昭和42年

年次世界経済報告

世界景気安定への道

昭和42年12月19日

経済企画庁


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第1部 1966~67年の世界経済

第2章 海外諸国の経済動向

7. 中  国

(1) 1966~67年の経済動向

1)概  況

中国経済は1961年に始まる調整政策によって上昇に転じ,65年の経済規模は後退前の水準にほぼ回復した。また,66年には生産増大と技術革新を目ざした第3次5ヵ年計画(1966~70年)が発足した。そして,66年から67年にかけて農業も豊作に恵まれ,5ヵ年計画も一応好調なすべり出しをみせはじめている。しかし,66年に始まった文化大革命は,党の最高首脳部において二つの路線が対立し,「大衆の意識高揚」を強調し,技術,経済,行政,軍事などの合理性を従属的に考える主流派が穏歩前進を主張する合理主義者に対し深刻な批判運動を全国的な規模で展開するに及んで,生産,流通,輸送など経済的側面にも少なからぬ混迷状態が現われてきた。こうした事態がどのように収捨されるかが,中国経済の当面する最も大きな課題となっている。

第57図 国民所得,工業生産,穀物生産の推移

2)回復期以降の国内経済動向

1952~65年における中国の国内純生産の年平均成長率は3.3%(コーネイル大学劉大中教授の推計)であったが,このような低成長には第57図にも示されるように,60~62年の大幅な経済縮小によって58年から65年までの7年間は実質的な経済成長がみられなかったことに起因している。因みに,ソ連の援助と社会主義工業化の経験とを踏襲して,安定的な経済成長を達成した52~57年の成長率は6.0%(同推計,ただし公表では9.0%)であった。

経済成長過程における60~62年の経済縮小は,主として,58年に展開された大躍進政策による過剰投資によって原料供給力が枯渇し,経済計画のバランスが崩れたこと,また資本蓄積を強化する手段として,社会主義改造の面で組織化が急がれた人民公社制度が,後退せざるを得なかったことなど,計画当局の経済政策上の運営に基因するものであった。

もちろん,中国経済は産業構造上農業生産の占める比重が大きく,農業生産が単に食糧需給の面ばかりではなく,工業原材料や輸出用商品としても重要であり,また財政収入に占める農業税および農業に関連する商業利潤の占める比率も高いところから,農業の豊凶が国民経済の変動に寄与する点は軽視できない。55年および57年の停滞は明らかに農業不凶のもたらすものであった。しかし,60~62年の停滞は農業不作の影響もさることながら,市場機能と刺激措置を全面的に無視した計画当局の政策運営に関連するところが大きい。

ところで,中国経済は61年を底に62年から回復を始めたが,これは天候条件に恵まれて農業生産が好調だったことと相まって,経済発展のための資源配分について農業優先政策がとられたこと,人民公社組織の緩和(公社,生産大隊,生産隊の3級所有制の実施),自留地,自由市場の復活など市場機能が部分的に重視されるようになったこと,賃金体系における出来高払制の再実施など物的刺激措置がふたたび重視されたこと,農業技術の近代化が促進されるようになったことなど,経済政策の上で多くの緩和措置が講じられるようになったためである。

第58図 国民所得,固定投資の変動

こうして63年から経済は上向きに転じ,63年から65年にかけ年平均4~5%(公表実績では7~9%)の経済成長率が達成された。66年から生産増大と技術革新を目ざして第3次5ヵ年計画が発足したが,その後農業生産は順調な回復を示し,66年には前年比5.1%の増産となり,穀物生産も公表によると2億トンに達したと発表されている(香港観測筋では1億8,000万トンと推計)。これは,戦後の最高水準にほぼ近いものである。67年も天候条件に恵まれて夏作(主として小表)および油脂原料は前年比10%の増産となり,稲作もかなりの増産が見込まれている(香港観測筋では,春耕の遅延による稲作の減産を予想している)。しかし,第38表にも示されるように,人口増加率を考えると,65年の国民1人当り穀物消費量(純輸入量をふくめて算定)は57年水準にまだ復帰していない。さらに,文化大革命の影響による輸送停滞によって穀物の全国的な需給調整が困難となり,67年央にはこれまでの長期輸入契約にプラスして,オーストラリアとの間に新たに150万トンの緊急小麦輸入契約(納期6~12月)が締結された。

