昭和48年

年次世界経済報告

新たな試練に直面する世界経済(資源制約下の物価上昇)

昭和48年12月21日

経済企画庁


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第4章 フロート下の経済運営

1. スミソニアン合意からフロートヘ

(1) スミソニアン合意の性格

1971年12月に先進10ヵ国間で結ばれたスミソニアン合意は,同年8月のドル交換性停止によってもたらされた世界的なフロートが,世界貿易を縮小し,景気の回復を遅らせるのではないかとの懸念から,固定相場制へ復帰しようとする各国の努力がなされ,それが結実したものであった。

スミソニアン合意では,各国通貨の対ドル基準レートを新たに設定する形で新しい為替レート体系が作り上げられるとともに,為替変動幅が拡大され,ブレトンウッズ体制に比べて柔軟なシステム変わった。しかし,ドルの交換性は停止されたままで,ドル流出に対する制度的な歯止めはなかった。

したがって,スシソニアン合意を支えるものは,ドルを他の主要通貨に対し切下げることによって,アメリカの国際収支の改善,すなわちドルの信認回復を期待し,その安定に各国が協力するという国際協調の精神であり,スミソニアン合意は,この間に通貨体制を根本的に建て直すまでの暫定的な取決めであった。

この合意のもと,71年8月以降のフロートによって萎縮した企業マインドは好転し,各国の積極的な景気刺激政策もあって,景気上昇に寄与するなど一応の成果をあげることができた。

(為替市場の動揺続く)

スミソニアン合意後も通貨調整効果が現われるのにタイム・ラグがあること等から,72年中主要国の経常収支の不均衡はかえってひどくなった。アメリカからのドルの大量流出は世界的に過剰流動性をもたらし,インフレ圧力を強める原因となった。

このため,主要国のスシソニアン合意を守ろうとする努力にもかかわらず,為替市場は根強いドル不信を背景に,動揺と安定とを繰り返してきた。

以下,国際通貨の主要な出来事を中心に73年3月の総フロートに至るまでの経緯をみることにしよう。

(2) ポンドがフロートへ

72年春には,早くもドルからの逃避が起き,為替市場は不安定であったが3月以降小康を取り戻した。しかし6月央ポンド投機が発生し,6月27日ポンドはフロートに移行した。これは73年春の主要国通貨の一斉フロート移行に先鞭をつけたという意味で重要なできごとであった。

イギリスは,5月からEC域内為替変動幅縮小取決めに参加していた。また国際収支や対外準備も従来のポンド危機の時期ほど悪化していなかった。

それにもかかわらず,ブレトンウッズ体制の頃にくらべ,きわめて機敏にフロートヘ移行した点が注目される。

(フロート移行への経緯)

ポンド相場は,スミソニアン合意後,数ヵ月はイングランド銀行の小幅の介入もあって,新平価(1ポンド=2.60571ドル)の近傍に安定していた。

イギリスは5月1日EC域内為替変動幅縮小取決め(同年4月24日発足)にデンマーク,アイルランドとともに参加し,ポンドは各EC通貨に対して変動幅を2.25%に維持する義務を負うことになった。その後,ポンドは軟化傾向を示していたが,6月央に至って港湾スト発生(6月16日から4日間),労働党副党首ヒーリーによる「ポンドは7,8月までに切下げられる可能性がある」という議会での発言(6月19日)を直接の契機として再び投機に見舞われ急落した。

イングランド銀行は6月22日までの6日間,EC各中央銀行とともに約10億ポンドを買支え,公定歩合は22日1%引上げられて6%となった。しかし投機の勢いば衰えを示さず,遂に6月23日,ポンドの一時的なフロートが移行が発表され,市場再開後の27日より実施された。

当時,イギリスは中短期債務を完済し,さらに対外準備は増大,5月末には90億ドルを超えていた。また貿易収支も年初来赤字に転落したとはいえ,1~5月の赤字は約2億ポンド程度であった。こうした状況でポンドは,スミソニアン合意後半年あまりで,また,EC域内為替変動幅縮小取決め参加後わずかに2ケ月弱で離脱し,単独フロートというイギリスにとって戦後はじめての道を踏み出すことになったのである。

