昭和55年

年次世界経済報告

石油危機への対応と1980年代の課題

昭和55年12月9日

経済企画庁


[前節] [目次] [年次リスト]

第4章 供給管理政策の登場とその課題

第4節 脱石油政策の推進

1. 石油多消費型の経済成長

(エネルギー消費の推移)

世界経済は,1970年代に入って二度にわたり石油危機にさらされたが,この背景には50年代,60年代を通じて世界経済が石油に傾斜したエネルギー多消費型の経済成長を追求して来たという事実がある。

第2次世界大戦後,1973年に至るまで,世界経済は大きな不況に陥いることもなく,高い経済成長を実現して来たが,これはエネルギー消費の急速な拡大に支えられたものであった。1950年に石炭換算で約25億トンであった世界の総エネルギー(総商業エネルギー)消費は1950年代に年平均5.5%,1960-73年の間に同4.7%の割合で拡大を続け,1973年には,同約77億トンと,1950年の3倍以上に拡大した。中でも,原油等の液体燃料の消費の増加は著しく,1950~73年の間に年平均7.5%で拡大し,1973年には,1950年の5倍強を消費している。このため,石油消費が総エネルギー消費に占める比率も,1950年の27%から1973年には46%まで拡大した。

この傾向を西側先進国についてみると,OECD諸国全体の一次エネルギー消費量及び石油消費量は,1960~73年の間に各々,年平均で5.1%及び7.6%の割合で拡大し,1973年には,石油消費が一次エネルギー消費に占める比率は52.9%に達している(第4-4-1表)。とりわけ,この間経済成長が著しかった日本,西ドイツ,イタリアでは,この傾向が,顕著であった。一次エネルギーでは,各々,年平均で10.2%,4.8%,7.8%,石油では同,17.9%,12.8%,12.7%の割合で消費が拡大しており,日本やイタリアでは,1973年には,一次エネルギーに占める石油消費の比率が70%を越えていた。

このように,西側先進国は急速に石油への依存を高めたが,それはまた,北海油田開発以前においては北米以外に有力な油田をもたなかったOECD諸国にとって,一次エネルギー消費の輸入石油への依存を高めることでもあった。1960年に19.1%だったOECD諸国全体の一次エネルギー消費に対する輸入石油の比率は,1973年には,2倍の38.4%に達した(第4-4-2表)。

エネルギー消費の増大は,世界経済の成長と軌をーにするものであるが,石油については,経済成長のテンポを上回るものであった。1960~73年の間,OECD諸国全体としてのエネルギー原単位(一次エネルギー消費量/実質GDP)には殆んど変化がなかったが,石油原油単位(石油消費量/実質GDP)は悪化し,GDPl単位の生産のために消費する石油の量は,同期間に38%も増加した(第4-4-3表)。70年代初頭の世界経済は,石油なしには機能しないようになっていたのである。

(石油多消費化の原因)

このように,石油多消費型へと世界経済全体が傾斜していった背景には,石油という流体で使い易いエネルギーが安価かつ豊富に,また安定的に供給されたということがある。

サウジアラビアのガワール油田等,現在生産において主力をなし,埋蔵量も多い油田の多くは,1940年代から1960年代前半にかけて発見され開発されてきたものである。埋蔵量も,70年代に入るまでは,拡大を続けてきた(第4-4-1図)。これらの油田の多くは極めて条件がよいためそのコストは安く,また,当時石油の生産,精製,流通,販売をメジャーズが掌握していたこともあって,その価格は安定的であり,代表的油種であるアラビアン・ライトの公示価格は1950年代,60年代を通じて1バーレル当り2ドル前後だった。原油価格は実質的には,その間のインフレ分だけ低落を続け,石油は,他の生産要素に比べて安いものとなっていた。(第4-4-2図)。

一方,石油と競合関係にあった石炭の価格についてみると,アメリカ産石炭の価格は,60年代後半に上昇しはじめるまでは,石油価格とほぼ並行して動いたが,西ドイツ産石炭の価格をドル換算してみると,1950~70年の間に年平均で約5%の割合で上昇しており(第4-4-3図),石油の流体としての利点とあいまって,石炭から石油への代替を広範にもたらす結果となった。

