平成3年

年次世界経済白書 本編

再編進む世界経済,高まる資金需要

経済企画庁


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第3章 世界の資金循環の変化

第2節 世界のマネー・フローの変化

前節では主要国と途上国の経常収支の動向をみることによって世界の資金需給の変化をみた。本節では経常収支と表裏の関係にある資本収支の動向をみることによって,世界のマネー・フローの変化を把握する。

1 主要国と途上国の資本収支の動向

主要国の資本収支の動向をみると,88年以降は三大国の経常不均衡の縮小に伴い,資本取引の流れも変化している。すなわちアメリカへの資本流入が減少する一方,ドイツ,日本からの資本流出も減少する傾向がみられる。こうした傾向は90年以降更に加速しつつある。また途上国の資本収支の動向をみると,直接投資では流入超を続けているものの,証券投資,借款では地域によって状況が異なり,投資国側による選別が顕著となっている。

(アメリカの資本収支)

アメリカの資本収支の動向をネットでみると(第3-2-1表),89年に879億ドルの流入超となった後,90年には286億ドルの流入超となり,流入超が大幅に縮小した。資本収支を項目別にわけてみると,90年には以下のような特徴的な動きがみられた。すなわち第1に証券投資と直接投資については,いずれも海外からの流入が大幅に減少している。この結果,ネットでは証券投資は流出超に転じ,直接投資の流入超は大幅に縮小した。第2に銀行部門では外銀の対米借款が大幅に減少する一方,米銀の対外借款が引き上げ超となっていることである。海外からの資本流入の減少傾向は91年に入ってからも持続している。91年上半期には,証券投資が再び流入超に転じたものの,直接投資は流出超に転じた。また銀行部門では米銀の対外借款引き上げが加速化する一方,外銀による対米借款も引き上げ超に転じ,借款は全体として流出超となった。

このようにアメリカでは経常収支の赤字が90年も921億ドルと高水準にあるなかで,ネットの資本流入が286億ドルに縮小している。635億ドルにのぼる差額は,「誤差脱漏」として処理されている。これは,経常収支赤字が過大に計上されている面もあるとみられるものの,アメリカの経常収支赤字ががなりの程度統計で補足できない資本流入によってファイナンスされていることを意味するとみられる。

アメリカの経常収支赤字のファイナンスについては,今後注意を要するとみられる。これまでアメリカへの資本流入を促してきた諸要因を以下にみるように検討してみると,経常収支赤字のファイナンスが,これまでのように円滑にされなくなる可能性が考えられるがらである。

アメリカは83年頃から毎年巨額の経常収支赤字を計上してきたが,この赤字は86年頃までは対米証券投資及び対米銀行借款を中心に,また87年以降は対米直接投資も加わってほぼ安定的にファイナンスされてきた (第3-2-1図)。その背景としては,①ドルが80年代において最も高い信用と流動性を持つ国際通貨としての地位を維持していたこと,②アメリカの金融市場が金融資産の多様性や市場の厚みといった点で他国の金融市場に比べて圧倒的な優位性を持っていたこと,③アメリカは70年代末から高金利政策をとっていたために日本,ドイツ等に比べて長期金利の水準が高かったこと等が挙げられる。このため,各国が対米貿易で得たドルは主としてアメリカで運用された。また,その他にも次のような点がアメリカへの資本流入を促進する要因として働いた。第1点は85年のプラザ合意を契機にドル高の是正が図られたがドルの暴落を防ぐため,主要各国が協調して低金利政策をとったことである。この結果アメリカとその他の主要国との間の金利差が確保され,ドル資産への投資インセンティブが確保された (第3-2-2図)。第2点は,日本で対外資本取引に関する規制が緩和されたことである。すなわち80年には外為法改正によって対外資本取引が原則自由化された。また,86年には生命保険会社や信託銀行に対する外貨建て資産比率の規制が緩和された。なお,87年以降は証券投資に加え,日本国内における地価や株価の大幅な上昇を背景に企業が低コストの資金調達を行い,対米直接投資を活発に行ったことも,アメリカ向けの資本流出を促進する要因となった。また第3点は,80年代後半以降アメリカの保護貿易主義的な動きが強まるなかで,日本を始めとする対米輸出国が,アメリカに生産拠点を作るため直接投資を積極的に進めたことである。

