昭和34年

年次世界経済報告

世界経済の現勢

昭和三四年九月

経済企画庁


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第二部 各  論

第二章 西  欧

第一節 プロローグ

一九五七年末頃から五八年秋までの間に殆どすべての西欧諸国が軽度の景気後退ないし停滞を経験した。その原因の一つは海外不況による輸出の減少にもあつたが,より基本的には五四年以来つづいた旺盛な投資ブームの反動過程として把握すべきであろう。すなわち投資ブームの生産力効果が発現して生産能力が拡張されてきた反面で,総需要はインフレや国際収支難の克服のために採用された引締め措置により伸び悩み,そこに供給と需要とのギャップが過剰設備となつてあらわれ,企業の投資意欲が減退した。それと同時に,ブーム期の物資不足時代に過大な在庫を蓄積した企業が,納期の短縮と需要の伸び悩みで在庫べらしに転じたことが後退の大きな要因となつた。

このように,五七~五八年の西欧景気の後退ないし停滞の主因となつた民間設備投資の減少と在庫べらしは,いわばそれに先行する投資ブームのあと産であつたといえる。そこで五七~五八年における西欧景気後退の性格を知るためには,まずもつて五三年下期以来の西欧ブームの概略を述べておく必要がある。

朝鮮ブーム反動による沈滞期たる一九五二年のあと,交易条件の好転,金融緩和,政府の景気刺激策などにより五三年下期から西欧経済はアメリカ景気の後退をしり目に拡大に転じた。経済拡大を先導したのは主として住宅建築と耐久消費財需要であつた。OEEC諸国の住宅建築は五三年に前年比一六%増,五四年は一三%増加し,耐久消費財支出は五三年と五四年にそれぞれ一五%増加,五五年にも一一%増加した。いずれも戦時中と朝鮮動乱期に抑えられていた延期需要の発現とみることができよう。この住宅建築と耐久消費財を中心とする需要の急速な伸張はやがて(五四年下期頃から)産業設備投資の拡大をひきおこし,ヨーロッパの殆どすべての国が一大投資ブームの波にまきこまれた。OEEC諸国の住宅を除く生産的固定投資は五四年に一〇%増,五五年には一二・四%増加した。なかでも西ドイツの生産的固定投資は五四年に二三%増,五五年に二七%増加,オーストリアのそれは五四年と五五年にそれぞれ三三%の伸張をみせ,イギリスのそれは五四年と五五年に一〇%ずつ伸びた。

こうした投資ブームはもちろん消費需要の増加にうながされた設備拡張のほか,近代化や新製品など技術革新の大波に押されて出現したわけだが,そのほか政府の投資奨励策(金融緩和,建築統制の廃止,特別償却制その他)が大きな役割をはたした点も見のがせない。

政府支出はこの間全く増加せず,とくに国防支出はOEEC全体として五四年は五%,五五年は約七%の減少であつた。したがつて,五三年から五五年にかけての経済拡大は戦後はじめて正常な民間需要の増大によるものであつたということができよう。

こうした各国の国内需要の拡大に加えで五三年以来OEECによる域内貿易の自由化が進行したため(OEEC者国の平均自由化率は五二年末の六五%から五五年末四八六%へ高まつた),欧州内貿易も著しく伸張し,好況が一国から他国へと波及した(域内貿易は五三年に一一%,五四年に一五%,五五年に一三%伸びた)。

アメリカ景気が五三~五四年の後退から立直つて五五年から五六年にかけてブームを謳歌したことも,直接的,間接的に域外諸国からの欧州に対する需要の増大をもたらし,欧州の域外向け輸出も次第に増加した(伸張率は五三年六・四%,五四年九%,五五年七・三%)以上のような五三年下期から五五年上期までの欧州経済の拡大は,拡大の当初に設備や労働力に余裕があつたため,拡大テンポが急速だつたにもかかわらず物価騰貴や国際収支難に見舞われることも比較的少く,いわばインフレを伴わぬ安定的拡大であり,数量景気の時期であつたといえよう。

ところが五五年下期頃から完全雇用に伴つて過大需要の圧力が次第にインフレ的傾向を生み出した。これには固定投資や耐久消費財など最終需要の増大のほか,中間需要たる在庫の大幅な追加が一つの原因となつた。一部の設備や資材,労働力に隘路が現出し,資本財産業の受注高の累増と納期の遅延がおこつた。とくに戦略的な鉄綱と石炭の不足が生産の増大をさまたげ,輸入をふやし,輸出を阻害することで国際収支に圧迫を加えた。物価の騰貴が一般的となり,国際収支難に見舞われる国がふえてきた。各国政府はつぎつぎと引締め政策の採用をよぎなくされた。早くも五四年にはデンマークが,また五五年はじめにはイギリスが引締め政策へ転換したが,五五年下期から五六年中にかけてイタリア,フランス,スイスを除く殆どすべての欧州諸国がなんらかの形で需要抑制措置をとつた。このうちイギリスは五五年下期に国際収支の赤字をきたし,同年秋の追加予算と五六年はじめの金融引締めの強化で国際収支は改善されたが,経済活動は停滞的となつた。西ドイツは国際収支上の問題はなかつたが,国内の物価騰貴抑制のため五五年下期から五六年上期にかけて金融を中心とする引締め政策をとつた。この結果五六年下期から経済の過熱状態もおさまつたが,経済拡大率は急激に低下した(鉱工業生産の増加率は五四年の一二%,五五年の一五%から五六年の七・八%へ)。引締め政策を採用しなかつたフランス,イタリア,スイスを除く他の欧州諸国も同じく五六年中に経済成長率の著しい鈍化を経験し,その結果OEEC諸国全体の実質国民総生産の伸張率は五五年の五・七%から五六年の四・五%へ,鉱工業生産の伸張率は五五年の九・二%から五六年の五%へ低下した。

