第2章 第4節 アジア通貨・金融危機の世界経済への影響

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貿易,直接投資や金融面での経済的相互依存関係の深化や情報・通信技術の進歩によるグローバル化の進展を背景に,アジア通貨・金融危機は貿易,金融取引などを通じ,世界経済全般へ様々な影響を及ぼしている。特に,1998年8月のロシア・ルーブル切下げ後は中南米,中・東ヨーロッパ,CIS諸国も含めて,世界の為替市場,資本市場は極めて不安定化している。このことは,94年末からのメキシコ通貨危機の影響が広範に伝播せず,世界経済全体への影響も限定的であったこととは対照的である。本節では,特に貿易や資本移動(直接投資を含む)を通じて,アジア通貨・金融危機が世界経済全般に与えた影響を概観するとともに,不安定化した今日の世界経済におけるリスク要因について検討する(第2-4-1図)。

1 貿易面を通じた影響

アジア通貨・金融危機の貿易面での影響は,主に2つの経路が考えられる。一つは,東アジア諸国の為替減価そのものがもたらす影響である。為替が大幅減価した東アジア諸国にとってみれば,自国財・サービスの国際価格競争力が相対的に高まることになり,輸出数量は増大し,輸入数量は減少すると考えられる。この結果貿易収支は改善の方向に向かう(注4)。他方,域外の諸国にとっては,これとは逆に,東アジア諸国の為替減価はその他諸国の輸出数量の減少と輸入数量の増大につながり,貿易収支が悪化の方向に向かうことになる。

為替減価による価格効果に加え,もう一つの経路として東アジア諸国の内需縮小がもたらす影響が考えられる。引締め政策を行っている東アジア諸国においては所得の減少により輸入需要が減少し,価格効果に加えて,この面からも貿易収支改善の方向に向かうが,反面,他の域外諸国にとっては,輸出の減少となって,貿易収支の悪化につながることになる。また,東アジア諸国の内需縮小は世界需要全体の縮小をもたらし,その結果として,貿易財,とりわけ一次産品の価格低下を招く。

(輸出入への影響)

東アジア諸国との貿易について,日本,アメリカ,ヨーロッパ3か国(イギリス,フランス,ドイツ)の最近の動向をみると,これら3地域全てで東アジア諸国への輸出(ドル建て)の伸びは減少していることがうかがえる。さらに,東アジア諸国からの輸入をみると,景気停滞が続く日本については落ち込みが顕著にみられるものの,好調な景気拡大を続けるアメリカについては堅調な伸びを示している。ヨーロッパでも,アメリカほど大幅ではないが,同様に輸入が伸びている(第2-4-2図)。

(経常収支への影響)

以上でみたような,東アジア諸国への輸出減少,輸入拡大がOECD諸国の経常収支にどのような影響を与えるかについて,OECDが,98年6月のエコノミック・アウトルックで行った推計(98年3月18日の為替レートがその後も持続すると仮定)をみると,危機が発生しなかった場合(ASEAN及び韓国の為替レートが今回の危機以前のレベルであり,輸入の減少も発生せず,日本を除くOECD諸国の実質金利は1/2%ポイント高いものと仮定)と比べて,韓国を除くOECD諸国全体では,98年までには530億ドル,99年までには900億ドルの経常収支に対するマイナス効果が発生する。このうち,アメリカについては98年までには130億ドル,99年までには270億ドルであり,日本については,98年までには120億ドル,99年までには280億ドル,EUについては,98年までには190億ドル,99年までには280億ドルの経常収支に対するマイナス効果が発生する。反面,韓国については,98年までには280億下ル,99年までには340億ドルのプラスの効果が発生する(第2-4-3表)。

(一次産品価格への影響)

アジア通貨・金融危機の結果,東アジア諸国の需要は大幅に低下し,世界需要全体にも少なからぬ影響を与えた。世界需要の縮小は,世界生産の減少につながり,主に貿易財の価格に影響を与えている。特に,原油などの市況商品に対しては大きな価格下落圧力が働いている。この結果,一次産品輸入国にとっては輸入物価の下落からインフレ圧力の緩和がもたらされているが,反面,一次産品輸出国にとっては,外貨収入の減少やひいては所得の減少につながっている。98年8月のロシアのルーブル切下げ以降,通貨や株価の大幅下落を経験している国では一次産品依存度の高い国が多いことからも分かるように,今回のアジア通貨・金融危機の世界経済全体に対する最も重大な影響の一つは一次産品価格の下落という形で現れている(第2-4-4図)。

最近の一次産品価格の低下については,近時のドル高により,全般的にドル建て価格が下落しているといった側面もあるが,東アジア諸国の需要減退が重要な原因となっている。90年代から東アジア諸国はくその高成長を背景に一次産品輸入・消費を増加させてきたが,今回の危機による通貨減価,内需の低迷などにより,一次産品への需要は大きく減少し,一次産品価格全体の下落につながっている(注5)。ただし,今回危機に見舞われた東アジア諸国は,これまで成長率は高かったものの,その経済規模は世界経済においては,まだそれ程大きくはなく,一次産品の消費量の絶対量もそれほど大きいものではない。しかし,東アジアの需要減退がこれほどまでに市況に影響を与えているのは,東アジア経済の回復の目途が立っておらず,さらにロシアや中南米などの主要一次産品産出国も,今回の危機の影響による為替・金融市場の混乱を経験しており,このような不安定感が市況のマインドに影響を及ぼし,これが価格低下に影響を与えているからだと考えられる。(一次産品価格動向全般については第1章第5節参照)。

品目別にみると,原油について,90年以降の世界全体の消費量増加分に占める東アジア諸国(日本と中国を除く)のシェアをみると,その5割程度となり,中国も含めれば約7割となる(第2-4-5図)。また,これ以外の主要一次産品について,入手可能な最新時点で,89年から93年までの世界消費量の増加分と東アジア諸国の消費量の増加分をみると(第2-4-6表),いずれも東アジアの消費量の増加が顕著にうかがえるが,特に鉛,すず,綿花については,この時期に世界消費量全体が減少しているのにもかかわらず,東アジア諸国の消費量が大きく伸びていることがうかがえる。また,天然ゴムも東アジアの消費量の増加が世界消費量全体の増加を上回っている。

このような一次産品価格の低下は,輸出において一次産品への依存度が高い諸国にとって深刻な経済的影響を与えている。最近の一次産品価格低下の輸出収益に与える影響について一定の仮定を置いて試算してみると,OPEC諸国を含めた発展途上国などにおいても輸出収入の減少や経済成長率の低下がみられる(第2-4-5図)。また,これ以外の主要一次産品について,入手可能な最新時点で,89年から93年までの世界消費量の増加分と東アジア諸国の消費量の増加分をみると(第2-4-7表)。