ところが90年以降の状況をみると,アメリカの経常赤字をファイナンスしてきた上記のような諸要因が剥落しつつある。まず金利差の面では,各国とも国内重視の金融政策をとるようになっているので金利差を確保することが困難となっている。実際90年にはドイツ統一の効果を先取りするようにしてドイツの長期金利が急上昇し,アメリカの長期金利を上回るようになった。日米間でも長期金利差は大幅に縮小し,それに伴って対米証券投資は大幅に減少した。また,日本では国内の地価の鎮静化や株価の下落に伴い,海外に投資する資金の余力は減少している。また,ECでは92年の市場統合を目指して域内の資本移動が自由化され,ECU建て債券の発行額が増大する等,金融市場が厚みを増している。ECにおけるこのような金融・資本市場の発展は,投資先としてのアメリカ市場の地位を相対的に引き下げている。

このようにみると,今後アメリカの経常赤字が再び拡大するようになると,所要の資本流入が円滑に進むことは期待しにくい状況となりつつあると考えられる。巨額の資金流入を確保するために,アメリカの長期金利が大幅に上昇することが懸念される。

(日本の資本収支)

日本の長期資本収支の動向をネットでみると(第3-2-2表),89年に892億ドルの流出超となった後,90年には436億ドルの流出超となり,流出超が大幅に縮小した。一方,短期資本収支は前年と同程度の流出超となっている。長期資本収支の内訳を収支尻でみると,まず,直接投資の流出超は前年比わずかながら増加しており,緩やかな拡大傾向を持続している。しかし,証券投資では流出超が大幅に縮小し,借款は大幅な流入超に転じた。証券投資を流入と流出にわけてみると,いずれも90年には大幅に縮小しているが,それぞれ以下のような特徴的な動きがみられる(第3-2-3図)。第1に本邦資本の流出面では,これまで対外証券投資の大宗を占めていたドル建て債等の外債投資が大幅に減少している。第2に,外国資本の流入面では国内債の取得超は拡大しているものの,国内株式は処分超に転じた。一方,本邦企業によるユーロ市場等での外債発行は大幅な減少となった。

日本の対外証券投資が90年に目立って縮小したことについては,以下のような要因が主として作用したとみられる。すなわち第1に国内の金融引締めを背景として日本の長期金利が上昇し,日米金利差が縮小したこと,第2に国内の株価が低迷したために,本邦企業が海外で発行する株式関連債(転換社債,ワラント債)への投資が減少したことである。87年頃から,国内の株高を背景に日本企業によるヨーロッパ市場での株式関連債の起債が活発化し,その大部分は更なる株価上昇期待から日本の投資家が購入していた。このような動きは,日本の証券投資を流入と流出の両建てで増加させた。ところが89年末まで上昇を続けていた株価は,90年には年初の下落,湾岸危機勃発後8月初から10月初にかけて大幅な下落と低迷を続けたため,株式関連債の起債が困難となり,日本のこれら外債への投資が減少した。

91年上半期における長期資本収支の動向をネットでみると,証券投資は,90年下半期に比べて本邦資本の流出は増加しているものの,外国人の国内株式に対する投資が大幅に増加したことから流入超に転じた。このほか,借款では本邦資本の流出幅が縮小したことおよび外国資本においてユーロ円インパクト・ローンの取り入れが引き続き行われていることから流入超を続け,直接投資の流出幅も若干縮小した。その結果,同期の長期資本収支は本邦資本の相当程度の流出が続いているものの,外国資本においてこれを上回る流入があったため,80年下半期以来,初めて流入超に転じた。一方短期資本収支は,外国資本の借款が返済の増加から流出超となっていることを主因に全体の収支尻でも流出超となっている。また,金融勘定では,為銀部門のポジション改善により,資金の流出幅は拡大している。

(ドイツの資本収支)

ドイツの資本収支は,80年代を通じ,経常収支黒字の拡大を背景に長期,短期とも振幅を伴いながらも流出超を記録してきた。しかし,90年には,長期資本の流出超は拡大したが,それを上回って短期資本の流出超が縮小したことから,全体としても流出超が縮小し,585億ドルとなった(前年725億ドル)。その内容をみると,以下のような特徴がみられる(第3-2-4図)。まず長期資本収支では,流出面で借款が大幅な拡大を示しており,直接投資も拡大傾向を強めている。これはECの市場統合および東欧・ソ連の民主化を背景として生じたものと言える。このうち借款については前年比増加幅の86.2%がEC向けと計画経済圏向けで占められている。短期資本収支では,流入面で全般的に拡大傾向が持続している一方,流出面で銀行部門の縮小が著しい。