2. 第1次石油危機と石油消費節減の遅れ

(第1次石油危機の発生)

以上みてきたような,世界経済の石油依存の高まりを背景に産油国は,OPECというカルテルの下に次第にその発言力を増大させた。即ち,産油国側は,石油消費国が,既に石油なしには,経済運営に支障をきたすという状況にあることをふまえ,自国の資源に対する権限を主張しはじめ,テヘラン価格協定(1971年2月)や,リヤド事業参加協定(1972年12月)等を通じ,価格や生産におけるメジャーズの支配を揺がしはじめた。

こうした産油国の資源ナショナリズム昂揚の中で,1973年に中東戦争が勃発し,OAPECによる石油輸出削減等を背景に,石油価格は大幅に引上げられた。これがいわゆる第1次石油危機である。

(石油消費節減のおくれ)

第1次石油危機以降の石油消費の動向を見ると,OECD全体の石油消費は,74,75年と年平均3.4%で減少したあと78年まで年平均3.7%で増大した。76年以降の石油消費の伸びは第1次石油危機以前(60~73年)の伸び(7.6%)の半分以下となっているが,これは,この間の経済成長が,年平均3.8%と60~73年の同5.0%から低下したのが主因で,石油節約のメドを表わす石油原単位は,OECD平均で73年から78年の間8.3%の低下にとどまり,とくに76年以降は,ほぼ横ばいとなっており,その改善は必ずしも十分なものではなかった(第4-4-4図)。とくに石油の最大消費国であるアメリカでは77年の石油原単位は,むしろ73年水準を2.1%上回るなど,逆に石油多消費の方向に向った。この間国内の原油生産が漸減したこともあってアメリカの石油純輸入は原油換算で73年の29,800トン(日量約600万バーレル)から78年には41,500トン(同800万バーレル)へと高まり(68年には13,100トン,同250万バーレル)石油消費に占める純輸入量の比率は73年の37.6%から77年には50.8%へと大幅に高まった。もっとも78年以降はアラスカ原油の生産や節減効果が加わって輸入依存度も低下に向った。

1978年末以降,世界経済は再び石油危機に見舞われた。第2次石油危機の直接の原因は,第1章にみた如く,イランの政変による一時的な供給量の低減に端を発する石油先高不安による在庫積増し行動や石油市場における供給構造の変化等に求められるが,その根底には第1次石油危機以降の石油の消費国の消費節約,輸入石油依存度の削減が十分でなかったこともあると思われる。

(石油消費削減のおくれの原因)

第1次石油危機以降,主要国で石油消費節減が進みはしたものの,それが不十分なものにとどまったのには,その後,石油の実質価格が低下したことなどから,石油価格の高騰が一過性のものとして捉えられ,石油から,代替エネルギーへの転換が進まなかったことが主因である。それと同時に原油価格引上げが末端価格を急激に引き上げることのないような措置がとられたことも省石油のインセンティブを弱めることとなったと考えられる。以下では価格の動向に着目して原油から石油製品の流れに沿ってみていくこととする。

まず第1に石油の実質価格(1960=100,OECD諸国のGDPデフレータレでデフレート)をアラビアン・ライトについて見ると73年に24.8%,74年に227.6%と急上昇した後,78年には74年対比10.5%の低下となっている。

これは,景気後退等により主要国を中心に石油需要が減退する反面,非OPEC地域での原油生産の増大等から需給が緩和したのが主因といえよう。またOPECの中でも金融資産を多く持つサウジアラビア等が,世界的なインフレや経済混乱の再現を避けるため原油価格引上げ抑制の立場をとった。そのためもあって74年から78年末に至るまでの間,原油の名目価格は1バーレル,9.76ドルから,12.70ドルへのわずかな上昇にとどまった。これに対してOECDのGDPデフレーターは,これら諸国の根強いインフレから同期間で45.5%の上昇となっている。

