昭和54年

年次世界経済報告

エネルギー制約とスタグフレーションに挑む世界経済

経済企画庁


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第2章 第二次石油危機と世界経済

第1節 第二次石油危機と先進国経済

1. 石油危機の規模と性格

3)次に各国の貿易収支に及ばす影響を(1973年の石油純輸入量)×(価格上昇分)/(1973年の輸入総額)と(1978年の石油純輸入量)×(価格上昇分)/(1978年の輸入総額)とで見ると,OECD諸国全体で前回の15.4%に対し今回は5.8%と約4割になっている。国別に見ると前回は日本の33.6%を筆頭に,米25.4%,伊19.0%,仏15.1%,英14.7%,独13.3%と軒並み10%を大幅に上回っていたが,今回は10%を上回るのは日・米のみとなっている。これは日本は国内にエネルギー資源が乏しいため,石油輸入額の輸入総額に占める比率が本来的に高いためであり,また米は石油輸入の増大から平均以上に石油輸入額の輸入総額に占める比率が急増したためである。

以上要するに,79年7月時点での価格引上げが各国経済に及ぼす影響については,総じて前回の1/3~1/2と軽度であるが,アメリカに対する影響は今回は他国との比較で言えば相対的に深刻になっているといえよう。

(4)しかし,以上の事実だけをもって今回の石油危機を軽視するのは,言うまでもなく早計である。それは,前回が,第4次中東戦争に際しての石油戦略の発動という政治的要因で起った一過性のものと見られていたのに対して,今回はOPECの石油政策が資源温存的になって来ているのに加え,産油国,メジャーを含む世界の石油流通機構が大きな変革期に来ているなど,より構造的であり,供給の不安定性が当面のみならずかなり長期にわたる可能性が大きいと見られるからである。

まず,産油国の石油政策に資源温存的色彩の強まっている背景としては次の諸点が挙げられる。①74年以降のポスト・オイルを目指した西欧的な大規模工業開発計画が,ボトルネックの発生,インフレの高進で挫折を余儀なくされ,社会的緊張を生んだこと,②その結果,今後の国内経済の脱石油化への動きは,かなり時間をかけたものになることが予想され,それまでは石油資源を枯渇させることはできないこと,③石油生産をしぼっても価格が上昇するため,それ程石油収入は減らないのを学んだこと,④先進国のインフレ,ドルの減価でドル資産を目減りさせるより石油を温存しておいた方が有利なこと,⑤随伴ガスが無駄に消費されていることなどである。,また中東地域の政治社会情勢が流動性を強めていることも今後の石油供給の不安定性を高めている。

このようなOPECの動きを考慮し,IEAはOPEC生産数量は78年の実績約3,010万B/Dに対し,85年にもわずか約310万B/D増の約3,320B/Dのレベルにとどまるとの厳しい見方を示した。

(5)次に世界の石油流通ルートの変化の問題を見てみよう。すでに歴史的な流れとも言えるメジャーの退潮は流通面においてもイラン政変によるコンソーシアムの事実上の機能停止により一層加速された。

これまでは消費国はメジャーを経由することにより,自国の石油製品需要パターンに適した原油を入手できたほかメジャーの原油調達先の多様性によって特定産油国からの供給が途絶しても他の産油国原油で代替できるなど,様々なメリットがあった。メジャーが撤退し産油国と消費国との直接取引が増えることは,言いかえれば,このようなメジャー中心の石油流通の安定性が失われてゆくことである。もっともメジャー中心の流通機構は最近のわが国非系列企業に対する一方的な供給打切りに見られるようなデメリットをもっていることにも注意する必要がある。

いずれにしろメジャーの退潮,消費国と産油国の直接取引きの増大という世界の石油流通機構の大きな変革の流れの中で,国際的な石油流通の円滑化を維持するためには,消費国と産油国との対話が幅広く行われる必要があり,現在すでにECとペルシア湾岸諸国との協議がもたれている。しかしながら,価格問題については,産油国の国家主権に属するものとの見解から,消費国との協議項目とすることを拒否しており,こうした対話にも限界があるものと見られる。

以上のことから世界の石油流通機構の不安定性は当分改善されないと思われる。

2. 石油危機発生時の環境

それでは,次に,石油危機発生時に世界経済が置かれていた環境はどうであっただろうか。景気局面・インフレ,国際収支・通貨,財政赤字等について現在の状況を第一次石油危機時と比較して見よう。

(景気局面のちがい)

第一次石油危機の発生した73年10月当時の先進国経済は,70~71年の景気後退から一斉に立直って同時的景気上昇を続けた後の,まさにブームの頂点にあった。生産は記録的高水準に達し,73年のOECD諸国の成長率は実質6.1%と,60年代の高度成長期を上回る伸びを示していた。このため,主要国では需給がひっ迫して,製造業の稼働率はいずれも過去のピークに近い水準まで上昇していた。各国の通貨供給量(M2)も70年から72年にかけて名目成長率を上回る大幅な増加を示した。73年に入ると多くの国で金融引締めに転じたこともあってその伸びはやや鈍化したが,いずれも二桁の伸びをつづけた。また金外貨準備も70年から72年にかけて,年率23%に上る急増を示した(60年代平均は4.5%)。