91年上半期にはドイツ統一後の内需の高まりを背景に経常収支は赤字に転じており,ドイツはネットの資本供給国としての地位を失っている。資本収支の面では,長期資本の流出が続いているが,短期資本は,銀行が海外から短期資金を大量に引き上げていることもあり,流入超に転じている。

第3-2-3表 ドイツの資本収支の動向

(途上国地域の資本収支)

途上国全体でみると,81年以降,経常収支はほぼ毎年赤字となっている。このため,この間の途上国全体での資本収支はネットで′流入超となっていたとみられる。ただし,内容的には地域によってかなり状況が異なっている。アジアとラテン・アメリカの資本流入の動向を比較してみると投資国による選別化が進んでいることが明らかとなる。すなわち,両地域とも直接投資は83年以降毎年流入超を記録しているものの,銀行借款,証券投資については83年以降アジアはほぼ毎年流入超を記録しているのに対し,ラテン・アメリカは毎年流出超となっている。こうした対照的な動きは,両者の経済状況の違いを端的に反映している。すなわち,アジアではアジアNIEs,ASEANを中心に良好な経済パフォーマンスを続けており,資本流入も活発化している。これに対して,ラテン・アメリカでは82年の債務危機以降,先進国がらの銀行借款は流出を続けており,また,国内経済が停滞を続けていることから,新規の資本流入が細っている。

2 主要国の対外資産と債務の残高

以上見たような経常収支,資本収支のフローの動きは,ストックである対外資産と負債残高にどのような変化をもたらしたであろうか。主要4ヵ国(米・英・日・独)及び発展途上国に2いて見てみよう (第3-2-4表)。

85年から90年(イギリスは89年)にかけて,4ヵ国の対外資産と負債は,いずれも大きく伸び,国際的な金融・経済活動が活発に行われた様子がうかがわれる。まず,資産に着目すると,この間,日本は4倍,ドイツは3倍,イギリスは2倍,アメリカは1.5倍の規模となうた。また負債では,日本は5倍,ドイツは2.5倍,アメリカ,イギリスは2倍となった。この結果,対外純資産は,85年には,日本(1,300億ドル),イギリス(1,200億ドル),アメリカ(600億ドル),ドイツ(500億ドル)の順であったが,90年には,ドイツ(3,600億ドル),日本(3,300億ドル),イギリス(2,200億ドル)となった。対外試算・負債残高は,各国によって算定方法が異なり,厳密な国際比較はできないが,各国の発表数値を単純に比較すれば,ドイツが世界最大の純債権国となった。一方アメリカは,1986年に純債務国に転落して以来,純債務幅を拡大させ,90年には,マイナス4,100億ドルとなった。

次に,各国別に対外資産・負債残高の中身を検討する(第3-2-5図)。まず,アメリカについて,その主な特徴をみると,第1に,大幅な経常収支赤字の継続を背景に負債の増加が資産の増加を大さく上回っていること,第2に負債の内訳では,証券投資,直接投資のシェアが他国に比べて高いことがあげられる。証券投資のシェアが高いことの背景には,巨額の財政赤字をまかなうため,大量の国債を発行し続けてきたことがあるが,このほか,アメリカの証券・資本市場が他国の市場に比べ,規模,多様性の点で,発達していたことがあげられる。すなわち,流動性の高い連邦債市場の規模が大きいこと,充実した格付け機関,SEC(証券取引委員会)の存在により,証券市場の透明度が高いことなどが,海外の資金を引き寄せる素地をつくっていたと考えられる。なお,直接投資の受入れ額が大きい理由としては,まず,アメリカ市場の開放度が高いことがあげられるが,貿易摩擦を背景に海外の製造業が,アメリカでの現地生産化を進めたことも,重要な要因になっていると考えられる。実際,対米直接投資の収益率をみると,必ずしも高いとは言えない (第3-2-6図)。ただし,この点については,①アメリカの対外直接投資の歴史が古く,石油をはじめ利益が高い反面,対内直接投資の歴史は浅く,利益が少ない,②アメリカで活動する日本をはじめとする外国企業は,収益を再投資に回す傾向が強い,という要因も指摘される。

