平成元年

年次世界経済報告 本編

自由な経済・貿易が開く長期拡大の道

経済企画庁


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第3章 世界貿易の拡大と構造変化

第1節 世界貿易の150年

世界貿易を現時点でどのように評価するか,を考えるためには,工業品貿易が急速に拡大した産業革命以降の世界貿易の歴史的推移を跡づけてみる必要がある。世界貿易の拡大如何や,世界輸出入に占める先行国,追い上げ国のシェアは各国のとる貿易政策に大きな影響を与え,また各国の貿易政策は世界貿易の伸びに大きな影響を及ぼしてきた。

世界貿易数量の伸び率のデータが入手可能なのは,イギリスの産業革命が既に進行した1830年代からである。これによると,世界貿易が順調に拡大しているのは自由貿易の普及した時であり,保護主義が台頭する時代には,世界貿易の伸びは大きく鈍化することが見てとれる(第3-1-1図)。すなわち,戦後のGATT自由貿易体制のもとで,世界貿易数量は年率5%を上回る伸びを示してきた。これに匹敵するのは,イギリスが自由貿易に移行し,ドイツ,アメリカ等にも波及していった1840年代から1870年代にかけての時期のみである。これに対して,1880年代から1930年代にかけては,アメリカ,ドイツ等が保護主義に復帰し,イギリスにおいても保護主義圧力が高まり,結局,世界全体が保護主義とブロック化への道を歩んだ時期であり,世界貿易数量の伸びは,年率3%から,ゼロ成長まで落ち込んだのである。

このような世界貿易のパフォーマンスと貿易政策の絡み合いをより詳しく見るために,150年以上にわたるこのような期間を,次のような6つの期間にわけて考えよう(第3-1-1表)。第1は,産業革命の前史として,イギリスが通商上の覇権を握るに到った,イギリス重商主義の時代であり,15世紀末から18世紀半ばにかけてである。第2は,イギリス産業革命が進展するなかで,植民地アメリカが独立し保護主義を強めていく,18世紀末から19世紀初めにかけての時代である。第3は,イギリスが自由貿易に転じ,アメリカ,ドイツ等にも自由貿易が波及していく,19世紀半ばから後半にかけての時代である。第4は,アメリカ,ドイツ等が保護主義に戻り,イギリスでも保護主義圧力が高まっていく,自由貿易の後退と保護主義の台頭の時期であり,19世紀末から20世紀初めにかけてである。第5は,各国において産業の集中化が進むとともに,アメリカの保護主義が極限に達し,イギリスも保護主義とブロック化に至る,20世紀前半の時期である。そして第6が,戦後のGATT体制のもとで自由貿易が拡大している,現在に至る時期である。

1. イギリス重商主義

産業革命以前のヨーロッパにおいては,世界各地の特産物の交易が大きな利益をもたらすことから,各国は通商の覇権を求めて争った。このような各国の政策は,重商主義といわれるものであり,最終的な勝利者となったイギリスの重商主義の特色は,フランスのような国家直接介入をとらず,貿易会社への特許権,工業への独占権の付与という間接的な手段によって,貿易および産業の強化を図ろうとするものであった。しかしながら,17世紀前半にオランダが,世界の海運と貿易の覇権を握った頃から,イギリスの重商主義は軍事力で競争相手国を打ち破り,覇権を求める行動を強めていった。

1651年および1660年の「航海法」はオランダの海運と貿易の打破を目的として,次の3点により,オランダの仲介貿易を妨げようとした。すなわち,(1)アジア,アフリカ,アメリカの商品はイギリスの船舶によらなければ,イギリスおよび植民地に輸入することを禁止する,(2)ヨーロッパの商品は,イギリス船か,その商品の原産国の船によらなければ,輸入を禁止する,(3)植民地産の原料は,本国によって独占されるべきであり,他国に輸出することを禁止する,というものである。結局,イギリスは3次にわたるイギリス・オランダ戦争を経て,オランダの覇権を打破した。次いでイギリスは,17世紀末から18世紀半ばにかけて,イギリス・フランス植民地戦争,スペイン継承戦争,オーストリア継承戦争及び七年戦争を通じてフランスとヨーロッパおよび植民地において争いを続けた。その結果,イギリスはアメリカおよびインドにあるフランス植民地主獲得し,世界貿易における霸権を握ったのである。

