昭和50年

年次世界経済報告

インフレなき繁栄を求めて

昭和50年12月23日

経済企画庁


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第2章 トリレンマの変貌

第2節 国際収支調整過程とその評価

(1) 新たな国際収支パターンとその変貌

1972,73年頃には世界の経常収支のパターンは,先進国の120億ドル前後の黒字とほぼそれに見合った発展途上国の90億ドル前後の赤字で表わすことができた。しかし74年には石油価格上昇による経常収支パターンの大きな変化がおこり,産油国の巨額の経常収支黒字に対しその見返りの赤字を先進国,発展途上国がほぼ同額づつ分けあうという姿になった(第2-15A表)。

1975年になると,さらにもう一段のパターンの変化がおこっているものと見られる。第一に産油国の黒字は,500億ドル以下に減少しよう。第二に先進国のうち工業国と一次産品輸出国とでは,前者が黒字へ,後者が赤字やや拡大へという違いがあらわれてくる。後者と,発展途上国と合わせた産油国以外の非工業国というグループが,75年に赤字(こなるわけである。後述するように,75年のこのグループの赤字は,74年の全世界的な赤字が「石油赤字」とも呼ぶべきものであっために対し,「不況赤字」とも呼ぶべき性格のものであるといえよう。以下,この74年から75年にかけての変化を地域別に見てみよう。

(先進工業国の赤字の縮小)

1974年の先進工業国の経常収支は,西ドイツ,ベネルックス,スイスを除いて各国とも赤字になった(第2-15B表)。特に第2,第3四半期の赤字が大きかったのが目立つ。

しかし,三重苦の一つであった国際収支問題は,例外はあるものの,74年の前年に考えられたよりも早く改善が進み始めた。以下ではまず主要国のうち改善傾向の見られた,アメリカ,イギリス,フランス,イタリア,日本について述べ,ついで後段で,異質な動きを示した西ドイツについて,最後にその他の工業国について述べよう(カナダは後出の非工業国の項で扱う)。

アメリカでは73年中から国際収支の基調が黒字へと変化していたが,この傾向は74年中も持続していたため,いったん増大した経常収支の赤字も,第4四半期にはほとんど目立たないものとなった。75年第1四半期に入ると経常収支は大幅な黒字に転じ,第2四半期には黒字幅がさらに拡大,本年上半期では60億ドルと西ドイツの35億ドルを上回る黒字を示している。

フランスと日本も国際収支の改善は早く,アメリカと同様75年に入ると黒字に転じている。さらにイタリアも74年央から改善が始まった点ではこの二ヵ国と共通であるが,73年から赤字基調であったため,74年前半の赤字は他国と同様の短時間で解消しうるにはあまりにも巨額であった。それにもかかわらず,本年第2四半期には経常収支で黒字を記録,8月にも季節性もあるものの約5億ドルの経常収支の黒字を示す,というところまで改善してきている。

イギリスはイタリアよりもさらに改善が遅く,いまだに非石油収支で黒字が見られる程度の段階にまでしか改善していない(第2-16図)。74年第4四半期に近年最大の赤字幅を記録したあと,75年前半には赤字の小幅化が見られたが,第3四半期にはややその拡大が見られるなど,経常収支の均衡は今年後半でも難しいと見られる。

五ヵ国の経常収支がこのようにすみやかに改善した理由は四つあげられよう。

第1に各国での景気の落込みである。米,英,仏,伊,日の5ヵ国の輸入を合計してみると,数量ベースで74年の第2四半期から今年の第2四半期にかけて約16%の減少を示している。他方,以上5ヵ国平均の鉱工業生産の落込みは12%であり,過去の相関関係からすれば,輸入の減少は生産の減少に負うところが大きいことが推察される(第2-17図)。

第2に石油の輸入が所得の減少によって説明される以上に減少したことである。この点は本章第3節で述べられているのでここでは詳しくは述べないが,石油価格上昇の効果や石油の在庫の動き,そして幾分かは暖冬や石油消費の節約対策によって起ったものである。