イギリスの特徴としては,まず,資産と負債の双方で証券投資のシェアが上昇したことである。これには,世界的な証券化の流れがあったこと,86年にイギリスの証券業で手数料の自由化をはじめとする本格的な規制緩和が行われたことなどの影響があげられる。また,88年から89年ごろに内外の資本市場が好調であったことも影響しているとみられる。一方,イギリスの銀行部門の資産と負債の残高をみると,90年においても他国を上回る規模を維持している。これは,イギリスが引き続き世界の代表的金融センターとしての地位を保ち続けていることを示している。

次に日本を見ると,以下の3つの特徴を指摘することができる。第1は,資産と負債が両建てで大幅に増加するなかで,純資産も大きく増加したことである。対外資産と対外負債が両建てで急速に伸びたことは,日本がこの間に,世界的な金融仲介機能を果たすようになったことを示していると考えられる。特に対外融資(企業,保険会社による対外融資も含む)と,銀行借入のシェアがともに大きく増加しており,この点からも,日本が国際的な金融センターとなっていることがみてとれる。

第2は,証券投資が流出と流入の両面で著しく拡大したことである。この背景としては,日本の生命保険会社,信託銀行などの機関投資家が,80年代後半に,対外証券投資に対する規制緩和が進むなかで,資産の運用先としてドル債に多額の投資を行ったことがあげられる。また,国内の好景気を背景に,一般企業が,海外で活発に資金調達を行ったことや,BIS規制導入により,邦銀が,ユーロ市場などでエクイティ・ファイナンスや劣後債の発行などを盛んに実施したことも,対内証券投資の拡大をもたらす要因になったと考えられる。

先に述べたように,日本の一般企業や銀行が,規制の緩いユーロ市場などで,大量の株式関連債を発行し,そのかなりの部分は日本の投資家が購入しているために,対外証券投資も同時に拡大することとなった。

第3の特徴は,アメリカ,イギリスに比べ,直接投資の受入れ残高が極めて小さいことである。この背景には,プラザ合意以降の円高と高い地価により初期投資が大きくなること,株式の相互持ち合いの慣行などを背景に,M&Aが行いにくいこと,などが指摘される。このほかにも,日本の産業競争力の相対的な強さが,海外企業の進出をためらわせているという要因も考えられる。

最後にドイツをみると,90年には,世界最大の純債権国となったものの,資産と負債の規模はまだ小さく,米・英・日とはかなり異なる姿を示している。

この点は,ドイツが,国際的な金融センターとしては,まだ十分に成熟していないことを示唆するものと考えられる。

なお,発展途上国全体の対外債務残高をみると,85年から90年にかけて,大半を占める公的債務及び公的保証付民間債務は,1.4倍の伸びにとどまった。他方,公的保証のない民間債務の残高は,同期間中に少額ながら逆に減少している(第3-2-7図)。公的債務について地域別の分布を見ると,アジア,アフリカで伸びが比較的高く,中南米では伸びは小さいものの,残高は依然として最も多い。民間債務では,中南米の減少が目立っている。

3 国際マネー・フローの変化

国際的なマネー・フローは80年代後半に急速な拡大を見せた。その規模の推移を世界の長期資本流出額でみると84年の1,800億ドル程度から89年には6,000億ドル近くにまで達している。ところが,90年に入りこうした拡大傾向に歯止めがかかったほか,内容的にも89年までとは異なった動きがみられるなど,国際マネテ・フローに大きな変化が生じた。ここではまず,長期資本の動向をみることによって90年にみられた国際的なマネー・フローの変化の特徴を明らかにする。その後,ユーロ市場の動向をみることによって国際金融・資本市場の金融仲介機能の変化についても検討を加える。

(国際マネー・フローの性格別動向)

80年代の国際的なマネー・フローを資本の性格別にみると,89年までの急速な拡大を牽引したのは主として証券投資と直接投資であったことがわかる(第3-2-8図)。このうち,証券投資はブラック・マンデーのあった87年を除き,89年までほぼ一貫して拡大を続けた。一方,直接投資も83年以降ほぼ一貫して拡大した。これは基本的には企業活動のグローバル化によるものであるが,貿易摩擦を回避する手段として増加した面もあると考えられる。

