平成8年

年次経済報告

改革が展望を切り開く

平成8年7月

経済企画庁


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第1章 今回の景気局面の評価

第10節 ディスインフレ

(デフレスパイラルはなぜ避けられたか)

95年においては,長期化した低成長と下落傾向の物価から,経済がこのまま沈滞して物価も生産も低下を続けるデフレーションに陥ってしまうのではないかということが盛んに議論された。特に,年央には,急激な円高や株安,景気が再度後退することへの危ぐ等からデフレスパイラルに陥る懸念が生じた。

しかし,その後,円高是正とともに株価や生産も回復し,物価が前年比マイナスを続ける一方でデフレスパイラルに陥ることは避けられた。ここでその要因を整理してみると,次のような点が指摘できるであろう。

第一に,機敏なマクロ経済政策が挙げられる。公定歩合は史上最低水準へ引き下げられ,財政政策についても公共投資の積み増しが行われた。これらは景気下支え効果を発揮したといってよかろう。ただし,第7節,第8節で検討したように,金融政策の効果は円高等にマスクされてやや不確実なものであったし,財政政策も経済の落ち込みを完全には相殺することはできなかった。

第二に,ディスインフレのマイナス効果は,懸念されていたほど大きくなかったといえるであろう。一つは,貨幣錯覚や資産効果を通じた消費へのマイナス効果は第2節で検討したように景気回復を反転させるほど大きいものではなかった。もう一つは,価格破壊を背景とした微増収・増益という戦後初めてのパターンは,個別の企業にとっては厳しい調整を強いたものの,結果としてはある程度持続可能性を持っていた。この点については,後に再び取り上げる。最後に,大企業のリストラのあおりでマイナスの影響が出ていた中小企業の収益にも,大企業から始まった明るさがしだいに浸透し始めている。

第三に,90年代における低成長・ディスインフレは,経済構造が過去と全く異なったものとなったために生じたのではないかという懸念は当たらなかった。こうした懸念の例としては,経済は構造的に低成長しか実現できなくなった,あるいは消費が将来に対する悲観的見方から構造的に停滞した等が挙げられよう。しかし,総供給曲線や総需要曲線は構造的なシフトを示しておらず,潜在成長力や需要構造が劇的に変化したとみることはできない。この点については,後に詳しく検討する。

(微増収・増益パターンの持続可能性)

平成7年度年次経済報告においては,今回景気回復局面においては売上がそれほど増えないなかで企業収益が増加していることを指摘し,このような微増収・増益というパターンは過去に例をみなかったことであり,企業のリストラの推進によって売上が予想の範囲内で緩やかに増加する限り利益を出せる収益構造に変わってきているとしている( 第1-10-1図 )。

第1節でみたように(前掲 第1-1-15図 ),企業収益の増加要因としては,製造業では,景気回復初期には円高による交易条件の改善による変動費の節約,最近では,人件費抑制や設備投資抑制による減価償却費の圧縮が売上高経常利益率の上昇に貢献している。非製造業では,一貫して金融費用の圧縮の効果が大きく,最近では,設備投資の抑制による減価償却費の削減がプラスに寄与している。

以上のように,企業の収益体質の強化のみに頼ることは困難な面があるものの,円高メリットに加えて,人件費抑制や債務減少及び金利低下(金融費用の圧縮),設備投資抑制(減価償却費の縮小)等のリストラが企業の収益体質の改善に寄与しているといえるであろう。

(総需要曲線・総供給曲線の動き)

90年代における低成長・ディスインフレが過去と断絶した経済構造の変化によるものかどうかを,総需要・総供給関数に構造変化がみられるかどうかによりチェックする。例えば,総需要関数の定数項が低下していれば,価格等の条件が一定の場合であっても需要は減少することになり,総供給関数の定数項が上昇していれば,価格等の条件が一定であっても供給は増加することになる。いずれの場合にも超過供給が生じるが,一般的に,総需要曲線の下方シフトは経済活動の縮小をもたらすデフレ的なものであるのに対し,総供給曲線の下方シフトは経済の活性化をもたらすものであると理解されている。また,90年代に総需要の価格弾力性や総供給の価格弾力性が大きく低下していたとすれば,価格が低下した時に需要があまり増加せず,供給もあまり減少しないことから超過供給がなかなか縮小せず,デフレ的状況が長引くという可能性があるだろう。

推計結果をみると( 第1-10-2表 ),90年代に総供給曲線の係数に若干の変化がみられるものの総じて両曲線の係数には大きな変化はみられない。したがって,この時期に物価と生産・需要に関する経済構造が顕著に変化して経済が超過供給に陥ったとは考えられない。これは,ネガティブな意味で需要不足からデフレになったといえないとともに,ポジティブな意味で供給面の改善が顕著に進んだということもいえないということである。いわば,90年代の低成長とディスインフレは通常のパターンをたどった面が大きいといえる。ただし,輸出や輸入価格,あるいは単位労働コスト等の外生変数の変化により総需要曲線,総供給曲線がシフトしており,こうした変化の中には以下のような構造的要因も大きく作用していたと考えられる。

