昭和56年

年次世界経済報告

世界経済の再活性化と拡大均衡を求めて

昭和56年12月15日

経済企画庁


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第5章 困難深まる共産圏経済と東西経済関係の諸問題

第2節 政治経済危機下のポーランド経済

東側経済の問題点を最も集約的に表わすのがポーランドである。ポーランド経済は長年にわたる経済政策の失敗に天候不順による農業不振等が加わり,79年以降マイナス成長に陥るなど経済的混乱が続いていたが,80年夏食肉値上げとそれに反対するストを契機に自主管理労働組合「連帯」が結成された。その後,1年以上にわたり政府と自主労組の間でその経済的,政治的要求をめぐり対立が続いており,その中で経済的混乱が一層深刻化している。

本節ではこうした危機を招いた原因等について経済面を中心にやや長期的観点からみることとする。

1. 危機の背景―改革に失敗した政策転換

現在のポーランド経済の困難の原因をみるためには,少くとも70年代におけるポーランドの経済開発戦略まで遡らなければならない。

(ギエレク政権の新経済開発戦略)

戦後のポーランドの経済体制はソ連をモデルとしたもので,その開発戦略は粗放的かつアウタルキー的であった。こうした戦略は,経済の発展段階が低く,経済の量的拡大が至上課題であった時代にはそれなりの役割を果したが,所得の向上に伴い国民のニーズが多様化してきた60年代後半には,産業構造が資本集約的かつ原材料多消費的になりすぎ,西側との貿易で輸出競争力を失ってきた上,経済体質の同質化している東側内部の貿易も伸び悩むなど,各面で行き詰りが明らかとなってきた。

こうした中で,70年の食肉値上げに反対する労働ストを契機に登場したギエレク政権は,第4次5か年計画(1971~75年)において集約的で対外依存を高める新開発戦略への転換を打ち出した。

それは,生産の増大をより分権化した形で,生産性を向上することにより達成することをねらいとし,生産性向上のためのインセンティブとして,消費財生産,住宅建設の増大と実質賃金の大幅引上げを行い,同時に産業構造の近代化,生産性向上のため西側から大量の融資を受け入れて,西側の新鋭設備・技術を導入するというものであった。これにより生産性の向上が達成されれば,輸出を増大させることにより開発段階で借入れた債務も容易に返済できるものと考えられていた。

新開発戦略は70年代前半成功を収めたかにみえた。西側資本・技術の導入は飛躍的に増大し,農地私有の農民に対するインセンティブ効果もあって農業生産も増大した。また計画を上回る報奨金の支給等により計画を上回って生産が増大した外,消費,投資,貿易等もそろって増大した(第5-2-1表)。その結果70年代前半の国民所得の成長率は年率9.8%に上った(60年代は同6%強)。

(新経済開発戦略の挫折)

しかし余りにも急激な方向転換は,その後の政策運営の失敗や環境条件の悪化も加わって,間もなく至るところで経済の不均衡を発生させた。

まず第1に,それまで抑制されていたことへの反動も加わって賃金が計画を大幅に上回って増大したのに対して,食肉等生活基礎物資の価格は抑制しつづけたため,消費が増大して西側への輸出の削減を余儀なくされた。一方,東欧諸国内でも普及率の低かった耐久消費財への需要が賃金の大幅増加に伴い急増し,それが食料品等とともに消費財輸入の増大をもたらした。こうしたことから国際収支の悪化が進んだ(第5-2-1図)。さらに,食料品に対する価格差補助金の増大から財政負担も急拡大した。ギエレク政権は76年にこうした事態を是正するため基礎食料品の値上げを発表したが,値上げ抗議ストが発生し直ちに値上げ案を撤回した。これがその後に大きな問題を残すこととなった。食料品の価格差補助金は70年には財政支出の5.8%にすぎなかったが,75年には14%に上昇し,80年には40~50%に急増した。

第2は,工業部門の投資計画が余りにも野心的であった上,それをも大幅に上回る投資が実施されたため,消化能力不足,原材料不足,輸送,電力等インフラ面でのボトルネック等から貴重な外貨を使用した投資増大が,工事の完成や稼動の遅れとなって生産増大に結びつかなかった。また,西側から導入した生産設備や先進技術が完成財生産を優先したため,その生産に必要な西側の原材料,部品を不可欠とし,それらの輸入も急増することとなった。

第3は,農業部門への投資が過大な工業部門への投資と食料品の価格差補助金の急増から抑えられ,さらに,農業集団化をめぐる農業政策の混乱もあって,74年以後の農業不振を引き起したといわれている。