第3は産油国,共産圏へ向けての輸出が増大したことである。OECD全体の産油国向け輸出は75年第2四半期で前年同期にくらべ約60%(輸出価格指数のとり方によってはこれよりやや低い)と急増した。産油国の輸入の増加の恩恵は特に偏ってもたらされているわけではなく,各国とも名目で75~100%の産油国向け輸出の増加をみている(第2-18図)。また共産圏向けの輸出(OECD計)を数量ベースで見ると,最近鈍化傾向が明らかになって来ているものの対前年同月比では依然として約30%増と産油国向け程ではないにしても世界貿易の縮小のなかにあっては目立つ動きをしている。

以上の3つの理由は数量ベースでの改善要因であるのに対し,第4には交易条件の改善があげられる。一次産品の価格は1974年第1四半期を境に下落に転じた。しかし,先進国内での物価上昇もそうであったが工業品の輸出価格の上昇が石油を含む一次産品価格の上昇に対して遅れを持っていたために,先進国の輸出価格は75年第1四半期にいたるまで騰勢がゆるまなかった。このことによって交易条件は第2-19図に見られるように好転した。

以上の4つの原因の比重はどうなっているであろうか。近年のように貿易数量の変化の激しい時は交易条件の変化による国際収支の改善分と,数量面での改善分とを足しても,全体の改善額は近似的にも等しくならないので,議論はおおまかなものにならざるを得ないが,貿易収支の5ヵ国の74年から75年にかけての推定改善額約400億ドル()(OECD推計)について分解を試みると次のようになる。

まず交易条件の改善による分が約50億ドルである(OECD推計)。次に残りの350億ドルについて分解すると,OPEC向けの輸出増加分約100億ドル,共産圏向けは約30億ドル,石油輸入の減少による分約100億ドルとなり,残りはこれらの国の景気の落込みがその国の貿易収支に有利に働いたことの効果となる。

以上でとりあげた5ヵ国以外についてみると,まず西ドイツは74年には73年にくらべてむしろ黒字幅を拡大し,75年に入ってからもやや小幅化したとはいえ大幅な黒字が依然続いている。その原因は,第1に,輸出数量についてはドイツ製品に対する需要の価格弾力性の低さから為替レート変化に起因する輸出価格上昇の影響を受けることが少なかったのに対し,交易条件は為替レートの変化によって大幅に改善したこと,第2に,他の国,とくにEC諸国よりも景気後退の局面が早く到来したことである。またこの景気局面のズレが75年にいたって解消したことが黒字幅の縮小につながっている。

その他の国ではスウェーデン,ノルウェーを除いて黒字幅の拡大,ないしは赤字の解消等の経常収支の改善を見ており,最初の5ヵ国とほぼ同様に論ずることができよう。スウェーデン,ノルウェーは政策や北海開発などから他の工業国と完全に景気局面がずれているための赤字であって,非工業国の赤字と同列に論ずることはできない。オランダの黒字幅の変化の方向はやや例外的であるが黒字国であることには変りないので詳述は避ける。

(非工業国の国際収支)

OECD諸国のうちでもカナダ,ニュージーランド,フィンランドなどの一次産品輸出の比重の相対的に高い国やポルトガル,スペイン,ギリシャ,トルコなど一次産品に加えて労働力の輸出や観光収入が財・サービスの輸出に占める割合の高い国々では,先進主要国の不況と交易条件の工業国側から見た改善とは既に赤字であったこれらの国の経常収支を一層悪化させることになった(前出第2-15表)。例外的なのはオーストラリアであるが,この国では75年輸入割当,関税引上げなどの輸入制限を行っており,これがなければやはり赤字基調であったといえる。

また,南欧諸国の経常収支が赤字化している原因の一つは,これらの国には比重が相対的には低いとはいえ工業品輸出があり,これが先進国市場にとって限界供給をなすものであることである。つまり,目下の世界的な不況は,競争力の弱い企業を市場から排除する働きを通じて,これら工業に関しては中進的な立場にある国に大きな打撃を与えているわけである。

