平成8年

年次世界経済報告

構造改革がもたらす活力ある経済

平成8年12月13日

経済企画庁


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第3章 アメリカ労働市場のダイナミズム

第1節 近年のアメリカ労働市場

94年9月以降,アメリカの失業率は5%台で安定的に推移している。これは,87年秋から90年夏以来の低水準である。しかし,前回の低失業率が4~5%程度のインフレを伴っていたのに対し,今回は,インフレ率は2~3%と非常に低い水準で安定している。マクロ経済的には,失業率の水準と需給ギャップとは同じ動きを示し,失業率の急速な低下は需給ギャップの縮小がらインフレを高めると考えられてきたが,今回の現象は失業率と需給ギャップの安定的な関係に変化がみられることを示唆している。言い換えるならば,失業率の低下が需給ギャップの縮小に結び付いておらず,技術進歩による労働生産性の大幅な上昇か,労働市場の構造的な変化が生じている可能性を示している。これまでのアメリカ経済のマクロ統計における労働生産性は約1%程度でほとんど変化していない。したがって,失業率とインフレ率(マクロ需給ギャップ)の関係の変化には労働市場の構造変化が大きく寄与しているものと考えられる。

1 失業率低下の要因

90年代のアメリカの失業率の推移をみると,93年前半まで7%台の高水準で推移していたが,その後低下を続け94年半ばからは5%台となっている。性別,年齢別,人種別にみると,性別では男性,女性とも5%台まで低下してきているが,男性は90年代初めには7~8%と女性に比べ若干高水準であったため,下落幅は大きなものとなっている。年齢別では,若年層で95年後半にやや上昇がみられた他は低下傾向にある。また,人種別でも白人,黒人,その他とも失業率は低下してきている。

90年代の失業率低下は,基本的には91年以降堅調に続いている景気拡大によるものである。しかし,過去においては景気拡大に伴う失業率の低下は,労働市場の逼迫から賃金上昇を高め,物価上昇を加速化している。しかし,今回は5%台の低い失業率が続く中で若干賃金に上昇気配はみられるものの,物価上昇率は極めて安定しており,低い失業率と低いインフレ率が共存する状況が作り出されている。これまで一般的に失業率とインフレ率とはトレード・オフにあり,失業率の低下はインフレ率を高め,また,失業率がある水準を超えるとインフレ率は加速すると考えられてきた。この関係を前提とすると,短期的に低い失業率と低いインフレ率が併存することはあっても,アメリカ経済のように2年にも亘って低い失業率の下でインフレが低水準で安定する状況は考えにくく,労働市場での失業率の水準をシフトさせるような構造変化が生じている可能性が考えられる。

そこで1960~96年の失業率とインフレ率の関係からインフレを加速しない失業率(NAIRU:Non-AcceleratingInfllation Rate of Unemployment)の水準について推計してみると,実際のインフレ率からエネルギー価格の変動を除去した場合には,NAIRUは全期間で6.24%となる。しかし,この結果はインフレ率と失業率の関係だけをみたものであり,その間の経済構造の変化,労働者の年齢構成の変化といった労働需給側の要因の変化を考慮していない。そこでそういった要因を示すものとして求職指数(職探し効率性パラメータ)や若年労働者比率(16~19歳)を付け加え,5年ごとにその値をみると,失業率の水準は70年代後半から80年代にかけて上昇しているが,その後低下していることが分かる。もちろんこの結果は幅を持って考えるべきであり,絶対的な水準の評価は慎重に行う必要があるが,労働市場の構造変化を考慮すると,インフレを加速しない失業率の水準が低下してきていることが指摘できる(第3-1-1表)。

そこでインフレを加速しない失業率の低下に貢献したと考えられる二つの要因について検討する。若年労働者はこれまでも他の年齢階層に比べ,離職率が高く失業率水準は高いものがあった。若年労働者比率の推移をみると,60年代に6%台から70年代には9%台にまで上昇したが,その後反転し90年代には5%台にまで低下してきている。したがって,相対的に高い失業率を持つ若年労働者の割合の低下が,80年代からのインフレを加速しない失業率の低下の一つの要因といえる。

次に,求職指数の影響について失業率との関係からみると,一定の求職指数の水準の下で60年代には低い失業率水準であり,職探しに多くの時間をかけていなかったことをうかがわせるのに対し,70,80年代には次第に多くの時間を必要とするようになり,失業率水準が高止まる傾向をみせている (第3-1-2図)。しかし,90年代に入ると再び失業率水準は低下してきており,スムーズに職に就くことが分かる。アメリカの労働市場においては90年代に入り職探しにかける時間という調整コストが低下し,摩擦的な失業が減少し,インフレを加速しない失業率は低下してきているものと考えられる。

