3倍に増え、80年代にそのまた3倍に増えて、91年には 110億ドルを超えました。そして、最近になりまして95年に 147億ドルという高い数値をつけた後、若干減っているという状況でございます。
次に、別紙1の8ページでございますけれども、高度成長後期の評価できる点として2点挙げております。まず、1)「高度成長のひずみへの真剣な対応」は、今申し上げましたような諸問題の解決や社会的摩擦の減少に貢献したと考えております。2点目は、2)「計量経済モデルを用いた整合的分析」がこの時期かなり本格的になり、政策の理論的形成が進んだということでございます。
反省点を2点挙げております。1点目は、「高度成長末期においても高い成長が続くという前提での経済計画等の政策方針が策定されたこと」がございます。1枚めくっていただきまして、2点目として、「国際的側面の認識の不十分性」がございます。先ほど申し上げましたとおり、このときの経済計画から国際協調の推進が謳われるようになったのですけれども、まだまだ国際面は与件とする考え方が強くて、不十分であったと考えております。
1枚めくっていただきまして、「石油危機後の調整期」、1970年代後半から80年代初めまでの時期でございます。この時期の目標課題は、そこに4つ挙げてございますけれども、何と申しましても、1番目の「石油危機後の安定した経済成長路線への移行」と、4番目の「資源・エネルギー・食料等の経済的安全の確保」というものが大事な時期でございました。
その達成状況でございますが、1)「安定成長路線への移行」、10ページの一番下にありますとおり、我が国経済は年10%程度の高度成長から年4~5%の安定成長に紆余曲折はあったものの移行できたわけでございます。ご案内のとおり、物価が非常に高騰したり、経常収支が赤字になったり、成長率が戦後初めてマイナスになったりしたわけですけれども、当初の懸念に比べれば比較的順調に石油危機を乗り越えることができたと考えられます。
しかしながら、(3)に書いてありますけれども、この時期、景気対策等があり、財政バランスが悪化して、財政再建が非常に課題となった時期でございます。
この時期のことを指標で見ますと、指標集の24、いわゆる石油危機の状況である輸入原油価格の推移でございます。実質、名目値とも73年の第1次石油危機で約 3.5倍になり、78年の第2次石油危機で 2.7倍になり、合わせると11倍という非常に急激な原油価格の高騰があったわけです。その後も若干追っていきますと、近年、実質の原油価格は非常に低下しまして、特に80年代後半になってきますと、実質で石油危機前とそう大差のないところまで落ちたということでございます。昨今これがまた高騰しているというのはご案内のとおりでございます。
それから、1番最後に申し上げました財政赤字について見ましたのが、次の指標集の25でございます。70年代に国の財政赤字が膨らみ、79年には▲5.7%までになっております。その後財政再建が進みまして、91年にはほぼゼロになりましたが、その後、ご案内のような理由で非常に悪化しているということでございます。
次は、別紙1にお戻りいただきまして、11ページ、2)「国民生活の安定と充実」でございます。ここでは4つの分野を挙げておりますけれども、まず、社会保障の整備ということで、先ほどの指標の21で見ていただきましたとおり、73年がいわゆる福祉元年といわれて、このときの社会保障の対国民所得比が 6.5%だったわけですが、これが82年には13.7%まで上がっております。このように、制度的にはヨーロッパ諸国と比較してほぼ遜色のない水準が達成されたわけです。そして、12ページの上の方の下線部に書いてございますけれども、充実一辺倒で社会保障の整備を進めてきた時代が終わり、80年前後を境として、財政の問題もあり、給付と負担の関係について制度改革の検討が始められた時期でございます。
2番目の分野として、住宅でございます。60年代末、68年ですが、いわゆる住宅の戸数が総世帯数を上回るようになります。つまり、計算上は1世帯に1戸以上あるという事態になったわけです。したがいまして、この時期以降、住宅は量的整備から質的整備へと変わってきたと考えられます。
3番目の環境ですが、この時期公害問題がより広く環境問題として捉えられるようになった時期でございます。
4番目の社会資本ですが、国民生活の質的向上に資する社会資本の充実が最重点課題とされるようになった時期でございます。指標集で特に住宅を見てみますと、29ページ、これは、住宅戸数と世帯数の対比でございます。そして、30ページ、31ページをご覧いただきますと、30ページには、新設の住宅着工の戸数が70年代の最初に 186万戸と、その後も高い水準は続いておりますけれども、量的にはこの時期にピークになったということでございます。質の方はどうかというのが、その下の指標集の31で、1戸当たりの住宅の床面積は確実に上昇を続けているということでございます。
別紙1の13ページに戻っていただきまして、目標課題の3番目、3)「国際経済社会の発展への貢献」でございます。(2)にありますとおり、適正な対外均衡としては、この時期は基礎収支の均衡が目標とされました。実際には、80年代に入って以降経常収支は黒字基調が定着したという結果になったわけです。これに対応して経済協力が積極的に進められ、先ほども指標集の23で見ていただきましたけれども、ODAの金額は73年からの10年間で3倍以上になりました。
この時期のトピック的といいますか、一番の課題の1つであった「経済的安全の確保」、いわゆる資源・エネルギーそして食料の安定確保をどのようにするかということですが、我が国の経済的安全についてこの時期から取組みが本格化したということがいえると思います。
これを指標集の34以下でご覧いただきたいと思います。指標集の34は、石油備蓄の推移でございますけれども、第1次石油危機、第2次石油危機を経まして、78年に国家備蓄が開始されました。70年には備蓄量は、まだ民間だけですけれども、50日分しかございませんでした。それが80年代の最初には 100日を超え、その後も増加を続け、最近では 150日を超えるというような備蓄がなされております。
その下の指標集の35を見ますと、いわゆる石油に対する依存度も大きく下がっていまして、石油依存度は折れ線で表していますけれども、第一次石油危機が起きた73年が77%という最高で、その後低下を進め、98年、最近では5割をわずかに超えるという状況になっております。
指標集の36は食料の自給率でございます。これにつきましては、いろいろな事情もありまして、残念ながら低下を続けていまして、60年に8割程度あったものが直近では4割程度というような状況になっております。
別紙1の14ページにお戻りいただきまして、石油危機後の調整期の評価できる点でございます。2点挙げておりますが、まず、1)「石油危機等への対応」でございます。今ご説明申し上げましたとおり、結果的には、諸外国と比べても良好なパーフォーマンスで危機を乗り切ることができたということでございます。その背景としては、(2)の所得政策を導入しなかったときの経緯などにありますとおり、経済審議会での労働界と経済界からの日ごろの議論が共通認識を醸成したという面もあると考えております。
次に、2)「明確な政策方針の提示とその変更」でございます。先ほど申し上げましたとおり、この時期は財政再建が大きな課題になり、79年8月の「新経済社会7ヵ年計画」では、財政再建のために一般消費税の導入を打ち出しましたが、それを争点とした総選挙の結果を受けて、翌年1月のフォローアップでは、一般消費税の導入を白紙撤回したわけでございます。また、その翌年に、増税なき財政再建をどう進めるかという観点から、公共投資総額を大幅に圧縮するということもフォローアップで提示したわけでございます。
このように政府の中長期の経済政策を総体的に示す経済計画を通じて、政府の方針を人々にわかりやすく示した例として評価できるのではないかと考えております。
次に、反省点を次のページに2点挙げております。1点目は、「経済成長能力の過大評価」でありまして、高度成長期での成長体験がまだ思考の中に強く残されていたということでございます。2点目は、「指摘課題の未解決」でありまして、国民生活の安定と充実といった観点からこの時期指摘された事項の多くが、残念ながら、20年以上たった今日でも課題として残っているということは、反省しなければいけないのではないかと考えております。
次に、1枚めくっていただきまして、第4期、「戦後経済の頂点期」、1980年代初めから90年代初めまででございます。この時期の目標課題を5つ挙げておりますけれども、2番目の「行財政改革の推進」、3番目の「国際経済社会への貢献」、4番目の「安心で豊かな国民生活の形成」ということが非常に重要視された時期でございます。
この達成状況でございますが、1)「適度な成長下での完全雇用、物価の安定」、これは83年策定の「1980年代経済社会の展望と指針」での目標であったのですけれども、雇用関係を除きまして達成されたわけでございます。
次に1枚めくっていただきまして、2)「行財政改革の推進」でございますが、(1)にもありますけれども、83年策定の「1980年代経済社会の展望と指針」では、現在の行政を徹底的に見直すことが重要とされました。また財政再建もあわせて重要な課題とされました。しかしながら、(3)に書いてありますとおり、実際の改革の推進は第2次臨調とか、そういう経済審議会以外の場を中心に行われ、歳出抑制、三公社の民営化、規制緩和等の改革が進められたわけでございます。
次に、一番下の3)「国際経済社会への貢献」でございます。1枚めくっていただきまして、82年以降は経常収支が一貫して大幅な黒字を続け、87年には、先ほど申し上げましたとおり、1人当たりGDPが米国を上回るようになりました。日本が世界の経済大国であることについての自覚が高まったわけでございます。これを受け、88年の計画では「世界とともに生きる日本」という題名となり、92年の「生活大国5ヵ年計画」におきましても、副題として「地球社会との共存をめざして」としたわけでございます。(3)にありますとおり、政府開発援助(ODA)の金額も80年代後半には世界第一位となったわけでございます。