次に非産油発展途上国の貿易については,第一章第一節ですでに詳説したのでここでは簡単にみよう。74年前半までは好調であった非産油発展途上国の貿易は,74年後半から75年にかけて悪化して来ている。75年全体については,ブラジル,台湾など輸入の大幅な削減に成功した国を除いて経常収支の悪化が見込まれる(第2-20表)。しかも,75年の非産油途上国の経常収支赤字の60%程が,発展途上国のなかでもより貧しいグループによって占められており(モルガン銀行推計),これは74年の赤字の約3分の1をこれらの国が占めていたのにくらべると,事態が大いに深刻化しつつあることをものがたっている。

しかも,これらの国々は先進一次産品国と違い,OPECへの輸出を伸ばす可能性もなく,輸入やエネルギー消費を減らす余地にも乏しいので,第一章にも見たように先進国の景気の回復のみがたよりになってきている。

(産油国の経常収支)

74年は560億ドル(イングランド銀行推計)にのぼる産油国の経常収支の黒字が見られた年であった。今年はアメリカ財務省の推定によれば黒字は460億ドル程度(一説によれば350億ドル,モルガン銀行)にとどまるものと見られ,74年にくらべれば大幅な縮小になる。これはOPEC諸国の減産(後出第3節)と前出の工業国からを中心とする輸入の増大とによってもたらされたものである。

しかし今年の黒字の規模については,第1に減産は世界的な不況による分が大きいこと,第2に産油国輸入の増加はいわゆるハイ・アブソーバーの吸収能力が石油収入の天井につきあたるとともにある程度鈍化する可能性があること,の2つの理由で一時的な減少と考えられる。

ところで上記の産油国輸入の動向については,本節でもすでにある程度ふれたが,産油国側から国別に見ると第2-21表のとおりである。76年以降についても,米国財務省やOECDなどでかなり綿密な予測が行なわれているが,これが実現されるかどうかの鍵になるのは産油国における各種のボトルネックの存在が各国の開発計画,ひいては輸入の吸収能力に影響をいかにあたえるかであろう。

第一のボトルネックは労働力不足ないしは熟練労働者,有能な行政担当の人材の不足である。湾岸諸国では労働力の絶対的な不足が見られ(例えばサウジアラビアの5ヵ年計画達成のためには50万人の労働力増が必要とされるのに対し国内からの供給増は15万人が限度と見られる),その他の諸国では熟練労働者の不足が著しい。しかし,前者においては,労働参加率の引上げや外国人労働力の導入などのてだてもあり,後者についても時間をかければ教育・訓練などが可能である。とはいえ労働力は短期的には最大のボトルネックであろう。

第2のボトルネックは,各国の港湾設備の能力,内陸交通網の未発達などである。

例えば沖待ち日数で見ると第2-22表のとおりである。しかしこれも,サウジアラビアでの港湾設備,イランでの鉄道網整備に代表されるように豊富な資金を活かした改善が進むものと見られる。

ところで,上記の2つのボトルネックが克服できたとした場合産油国の開発計画は十分な輸入需要をもたらすであろうか。いわゆるハイ・アブソーバー―インドネシア,ナイジェリア,イランなど―では問題がないし,その他の国でも石油化学工業や天然ガスの液化プラントなどの適切な投資機会があるから,困難な問題ではないといえよう。

ただし,産油国の開発計画は,大胆にすぎる傾向が見られ,適切ならざる投資が,製品の販路開拓等で困難を来たした場合には,これによって投資意欲の減退,投資財の輸入減少という結果が見られることも考えられよう。

(2) 比較的順調だった赤字ファイナンス

74年中の石油消費国の経常収支の赤字は,全体としては,外貨準備の大幅 な変動もなく,順調にファイナンスされた(第2-23表)。その主たる役割を演じたのは,米国銀行,ユーロ市場やオイルファシリティ等の公的機関であり,また産油国の対外援助もかなりの規模に達し,一部の非産油途上国の経済を支える役割を持った。また後述のように,産油国の先進国に対する直接投資も増加した。

