平成8年

年次経済報告

改革が展望を切り開く

平成8年7月

経済企画庁


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第3章 転換期にある日本的経済システム

第2節 雇用システム

我が国の経済発展を振り返るときに,雇用面での慣行や制度的な枠組みが重要な役割を果たしてきたことは疑いない。一般に,年功賃金,長期雇用,企業別組合という点に代表される「日本的システム」が,戦後のキャッチアップ型の経済成長にとって極めて有効に作用してきたとされている。しかし,外的環境の変化の中で,我が国経済が転換点を迎え,既存のシステムが何らかの変化を迫られているなか,雇用システムも例外ではあり得ない。実際,最近では,企業が従来の雇用慣行を見直している,あるいは労働者側がこれまでの就業意識を変化させているなど,雇用面の変化がしばしば指摘される。ただ,全体としてみたとき,雇用システムがどこまで柔軟に変化しているのか,その実態は必ずしも明らかではない。しかも,雇用の場合,その安定性を失うことは失業者を増加させることになりかねず,雇用不安をもたらすような制度変更は,社会的コンセンサスが得られない。もし,「日本的」とされる従来の雇用慣行が,ある程度普遍性を有するならば,今後ともそのメリットの部分はいかされるべきものである。

そこで,本節では,まず,雇用システムにおける「日本的」特徴のうち,年功賃金,長期雇用という点に焦点を当てて,その機能と実態,最近の環境変化を整理し,今後の我が国の雇用システムの在り方を考えてみる。

1. 日本的雇用の特徴と機能

(年功賃金と長期雇用の国際比較)

日本的雇用の特徴として,年功賃金,長期雇用を取り上げることは,今日ではごく一般的となっているが,こうした雇用慣行が我が国に独特のものであるというわけではない。年功賃金,長期雇用は諸外国にもみられ,システムの起源はむしろアメリカに由来するとの考え方もある(平成7年度国民生活白書参照)。それにもかかわらずこれらを「日本的」とするのは,戦後の我が国における個々の制度や慣行が欧米と異なるなか,年功賃金,長期雇用の度合いが諸外国に比べ高くなっているからである。

データの制約から対象年が異なるため,単純に比較することはできないが,この点を概観するために,我が国(94年)とドイツ(72年),イギリス(91年),アメリカ(69年,78年)の賃金プロファイルと勤続年数の構成比を比較してみる( 第3-2-1図 )。まず,賃金プロファイルについてみると,製造業の生産労働者の賃金プロファイルは,ドイツ,イギリス,アメリカが30歳代以降おおむねフラットであるのに対し,我が国は50歳代まで上昇を続けている。また,事務管理等いわゆるホワイトカラーについては,ドイツ,イギリスにおいても30歳代まで,年齢とともに賃金は増加しているが,やはり我が国の賃金カーブは急であり,かつ50歳代まで右上がりとなっている。一方,人口の年齢構成が国によって異なるため,30~44歳に年齢層を限定して勤続年数の構成比を比較すると,事務管理等については,我が国,ドイツともに長期勤続者の割合が高くなっている。他方,生産労働者(アメリカは全労働者)では,いずれの国も長期勤続者の割合が高いが,ドイツ,アメリカではこの年齢層でも勤続2年未満といった直近に転職した人の割合も高くなっている( 第3-2-2図 )。しかも,年功賃金等の雇用慣行は,大企業に限られるものではなく,中小企業においても同じような傾向を見い出すことができる。( 第3-2-3図 )。

(日本的雇用の機能)

年功賃金,長期雇用といったシステムは,我が国に顕著にみられるものであるが,特に長期雇用システムは,雇用の変動を小さくし,社会的な安定をもたらすという意味で,そのメリットは大きい。しかも,こうしたシステムは,社会秩序として望ましいだけではなく,経営者,労働者の双方にとって経済合理的なものであり,一定の普遍性を有する。このことに関して,長期雇用についての議論は,次の3点に整理することができる。