2 資本移動を通じた影響

今回のアジア通貨・金融危機は貿易面のみならず,資本移動を通じて世界経済に大きな影響を与えた。以下では,まず銀行貸出しと直接投資とについて,その影響をみる。

(銀行貸出しの動向)

今回のアジア通貨・金融危機が主要先進国の銀行から発展途上国等への銀行貸出しに与えた影響を,BIS統計からみてみる。ただし,統計の制約から検討対象は97年12月末までの動向に限定せざるを得ない(注6)。

(1)期種別

発展途上国等の主要先進国銀行への債務残高について,債務の期種別に97年6月末から同年12月末までの動きをみてみると(第2-4-8表),アジア諸国では依然債務残高は大きいものの,特に,短期資金である1年以下の債務について急速に残高が減少していることがうかがえる。特に通貨危機で大幅な為替減価となった韓国,タイで短期資金の流出(債務残高の減少)が大きく,地域の金融センターである香港,シンガポールからも短期資金の流出が目立つ。また,この時期前後に通貨アタックを受けたチェコや経済混乱が続いていたロシアからの短期資金も大幅に流出している。一方,中南米において短期,それ以外の資金の流入が顕著にみられる。なお,韓国やタイ以上に大幅な為替減価となったインドネシアについては,この時期に限れば資金流出はそれほど見られない

(2)貸手別

ヨーロッパ,北アメリカ,日本の銀行とも,総じてアジア向けの融資が低調であったことがうかがわれる(第2-4-9表)。ただし,アジア全体のこれら主要先進国銀行への債務について,北アメリカ,日本の銀行への債務残高とも,97年6月から12月までの間アジア全体の債務残高が減少しているのに対して,ヨーロッパの銀行については,タイ,韓国の債務残高は減少しているものの,アジア全体については中国,フィリピンを中心にヨーロッパの銀行への債務残高は伸びていることが分かる。

この時期のヨーロッパの銀行は,北アメリカ,日本に比べて,各地域からの債務残高を増加させている。特にイギリスの銀行に対する債務残高の伸びが全般的に目立つ。北アメリカの銀行については,中東及び中南米からの債務残高が増大しているが,中・東ヨーロッパ,アジアについては債務の縮減が顕著である。日本の銀行については,途上国からの債務残高は縮小し,貸出し全体は縮減となっている。このような銀行債務について,地域的にみると,アジアにとって日本は依然最大の債務国ではあるものの,中国,フィリピンや台湾は日本への債務が増大している反面,韓国,マレイシア,タイにおいては大きな債務残高の圧縮がみられ,アジア全体からの債務残高は減少している。この他,ロシアを始めとする中・東ヨーロッパの債務残高も伸びてはいるが,もともとの債務残高額自体がそれほど大きくないため,全体の資金の流れに対してはさほど大きな影響は持っていないと考えられる。

また,BISの四半期統計によれば,98年1~3月期の発展途上国及び市場経済移行国への貸出しは約80億ドルとなり,97年10~12月期の約390億ドルから急減している。

(直接投資ヘの影響)

東アジア諸国は,これまでの高成長の過程で,直接投資の受入れ拡大を図り,資本形成,技術移転,企業内貿易に代表される貿易ネットワークの拡大などのベネフィットを活かしながら,国全体の成長に役立ててきた。今回の危機が東アジアにおける直接投資にどのような影響を与えるかについては,今後の経済回復の道筋にも影響を与えると考えられる。

既に見たように,97年においては,アジア通貨・金融危機の影響もあって東アジア諸国にとどまらず,発展途上国全体においても,銀行貸出など短期の資本移動に大きな変動がみられたが,長期の直接投資については,東アジア諸国の直接投資純流入は経済的混乱にもかかわらず,上記5か国で見ると65億ドルと96年と比べて増加した(前掲第2-1-7表)。その他の地域への直接投資の伸びについても順調であった。しかし,直接投資については,貿易に比べ,より中長期的な観点からの意思決定が必要であるため,98年以降,危機の影響が出てくるものと考えられる。ただし,そのデータは現在のところ利用可能ではないことから,以下での分析は多分に推論的な側面もあることに留意されたい。

今回の危機が当該地域への直接投資に対してどのような影響を与えるがについては,その販売先(現地市場向けか輸出向けか)や生産のための原材料や資本財の調達先(現地か輸入か)により区分して考える必要がある。例えば,現地市場向けの場合には,現地の内需低迷による打撃を受けるが,輸出市場向けならば,為替減価により価格競争力が強化される。また,投入が現地調達ならば大きな問題はないが,輸入に依存している場合には為替減価による輸入価格上昇からマイナスの影響を受ける。

この点について,まず,アジアへの最大規模の直接投資送り出し手である日本について,95年度の製造業現地法人の地域別販売額シェアをみると,アジアの現地法人は日本への販売額が18.1%を占めており,他の地域の現地法人と比べて高い(第2-4-10表)。また,原材料などの調達について,調達額の地域別シェアをみると,アジアの現地法人は日本からの調達額比率は40.1%となっており,他の地域の現地法人と比べてやや高い。

次に,95年のアメリカの製造業現地法人の地域別販売額シェアをみると,アジアの現地法人は他地域の現地法人と比ぺ,アメリカへの販売額が高く,その他第三国へ,の販売も加えてみれば,輸出性向が他地域の現地法人と比べても高い。また,アメリカについては,調達そのもののデータはないが,これら輸出指向型の製造業現地法人の売上げに対する,現地法人のアメリカからの輸入の比率をみでみると,中南米に次ぐ高さとなっている。

日本,アメリカとも,アジアの現地法人の輸出性向は,先進地域はもとより中南米地域の現地法人に比べても概して高いが,これらアジアの現地法人にとっては為替減価は価格競争力の向上となり,輸出数量拡大につながりうる。日本の東アジア現地法人について,産業別にみると,電気機械,精密機械の輸出比率が高く,また,ASEANに限定すると食料品も輸出比率が高い(第2-4-11表)。アメリカの現地法人についてみると,産業機械機器や電子電気機器の輸出比率が比較的高い。これに対して,ヨーロッパの場合には,地域別販売額などの同様なデータはないが,UNCTADの報告によれば,製造業では化学,石油精製などの現地販売を目的とする直接投資が多く,日米と比べて現地市場指向が強いとされている(注7)