失業率も,国によって景気とのずれが多少異なっているものの,石油危機発生時にはいずれも70年代に入ってからの最低に近い水準まで低下していた。60年代後半から70年代にかけての労働供給構造の変化による失業率の底上げを考慮すると,この水準はかなりタイトであり,熟練労働者,建設などの特定部門や特定地域において労働力不足が目立った。西ドイツなどでは外人労働者数が73年には過去最高(243万人)に達した。

物価面ではこうした需給ひっ迫に天候不順による農産物不作が重なって国際的な投機が高まり,一次産品市況が高騰するなど石油危機発生前にすでにインフレの加速化が見られた。

これに対して今回は前回のような景気局面の同時化は見られない。すなわち,①アメリカの景気は過熱から後退に向いつつある。②日・独は78年央から内需主導の自律的な回復をつづけている。③その他の主要国の景気は上昇局面にあるものの全般的にまだ本格的な盛り上りに欠けている。79年上期の主要国の成長率(前年同期比)を見ると,アメリカが3.2%,日本が5.5%,西ドイツが4.3%,その他の主要国(仏,英,加,伊平均)が2.8%と,西ドイツを除いていずれも過去10年の平均をかなり下回っている。

こうした中で通貨供給量(M2)の伸びは,78年には多くの国でやや高まった。また金外貨準備も76,77年と平均16%の伸びを示した。製造業の稼働率をみると,アメリカがほぼフル稼働となったのを除いて,主要国ではほとんどがまだピーク時よりかなり低い水準にある(第2-1-3図)。

失業率の水準もアメリカではほぼ完全雇用水準に達していると見られるが,西ヨーロッパ諸国ではいずれも前回ピーク時を大幅に上回っている。その中で,西ドイツやイギリスでは77年秋以降低下傾向にあるものの,そのテンポは緩やかであり,最近の水準は73年当時を約3%ポイント上回っている。フランス,イタリアなどでは失業者数は引続き増加傾向を示しており,フランスでは73年当時を4割弱,イタリアでは約5割も上回っている(第2-1-4図)。

以上のように需給はアメリカを除いて前回のようにはひっ迫していないが,その反面,構造的要因も加わって失業率は前回を大幅に上回っている。

物価面ではまず一次産品市況については,今回も78年下期以降再び騰勢を強めているものの,ロイター商品相場指数でみて78年8月の底から本年7月のピークまでの上昇率は約17%で,第一次石油危機発生前の1年間の上昇(約3.7倍)に比べて格段の差がある。

しかし,アメリカをはじめとしてかなりの国で,73年当時より消費者物価上昇率がすでに高くなっており,とくに79年央以降は,二桁上昇を示すものが多い。また,これまで安定していた日本,西ドイツ,スイスなどでも上昇圧力の高まりがみられる(第2-1-5図)。これは第一次石油危機後の不況過程で賃金コストの低下が十分進まず,各国ともコスト面からのインフレ圧力を受けやすい体質となっていることを反映したものであろう(分析は第3章)。

(経常収支の不均衡)

先進国では,73年当時は,同時的景気上昇による貿易規模の急拡大の中で,国際競争力の優劣がはっきりし,貿易収支の黒字国と赤字国の二極分化現象がみられ,経常収支についても不均衡が拡大していた。OPECによる原油価格の大幅引上げによって,この格差は増幅され,イギリス,イタリアなどではGDPに対する経常収支赤字額は73年の約3%から74年には約6%にはね上った(第2-1-6表)。そのため,これらの国は赤字補填のために国際的支援にたよらざるをえなかった。IMFをはじめとするこうした国際的支援には,国内的引締め措置の導入を条件とする場合が多かったことから,これらの国では景気が下降に向っているにもかかわらず引締め策がとられ,不況をさらに深刻なものとした。

これに対して今回は,大型不況の中で赤字国では赤字幅が縮小し,イタリアなどでは黒字に転じたほどであり,黒字国の黒字幅も79年に入って縮小するなど不均衡はかなり縮小している。ただ,この中で,ひとり順調な景気拡大を続けたアメリカの経常収支赤字幅が77年より拡大し,78年にはGNPの約0.7%を占めていることが前回と条件の大きく異なる点である。

(財政赤字)

第一次石油危機後の大型不況の中で,主要国の財政赤字は拡大を続けており,政府部門赤字のGNPにたいする比率も,78年には(イタリアの15.5%は例外としても),2~6%にも達している(第2-1-6表)。これは73年当時の0.3~3%(イタリアは9.6%)とくらべると大きなちがいである。

こうした財政赤字比率の高まりは各国の政策運営にとって事実上大きな制約となっている。仮にデフレ対策上の必要性から拡大策を取らなければならなくなった場合にも赤字拡大のおそれから,それが制約されるおそれが大きい。

3. 主要国の対応(1):需要管理政策

石油危機が各国経済ひいては世界経済に及ぼす影響は,石油危機自体の規模・性格,危機発生時の環境に加え,各国が実際にどのような政策をとるか,あるいはどの程度の政策的対応の余地があるのか,さらに,そうした政策的対応の効果がどれだけあがるかによって決定される。

そこで以下には,今回の石油危機にたいして主要国がどのように対応しようとしているかを,前回の政策対応と,その結果生じたパフォーマンスの格差を対比しながら検討し,今回の危機を克服するのに有効な政策手段とその適用のしかたを探っていこう。