(フロート移行の背景)

イギリスが,この時期に主要国に先がけて,フロートという新しい対応策を打出したのは,主として,つぎのような直接的,間接的要因を背景としたものとみられる。

第1は,イギリスの貿易収支の悪化傾向である。67年のポンド平価切下げ(14.3%)効果がその後の大幅なインフレーションによって71年央頃までにほとんど失なわれていたうえ,景気回復に伴い今後貿易収支の赤字幅が拡大することが懸念された。とりわけ,72年初来大幅な賃上げが続き,また,所得政策をめぐる労使との話合いが難航して,インフレーション抑制に対する不安が強まった。

第2は,スミソニアン合意による主要国間の平価調整がポンドにとって若干過大評価ではないかとみられ,73年初のEC加盟前に小幅の引下げが予想.されていた。

第3は,スミソニアン合意を契機として,各国の為替政策に対する基本的態度が著しく弾力化されたが,とくにイギリスでは,バーバー蔵相が72年度予算演説で「非現実的な為替レートを維持するために,国内経済を不当にゆがめる必要はなく,望ましくもない」として,むしろ積極的に平価変更を行うことを示唆していた。

当時のイギリス経済は,過去2年半にわたる長い景気停滞局面からようやく脱け出して,生産,需要も春以降,上昇に転じたところであった。こうした局面で,ポンド投機を封じるために,従来のようなポンド切下げと厳しい国内景気の引締めを導入したならば,イギリス経済は遊休生産能力をかかえたまま再び下降に転じる可能性があった。しかも,前述のようなポンド相場の根強い低下要因があるため,切下げで対処しようとすれば何度も切下げを必要とし,かえってポンド投機を激化させるものと判断された。

ポンドのフロート移行は,このような従来のポンド危機に対する政策パターンからの大転換を意図したものであり,イギリス経済にとって画期的なものといえる。その後も政府は,ポンドのフロートを条件に,成長優先政策をとっており,その結果,72年後半以降,急速な経済拡大がみられた。このため,イギリス国内では,ポンドのフロートを評価する声が高く,政府も国際収支面での困難が続いていることを理由に,EC共同フロートへの復帰も再固定化もいそがない方針のようである。

ポンド危機は,ポンドのフロートのほかECのスミソニアン合意の遵守,アメリカのドル買支えなどで切りぬけられ,以後72年末まで為替市場は小康を保った。

(3) ドルの再切下げと円,リラのフロート

(73年1月下旬以降の国際通貨危機)

73年1月下旬以降,為替市場は再び波乱を迎えた。直接のきっかけとなったのはイタリアとスイスの為替措置である。イタリアではストの続発など社会的不安から資本が流出し,貿易収支も悪化していたため,1月22日二重為替市場制への移行を発表した。この影響でスイス・フランへの投機が強まり,翌22日,スイスはドルの平衡買い操作を停止し,事実上フロートに移行した。さらにアメリカの貿易収支が依然として改善しないことや,物価・所得政策の緩和(第3段階)からインフレ再燃の懸念が強まったことから,ドル不信は再び表面化し,大規模なドル投機が発生した。

各国はスミソニアン合意維持のため大量のドル買支えを行う一方,主要国間で危機打開のため協議が進められた。2月12,13日西欧,日本の為替市場が閉鎖されるとともに,12日,ドルはSDRに対し10%切下げられた。また日本,イタリアはフロートに移行し,主要国の中で基準レート維持のため介入義務をもつのはECの為替変動幅縮小措置参加国のみとなった。

(通貨危機の背景)