第2に,西ドイツ等為替レートが上昇した国ではドル建ての原油価格の上昇が為替レートの上昇で相殺され,自国通貨建ての価格は余り上昇しなかった(第4-4-5図)。これは,インフレに及ぼす効果を少くするという意味で全体的には歓迎すべきことであったが,反面,石油の国内における相対価格を余り上げないこととなり,石油節約のインセンティブを弱めた。事実,73~78年の間,西ドイツの石油原単位の向上は主要国の中でアメリカについで遅れた(第4-4-4図)。

第3に,アメリカ,カナダ等国産原油を持つ石油消費国では,国内政治経済的理由等から国産原油の価格が国際価格に比べかなり低位に抑えられ,そのため平均原油コストも他の国と比べ低位に抑えられた。たとえば,アメリカの国産原油の価格はその統制の段階的撤廃の始まる直前の79年5月時点でバーレル当り12.41ドルと輸入価格19.00ドルの65.3%にすぎず,総平均価格は15.40ドル,同81.1%となっている。国産原油価格,総平均価格の輸入原油価格比は統制撤廃がかなり進捗した80年第2四半期でも,いぜんとしてそれぞれ67.4%,及び84.8%となっている。

第4に,多くの主要国において最終需要者が購入する石油製品価格の上昇率は原油価格の上昇率を大きく下回った。

日本,西ドイツ,イタリアについてこの関係を見ると,1979年の石油製品の原油に対する相対価格は,1970年の半分以下となっている(第4-4-6図)。これは原油から石油製品を生産する際の他の投入のコストや付加価値が原油価格程に上昇していないためであるが,石油製品の小売価格について言えば,さらに,税金という要因を挙げることができよう。石油製品にかけられている税金は多くの場合,従価税ではなく,従量税となっており原油価格の上昇を小売価格に反映させる仕組みにはなっていない。例えばガソリンを例にとってみると,各国で税率が引上げられたにもかかわらず,小売価格に占める税金の比率は,1973年10月に比し1980年1月時点で,いずれの国でもかなり小さくなっている(第4-4-7図)。

以上のような要因が絡まり合って,石油,石油製品の卸売物価全体に対する相対価格は74年に急上昇した後,あまり上昇せず76~78年の間には国によっては下落を示したところさえあった(第4-4-8図)。また小売価格でみてもガソリンの実質価格(ガソリン小売価格/消費者物価)は同期間に低下傾向を示した(第4-4-9図)。

次に,石油製品の,石炭,石炭製品等の代替エネルギーに対する相対価格の動向についてみても,それは石油消費節減を促進するものとは必ずしもなっていなかった。

石油製品と石炭・石炭製品の相対価格を,卸売物価でみると,アメリカでは,72年以降おおむね上昇を続けたが,日本,西ドイツでは,74年にピークを打った後,石炭,石炭製品価格が大幅に上昇したことから75年には大きく低下し,その後も,79年に再び大幅に上昇するまで,低下ないし横ばいを示した。

この相対価格の動向は,石油依存低減の要請がありながら,石炭の石油に対する相対消費量の低下傾向を招いたことの一因をなしていたものと思われる。第4-4-10図に示されるように,石油製品の石炭・石炭製品に対する相対価格が上昇傾向を示したアメリカにおいては,石炭の石油に対する相対消費量が横ばいないし上昇傾向を示している。また各国で,特に73年以降では,石油の相対価格が上昇(下落)した年に石炭の相対消費量も上昇(下落)する関係からみられる。両者の間には石油の量的入手可能性,将来の相対価格に対する予想等様々な要因があるが,74年から78年の間において,石油の消費節減という観点から言えば,この相対価格の下落はマイナスに作用していた可能性が高いと思われる。

以上のように,エネルギー全体としてみても,石油だけを゛とりだしてみてもおしなべて第2次石油危機以前には,主要消費国での石油消費節減ないし省エネルギーに対する価格メカニズムの働き方は必ずしも十分でなかったとみられる。