まず米国銀行の対外短期貸出しについてみると,アメリカの資本流出規制撤廃(73年末~74年初)の結果として残高は急激に増え,74年中には,オイルマネーのアメリカへの直接流入額(110億ドル)を上回る180億ドルの増加となった。この資金が日本,イギリスなどの先進国の他,メキシコ等の高所得発展途上国及び韓国を中心として貸出された(第2-24表)。次いでユーロ市場をみると,74年中のユーロ銀行による公表された中長期貸出額は約270億ドルであり(第2-25表),その貸出先はイギリス,フランス,イタリア,アメリカなど先進国が,全体の68%を占めている。先進工業国の多くは自国の経常収支赤字をユーロ市場を通じファイナンスしたことになる。一方非産油発展途上国も,先進国には及ばないもののユーロ資金の取入は順調であったが,ここでもメキシコ,ブラジルなど比較的高所得発展途上国への偏りが目立った。

半面,米国銀行,ユーロ銀行等の融資基準から外れ,しかも今回の不況の最も大きな打撃を受けたいわゆるMSACに属する国では市場を通じてのファイナンスは極めて困難であった。

これに対して,オイルファシリティの貸出先がMSAC22ヵ国に及んだということは,市場借入が出来なかった発展途上国の救済に寄与したといえる(第2-26表)。

一方,産油国の援助は総額25億ドルであったが,エジプト,シリアなどアラブ圏へ偏ったものであった。

75年に入ってからは,前述したようにイギリスを除く先進工業国では,不況による輸入減から経常赤字は解消した。しかし先進一次産品国,非産油発展途上国では,先進国の経常黒字化のシワ寄せを受けて,大幅な経常赤字が続いている。75年上期のユーロ市場をみると,公表貸出額78億ドルのうち先進一次産品国,ブラジル,韓国,メキシコ,ペルーで27億ドルを借入れており,全体の35%を占めている。これらの特定国ではユーロ市場調達は順調であり,市場を通じてのファイナンスはある程度可能であろう。しかし,市場メカニズムから取り残された発展途上国のファイナンスの問題は依然として残っている。

(オイルマネー還流形態の変化)

石油危機以来,注目を集めてきたオイルマネーの動向は,74年末から75年にかけて,新たな展開をみせた。すなわち,拡大を続けてきた産油国の経常黒字が,74年第4四半期をピークとして減少し始め,さらにオイルマネーの還流形態が,短期流動性投資中心から中長期非流動性投資へ,英米二国中心から各国へと多様化したことである。

74年の産油国の経常黒字は,イングランド銀行の推計によると,560億ドルと驚異的な額であったが,75年上期には,167億ドルにとどまった(第2-27表)。75年年間では,アメリカ財務省によると10月の原油価格引上げによる増収を入れても,460億ドル程度とみられている(同省の74年の推計は590億ドル)。このように経常黒字が縮小したため一部産油国では対応策としてユーロ市場から資金調達をするなど,オイルマネーの逆還流もみられたほどであった。

オイルマネーの還流形態の変化も著しかった。74年の還流形態をみると,560億ドル前後と言われる還流額のうち370億ドル(66%)程度が流動性投資にまわされていた。これから政府債,証券購入を除く約2分の1がユーロ市場,アメリカなどの銀行預金として投資されたとみられている。この資金は銀行の仲介により各国へファイナンスされた。残りの190億ドル程度が,非流動性投資として,貸付あるいは援助のかたちで直接に,あるいはIMF等国際機関を通じて関接的に各国へ還流した。

ところが74年第4四半期以降,特に75年に入り流動性投資へのウエイトが減少するという動きがみられてきた。75年上期の銀行預金への投資はイングランド銀行の推計では40%へ減少している。その理由は貸出先が特定国あるいは特定企業にかたよりリスクの問題が発生したこと,銀行の短期預金と資本金の比率の悪化,長期貸出とのバランスを考えて,流動性投資を無制限に受け入れられなくなったという受入側の理由に加えて,主要国の短期金利が下がり,長短金利体系が正常化に向ったためである。また,75年上期になって,オイルマネー投資に占めるイギリスやアメリカのシェアーが低下したのも,ボンド相場の持続的な下落や上期のドルの軟調という要因の他に,短期預金のウエイトの減少が反映している。安定的で収益率の高い中長期非流動性投資への比率の高まりは,フランスとイランの間に74年12月に締結された60億ドルの経済協力協定にみられるような二国間投資,ユーロ債を中心とした債券,株式,発展途上国への援助などにも明確にあらわれている。特に注目されるのは株式の取得と発展途上国,低開発国への直接還流の増加である,株式の取得は先進国の有力企業が目標とされ,アメリカにおいては75年上半期に6.6億ドルの増加を示した(74年全体では3.7億)。