スミソニアン合意成立後1年余りでなぜドルが再切下げされ,主要通貨が相次いでフロートに移行することになったのであろうか。

スミソニアン合意は,ドル切下げを含む通貨調整によってドルの信認回復に期待をつないだものであった。しかし現実には,この間にアメリカの経常収支は改善に向うどころか,71年の27.9億ドルから72年の83.5億ドルヘ赤字幅を大幅に拡大した。一方,日本は黒字幅を58.0億ドルから66.2億ドルへさらに拡大した。

しかも,アメリカの経常収支の赤字に対し,資本収支はこれを相殺する方向に動かず,ドル不安から大量に流出した。この結果アメリカの72年総合収支(公的決済ベース)の赤字幅は103億ドルと71年に次ぐ史上第2位の大幅な赤字を示した。逆に,日本や西ドイツには依然として大量の資本が流入した。

このためドルの信認は回復しなかった。

こうした中でユーロカレンシー市場は,アメリカからの大量のドル流出によって急膨張し(国際決済銀行の推計によれば,68年末の300億ドルから72年末は910億ドル),また最近では多国籍企業や石油産出国も,かなりの資産をユーロ市場で運用しているとみられる(アメリカ関税委員会報告によれば,多国籍企業など民間部門が国際金融市場で自由に動かせる流動資産は71年末で2,680億ドルに達し,「これは世界の中央銀行や国際金融機関の保有する対外資産の2倍にもなる」)。

このようにドルの信認が回復せず,他方で交換性のないドルを主体に大量の資金が世界各国に滞留し,しかも資金の国際移動が迅速に行なわれやすい今日では,固定相場制の維持は容易ではない。70年代に入って各国は撹乱的資本移動を防ぐため,為替管理措置を強化してきたが,これも73年2,3月の国際通貨危機には有効に対処しえず,各国は相次いで固定相場制から離脱することになった。

アメリカの経常収支がドル切下げにもかかわらず,72年中改善しないどころかブ層悪化した理由は,ドル切下げによる交易条件の悪化(輸入価格の上昇,輸出価格の下落)とか,切下げ効果が現われるまでにタイム・ラグがある点も指摘されるが,アメリカがドル切下げ後も景気拡大政策を続け,これが切下げ効果を相殺する方向に働いた点が大きい。

そこで,次にアメリカの政策運営について検討することにしよう。

(アメリカの為替政策の変化)

1971年8月,ニクソン大統領はドルの交換性を一時停止したが,これは,アメリカ経済が当時直面していた高水準の失業,インフレ,国際収支の悪化という困難な状態の中でアメリカにとって最も解決を急がれていた失業の解消をはかるため,国際収支面の制約を大幅に軽減しようとするねらいをもっていた。

IMF制度のもとではアメリカは米ドル35ドルと金1オンスの交換を諸外国政府に約束することによって,ドル価値を保証し,みずからはドル買支えの義務が課されなかった。戦後の国際通貨体制はアメリカ経済の絶対的優位から,金にむすびついたドルを中心に形成された。この結果,ドルは基軸通貨として,他の通貨のように自由にレート変更が出来ない重荷をせおわされることになった。

アメリカでは,70年以降,国際収支の大幅な赤字が続くなかで高い失業率とインフレーションの高進という困難な経済状態に直面して,アメリカがおかれている通貨調整面での不利な立場を指摘する声が強まってきた。これが国際収支調整については黒字国の責任に委ね,アメリカは「受動的」態度をとるべきであるとする「善意の無視政策」(beneignneglect)議論である。

1971年のアメリカ経済諮問委員会報告の中でも次のように述べられている。

「アメリカ政府が国内経済をどんなに抑圧し,また個々の国際取引項目について改善もしくは規制する措置をいかにとっても,大半の主要貿易相手国が為替レートを固定し,自国のSDR配分額をも上回る黒字を出せるような国際収支対策を続けるようでは,アメリカの国際収支赤字を解消しえないだろう。」アメリカが基軸通貨国であるという特殊な立場を離れると,アメリカのように海外依存度が低い(GNPの6%程度)国が,国際収支の均衡を維持するため,国内均衡面で多くの犠牲を払うことは必ずしも適切とはいいがたい。