輸出については,例えば円高の直接的な需要効果に加え,それに対応した生産の海外拠点へのシフトなど構造的な動きが指摘できる。また,輸入価格については,円高や海外とりわけアジア新興諸国の生産能力の拡大等の影響が考えられる。さらに,単位労働コストについては,流通部門の効率化等による生産性の上昇や企業の人件費抑制といった要因を指摘できるであろう。

いずれにしろ,90年代の物価と需要・供給の動きは,国内経済構造がデフレ的な悪循環に陥ったり,逆に,供給構造が突如目覚ましい改善を示したことによるものではなくて,円高や世界的な生産構造の変化によるものであると考えられるであろう。日本経済はこうした国際的な構造変化に対応することを求められており,その詳しい考察は第2章において行われる。

(フィリップス曲線・オークン係数の動き)

前項で,90年代の国内経済構造はそれほど変化していなかった可能性が強いことを指摘したが,この点をフィリップス曲線及びオークン係数の動きを検証することによって確認してみよう。

フィリップス曲線とは,失業率と物価上昇率との関係を表す曲線で,失業率が低下した場合にどれだけ物価が上昇するかを示している。オークン係数とは,生産と失業率との関係を表すもので,生産が増えた時にどれだけ失業率が減少するかを示す。すなわち,フィリップス曲線とオークン係数を組み合わせることによって,生産と物価の関係を2つの部分に分けて考察することができる。この関係を図示すると, 第1-10-3図 のようになる。

まず,フィリップス曲線を5年ごとに区切って推計してみると( 第1-10-4図 ),統計的な結果が必ずしも良好でない点に留意する必要があるが,90年代に特段大きなシフトはみられない。80年代後半とほとんど同じカーブの上を動いているものと考えられる。次にオークン係数をやはり5年ごとに推計してみると( 第1-10-5表 ),我が国の場合,期間の取り方によってオークン係数の値が大きく変動する点等留意する必要があるが,実質GDPが変化した時の雇用の変化率(β)は90年代にやや低下しており,成長率の低下に比べて雇用の減少幅は小さく,循環的な雇用保蔵が生じた可能性を示唆している。興味深いことに,成長率の実績が対照的といってよいほど異なっていた80年代後半と90年代前半では潜在成長率と解釈される数値が若干低下したが,実際の成長率の低下ほど低下していない。これは,90年代の低成長が日本経済の構造的な成長率屈折によるものだとする見解とは相いれない結果である。足元の状況は循環的な景気回復を十分可能とするものであるといえるであろう。ただし,このことは,日本経済が現在の経済構造のままで将来も順調な経済成長ができるということを必ずしも意味するものではなく,根本的な産業構造の変化,経済システムの見直しが必要とされていることは忘れてはならない重要な課題である。こうした中長期的課題については,第2章及び第3章で詳しく分析する。

(経済に対するショックの大きさ)

これまで,90年代の低成長は,突如経済構造が顕著に変化したことによるというよりはある種のショックによって生じたことを指摘してきた。そこで,そうしたショックがどのくらいの大きさであったのかを時系列的手法で検討した。はじめに,各需要項目に生じたショックがどれだけ経済成長率をかく乱させたかをみてみると( 第1-10-6図 ),まず91年半ばに設備投資や住宅投資にマイナスのショックが生じて成長率を下振れさせたことが分かる。これは金融引締めの影響を受けたものであるとみられる。次に92年から95年初めにかけて設備投資に持続的に大きなショックが生じたことに加え,輸入に比較的大きなショックが生じた。また,94年後半から95年初めにかけては,公共投資が比較的大きなマイナスの影響を及ぼしている。95年4~6月期以降成長率はむしろ上振れしているが,これには,個人消費,少し遅れて公共投資,更に後には設備投資,住宅投資がプラスに寄与している。

もう一つ,為替,マネーサプライ,金利,物価の影響をみてみると( 第1-10-7図 ),経済成長率は93年以降3%程度下振れしているが,最も大きな影響があったのはマネーサプライに生じたショックであり,次いで為替に生じたショックとなっている。マネーサプライに生じたショックが,貨幣需要のショックによるものか貨幣供給のショックによるものかはこのモデルでは識別できていないが,第9節の検討からすれば設備投資の不振など貨幣需要の低迷による部分が大きかったものと推測される。また,為替レートに生じたショックは,第3節でみたように設備投資に大きな影響を与え,経済成長に対して大きな影響を持ったといえる。