まず,前回の石油危機後の政策的対応とパフォーマンスによって主要国を分類すると次の三つのグループに分けられる。第一は危機発生前からとられていた引締めを比較的早期に景気刺激に転換し,その後も積極的な政策をとったこともあって,景気の回復が早く,上昇過程が持続したが,その反面インフレ,経常収支悪化を招いたアメリカ,カナダである。第二は,いち早く厳しい引締めに転じ,それを維持したため景気回復はおくれたが,インフレの鎮静に成功し,78年央頃からは均衡のとれた景気上昇を続けている日本と西ドイツである。そして第三は,当初導入した引締め政策を景気支持のために早目に転換したものの,経常収支の赤字幅が急拡大し,インフレが高進したことから再引締めを余儀なくされ,その後の景気回復に手間どったフランス,イギリス,イタリアなどである。

(アメリカの政策的対応)

アメリカが前回の石油危機後にとった経済政策は,その他先進国と比べて機敏であり,不況対策の規模も大きく,積極的であった。

第一次石油危機当時,アメリカ経済は景気上昇局面のピーク近くにあり,需給ひっ迫,物価上昇率の高まりなど,今回よりも強い過熱現象を示していた。すでに財政,金融政策は73年初頭以来引締めに転じており,公定歩合の引上げ(1月以降8月まで7回,累計引上げ幅3%ポイント),財政支出削減案の発表(1月),支出削減措置(約50億ドル,7月)などがとられている。

その後74年春までの半年間は,財政,金融政策は緩和ぎみに運営された。

従来からの住宅建築不振に加えて,自動車需要の急減など景気の先行きに懸念が出てきたためである。実際,景気は11月から下降をはじめたが,こうした政策運営もあって,74年4~6月期,7~9月期の落込みは緩やかなものにとどまった。

しかし,一方で物価規制の漸次的撤廃(73年7月)の影響もあって,物価上昇率が加速化し,銀行貸出しの急増,企業利潤の増加,堅調な消費など景気の再過熱化がみられたため,74年春から秋にかけての半年間,公定歩合引上げ(4月),財政支出削減(約50億ドル,5月),政府支出計画繰延べ(9月)等再び引締めが強化された。この結果物価は鎮静化に向ったが,景気は74年秋以降急激に悪化した。

74年末になると,政府の予想を上回る生産の急落,失業の急増を背景に,政策スタンスは積極的な景気刺激に転じた。公定歩合が急速に引下げられ(74年12月以降76年1月まで計5回,累計引下げ幅2.25%ポイント),また1975年減税法(75年3月成立)及び1976年税制改革法(76年10月成立)等により減税措置がとられた。77年に入ってからもフォード共和党政権にとって替ったカーター民主党政権はひきつづき景気刺激による失業削減を政策課題の第一として,77年1月,77年度・78年度の両年度にわたる約310億ドルに上る大型減税案を提案した。その後,景気の回復等を理由に戻し税等が撤回されたが,刺激策の総額はなお約170億ドルに上った。こうして,景気は消費,住宅などを中心に急速に持直し,75年3月に底入れした後,息の長い上昇過程をたどることになる。

以上のように第一次石油危機後のアメリカの経済政策は不況からの脱出局面においては景気の動きに応じて機動的に運営された。そのため不況からの脱出とその後の景気上昇という面では西欧諸国や日本に比べてずば抜けて良いパフォーマンスを示した。

しかし,景気が上昇過程に乗ってからの財政金融政策の動向は第3章第2節で述べるように,とくに財政政策面で景気,雇用重視から物価重視への転換が遅れ,インフレ悪化,ドル安,経常収支の悪化等,基礎的条件の悪化を招くこととなった。

第二次石油危機後については,景気が後退に向っているにもかかわらずアメリカの経済政策はひきつづきインフレ抑制を最優先の目標として運営されている。とくに金融政策は夏以来再び大幅に引締められている。これは前回の石油危機後,それまでの引締め策が緩和されたのとかなり異なっている。

これは,アメリカの経済情勢が二桁インフレ,経常収支の大幅赤字,石油輸入依存度の上昇等,前回とくらべて著しく悪化していることを反映している。

(西ヨーロッパ諸国の政策的対応)

今回の石油危機にたいする西ヨーロッパ諸国の政策的対応も,アメリカとは対照的な意味あいではあるが,前回のそれとは大きく異なっている。国別に接近の仕方に若干の差はあるものの,共通した政策スタンスとしては,石油需給の均衡回復のためには,①価格メカニズムによる消費節約,②石炭や合成燃料など代替エネルギーへの依存を高め,全体としてのエネルギー供給を促進するなどを中心とすべきであり,前回のような,総需要を厳しく抑制することにより間接的に石油消費の削減を図る方法は避けようとしているという特徴がみられる。とくに景気局面が全般的に若く,需給ひっ迫が見られないことから,構造改革をねらっているイギリスを除いて,どの国でも財政面からの引締め強化策は79年央の段階ではまだとられていない。ただ,石油や一次産品価格の高騰の影響をできるだけ波打ち際で遮断するため,自国の為替レートを高目に維持したいという意図もあって,金融政策は多くの国で引締めに転じている。

こうした政策スタンスの変化は,上でみてきたように西ヨーロッパ経済の景気情勢が前回とかなり異なっているのを主として反映したものである。このほか,前回の石油危機時には,各国とも一斉に財政金融両面から引締め政策をとった結果,大型不況を招き,そこから脱出するのに4年以上もかかったという苦い経験があること,そうしてまた,原油価格の上昇を政府介入によって抑制する政策をとった国では,かえって石油危機の後遺症が長びいたことを学んだためと思われる。