しかし,90年にはマネー・フローは全体で縮小しており,80年代の急速な拡大傾向に歯止めがかかるかたちとなっている。内訳をみると,直接投資では依然拡大傾向を維持しているものの,最もウエイトの高い証券投資が大幅に縮小している。

(国際マネー・フローの地域別動向)

世界のマネー・フローを地域別にみると,以下の点が指摘できる (第3-2-9図)。まず第1に資本の流入が先進国に集中するという傾向が持続していること,第2に先進国内での資本移動は米日間で縮小する一方,ECをめぐって活発化しつつあることである。

世界の資本フローの推移を流入面から先進国と途上国にわけてみると,先進国への資本流入がこれまで急速な拡大を見せてきたのに対し,途上国への資本流入は低水準のまま推移している。このことは,80年代の国際的なマネー・フローの拡大が先進国間に限って起こったものであることを示している。中南米等では82年に累積債務危機が顕在化して以降,先進国からの民間資金はネットで流出超となる傾向にあり,流入は公的資金のみに近い状況となっている。

先進国間の資本フローを地域別にみると,90年には日本,およびヨーロッパの資本が投資先をアメリカからヨーロッパヘシフトさせていることがわかる。

アメリカ,日本,EC(英独仏)にわけてこの状況をみると,次のような変化が見てとれる。まず直接投資では,流出額でECおよび日本が大きなウェイト占める一方,流入額では89年までアメリカが圧倒的なウェイトを占めている。

これは,この間の直接投資の流れが主としてECおよび日本からアメリカヘ向かっていたことを示している。ところが,90年には流入額に占めるアメリカのウェイトが縮小する一方,ECのウェイトが高まり,両地域のウェイトはほぼ同程度となっている。また流出額では従来同様ECおよび日本が大きなウエイトを占めている。これは90年に,日本からのEC向け直接投資が増加していることに加え,ECからの直接投資が投資先をアメリカから域内にシフトさせたことを示しているとみられる。

また証券投資でみても同様の傾向がうかがえる。すなわち88年までは,流入額でアメリカが最大のウェイトをしめる一方,流出額では日本が圧倒的なウェイトを占めており,日本からアメリカへの証券投資が活発であったことがわかる。ところが89年にはECで流出入とも急増する一方,日本への流入額も急増し,アメリカへの証券投資のウェイトは相対的に低下した。更に90年にはECへの流入額が増加する一方,アメリカへの流入額が大幅に縮小しており,投資先がアメリカからヨーロッパヘ加速的にシフトしている。こうした変化は,先に述べたようにECの市場統合に向けて域内資本移動が自由化されたこと,東西ドイツ統合等を背景にECをめぐる資本移動が活発化していること,日米金利差の縮小を背景に日本の対米証券投資が縮小していること等の事情を反映したものとみられる(第3-2-10図)。

この間の日本の資本流出額全体を地域別にみると,以上述べた状況を裏付ける動きとなっている。すなわち,日本の資本流出先としては88年まではアメリカが最大のウェイトを占めていたものの,89年にはECのウェイトが最大となった。更に,90年には対アメリカが大幅に縮小するなかで,対ECのウェイトが一層の高まりを見せている (第3-2-11図)。

一方途上国の資本フローの動向を地域別にみると(第3-2-12図),アジアでは83年以降ほぼ毎年200億ドル程度の資本流入があり,途上国への外国資本の流入の大半がアジア向けとなっている。また,アジアでは資本流出もこのところ拡大傾向にある。これは,最近アジアNIE8が対外直接投資を急速に増加させていることを反映したものと考えられる。中南米では84年以降,銀行借款を中心に外国資本の引上げ傾向が続いていたが,89年にはその規模は大きく縮小した。また,中東では83年以降,対外資産を国内に戻す動きが続いていたが,89年にはその傾向が一服し,対外資産は増加に転じた。

(途上国への公的資金フローの動向)