他方,これらの現地法人では,現地の技術水準などの関係から,資本財や中間財などについては本国からの輸入に依存するケースも多く,日本企業の現地法人についてみると,アジアNIEsでは精密機械でこの傾向が強い。また,ASEANでは鉄鋼などの素材系産業や輸送機械でこの傾向が強い。このようなセクターでは,為替下落がコストアップにつながる傾向が強い。

日本,アメリカ,ヨーロッパの限られたデ-夕から推論すると,東アジアヘの直接投資については,今回の危機の影響について,以下の点を指摘できる。

  • (1) 日本,アメリカと比べて,現地市場指向が強いとされるヨーロッパの直接投資の方が今回の危機の影響をより大きく受けやすいといえよう。
  • (2) 逆に,日本,アメリカの場合には電気機械などを中心に輸出指向型の直接投資が伸びる可能性もある。ただし,日本のデータをみると,電気機械などの現地調達比率は概して低いことから,現地調達率の向上が課題となる。輸出比率が高く,現地調達比率も高い業種としては,日本のASEANに対する食料品の直接投資が挙げられる。業種の規模は小さいものの,データでみる限り,直接投資の伸びる可能性の最も高い業種といえる。

こうしてみたように,今回の危機が直接投資に与えた影響は,販売先及び部品などの調達先によって大きく異なるものと考えられる。危機を受けての今後の対応としては,販売先については現地から海外へ,調達先については海外から現地へとのシフトが生じるものと考えられる。なお,東アジア諸国の為替減価は,外貨建て資産価格を下落させることから,既存企業の買収などの形態の直接投資を促進する・側面があることも確かである。

(危機以降の直接投資の動向)

また,直接投資については,受け入れ国の短期的な経済環境の影響もあるが,それ以上に,そもそも直接投資が中長期的観点から経済活動にコミットするものである以上,その受入国の中長期的な市場環境や経済成長の見通しも大きな影響を与えるものと考えられる。この点について,98年2月にUNCTADが日本,アメリカ,ヨーロッパなどの企業500社に対して行ったアンケート調査によると,各地域の企業とも,東アジアの経済成長に対してコンフィデンスは失っておらず,今回の危機にもかかわらず,直接投資の計画は変更しないとしているところが多い。特に製造業への直接投資については,短期・中期の直接投資計画は不変とする企業が57%であり,投資を増加させるとした企業が34%となっている(第2-4-11表)。アメリカの現地法人についてみると,産業機械機器や電子電気機器の輸出比率が比較的高い。これに対して,ヨーロッパの場合には,地域別販売額などの同様なデータはないが,UNCTADの報告によれば,製造業では化学,石油精製などの現地販売を目的とする直接投資が多く,日米と比べて現地市場指向が強いとされている(第2-4-12図)。

(エマージング市場の為替・金融市場への影響)

東アジアの通貨・金融危機は,これまで資金流入が増加していた中南米や中・東ヨーロッパ,CIS諸国のいわゆるエマージング(新興)市場の先行きに不透明感を与え,それまでエマージング市場に流入していた資金が「質への逃避」として,一これらの市場からアメリカの債券市場などの先進国市場に流出し,先進諸国の金利低下につながっていると考えられる。

他方,これらの資金の流れはエマージング市場の為替・金融市場における流動的要素を増大させた。エマ―ジング市場の先行き不透明感は98年に入っても更に強まっており,ある1か国の市場で何らかの理由により動揺が発生すると,それが地域を越えて他のエマージング市場に伝播し,エマージング市場全体の不安定化につながる例もみられる。

まず,中南米では,ブラジルの通貨レアルについて,97年10月に売り圧力がかかったが,通貨防衛のための金融引締めの他,財政赤字縮小計画を発表したことで,売り圧力は低下した。しかしながら,通貨防衛のための引締め政策により成長率の鈍化を余儀なくされた。この他,アルゼンチン,メキシコ,チリでも11月以降通貨の売り圧力が高まったが,短期金利引上げなどにより,事態の悪化を回避した。しかし,98年8月には,引続く原油市況の低迷から,輸出の多くを原油に依存するベネズエラにおいて通貨切下げ観測が流れ,通貨切下げ圧力の増大や株式市場急落といった事態が発生し,他の諸国にも動揺が広がった。

中・東ヨーロッパ,CIS諸国においては,ロシアとウクライナで強く影響が現れており,特に,ロシアでは97年の秋以降,金利の引上げ,為替・債券市場での介入などの措置を採ったが,株式市場の急落・低迷などの影響はその後も続き,98年8月にはルーブル切下げが行われた。中・東ヨーロッパ諸国では株式市場で短期的な下落が見られたものの,その他の大きな影響はみられていない。

このような,中南米やロシアを中心としたエマージング市場の動揺については,まず,これまで高い成長可能性を評価されてきた東アジア諸国が今回の危機で急激に成長率が低下し,さらにその回復に少なくとも2~3年は必要とされる状態になっているが,これがエマージング市場全体の先行きに対して不透明感を強めていることが基本的な要因として挙げられる。

しかしながら,エマージング市場を個別にみれば,動揺が強く現れている国とそうでない国が存在している。中南米では特に,97年秋の段階ではブラジルが強く影響を受け,98年8月にはベネズエラで通貨アタックが発生した。中・東ヨーロッパでは影響は比較的少なく,他方,ロシアは97年秋以降動揺が続き,98年8月にはルーブルの実質切下げとなった。

このような動揺が強く現れている国については,その背後にマクロ経済面や輸出構造での問題点が存在している(第2-4-13表)。

まず,マクロ経済面での問題点をみると,大きな経常収支赤字,財政赤字に代表されるようなマクロ経済上の重大な不均衡を有する国々において為替・金融市場の動揺が発生している。中南米ではブラジルの財政赤字や経常収支赤字が他の周辺諸国に比して大きなものとなっている。また,対外銀行債務をみると,1年以内の短期債務残高の比率が他の周辺諸国に比べて高い(第2-4-14表)。ロシアについても,ブラジル同様,他の周辺諸国に比べて財政赤字が大きく,また,そのファイナンスのために短期国債を増発したため,短期資本の流入が急増した(注8)。この2か国においては,今回のアジア通貨・金融危機で強く影響を受けた東アジア5か国同様に,マクロ経済面での問題点の対応を短期的な資本流入に求めるという構造が現れている。