この国際的な日本の地位の拡大を見たのが指標集の39以下でございます。まず、世界における日本の対外証券投資及び直接投資のシェアですが、80年代半ばから後半にかけて特に対外証券投資が大幅に伸びまして、例えば87年のように世界シェアの8割を占めるといった時期もあったわけでございます。
1枚めくっていただきまして、指標集の42でございますが、活発な対外投資があり、日本の対外純資産は急激な成長をいたします。この第4期が始まる80年代の前半には、日本の対外純資産はわずか3兆円でしたけれども、90年代の初めになりますとこれが50兆円を超え、現在では 133兆円になっております。
次のページの指標集の43以下、日本経済の国際化についていろいろな観点から表しております。個別の説明は時間の関係でいたしませんけれども、例えば、43の外資系企業数、44の海外進出の日本企業数、45の日本で就労している外国人の数、それから46の日本人の海外旅行者数と訪日外国人数などで日本の国際化が大きく表されていると考えております。
指標集の48をご覧ください。日本と米国の世界の名目GDPに占めるシェアを表したものですけれども、日本は90年には13.9%だったのが95年には17.9%とかなり成長しております。これが98年になりますと、日本は13.2%まで落ちたのに対して、米国は経済が復活しまして28.6%まで伸びていることを表しております。
それでは、別紙1の18ページに戻っていただきまして、4)「安心で豊かな国民生活の形成」でございます。国民生活の質的向上は高度成長の後期から大きな課題とされておりました。
1枚めくっていただきまして、92年に策定しました「生活大国5ヵ年計画」におきましては、計画のタイトル自体に生活重視の方向付けが明確にされました。さらに、(2)にありますとおり、社会資本の重点も生活関連にシフトしてきたということでございます。
これを見ましたのが指標集の51、52でございます。まず、年間総労働時間の変化でございます。92年の「生活大国5ヵ年計画」を作った直前の90年の日本の労働時間は2,200時間を超え、欧米から大きく離れていましたけれども、これが急速に低下しまして、93年には1,900時間台になり、最近では英米とほぼ遜色ない水準まで短縮されているということでございます。
それから、生活関連の社会資本として住宅でございますけれども、ご案内のとおり「生活大国5ヵ年計画」では平均年収の5倍程度で取得することが大きな課題となっておりまして、その結果を見たのが指標集の52でございます。90年には、年収の 8.5倍が首都圏では必要であったのが、「生活大国5ヵ年計画」を作った時期でも 6.4倍ですけれども、その後低下を続け95年以降、5倍直前になり、98年に 4.7倍と5倍を割ったということでございます。もちろん、この背景には地価の低下もあるのですが、一応こういう経緯になっているということでございます。
それでは、別紙1の19ページにお戻りいただきまして、目標課題の5)「発展基盤の整備」でございます。キャッチアップを終了した後の80年代には技術革新、産業構造の改革等の面で自ら独自の道を創造的に切り開いていく必要があるという認識が高まったということでございます。
1枚めくっていただきまして、以上の「戦後経済の頂点期」の評価できる点を3点挙げてございます。1点目は、「欧米へのキャッチアップ終了後の我が国経済の課題を早い段階から適切に指摘していること」。これによって現在まで続く構造改革の口火を早い段階で切ったというふうに評価しております。2点目は、「世界の大国であることを明確に自覚したということ」でございます。3点目は、3)「生活者重視の視点の強調」でございます。
反省点を2点、3)で挙げておりまして、まず何と申しましても「バブルの発生と崩壊の影響に関する認識の欠如」でございます。経済審議会及びその事務局に限らず、ほとんどの有識者、政策担当者に当てはまることかもしれませんけれども、マクロ経済政策を担当している経済審議会としても反省すべき点があるのではないかと考えております。
1枚めくっていただきまして、反省点の2)「制度や構造問題に対する対応の不十分性」でございます。この時期以降、重要な経済問題はマクロの経済運営とともに、既存の制度や構造の見直し・変革という問題に移っていったのですけれども、これに対して経済審議会の対応は、必ずしも十分でなかったのではないかということでございます。
1枚めくっていただきまして、「日本経済の変革期」、1990年代半ばから今日まででございます。この時期の目標課題は、何と申しましても、「日本経済の構造改革」でございました。その達成状況は、22ページの下に書いてありますとおり、95年策定の計画におきましては構造改革を最重点課題として掲げたわけでございます。
1枚めくっていただきまして、(2)にありますとおり、翌年の96年12月に建議をいただいた「6分野の経済構造改革」では、かなり踏み込んだ具体的な改革の提案をいただき、その後の経済構造改革の進展に大きく貢献したということでございます。また、同時期にお出しいただいた、いわゆる「破局のシナリオ」(「財政・社会保障問題についての参考資料」)におきましては、財政・社会保障改革が進まない場合には、日本経済は破局的な状況に陥るという将来展望をお示しいただきまして、その後の財政構造改革実施の原動力の1つになったと考えております。
この時期の指標はいろいろございますけれども、指標集の53と54をご覧ください。よくご存じの地価と株価の変動でございます。いずれも急激にバブル期にアップして、バブルの崩壊のときに下がったということですが、例えば、指標集の53の一番変化の激しい六大都市圏の商業地で見ますと、85年は 123だったのが91年には 497と4倍以上になり、これが現在では96というふうに5分の1以下になっているという地価の現状でございます。
また、別紙1の23ページに戻っていただきまして、2)「多様な知恵の社会の形成」でございます。これは特に、昨年策定された「経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針」で提示していただいたところですけれども、本年に入ってから議論が本格化しているIT革命等を見ますと、計画の方向性は正しかったというふうには考えられるわけでございます。
以上を踏まえまして、「日本経済の変革期」の評価できる点を2点挙げております。1点目は、「構造改革の問題を正面から捉えて提言を行ったこと」で、経済審議会の活動全体としては、必要な構造改革の推進に貢献したということでございます。2点目は、特に「経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針」ですが、「時代の転換期にあるということを新しい表現でわかりやすく示したということ」でございます。
反省点として2点挙げておりまして、1点目は、その前と続きますけれども、「バブル崩壊の影響の過小評価」でございます。計画中にバブル崩壊とその影響の大きさについて言及はあるのですが、その深刻さについて十分な理解があったとは思われないわけでございます。1枚めくっていただきまして、2点目として、「制度や構造問題への対応の不十分性」を挙げております。その前の期ともつながりますけれども、中長期の経済運営と関係が深い課題であっても、個別具体的な改革の提案とその推進は、内閣総理大臣のイニシアティブの下に、経済審議会とは別の機関で行われ、これらにより経済審議会での活動はマクロ経済領域に絞った将来展望と政策の基本的方向の提示にとどまり、経済審議会の役割に対する社会の期待を低下させるようになったのではないかと考えております。
以上で別紙1を終わります。
なお、指標集の55以下もいろいろな指標を付けておりますけれども、これは過去の50年間の経済計画の評価のために作成したもので、国民生活とかIT革命関係がございますが、時間の関係で説明は省略させていただきます。
次に、別紙2をご覧いただきたいと思います。別紙2は、今申し上げました5つの時代ごとの経済審議会の活動の評価を受けまして、これを総括的にまとめたものでございます。5つの時期を大きく2つの時期に分けております。まず、1番目の時期として高度成長前期・後期、そして石油危機の調整期まで、いわば3つの時期を1つにまとめさせていただき、これを最初の2ページで書いております。
「総括的評価」としましては、高度成長期から調整期を通じて、経済審議会は、経済計画の策定等を通じて、
1)時代ごとの我が国経済社会の展望と課題の的確な把握
2)体系的・総合的な経済政策の形成
3)我が国経済の潜在力に対する的確な認識
等により、日本経済の発展に少なからず貢献してきたと総括的に評価しております。
「成果と反省」ということで若干踏み込みますと、例えば、高度成長期における我が国経済の成長能力を過小評価していたなどという反省点もございますけれども、総じて相当の成果をあげえたと考えております。
この「背景」というか原因としまして、2点要因を挙げております。1番目が、「日本経済の課題と目標について人々の合意を得やすかったということ」でございます。高度成長前期には、日本経済の自立、先進国へのキャッチアップ、そして生活水準の向上ということは、潜在的にはこういう目標を人々が共有していたものですから、合意が形成しやすかった。
これが高度成長後期になってまいりますと、様々な形でひずみが表面化したわけですが、利害の対立が見られた問題であっても、結果的には高成長によってパイを大きくする中で、関係者の合意によって解決が可能であった時期でございました。
これが高度成長末期になってまいりますと、円の切り上げ、石油危機といういわゆる外生的ショックが起きたわけでございます。