この間,イギリスはアメリカ植民地の経済に対して,様々な抑圧をおこなった。第1に,羊毛法,帽子法,鉄法により,本国と競合する植民地産業を禁圧した。第2に,糖蜜法により,西インド物産を安いフランス領等,イギリス領以外から購入することを禁止した。第3に,植民地戦争の戦費調達のため,砂糖法,印紙法,紙,茶,硝子,ペンキ等についてのタウンゼント法により,アメリカ植民地に課税を強化した。

2. イギリス産業革命の進展と独立アメリカの保護主義(18世紀末~19世紀初め)

イギリスでは,18世紀末頃から門業革命が起こり,綿糸紡績,綿織物,羊毛紡績,毛織物,石炭,製鉄,蒸気機関等が,他のヨーロッパ諸国に先がけて発達した。これは,(1)イギリスの所得水準が,他の諸国よりも高まっていたこと,(2)イギリスでは,国内の移動や取引が自由だったのに対し,他の諸国では,地理的,政治的な障害があったこと,(3)ヨーロッパ全体として,以前から技術の改良が続いており,イギリスもその流れのなかで,一定水準に達していたこと,(4)当初の発明および生産化は,後世のものに比べて小規模であり,発明家がある程度の資金を持てば,可能だったこと等の要因によるものである。

このような工業力を背景にした,イギリスのアメリカ植民地抑圧策に対し,アメリカでは,イギリス製品の輸入ボイコット等で対抗した。イギリスが東インド会社救済のため,アメリカ植民地への茶輸出の独占権を同会社に付与しようとしたことから,独立戦争につながった。独立アメリカは国内産業保護のため,関税を強化した。アメリカの保護主義の考え方をよくあらわしているのは,1791年,初代財務長官ハミルトンの「製造業報告書」である。これによれば,アメリカが植民地型の農業国から脱却し,農・工・商のバランスのとれた国民経済を建設するためには,幼稚産業である国内産業を保護・育成し,国内市場を創出・拡大することが急務,としている。そして,「産業および通商の完全な自由制度」が望ましいが,現実には各国は採用していない,として政府の人為的な産業保護への反対論を退けている。アメリカ・イギリス戦争を経て,1816年関税法は,綿,毛織物,鉄の各工業製品に25%の従価税を課し,これが年々引き上げられて,1828年には毛織物税率を45%とし,鋳鉄,棒鉄等についても引き上げられる極めて保護主義的なものとなった。アメリカの関税に関する利害についてみると,ニューイングランド工業地域は保護を要求し,西部農業地域はそこに市場を求めて,両者結託した。これに対して,南部は綿花輸出,製品輸入のため,関税に反対の立場をとった。

3. 自由貿易の拡大

この時期は,自由貿易の拡大につれて,世界貿易数量の伸びも1830年代の年率2.5%強から,1840~70年代の同4~5%に高まったときである。イギリス産業は,この時期が最盛期である。

イギリスの市場経済,自由貿易中心のレッセ・フェールの経済学は,すでにアダム・スミス(1723~90)の「国富論」(1776)によって確立されていた。この考えが政策として受入れられるのは,死後50年後のことであるが,その後長らく自由貿易論の基礎となり,イギリス経済学および経済政策の主流となった。

イギリスは保護主義の時代には,技術者の海外移住や機械類の輸出を禁止し,技術の海外流出を抑えてきたが,まずこれらが解禁された(それぞれ1825,1842年)。ついで,地主,農業資本家のため穀物価格を引上げ,輸入穀物が一定価格以下のときは保税倉庫からの輸入を禁止する穀物法(1815)につき,国家的議論が高まった。結局,世界の産業,貿易に覇権を確立したことを背景とし,地主階級の打破,労働者の不満解消,輸出の拡大等,様々な目的から,コブデン・ブライトの主導により,1846年,穀物法が廃止された。そして,関税の廃止(1846~49),航海法の廃止(1849,54)により,イギリスは自由貿易に移行したのである。