また,マクロ経済面での問題点を有する国以外でも,輸出において一次産品依存度が高い諸国において為替・金融市場の動揺が発生している。中南米においては,輸出の一次産品依存度が86%(93年)と他の周辺諸国と比べて際立って高いベネズエラにおいて通貨アタックが発生した。また,輸出における一次産品依存度の高さが先行きの不透明感を与えていることについてはロシアも同様である。ベネズエラは財政収支は黒字であるものの,その多くは一次産品輸出収入に依存している。さきにみたように,アジア通貨・金融危機以後の需要減少により,98年に入ってから原油やその他の一次産品価格の下落が顕著であるが,これによる輸出収入の減少,ひいては財政収支や経常収支の悪化懸念から為替の切下げ予測が高まり,また,今後の成長に関する不透明感から為替・金融市場の動揺を招いているものと考えられる。

さらに,アジア通貨・金融危機の際のインドネシアと同様,経済的混乱が政治的混乱にて)ながり,それが更に投資家の心理に悪影響を与え,更なる資本流出を招いているロシアのような例もある。

このように,為替・金融市場の動揺が強く現れている諸国には他の周辺諸国に比べてマクロ経済面や輸出構造面での問題点があるが,現在のところ,このような問題点が少なく,比較的影響が深刻でない周辺諸国においても,その影響が伝播してゆく可能性は否定できない。何故ならば,これも東アジアのケース同様,地域の貿易・投資の相互依存関係が強い場合,1国の動揺が貿易・投資面での結びつきの強い周辺国に対して強い影響を及ぼし得るからである。中南米ではMERCOSUR(南米南部共同市場,メルコスール)などの地域内貿易・投資協定により,域内の貿易・投資関係の強化を図っているが,ある一国が為替切下げを行えば,周辺国の輸出の価格競争力が相対的に悪化することから,他の諸国にも連鎖的に為替切下げ圧力の増大といった影響が及ぶことになる。

(国際的資本移動に対する規制について)

1970年代以降,国際資本市場における大きな潮流は自由化であった。しがし,アジア通貨・金融危機及びその後の世界経済の不安定化の下で,国際的資本移動を規制するべきとの議論が急速に勢いを得つつある。ヘツジファンドを含めた資金の東アジアへの大量流入とその逆流が今回の通貨・金融危機の原因となったことについては,既にみたところである。今回の危機は,自由な国際的資本移動の弊害が如何に大きなものとなり得るかを如実に示している。こうした弊害は,基本的には国際的資本移動の自由,金融政策の裁量性,為替レートの安定の三つを同時に達成することは不可能であることから生ずる。しかしながら,自由な国際的資本移動が世界経済に大きな恩恵をもたらしてきたことも事実である。資本は貯蓄超過国から貯蓄不足国へと流れ,最も生産的な投資のために用いられ,これによって世界的な資源の最適配分が達成される。実際,今回の危機により大きな打撃を受けた東アジアの国々も,これまで外国からの流入資本を最大限に活用しながら,力強い成長を続けてきた。

国際的資本移動に対してどのような考え方をとるかは,要するところ,自由化の費用と便益とをどのように認識するかに依存する。この点については,コラム2-1で紹介しているように,論者によって見解が分かれており,今後も様々な議論がなされるものと思われるが,ここでは,とりあえず以下の二点について指摘しておきたい。

第一に,IMFが指摘するように,資本の自由化は順序良く(well sequenced)かつ慎重に(prudent)行われるべきである。まず,資本の自由化は国内における金融部門を始めとする各種の構造改革を行った後に,あるいはこれを行いつつ進めるべきである(第2-4-14表)。ロシアについても,ブラジル同様,他の周辺諸国に比べて財政赤字が大きく,また,そのファイナンスのために短期国債を増発したため,短期資本の流入が急増した(注9)。さもないと,国内経済における各種の歪みによる資源の非効率的配分が自由化によって更に悪化する危険性が高い。また,情報の非対称性や市場の失敗が資本の流れを極めて不安定なものとする可能性にかんがみると,自由化は慎重に行われるべきである。IMFも主張するように,国内における金融規制緩和が健全性原則(prudential rules)を必要とするように,国際的資本移動の自由化も過度の短期的資本流入を引き起こさないような適切な安全弁を必要とする。

第二に,長期資本と短期資本との区別が重要である。国際的資本移動への規制を導入するにしても短期資本を中心に考えるべきであり,長期資本については基本的にし自由化を進めるべきである。直接投資は,国内の投資を増加させる効果,生産能力を増強させる効果,資本に体化された技術を移転させる効果などがあり,また当然のことながら債務的な性質をもたない。借入れ及びポートフォリオ投資を長期と短期に分ければ,長期はより危険が小さいと考えられる。実際,今回の通貨・金融危機でも,短期性の資本に頼っていたタイや韓国がより大きな打撃を受けている。短期資本の流出入こそが,外貨準備を急減させるなど,今回の危機をもたらした直接の原因であるとみられている。長期と短期という期間の長さに応じて流入する資本を厳密に選別することは現実には困難である。しかし,チリのように,便宜的にごく短期の資本流入に対し課税を行ったり,中央銀行への準備積立てを義務づけるなど,短期資卒の流入制限措置をとり,それなりの成果を挙げている国もある。

いずれにしても,国際的資本移動についてどのように考えるべきかは,国際社会において今後も真剣に議論されるべき課題である。新興国経済がいかに投資家の心理によって振り回され,大きな変動にさらされ易いかは,今回のアジア通貨・金融危機及びその後の経験によって明らかにされている。しかし,今回の危機がもたらした最大の教訓は,各国経済のファンダメンタルズについての投資家の評価を将来大きく変える可能性のあるような政策・制度上の弱点が何らかの形で明らかにな弓た場合には,各国はその弱点を即座に改善する必要があるということであろう。自国経済のファンダメンタルズを改善することが,何にもまして重要である。


《コラム2-1》 アジア通貨・金融危機と短期資本移動

(短期資本移動への規制に関する議論)

今回の危機の直接の引き金となった短期資本流入について,発展途上国の経済発展の観点から様々な議論が展開されるようになっている。ここで問題になるのは,短期資本が有する流動的な性格であり,東アジア諸国でみられたように,経済的ファンダメンタルズといった合理的な判断よりはむしろ投資家の思惑一や予測といった要素に左右されることが,発展途上国の金融市場の不安定化,ひいては経済全体に悪影響を与えるのではないかとの議論が展開されている。

この点についで,早くからアメリカの経済学者ジェームス・トービンは為替などの投機抑制のために短期的な国際金融取引について全世界的規模で低率の課税を行うという「トービン・タックス」を提唱している。しかし,このような全世界的規模の課税を行うのは技術的に困難ではないかとの有力な反論も提示されている。