こうした共通の政策スタンスに立ちながらも,主要国が今回の原油価格引上げ後にとっている経済政策にはそれぞれ特徴がみられる。

(西ドイツの政策的対応)

西ドイツの総需要管理政策は,ほぼ条件の似ていたアメリカのそれと比較すると,財政赤字の縮小,インフレ抑制を主目的としてより慎重に運営されてきた。

73年秋の西ドイツ経済は,景気のピークを8月に越して急速に下降しており,物価の急騰も頭打ちとなっていた。石油危機がすでに冷えこみ始めた景気をさらに悪化させることのないよう,73年末,5月に決定された第二次安定計画(11%の投資税,資本財の定率償却制の廃止,公共投資の一部棚上げなど)をほぼ撤廃したのについで,74年に入ってからも特定地域に集中した不況の影響を緩和させる目的で選別的不況対策をとった。さらに,74年末になって不況色が深まったため,政策の重点は一段と景気の浮揚に移され,一連のリフレ措置が導入された。75年3月には歳出規模前年比14%増の刺激型予算が成立し,8月にも第二次景気対策(公共投資,住宅近代化,失業対策)がとられた。

こうした政策的措置もあって,景気は75年5月に底入れし,夏以降急速な回復を示した。しかし,一方で,景気対策の導入と不況による歳入減から74,75年度の財政赤宇幅が急増したのを背景に,政府は財政赤字幅の中期的削減計画に沿って76年度予算を緊縮型(歳出の伸び前年比4.1%)とした。

77年度予算案についても,景気の回復がすでに76年下期以降はかばかしくなくなっていたにもかかわらず,抑制型(歳出の伸び6.2%)とするなど,きわめで慎重な政策スタンスを維持した。

金融面では,財政政策よりも慎重な政策運営が行われた。たとえば,公定歩合が引下げられ出したのは74年秋以降であり,75年夏頃までは相ついで低下したが,その後77年末までは据置かれた。実質コール・レート(消費者物価でデフレート)の動きを見ても,73年央以降75年夏の景気の底まではかなり急速に低下し,その刺激効果も大きかったとみられるが,その後は急速にプラスに転じ,76年央頃からはむしろ抑制ぎみに作用している。

77年央以降の政策運営が景気刺激に転じた過程は第3章第2節で述べるが,全般的に慎重な政策スタンスがとられて来たこともあって,西ドイツの景気回復はアメリカに比べて力強さを欠き,上昇テンポはしばしば足ぶみを示し,投資の回復がおくれ,失業率の低下も緩慢なものにとどまった。

一方,経常収支は輸出の順調な伸びから黒字基調を続け,物価上昇率も78年末まではほぼ一貫して低下した。こうした基礎的条件の強さを背景に,マルク相場は75年秋以降上昇を続けており,それがまた,物価安定につながっている。

こうした経済的環境の下で,第二次石油危機後西ドイツは輸入インフレを波打ち際で食いとめるため,79年に入って3月,7月,11月と相ついで公定歩合を引き上げるなど金融引締めに転じたが,財政面では78年7月のボン・サミット公約に基づく拡大型の79年度予算が執行されている。しかし80年については引締め型の予算が提案されている。

(フランスの政策的対応)

フランスでは従来からの成長重視の政策運営もあって60年代以降,息の長い景気上昇を続けており,73年秋には設備稼働率が過去最高に達していた。

第一次石油危機後は,73年末に政府支出削減(4億フラン)や公共投資の繰延べなど一連の総需要抑制措置がとられたのをはじめとして,74年にも増税(総額約85億フラン,74年6月成立)を中心とする引締め政策がとられた。

その結果,74年8月をピークとして景気は下降に向ったため,75年に入って引締め政策は急速に緩和され,公定歩合の相つぐ引下げ,投資刺激,雇用維持策(4月,6月)の実施につづき,75年9月には財政,金融面からの本格的な景気浮揚策が打ち出された。これは総額305億フラン(74年GNPの2.3%)に達する大規模なもので,その内容も公共事業の拡大,投資減税,輸出促進などのほか,悪化した企業金融の一時的緩和措置など多面にわたっていた。

こうした政策的刺激の効果もあって,秋以降景気は上昇に転じた。しかし,輸入の急増から貿易収支が再び悪化し,76年下期には大幅な赤宇となり,物価も騰勢鈍化から再上昇の気配を示した。このため景気回復がはじまってわずか1年にして,政策スタンスは再び景気刺激からインフレ抑制に移行せざるをえなくなった。

76年9月に導入されたインフレ克服計画(バール・プラン)は,物価の一時的凍結,公定歩合の引上げなどを主内容としたもので,その後もこの計画の基本方針にしたがって金融は引締め基調,財政もやや抑制ぎみに運営された。

この結果,貿易収支は改善に向ったが,景気の回復は小幅にとどまり,雇用情勢は悪化を続けた。肝心の物価情勢はそれほど改善しないまま,79年に入ってからは再び二桁上昇に転ずるなどむしろ悪化している。