こうした政策面での誤算に加えて,外的条件の変化も災いした。

第1に,石油危機による西側経済の長期不況で主力輸出商品の石炭,銅相場が低迷し,数量減も加わって輸出が伸び悩んだ。また,化学製品等新興輸出商品も西側先進国自体の生産過剰や貿易障壁に加え,他の東欧諸国やOP EC諸国との競争に品質や納期面で遅れを取り,計画通りに進まなかった。

その他ECの牛肉輸入禁止措置やイギリスのEC加盟等もポーランドの対E C農産物輸出を抑制する要因となった。一方,輸入面では,機械,部品,原材料などの輸入品が,西側のインフレによって値上がりしつづけた。

その第2は,74年以来天候不順がつづき,先に見た政策面での失敗と合まって農業に打撃を与えたことである。この農業不振は食肉の輸出を減少させる一方,内需の拡大も加わって穀物・食肉輸入を増大させ,貿易赤字を拡大させた。農産物輸入の増大には数量増と合わせ,この時期の世界市場での食糧価格高騰も影響した(第5-2-2図)。農産物貿易の赤字は,78年には全体の貿易赤字の約2分の1,80年には約7割を占めるに至っている。

以上のような政策面での失敗や経済的困難の深刻化に対して,中央からの計画・指令に対する経済の反応は遅れ勝ちであった。とくに,西側への輸出増大のためには需要の変化に対応して,きめ細く機動的弾力的に対応することが必要であるが,意思決定の分権化が欠除した体制ではそれは困難であった。こうした面に対処するため,77年には生産性向上等を図るため報奨制度の導入や企業のパフオーマンス判定に付加価値を用いることなどの経済・金融制度の修正が決定されたが,その後の実態は,各種の直接的な行政措置が実施されるなど,逆に従来からの中央の直接統制が強化された。こうして輸出がふやせず,輸入が増大して貿易赤字と累積債務が急増するのに対しては,輸入を大幅に削減するより方策がなくなり,それが生産面でのボトルネックを拡大して,経済は縮小への道をたどることになったのである。

2. 危機の現況

(79年,80年のポーランド経済)

第5次5か年計画の4年目に当たる79年の年次計画は,輸出及び消費財増産のために必要な原材料・中間財を除き,国民所得の目標成長率が2.8%などと極めて控え目に抑えられた。しかし,農業生産が年初来の悪天候による穀物不作などから前年実績を大幅に下回った(計画5.3%に対し1.4%減)ため,農産物輸入がさらに増加し国際収支が一層悪化した。そのため,その他の商品輸入を削減せざるを得ず,生産に必要な西側からの投資財や原材料等の輸入が削減された。そのうえ,悪天候による輸送困難等も加わって工業生産の伸びは大幅に鈍化した(計画4.9%に対し2.8%)。その結果,国民所得は前年比2%減と戦後はじめて前年を下回るに至った。

こうした79年経済の予想以上の不振は政府にショックを与えた。80年2月の第8回党大会では経済不振の責任をとらされて,ヤロシェビッチ首相が更迭された。

しかしながら,80年年次計画でも計画値を低目に設定し,対西側貿易収支の均衡回復,賃上げ,社会福祉の向上や経済発展の実現等,従来からの目標が強調されたにとどまった。一方,石炭輸出の減少,農業のひきつづく不振と世界の農産物価格高騰による穀物輸入(金額)の増大等により貿易収支赤字が拡大し,西側に対する債務を一層増大させた(第5-2-2表)。

こうした中で,国庫負担の軽減を図るとともに超過需要を抑制するため,80年7月食肉価格の大幅引上げ(30~60%)が発表された。

(危機の発生とその後の経緯)

しかし,80年7月の食肉価格の大幅引上げは,70年,76年と同様労働者を中心とする国民の全国ストの引金を引く結果となった。ストは8月にはダダニスク造船所の自主管理労組「連帯」の設立等を求める政治ストヘ発展した(第5-2-3表)。「連帯」はスト権の保障,企業に対する自主管理権の付与などからなる21項目の要求を揚げた。

政府はこうしたストの激化に対して,21項目の要求を受入れ,とりあえずストを収拾したが,9月には食肉値上げの延期と最低賃金の引上げに踏み切るとともにギエレク第一書記が辞任し,カニア後継第一書記に政権を譲ることとなった。

81年に入って新政権は次々に「連帯」要求の21項目を実行していったが,「連帯」は政治面での要求を次第に強め,81年9~10月の第一回全国大会では,企業の完全自主管理,国会,地方議会選挙の自由化,報道機関の国民管理等7項目の決議を行なった外,ソ連,東欧圏諸国へ自主管理労組の結成を訴える呼びかけを行なった。