ここで,途上国への公的資金フローの動向をみておく(第3-2-5表)。途上国では,中南米の累積債務危機を背景に民間資金の流入(グロス)が83年から86年にかけて減少した。この間公的資金の流入(グロス)はほぼ一貫して増加しており,84年以降は民間資金を上回るようになった。90年の途上国向け資金流入(グロス)は,公的資金が776億ドル,民間資金が608億ドルとなっており,途上国への資金供給の面で公的資金は大きな役割を果たしている。

公的資金は二国間の借款,贈与とIMF,世銀等の国際機関を通じた借款である多国間の資金援助に大別できる。そのうち,二国間の資金援助がほぼ一貫して全体の6~7割程度を占めており,公的資金の中心となっている。90年には二国間が557億ドル,多国間が219億ドルとなっている。多国間援助についても資金供給を増加させることが求められているが,このような観点からIMF等の増資が順調に進められることが重要である。

公的資金の流入先を地域別にみると,アジア,中南米では多国間のウェイトが高いのに対し,中東・北アフリカおよびその他の地域では二国間のウェイトが高い。ただし,アジアでは86年以降二国間の資金流入が増加しており,そのウェイトも高まっている。

次に公的資金の出し手をみると(付表3-1),アメリカ,日本,ドイツ,フランスが主要な出し手となっている。また,国別に資金の性格をみると,アメリカ,フランス,日本は二国間資金が中心であるのに対し,イギリスは二国間資金と国際機関への出資を通じた多国間資金のウェイトがほぼ同程度となっている。

4 ユーロ市場の動向と国際マネー・フロー

ここまでは主要国や途上国の資本収支の動向をみることによって各国・地域ごとに資金の流出と流入の状況を把握した。世界のマネー・フローの実態をより具体的に把握するために,国際的な資金の仲介機能を果たしている国際金融・資本市場の動向をみておくことが必要となる。そこで,以下では,まずこれまで国際金融・資本取引の中心となってきたユーロ市場を取り上げて,その沿革と世界のマネー・フローに果たしてきた役割をみる。その後で,BIS(国際決済銀行)統計を用いて最近の動向および問題点について言及する。なお,BISによる国際金融・資本取引の定義は,①国境を越える金融取引,②外貨建ての金融取引,となっているが,いわゆるユーロ取引は国境を越える自国通貨建て取引を含まないため,BISの定義よりは狭い範囲をさすことになる。

(ユーロ市場とは何か)

ユーロ市場とは,その市場が存在する国の通貨以外の通貨によって資金の運用・調達が行われる市場の総称である。ユーロ市場の起源については,50年代後半にヨーロッパにおける短期のドル資金貸借市場としてロンドンを中心に自然発生したものと言われている。この時期にヨーロッパにドル資金が蓄積された背景として,50年代後半に東西冷戦が激化するなかでソ連・東欧がアメリカによる敵性資産の凍結を避けるため,アメリカ国内に有していたドル資産をヨーロッパの銀行に預け替えたという事情があったと言われている。

その後,市場規模が急速に拡大を続けるなかで,取扱通貨,取引場所等も多様化し,現在では通貨,取引場所にかかわらず取引の行われた場所の母国通貨以外の通貨による取引を広くユーロ取引と呼んでいる。

ユーロ市場を含む国際金融・資本市場の規模をBIS統計でみると,90年末には資産残高でみて8兆8,000億ドルとなっている。これは,同年のアメリカの名目GNP(5兆5,000億ドル)と日本の名目GNP(3兆ドル)の合計をやや上回る大きさであり,最近の国際金融・資本市場の規模の大きさが理解できる。

ユーロ市場が急速に拡大した背景には,国内市場と比べてユーロ市場は各国の金融当局の規制や監督,あるいは制度的慣行に縛られない自由な市場であるという事情がある。すなわち,ユーロ市場では準備預金,預金保険,金利規制,有担保原則,利子源泉徴収課税等が原則として課されない。このため,ユーロ資産は国内資産に比べて保有コストが低く,それだけ運用面でも有利となる。また,各種の取引規制からも自由であるため,新しい金融手法が開発され,高いノウハウが蓄積されることとなった。

(ユーロ市場と世界のマネー・フロー)