まず,第一点目は,企業内特殊熟練技術の蓄積効果である。労働者が一つの企業に長期間勤続することは,その企業に対する帰属意識が高くなるだけではなく,企業内に蓄積された技術・ノウハウを習得し,それをベースに新たな技術開発や生産性の向上を図ることができる。このことは,企業,労働者の双方にとってプラスである。

第二点目としては,離転職コストの削減が挙げられる。労働者にとって離転職は,蓄積された企業内特殊熟練技術を失うことになり,再就職後に新たな技術習得が求められる。また,企業にとっても,雇用期間が短期間の場合,投資した研修コストが回収できず,一方で新たな研修コストの負担が生じる。さらに,離転職率が高い状況では,必要労働者数量を見込みで確保する必要性から,採用者の数もやや多めに見積もる必要があるため,企業の採用コストも増加する。

第三点目は,監督費用の削減が挙げられる。企業にとっては,長期的に雇用した方が,労働者各人の資質を的確に把握することが可能となり,生産性を高める組織形成が容易である。また,長期雇用を前提にして,労働者の企業に対する帰属意識を高めることは,モラールの向上につながり,監督に要するコストを節減することも可能であろう。

一方,年功賃金については,これを企業内特殊熟練技術の蓄積ととらえることができる。また,累進度の高い賃金体系は,その時々の賃金水準と生産性にかい離があると考えることもできる。この場合,若年時に生産性以下の賃金が支払われ,一定の勤続の後その分の賃金を取り返すような制度であれば,早期退職は抑制される。いずれの考え方に立っても,年功賃金システムは長期雇用システムと密接に結びついている。

また,このように生産性とかい離した年功賃金には,労働者にとって「見えざる出資」と考えることもできる。すなわち,労働者の若年時における低い賃金は,企業に対する「出資」ということができ,企業に相当程度の成長が見込める状況では,極めて有利な資金運用手段となる。企業側も,若年労働者が相対的に多い段階では,安価な資金調達方法として年功賃金システムを利用することが可能である。

なお,年功賃金のメリットとしては,相対的に生活費が増加する時期に賃金も上昇するという生計費保証という側面,企業内選抜を遅らせることで労働者のモラールを長期的に維持するためのインセンティブを付与する効果があること等も指摘されている。

2. 日本的雇用と社会経済環境

年功賃金,長期雇用が普遍的な経済合理性を有しているにもかかわらず,我が国においてこれが特に顕著にみられている。ここでは,こうした日本的雇用をめぐる社会経済環境について考察する。

(人口の年齢構成)

企業が年功賃金制を採ることを容易にしてきた外的条件として通常指摘されることは,戦後の我が国がピラミッド型の年齢別人口構成になっていたという点である。若年労働者は生産性以下の賃金を受け取り,年齢がある程度高くなった段階で生産性と賃金が逆転するといわれているが,この場合,個々の労働者の賃金と生産性の関係は長期的に一致しており,本来,企業にとって人口構成と年功賃金とは関係ない。しかし,人口の高齢化が進み,生産性より高い賃金を支払う高年齢層の比重の高い労働力構成になると,企業にとっては労働力コスト負担感が高まることとなる。

(経済的メカニズム)

まず,企業が雇用者数の変動を抑えながら,労働投入量及びそれにかかるコストを調整するためには,賃金による調整と時間による調整がある。そこで,我が国の鉱工業生産と製造業の一人時間当たり賃金,総労働時間の推移をみると,賃金,時間は鉱工業生産に対応して伸縮的な動きを示し,雇用の安定に寄与していると考えてよいだろう( 第3-2-4図 )。ただ,その相関関係をみると,労働時間と鉱工業生産については高い相関係数を得られるが,賃金との関係は必ずしも明確ではない。また,こうした動きを海外と比較してみると,我が国の賃金は他国に比べて硬直的であるとする分析結果もあり,議論が分かれている( 付注3-2-1 )。