3. エネルギー政策の推進

第一次石油危機後,各国は,競って省エネルギーの推進や代替エネルギーの開発を進めた。しかし,その後の石油過剰傾向や,,石油の実買価格の低下,景気回復の中で,78年頃には,エネルギー問題や経済運営に対しやや楽観的な見方も出ていた。いずれエネルギー問題,特に石油の量的入手可能性が経済活動の制約条件となり得るという認識はあったものの,それは1980年代後半以降とみられていたため,緊急課題としての認識はやや稀薄化する傾向があった。

しかし現実には,イランの政変を契機とする僅かな需給バランスの崩れに端を発して,石油価格は再び大幅に上昇した。また石油資源自体にしても,かつては,生産量とともに増加していた埋蔵量はこのところ減少傾向にある。また今回の第二次石油危機にあっては,産油国による資源保存政策,実質価格支持政策がより明確に打ち出された。一方,国際石油市場では,産油国の取扱量が拡大するのと裏腹にメジャーズの比率が大きく減少し,その市場構造は大きく変化してきている。また,中東地域の政治不安は依然大きく,さらに一部では,今後社会主義国において,需給がひっ迫する可能性も予測されている。

以上エネルギー,特に石油の供給には不安定かつ不確実な点が多く,今後一時的な需給緩和はあり得ても,中長期的にはひっ迫あるいは不安定化する可能性が大きいとみられている。IEA事務局の85年,90年の見通しもそうした見方を示している(第4-4-4表)。

こうした中で,脱石油が世界経済の最大かつ焦眉の課題となっている。80年6月のベニス・サミットでも「経済成長と石油消費の結びつきを断ち切る」ことが合意された。このため当面,危機回避システムとしてIEA等の場を通ずる石油融通制度や備蓄の強化を行う一方,相対価格の伸縮性の保持,政府による規制等の手段により石油消費の節減を図る必要がある。中期的には省エネルギー投資等を通じ,経済全体としてのエネルギー原単位や石油原単位の低下をはかり,また最終的には石油代替エネルギーの供給・需要システムの開発を実現しなければならない。

ここで危機回避システムの確立や,民間企業が個別に開発を進めるには完成までの期間が長いため採算の評価が難しく,またそのリスクも大きいと思われる石油代替エネルギーの供給・需要システムの開発に関しては,政府等公的機関によるイニシアチブの確立が望まれる。しかし石油消費節減等は,それを行ったものが自らコストの削減等を通じて経済的利益を得るものであり,それに対する対応としては充分かつ正確な情報が保証される限り,市場における経済主体の主体的行動を重視し,政府による規制,援助等はその補助,補正手段として位置づけられる。

(主要国のエネルギー対策)

石油消費国は,第一次石油危機以来,エネルギーの海外依存を減少させるべく省エネルギーの促進や代替エネルギーの開発を急いだ。建築物の断熱基準の確立,暖房温度の制限,省エネルギー投資への援助,自動車の燃費改善等の省エネルギー対策や石炭・原子力の利用拡大,再生可能エネルギーの開発といった石油代替エネルギー開発を今ではどこの国でも行っている。

しかし,その内容や重点の置き方は,各国の資源状況,気候,社会的条件によりかなり異なる。国内に石油資源の豊かなイギリスは国内資源の温存,有効利用を目ざし北海油田の開発テンポを遅らせる傾向にある。また,国内に石炭資源の多い西ドイツでは石炭の利用促進及び液化・ガス化に熱心であり,石油火力発電所の新設を禁止しているほか,80年代中に発電所における石油使用を皆無とする方針である。フランスでは原子力に重点を置いており高速増殖炉の研究・開発を推進している。

またエネルギー政策の方法の面でも,西ドイツでは,市場機能を重視しているが,アメリカでは最近に至ってようやくその方向に動き出したばかりである(第4-4-5表)。またカナダでは,西部(エネルギー生産州)と東部(同消費州)との政治的対立から依然国産原油価格の統制撤廃に踏み切れないでいる。