第36表 中国の主要経済指標

第37表 主要農産物の生産

つぎに工業生産の面では,66年末に文革運動が企業管理面にも及び,企業管理権をめぐる権力斗争が全国的に拡がった。こうした混迷状態は67年4月から8月にかけてーそう強まり,文革の影響は鉄鋼,石炭,石油,機械,繊維,食品工業など主要企業に顕著に現われ始めている。このため北京地区では,4月の工業生産は前月比7%の低下となったが,地方工業都市では生産の停滞はさらに大きいとみられている。また,流通および輸送機構の機能が低下して,農産物や工業原材料および工業製品の需給調整が円滑を欠き,農産物の自由売買など投機行為も一部発生したことが伝えられている。また,文革の影響は農村ではそれほど大きくなかったが,それでも冬季の農閑期に行なわれる水利工事や農機具修理が遅延したこと,輸送停滞による肥料の欠乏,農産物集荷や政府買上げの遅延などが指摘されている。

なお,10月1日の国慶節を契機にして,文革も事態収捨の方向をたどり始めてきた。しかし全国的な事態収捨までには,まだかなりの時日を要する見込みである。

3)対外貿易

中国の対外貿易は1966年に59年のピーク水準にほぼ回復したが,67年は,輸出は停滞気味だが輸入の増勢は続いている。

しかし,市場別にみると61年以降減少に転じた中ソ貿易は,66年にも輸出は前年比36.6%減,輸入は8.5%減と減少が続き,また,67年7月に締結された中ソ貿易協定によると,67年の貿易総額はさらに16%の減少が見込まれている。これに対し,東西貿易は日本および西欧主要国(西ドイツ,イギリス,フランス,イタリア)を中心に著増し,66年には中国の対外貿易の市場構成比で70%前後を東西貿易で占めるようになった。

第59図 貿易の推移

しかし,67年上期に入ると東西貿易の伸びはかなり緩慢となった。とくに,日中貿易は1~10月の前年同期比でみて,中国の輸出12.6%減,中国の輸入13.2%減となり,また中国の輸出はイギリス,西ドイツ,フランスでもそれぞれ前年同期比で減少した。さらに香港向け輸出も,1~7月累計ではやや微増となったものの,月別にみると6月には前月比21%減,7月にも24%減と下げ足を速めている。

このように,中国の東西貿易が主として輸出を中心に増勢鈍化あるいは減少を示しているのは,文化大革命によって生産および輸送が停滞しているためと思われるが,日中貿易の場合は,文革の影響や輸出入価格の低下と同時に,年初の肥料輸入商談の長期化と大豆輸出価格交渉の長期化によって,船積みが遅延した点も影響しているので,下期にはやや回復するものとみられている。しかし,中国の輸入面では,イギリスは反英運動下にもかかわらず好調で,1~7月には船舶,機械,鉄鋼,非鉄金属を中心に前年同期比で64.9%増加し,西ドイツ,イタリアもまた化学肥料,鉄鋼,機械を中心にそれぞれ84.0%以上著増した。

第39表 中国の対外貿易の推移

第40表 中国の対外貿易

なお,67年に入って減少に転じた日中貿易は,取引形態別にみるとLT貿易(日中総合貿易)と友好取引との比重では,LT貿易の比重低下が顕著である。これは,文革の影響によって第2次長期協定の交渉が遅延していることに基因している。また,今回のポンド切下げによって,日本は輸出未決済分について直接的な損失をこうむったほか,今後,中国の外貨保有高の減価,対中国輸出競争の激化などにより日本の輸出環境はーそうきびしさを増そう。

第41表 日本の商品別中国貿易依存度

日本の貿易総額に占める日中貿易の比重は輸出・入ともそれぞれ3.2%(66年)とまだ小さいが,化学肥料,繊維原料など輸出商品および大豆,螢石,塩など輸入商品の特定商品をみると,市場別シェアでかなり高い比重を占めるものもある。

(2) 文化大革命の経済的背景

文化大革命の経済的側面についてみると,「大衆の意識高揚」を強調し経済合理性を従属的に考える主流派と,穏歩前進を主張する合理主義者との間の政策論争をめぐる権力斗争として理解することができる。ところで,この対立二派の経済政策上の争点が明確になり始めたのは,1961年1月の9中全会(中国共産党中央委員会)において,大躍進政策の一応の中止が確認されてからであった。大躍進政策はおもに毛沢東の発想を主軸とした主流派の政策であるが,58年初期にこの政策が定着化するについてはつぎのような経緯があった。