さらに,我が国の労働市場にみられる重要なメカニズムとして,①企業内労働市場における柔軟な配置転換と②非正規労働者による景気循環のバッファー機能を挙げる必要があろう。

このうち,①の配置転換については,我が国の企業内労働市場において,生産労働者,事務労働者ともに,広範囲なジョブ・ローテーションが行われ,多技能労働者が養成されたことが重要である。このような形での人的資本への投資は,長期雇用を維持するために企業が戦略的に考案したものであり,高度な専門家を必要とする分野以外では,これら多技能労働者の配置転換によって,需要の変動に対応できたのである。なお,我が国において,こうしたことが比較的スムーズに行われた理由としては,我が国の労働組合が職能別ではなく企業別に組織されていたことが指摘されている。

一方,②の非正規労働者のバッファー機能として,臨時,日雇やパートといった非正規労働者が好況時に一時的に受入れられ,不況時にはこれら労働者が削減されることによって,労働投入量が調整されるメカニズムを指摘することができる。まず,臨時,日雇労働者の現状をみると,その数は雇用者の約1割に達しており,その変動も常用労働者に比べてかなり大きい( 第3-2-5図 )。ちなみに,その変動も,労働時間同様,鉱工業生産と密接に相関しており,景気変動に感応的であることが分かる( 第3-2-6図 )。また,パートタイム労働者についてみると,勤続期間が短いこと等から,一般の労働者に比べれば,いずれの産業においても賃金が相対的に低く( 第3-2-7表 ),福利厚生の面でも待遇が異なることが多い。

その意味で,ここで検討している日本的雇用システムは,非正規労働者の存在で,正規労働者の雇用の安定が図られてきた面もあり,その外に位置する労働者層に対して相対的に不利となる側面もある。ただ,これまでの我が国では,非正規労働者の失業率は正規労働者より高かったものの,失業期間が短くなっており,深刻な雇用問題となることが少なかったものと考えられる( 第3-2-8図 , 第3-2-9図 )。

なお,マクロの労働分配率をみると,第一次石油危機以降90年ごろまでは,労働分配率がほぼ一定に保たれていたことが分かるが( 第3-2-10図 ),この間にも,景気循環のほか,人口構成の変化等,企業のコスト増になる要因は生じているはずである。このことは,経済全体のパイが拡大するという条件の下では,こうしたコストの増加を企業側が吸収することが可能であったということを示している。持続的成長と日本的雇用の関係を単純に一方向の因果関係でとらえることもできないが,企業家が持続的な経済成長に対する確信が持てるならば,短期的な景気循環に対し,長期的な視点から採用行動を採ることは確かであろう。

(制度的要因)

日本的雇用のうち,特に長期雇用については,我が国における既存の各種制度によって促されている面も強い。以下,我が国の退職金・企業年金制度,フリンジ・ベネフィット,雇用調整助成金制度について議論を整理しよう。

まず,退職金については,我が国の場合,会社都合による退職金に対する自己都合による退職金の比率を年齢別にみてみると,年齢が高くなるにつれその比率は上昇しており,最近時においてもこの傾向に変化はない( 第3-2-11図 )。このことは,若年時に退職するインセンティブを抑制する。

また,我が国の企業年金制度については,厚生年金基金は転職に伴うデメリットをおおむね回避できるように制度改正が図られてきた。ただし,適格退職年金では短期勤続者に年金の受給資格が与えられていないのが現状である。

フリンジ・ベネフィット(現金給与以外の付加給与)についてみると,企業規模別には,大企業と中小企業の間に住宅関連を中心に福祉施設・制度にかなりの格差が存在している( 第3-2-12図 )。転職先の福利厚生が転職元よりも劣るとは限らないが,こうした規模間格差が労働者の大企業から中小企業への転職を抑制し,結果として労働市場全体の柔軟性を低下させていることもあると考えられる。また,中小企業(30~99人)の法定外福利費は,大企業(5000人以上)の3割(91年,労働省「賃金労働時間制度等総合調査報告」)に過ぎず,これが労働者の大企業指向を助長し,中小企業の人材確保を難しくしていることも否定できない。