さらに,民間資本流入と経済発展の在り方について関連づけた議論がアジア通貨・金融危機以降展開されている。

まず,資本移動の流れの変化がもたらす不安定化要因に対応するために,金融システムの強化を図りつつ,基本的な資本市場自由化の流れは今後も維持すべきとする見解がある。例えば,アメリカのサマーズ財務副長官は,発展途上国への世界的な資金流入は,技術進歩や産業構造の高度化を促進することで,これら諸国の成長に寄与してきており,資本市場の力強い発展は力強い成長につながるとしたうえで,現下の課題は,世界の資本市場が,経済にとってチャンスを提供する場として一層その効率を高めるとともに,世界的な資本の動きが不安定さを引き起こすという可能性をできる限り減らしてゆくことだとしている。このためには,監視・監督の体制作りや,各金融機関におけるリスク評価・管理の強化,破産法などの法体系整備を必要としている。

世界銀行チーフ・エコノミストのジョセフ・スティグリッツも,今回の危機の教訓として,金融のグローバル化が進むなかでは透明性が高く,堅実で,適切な規制による金融システムの必要性がますます明確になったとしている。しかし,スティグリッツは,資本移動の流れが発展途上国などの経済成長にもたらす悪影響を重視し,選択的な資本市場自由化を考慮すべきとする議論を展開している。スティグリッツは,発展途上国における資本市場の自由化については,完全な資本市場自由化が投資や経済成長に貢献するという根拠は薄く,短期資本が流動的な資金であることはたびたび指摘されており,むしろ,短期資本流入が増えれば,経済がますます不安定になって成長に悪影響を与える可能性があるとしている。特に,短期の資本流入が不動産投機のような収益の確実性が疑わしいセクターに振り向けられた時にはなおさら問題が大きい。このため,情勢の変化により変動が大きい短期資本流入を抑制し,直接投資のような長期資本流入を促進するような政策が必要であるとしている。このため,まず直接投資に対する規制緩和を進めるとともに,短期資本の流入抑制のためには,例えば,金融機関に対してリスク管理を強化させることで,安直な短期資本借入による貸出の増加を防止するなどの政策が考えられるとしている。

(実際の短期資本流入規制策)

発展途上国等において実際に行われている政策をみると,その代表例として,南米のチリでは外貨建て対外借入れ,預金や有価証券,動産,不動産などの投資,その他財・サービスの生産と無関係な金融投機を目的とする出資金といった形態でチリに持ち込まれた資金に対して,その資金の一定割合をドル建てで1年間中央銀行に無利子で強制預託させるなどの手段で,短期資本流入をコスト高なものにして投機的資本の流入を押さえている(ENCAJE制度)が゛ある(ただし現在は実質上運用を停止)。このような資本流入への制限はあるものの,チリは直接投資などの長期資本に対しては門戸を開けており,流入する資本の構成は安定したものとなっでいる。90年から96年にかけて,チノの長期債務は約57億ドル増加しているが,短期債務は約36億ドルの増加となっている。

このような短期資本の流入規制は突発的な危機の発生を防止する上では有効と考えられる。しかし,企業が調達する資本の期間構造を人為的に規制するには,それなりのコストが必要である。また,資本流入を強化すれば,このような規制を嫌って,外国人投資家による資本引上げの加速や国内投資家による資本逃避が発生したりする可能性がある。このような事態になれば,直接投資などの長期資本流入についても悪影響を与える可能性もある。また,規制に対して,いわゆる抜け穴探しが横行すれば,規制が更に強化・複雑化され,一層そのコストは高まることになる。このような規制のコスト以外に,単に短期資本流入を抑制すれば,資本流入の変動による自国経済の不安定化といった事態の解決につながるということではなく,アジア通貨・金融危機の背景でも検討したように,危機をもたらす原因は,財政収支や経常収支といったマクロ経済の問題点や,民間部P旧こおける投資や融資を行う際のリスク・マネジメントの在り方といった当該国の経済システムの問題点が基層にあることに留意すべきである。資本流入の安易な規制に事態の解決を求めれば,本来着手すべきこのような問題の解決を遅らせることになりかねない。

(資本移動のグローバル化への国際的対応)

さらには,資金移動のグローバル化の}進展の下では1国だけでの努力には限界もあり,国際的な観点からの対応も重要になる。従来まではIMFや世界銀行などの国際金融機関が中心となって取組を進めてきた。しかし,アジア通貨・金融危機の教訓として,これまで域内で構築してきた貿易・投資の経済的相互依存関係のネットワークが通貨危機を域内諸国に伝播させる要因にもなっており,通貨・金融危機が一国で発生すれば,その影響はまず,その周辺諸国に及ぶ可能性が極めて高いことから,IMFのような世界的な取組に加えて,地域レベルでの協力関係にも焦点が当てられてきている。東アジア地域においては,97年11月に「金融・通貨の安定に向けたアジア地域協力,強化のためのフレームワーク(マニラ・フレームワーク)」が合意され,地域におけるマクロ経済政策などに関する緊密な意見交換や各国の金融セクター強化のための技術協力などの措置を行うこととした。また,中南米地域においても,98年夏以降の為替・金融市場の動揺を受けて,IMFを交えた政策協議を実施している。

参考:

・US Treasury News(98年5月6日,5月11日)

・Joseph Stiglitz,“Sound Finance and Sustainable Development in Asia

(WorldBank記者発表,98年3月12日)



《コラム2-2》 国際金融システムの改革

今日の世界経済においては,巨額の投資資金が世界を瞬時に移動し,これが世界経済の不安定化をもたらし,アジア通貨・金融危機が,他地域の新興市場のみならず,先進国の資本市場まで世界的な影響を持つに至っている。危機への対応については,IMFが中心となって行われてきたが,その対応の在り方の評価については,既に検討した。

IMF自身も今回のアジア通貨・金融危機以降の教訓を受けて,今後,今回のような危機再発の未然防止の対応策について,加盟国の経済関係デ一タの透明性確保と提供範囲の拡大,IMFの監視機能の強化,国内金融システムの健全性強化への支援などに取り組んでいる。

しかし,これらの施策だけでは十分でなく,世界規模での資本移動の急速な拡大という世界経済の構造変化のなかで,IMFや世界銀行などの国際金融機関自体についても改革が必要ではないかとの議論が世界的に提起されている。

この点について,イギリスのブレア首相やフランスのシラク大統領といったG7諸国の首脳からIMFの機構改革や国際金融システムの透明性強化などの改革策が相次いで提起され,98年10月3日に開催されたG7蔵相・中央銀行総裁会議でも主要課題のひとつとして議論された。ここでは,IMF改革の重要性に合意するとともに,すべてのタイプの金融機関の透明性,情報公開の向上や,先進国におけるリスク管理や健全性基準に焦点を当てた規制の向上を図りながら,健全な資本移動を促進すること等の国際金融システムの強化策についてG7諸国の協力等を進めることとなった。