このように物価は厳しい情勢にあるため,第二次石油危機後もインフレ抑制という基本的政策スタンスは維持されている。しかし,前回と異なって,同時にデフレ効果の軽減をも重視しており,8月末以降,いち早く景気下支えのための財政的措置が導入された。まず,8月末には79年度予算にたいする総額45億フラン(低中所得層への給付20意フラン,住宅・公共事業促進25億フラン)の追加支出が閣議決定された。これについで,9月初発表された1980年度予算案でも,①歳出規模を前年度当初予算比14.3%増と名目GDPの見通し11.8%増を上回る伸びとし,②一般会計収支を当初より310億フランの大幅赤字(GDPの1.2%)と前年度当初予算の2倍以上の赤字を見込むなど,景気支持的なものとなっている。

フランスがこのように前回とは異なって財政政策面では景気下支え的な接近法をとっている背景には,①景気がまだ十分に回復しておらず,とくに企業の設備投資が出おくれているため,石油危機のデフレ効果によって景気の浮揚力が失われると判断していること,②失業者数の増勢が続いていること,③対外収支も79年春以降はやや悪化したものの,ここ2年ほど好調が続き,フランも堅調を続けるなど,前回とは異なった経済条件にあることによるとみられる。

(イギリスの政策的対応)

イギリスでは73年秋には景気はブームにあり,物価の騰勢が強く,経常収支も大幅赤字を続けていたが,原油価格の大幅引上げ後も従来からのポリシー・ミックスの考え方を維持して,総需要管理政策は夏以降やや引締めぎみの運営に止められていた。しかし,11月以降,電力,炭坑ストがエネルギー供給をさらに悪化させたため非常事態が宣言され,74年初からは週3日操業制に追いこまれ,生産が大幅に落ちこんだ。このためこの供給制約に見あうように需要面でも引締め色を鮮明にし,74年度予算案も抑制型とされた。しかし,景気の下降が続き,失業者数も急増したことから, 7,11月の二次にわたって補正予算によるリフレ措置がとられた。75年度予算案も,消費を抑制する一方で投資刺激に重点がおかれ,全体として景気支持的であった。

一方,インフレ抑制については,72年秋以来の法的な所得政策は漸次緩和され,とくに賃金は74年以降自主的規制に移行したこともあって,上昇圧力を急速に終息させることがむずかしく,75年夏頃まで物価上昇の加速化が続いた。その後は「社会契約」の形での政府,労組間の協調による賃上げ圧力の緩和や,原燃料価格上昇の落着きなどから鈍化に向ったものの,二桁上昇の期間が4年以上も続いた。

こうした政策運営もあって,景気の落込みはその他主要国よりも相対的に小さく,75年秋以降は緩やかな回復に向った。これに伴って経常収支赤字幅の縮小は頭打ちとなり,とくに76年春以降悪化したことを背景に,ポンド危機が再発(春,秋)した。このため,引締めが強化され,76年春以降,最低貸出し金利は相ついで引上げられて10月には15%の最高となった。財政面でも公共支出削減が強化され,76年度予算は景気中立型,77年度予算も対外収支赤字幅縮小,インフレ抑制を主目的としていた。この結果,経常収支は77年後半に入って改善に向い,物価上昇率も78年初から一桁に鈍化した。

77年秋以降は,政策の重点をインフレ抑制から失業の減少に移し,10月には補正予算による景気刺激措置をとり,78年度予算も刺激型とされた。景気は78年に入って上向き始め,79年央までは緩やかな上昇を続けた。しかし,物価は78年夏以降再び上昇テンポを高めており,79年4月には再び二桁にのせ,その後もさらに加速している。

このようにイギリスでは,第一次石油危機後の経済政策は二転,三転し,ポリシー・ミックスによるストップ・ゴー政策からの脱却という前保守党政権以来の試みは失敗したようにみえる。これは①景気回復とともに消費財を中心に輸入が急増し,経常収支の悪化を招くという国際競争力の弱さ,②インフレに対処すべき所得政策が,一時的にはそれなりの効果をあげることができても,長期にわたって有効であることはむずかしいこと,③とくに,労働組合の力が強いため高率インフレを背景に大幅賃上げが実現されやすいこと,④これらの要因かポンド危機につながり,ポンド防衛のために最低貸出し金利の引上げや財政引締めなどの措置がとられ,景気上昇が短命に終る,という悪循環が断ち切れないためであった。

この間,公共部門は常に大幅な赤字を示し,対GNP比率でも75年の8%強を筆頭に3~5%にも達している。

79年5月再登場した保守党政権は,政府の経済面への介入を縮小するこどを基本とした政策をとっており,こうした公共部門赤字の縮小を目指している。6月央発表された79年度予算案でも,①租税の直接税依存度の引下げ,②政府支出の削減,③国有化企業の政府保有株式の放出,④政府部門赤字幅の縮小(GDPの約4.5%,前年度は5.5%)など,選挙公約どおりの財政政策が盛り込まれ実施された。この景気面への影響は計数的には,それほど大きくないが(NIESR推計では79年GDPの0.2%程度の景気引締め効果をもつ),間接税の大幅引上げにより物価上昇は約3%上のせされるとみられる。

イギリスでは北海石油の産出が78年春より軌道にのり出し,すでに自給率も79年央で約80%に達しており,80年代初には石油輸出国に転ずるという先進国では唯一の恵まれた条件下にある。このため,経常収支の改善はあまりすすんでいないにもかかわらず,ポンドは前回と様変りで堅調を示している。しかし,すでに物価上昇率は春以降二桁にのせており,間接税引上げもあってさらに加速化を続けている(9月の前年同月比16.5%高)。