雇用調整助成金制度は,企業側が長期雇用を維持するに当たって,一定の役割を果たしている。企業は,景気変動に対して,労働投入量を調整する必要に迫られることがあるが,我が国では,同制度の適用を受けることにより,休業手当や賃金等の一部助成がなされることから,企業はレイオフのような対応策を採らず,雇用を維持することができる。ちなみに,雇用調整助成金の指定業種数は,第二次石油危機後の不況期で285業種,円高不況時で165業種,バブル崩壊後で315業種となっている。

3. 最近の動向

日本的雇用システムが今日どの程度変化しているかについて,ここではマクロデータから整理しよう。

(年功賃金の動向)

まず,年功賃金について,94年の賃金プロファイルを10年前の84年と比較してみると,若干ながらカーブの傾きが緩やかになっている( 第3-2-13図 )。そこで賃金プロファイルの傾きがどのように変化したかをみてみると,規模別の比較では,若年層における中堅・中小企業の傾きの低下がやや目立っており,職種別では,例えば,システムエンジニア(SE)や電子計算機オペレータで傾きの変化率が高くなっている( 第3-2-14図 )。また,労働省のアンケート調査によると,年俸制を導入する企業が近年増加しており,業種別では金融保険業の1割以上が年俸制を採用するなど,年俸制は徐々に広がりをみせつつある( 第3-2-15図 )。しかしながら,初めに述べたように,海外との比較では,賃金プロファイルは依然として急であり,職種別でも,自動車組立工のようにほとんど変化のみられない職種もある。また,年俸制についても,さきのアンケート調査によれば,導入企業はなお全産業の4.3%であり,今後導入を予定あるいは検討している企業は3.7%となるなど,今のところ導入企業の割合は小さい。

(勤続年数,中途採用の現状)

次に,勤続年数について,30~34歳と50~54歳の各年齢層毎に規模別でみると( 第3-2-16図 ),高年齢層である後者では,平均勤続年数が伸びており,特に大企業での高齢者の勤務年数の長期化は顕著である。また,比較的若い30~34歳の層については,平均勤続年数が低下しているが,これも,高学歴化に伴い,中・高卒から大卒の労働者が増加した結果,同年齢層における卒業後の勤続年数が短くなったことを表しているものと思われ,最近一部に指摘される若年者の労働移動の増大を特に裏付けていない。

そこで,こうした動きを詳しくみるために,新たに職務に付いた雇用者のうち,他企業からの転職あるいは出向という形で入職した者の比率をとると,90年ごろにその比率が高まったが,足元は低下しており,むしろ配置転換による者の比率が高まっていることが示される( 第3-2-17図 )。さらに,新規採用者に占める中途採用者の比率を5年ごとにみても,89年時点が中途採用比率が高く,足元は低下している( 第3-2-18図 )。これらのことは,一時期指摘された労働移動の活発化が,主としてバブル期における労働力不足を反映した労働者の「ジョブホッピング」的な動き(賃金等労働条件がより良い職場を求めて転職する動き)や企業の大量採用の影響であることを示唆しているといえるであろう。

ただ,中途採用について業種別にみると,以前から中途採用者の比率が高いサービス業では最近時の方が,中途採用が増加している。企業に対するアンケートをみても,中途採用について,「スペシャリスト型人材」志向で今後重視していくとする企業が多く( 第3-2-19図 ),企業が外部労働市場においても,専門的な技術を要する労働者を積極的に採用していこうという姿がうかがえる。また,こうしたことを反映して,中途採用者の標準労働者に対する相対的な賃金水準比率を試算すると,89年から94年にかけて大企業における大卒労働者で増加しているほか,高卒労働者についても,緩やかながら増加の兆しがみられる( 第3-2-20図 )。なお,中堅・中小における大卒の中途採用者は,大企業と比べるとバブル期に相対的にみてかなり高い賃金を得ていたことが確認されるとともに,足元はそれが是正される形となっている。さらに,非正規労働者の活用という点について,例えば,最近では,コンピュータ操作に係る業務等,派遣労働者を積極的に利用するケースも増加している( 第3-2-21図 )。