しかしながら、外生的ショックであるが故に、その問題の所在が国民各層にも非常にわかりやすくて、経済審議会での検討等を通じて認識を共有できたのではないかということでございます。
2番目の要因としまして、「政策の企画・総合調整機能と実施機能との役割分担」でございます。この時期は、既存の仕組みや制度を変更するというよりも、これまでになかった仕組みや制度を新しく導入することによって解決していった時期でございまして、経済審議会で基本的な政策方向を明らかにすれば、細部は所管部局あるいは所管の審議会がそれを進めるという方向で役割分担が有効に働いたと考えております。
次に、1枚めくっていただきまして、前回でも問題であるとされた戦後経済の頂点期以降でございます。
これの総括的評価でございますけれども、欧米先進国へのキャッチアップの終了という認識から、新しいビジョンが求められるようになった一方で、行財政改革とか規制緩和等の構造問題への対応が大きな課題とされるようになった時期でございます。
この問題に対して、その中長期的課題への対応という側面では、96年の、先ほど申し上げました「6分野の経済構造改革」の建議やいわゆる「破局のシナリオ」の提示のように、先駆的な問題提起を行いまして、改革の進展に大きな寄与をしたものもございましたけれども、総体的には中長期の経済運営に関係の深い問題であっても、具体的な政策の形成、実行の促進という面では経済審議会の役割が次第に限定されていったのではないということで、「成果と反省」を3点ずつまとめております。
成果の1番目として、まず、経済社会状況の潮流や政策課題を的確に指摘し、キャッチアップ終了後の経済社会のあり方について、早い段階から問題提起を行ったということでございます。行財政改革等の政策の基本的方向につきましても指摘しておりました。2番目として、生活者重視ということを、これも早い段階から出していた。3番目として、特に90年代半ば以降ですけれども、日本経済が転換期にあることについて、国民の理解を深めることに寄与したということでございます。
反省点として、1番目は、今日に至るまで繰り返し将来ビジョンの欠如が指摘されていることから判断すれば、経済審議会でご提示いただいたビジョンが、必ずしも多くの国民の「感性」と合致するものではなく、魅力的なものとして受け入れられていないのではないかという点でございます。2番目は、何と申しましてもバブルの発生と崩壊及びその影響について認識が不十分であったという、先ほどから述べている点でございます。3番目は、構造問題につきまして、より踏み込んだ政策提言を行うべきではなかったかということでございます。
この「背景」として4点を挙げております。1番目は、「キャッチアップ終了後における日本の経済社会の方向付けの困難性」でございます。よく言われることですけれども、お手本自体を自らが設定しなければならなくなって、どの方向を目指すかについての意見がまとまりにくかったということでございます。
2番目は、「経済活動の専門化、複雑化等に起因するもの」でございます。ご案内のとおり、経済活動が専門化、複雑化し、また、国際化、情報化が進みますと変化も早くなっておりまして、その現場に近い人でないと状況の正確な把握は困難化してきました。これに加えて、政府や企業の情報開示が不十分ということもあり、多くの人々にとって経済や産業の根幹部分やビジネスの第一線の現場で起こっている状況を正確に認識することが困難になっていたのではないか。こういうことがバブルの発生、崩壊及びその影響に対する的確な認識を困難にしたと考えております。また同時に、制度問題、構造問題が問題になってきたわけですけれども、こういう問題の対応のためには細部にわたる専門的な知識が必要ですが、マクロ的な調査審議を主任務としてきました経済審議会での審議の限界といった点もあろうかと考えられます。
3番目は、総論賛成で各論反対の傾向の強まりでございます。1枚めくっていただきますと、その原因を2点挙げております。(1)は「制度的硬直性の増大」でございます。高度成長期から頂点期に至るまでの成功体験が、我が国の行政とか、産業とか、様々な制度がこれでいいのだということで硬直性をもたらし、総論では理解できる変革の必要性に対しても、お互いにとって厳しい制度変更なしでも引き続き状況変化に対応できるという認識を生み出していったということでございます。
(2)が「利害対立の大きい分野での課題先送りの傾向」でございます。今申し上げましたとおり、制度が硬直性を持ったり固定化したりしますと、いろいろな分野で既得権益を持った方が出てきます。そうしますと、構造改革をしようと思いますと、厳しい利害対立を生み出し、痛みを伴う本格的な対応は先送りという傾向になったのではないか。また、それまで高度成長という体験があるが故に、経済が回復すれば問題は解決する可能性が高いとして、先送りしていればよいという選択になっていったということでございます。
4番目の背景は、以上3つの背景への対応的なものですが、「利害対立克服のための総理大臣による政治リーダーシップの役割の強まり」でございます。
まず、その1番目として、前提的なものですけれども、「コンセンサス方式の限界」がございました。以上申し上げたような背景、要因から、経済審議会に代表される各界各層からの委員及び各省間のコンセンサス方式では、多くの人々から賛成の得られる総論レベルでの方針の提示にとどまり、具体的な改革はなかなか進まないといった状況でございました。その例外が、外圧があった場合でございまして、米国等から言われた場合にはコンセンサスもできたということでございます。
2番目として、「総理大臣による政治的リーダーシップの役割の強まり」でございます。そういう国内の利害対立を外圧ではなくて乗り越える場合にどうするかということになりまして、総理大臣による政治的リーダーシップが必要とされる場合が大きくなったわけでございます。1ページめくっていただきまして、例えば、行財政改革、経済構造改革等がそうした課題ですけれども、これらの課題を総理のリーダーシップの下に、多くの場合は経済審議会とは別の臨調、経済戦略会議等の機関が設けられ審議検討が行われるようになったということでございます。
以上のような諸要因から、経済審議会の機能・役割は、マクロ的な将来ビジョンの提示と政策課題の明確化という点では大きな役割を果たすことができたものの、個々の分野における構造改革の中身に踏み込んだ具体的な政策の提言とその実施に向けた活動を行うことが少なくなり、政策の基本方向の提示にとどまることが多かったため、十分な政策形成のイニシアティブを発揮することが少なくなったのではないかと考えております。
以上で別紙2を終わりまして、残りの資料については、時間の関係もございまして簡単に触れさせていただきます。
関連資料1は、先ほどご説明申し上げました。
関連資料2は、前回とほぼ同じでございますので、省略させていただきます。
関連資料3は、過去の14本の計画につきまして、その特徴、特に5.で達成状況について数字で表したものでございます。ただ、注にも書いてございますけれども、達成状況で、統計のとり方等の変更があり、まだ完全に掴みきれていないものがございますので、これは次回までに完成させたいと思っております。
関連資料4は、過去14回の長期計画につきまして、それがどういう点に重点を与えていたかということを、その記述の分量をいわば行ごとによって表したものでございます。下の番号が次のページの経済計画に対応しております。例えば、一番上の「国民生活」は、一番最初の「経済自立5ヵ年計画」ではわずか 1.3%の記述しかございませんでした。記述量が少ないからといって、軽視されていたというつもりはないのですけれども、6回目の「新経済社会発展計画」で伸びて10%を超えまして、以後、大体15%台が続きます。そして、12回目の「生活大国5ヵ年計画」のときには、名前にも表していますとおり、30%を超える記述量となっております。「国民生活」の5つ下の「産業」は、当初は非常に高い比重で、20%台、30%台が続きましたが、これも6番目あたりから10%台になって、だんだん減ってきております。「環境」が登場しましたのは5回目からで、最初は 1.4%ぐらいの記述しかなかったのですが、その後、だんだん増えてきております。
関連資料5は、「経済計画の評価」ということで、経済計画を策定したときに主要な新聞がどういう評価をしたかということをまとめたものでございます。9ページにわたりますので、まとめて説明いたしますけれども、評価を「積極的」な評価と「批判的」な評価に分けております。
「積極的」な評価としましては、まとめて申し上げますけれども、5点ほどございます。1点目は、展望やビジョンを国民によく示しているという点。2点目は、そのときどきの目標内容がいいということ。これは経済の目標内容がいいというのもございますけれども、経済以外の社会開発とか、福祉とか、環境とかを取り上げたときに特に評価されております。3点目は、政府の姿勢をはっきり示す工夫が見られるという点。例えば、目標数値をはっきり示すとか、目標の期限をしっかり示すという点が評価されております。4点目は、行政とか財政の改革を打ち出したときには評価されております。5点目は、いわゆる計画論、計画の作り方でございます。これには2点ございまして、1番目としては、計画の作成方法であるとか、特に計量モデルの向上であるとか、あるいは参加委員数が多いとか、下部部会がたくさんあるとかということが評価されております。2番目としては、計画は単に作りっぱなしではいけないということで、フォローアップであるとか、リボルビングの体制をきちっと整えた場合は評価されております。
「批判」につきましては、3つぐらいのカゴリーに分けられます。第1のカテゴリーとしては、14回の計画に共通するもので、一番多いのが「総花的」である、そして「具体策が不足している」というものでございます。経済計画である以上仕方のない面もあるかと思いますが、そういう批判もございます。2番目は、特に中期ごろに多いのですけれども、「経済重点、産業重点、生産重点である」という批判でございます。3番目は、「国民への訴える力が不足している」という点でございます。