世界のマネー・フローとの関わりでユーロ市場の動向をみると,これまでの世界的なマネー・フローの変化にユーロ市場が大きな影響を及ぼしてきたことがわかる。

60年代にはユーロ市場は基本的に銀行間の短期資金貸借市場としての性格が強く,世界的なマネー・フローにはそれほど大きな影響力を持たなかった。主たる出し手は米銀であったが,その背景としては63年にドル防衛の観点がら導入された利子平衡税の影響が挙げられる。この新税のもとでは,非居住者がアメリカで発行するドル債については受け取り利子に課税されるようになったため,ドル資金を直接海外で運用することが有利となった。

70年代には,中東産油国は,石油危機により得た膨大な余剰資金をユーロ市場に運用した。ユーロ市場は新金融手法の開発をバネに,この資金を中南米を中心とした途上国向けの中長期貸出しに運用した。その結果,ユーロ市場はオイル・マネーが途上国に還流するうえで大きな役割を果たすとともに,その市場規模を大きく拡大させた。これは,先進国が石油危機に対応して軒並み引締め政策をとるなかで,積極的な成長政策をとる中南米が貸出し先として大きくクローズ・アップされてきたことによる。また,この時期にユーロ市場で新しい金融手法が開発されたこともこうした貸出しを増加させる要因となった。第1は,ロール・オーバー方式と呼ばれる変動金利による貸付である。この方式のもとで,中長期貸付の金利は基準金利に一定のスプレッドを加えて決められ,かつ基準金利は3~6か月ごとに見直される。ユーロ資金は通常3~6か月程度の短期資金であり,かつ金利は自由に変動するため,銀行は固定金利で中長期貸出しを行うと金利変動のリスクを負うことになる。ロール・オーバー方式の導入によってこうしたリスクは回避できるようになり,中長期貸出しを大規模に行うことが可能になった。第2はシンジケート・ローンの開発である。

これは多数の銀行が融資団を組み分担融資を行う方式である。途上国向けの融資は返済能力に疑問があるうえ金額が大きいため,単独で貸出しを行うにはリスクが大きい。しかし,シンジケート方式により,大規模な融資が可能となるとともに貸倒れのリスクも分散されることとなった。

ところが70年代後半になるとアメリカでインフレ抑制のため金融引締め政策がとられ,金利が急上昇した。また,日本,ドイツ等の先進国でも引締め政策がとられたことから世界同時不況となった。途上国は高金利と輸出不振に挾撃されたため,外貨事情が著しく悪化した。こうしたなかで82年にはメキシゴが債務の返済を停止し,その後中南米を中心に,債務返済が困難化する国が多発した。この時期から80年代前半にかけてユーロ市場では,シンジケート・ローンが低迷する一方で,債券による調達・運用のウェイトが増大した。この時期以降こうした資金調達・運用の証券化は一層の進展を見せていくが,その中核となったのは変動利付債やノート・インシュアランス・ファシリティ(銀行が借手に対してあらかじめ短期証券の発行枠を設定し,その枠内であれば発行証券の売れ残りの引受を保証するもの)といった証券形態の新金融商品であった。

80年代には世界のマネー・フローに大きな変化が生じた。すなわちアメリカが経常収支赤字国に転じ,資金需要国となる一方,日本,ドイツが資金供給国となったことである。こうしたなかでユーロ市場は先進国間の資金移動を円滑化させる役割を果たした。この時期には,アメリカの経常赤字は主として日本からの証券投資によってファイナンスされていた。日本は,84年以降も毎年,経常黒字を上回る長期資本の流出を計上したが,その差額は主としてユーロ市場からの短期資金の調達に拠っていた。一方,ドイツは,特に非銀行部門が,短期資金を独銀の在外支店に預金するかたちでヨーロ市場に放出した。

ここで,この頃のユーロ市場の国籍別活動状況をみるために,国際金融市場における銀行資産の国別シェアをみると,83年には米銀が28.0%と最大のシェアをしめており,邦銀は21.1%となっていた。ところが,85年には邦銀が26.1%と最大のシェアを占める一方,米銀は21.7%となり,その地位が逆転している。邦銀は70年代に国際銀行市場に本格的に登場して以来そのプレゼンスを着実に増大させていたが,80年代に入り,国内で外為法改正(80年),ユーロ円取引の自由化(83年),対外証券投資に関わる資本流出規制の緩和(86年)等,一連の国際金融取引に対する規制の緩和が行われたことを背景に一段と国際取引を活発化させた。その後の邦銀のシェア拡大は目覚ましく,89年末には38.0%に達した。