第二次石油危機後も政府は引締め基調を堅持しており,とくに金融面での引締めを強化しているが,これは一つには,景気が下期に入って頭打ちとなっているにもかかわらず,インフレ圧力が依然として強いのを重視したものとみられる。第二は,政府部門の比重を低下させることによって,イギリス経済の活力を取りもどすという,保守党の年来の主張を反映したものである。

4. 主要国の対応(2):エネルギー政策

    (1)先進国の石油消費のテンポは73年以降大幅に鈍化した。 すなわちOECD諸国の石油消費の伸びは68~73年平均の7.5%に対し74~78年には同0.8%にとどまっている。もっともこの伸びの大幅鈍化は,第一次石油危機以降の成長鈍化によるところが大きい。その影響をできる限り捨象するため,実質GDP100万ドル当りの石油消費量(以下「実質GDPの石油原単位」という)の動きを見てみよう。まず,OECD諸国全体では68~73年の年平均で2.5%の増加を示していたのに対し,73~78年には同じく1.7%の減少を示している。73~78年についてこれを国別にみると,フランスの年率5.1%減を筆頭に,イギリス3.5%減,日本3.3%減,イタリア2.5%減,カナダ2.4%減,西ドイツ2.2%減とかなりの節約を達成している。これに対してアメリカでは実質GDPの石油原単位は横ばいで推移している(第2-1-7表)。

    (2)実質GDPの石油原単位の変化の原因を明らかにするため,いまそれを(ア)一次エネルギー消費量中に占める石油シェアと,(イ)実質GDP100万ドル当りの一次エネルギー消費量(以下「実質GDPのエネルギー原単位」という)に分解して見よう(第2-1-7表)。まず最初に(イ)は,OECD諸国全体で73年から78年の間に年率1.4%の低下となっている。一次エネルギーの節約でもフランスは年率2.7%の低下とトップであり,ついで日本2.4%減,イギリス1.9%減,西ドイツ1.5%減,カナダ1.1%減,イタリア0.5%減等となっている。一次エネルギーについてはアメリカも年率1.4%の節約を達成している。

    こうした先進国の実質GDPのエネルギー原単位の向上は主として①エネルギー多消費型産業のウエイトの低下,②産業部門を中心とする省エネルギー努力に起因するものと考えられる。産業部門でのエネルギー節約の進展を,74~77年について産業部門のエネルギー消費を60~73年のエネルギー消費の対鉱工業生産弾性値から推定し,その推定値と実績とのかい離として見ると,IEA諸国全体では,74~77年平均で,7.6%となり相当の節約を達成したものと推定される。

    (3)一方(ア)の一次エネルギー消費量中の石油のシェアを見ると,OECD諸国全体で73年の53.0%から78年の52.3%へとわずかな低下にとどまっている。これを国別に見ると,フランス(68.1%→60.2%),イタリア(73.8%→66.8%)が大幅な低下を示しているほか,イギリス(49.5%→45.6%),日本(75.6%→72.2%),西ドイツ(55.6%→53.7%),カナダ(46.1%→43.1%)も低下を見せている。これに対して,アメリカは73年の45.2%から78年には48.1%と石油のシェアを増大させている。これは,①国内の天然ガスの生産が物理的ピークを過ぎたうえ価格規制などの影響から減少しており,その相当部分が石油消費の増加で埋め合わされていること(第2-1-8図),②ガソリン価格が政府による規制措置と国内業者の過当競争により低水準に抑制され,節約が進まなかったこと等によるものと考えられる。

    (4)以上のように73~78年にはアメリカを除く各国で石油の節約が進み,OECD諸国全体の実質GDPの石油原単位も年率1.7%の減少を示した。しかし,この間節約は一本調子に進んだわけではない。すなわちこの間の後半期(75~78年)について見ると改善テンポはわずか0.6%減と著しく鈍化した。

    これを国別にみると,西ドイツ73~78が年平均2.2%減に対し75~78年平均では逆に1.0%増加しているほか,フランスが同じく5.1%減から1.7%減へ,またイギリスが同じく3.5%減から0.9%減,イタリアが2.5%減から0.4%減へと欧州諸国の実質GDPの石油原単位の減少テンポが大きく鈍化している。これに対して日本は,73~78年の3.3%減に対し75~78年は2.8%減と若干の鈍化はあるものの,依然高い改善テンポを示している。またアメリカは75~78年も横ばいとなった。

    後半期に改善テンポが鈍化した原因の一つには74~75年の不況からの世界景気の回復がもたついて石油需要が伸び悩み,石油製品のスポット価格が低迷するなど需給緩和感が出たことがあげられる。特に77年初頭から78年末まではドル建ての石油価格は事実上横ばいとなっているうえに,ドルの減価,工業製品価格の上昇も加わり,石油の相対価格は約19%下落している。また,欧州諸国,とりわけ西ドイツでの改善テンポの鈍化には低迷したスポット市場の値動きが比較的敏感に国内の石油製品市況に反映されたことも影響したと考えられる。

    石油は,短期的な需要と供給の価格弾力性が小さい商品である。極く僅かな供給不足が価格を急騰させる反面,極く僅かでも供給過剰となれば減産政策がとられない限り,価格は反落しやすい。たとえばOECDの計算によると日量200万バーレル供給が過剰になると価格は30%低下するという。一時的な需給緩和は,一時的に石油価格を弱含みにさせるが,それが消費国に安易な楽観論をはびこらせてエネルギー節約努力を鈍らせるようなことがあると,それは長期的には不幸なことである。一時的な需給緩和期にも石油資源の有限性を正しく考慮して節約努力を推進することが肝要と思われる。