第2のカテゴリーとしては、個別の時期時期の批判で、この中にも3つほどございまして、その1番目が、「目標が妥当ではない」ということ。例えば、成長か安定か、初期におきましては成長見通しが低いということ、あるいは日本型福祉社会という言葉を出したのですが、これが曖昧であるというご批判がございました。2番目の個別的な批判としては、「取り上げるべきだったのに取り上げていない」ということ。円切り上げなどはその代表例でございます。3番目は、いわば施策の手法に関するもので、「具体的な数値がない」とか、今から思うと隔世の感ですが、財政の健全化を重視するあまり国債の発行をしないことにしているというのが批判されております。それから、後期になってまいりますと、「民間の規制緩和に頼り過ぎである」とか、「行革に対する踏み込みが不十分である」といったことがございます。
第3のカテゴリーとしては、計画論、計画の作り方として審議会方式への疑問が投げかけられております。これは比較的早くて、3回目の所得倍増計画の時期からこういう批判が始まっております。一番多いのが、各省間の利害対立とか、そういう利害対立を調整できない、コンセンサス方式に対する疑問でございます。終わりごろになってまいりますと、もっと民間の知恵を活用すべきだといったような計画の作り方に対する批判もございます。
なお、これらは計画が策定されたときの評価でございますけれども、10~11ページには、計画が諮問されたときの新聞論調をまとめたものも付けております。
関連資料6は、長期展望でございます。1枚めくっていただきますと目次がございますが、最初の「概要」は前回お示ししたものと同じで、これに「人口」以下5つの個別分野を付けたわけでございます。一箇所だけ例を挙げさてせいただきますと、9ページをご覧ください。経済成長の動きを追ったものでございますけれども、1960年に作られました「1980年展望」におきましては、その右の図にありますとおり、展望を実績が大きく上回ったということでございます。1枚めくっていただきまして、82年に作った「2000年展望」は、その右の図にありますとおり、展望前半の10年間は実績が結果として展望に沿ったわけですけれども、後半の10年間は、バブルの崩壊等を主要因として展望から外れていったということでございます。その次の11ページが、直近の「2010年展望」ですけれども、これは策定した時期が、前回申し上げましたとおり、バブル崩壊の直後であったこともあり、展望策定直後から実績が大きく乖離しているということでございます。
関連資料7は、先ほどの経済計画と同じ手法で長期展望の記述の分野を項目別に分析したものでございます。一見しておわかりいただけますとおり、一番最初の「1980年展望」では、「社会資本」とか「産業」といったものが非常に大きなウェイトを占めております。それが「2000年展望」では、「国際経済」が多くなっておりまして、これが「2010年展望」では、「国民生活」とか「国際経済」、さらには「環境」といった部分が多くなっているということでございます。
最後の関連資料8は、先ほど計画で行ったのと同様に主要新聞紙面における評価を長期展望においても行ったものでございます。これの説明は省略させていただきます。
若干時間を超過しましたが、以上でございます。
〔 部会長 〕ありがとうございました。それでは、たくさんの資料が提出されておりますし、いろいろご説明がございましたけれども、「日本経済の変遷の中で経済審議会が果たしてきた機能と役割の評価」について、今までの説明に対するご質問、ご意見、あるいはそれを離れてもお気づきの点がありましたらよろしくお願いいたします。
〔 A委員 〕意見というよりも、私の生活体験というか、実感からしまして、時代区分の1950年代初めということは、昭和26年からですね。高度成長の前期というのはそのころから始まったのかなというのが、私にはちょっとぴんとこない。
昭和26年から30年までというのは、言うとすれば高度成長前期ではなくて高度成長前夜だという感じが私はいたしております。
〔 部会長 〕計画自身は、「経済自立5ヵ年計画」、つまり1955年が最初の経済審議会で扱った計画になっておりますので、50年代前半は、50年代といってもほぼ後半からということだろうと思いますが、その点、もう少し正確に記述した方がいいかと思います。
ほかにご意見はいかがでしょうか。
〔 B委員 〕2点ほど申し上げます。非常によく分析されていて勉強になりましたけれども、第1点は、各時代区分ごとに評価できる点、反省点ということを全部挙げられているのですが、極めて平面的であるということです。もちろん反省点を挙げるというのは非常に重要な問題ですけれども、もう一度、評価、反省のそれぞれのウエイト付けが必要ではないかと思います。ある時期においてはこういう点が評価できる、これは全くそのとおりで、恐らく高度成長期はそういうものが非常に多かったと思います。それから、反省点で一番大きいのは、恐らくウエイトを付ければ、80年代、90年代が反省点が非常に大きい、あるいはそれが決定的であったかもしれないということはあると思うのですが、特に、80年代の「戦後経済の頂点期」の反省、これはもう我々も含めて官民ともにみんな誤ったわけですから、ある意味では国民総懺悔ぐらいの総反省をしてやらないと、新しいこれからの建設はできないのではないかという気がしますので、それぞれの評価できる点と反省点のウエイト付けというのを、恐らく別紙2はそういうことで書かれていると思いますけれども、まだまだこれではインパクトがないのではないかというのが第1点です。
第2点は、この最後に出ています、「総論的に経済審議会はいろいろな問題提起をして、あとはほかの機関で行われた」という問題を今後どう考えていくかということだろうと思います。現在でも、総理主導の下に幾つあるのですか、ものすごい数の審議会が、あるいは委員会とか懇談会とか、ここの委員の方も相当入っていらっしゃると思いますけれども。来年1月からの問題としては、経済財政諮問会議ができ、一方では財政首脳会議がまだあるなんていう話もありますし、それらを含めて、今後のあり方というのは、ほかのいろいろな審議会なり会議があると思いますけれども、それらとの関連でどうしていくかということを、この50年の評価と反省の上に立って明確にしていくことが非常に重要ではないかと思います。
〔 C委員 〕私も、記述が平板であって、重点が付いていないという気がいたしました。それは全く同感であります。もう少し、今総懺悔しなければいけない時期と、比較的反省点が少ない部分は、さっきの表(関連資料4)ではありませんけれども、行数だけで重みを付けるわけではありませんけれども、そういう点がきちんと評価されていないと。個別の時代時代でそれぞれが書くとそうなってしまうのですけれども、それはやはり重み付けが必要ではないかと思います。
2点目に、私も同じような気持ちではあるのですが、やたら総理大臣のリーダーシップと書かれているのはいかがなものかという気もするのです。総理にそうした権限が集中しているということは間違いないし、その自覚は、経済審議会の議論ではなく、総理にも持ってもらわなければいけないし、政治が役割を果たさなければいけないことは確かですけれども、全て総理のリーダーシップがあればできるということほど単純なものではない、こういうふうに私は思います。
それに関連しますと、コンセンサス方式の限界と外圧による構造転換の傾向というような反省点が、リーダーシップの問題で出ていると思います。私は、コンセンサス方式は、たしかにこうした複雑な時代になりますと、先ほどの説明にありましたように総論賛成各論反対になる傾向があって、これがスピードを遅らせ、構造改革を遅らせているということも事実です。私なども、個人で言う場合と「立場上から」と言って使い分けて発言したりなどしますので、その限界は私自身も発言に気がついてやっていることであるのですけれども。しかし、こういうふうに複雑になってきた場合にはコンセンサス方式をどのようにして運営するかということ自体が問題であって、その構造的な問題を考えるということも一方では必要ではないかと思います。
こういうふうに書きますと、発想的に誰かがリーダーシップを取って、あとは政治決着して、政治で決めたのだから多数決でいいんだという話に印象としてなりますので、情報開示とか、情報公開とか、あるいは審議会方式の限界といいますか審議会方式をもう少しコンセンサスを得るために、例えば、情報公開してその意見の吸収の仕方をどのように工夫するか、あるいは最近はIT時代でありますから、そうした一般国民の声を直接聞けるようなやり方をすることによって、それをまとめてコンセンサスを図っていくという、スピードとコンセンサスの深さを何らか工夫する必要があるということのニュアンスを入れた方が。単に「コンセンサス方式はいけないんだ」というふうにとられるとこれは非常に問題がある、こういうふうに思います。
〔 D委員 〕3点ほど申し上げたいと思います。
1つは、戦後の経済計画といいますか、役割の変化というのがやはりあったと思うのです。その当初は、インディカティブプランニングといいますか、誘導的計画の時代があって、その次に展望、パースペクティブを出すという時代が80年代にあって、今求められているのは何かというと、国家としての戦略といいますか、特に経済財政面での戦略を絞り込むことである。
これまでの計画はある意味では非常に総合的で全てが網羅してある。けれども、戦略性がどこまであったかというと、ちょっとないのかなという気がいたします。つまり、論点を絞り込んで、この時代、この時期にはこのことだけをやるのだと、1つか、2つかわかりませんけれども、そういう戦略の絞り込みの作業というのがむしろ弱かったのではないか。弱かったがゆえに、内閣がほかにいろいろな私的な研究会とかそういうものをつくらないと間に合わなくなってきた、という率直な印象を拭えないわけです。