71年8月のドルの交換性停止は,こうした点を背景にして,国際的には依然黒字国の通貨調整が進まず,またアメリカの金保有高が最低線とみられた100億ドルの大台を割りそうになったことから,とられた措置だといえる。

同年12月のスミソニアン通貨調整によってドルは金に対し,7.89%切下げられ,円やマルクの切上げからドルの実効レートはかなりの切下げになった。しかし,アメリカはいぜん失業が多く,拡大政策の姿勢を変えなかった。

この結果,アメリカ経済は72年に6.1%,73年第1四半期8.7%と記録的な高度成長を実現し,失業率も73年初めには5.0%に低下し,物価も物価・所得政策により72年中落ち着いた動きをみせた。

一方,国際収支は前にみたように大幅な赤字を続けた。しかし,73年に入ると,2回目のドル切下げ,73年3月以降の続フロートによるドルの実質切下げによって,貿易収支は顕著な改善を示しつつある。もっとも,これには農産物輸出急増という特殊要因も大きく寄与した。

73年6月末のアメリカ上下両院合同経済委員会,国際経済分科委員会の報告では「IMF加盟国間において国際収支不均衡防止目的の為替レート調整方法,調整時点についての合意がなく,あるいは合意の実施されない現時点においては,変動レートが最善の代案であり,明らかに固定平価にまさっている」と述べている。

(4) ECは共同フロードへ

2月12日のドルの再切下げは,ドルが各国で保有され種々の取引に利用されているだけに,かえって為替市場に不安を呼び,3月1田こは再び大規模なドル売り投機が発生した。

西ドイツをはじめ各国中央銀行は大量のドルを買支えた後,2日,再び市場を閉鎮した。市場閉鎖中,ECと10カ国蔵相会議国の間で数度の会議がもたれ,西ドイツ・マルクを小幅調整した後,イギリス,イタリア,アイルランドを除くEC6ケ国(フランス,西ドイツ,オランダ,ベルギー,ルクセンブルグ,デンマーク)による共同フロートを決定,19日から市場再開とともに実施した。またアメリカは条件付きではあるが,市場介入に原則的に合意した。

ここにスミソニアン合意は,合意がなされてから1年3カ月で完全に崩壊することになった。

EC6ヵ国は共同フロート移行に際し,次の点を確認した。

共同フロート移行に伴いフランス,オランダ等は為替管理を強化し,またノルウェー,スウェーデンも3月19日の市場再開時に共同フロートヘ参加した。

スミソニアン合意以後,国際通貨システムそのものが為替相場弾力化の方向へ進み,73年3月以降フロートヘ移行するなかで,ECのみが72年4月から域内変動幅縮小を実施し,今回も域内通貨の固定相場制を守り,共同してフロートに移行した点は注目される。

(共同フロート移行の背景)

ECが不安定な国際通貨情勢のなかであえて域内固定相場制を守り,共同してフロートしたのは主として次のような事情による。

73年1月下旬のドル危機と大量の投機的短資の流入に対し,各国中央銀行はドルを買支えた。その際西ドイツは為替管理を強化(2月5日)したにもかかわらず,2月2日~9日間に合計59億ドルの買支えを余儀なくされ,短資の大量流入による国内通貨量の膨張が懸念された。またフランスにおいても71年8月にとられた二重相場制が本来,投機的短資の移動を抑制すべきものであったにもかかわらず,十分その機能を果しえなかった。′こうした固定相場制下における投機的短資の流入,それによる国内通貨量の膨張→インフレの激化に対処するためにフロート移行は決定されたといえる。

その際,各国バラバラの単独フロートでなく共同フロートがとられたのは,EC経済・通貨同盟の推進という経済的,政治的要請にもとずくものである。

ECは58年に結成以降,経済・通貨の統合を進めてきた。通貨面では72年4月から域内通貨間の変動幅縮小を実施し,域内通貨間での相互通貨介入を行っている。農業面では67年7月に穀物などにつき域内単一共通価格を適用し,共通農業政策を進めている。また,関税面でも域内関税の撤廃を68年7月に完成するなど統合化を推進してきた。