また,これに引き続き開催されたIMF・世界銀行年次総会においては,アメリカからは新興国のための緊急融資制度の新設が提案され,またIMFの意思決定機構の改革など,各種のIMFの強化策の提案が行われた。IMFのカムドシュ専務理事は,国際金融システムの改革については,新たな規制を実施するといった手段に頼るのではなく,(1)透明性,(2)健全な金融システム,(3)民間部門の参加,(4)適切な順序と健全なマクロ経済バランスのもとでの資本市場自由化の推進,(5)国際的に受容される,望ましい金融システム運営(goodpractice)の在り方に関する基準と規範の5項目を基本的な原則として,これら原則の具体化に取り組むことで進めるべきとした。

国際的な資本移動を通じてこのようにある地域の通貨・金融市場の動揺が世界全体にまで急速に影響を与えうるような世界経済システムの現状のなかで,IMFの「最後の貸出手」機能の在り方が問われており,G7でも指摘されたように,世界経済の変化にIMFの在り方を適合させてゆく努力は今後とも必要になろう。


3 不安定化した世界経済をとりまくリスクと政策対応

以上でみたようにアジア通貨・金融危機は貿易,資本移動などを通じ世界経済に大きな影響を与えている。こうしたなかで,98年8月にはロシアでルーブル切下げが起こり,また,その影響もあってアメリカで株価が急落した。その後,一部の中南米諸国でも為替・金融市場での混乱が生じており,世界経済は不安定化している。今日の不安定化した世界経済には以下のような様々なリスクが存在しており,全体としてデフレ圧力が高まりつつある。

(1) アメリカの株価暴落

現在世界経済全体のいわば防波堤としての役割を担っているのはアメリカ経済である。アメリカではこれまで株高の資産効果が個人消費拡大を支える要因として重要な役割を演じてきたとみられている。ダウ平均株価は7月末の9,300ドルを超える水準から10月中旬には8,000ドル台前半まで値下がりしている。この水準でも企業収益や金利などで説明できる株価水準からみると相当上回っているとの見方もある。株価が40%下落すれば,逆資産効果によって消費は11/2%ポイント程度低下するものと推計される。さらに,設備投資などにも悪影響が及び,それらの乗数効果,心理面での影響などを含めると,アメリカの経済全体に大きなマイナスの影響を与え,さらには貿易,資本移動を通じて他地域の実体経済,通貨,株価などに深刻な影響を与えるものと考えられる。

(2) 新興国経済における連鎖的通貨安・株安と世界的信用収縮

アジア通貨・金融危機に端を発した中南米や中・東ヨーロッパ,CIS諸国などのいわゆる新興国市場の不透明感の広がりにより,それまで新興国市場に流入していた資金がアメリカの債券市場などの先進国市場に流出するという「資金の質への逃避」現象を生んだ。特に,98年8月のロシア・ルーブル切下げ以降は,中南米をはじめとする多くの新興国経済において通貨・株式市場の一層の不安定化が生じている。これが今後どのような広がり,深まりをみせるが予断を許さない。

こうした不安定化の生じている諸国は,財政赤字削減,経常収支赤字削減などのマクロ経済安定化策と経済構造調整により,マクロ経済不均衡の是正と投資家の信認の獲得に努めるべきである。今後,新興国市場からの資本引上げが更に加速するような場合には,それにより世界的な信用収縮が生じる危険性もある。

(3) 先進国金融機関の経営不安と金融システムの不安定化

新興国経済の混乱はアメリカをはじめとする先進国経済に様々な影響を与えるが,最近のヘッジ・ファンドの経営不安などに見られるように,先進国の金融機関のバランスシートに悪影響を与え,ひいては金融システム全体を不安定化させる危険性もあることが明らかになってきている。先進国の金融システムの不安定化は実体経済に重大な影響を与えることはいうまでもない。特にそれがアメリカで生じた場合には世界的な影響が懸念される。

(4) 日本における景気低迷の一層の長期化と金融システム不安の更なる深刻化

日本における景気低迷が一層長期化し,金融システム不安が更に深刻化することとなれば,実体経済面および心理面から東アジア経済の順調な回復を阻害する要因,ひいては世界経済の不安定要因となることはいうをまたない。まず,日本の需要低迷は輸入の減少を通じて世界経済にデフレ圧力を及ぽす。特に,これによって東アジアの経済回復が更に遅れることが懸念される。また,景気低迷の一層の長期化などにより円安が進んだ場合には,それ自体が日本の更なる輸入減を通じて東アジアをはじめとする世界経済に悪影響を及ぼすことに加え,東アジア通貨の不安定要因となりうる。

(5) 中国・人民元の切下げ

アジア通貨・金融危機後,中国は人民元の対米ドルレートを維持してきた。しかし,98年の中国の経済成長率は上半期でみて前年同期比7%と,目標の8%を下回って推移しており,失業率の引下げには不十分な成長スピードになっている。また,長江などでの洪水の経済的打撃も懸念されている。こうした状況下で,人民元を切下げて輸出を促進し,経済成長率を高めるという戦略を取るのではないかとの見方もでている。中国としては,人民元切下げ以外の措置により輸出を下支えする政策をとりつつ,人民元切下げが通貨・金融危機へ繋がる可能性も認識し,人民元切下げの可能性を強く否定している(第1章コラム1-5「人民元の切下げはあるか」 参照)。仮に人民元が切り下げられた場合には,東アジアの通貨も再び切下げ圧力を受け,通貨・金融危機の第二ラウンドへど繋がっていく可能性が大きいと考えられる。

(6) アメリカの経常収支赤字の拡大と保護主義圧力の高まり

アメリカでは持続的景気拡大,ドル高,アジア通貨・金融危機の影響などから経常収支赤字が急速に拡大しつつある。他方において,日本の経常収支黒字は円安,国内経済の低迷から拡大基調にある。こうしたなかで,アメリカ国内で対日を中心として保護主義圧力が高まる危険性がある。特にJアメリカ経済がなんらかの理由により下降局面に入った場合には,失業の高まりなどからその危険性が高まるものと考えられる。