戦略というのは、それではどういう立て方をするのかというと、基本的には国としての目標は今何なのかということを明らかにすることが必要だし、それから、対外面については、先ほどお話があったのですが、外圧型であるとかというのがあって、80年代も、前川レポートとかいいレポートだとは思うのですが、基本的な発想が「外圧にどう対応するか」という、つまり受け身の姿勢で、世界とともに生きるのだけれども、何となく自分自身の国益は本当にどこにあるのかということをあまりはっきりさせないで、一緒に生きていく、アジア的な調和といいますか、協調のある意味で悪いところがあったのではないかと思うのです。
2番目に申し上げたいのは、マクロの政策をどこで間違ったのかという点。1つは、バブルがどうしてあれほどになってしまったかということです。もちろん、バブルがこんなにひどい帰結を出すとはあのときは誰も思わなかったのですが、ただ、金融政策の方で言うと、過度に金融緩和を続け過ぎてしまった、その裏をもう一つ言うと、財政再建という縛りがもう一つあって、金融政策の方に過度の負担がいって、それが両方にしわ寄せ、つまり国際協調と財政再建という2つの制約条件が加わって、それがある意味ではバブルを相当厳しくしたのではないか。あと、マクロの誤りで言うと、90年代はロスト・ディケイドだと言われているのですが、1人当たりのGDPの水準が、80年代にはフランスに追いつき、80年代後半にはアメリカに追いつきという、つまりキャッチアップ型の制度というものがこのときに実は、つまり80年代にはある意味では役割が既に終わっていた。ところが、それをキャッチアップが終わって、今度は日本がある意味では世界でリーダーシップを取らなければならない、あるいは多様な価値観の中で国の役割は何かということを明らかにしなければならないときに、様々な国内の制度変更というのは、80年代にやるべきだったことを90年代に持ち越してしまったという点が、金融などを見ていますと非常にそういう感じがするのですが、ほかの分野でも同じようなことが起こっているのではないか。つまり、戦後の1940年体制と呼ぶのがいいのか、55年体制と呼ぶのがいいのか、政治体制ももちろん関係があると私は思いますが、新しい日本が取り組むべき課題は何かということに対して、制度の移行が、あるいは制度の変革が10年ぐらい遅れてしまった。遅れたのを、6つの分野とかいうことで少しやったのですが、まだ足らない。そういう3つぐらいの要因があって、マクロ面でのパーフォーマンスというのは90年代以降非常に悪いという、この反省が必要ではないかと思うのです。
3番目の点というのは、具体性が非常に乏しいこと。これは、ここに何べんも書いてあって、長期の展望などを見ると戦略と書いてあるのですが、戦略と書いてあっても、それでは、戦略を実現するためにどういうことをやるのですかということまでは書いてない。例えば、経済の方ですと、財政というのは非常に大きいウェイトを持っていて、財政再建が逆に経済計画を縛るという面もあったと思うのです。さらに、新しい組織に経済審議会が生まれ変わるということですと、毎年の予算の決定のプロセスというようなところまで踏み込んだ議論というのをやっていかないと、具体性がいつまでも無いという話になるのではないかと思います。
先ほど、総理のリーダーシップというのは、私は内閣のリーダーシップと言った方がより穏当ではないかと思っていますが、そのときの内閣における、もちろん日本の内閣の制度自体がはたして与党の中のパワーバランスを十分反映しているのかとか、政治的なプロセスの問題はありますけれども、基本的には内閣が経済財政の戦略を経済財政諮問会議において、この会議ではそれを議論するというようなスタイルを作っていくことが今、非常に重要ではないかと思います。
4番目は、情報の加工、収集というのは非常に難しい問題で、私はうまい回答がないのですが、基本的には、民主主義の進化といいますか、どのようにして底辺からの意見というものをうまく最終的な政策決定に反映できるようにするか。これは大企業の組織決定も似たようなところがあると思いますけれども、政府でもどうしたらいいのか、非常に難しい問題だと思います。
〔 E委員 〕第1点は、この反省の中で、計画を作る、あるいは見通しを作る時期ですが、適当な時期にそれぞれ作っているのかということについて触れられていないという憾みが感じられます。
経済見通しなり、経済計画なりの重要性というのは、1つは整合性のある経済学的な根拠のある見通しを民間にも提供するということにあるわけです。ところが、第1次石油危機であるとか、バブルが崩壊するとか、そういうときになると今までの前提が違うわけです。違うのはしょうがないと思います。しょうがないのですが、それが違ってきたら、すぐ計画を作り直さないと、参考としての機能が働いていないということになると思うのです。
今の資料をずっと拝見しますと、結局、第1次石油危機が起きたり、バブル崩壊が起きたりすると、びっくりして立ちすくんでしまうわけです。しばらく眺めるわけです。それはわからないでもないですけれども、それで次の計画が出るまでに3年ぐらいたってしまうわけです。
そういうことになると、経済計画としての機能、役割が減殺されると思いますので、今後のそういうものを作るときの1つの反省の材料として、そういう予想もしないような事件が起きたら直ちに作り直してみるということに、少なくとも見通し面ではそういうことにすべきではないかというのが第1点であります。
第2点は、先ほどお話がありましたように、今後、経済財政諮問会議とかいう話になっていって、そこで閣僚が中心になっていくとか、民間は4人とか、そういう話になってくると、やはり実行ですね、提言もさることながら、実行をどうするのかというところに相当重点がいくのではないかと思うのです。だから、実行がどこまでいったかということについての何か反省みたいなものが、今までのものに関してもあっていいかなと思います。
第3点は、先ほど1億総懺悔という話がありました。1億総懺悔すべき時期が「我が国経済の“頂点期”」というふうに名前が付いてしまうというのは、いささか違和感があるなと。何となく大本営発表を思い出すような感じでですね。
確かに、1人当たりのGDPその他でいえば、今からあとづけてみると、あのときは栄えていたのだなあということはありますが、超バブル発生期であったわけですから、それを“頂点期”と呼ぼうというのは、ちょっとどうでしょうか。もう少し実態に即した名前があるのではないか、という感じがいたします。
最後ですが、先ほどの委員のおっしゃった「生活実感からすると…」というのは、謙遜しておっしゃったのでしょうけれども、確かに昭和26年とか28年とかいうのは非常に苦労していた時期で、高度成長なんていう時期では全くないわけですから、それははっきり、1956年以降なら56年以降というふうに限定していただいた方がいいと思います。
〔 部会長 〕「頂点期」というのは、「間違って頂点と思っていた時期」という意味だと思います。
〔 F委員 〕私は、「頂点期」とか「絶頂期」というと、今後日本にはああいういいことは二度とないという感じであまりにも寂しいので、いつかまた違ったいいときもあるのではないかということで、少し表現を変えた方がいいかと思います。
私が申し上げたいのは、経済審議会の評価というのは何らかの科学的根拠に基づいた報告とか提言がなされているところであって、これから新しいシステムになっても、できるだけそういう論理的あるいは科学的な根拠に基づいた審議がなされる必要があると前回も申し上げたのですが、そういう観点から言うと、経済審議会の活動の評価をする上で、そこで果たした経済学の役割、あるいは果たさなかった役割というか、それが1つ縦糸として必要ではないかと思います。特に、ここで分けられた別紙2の大きなⅠ、Ⅱで言うと、たぶんⅠの「高度成長期」から「石油危機後の調整期」までは、いわゆるマクロ経済モデルの絶頂期というか黄金期で、理論的にも非常に精緻なものになりましたし、特に60年代以降、大型コンピュータの発達によって事象分析がマクロ経済のモデルで進化した、それの1つの絶頂期というか、これももっといいことがあるかもしれませんけれども、到達点が1980年前後に経済企画庁で作られた世界経済モデルなのかもしれないと思います。
そういう面で言うと、第I期というのは、経済学と経済審議会が両方ともうまくいっていたというか、あるいはマクロ経済モデルの成果を経済審議会にも取り入れやすかったという時期だったと思います。
恐らく、その後の経済学の発展は、もちろんマクロ経済学もそれなりにいろいろな発展をみたわけですが、一方では、例えば合理的期待形成というような、政府の計画とか政策自身があまり意味がないのではないかというようなインプリケーションを持つような形で発展したという部分もありますし、むしろ経済学の発展がミクロ経済学、かなり部分均衡的なところで多くの分析がなされてくるようになったということがあって、そういう面では経済審議会での経済学の使い方も、ある種の政策の効果をみるためのミクロ分析とか、そういうような形がより重要になってきた時期ではないかなと思います。あるいは一般均衡的なモデルでも、例えば、私は1ついい例は社会保障の将来についてのいくつかのシェアについてシミュレーションをやられている、ああいう比較的目標を限定してきちっとリボラスな分析をするというようなところで経済審議会と経済学の関係が、どちらかというと、いわゆるマクロモデルの役割が少し後退してきたのが第Ⅱ期のところかなと思うのです。
さて、そういうふうに考えると将来、経済学と政府の経済審議といいますか、経済財政諮問会議でもそうだと思うのですけれども、どういう関係で行くべきかということは非常に重要な問題ですし、私は、経済学者としては、経済学がいつまでも政府の経済計画なり、あるいはビジョンのバックボーンにあってほしいと思うので、そういう意味でも過去の経済計画と経済学の関係というのを何らかの形でプラス,マイナス、あるいは経済学の役割がどういうふうに変わってきたかということを整理した方がいいかと思います。