この間,アメリカにおいても,自由貿易の傾向が強まった。1832年にサウス・カロライナ州議会が,1828年関税法の無効を宣言したのをきっかけとして,無税品目表の拡大,関税率の引下げが行われた。1846年のウオーカー関税法は,これまでの関税法を本質的に変更して,保護主義的性格を無くし収入目的に限定するものであった。平均税率は20%に低下し,自由貿易に近づいた。

大陸ヨーロッパでも,ナポレオン戦争時のフランス,イギリスによる大陸封鎖令解除後,通商拡大の機運が高まっていった。特にドイツは39カ国による連邦となり,経済発展のためには,連邦諸国間の鉄道網の敷設と関税の引下げが不可欠となった。プロシアが関税率引下げと関税同盟形成(1834)の中心となり,1818年にはすでにブロシアの関税率(マッセン関税)は,ヨーロッパで最も軽減されたものとなっていた。フリードリヒ・リストはドイツ域内関税の引下げと,対外共通関税の設定を主張したが,「国民経済学体系」(1841)においては,ドイツ産業がイギリス産業に制覇されることを避けるために,イギリス製品に高関税を賦課すべきである,と主張し,自由貿易は各国産業が同様に効率的になった時にのみ可能とのべていた。しかし,これが政策に反映されるのは1870年代末であり,むしろ大陸ヨーロッパでは,(1)河川の通行規制や通行料の縮小・廃止,(2)通貨の簡素化・通貨統合(後述),(3)2国間関税引下げ協定により,自由貿易への傾向が強まった。2国間関税引下げ協定は,コブデン・シュバリエによるイギリス・フランス通商条約(1860)にはじまり,フランス・プロシア(1862),プロシア・イギリス(1865),フランス・ドイツ関税同盟(1866)と順次拡大していった。そしでドイツ統一の1871年に,ドイツの関税は廃止されたのである。ドイツ諸邦の関税同盟から,プロシア等北部のタラーと南部のグルデン(フローリン)との間の為替レートの固定化(1838),ドイツ諸邦とオーストリアの通貨統合(1857),ドイツ諸邦の政治的統一と統一通貨マルクの成立に至る過程は,現在のECの市場統合から通貨統合,さらには政治統合への動きの先例として注目されている。

4. 自由貿易の後退と保護主義の拡大

このように,ヨーロッパ,アメリカに拡がった自由貿易も,1873~75年の経済恐慌をきっかけとしてアメリカ,ドイツが保護主義に戻り,イギリスもこの頃始まった第2次産業革命では,アメリカ,ドイツに追いつかれ,追い越される状況にあり,保護主義圧力が急速に高まっていった。世界貿易数量の伸びは,1880年代から1900年代には年率2.5%~3.5%に低下した。第3-1-2図に見るように,世界輸出に占めるイギリスのシェアは急速に低下し,アメリカ,ドイツのシェアが高まり,各12%前後に接近してきていた。

アメリカでは,南北戦争時に保護関税が強化され(モリル関税),その後一時緩和したものの,1873年の経済恐慌により1875年から再び関税が強化されていった。その性格も,幼稚産業の保護という段階を越えて,独占化した国内産業の市場を擁護するという,カルテル関税的なものとなった。マッキンレー関税法(1890)は平均税率49.5%,デイングレー関税法(1897)は同67%に達する高税率であった。

大陸ヨーロッパでは,プロシア・フランス戦争後フランスは両国間の通商条約を延長せず,メリーヌ関税(1892)で保護関税に復帰した。ドイツでは,経済恐慌により,製鉄業は打撃が大きいとして,保護関税復活を要求し,繊維,製紙,皮革,化学にも波及した。自由貿易を支持するのは,東部の農業ユンカーのみとなった。このような中でビスマルクは,1878年保護関税への復帰を決めた。当初は平均関税率10-15%の緩いものであったが,その後数次にわたって引き上げられた。ビスマルクは議会演説において,「私は保護主義を採用している諸国が繁栄しつつあり,自由貿易主義を採用している諸国が衰退しつつあると見なしている。強壮な運動選手イギリスは,その体力を強化したあとに自由市場に躍り出た。」と述べた。