    (5)さて,もう一つの問題は輸入石油依存度の動向である。すなわちOECD諸国の実質GDP100万ドル当りの輸入石油量(以下「実質GDPの輸入石油原単位」という)の改善は石油原単位の改善よりわずかではあるが遅かった。

    ところで輸入石油の動向を見るために,注意しなければならないことである。それはアメリカで77年中にかなりの在庫積み増しが行われ,それが78年中に取り崩されたことである。この影響を除外するために,いま77年と78年の平均を73年と対比すると,石油原単位はその間1.7%減少しているのに対して,輸入石油原単位は1.5%の減少となっている。

    これを国別にみると,同様の対比方法で北海原油をもつイギリスの18.0%減をはじめ,フランス6.1%減,日本3.9%減,イタリア3.8%減,西ドイツ2.5%減と,アメリカを除く主要国ではかなり改善されているのに対し,アメリカは逆に6.7%増と悪化している。またカナダは石油の純輸出国から76年には純輸入国に転じている。

    第一次石油危機以降OECD諸国の実質GDPの輸入石油原単位の改善が十分進まなかったのは,石油純輸入量の石油消費量に占めるシェアが73年の66.1%から77,78年平均の66.5%とわずかながらとはいえ,かえって高まったためである。これはその間アメリカのそれが大幅に増大したことによるところが大きい。すなわち,イギリスが北海原油の生産本格化から石油純輸入量の石油消費量に占めるシェアを73年の100%から77~78年平均49.2%へ大幅に低下させ,その他の主要国がほぼ横ばいとなっているのに対して,アメリカのそれは73年の35.8%から77~78年には,平均47.6%と急速な悪化を見せている。ただし,77年,78年に分けて見るとアラスカ原油の増産により輸入石油依存度は77年の49.0%から78年には46.2%へ低下した。イギリスのひきつづく改善にアメリカのこの改善が加わってOECD諸国全体の輸入石油依存度も78年にはかなり改善した。

    第2-1-9表 実質GDP100万ドル当りの輸入石油量

    (6) こうしたOPEC原油価格の大幅引上げという現実にもかかわらず,アメリカの輸入石油依存が逆に高まったのは国内の天然ガス,石油の生産が物理的にピークを過ぎたところへ景気の急上昇でエネルギー需要が増大したためであるが,同時に国産原油価格を低目に統制してきたそのエネルギー政策の影響もあったものと考えられる。すなわち,ニクソン大統領の「エネルギー教書」(73年4月),フォード大統領の「エネルギー自立化計画」(75年1月)と行政府側からは度々,エネルギーの高価格化政策が提案されたが,議会の反対で実現せず結局,75年12月,成立したのは“エネルギー政策及び節約法”であった。同法の主な内容は,74年1月から施行となっていた“緊急石油割当法”による国産原油を規制,非規制の二つのカテゴリーに分ける価格統制方式を改め,すべての国産原油を価格規制の対象とするとともに,75年2月以降40か月間(79年5月末まで)における全国産原油価格の加重平均の上昇を原則として年10%未満の幅で管理していこうとするものであった。これにより,実際の価格の推移も一部のカテゴリーの原油価格は引き下げあるいは据え置かれることとなった。

    また75年初からは緊急石油割当法に基づいてエンタイトルメント制度が実施された。これは原油の二重価格システムの下で割安な国産原油の入手ウエイトの低い中小精製業者を保護し,石油精製業界の寡占化を防ぐともに,伝統的に輸入依存度の高い東部地域の消費者,販売業者を保護するため,国内精製業者間の原油調達コストの格差及び精製業者と製品輸入業者との間の製品の格差を均等化させる制度である。しかし,この制度の下では,たとえばスポット市場で高値の原油,石油製品を購入してもアメリカ国内での精製業者間,あるいは精製業者と販売業者との間のコスト差はならされてしまうほか,さらに国産原油価格規制と相まってアメリカの原油及び製品価格を国際水準より相当低い水準に固定できるため,国際原油価格上昇による需要抑制効果を大きく減殺する結果を招いている。

    こうした中で,77年4月カーター大統領は“国家エネルギー計画を発表し,85年までの目標として①エネルギー需要の伸びを年率2%以下にする。②石油輸入を600万B/D以下にする。③ガソリン消費を10%削減するなどを掲げた。ここでの大きな特色はエネルギー価格はリプレイスメント・コストを反映させるべきであるとの理念から,これらの目標達成の一手段としてOPEC原油価格をリプレイスメント・コストとみなし,80年以降,国産原油価格をOPEC原油価格にリンクさせる方針を明示したことである。しかし,議会での審議の結果,このための原油平衡税,緊急ガソリン消費税は見送られ,ようやく78年11月に天然ガス政策法を含む5法(5法を総称して国家エネルギー法という。)のみが成立した。

    以上のように,アメリカのエネルギー政策は,行政府の段階ではエネルギーの高価格化による消費の抑制,国産エネルギーの開発を図る方向に働いているが,立法府の段階では“エネルギーの高価格化”が短期的なインフレ対策,国内産業の国際競争力の強化と衝突するほか,エネルギーの高価格化により生ずる石油会社の超過利潤の処理をめぐって産油州と消費州との対立,政府と石油会社との対立を呼んでいるため,コンセンサスを創るのが難しくなっている。