〔 G委員 〕大体今までのお話で出ていることに尽きるかもしれませんが、1つは時代区分ですが、これは全部が西暦で通してありまして、最近は私も西暦というのがすぐピンときますけれども、昭和なり元号の方がよくわかる時期があると思います。例えば、石油危機は74年というよりも昭和49年と言った方が一般にはわかりいいのです。これの表記の仕方を少し工夫していただければありがたいと思います。
時代区分についても先ほどから出ておりますけれども、1950年代というのは、戦後の前高度成長期だろうと思います。また、先ほどから出ていました「頂点期」、これも非常に違和感のある言葉で、むしろ成熟期、あるいは爛熟期かもしれませんが、確かにGNPは伸びておりますけれども、非常に不安を持っていた時期なので、この表現については考える必要があるのではないかと思います。
中身につきましては、先ほどもお話がありましたが、見通しを誤るということ、これはやむを得ないことだと思います。見通しを誤った場合にすぐフォローアップできる、そういう体制を充実すること、これが必要だと思います。
この中には、経済審議会では具体的施策についてもう少し踏み込んだ方がよかったのではないかという指摘が何度かございますが、これはこの審議会としてはできなかったこと、または能力を超える問題ではなかったかという感じがいたします。基本的な方向だけはきちんと審議会でやるべきであったわけですが、そこから先、具体的施策については審議会の能力を超えているのではないかという感じがいたしております。
全体を通してでありますけれども、この総括なり反省なりを今後、来年から始まります新しい行政機構、そこにどういうようにこれを生かしていくかということだと思いますので、その意味でもう少し踏み込んだ形で、例えば経済財政諮問会議にどういうことをお願いするのか、注文するのか、財政首脳会議の問題もありましょうし、今の設置の状況では小委員会制度はあまり活用しない、限定するというようなお話もございますが、むしろ小委員会というのをよく活用された方がいいのではないかと思います。各省間で作っておりますいろいろな会議、私的懇談会、こういうのは逆に言うと各省の利害を非常に強く反映しておりますので、むしろ整理するなら、そういうところを整理されるべきではないかという感じがいたしております。
それから、総理大臣のリーダーシップ、これは私も非常に気になっております。リーダーシップが本当に効いたのは、例えば臨調とかそういう行政改革、これはそうだったかと思いますけれども、ある意味ではいろいろな会議を作られても、それが数多く、またいろいろなものができて、実際にそれが動いていない。むしろ、混乱をしているというような点が気になりますので、その辺はきちんと整理された方がいいのではないか。特に今後の問題としては、財政問題は21世紀にかけて社会保障も含めますと非常に大きな問題です。その意味で、経済財政諮問会議での取り上げるテーマとして、こういう問題に重点を置いてもらいたい。また、この審議会の提言としてはっきり言われた方がいいのではないかという感じはいたしております。
〔 H委員 〕経済審議会の役割と総括ということですけれども、私の感じからすると、前半は何となくカッコよかったという印象を持っています。恐らく、経済審議会が出した目標というものが政治的にもうまく実行されて、達成されていったということが国民的にも受け止められたし、マスコミもそういう受け止め方をしていたから、経済審議会が出してくるスローガンとか政策というものが何となくカッコよく受け止められていたという感じがするのです。しかし、後半になってくると、いいことを言っているのだけれども何となく力がなくて、調整機能がなくて、いわばワン・オブ・ゼムになってしまったという感じがするのです。つまり、政府全体を引っ張っていく戦略とか指針を出しているというよりも、いろいろなシンクタンクが出したり、前川委員会が出したり、臨調がいろいろ出していますけれども、そういうもののワン・オブ・ゼムとしか扱われないような、そういう印象を受けるというのが第1点です。
なぜ後半そういうふうになってしまったのかということですけれども、それは戦略性がなかったためなのか、述べている切り口だとか論及の仕方だとか、あるいは言及の仕方に鋭さがなくて、訴える力がなかったためなのか。実は、そういうものはあったのだけれども、逆に言うと、そういうものに対して政治の圧力だとか、あるいは外国・国際的な圧力だとか、そういうことによって経済審議会が述べたことが実現できなかったのか、その辺の関係をもう少し詳しくみておいた方がいいのではないか。そういう意味で言うと、政治と、国際社会と、それらとスローガンとの力関係というのがどうだったのか。そのことは、たぶん経済財政諮問会議、内閣府ができたときにも今後、大きな問題を考える上での足掛かりになってくるのではないかと思います。
もう一点だけ言うと、経済審議会だから仕方がないのかもしれないのですけれども、経済が中心になっているわけです。けれども、最近は何を言っているかというと、必ずしも経済のことだけではなくて、この中でも「生活大国」というようなことを言い出してきている。それから最近では、ソフトあるいは文化というようなことまで言ってきているわけです。あるいは、クリエイティビティを出すために教育なんていうことまで言ってきているわけですけれども。私は、特にこれからは文化的な視点とかいうことが非常に大事になってくると思うし、この別紙の中にも「感性」なんていう言葉が使われているわけです。ということは、今後の世の中というのは、文化とか、感性とか、そういうものが世の中の合意形成の上でも必要だし、そういう視点をもっと取り入れないと、恐らく魅力のあるものにならないということは何となく感じているのだろうと思うのです。しかし、そういうふうに言っているにしても、では感性とか文化というものをどういう切り口で書いていくかといったときに、例えば、経済企画庁は「豊かさ指標」などを出して、その中には「安らぎ」とか「癒し」などという、なかなか今までの経済企画庁では考えなかったようなことを出しているけれども、その指標は何かというと、病院の数であったりとか、下に降ろしたときに、何故この指標と「癒し」とが関係あるのかというような、その結び付きがどうもはっきりしないのです。その辺が、感性とか、文化とか、あるいは生活大国などといったときのスローガンと実態、あるいはその政策と合わないことになってきているポイントもあるのではないか。
そういう意味で言うと、経済学を根拠にするのだけれども、その指標の取り方などをもう少し幅広く、実態を表したような指標を取っていった方がいいのではないかと思いました。
〔 I委員 〕まず第1点ですけれども、例えば、別紙1の6ページに、地域間格差の是正というのがあります。この地域間格差の是正というのは、昭和40年のこの時期だけではなくて、日本全体で均衡ある国土の発展が必要かどうかというのは今もずっと抱きかかえてきている問題だと思うのです。これについての指標が、資料2の19ページとか20ページで、三大都市圏への人口の流出入と東京圏の人口シェア、それから地方圏と大都市圏の所得格差というところで指標ということにしておりますが、はたしてこれで計画の手段と結果という因果関係がはっきりわかる指標となっているのかということについては、私はいくつか工夫の余地があるのではないかというような気がいたしております。その因果関係がもう少しわかるような指標がよろしいのではないかということです。
第2点目は、経済分析を重要視しているものでありながら、例えば、日本型福祉社会のように、将来的な同居率についてはかなり楽観的なことで全面的に論を展開してしまうというような、家族等についての予測は非常に難しいのであれば、それについてはかなり幅を持たせる方が今後ともよろしいのではないかという気がいたします。
第3点目は、ここの審議会でないと日本全般にわたる構造改革というのを議論できる場がほとんどないような気がいたしますので、場が移っても、今後の最重点の責務として、私は、経済の構造改革を議論する場であってほしいと思います。
〔 J委員 〕いろいろとお話を聞いていての意見という形なのですけれども、実は、経済審議会と同じように私が人生を生きてきたというような感じがするのですが、3点申し上げたいのです。
私たち消費者から見ると、豊かさを実感できない。たしかに、GNPとか、GDPとか、世界1位とか2位というふうに言われていても、豊かさを実感できないという時代が1980年代前半ぐらいからあります。これが何かということですが、ほどほどの豊かさというのは、みんな感じてはいるのですけれども、基本的な住まいとか、老後とか、医療とか、こういうところが政策的にきちんとされていないための、充足感がないということが豊かさを実感できないという言葉で表されていたと思うのですが、これがなぜできなかったのだろうかというのが1つです。
2つ目は、80年代後半から規制緩和ということが言われて、私ども消費者団体にも、米国大使館からたくさんアプローチがありまして、どうして日本の消費者団体は規制緩和に反対をしているのかということをずいぶん言われたりして、政府自身からも、消費者団体はなぜ規制緩和に反対をするのかということを言われた数年というのがあるのですが、基本的には、規制緩和に反対ではなかった。けれども、何かが足りないというふうには思っておりました。というのは、消費者とか国民とかというのは反射的利益を受ける存在ではなくて、もっと主体的に、こういう社会にしたいとか経済社会にしたいというのがあるのですが、それをどこも政府は明確に打ち出していくことがなかった。特に、それは経済審議会などはやれたのではないかと思うのですけれども、そういう明確なものが見えなかったというのが2つ目です。