第1に,第1次5ヵ年計画(1953~57年)では,社会主義工業化の型がソ連の経験を取り入れて重工業建設,大規模企業建設に重点をおいた工業化方式が採用された。そして工業化の遂行に当って,ソ連の経済援助が大きぐ寄与した。第1次5ヵ年計画は比較的好調に進展したが,急速な工業生産の増加に比べ農業生産の停滞,ならびに中国特有の過剰人口圧力という「農業と雇用問題」が未解決な問題として残された。そしてこの問題解決には,ソ連の社会主義工業化方式はあまり役に立たないことがわかった。第2に,56年の「スターリン批判」以後,資本主義社会から共産主義社会への過渡期理論に関する中ソ間の基本的論争が発生し,それがやがて国家間の利害上の対立にまで発展して,対ソ経済技術援助の期待もきわめて不安定になった。

以上の結果,58年に始まる第2次5ヵ年計画(1958~62年)では,社会主義建設路線についてソ連方式を捨てて,中国独自の方式(総路線,大躍進,人民公社)が採用されるようになった。

中国の計画当局がまず最初に取り組んだのは,第1に農業生産の安定的成長,第2に過剰人口圧力の回避,第3に技術開発という問題であった。これらの問題解決の方法として,農村人民公社の設立,小企業生産方式の導入,自力更生(自力による近代化)の促進といった諸政策がつぎつぎと実施されていった。

しかし,主として主流派の発想をもとにした「中国独自の社会主義工業化方式」にも運営面で多くの問題点があったようである。問題点とは,第1に,人民公社組織の急速な大規模化,自留地の廃止などにともなって,農民に対する分配が不当に平均主義に陥り,生産に対する刺激が乏しくなったこと,第2に,雇用吸収と生産拡大とを同時にねらって,近代的業種分野にまで拡大された小企業生産方式が,結局は非能率と低品質で採算上問題が生じたこと,第3に,中国の土地条件を無視し,伝統的技術を無視して画一的に展開された新しい農業技術(米作北上化,二毛作化など作物栽培体系の変更と田植機の普及などの機械化)の定着化に成功しなかったことなどである。 こうした問題点に加えて,同時に発生した農業自然災害とソ連の経済技術援助の停止によって,経済活動は全面的に停滞しはじめた。

中国の計画当局は61年1月の9中全会において公式に経済停滞の実情を認め,調整政策の必要性を強調した。そして,政治機構面における中央集中化から地方分散化への動きと平行して,経済・技術面でも合理性を重視した経済調整政策が全国的に浸透し,経済活動は62年を転機として回復に向った。

調整政策のおもな内容をみると,①人民公社制度では組織の細分化を進め,生産・分配決定の基本単位を最終的には20~30戸の村落単位にまで引下げ,また自留地および自由市場など市場機能を一部復活させたこと,②小企業生産方式については,採算性の悪い小企業はすべて整理し,とくに緊急必要性のある業種分野については独自の技術開発の試みが普及しつつあること,③農業増産の面では,作物栽培体系の変更(二毛作,米作北上)と農業近代化が促進されるようになったこと,④農業生産の停滞および人口増による食糧不足に対処して,緊急食糧輸入が開始されたことなどである。

こうした調整政策は,経済発展の機動力を経済の効率化,物的刺激政策の導入など経済合理性にもとずく政策に求めたという点で特徴的である。

しかし,調整政策によって経済活動は回復したものの,都市労働力の還流や,小規模企業が整理されたことによって,膨大な労働力がふたたび農村に沈澱することとなった。中国のように人口過剰で経済発展段階の遅れたところでは,物的刺激政策が経済成長に対してすべて有効的に機能するとは限らない。物的刺激政策の効用はソ連の場合とは明確に異なるであろう。

要するに,中国の経済成長にとってもつとも厄介な「農業および雇用問題」の解決が,これまでに試みられてきた「ソ連方式」,または「中国独自の方式」のいずれの社会主義工業化方式によっても解決できなかったという点に,中国経済の内包する問題の複雑さがある。


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