これらリスク要因は,ひとつひとつを個別にとらえれば,その世界経済への影響は限られたものであるかもしれない。しかし,これらが連鎖的,複合的に発生した場合には,世界経済全体に極めて大きな影響を与えるものと考えられ,最悪の場合には世界的不況という事態さえ決してあり得ないことではない。既にみたように,大量の資本が瞬時に国境を越えて動き回る今日の世界経済では,ある地域における経済状況の変化は,貿易などの実物面での経路を通じてのみならず,資本,金融面を通じて他地域の経済に大きな影響を与える。そして,後者については,心理的側面も含めそのメカニズムには必ずしもよく解明されていない部分もある。ある地域における通貨・金融危機が思いもよらない地域に伝播する可能性も否定できない。経済危機の伝播は地域的隣接性よりも金融的関連性に左右され易い。このような世界経済全体の先行き不透明感から,1930年代に発生したような世界的恐慌の再来の可能性について言及する向きもある。

しかし,世界的恐慌の発生した1930年代当時とは異なる制度的な安全弁が今日の世界経済には備わっている。まず,国内の金融システムについては,1930年代の金本位制のような制約要因は存在せず,今日ρ中央銀行は必要な場合には国内金融システム安定化のために最後の貸出者として流動性供給等の措置をとることができる。あわせて,金融機関の規制・監督体制の向上,預金保険制度などにより,金融システム安定化のための制度的枠組みは整ってきている。

次に,国際的な協力の枠組みとしては,まずWTO,IMFなどの国際機関が大きな役割を演じている。1930年代の関税引上げ競争,経済ブロック化,通貨切下げ競争の苦い経験にかんがみ,戦後GATT・IMF体制が確立された。今日の世界経済には,国際収支調整のための融資を行う国際金融機関としてIMFが,また保護主義的圧力への抑止力としてGATTの後身たるWTOが存在している。これらに加えて,G7等の国際的協力の枠組みも存在している。こうしてみたように,今日の世界経済には世界的不況を引き起こさないためのいくつかの制度的安全弁が存在する。

もちろん,こうした安全弁の存在のみで,世界的不況の回避が保証されるものではない。上述したリスクの顕在化を回避しつつ,世界経済を安定的発展に結びつけていくためには,今日の世界経済の置かれた危険な状況を十分に認識し,各国がリスクを顕在化させないための最大限の努力を行う必要がある。とりわけ,その経済的規模及び他地域への影響度からして,アメリカ,EU諸国,日本の果たすべき役割は重要である。これら地域が良好な経済状況を維持あるいは回復することが何にもまして重要である。世界的なデフレ圧力の一層の高まりに対して,これら諸国は十分な景気刺激策及び危機に陥った新興国に対する金融支援などにより適切に対応することが必要である。

まず,日本については,金融システムの安定化に最善を尽くすとともに,財政,金融,構造改革面からの措置などにより景気の一日も早い回復を図ることが必要であることは言うまでもない。これにより世界経済の安定化に大きく貢献することができる。とりわけ,輸入の増加等を通じて東アジアの経済回復に大きく貢献することになる。本章で既にみたように,これまで東アジアの輸出が総じて期待されたほど伸びていないことの一因としては日本向け輸出の大幅な減少が挙げられる。したがって,日本への輸出が回復すれば,アメリカ,EU諸国への好調な輸出ともあいまって,東アジアの経済回復を輸出面がら下支えすることになる。また,日本への輸出増は東アジア諸国の経常収支の改善に資することから,外貨準備高の増加を通じ,投資家のコンフィデンスの回復とそれに基づく資本の再流入にも寄与する。資本の再流入は東アジア諸国の景気回復にとって必須の要件である。このような東アジアの経済回復を資金面からも支援するために,従来からの430憶ドルの支援策に加え,日本は98年10月には通貨危機に見舞われたアジア諸国に対する総額300億ドル規模の資金支援スキームの用意を表明し,東アジアの景気回復に全力を挙げる姿勢を打ち出したところである。

次に,現在いわば世界経済の防波堤となっているアメリカについては,国内の経済状況のみならず世界全体の経済状況に対応しつつ,適切な金融緩和を行っていくことが期待される。既に,9月29日には,連邦公開市場委員会がフェデラル・ファンド・レートの0.25%引下げを決定し,その後10月15山こは公定歩合とフェデラル・ファンド・レートを共に0.25%引き下げた。アメリカの金利引下げによって,世界的な流動性が高まり,新興国への資本流入が促進される。特に,アメリカとの経済的結びつきが強い中南米には好影響が期待される。また,新興国の対外債務の利払い負担が減少するという好影響もある。さらに,アメリカ連邦準備制度理事会が世界的デフレを回避するための行動を率先してとることによって,国際金融市場における不安定感の払拭に役立つといった心理面からの好影響も期待される。もちろん,アメリカの金利引下げはアメリカ国内のデフレ圧力を緩和することは言うまでもない。特に,今後アメリカの株価が更に下落し,アメリカ経済ひいては世界経済に対するデフレ圧力が更に高まるような場合には,そのアメリカ経済,ひいては世界経済に与える悪影響を最小化するため,追加的に金融政策を緩和していくことが期待される。

このような適切な措置がとられない場合には,アメリカ経済が大幅に縮小し,それが貿易面及び金融面を通じて世界経済全体に大きな悪影響を及ぼすことになろう。

通商面ではアメリカは保護主義的な措置の使用を厳に慎むべきである。アメリカでは98年4~6月期には経常収支赤字が史上最高額に達しており,今後景気が下降局面に入った場合には,失業が高まるなどの理由から保護主義的圧カが高まる危険性がある。しかし,アメリカによる保護主義的措置の実施は,東アジア諸国など危機に陥った経済の回復を阻害するのみならず,世界貿易の縮小均衡を招く。さらに,他国による類似の措置を誘発する危険性が高い。もちろん,保護主義的措置を慎むべきはアメリカのみならず,先進国,途上国を問わずすべての国である゛ことは言うを待たない。1930年代の世界恐慌を深刻にした重大な政策面での失敗は,アメリカがスムート・ホーレイ法により関税の引上げなどを図り,直ちに他国の報復措置を招いたことであるといわれている。

また,EU諸国についても,適切な金融緩和が期待される。99年1月からヨーロッパ中央銀行(ECB:European Central Bank)による統一的金融政策が開始されるが,このことが金融政策の柔軟性を奪うとの見方が一部にある。すなわち,ECBは市場からの信認を得ようとして,物価安定という目標を重視するあまり,域内経済がデフレ的様相を呈しても金融政策緩和に二の足を踏むのではないかという見方である。域内経済,ひいては世界経済全体のデフレ圧力に対抗するために,ECBは物価安定という目標に過度に拘泥することなく,柔軟な金融政策運営を行うことが期待される。これによって,EU域内のみならず,世界経済全体,とりわけEU諸国との経済的結びっきが強い,中・東ヨーロッパ,CIS諸国へのデフレ圧力を緩和することができる。