このようにみてみると,日本的な雇用システムが以前から相対的に緩やかであった一部のサービス業等では更にその傾向を強めていること,コンピュータ関連等比較的専門的な技術を要する労働者を企業外に求める動きがあること等,変化の兆しがみられないわけではない。ただ,これまでのところ,全体としてみればさほど大きな変化ではなく,企業側が既存の雇用を維持しようする努力もあって,中途採用のような動きが抑えられているという面もある。また,第1章4節で述べたような新卒採用の抑制も,雇用システムがさほど変化のないなかで,企業側が雇用面のリストラを行う結果として考えることができる。

4. 日本的雇用の展望

最近の年功賃金カーブ,勤続年数,中途採用の動きは,マクロ的にみれば,以前との差異はそれほど大きくなく,全体としてはなお「日本的」雇用システムが維持されているといってよいであろう。しかし,これまでの雇用システムをめぐる社会経済環境に変化がみられていることも事実である。ここではこうした環境の変化を踏まえ,今後の雇用システムの在り方を展望する。

(環境の変化と影響)

雇用システムをめぐる環境の変化は,おおまかにいえば,①国際環境の変化,②産業構造の変化,③経済システム間の補完関係の変化,④人口の年齢構成の変化,⑤女子労働力率の高まり,⑥ミスマッチの問題にわけて考えることができる。

まず,国際環境の変化については,第2章でみたように,円高の進行と「大競争」と呼ばれる海外市場における競争条件の変化の中で,我が国の労働コストが相対的に極めて高いという点である。企業は労働コストを低下させるために,海外進出,国内部門のリストラで対応しようとしているが,このとき従来からの雇用慣行との両立が必要となる。これまでのところ,企業は新卒採用の抑制といった形で対応しており,急激な雇用調整は回避されているが,関連会社への出向等,事実上,定年まで同一の企業に勤続できないケースは増加している。また,より緩やかな企業の対処法として,高い賃金を得ている高年齢層について,昇給を抑制するという動きもあり,年功賃金制度を揺るがしている。さらに,こうした国際環境の変化の中,企業が我が国経済にかつてのような高成長を想定していないとすれば,企業は新規に採用する雇用者に対しても,長期契約に伴うリスクを低減する必要が出てこよう。

第二点目の産業構造の変化については,上記国際環境の変化とも関連して,①輸出産業を中心とした製造業からサービス関連の非製造業への構造変化と,②キャッチアップ型の労働集約産業から情報化,ソフト化による知識集約産業への構造変化の二つの側面がある。このうち,①の製造業から非製造業という構造変化に対しては,雇用システムの対応方法は多様である。第2章では,所得分配の格差を拡大させながらも雇用を増加させたアメリカ型モデルと高い賃金,手厚い公的所得保障を実現させる一方で高い失業率に苦しむヨーロッパ型モデルという類型化によってこの点を論じた。これに対し,これまでの我が国は,高い賃金を実現しているという意味でヨーロッパ型モデルに近いが,構造失業を大幅に増加させなかった。しかし,こうした背景にはパート比率が上昇しているなど,潜在的に長期雇用に対するプレッシャーが強まっているのは事実である。