以下では世界最大のエネルギー消費国であり,その政策の帰すうが世界のエネルギー情勢に大きな影響を及ぼすアメリカのエネルギー政策を見ることにする。

(アメリカのエネルギー政策)

アメリカのエネルギー政策は2つの目的をもっているとされている。その第一は中長期的にアメリカ経済をエネルギー稀少化,高価格化に適応させていくことであり,その第二はそれが達成されるまでの間アメリカ経済を突発的な石油危機の影響からまもることである。

77年に登場したカーター政権は,こうした基本目標に則りつつ,77年4月に「国家エネルギー計画」を発表し,さらに79年4月には「新エネルギー政策」を打ち出して,エネルギー政策を推進して来た。カーター政権の構想は議会審議の過程で複雑な利害の対立から多くの修正を余儀なくされたが,78年11月に天然ガス政策法,省エネルギー政策法等5法よりなる国家エネルギー法が成立したのを始め,80年に入って石油超過利潤税法とエネルギー安全確保法が成立した。

中長期目標に対応するカーター政権のエネルギー政策の第1の柱は天然ガス及び原油の価格統制の段階的撤廃である。天然ガスについては,すでに78年天然ガス政策法により78年から段階的に価格が引上げられ,ニューガスについては85年に価格統制が撤廃されることとなっている。国産原油についても,価格続制を規定した75年エネルギー政策・節約法が,それを79年5月末までとし,その後は81年9月末まで国産原油価格のとり扱いを大統領に委任したのを利用して,79年6月から段階的な統制撤廃に踏み切った(第4-4-11図)。

原油価格の段階的統制撤廃に伴い,国内生産者の手に入る超過利潤については,石油超過利潤税法により半分強を超過利澗税及び法人税として連邦政府に吸い上げることとした。超過利潤税区よる税収は政府案ではその大宗を代替エネルギー開発に用いることとされていたが,議会修正により過半が所得税減税に回さ庇ることとなった。

第2の柱は,自動車燃費の改善,住宅断熱の推進等による省エネルギーである。前者についてはすでに75年エネルギー政策・節約法により自動車製造企業はその生産する乗用車の平均燃費を85年までに,ガロン当り27.5マイル(リットル当り11.7キロ)に向上することを義務づけられていたが,さらに78年省エネルギ-政策法,エネルギー税法により,燃費改善未達部分への罰金,ガソリン消費車への課税等が決定された。

住宅断熱等については78年国家エネルギ-法により断熱投資,太陽熱利用投資への税額控除,低所得者層への断熱補助金等が与えられることになっている。

第3の柱は代替エネルギ-の開発である。80年6月に成立した1980年エネルギー安全確保法では,合成燃料公社,太陽エネルギー銀行を創設してそれぞれ合成燃料,太陽エネルギーの開発に当らせることとしている。

さて,当面の緊急事態対策としては戦略備蓄と緊急ガソリン割当計画が当てられる。まず戦略備蓄は75年エネルギー政策・節約法により導入された。

カーター大統領は77年の「国家エネルギー計画」において78年末2.5億バーレル,80年5億バーレル,85年までに10億バーレルの備蓄を目標に掲げたが,その後技術的困難等もあって9,000万バーレルで中断していた。しかし前記80年エネルギー安全確保法により80年10月より日量10万バーレルの積み増しが大統領に命じられた。

また,緊急ガソリン割当計画については75年エネルギー政策・節約法及び79年緊急時エネルギー節約法で大統領には緊急時のガソリン割当権限が付与されており,それに基づいて政府が作成した緊急ガソリン割当計画が80年7月議会に承認されている。

アメリカの石油輸入は77年に日量880万バーレルに達した後,78年820万バーレル,79年830万バーレル,80年1~6月710万バーレルと急速に減少している。これはアラスカ原油の増産,景気後退による需要減が主因であるが,そのほか高価格による節約等の効果もあったものと見られる。

これに対し共和党政策綱領等によると,レーガン共和党次期大統領のエネルギー政策に対する考え方は大きく異っている。それはエネルギーについても政府の介入をできるだけ少くして民間の自由市場に委ねるのが最適という基本的哲学があるからである。