こうした過程で,域内の経済交流は著しく高まっている。第4-1表はEC各国の域内輸入シェアーの推移を示したものであるが,各国とも貿易を通じた相互依存関係は年々高まり域内貿易は72年末でほぼ5割に達している。

また,世界が米ソの2大国支配から多極化しつつある現在ECが欧州の復権をめざして団結することが,政治的に要請されている面もある。

こうしたEC経済統合推進の上から共同フロートヘ移行したわけだが,この共同フロートは71年2月にEC理事会で採決された「経済・通貨同盟の段階的実現に関する決議案」に則り,EC経済・通貨同盟が最終的にめざしている,①域内通貨の完全な交換性回復,②域内為替変動幅の撤廃,③単一通貨,共同体中央銀行創設による通貨体系の形成へ向けて,これまでの為替変動幅縮小努力を無にさせぬためとられた措置であったといえる。

(共同フロートのメカニズム)

共同フロートは参加通貨間の変動幅を各国中央銀行の介入により2.25%の範囲内に維待して,ドルなど域外の通貨に対してはフロートする。具体的には,共同フロート参加通貨間でそれぞれ変動上下限が設定され,これをもとに複数通貨による市場介入がなされ,2.25%の縮小変動幅が保たれる。なお域内複数通貨介入から生ずる一定期間後の残高の清算を円滑にし,買支え資金など短期資金援助も行う機構として欧州通貨協力基金が73年4月に発足している。

(共同フロートの問題点)

共同フロート当初対ドル相場が安定し順調に機能していた。しかし,6月に巨額のマルク投機が発生,また9月にはマルク買い,フラン売りを中心に小波乱がみられた。この原因は共同フロートの問題点に関連しているため,以下共同フロート発足後の動きを踏まえつつ,共同フロートの問題点を検討してみよう。

第1は,国際通貨のトータルシステムがフロートしているなかで固定相場制を守るグループがあった場合,それは投機の対象となりやすい点である。メカニズム的にいっても対域内では域内通貨変動幅維持のため,これを離脱しそうな通貨には介入措置が講ぜられる。しかし,こうした域内通貨相互間での介入は9月のオランダ・ギルター切上げに伴うフランス・フランへの投機などのように投機的動きを誘発しかねない。しかも介入残高の清算機構である欧州通貨協力基金の運営が,軌道に乗っていないだけに決済に係る信用供与面でも問題がある。さらに対域外では対ドル・フロートとはいうものの,対ドル相場が大きく揺れ動くのを防止するため,当局はドルに対しても介入している。このため介入のやり方によっては投機を招き,投機対象となった強い通貨国は一時的には相変らずドルを買支えざるを得ない。また,こうして特定の通貨が買い進まれた場合,対ドル・レートが高くなるので国際競争力に問題のある通貨は縮小変動幅維持のため大きな負担を強いられることになる(第4-1図)。

第2は,域内各国の経済政策の協調化が十分になされないうちに通貨面が先行している点である。このためECが域内で固定相場制を守り,かつ変動幅を縮小して為替レートの安定を求めているにもかかわらず,その後為替しートが安定していない。たとえば3月,6月のマルク切上げ(3%,5.5%),9月のオランダ・ギルダー切上げ(5%),11月のノルウエー・クローネ切上げ(5%)など域内通貨の微調整がおこなわれた。

9月のオランダ・ギルターの切上げは,共同フロート移行後2度にわたるマルク切上げにより,ドイツとの貿易量の多い(約3割強)オランダとしては相対的切下げとなり輸入インフレが激化したためとられた措置であった。