また,②の知識集約産業への構造変化については,「日本的雇用システム」の下で企業内に蓄積される特殊熟練技術の意義を変化させているという点で重要である。すなわち,我が国経済に今後求められていくものが,キャッチアップ型のプロセスイノベーションよりも,フロントランナーとしての技術開発であることから,イノベーションのリスクと不確実性が従来よりも格段に高まっている。この結果,企業固有の特殊熟練技術の役割が相対的に低下し,外部労働市場から直接的に専門技術を有した人材を取り入れる方が望ましい場合も存在する。また,インターネット等各種ネットワークの発達の中で情報の共有も進んできており,企業内でしか得られない知識は相対的に減少してきたと考えられる。しかも,新たな産業構造の中求められるフロンティア技術が企業内に蓄積されたチームワークによって達成されるのではなく,企業内外のネットワークを活用する個々人のスキルに求められるとするならば,従来の年功賃金にとらわれないインセンティブを個人ベースで与える必要があり,このとき従来型の年功賃金システムがフロントランナーとしての技術開発にマイナスになることも考えられる。

第三の経済システムの相互補完関係は,本章で繰り返し述べている,金融システム,雇用システム,企業間システムの制度的補完関係の変化である。これは,我が国経済にキャッチアップ過程でみられたような成長が確信できなくなり,従来のように短期ではなく,かなり長期を見据えた相対関係を重視するシステムが相互に変化しているということである。この結果,例えば,最近の金融機関によるリスク選別の強化が企業側に雇用面も含めたリストラの徹底を促し,企業は従来のような年功序列的な日本的雇用を維持できなくなる場合が生じるであろう。また,こうした状況では,新規に採用する雇用者に対しても,企業は長期契約に伴うリスクを低減する必要に迫られる。さらに,持合いによる安定株主は,それほど経営に介入していなかったといわれるが,このことが,日本的雇用を維持した福利厚生施設の整備等いわゆる「従業員重視の経営」につながっていたとするならば,昨今の株式持合い関係見直しの動きは雇用システムにも影響を及ぼし得ると考えられる。

第四の人口の年齢構成の変化については,今後,若年労働者が相対的に不足し,それに伴い若年層の希少性が高まることから,若年層の賃金が相対的により上昇し,年功賃金カーブの形状に影響を与えることが考えられる。労働省の雇用政策研究会の試算によると,2000年の時点では,労働力人口は増加するが,2010年は2000年よりも労働力人口は減少し,特に20代については,大幅な減少が見込まれる( 第3-2-22表 )。

なお,現在の賃金プロファイルを前提としても,企業年金や医療保険等の問題を無視すれば,シミュレーションによって,人口の高齢化自体は労働コストの上昇要因にはならない。これは,年功賃金の下,「団塊の世代」と呼ばれる労働者が今,正に相対的に高い給与を得ていることによるもので,先行き同世代が労働市場から退出することになれば,単純計算ではむしろコスト抑制効果が働く。このことは,換言すれば,中期的には企業にとって,中高齢層の賃金負担よりも若年労働者の不足の方が問題であることを示している。しかしながら,現実の企業の対応は,経営環境が厳しいなかで,新卒採用の抑制といった形で労働コストを軽減させているのが実情である。一方で,こうしたことは,先行きの企業の年齢構成のゆがみをもたらすおそれがあろう。

第五番目に,女子労働力率の高まりも指摘される。よく知られているように,我が国の女子の年齢別の労働力率は,育児等によって労働市場から退出せざるを得なかった25~39歳代が低いM字型であったが,労働力率が全体に上昇するとともに年齢別の形状も徐々に変化する傾向にあり,今後も多くの年齢階級で女子労働力率が高まると見込まれる( 第3-2-23図 )。その際,出産・育児を経た後に再就職を希望する女性が増加すること等により,全体として労働移動が活発化する可能性もあろう。

第六番目に,人口の高齢化や女子労働力率の高まりとも関連して,近年,若年層を中心に労働市場のミスマッチが高まる兆しをみせ,また,高年齢層においてもその動きがみられることも重要である。ミスマッチの問題は,ヨーロッパほど顕在化していないが,我が国においても,①労働者側の就業意識は変化しており,また,②企業の必要とする技能と労働者の提供し得る技能が適合しないという現象が生じている。例えば,第1章第4節でみたように,足元の雇用情勢は依然として厳しいが,新規求人の動きは業種別や職種別によってかなりの差異がみられる(就業意識の変化に関する詳しい内容は平成7年度国民生活白書参照)。