3つ目は、今までのお話の中にも出てきていることですが、経済審議会に限らずいろいろな審議会で出されたものというのは、非常によくまとまってはいます。分析はすごく優れているけれども、次へ移る戦略というところが非常に欠けているというふうに思っておりまして、これは別に経済審議会に限らず、どこでもそうなのですけれども、なぜそれが欠けているか、なげそれができないのだろうかというところの分析はもっともっと詰めてみる必要があるのではないかというふうに思っております。
ただ、それでもそんなに悲観的に日本という国の経済の将来を考えているわけではなくて、各国を聞くと、例えば、80年代の米国というのは双子の赤字とかと言われたり、銀行が倒産したりするというのを聞いたりして、大変な国だというふうに思っていましたけれども、10年たてば、ああいう形でやっていける。ほかのヨーロッパの国々でもそうですので、本当にきちんとした戦略と政策をたてるということに政府全体としての力点を置かれて、この経済審議会の場もそれに向かってやっていくことができれば、絶頂期はもうないとかいう話がありましたけれども、絶頂期までは行かなくても、より豊かさを実感できるような経済社会はできていくのではないかというふうに感じています。
〔 A委員 〕最初に部会長がおっしゃったように、振り返っていろいろ考えていくのは、1980年以降で私はよろしいと思います。
先ほどの、初めのうちはわりにカッコよかったけれども、何となく歯切れが悪くなってきているというような感じとも何か関係があるのではないかと思うのですけれども、経済全体としては、別紙1の問題点の中にも書いてあるように、成長型の経済体質から成熟型の経済体質に変わってきていることの認識が遅かったのではないかというような批判は、1つあると思うのです。それともう一つ別に、今度は国民生活の面で言って、私が現役時代というのは高度成長で追いつけ追い越せの時代だったわけですけれども、そして日本の国が豊かになったのですけれども、豊かになっただけではなくて、国民所得の平準化というか、貧富の格差というのはあまりいい言葉ではないのですけれども、総理府の家計調査の5分位階層別などを比較しても、その間に、世界に自慢してもいいほど平均的社会というか、平準的社会が生まれた。その平均的社会、平準的社会が生まれたことはいいのだけれども、そういう状態の下でいろいろなことを考えていく難しさというものがそこに加わってきているのではないか。その辺が80年代以降のことを考えた場合の1つの切り口として、何か浮かび上がってこないかなという感じが、漠然としているのです。私は、あまり自信がないので申しわけないですけれども、要するに、平均化社会になったことによってこういう問題が難しくなったとか、こういうことを考えるべきだったのだとか、「生活大国5ヵ年計画」のときに、若干そこに近づいた感じがしないでもないのですけれども、その辺の切り口が1つ考えられないかという感じがいたしております。
〔 K委員 〕2点、短くお話ししたいのです。1点は、評価にも関係するかと思うのですが、今日のお話でもそうだったと思いますが、こういう方法を取るのが当たり前なのですけれども、過去と比べて現在、あるいは10年前と比べて5年前はどうかという、こういう比較をするわけです。そうすると、80年代ぐらいまでは右上がりに上がってきて、ですから経済がうまくいったのだという判断ができると思うのですけれども、比較の対象として過去を対象にするのではなくて、例えば他のOECD諸国とか、違った言い方をすれば、まだ目標になるような、そういったものを比較することができると思うのです。
具体的に1つ例を挙げますと、例えば、下水道の普及率が先ほどありましたが、確かにこれは過去に比べて急速に上がってきているわけです。数字を確かめたわけではないので間違っていると困るのですけれども、ほかの先進国と比べると低い可能性があると思うのです。たしか、7割ぐらいだと思いますけれども、国によってはもっともっと高いところもあるというような感じを持っています。もしそうであれば、比較するのは、1つはもちろん過去ですけれども、もう一つは、例えば1人当たりGNPでもいいですし、何らかの指標でみて同じような国、その国ではどうなっているか。そういう比較をすることによって、はたして日本人の生活は本当に他の先進国の人々の生活と同じような水準に行っているのか、ということができるかと思うのです。
ですから、比較の仕方、比較の対象をもう一つディメンションを加えて、他の同じような国々と比較するということが重要ではないかと思います。
それとも関連するのですけれども、ほかの方々もおっしゃったと思うのですが、量的な部分が非常に重視されている。例えば、国際貢献というところで先ほどお話しいただいたのですけれども、ODAの金額を見ているわけです。ODAだけの金額を見れば、確かに過去10年ぐらい、日本は世界一のODA供与国であるということは事実ですが、もうちょっと違った面から国際貢献というのを見ると、かなり違った数字が出てくるのです。具体的に言うと、援助というところに絞りますと、世界銀行とかIMFという国際機関があるわけですが、そういうところにいる日本人の数はどのくらいかというと非常に少ないわけです。職員の数も数字ですけれども、国際貢献にしても、生活の質にしても、ほかの問題にしても、いろいろな視点から見ないとかなり間違った印象を持ってしまう。したがって、そういう印象を持ってしまうと、もちろん計画を評価する場合、計画を立てる場合、これは狂ってくると思います。ですから、そういったいろいろな角度から計画を見る、あるいは計画を評価するということが重要ではないかと思います。
〔 L委員 〕私も、過去の計画の役割を評価するということは、今後の戦略を考えるという視点から見ていかなければいけないのではないかと思います。
そのときに、私が先ほどのご説明を聞いてやや奇異に思ったのは、少子高齢化のお話が長期展望との絡みだけで議論されていて、計画本体のところで全く出てこなかったのです。これはやはり問題であって、少子高齢化は先の話かというと、そうではなくてこれは過去の話でもあるのです。出生率の低下が始まったのは75年からですし、平均寿命というのも70年代央から現在まで5歳伸びているわけです。それにもかかわらず、それに対応して社会保障の改革が全く行われていなかった。例えば、寿命が伸びたら、支給開始年齢を上げるのは当然であるわけですが、それがまさに2001年からようやく始まるという、この対応の遅さというものをどう考えるか。少子高齢化は決して将来の話ではなくて、過去の話であって、この対応の遅さをそのまま将来にも延ばしていけば、私は、ロスト・ディケイドはロスト・ツゥ・ディケイドの問題になるわけであって、要するに、失われた10年は終わった10年ではなくて、もう10年ある可能性はあるわけで、そういう意味での反省を踏まえた視点というのが非常に重要ではないか。
そのときに、第2の視点とも関わるのですが、経済審議会が他の審議会とどういう役割分担をするかというときに、これまで前半期というのは、マクロモデルという武器を持っていたから、それからアカデミックなサポートを受けていたから、他の審議会に比べて優位性を持っていたわけです。それがいつの間にか、他の審議会と大差なくなってしまったのは、結局、ここの分析にもありますように、過去の成功期のシステムをそのまま維持してきた。要するに、マクロモデル一本槍でやってきて、それ以降のミクロ分析であるとか、そういうものが必ずしも審議会に生かされていなかったのではないか。
ただ、これは経済企画庁の中では、例えば経済白書では、世代間の所得移転の規模の大きさというのを初めて政府の白書では、厚生省と大喧嘩して書いたわけで、それが今や厚生白書でも毎年書かれているわけです。そういうような形で、アカデミックな分析をいかに政府の公式の分析として認知するかというのが、経済審議会の1つの大きな役割ではないか。それを通じて、ほかの審議会との優位性、比較優位を維持していくというのが大事だろうと思います。
3番目には、コンセンサス方式の限界か、内閣のリーダーシップかということですが、ここはぜひ審議会で議論する必要があるかと思います。私は、コンセンサス方式というのは、過去の高い成長の時期には意味があったわけですが、これからの進路なき時代には、間接民主主義というものをもっと評価すべきであって、選挙で誰かを選んだら、ある程度その人に委ねる。それが駄目であれば、また選挙で落とせばいい、あるいはその代表者を替えればいいわけです。せっかく選挙をしておきながら、その人の足を常に引っ張っているというのがコンセンサス方式であれば何の改革もできないわけです。この典型が大学の学部長方式であって、もうこんなことをしていたら駄目で、そこは選んだら、その人に任せるのだという、欧米の大統領方式、別に制度を変えろと言っているわけではなくて、今の議会内閣制であっても同じことはできるわけで、そういうような形でのリーダーシップみたいなことの是非を議論するというのも、ここでの大きな使命ではないかと思います。
〔 M委員 〕私も、時代区分あるいはネーミング等については大体同じですので、省略いたします。
1点だけ、社会資本整備の関連ですが、経済計画の中で社会資本整備の目標というものは相当揺れ動いているというか、あったりなかったり、あっても相当違うというところがありまして、ただ、私は、これからの経済計画においても何らかの目標というものが必要ではないかと。それも、あまり揺れ動かないもの、ある一定の期間。それが経済計画の歴史でいきますと、その時代時代においての財政問題その他いろいろな問題があってやむを得ない面もあるのですが、ちょっと動き過ぎているかなという感じがいたします。
もちろん、単に昔のように、道路何キロとかいうことを示すということではなくて、「生活大国5ヵ年計画」あたりで示したようなスタンス、生活する人間にとって豊かさをどう感じられるかというような観点からの指標、そういうものが必要ではないかという感じがします。