これに対ドルの増加して各国は,産油国の株式取得が経営支配を目的として行われた場合に対する不安感から資本面での各種の規制を導入してきた。

一方,アメリカ財務省によると,非産油途上国への直接投資,援助は74年の25億ドルに比べると,75年上半期ですでに60億ドルにのぼり,上半期の還流総額の25%にあたる。74年の援助の内訳をみると,60%はエジプト,シリア,ヨルダンのアラブ圏に集中,約束額で43億ドル,実行額で12億ドルに達したが,次いで,パキスタン,インド,スリランカ,バングラディシュ,スーダン等のMSAC国にも向けられた。産油国の対外援助は自力で市場調達が困難な最大被害国の救済に寄与したものとして注目される。

75年は,石油収支赤字国にとって好都合な長期安定的な資金がより多く還流したという点をみると,経常赤字ファイナンスはより好ましい方向にむかっているといえる。なお,いわゆるMSAC等の貧しい発展途上国に対しても安定的かつ秩序ある形で還流が行われ,これらの諸国の国際収支の窮状が救済されることが重要である。

オイルマネーはその規模が縮小,還流形態が安定化してきたとはいえ,産油国は世界全体の外貨準備の24%を保有(IMF統計,75年6月現在)し,依然として国際金融の動きを左右する力を十分にもっている。さらに今後の世界景気の回復は,同時に石油需要の増大を意味するし,75年10月には原油価格の引上げが行われた。したがって,ふたたび産油国と石油輸入国の国際収支不均衡が拡大する危険性を内包しているといえよう。

(3) 国際通貨情勢と通貨改革の動き

(為替相場の動き)

ドル相場は,74年10月以降75年3月初に到るまでほぼ半年間,先進主要国通貨に対して下落を続けた。この下落の原因は,アメリカの金利の下げ足が欧州より速かったこと,オイルマネーの米国への投資が減少し同時に米国銀行の対外貸付が増加したこと,米国の景気後退が予想以上に深刻化していくという不安感などであった。さらに,75年に入って産油国がドルの減価に対する懸念を強め,イランなどが自国通貨とドルとのリンクをやめSDRリンク制を導入するという動きもみられ,こうした動きがオイルマネーの他通貨への乗りかえを一層誘うことになった。

しかし,ドル相場はその後3~4月強含み,5月弱含みのあと,6月中旬より上昇基調に転じ,9月末には3月の底の水準と比較すると,実効レートでほぼ9寿の切り上がりとなった。

このドル強調の最大の要因は,米国内短期金利が反転上昇,反面西ドイツ,フランスなど欧州主要国の金利が急速に下がり,イギリスを除く欧米間の金利差が,74年後半とはまったく反対の方向で,拡大したことと,アメリカの貿易収支の改善,欧米間の景気回復速度の違いなどがあげられる。

その他の主要通貨はほぼドルの動きを反映した動きを示した。特に目立った動きとしては,フランス・フランが国内の相対的高金利と貿易収支の改善に支えられて,年央までめざましい上昇を示したことと,ポンドが4月以降大幅に下落したことであった。なおフランスは7月10日,フランの強調を背 景にEC共同フロートヘ1年半ぶりに正式復帰した。

第2-28図 為替市況の推移

(自由金価格の動き)

金価格は,74年後半に上昇し,12月末にはピークに達し,1オンス200ドル近くになったが,75年に入って下落基調となり,9月には1年前の水準にまで戻した。そこで,この上昇期と下降期の二つの局面の背景をふりかえってみよう。

上昇局面の背景としては,まず新産金の供給の停滞があげられる。BISによると,74年の非共産圏諸国の産金量は前年比9%減となり(南ア共和国94トン減,カナダ8トン減),更に共産圏諸国の市場放出も前年と比べ330トンから150トン(推計)へと落込んだ。その結果西側からの市場供給は前年比では増えたものの,非通貨需要への供給が19%減となった。しかもこの供給の減少が,インフレ,通貨不安の時期と時を同じくしたため一層金への投機に拍車をかけた。