(今後の展望)

以上のような環境の変化に対し,雇用システムを対応させることは容易ではない。また,従来からの雇用システムのメリット,特に長期雇用システムについては依然として一定の経済合理性を有し,社会的な雇用安定効果という点で,その重要性は変わらない。さらに,前述の産業構造の変化といった外的条件の変化に対しても,失業を経ない形で外部労働市場を活用しながら,長期雇用のメリットをいかしていくことは可能である。第3節で述べるとおり,我が国は産業構造の変化に対し,これまで,既存の企業が自ら新規事業に進出するという形で経済のダイナミズムを維持してきた。このことは,雇用面についていえば,産業構造の変化に対し,配置転換によってミスマッチの増加を食い止めるメカニズムが働いたことを意味するわけで,企業内の職業訓練をいかした「日本型モデル」として,一定の評価がなされるべきものであろう。

しかし,雇用システムをめぐる環境の変化によって,その経済効果が変化していることも確かである。また,これまでの雇用システムについて様々な議論がなされている。最近では,一部業種で外部労働市場を積極的に活用しようとする動きもみられるが,一方で,企業が賃金コストの上昇の中で既存の雇用を維持しようとする努力もあって,新卒採用の抑制という形で雇用調整を行っている。こうしたことは,将来の企業経営に対する不安要因となるおそれもある。

重要なことは,長期雇用のメリットをいかし,人的資本の充実を図りながら,個々の条件の変化に対応できる雇用システムを形成していくことである。具体的には,個々の企業が賃金制度をより柔軟にする必要があろう。また,ストックオプションの活用の是非を含め,新たな労働インセンティブの付与も検討に値しよう。さらに,内部労働市場と外部労働市場の間の垣根をなくす,すなわち,参入しやすく転出しやすい労働市場を確立するための諸施策,例えば,福利厚生の規模間格差の是正,退職金制度等における労働移動への中立性の確保,今後労働力率が高まると見込まれる女性労働力の活用や労働力需給調整機能の強化等によって,企業,労働者双方にとっての選択肢を増加させることが必要である。


コラム

ストックオプション

企業で働く人々に対するインセンティブとして,ストックオプションが注目されている。ストックオプションとは,一定数の株式を一定の価格で会社から買い受けることができる権利で,通常はその行使期間を定めて役員や従業員に与えられる。ストックオプションを有するものは,株式の買取価格よりも株価が高い場合に,権利を行使して株式を会社から買取り,第三者に売却することでキャピタルゲインを得ることができる。会社の業績が良く,株価が高くなればなるほど得られるキャピタルゲインは大きくなるため,役員や従業員に対する強いインセンティブとなる。また,十分な資金に恵まれてはいないが将来性の高い企業における人材確保の手段としても有用である。

このようなストックオプションは,諸外国では利用が進んでいるが,我が国では法制度上の制約もあり,活用されてこなかった。法制度上の制約とは,ストックオプションの行使に際して企業が行うべき「第三者に対する新株の有利発行」又は「自己株式の取得」に関する次のような商法上の規制であり,特にストックオプションの行使期間が6か月に制限される点が問題となってきた。

①第三者に対する新株の有利発行については(商法280条の2),株主総会の特別決議を経て,6か月以内に払込みが必要とされる。さらに特別決議の後,新株の発行があると,特別決議が無効となる。

②自己株式の取得については(商法210条の2),取得できる株式数が発行済み株式数の3%を越えられず,また6か月以内に使用人(役員を含まない)に譲渡しなければならない。

そこで,新規事業法(特定新規事業実施円滑化臨時措置法)では,一定の条件の下に特例(特別決議の有効期間を10年とする等)を認め,第三者に対する新株の有利発行によるストックオプションを導入した。さらに最近では,新規事業法の対象とならない企業においても,ワラント(新株引受権)を利用して疑似的なストックオプションを導入する例がみられるようになっている。