イギリスでは,ドイツへの敵愾心が高まり,ドイツ商品がいかにイギリスの伝統的市場を浸食しているか,を警告する本「メード・イン・ジャーマニー」(1890)が出版されたり,議会がドイツ商品非難を強め(1896)「真夏の狂気」と呼ばれたりした。相手国が「不公正」(unfair)である,との非難はこの頃ドイツの企業行動に関して用いられ始め,全国公正貿易連盟等が興隆した。イギリスへの追い上げでは,アメリカの方が急であったが,アメリカ非難とはならなかった。このような保護主義圧力の高まりの中で,1903年,ジョセフ・チェンバレン前植民相は関税改革運動を開始した。これは,(1)ドイツ,アメリカの工業が関税によって保護されているのに対抗し,保護関税政策を導入してイギリスの工業を保護し,雇用を確保すること,(2)帝国特恵関税制度を実施し,ドイツの関税同盟に似た制度を設けて,帝国内の自由貿易を促進するとともに,外国に対しては保護関税をもって対抗すること,を主張するものであった。次項で述べるよ引こ,イギリスがこのような政策を実施するまえに,植民地の飛躍的拡大を図る,という道筋をたどった。

チェンバレンの帝国特恵のように,一部の国に有利に,他の国には不利になるような,後にブロック化につながっていく動きがアメリカ,ドイツで強まった。アメリカでは,相互協定(reciprocityagreements)が推進され,対メキシコ協定(1883)からカッソン協定(1890)まで11協定が調印された。しかし上院はいずれも承認せず,行政協定により関税引き下げが行われた。これらの評価について,マッキンレー大統領は,関税の相互引き下げは貿易戦争の回避に不可欠である,とした。ハワイとの相互協定の後,カナダとの間でも調印されたがカナダ側が批准しなかった。ドイツでは,ビスマルクの後任カプリビが,通商協定のない国には高関税率,同じくある国には低関税率,との考えで2国間協定を交渉し,1891-94年の間に,オーストリア・ハンガリー,イタリア,セルビア,ロシア等との間で協定が結ばれた。

5. 保護主義,ブロック化の進行

この期間には,世界貿易数量の伸びは年率1%からゼロ成長まで低迷した。

世界輸出に占めるシェアは,第1次大戦後アメリカが15%近くに上昇し,ドイツが10%以下に低下し,イギリスは12%近くで緩やかに低下を続けた。世界輸入に占めるシェアでは,アメリカ,ドイツが輸出シェアに応じた動きをみせたのに対し,イギリスでは逆に輸入シェアを高める動きを示した。

各国とも国内的には産業の集中化が進んだ。アメリカでは独占が進行し,巨大企業とされるUSスチール(現USX),スタンダード・オイル,GE,ウエスチングハウス,イーストマン・コダック,デュポン等が1895-1905年のM&Aブーム時に成立した。一層の独占化はシャーマン反トラスト法,クレイトン反トラスト法,連邦取引委員会(FTC)の成立によって制限された。イギリスでは1935年までに,170品目が1-3社のみによって生産されるようになった。

国際カルテルの板ガラス,化学4社が水平統合したICI,武器および機械メーカーが垂直統合したアームストロング・ホイットワース等がその例である。ドイツでは,カルテル化が産業の効率化になるとして合法化され,1900年に存在した275のカルテルのうち,約200は1879-90年の間に成立した。マーケット・シェア,価格,生産枠,利益配分の4種類の形態があり,1社に統合したコンツェルンもあった。大カルテルの例として,ライン・ウエストファリア石炭シンジケート,鉄鋼組合,ジーメンス・シュカート・グループ,AEG等がある。国際カルテルは国際レール・カルテル(1883)がドイツ,イギリス,アメリカ,フランス等により結成されたのをはじめ,製鉄,金属・採鉱,化学,ガラス,電灯,製紙等の広範な分野に広がった。ドイツは1910年までに,約100の国際力ルテルのメンバーとなっていた。