ついで,米国内金利の低下傾向や,75年以降米国で金取引が自由化されることが決ったことなどが上昇テンポを速める要因となった。

第2-29図 自由金価格

しかし,75年に入り,アメリカの金保有解禁後の需要が市場筋の予想を下回ったことから,金価格は1月初旬には急落,170ドル台となった。その後も米国の金放出,ソ連の穀物買付けのための金売却,ドルの堅調などから下落基調を続け,9月には,IMF保有金の一部を売却することで一応の合意が成立したことの影響を受けて急落,120ドル台にまで下落する場面もみられた。

なお,74年以降も国際流動性は増加傾向を示している(第2-30表)。その原因は産油国の外貨準備の急増の一方で石油消費国が,石油輸入価格上昇によって生じた経常赤字をファイナンスする際,主として米国銀行,ユーロ市場などからの大量の資金借入に,すなわち金融機関などの信用創造に頼ったことにあるとみられる。

(フロート下の2年)

主要国通貨が73年2~3月に相次いでフロートに移行して以来,いわゆる総フロート時代が続いている。この数年間にフロートは,その機能を十分果してきたのであろうか,ここで簡単に振り返ってみよう。

① 投機的短資の動き

短資の動きを正確に把握することは困難であるが,国際収支表上の短期資本収支の推移は,金融機関の債権債務を除く短資の動きを一応表わしているとみられる。そこで各国の国際収支表上の短資の動きをみると(第2-31図),アメリカでは,73年のフロート移行直前に大幅な短資の移動がみられた。

すなわち,アメリカの貿易収支の不調,物価,所得政策の緩和によるインフレ再燃の懸念によって起きたドル不信などにより73年第1四半期には54億ドルが流出した。各国はスミソニアン合意を維持するために大量のドルを買支えたが,なかでも西ドイツにおける買支えが目立ち,73年第1四半期の西ドイツへの短貨流入額は108億マルクにのぼった。その後の両国の大きな短資の動きをみると,石油危機後,石油価格の上昇の影響がアメリカにとっては比較的軽微であると考えられたことから,ドルが強調に転じ,ドイツ・マルクが急落した時点,すなわち74年第1四半期には,西ドイツから96億マルクが流出した。

また75年第1四半期には,アメリカの国内金利の低下,OPEC諸国のドル減価に対する懸念の強まりなどを背景としてドルが急落したため,アメリカから45億ドルの短資が流出した。しかし,これらの動きはいづれもフロート移行前と比較すれば小規模であった。

次にイギリスでは,72年6月のフロート移行直前に,平価切下げを予想した投機的な動きがみられ,72年第2四半期には6億ポンドの流出があった。

その後73年第4-74年第2四半期にかなりの短貨が流入したが,その規模はフロート移行前とあまり差はない。

そこで,この間にオイルマネーなどにより資本移動要因が増大したことを勘案すればフロートは短資流出入の規模をより小さくするという面で貢献してきたと云える。しかも,多くの国では極めて厳しい為替管理にたよったというよりはむしろ,フロートの機能により国内のマネーサプライ゛の膨張及び縮小を抑制することを通じて,国内政策により専念出来るようになり,石油危機以降の引締め効果を充分浸透させることに大きく寄与したと云えよう。

② フロートと貿易

フロート移行後,石油価格の大幅上昇により,西ドイツを除く先進国では大幅な貿易赤字を計上したが,為替レートの切下がり効果によって石油輸入を減少させ,経常黒字化することは不可能であった。

また,75年に入って先進工業国では経常収支の調整が進んだが,これも主として,不況に伴う輸入減が主因であった。しかし,73年中実効レートの下落した国すなわち,アメリカ,イギリスでは輸出パフォーマンスは改善ない,しは悪化テンポの鈍化,がみられ,逆に実効レートの上昇し,た国すなわち,フランス,日本では輸出パフォーマンスは悪化していることがわかる。(第2-32表)