より長期的には,域内各国の成長率,物価上昇率,金利水準,貿易構造に大きな差異があれば,いずれその格差是正が必要となり,EC経済統合自体の問題点にもかかわってくるといえよう。

(5) 多様化する東南アジア諸国の為替政策

国際通貨制度がフロートヘ移行するなかで,発展途上国はどのような対応をみせているのであろうか。

まず,東南アジアからみよう,これら諸国の対応は,73年2月のドル切下げ,3月以降め世界的なフロートに際して多種多様であった(第4-2表)。

第1に,従来,ドルと行動をともにしてきたタイ,台湾などはドル切下げに一応追随する形をとりながらも全面的に従うのでなく,自国の国際収支,物価動向などをにらみ合わせながら為替レートを決定している。台湾は輸出市場としてアメリカ(約40%),輸入市場として日本(約40%)にそれぞれ大きく依存しているため,アメリカ向け輸出の増勢維持と日本からの輸入価格上昇抑制とのかね合いによって,対ドル・レートを5.26%切上げた。またタイは2月にドルに追随して切下げたが,輸入価格の高騰や対外準備が増大していることを背景に7月,対ドル・レートを4%切上げた。

第2に,シンガポール,マレーシアは同国経済の体質強化によって全く独自の為替政策をとった。72年6月のポンドフロートを契機に,両国はスターリング圏から事実上離脱しドルにリンクしていたが,73年2月には対ドル・レートを切上げ,ついで6月,両国通貨の等価交換を打切るとともにフロート(マレーシアは限定的に上眼のみ介入を撤廃)に踏切った。両国政府はドルの大量流入が続いたこと,さらにシンガポールでは日本や西欧主要国のフロートで実質的には同国通貨が切下げとなり,輸入価格が上昇したことなどをフロート採用の理由としている。

第3に,韓国,フィリピンの場合,輸出促進を重視して,長期にわたり段階的に為替レートを切下げる政策をとっており(韓国は1965年以来,フィリピンは1952~65,および1972年以降),ドル切下げにも追随した。ただし,今回のドル切下げに際し,韓国では日本からの輸入品価格が上昇することをおそれ,対ドルレートを若干切上げることも検討されていると伝えられるが,これは為替政策が輸出促進のみを政策目標としては実施できなくなってきたことを示すものであろう。

第4に,インド,スリランカは従来通り対ポンド・レートを維持し,ポンドとともにフロートしている。両国ともに国際収支状況は思わしくないにもかかわらず,実質的に対ドル・レート切上げを意味するこの措置を続けたのは,伝統的にイギリスとつながりが深いほか,72年の千ばつによる農作物の不作などから,社会不安の種ともなっている消費者物価の上昇を抑制する意図による。

以上のほか,パキスタンでは72年5月の大幅切下げ(56.7%)で輸入価格が高騰したため,今回は平価を据え置き,またインドネシアは輸出競争力の維持を目的としてドルに対し追随切下げを行った。南ベトナムは,これまでも戦時経済の中で幾度となく為替レートの切下げを行ってきたが,今回も米ドルに追随して切下げた。

このように東南アジアでは,今回の通貨調整に対する各国の対応は極めて多様化している。それは東南アジアには,①工業化のかなり進展している国から,全く一次産品にのみ依存している農業国まで存在し,それにともなって国際収支,生産・物価動向などに格差が生じていること,②伝統的に依存してきたアメリカ,イギリスなどの通貨政策に左右されること,③最近では東南アジア諸国の経済に与える日本の影響が増大した結果,日本の動向にも影響されることなど,多くの要因が複雑にからみ合っているからである。

このほかの発展途上国をみると,中近東諸国はほとんどの国が石油収入が潤沢な上,対外準備資産の構成がドルに偏っていないことから平価を据え置き,対ドル・レートを切上げた。

中南米諸国は,国内経済の対米依存度が高いため,ほとんどの国がドルに追随したが,近年驚異的な高度成長を遂げているブラジルは,その豊富な対外準備を考慮して今回対ドル・レートを切上げた。


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