植民地拡大では,イギリスが1860年の250万平方マイルから,1899年には1,160万平方マイルまで植民地面積を拡大した。インド,スエズ,エジプト,東アフリカ,マライ,イラン,南アフリカ等がそれである。アメリカは1898年にフィリピン,プエルト・リコを獲得し,ハワイを併合した。ドイツの植民地は1914年で100万平方マイルとなった。

貿易政策においては,保護主義が極限に達した。アメリカでは,19-13年のアンダーウッド関税法は平均関税率24.5%にまで引下げ,1918年ウイルソン大統領は戦争終結14項目の中で,すべての経済障壁の除去と各国平等な貿易条件を唱えた。しかし,1922年関税法では平均関税率は38.2%に引上げられた。さらに,1929年の不況において国内産業の保護圧力が高まり,1930年には“最も危険な法律の1つ”と言われるスムート・ホーレイ関税法が成立した。平均関税率は1932年には最高の59%にまで上昇した。60カ国以上が2年以内に関税引き上げで対抗し,国際貿易はスパイラル的に縮小し,世界恐慌の要因となった。

1,028人の経済学者は,国内産業へのマイナスとともに,他国も障壁を築き,世界平和と成長にとってマイナスである,と主張していた。イギリスは1932年,輸入税法により,保護関税に転換した。関税率は10%であるが33%まで引き上げ可能とされた。

イギリスは1932年に自治領,植民地等との間で,帝国特恵関税を設定した。

これによりイギリスは他地域の食料品,原料品に特恵を与え,他地域は外国品への関税を高めてイギリスに特恵を与えることとなった。こうしてスターリング・ブロックが形成された。アメリカは1934年,通商協定法を定め,関税の相互引き下げの2国間交渉を始め,通商協定国間の貿易の拡大を図った。イギリスの輸出入に占める帝国圏のシェアは,1929年から1937年の間に,輸出で44%から50%へ,輸入で30%かち42%へと高まった。また,アメリカの輸出入に占める通商協定国のシェアは,1934-5年から1939年の間に,輸出で34.4%から59.9%へ,輸入で42.9%から59.9%へ拡大した。このようにして,世界は高関税の設定,次いでその引き下げに合意した国の間だけの貿易拡大,という形で,保護主義とブロック化の道を歩んでいった。

6. GATT自由貿易体制

戦後の世界貿易数量の伸びは,1960年代には年率8%を超えるなど,常に年率5%を上回る高いものとなった。1980年代においては1980-82年の不況期を含めると年率4%の伸びに低下したことになるが,その後の長期拡大局面においては年率5%以上の伸びを続けている。アメリカは世界輸出において,当初20%以上のシェアを占めたが,その後低下を続け1980年代には12%弱となっている。イギリスのシェアも5%まで低下した。これに対し,ドイツ,日本は急速にシェアを拡大し,1980年代にはそれぞれ12%弱,9%強となった。世界輸入に占めるシェアは,イギリスが輸出シェアの低下に応じた低下を示したのに対し,アメリカの輸入シェアは低下せず,1970年代まで12%前後を続けた後,1980年代には15%を超えるまでに高まっている。逆に,ドイツ,日本の輸入シェアは輸出シェア程は高まっていない。このように,世界貿易は,一国の需要拡大を他国に伝播して,長期の景気拡大を維持する,という自由貿易のメリットを発揮する一方,アメリカの輸出シェアの低下と輸入超過を主因とする保護主義圧力にさらされている段階となっている。

1945年のブレトン・ウッズ会議の提案では国際貿易機構を設けることとされ,そのためのITO憲章と,関税と貿易に関する部分の抜粋と各国の関税譲許表を併せたGATTが策定された。このうちGATTは1947年採択,翌年1月に発効したが,ITO憲章は発効に到らなかった。GATTは輸出入制限の廃止,関税の軽減,無差別待遇の確保を基本原則として,自由貿易の維持強化を図ろうとするものである。戦前の2国間相互関税引き下げと異なり,GATT関税引き下げ交渉においては,2国間の引き下げの結果を無差別に他の加盟国に及ぼすことが特徴であり,7次にわたるラウンドの結果,工業品の平均関税率は日本の2.8%をはじめとして,アメリカ4.4%,EC4.7%等に低下した。また,東京ラウンドにおいては,関税の引き下げのみならず,補助金,スタンダード(基準・認証),政府調達等の非関税措置の分野においても,新たな協定の合意が得られた。しかしながら,GATTは設立当初からの限界として,アメリカが現在に到るまで批准せず行政協定として扱っていること,小規模なものを前提として関税同盟の域内自由化,域外関税という差別待遇を認めたシのの,ECのような巨大な関税同盟がその適用を受けていること等がある。また近年,自国産業保護の観点からGATT枠外の貿易措置が種々とられるようになってきている。