74年に入ってからも,実効レートの動きと輸出パフォーマンスの関係はイギリスや,前述したような輸出の価格弾力性の低い西ドイツを除けば変らない。このように,現実の貿易収支変動の背後には,為替レート変動による均衡作用が働いているものとみられる。

フロート下の74年後半から75年には世界貿易が縮小したため,これをフロートと結びつける見方もあらわれた。しかし,今回の世界貿易の縮小は,前述したように先進国の不況による輸入減によるところが大きく,また,フロート移行直後の73年に世界貿易が著しい拡大を示したことからも明らかなように,フロートが世界貿易に悪影響を与えたと判断することは困難のようだ。

③ フロートとインフレ

各国の輸入価格(自国通貨建)の動きをみると,フロートに移行する以前はその上昇率にはあまり格差はなかったがフロート移行後には,大きな上昇格差が生じた(第2-33図)。

また仮に現在まで固定相場制度であったとすれば,国際収支不均衡を通じて高インフレレ国より低インフレ国ヘインフがより容易に波及したという事も想像されよう。現在の各国のインフレ率の大きな格差は,賃金上昇などの国内的要因が主であるが,フロートによるインフレ波及のしゃ断効果も働いていることも考えられよう。

以上みてきた限り,現行のフロートシステムは概ね支障なく機能してきたとみられる。

また現在に到るまで固定相場制を採用していたとすれば,石油危機の発生により世界経済が一段と混迷したなかで,各国の大幅かつ複雑なインフレの進行を通じて過大,過小評価された各国通貨を,何回か修正しなければならなかったであろう。その都度発生する通貨投機,為替市場の閉鎖,通貨会議での新しいレートの模索というパターンは世界経済に悪影響を与えたに違いない。

(国際通貨改革の動き)

75年は,IMF出資について,5年目の再検討の年であった。1月のIM F暫定委員会では,32.5%増資して総出資額を390億SDRとすることで,大筋の合意がえられた。同時に産油国の出資シェアを今までの2倍とし,発展途上国のシェアは現状のままとすることが決められたが,残りのシェアを先進国間でいかに配分するかが問題として残った。8月末の暫定委員会等では,この問題が検討され,先進13カ国の間で合意が成立した(日本4.11→4.25%)。

さらに,75年中には,金の扱いについても,進展がみられた。金の市場価格は公定価格を大きく上回り,公的保有金の取扱いが問題となってきたが,75年1月,10ヵ国蔵相会議,IMF暫定委員会で,金廃貨の方向に沿った公定価格の廃止とともにIMF加盟国のIMFに対する金の支払義務条項の削除について大筋の合意が得られた。

さらに,6月の暫定委員会をふまえ,8月末の10ヵ国蔵相会議,IMF暫定委員会では次のような新たな原則合意に達した。

    ① 各国中央銀行は2年間の暫定期間の間,公的保有金の総量を増やさない。

    ② IMF保有金の6分の1(25百万オンス)を出資国へ返還し,6分の1は売却して財源をつくる(差益で発展途上国の援助のため特別信託基金を設立することを,9月初のIMF・世銀合同開発委員会で合意)。

このような一連の合意は金の貨幣的役割を徐々に低下させるという方向では前進したといえるが,当面,金が各国の外貨準備としての役割を果たすことには変わりはない。

また,石油危機に端を発した国際収支難に対するファイナンスのために75年中,次の公的機関の拡充あるいは設立が合意された。

① IMFオイルファシリティの拡充 ②金融支援基金の設立 ③IMF特別信託基金の設立(詳細は第2-34表参照)。

残された重要問題の一つとして為替相場制度がある。この問題に関しては,1974年6月,IMF内に設けられていた二十か国委員会の検討をふまえた「通貨制度改革概要」が公表されている。その後,IMF暫定委員会等でこの線に沿って,通貨制度の具体的なあり方について検討が続けられているが,1976年1月ジャマイカで開かれる暫定委員会で,これまでの討議をふまえて最終的な合意に達することができるよう期待されている。

75年11月の主要国首脳会議では,実体経済の安定化,必要に応じた通貨当局の市場介入等により安定的な為替相場をめざす方向で,アメリカとフランスの見解に歩みよりがみられた旨が発表された。