そういう意味で、「生活大国5ヵ年計画」、先ほど下水道の話がありましたけれども、まずあの目標自体が、今2000年目標が大分ありますが、私も正確ではありませんが、あまり達成されていない。下水道なども、まだ60%弱で、7割ぐらいだったかと思います。そういう意味で、フォローもあまりされていない感じです。しているかもしれないけれども、少なくとも、世の中に対して、これはこうなった、こういう状況だということの開示はあまりないので、そこはフォローというものをする必要があるのではないかと思います。これからも、そういった観点からの目標数値というもの、ある程度の期間に通用するようなものが必要だと思います。
来年になるのでしょうか、政策評価制度というものが出てきます。これが社会資本整備ばかりでなくて、経済計画の目標との、全体との絡みをどう位置づけるか、そこのところも政策評価制度との絡みで、何らかの格好でリンクづけ、目標との関係、それをすることによって実効性というものが出てくるのではないかという感じもしております。
〔 N委員 〕約半世紀にわたる経済審議会の活動を概観していただいて大変勉強になりましたが、全体を眺めまして、私もかねがね、やや違和感を持っていました点が非常にはっきりしておりますのは、「金融」の問題についてほとんど取り上げられることがなかったのではないか。
関連資料4でも、7でも、これはそういう概念が取り上げられたかどうかということだけではありますけれども、これを見ても歴然としておりますが、国際金融も含めた金融分野の問題というのはほとんど取り上げられていない。6分野の構造改革のときに、金融構造改革といいますか、金融ビッグバンの問題が取り上げられたことはあるのですけれども、どうもその辺が一貫した大きな問題点ではないか。
この問題点が非常にはっきりしたのは、バブル経済の生成と崩壊のところの政策的な対応が、この中にも書いてありますけれども、必ずしも十分ではなかったということに現れているのではないか。80年代以降といいますか、特に80年代後半以降、国際金融も含めた金融分野のいろいろな変化が、いわば暴力的に実態経済に非常に大きな影響を、特にマイナスの影響を与えていることははっきりしているわけでありまして、恐らく21世紀以降もこの国際金融なり、国内も含めた金融システム全体の動向をどう情報として捉え、あるいは政策の中にそれを位置づけていくかというのは、私は極めて重要な問題ではないかと思いますので、今後のあり方としてぜひご研究をいただきたいと思います。
〔 O委員 〕私も80年以降のことを中心にお話をしようと思うのですが、その中でも制度論という面に関しては、各省にまたがる項目について、規制緩和等でもいろいろ提起もし、提言もされたことは、それなりに有効だったと思うのです。しかし、それがまだまだ中途半端に終わっているところは否めないと思うのです。これは介護の問題もそうでしょうし、例えば社会保障、少子高齢化の問題も、負担と給付の問題等も本当に先送り、先送りをしているという状況がどうして起こったのかというようなことも、もう少し原因を追求してみる必要もあるのだろうと思います。
また、いろいろな経済指標のご説明もありましたが、やはり経済、財政が中心です。これは、50年代の延長線の、言ってみればキャッチアップ型の考え方が80年代以降も経済と財政中心という形でずっと引きずってきた。それがバブルの時代にもビジョンがないために対症療法だけできたのかなという気がしないでもないです。
50年代から70年代というのは、この文章にもありましたように、国民の合意を得やすかった。これはキャッチアップという面で合意を得やすかったと思うのですが、同じように、80年度以降は国民の理解というか、国民の感性が得られるようなビジョンが作れなかったということが一番大きな問題だと思うのです。国民に近いところでの戦略とかビジョンがないと、国民も動こうとしない。例えば、現在もまだまだ経済回復すれば問題は解決するという認識が全体を覆っていると思いますし、あるいはITでこの国はよくなるという、その考え方だけがまだ覆っていると思うのです。しかし、多くの国民はそういう認識を持っていないと思うのです。それは一部の人間でやればいい。もっともっと国民生活者の中で消化できるといいましょうか、そういうビジョンが必要だと思います。
私は、どんな組織もそうですが、国のリーダーシップ、それはビジョンとか戦略というものを描く力でしょうし、そのことと国民の活動というものが一致して、なおかつそれがストックとして蓄積していくような形にしていかないといけないというのが大事であって、そのストックという考え方が今までなかった。経済と財政が中心ということになると、ストックという考え方はそこにはどうしても外れてしまうと思うのです。
これは前回ちょっと申し上げたのですが、先ほどもどなたかがおっしゃいましたが、大変すばらしい前半の政策で平均的、画一的な水準になった。その国がこれからどういう国柄だというと、要するにビジョンというのが描けなかった、中途半端だった。私は、均一的、画一的な国の後は、個性ある地域の集合体がこの国の活力を生むのだという、そういう大きなコンセンサスがとてもあると思えないです。あるいは、あるものを壊してないものを創るというよりは、あるものを生かしてないものを創るという、そういうコンセンサスはまだまだない。あるいは、いろいろな創造というものが競争の中から生まれるという、それはそれでいいのですけれども、そうではなくて、人とか、自然とか、地域から生み出すリズムの共振によって創造が生まれるというような考え方はまだまだあると思うのです。しかし、そういった観点での創造性の発揮というのはほとんど語られない。そういう問題があるように私は思うのです。
ですから、きっちりと中期のビジョンを提示すること、20年、30年のビジョンは必要だと思います。しかし、ビジョンがあっても、そこには当然に景気とかいろいろな社会変動が出てくるのは当たり前です。そのときにどうするかということで、問題を先送りにしない、内閣府が主導で相当権力を持った、その問題を先送りにしないためのタスクフォースみたいなものをどう作っていくかということが、私は問われるだろうと思います。
ですから、80年代後半は、一言でいえば、対症療法的政策提言みたいなものはあったけれども、これからはビジョン・プル型の政策提言に、問題があれば直轄の力があるタスクフォースで問題を先送りしないような、そういうことをどうやって作ったらいいのかなということをちょっと思ったわけです。
〔 P委員 〕私は企業経営の立場で参画させていただいています。皆様方のご意見もいろいろ拝聴させていただきましたけれども、経済審議会というのは、経団連の会長がこのところずっと会長をやっていまして、そういう意味では、経済界がかなり参画もし、それから実態の企業経営の指標としているわけです。
それぞれ各期間に区切って反省点あるいは利点というのをいろいろ書いておられますけれども、我々企業経営からいえば、絶えずコンティニアンスに続いていく経営を考えているわけです。ゴーイングコンサーンという考えで、計画についてもそれぞれの反省点も大変重要ですが、次の期のときにその反省点が生かされたかどうかという、それが絶えずコンティニアンスにできていかなければいけないです。例えば、コンティンジェンシープランを絶えず用意しておったのか、それに絶えずうまくモディファイしていったのかどうか。
これが本当に経済計画という単なる政策方針の長期的なビジョンだけを出すという会議にとどめるのか、具体的な実行計画に今度の経済財政諮問会議で持っていくつもりなのか、それによってこの反省点の考え方も変わってくると私は思うのです。
したがいまして、いろいろなことを言われて、経済計画は経済数値から感性に至るという実際の生活対応まで全部網羅してここでやるのか、あるいはこの分野だけは経済審議会から経済財政諮問会議に持っているのか、その範囲も少し検討しておかないと、従来と違うのだということでご検討をされた方がいいのではないかと思います。
〔 C委員 〕一言だけ言います。
全体がそうだと思うのですが、右肩上がりだったから合意形成ができたというのは、私は違うと思うのです。あれは合意形成してないんです、何もしていなくたってできたというだけの話で。逆にコンセンサスだとか合意形成というのは、こういうふうに右肩上がりがないときにどうするかということをコンセンサスしなければいけない。
間接民主主義も、本当に機能していれば、それは任せていいんです。けれども、日常の政治活動の中でそうしたものが反映しているかどうかということは、ちゃんとシステムがなければ、その面については経済審議会の議論ではありませんが、そこがあって初めて間接民主主義で選ばれた人に委ねるということになるわけで、私は、今こそコンセンサスが必要だと、こういうことを強調したいのです。
〔 部会長 〕どうもありがとうございました。本日は大変熱心にご議論いただきまして本当にありがとうございました。最初にも申しましたし、各委員からもお話がありましたけれども、反省は自虐悲観を広めるためではなくて、前向きにこれをどう生かすか、次の組織にどう生かしてもらうかということでの反省でありますので、今日のご発言の中からいくつかヒントが得られたのではないかと考えております。次回以降、この問題について、さらに今後の問題を中心にご議論いただきたいと思っております。
なお、豊田経済審議会会長から先日、お声が掛かりまして伺いましたら、経済審議会の半世紀近い歴史の最後の提言をおまえの部会でやるのだからしっかりせよという、激励というか、注文というか、お言葉を賜ってまいりました。各委員の先生方にどうぞよろしくということをおっしゃっておられましたので、お伝えさせていただきます。
それでは、次回は、11月13日月曜日の14時から16時にこの会議室で開催いたします。
これまでに出ましたいくつかの議論を事務局においていろいろと整理しながら、次の資料を作っていただきたいと思います。
本日は、総括政務次官におかれましては、終始ご在席いただきましてありがとうございました。
それでは、これで閉会とさせていただきます。
-以上-
(連絡先)
経済企画庁 総合計画局 産業班
Tel 03-3581-0977