こうした中で10月にはカニヤ第一書記が辞任し,ヤルゼルスキ首相がその後を継いだが,「連帯」と政府との対立,経済的困難等の問題は基本的にいぜん未解決のままとなっている。

3. 危機の影響

こうした危機の深刻化は,ポーランド自体にはもとよりポーランドの国境を越えて多大の影響を及ぼしている。

まず,ポーランド国内についてみると,危機の深刻化による混乱と農産物不作の影響は81年に入って一層深刻となった。社会的混乱,多発するスト,原材料不足等から81年1~8月の工業生産は前年同期比13.2%減となった。とくに石炭,セメント,非鉄金属等の生産は同20%以上の減少となっている(第5-2-4表)。また1~6月の食肉供給量は12.4%減,輸出も17%の大幅減となった。

こうした中で,国民生活面では先行き不安からパニック買いが発生,買物行列が延びるとともに物不足が食肉,洗剤等多くの生活必需物資に広がっていった。このため,政府はヤミ取引の取締りを強化する一方,次々に配給制の実施に踏み切った。また,西側諸国に食糧援助を要請するに至ったが,アメリカ,EC,日本等がそれに応え,すでに多額の食糧が輸出されている。

ポーランド経済の混乱は,対外的にはまず社会主義分業体制にあるコメコン諸国に大きな打撃を与えた。コメコン諸国は原材料・部品等の域内分業体制をとっているため,一国の担当する原材料・部品の供給が途絶すると,それを計画に組み込んでいるその他の国も次々に生産のボトルネックに見舞われ,生産の縮小を強いられることになる。また,コメコン諸国の域内取引は商品交換協定(バーター取引)に基づいているので,一国からの輸出の減少は,全体としての貿易の縮小をもたらすこととなる。

最も深刻なのはポーランドからの石炭供給の大幅減少(80年末以降80%減にも上るといわれる)である。そのため,東欧諸国の-エネルギー事情が悪化し,石炭化学工業部門も原料難に瀕している。その他硫黄,砂糖等の輸出減の影響も大きいといわれている。こうした中で,81年7月に開かれた第35回コメコン総会では81~85年の多角的統合推進措置が決定され大枠での調整がなされたと伝えられている。

西側経済もポーランド危機の影響を免れ得ない。ポーランドの石炭輸出の減少はその分だけ西側のエネルギー・バランスを悪化させた。また,西側からポーランドへの輸出はポーランド経済の混乱とともに減少した。

西側経済にとって,これら以上に重要なのはポーランドの巨額の累積債務が,西側金融市場に及ぼす影響である。ポーランドの西側に対する累積債務は国際決済銀行の調査によれば,80年末で267億ドルに上り,その内162億ドルが民間金融機関の債権と推定されている。81年1~7月の貿易赤字は170億ドルに達しており,債務残高はさらに増大していると見られる。ポーランド政府はこれを借款,信用供与,及び繰り延べで賄うべく西側諸国に要請している。

このうち,本年中に期限の来る元本返済分と利息に対しては政府分については4月の西側15か国債権国会議で,また,民間分についても最終合意に向けての話し合いが進んでいる。これは,ポーランドに債務不履行宣言をしても,債務を相殺できる現実的な資産がほとんどないという実情からくるものであった。

最後に,ポーランドの政労対立は,こうした経済面での影響だけでなく,政治面でも東西間の緊張を高める一因となっている。

4. 今後の課題

ポーランドが,現在の深刻な政治経済危機を克服し,中長期的に均衡ある経済社会の発展を図っていくためには,まず,緊急に現在の経済的諸困難に対処するための経済再建プログラムの確立とその実行が必要不可欠である。

この実行過程は,労働者や国民大衆の忍耐や協力を要する厳しいものとなる可能性が強いとみられる。その点からも早期に政治社会面の安定を図り,困難な時期を国民全体で耐えていくことの必要性についての国民レベルでの合意の成立が不可欠であるとみられている。

さらに,当面緊急に解決を要する,最大の問題である巨額な対西側債務累積問題については,引続き返済の努力を重ねるとともに,一方で工業品を中心とする対西側輸出を増大させていく以外の選択の道はないとみられている。

そのためには,国際競争力の強化を図ることが必要不可欠であるが,これは基本的に,中長期的な計画,管理面での制度改革の推進及び70年代の失敗を繰り返さないような整合的な経済政策立案とその実施にかかるといわれている。

以上のような課題を達成していくためには勿論のこと,ポーランド経済のゆくえは共産圏はもとより,世界の政治経済に及ぼす影響の大きさに鑑み,ポーランド自体を含めた東西両側からの冷静な対応が期待されている。