上記に加え,各国とも,世界的景気後退が深刻化した場合には,財政面からの景気刺激を行うことも可能である。いずれにしても,このような裁量的マクロ経済政策がデフレ圧力に対抗する手段として存在していることが,1930年代の世界恐慌当時との大きな違いである。また,各国は危機に陥った新興国に対する金融支援などにより,危機の広がりと深まりを防止することも可能である。

アメリカ,EU諸国,日本をはじめとする主要先進国は,今後とも,上述したリスク要因を含めた世界経済の動向を注意深く見守りつつ,必要に応じて協調しつつ,適宜適切な政策対応をとることが求められる。


《コラム2-3》 世界的恐慌に対する経済政策・制度面での安全弁

本節でみたように,今日の世界経済には様々なリスクがあり,大きな不安定要因となっている。仮にこれらのリスクが連鎖的,複合的に顕在化した場合には,デフレが世界大の問題にまで発展する危険性は否定できない。このような状況から,1930年代初頭に発生した世界恐慌の再来を懸念する声も聞かれる。

(1930年代世界恐慌当時との類似点)

世界恐慌は1929年のアメリカの株価大暴落に端を発し,金融機関の倒産が連鎖的に発生し,さらには第一次大戦の復興の過程でアメリカからの資本流入に大きく依存していたヨーロッパ経済にも資本引上げなどで打撃を与えた。アメリカの実質GDPは,恐慌が最悪の局面を迎えた1933年には,恐慌前の1929年のレベルから約7割のレベルにまで下落し,1929年のレベルに回復したのは1937年であった。

恐慌の発生に対して,欧米などの主要国は財政均衡政策を維持し,為替の切下げによる輸出拡大で対応しようとしたが,これにより為替の切下げ競争が発生した。また,同時に,関税の引上げ・輸入制限による国内産業の保護,更には地域ブロック経済の形成などの政策が実施された。このような措置は,近隣諸国への輸出は増加させるが,輸入は縮小させることになり,結果として,自国の輸出増加による生産拡大を近隣諸国の生産縮小という犠牲の下で行うことから「近隣窮乏化政策」と呼ばれている。しかし,このような措置の実施は他国の対抗的措置を招き,結果的に保護主義の蔓延を招いた。

確かに,現在の世界経済においては,世界恐慌の引き金となったアメリカの株価暴落や,発展途上国を中心に,世界経済の総需要縮小が懸念される中,輸出振興のための為替切下げが連鎖的に行われ,その結果保護主義圧力が増大するという懸念が全くないわけではない。実際に欧米における株高や一次産品価格の低下といった,世界恐慌前夜と類似した現象が現れている。

(1930年代世界恐慌当時との相違点)

しかし,これらが直ちに,1930年代のような世界恐慌の再来につながるという懸念は短絡に過ぎるといえよう。

  • (1)まず,1930年代当時の中央銀行は今日のような金融システム安定化のための最後の貸出者(alender of last resort)としての機能を担うことはできなかった。今日では,金本位制のような金融政策の制約要因は存在せず,中央銀行は必要な場合には国内金融システム安定化のために最後の貸出者として流動性供給等の措置をとることができる。あわせて,金融機関の規制・監督体制の向上,預金保険制度等により,金融システム不安定化のリスクは小さくなっている。世界恐慌のプロセスを詳細にみると,最初の局面においては,1929年のニューヨーク株式市場の大暴落による消費の冷えこみなど実物面での影響が強かったが,その後は銀行の倒産の多発による金融システムの混乱で不況が深刻化したとされる。1930年から1933年にアメリカでは9,000以上の銀行が営業停止となった。これは,1930年10月頃から一部地域の銀行倒産が預金者の不安を募らせ,全国的な規模で当座預金や定期預金を現金や郵便貯金に引き換える行動が起きたからである。1929年8月から1933年3月までの間にマネーサプライは28%も減少した。この時期に,銀行取付騒ぎの中,連邦準備制度委員会が「最後の貸出者」としてパニック的な大量の銀行倒産を防ぐことで金融システムへの信頼を維持するという積極的な行動を取るべきであり,そうしていれば,取りつけ騒ぎの拡大による銀行の大量倒産を抑えることができたはずであり,その結果,預金と貸出の大幅縮小は防げたのではないかと考えられる。また,1930年代には,中央銀行間の協力関係も存在せず,各国が自国の利益のみを考えて行動したため,結果として世界的規模での金融システムの混乱を招いた。今日では,主要国間において緊密な連絡がとられており,必要に応じて協力して世界的規模での金融システムの混乱に対処することが可能である。
  • (2)上記(1)とも関連するが,金融政策面をみれば,世界恐慌の際には金本位制が採用されており,あらかじめ定められた平価の下で,各国の金保有高の範囲でしか貨幣を発行できないという点で,金融政策の裁量が限定されていた。
  • (3)また,世界恐慌当時における財政の役割について,アメリカにおいては,193O年代初めの財政政策は,財政政策による景気刺激よりは,むしろ均衡財政の維持にその基本をおいていた。
  • (4)さらに,1930年代の関税引上げ競争,経済ブロック化,通貨切下げ競争の苦い経験にかんがみ,戦後,GATT・IMF体制が確立された。
  • 今日の世界では国際収支調整のための融資をする国際金融機関としてIMFが,また,保護主義的圧力への抑止力としてGATTの後身たるWTOが存在している。さらに,世界恐慌の直接の引き金になったのは,1929年のニューヨーク株式市場の大暴落が金融機関の財務内容の悪化を通じた倒産を招き,金融恐慌になったことであるが,現在は,金融機関に対する監督・規制はIlSなどにより国際的にも確立したものが存在している。
  • (5)今日の世界経済では,グローバルな経済的相互依存関係が深化していることから,輸入を抑止しても,多くの場合,それがすぐに国内生産で代替できるという状況にはなく,経済的厚生の取り返しのつかない低下につながるようになってきている。特に発展途上国においては,生産の拡大のためには中間財や資本財の輸入を拡大することが必要であり,保護主義的措置を取ることのコストは大きい。

こうしてわかるように,今日の世界経済を取り巻く政策・制度面の環境は,世界恐慌当時のそれとは全く異なっているといえよう。

参考:

・Ben S.Bernanke,“The Macroeconomics of the Great Depression”(Journal of Money,Credit,and Banking Vol.27No.1,95年2月)

・Gregory Mankiw,“Macroeconomics”(version3).

RobertGilpin,“The Political Economy of International Relations”

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