80年代後半には,先進国の長期にわたる景気拡大を背景に活発な資金需要が生じ,様々なニーズに応じてユーロ市場が活用された。86年以降,アメリカを中心とするM&Aブームを背景にシンジケート・ローンが再活性化した。88年以降は日本の株高を背景として日本企業の株式関連債の発行が著増したことからユーロ債券市場も活況を呈した。また,邦銀を中心に,BIS規制に対応するため自己資本充実を意図した転換社債の発行が相次いだこともこうした動きにある程度寄与した。

ところが,90年にはユーロ市場の拡大傾向に鈍化が見られた。銀行貸出では新規貸出額は89年の4,100億ドルから90年には3,800億ドルに縮小する一方,新規債券発行額も89年の2,636億ドルから90年には2,394億ドルに縮小した。こうした動きは主としてユーロ市場で大きなプレゼンスを持つ日本とアメリカの銀行および企業の動向によるものである。まず,アメリカでは国内の不動産不況の深刻化から米銀は資産内容が悪化したため,BIS規制上から資産の圧縮を図らざるを得ず,対外資産を引き上げる方向にある。また,日本でも90年中に株価が低迷を続けたことから,銀行では含み益が減少し,同様にBIS基準達成のために対外資産の伸びを抑制する方向にある。こうした事情を反映し,国際銀行資産の増加額は,邦銀で89年の2,020億ドルから90年には1,530億ドルへと縮小する一方,米銀では89年の609億ドルから90年にはマイナス153億ドルとなり,引上げ超に転じた。この結果,国際銀行資産に占める邦銀,米銀のシェアはそれぞれ89年の38.0%,14.2%から90年には35.5%,11.9%に低下じている。更に日本の株価低迷によって日本企業の株式関連債の発行は一時中断したため,ユーロ債券市場での株式関連債の発行額は89年の852億ドルから90年には332億ドルへと大幅に縮小している。こうしたなかで,独銀,仏銀等,ヨーロッパの銀行が活発な金融活動を展開している。国際銀行資産の増加額は独銀で89年の816億ドルから90年には1,662億ドル,また,仏銀でも89年の455億ドルから90年には1,223億ドルとなっており,増加傾向が大幅に加速している。

これはECの市場統合を控え,資本移動の自由化が進展するなか,域内の資金移動が活発化していることを反映したものとみられる。また,ヨーロッパ系の銀行は米銀,邦銀に比べ,伝統的に自己資本比率が高く,BIS規制によってその活動を制限される度合いが小さかったこともこうした活発な活動を可能にする一因であったとみられる。

(ユーロ市場に対する評価)

以上みてきたように,規制から自由であるユーロ市場は,新種の金融技術の開発,多様なノウハウを背景に,これまで様々な局面で世界のマネー・フローを円滑化してきた。今後とも,世界の資金需給の調整の場として一定の役割を果たしていくことが期待される。ただし,規制が緩やかであることは,一方でリスク管理が不徹底であり,また,万一の危機に際して対応能力が低いことにつながる。預金準備も必要なく,最後の貸し手としての中央銀行も存在しないなかでは,一つの銀行の破綻も世界的な金融システムの動揺につながる危険性がある。したがって,こうしたリスクへの十分な配慮が必要であることは言うまでもない。

80年代の累積債務危機の顕在化以降,ユーロ市場では途上国の信用リスクに対する意識が高まりをみせており,途上国への資金仲介は細っている。今後,東欧・ソ連等での民主化等,世界的な経済体制の再編に伴い各地で資金需要が盛り上がることが予想されるなかで,ユーロ市場の資金仲介機能に対する期待も高まるとみられる。しかし,70年代に先進国の民間銀行がラテン・アメリカ向け貸出を行ったような資金仲介機能を再びユーロ市場が果たし得るかどうかは疑問である。ただし,91年9月にEBRD(欧州復興開発銀行)がユーロ市場でECU債の起債を行ったことからも明らかなように,ユーロ市場は,国際金融機関や各国政府が途上国向け資金を調達する場として重要な役割を演じることができると考えられる。すなわち,ユーロ市場は,公的資金を途上国へ供給する場合の仲介機能を発揮するとみられる。