    第2-1-10図 アメリカにおける国産原油と輸入原油との価格差の推移

    第2-1-11表 アメリカの石油供給

    第2-1-12表 アメリカの天然ガス埋蔵量・生産量

    (7)これに対して西ドイツでは73年の石油危機にも,政府は国内原油・天然ガスの生産者価格,石油製品価格に介入することなく,社会市場原則を守った。その効果もあって石油消費は減少を示した(前出第2-1-8図)。また,73年以降も石油に代る各エネルギー源のバランスのとれた発展を図ろうとしている。特に国産石炭については,国産エネルギー維持の観点から50年代末から輸入石炭関税割当制,燃料油税の導入などを実施してきた。さらに,65年以降は石炭火力発電所の建設促進,鉄鋼及び電力会社との長期石炭引取契約,そのための価格差補助金交付など,政府は強力な石炭維持政策を採り,石炭シェアの減少を食い止めようとしている。もっとも西ドイツにおいても自動車のスピード制限が課されていないなど,残された課題はある。

    (8)さて,石油消費国の輸入石油依存の改善の遅れに次いで問題となるのは,軽質化する需要と重質化する供給のミスマッチである。

    73年以降の石油製品別消費動向を見ると,相対的にガソリン・中間留分への需要が増加し,重油への需要が減少する傾向が表れている(第2-1-13図)。需要の転質化と呼ばれるこの現象は,石油危機後の景気後退により増幅されている面はあるものの,たとえば代替エネルギーの主要な柱とされる原子力発電は重油を代替しているという事情もあり,景気動向と関係なく進む性格ももっている。他方,OPEC諸国の供給する原油は,サウジアラビアの政策などにより徐々に重油の得率の高い重質油のウエイトが高まっている(第2-1-14表)。このため需要の軽質化現象は,79年5月のロッテルダム,カリブのスポット市場で見られたような中間留分のひっ迫など,特定製品についての需給のアンバランスを起す可能性を秘めている。特に従来からガソリン需要のウェイトの高いアメリカでは,重質原油が増加しているにもかかわらず,政府のマージン規制もあって企業は重質原油処理のための設備投資を行わず,軽質原油の輸入増加で対応を図ってきた。これも,79年の軽質油の需給ひっ迫の一因となり,OPEC諸国内部の油種間価格差の拡大を促してきたと考えられる。

    (9)第二次石油危機に対処するため主要国はエネルギー節約,代替エネルギー開発の促進,緊急対策の整備等エネルギー政策の強化を図っている。

    とくに,アメリカのエネルギー政策には前進がみられた。すなわち,78年11月新規天然ガスの統制価格を段階的にインフレ率以上に引上げて85年以降撤廃すること等を定めた天然ガス政策法が成立したのにつづき,79年6月には大統領権限に基づき国産原油価格規制が段階的に(81年9月末日終了)撤廃されることとなった。それと同時に超過利得税,エネルギー確保基金等の関連法案が議会で審議されている。

    また,主要先進7か国は79年6月の東京サミットで79年,80年及びあ年の石油輸入目標を決定した。これを受けて7月カーター米大統領は,アメリカの石油輸入を1990年までに日量450万バーレルに削減(77年実績850万バーレル)するとの長期目標を設定,同時に79,80年の石油輸入量については大統領権限に基づく輸入割当制により東京サミットでの合意量850万バーレル以下,79年は820万バーレルとする輸入抑制措置を発表した。

    さらに9月末のサミット参加国のエネルギー大臣会議で,85年におけるEC各国の国別石油輸入目標が明らかにされた( 第2-1-15表 )。

    (10)しかし,以上のような先進国の石油輸入抑制措置にもかかわらず,OPEC側の供給制約マインドは強く,世界の石油需給は今後長期的にも楽観を許さない。こうした中で,先進国,ひいては世界経済が安定的かつ持続的な経済成長を実現していくことは可能であろうか。

第2-1-16表 東京サミット後の各国の石油を中心とするエネルギー政策

今後の成長可能性を見る場合に基本となるのはGNPのエネルギー需要弾性値である。OECD諸国全体のGNPのエネルギー需要弾性値は1960年代は0.97,1969年から73年までは,1.07とおおむね1前後であったが,第一次石油危機以降は75年~78年で0.76と,景気停滞の影響もあってかなり低下した。今後については,OECDは79~85年の期間に対し0.8と見ている。これにはIEAの主唱による石油消費の5%節約,アメリカの国家エネルギー法による効果は考慮されていないが,かなりの節約努力を前提としている。

さて,OECDの計算によるとエネルギー弾性値が0.8だとすると,1985年までのOPECの増産可能量を日量550万バーレルとかなり多目に見積っても,79~85年のOECD諸国の成長は平均3.3%が高々である。これは第一次石油危機以前(60-73年)の4.9%はもとより第一次石油危機からの回復過程(75~78年)の4.2%をも大幅に下回るものである。この成長では増大する労働人口に十分な雇用機会を与えることは不可能で,失業の増大が避けられないものと見られる。

今後中期的な成長戦略を考えるに当ってまず第一に成すべきは,エネルギー節約と代替エネルギーの開発である。その場合に大事な事は一時的に需給が弛んで価格が弱含みになっても脱石油の努力を怠ってはならないということである。