そのため,まず第1に原油,天然ガス,及び石油製品価格の価格統制を完全撤廃するとともに,財政的に可能な範囲で現行石油超過利潤税法を縮小ないし手直しする.(適用除外の拡大,税収の一部を代替エネルギー開発資金として石油企業に返すこと等)としている。

第2に大気汚染防止法に基づく公害防止規制を緩和すること等により石炭の生産と利用を拡大することを挙げている。

第3は,原子力開発の推進である。

またオイルシェール,オイルサンド,ガソホール,太陽エネルギー等新エネルギー技術の開発を支持するとしている。

第4は,ガソリンその他のエネルギー税やエネルギー価格の統制またはそれに対する補助等の廃止である。その他エネルギーに関する政府規制を縮小するとともにそれを司るエネルギー省の廃止ないし権限縮小をも主張している。

また戦略備蓄については,当面5億バーレル,究極的には10億バーレルという当初目標の達成を図るべしとしている。

以上のようにレーガン次期大統領のエネルギー政策はカーター大統領のそれと比較すると,①省エネルギーよりも原子力等代替エネルギーを含めて供給増大に重点がある,②それを価格インセンティブを働かせて民間主導で行うという二点に特徴がある。

しかしこれら提案を実現に結びつけるには,まずエネルギー政策内や他諸政策目的との整合性を図らなければならず,また既存法律の改正をふくめて法制上の整備も必要であり,アメリカのエネルギー政策の変化が現実化するまでにはかなりの時間がかかるものと思われる。

(エネルギー政策における国際協調)

エネルギー問題は,一国でその消費を減らしても他国が消費を増加させればその効果は減殺され,また節約により国際市場の需給が緩和すればその効果は,すべての消費国が享受するという性格をもつ。

こうした認識のもとに,先進国では,従来からIEA等の場を通じ各国の政策を調整してきたが,79年の東京サミットでは,はじめて参加国に対し石油の輸入量に制限を課すという具体的行動をとった。

また79年12月に開催されたIEAの閣僚理事会では,IEA各国について輸入石油量の目標の設定を行いIEA全体で1980年に日量で2,450万バーレル,1985年に同2,620万バーレルを越えないこととした(第4-4-6表)。80年5月の同閣僚理事会ではさらに,①1985年の輸入石油量は日量2,620万バーレルを相当程度(同約400万バーレル)下回るべきであること,②エネルギー経済の構造改革に要する投資奨励の必要性の確認,③90年までにエネルギー弾力性を0.6とし,総エネルギー需要に対する石油の割合を現在の52%から約40%に減少させること等を決定した。

また6月のベニス・サミットにおいても,IEA閣僚理事会の決定を支持するとともに,代替エネルギー開発の促進や産消対話の歓迎,途上国におけるエネルギー開発の援助等を決定した。

世銀では,これをうけ,途上国のエネルギー開発について新機関の設立による融資の拡大を検討している。

4. 脱石油社会へ向けて

80年末の段階で世界の石油情勢を展望すると,イラン,イラク紛争で日量約400万バーレルによる両国の石油輸出が停止したが,石油消費国は多量の備蓄を保持しており平静に対処している。しかし今後について長い目でみると石油の埋蔵量は有限であり,産油国側には,生産を制限しながら原油の実質価格の上昇を求めていこうとする動きもみられる。一方,石油消費国側をみると,省エネルギーはしだいに浸透してきているもののなお十分ではなく,また代替エネルギーも未だ不十分な段階にとどまっている。今後,主要国経済に本格的景気回復がみられた場合,また中東等主要産油地域で政治的紛争などが激化した場合には再び石油需給のひっ迫・価格の大幅上昇を招来する恐れも否定はできない。そうした事態を未然に防ぐためには,石油消費国が,一層効率的なエネルギーの利用に向けて努力し,石油依存を脱却していかなければならないのは言うまでもない。それと同時に,世界経済全体の安定的発展のため石油消費国,産油国の協力が求められる。