このような五六年における経済成長率の鈍化は,一つには戦略的部門における設備や労働力の隘路出現もあつたが,主として需要の抑制によりもたらさられたものである。その結果需要インフレの圧力は軽減したが,代つてコスト・インフレの圧力がつよくなつた。

五六年末におけるスエズ危機の発生は,燃料不足とそれによる自動車需要の低下を通じて一時的に欧州の生産増大をチェックしたが,反面では政治不安から思惑的な在庫手当の増加があり,それが五七年はじめに欧州の生産をかなり大幅に上昇させたばかりでなく,輸入価格の上昇が輸入額の膨張に拍車をかけ,とくに対ドル収支が悪化した。

しかし一九五七年中頃までには各国の引締め政策が次第に効果を発揮し,フランスを除く欧州諸国で最終需要の著しい弱化がめだちはじめた。(フランスは五六年中に国際収支の悪化を経験したが,引締め措置がとられ出したのはようやく五七年春からで,それも必ずしも徹底した措置でなかつたため国内需要は容易に衰えず,加えてアルジェリア戦争の負担があつて物価の騰貴と国際収支の悪化は五七年中にむしろ加速化された。)耐久消費財需要の伸びも五六年には著しく鈍化してOEEC全体でわずか四・二%の伸びにとどまつた。これにはイギリスの耐久消費財支出が前年比九%も減少したことが大きな原因となつているが,他の諸国でも伸張率の鈍化がみられた(オーストリアでは五五年の二一%増から五六年の三%増へ,ベルギーでは五五年の六%増から五六年の三%増へ,イタリアでは五五年の五・八%増から五六年の三・八%増へ)。五七年になるとイギリスの耐久消費者需要に回復がみられ,その結果西欧全体としても耐久消費財支出の増勢が若干高まり,五七年の前年比増加率は七%となつた。

耐久消費財を含む個人消費全体の動きをみても,五五年の前年比増加率五・六%から五六年の四・六%,五七年の三・七%へと増勢が鈍化している。このような増勢鈍化の一つの重要な原因は個人貯蓄率の上昇であつて,とくに西ドイツとイギリスの貯蓄率上昇がひびいた。西ドイツでは五七年中に可処分所得の増加分の三分の一が貯蓄された。

住宅以外の生産的固定投資は住宅投資に比べればまだ旺盛であつたが,それでも増勢の鈍化は争えず,五五年の一二・四%増から五六年の七・二%増へ,五七年の四・五%増へと増加率の低下をみせた。のみならずこの五六,五七年における増勢の継続も,その一部は過去の受注の実現によつてもたらされたもので,機械工業受注残高は殆どすべての国で減少した。

以上のように最終需要の増勢が鈍化した反面で,過去における旺盛な投資ブームが次第に生産力効果をあらわして供給能力が著しく拡大されたため,需給状勢も緩和され,五七年年央にはフランスを除く殆どすべての西欧諸国でもはやブーム期にみられたような過大需要の圧力は消滅し,むしろブームの終りを告げる兆候がすでにあらわれはじめていた。

それにもかかわらず同年夏に欧州につよい為替スペキュレーションがおこり,一部の主要国が外貨危機に見舞われた理由は,主として西ドイツとその他欧州諸国,とくにフランスとの収支アンバランスの激化のせいであつた。前述したようにフランスの国際収支は五六年以来悪化をつづけていたし,オランダの国際収支も五六年下期から五七年上期にかけて悪化した。一方西ドイツの国際収支黒字は増加の一途をたどつた。このような西ドイツとその他欧州諸国との収支アンバランスの拡大につれて五七年春頃からマルク引上げの噂がひろまり,欧州全般の為替レート調整を見越したつよい思惑がおこつた。八月に行われたフラン貨の実質的切下げがそれに拍車をかけた。「ホット・マネー」がフランス,イギリス,オランダから西ドイツやアメリカヘ逃避したほか,いわゆるリーズ・アンド・ラグがおこつて西欧の金・外貨準備が西ドイツヘ集中した。西ドイツへの思惑資金の流入額は五八年上期には約二・五億ドルであつたが,第3・四半期には五億ドル以上に達した。五七年第3・四半期に西ドイツの金・外貨準備が八・七億ドルも増加したのに対し,イギリスは五・三億ドルを喪失し,フランスは一億ドル,オランダは一億ドル近くを失つた。

だが同年九月のIMF総会における英・独蔵相の為替レート維持に関する声明とイギリスにおける緊急経済対策(公定歩合七%へ引上げ,銀行貸出制限,資本発行委員会の審査強化,公共投資の削減等),オランダの金融引締め強化(七月と八月に公定歩合引上げ)により,さしもの為替スペキュレーションも終息した。のみならずほぼ同じ頃にはじまつたアメリカの景気後退が国際商品相場と海上運賃の低落傾向に拍車をかけ,ヨーロッパの交易条件が著しく改善された。

このスペキュレーションの終息と交易条件の好転に助けられて西欧諸国の金・外貨準備も五七年,四半期に約九・三億ドルという大幅な増加をみせた(西ドイツを除くOEEC諸国)。

だがそれと同時に西欧諸国の経済活動は停滞から後退へのきざしを見せはじめた。

イギリス,オランダ,ベルギー,ノルウェー,デンマークの鉱工業生産は五七年第4・四半期に低下しはじめ,失業の増大が人々の関心をひきだした。こうしてヨーロッパ経済はゆるやかな後退への傾斜をもちつつ一九五八年を迎えたのである。

第2-1表 OEEC諸国の実質GNPの増減率

第2-2表 OEEC諸国の輸出数量


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