2 サービス産業を中心とした雇用の拡大

アメリカでは91年からの景気拡大局面において大幅な雇用増がもたらされており,93~96年の間に約1,000万人の雇用が生み出された。この間パートタイム労働者数はほぼ横ばいで推移していることから,そのほとんどはフルタイム労働者の増加であったといえる。また,同期間に業種別の雇用増はサービス産業では約900万人(全体の90%)の増加がみられ,建設業で約100万人増,製造業では微増となっているのに対し,鉱業では微減となっている。

93~95年の間のフルタイム労働者の雇用拡大を職種別にみると (第3-1-3図),知的職業者で約100万人,販売職で約80万人,経営管理者で約70万人と大幅に増加し,機械操作者,工夫,建設業などでも約40万人程度の増加を示している。これに対し,管理助手が約60万人の大幅減少となり,専門家・関連援助者も減少している。

次に,雇用がどのような賃金水準において増加したのかをみると (第3-1-4図),増加した雇用者の約70%が中位週賃金480ドルを超える賃金水準を得ている。このうち,最も雇用増の大きな賃金階層はほぼ中位週賃金の480~500ドル層で約86万人となっている。しかし,それに次ぐのは201~300ドル層の約64万人,901~1,000ドル層の約44万人と高所得層と低所得層とに分散しており,300ドル以下の賃金水準の労働者シェアが約20%であるのに対し,800ドル以上のシェアも同様に約20%であることなどからも,賃金格差の生じていることが分かる。

これらのことから90年代の雇用の増加は,サービス業を中心にしたものであり,職種も高技術職種での増加が目立ち,賃金水準も高い階層での増加が相対的に多いが,低賃金階層での増加も少なくなく,賃金格差が拡大していることを示している。

マクロ的にみると,経済成長に伴って雇用の増加を生み出し,インフレを加速することなく失業率を低下させているアメリカ経済は,人口構成の変化による失業率の低下という幸運な面があったとはいえ,そのパフォーマンスには素晴らしいものがある。しかし,一方でミクロ的には賃金水準に分散傾向がみられ,賃金格差が拡大するなどの問題が残されている。以下では賃金格差の拡大がどのような要因によってもたらされたのかを検討する。


《コラム3-1》 労働分配率の推移

90年代のアメリカ経済の労働市場の状況は,労働分配率にどのような影響を及ぼしたのだろうか。アメリカの労働分配率は,70年代末から80年代初めにかけて若干上昇した後,ほぼ横ばいで推移しており,90年代に入っても変化はみられない。

労働分配率は,実質賃金と労働生産性の逆数の積としてみることができる。70年代末からの上昇は,労働生産性の伸びが実質賃金の上昇に比べ低下したことがら生じており,その後は実質賃金の伸びと労働生産性の上昇がほぼ同程度で推移していることをうかがわせる。したがって,ここ10数年においてアメリカ経済では大幅な賃金コストの上昇はみられなかった。また,長期に亘って実質賃金が労働生産性を上回って増加し,労働分配率が上昇する場合には,インフレ・バイアスがかかり易く,逆の場合にはデフレ・バイアスがかかり易いことを考えると,労働分配率の安定した推移はアメリカ経済の良好さの裏返しともいえる。

しかし,ここでみている実質賃金は生産デフレータで計測したものであり,消費デフレータで計測した場合にはここ10年間に亘って実質賃金は上昇していない。消費者にとって実質的な購買力の増加はマクロ経済の良好さにもかかわらず大きくないことが示されている。しかし,生産面,労働コストへという側面に着目すれば生産デフレータによる計測が重要となり,生産性の伸びに見合った実質賃金の上昇が安定した生産の拡大をもたらしているということができる。

では,なぜ生産デフレータと消費デフレータの上昇率の間にギャップが生じたのだろうか。アメリカ大統領経済諮問委員会報告によれば,最近のコンピュータは技術革新が著しく,また価格の低下も著しいが,生産デフレータに比べ消費デフレータではこうした変化がうまく組み込まれず,多少消費デフレータに上方へのバイアスがあるとされている。また,非貿易財,サービスのウェイトの高い消費デフレータでは,生産デフレータに比べ上昇率が高くなる傾向を持ち易く,こうした特徴はアメリカ特有のものとは考えにくい。



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