第1は数量制限であり,繊維,鉄鋼,自動車,工作機械等の業種にわたっている。第2は一方的な報復,制裁ないしその脅しであり,アンチ・ダンピング認定の多発やアメリカの包括貿易法がその典型である。第3は地域主義の動きであり,EC市場統合,アメリカ・カナダ自由貿易協定等は,GATT体制との整合的な運用が求められている。

86年に開始されたウルグアイ・ラウンドではサービス貿易,貿易関連投資措置,知的所有権,農業等の分野や,紛争処理,GATT機能の強化,セーフガード等の機能面について90年終結を目指し交渉が行われている。上記東京ラウンドからウルグアイ・ラウンドに到る流れは,主要国の関税障壁がら次第に非関税分野に広がってきている。GATTの限界を強調し,GATT枠外の措置をとるという行動がみられるが,自由貿易体制を維持・強化していくためには,ウルグアイ・ラウンドを通じてGATT体制の強化を図ることが重要である。

上に見てきたような世界貿易の歴史を踏まえることにより,GATTを通じた自由貿易の維持・強化の必要性や,GATT枠外の行動をどう考えるかが一層明らかになる。第1に,世界貿易は自由貿易のもとでは順調に拡大し,各国の経済発展を支えてきたことである。戦後40年にわたるGATT体制のもとでその事実は明らかであるが,1840年代から1870年代の自由貿易のもとでもそうであったのである。第2に,GATTは世界貿易の歴史上設けられた唯一の国際機関であり,その維持強化には各国の意識的な努力が必要なことである。貿易問題にかんする国際フォーラムのなかった19世紀末から戦前までの保護主義の台頭期には,一方的な貿易措置が連鎖反応的にとられることとなり,世界貿易はゼロ成長となるまで落ち込んだのである。第3に,近年のGATT枠外の措置や保護主義の行動は,世界貿易上多くの先例があり,当時の情勢と比較することにより,現在における対応を考えるうえで参者とし得ることである。包括貿易法の議論では常にスムート・ホーレイ法が想起され,1930年代にはこのような一方的措置が報復合戦・ブロック化・世界不況を招く結果となったことが,包括貿易法の運用に慎重さを求める根拠となっている。地域主義や2国間協定にGATTとの整合性"が求められるのも,かつてのイギリスの帝国特恵がブロック化を意味したことや,アメリ力の2国間協定が協定国以外への差別となり,通商協定国がブロック化したことを想起させるからである。さらに,数量制限から管理貿易に至る議論は,20世紀初の国際カルテルの群生を想起させるものがある。これらの過去の保護主義の行動について共通していえることは,それが世界貿易を縮小させる要因ではあっても,拡大の要因ではなかったということである。第4に,19世紀の自由貿易を支えた当時の覇権国イギリスが,保護主義に転じた後に産業の国際競争力が再強化される,ということはなかったという事実である。戦後の覇権国として自由貿易を支えてきたアメリカも,保護主義によっては産業の国際競争力の再強化にはならないと考えられる。イギリス,アメリカとも,世界輸出にしめるシェアが低下したときに輸入シェアを逆に高めるという動きを示し,他方,イギリスを追い上げていたアメリカ,ドイツ,現在アメリカを追い上げている日本,ドイツの輸入シェアが輸出シェア程は高まらないという共通の傾向があり,保護主義圧力の要因となっている。世界貿易が今後かつてと異なる歴史的展開を示すためには,日本,ドイツが輸入を拡大することと併せて,第3節で見るように,アメリカ企業自身の生産力強化が必要である。


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