平成6年

年次経済報告

厳しい調整を越えて新たなフロンティアへ

平成6年7月26日

経済企画庁


[前節] [目次] [年度リスト]

第2章 景気後退の特徴点と長期化の背景

第4節 ディスインフレーションの進行

今回の景気後退過程での大きな特徴の一つは,物価の上昇率が低下し,名目成長率が大幅に低下したことである。こうした物価上昇率の低下は,景気後退に伴い需給が緩和すれば,ある意味では当然みられる現象であり,今回に限ったことではない。

今回こうした物価上昇率の低下が一般的にも大きな関心を集めているのは,①その低下幅が大きく,経済全体にも様々な影響を及ぼしていること,②その背景に循環的要因のほかに構造的な要因が考えられること,③物価全般の上昇率の鈍化にとどまらず,個別品目ごとの価格水準の引下げにまで進んでいること,などが背景にあると考えられる。

本節では,まず,こうした物価の上昇率の低下(ここでは,上記の背景整理も踏まえて,物価上昇率が低下していく現象を捉えてディスインフレーション,以下ディスインフレと呼んでいる)の状況をみた後,それがもたらされた理由,さらにはそれが実体経済に及ぼす影響について検討する。

1. ディスインフレの進行と名目成長率の低下

(ディスインフレの状況)

まず,各種物価指標の動きをみることによって,ディスインフレの状況を概観しておこう。

国内卸売物価の最近の推移をみると,91年前半に前月比で下落ないし保合いに転じ,94年前半に至るまで下落基調で推移している。下落率については,円高の影響が大きかった円高不況期には及ばないものの,期間という点では,これだけ長期間にわたって国内卸売物価が下落を続けたのは,60年に統計を作成以来初めてのことである。

近年の国内卸売物価の動きを主な類別の寄与度でみると( 第2-4-1図 ),93年以降は,製材・木製品以外のほとんどの品目が下落に寄与している(製材・木製品の上昇は海外産地での丸太伐採規制による)。

消費者物価については,今回の景気上昇・後退の局面を通じて基調としては安定した状態が続くなかで,91年以降さらに上昇率は緩やかに鈍化してきている。93年度の消費者物価上昇率は1.2%となり,安定基調が一層強まった。

こうした消費者物価の動きを費目別に寄与度分解したのが 第2-4-2図 である。これをみると,①生鮮食品は天候の影響などにより大きな変動を繰り返すなかで,②サービス,「その他一般商品」の上昇率が鈍化し,③耐久消費財,繊維製品については価格が低下するという形で全体としての消費者物価が安定傾向を続けていることが分かる。このうち,サービスはコストに占める人件費の割合が高いことなどから景気後退局面でも上昇を続けるのがこれまで一般的であったが,今回の場合は個人サービスが88年度以来の低い伸びとなるなど総じて上昇率の鈍化がみられる。また,繊維製品や耐久消費財の価格低下の動きは,いわゆる「価格破壊」と呼ばれる商品の低価格化が拡がっていることを示しており,消費の低迷,消費者の価格志向,低価格品の輸入増などの動きを反映している。

(消費者物価指数と実感との差)

消費者物価指数の状況は前述のとおりであるが,現実に値下がりしている品目も多いことから,「現実の物価は消費者物価指数でみる以上に下落しているのではないか」,「消費者物価指数の推移は実感とかなり差があるのではないか」,という指摘もみられる。

そこで,現実に消費者が購入している価格の変化をみるために,総務庁「家計調査」によって,被服および履物,耐久財の購入単価(購入金額を購入数量で割ったもの)を求め,これを消費者物価指数の対応品目と対比してみたのが 第2-4-3表 である。これをみると,現実の購入単価は消費者物価指数でみるよりもずっと下落していることが分かる。

したがって,「価格破壊」の拡がりなどにより,現実に消費者が購入している品目の価格は,消費者物価指数でみるよりも下落していることは事実だといえる。

しかし,この購入単価と消費者物価指数との比較については,次のような点に注意する必要がある。

第一は,こうした現象は,過去の景気後退期にもみられたことであり,したがってこれをとらえて今回の「特殊な現象」だと考えるのは適当ではないということである。前述の耐久財と被服及び履物について,購入単価と消費者物価指数の変化率を比べ,両者のかい離がどのように推移してきたかをみたのが 第2-4-4図 である。これによれば,今回程度のかい離は過去にも生じていることが分かる。また,総じていえば,景気後退期には購入単価が消費者物価指数以上に下がり,両者のかい離はマイナス方向に開く傾向がある(なぜそうなるかは,次の第二の点と関連してくる)。

第二は,こうしたかい離があるからといって,「消費者物価指数が実態を現していない」,「購入単価が実態に見合っている」,などと単純に考えることはできないということである。いうまでもなく,消費者物価指数と購入単価は性格が異なる。消費者物価指数は,特定時点で固定された商品・サービスのバスケットの価格の変化をみる必要があるので,テレビ,背広などの特定の品目ごとに,例えば,テレビなら21型,背広ならシングル・並み型といった形で銘柄を指定した上で,調査対象店舗においてその価格変動を調べている。これに対して,家計調査の購入単価は,購入した商品の質的な差,銘柄の差及び購入店舗などを考慮せず,単純に購入金額を数量で割ったものである。したがって,景気後退期に予算制約の厳しくなった家計が,より低位の銘柄(ぜいたく度の低い商品)を購入するようになると,消費者物価指数は変化しなくても購入単価が下がることになる。こう考えてくると,両者のかい離が拡大しているということは,「景気の低迷が長期化し,家計の所得が伸び悩むなかで,家計がいかに従来の商品選択パターンを変えることによってこれに対応しているか」,又は,「そうした家計の選択の変化に,企業がいかに弾力的に対応しているか」を示しているといえよう。

(名目成長率の低下)

経済の議論の多くは実質値を基に行われるが,現実の企業,家計は名目値の世界で経済活動を営んでいる。名目値でみる経済は,実質値でみる経済に物価を重ね合わせたものである。今回の景気後退局面では,実質値でみる経済が停滞を続けるなかで,上記のように物価がディスインフレ状態を続け,名目値でみた経済活動は稀にみる落ち込みを示すことになった。

こうした状況は,名目成長率の低下に端的に現れている。名目GDPの成長率は,92年度2.1%の後,93年度には0.8%となった。名目成長率は,戦前の昭和恐慌(1929~31年)のときにマイナスになったことはあるが,戦後もっとも低かったのが,円高不況期の86年度の4.4%であったことをみても,今回の名目成長率の低下がいかに大きいかが分かる( 第2-4-5図 )。

名目GDP(正確には名目GNP)の変化は,経済全体の名目所得の変化に見合っている。したがって,名目GDPの伸びが歴史的にみても非常に低水準であるということは,企業,家計の名目所得の伸びもまた歴史的にみて非常に低かったということを示している。こうした観点から,大蔵省「法人企業統計季報」により,企業の売上高の伸びの長期的な推移をみると,景気後退に伴う販売数量の低迷に加えて,販売単価が下落しているため,92年第2四半期以降,93年第4四半期まで前年比でマイナス成長が続いていた。企業の売上高がこれほど長期にわたって前年を下回っていたのは,調査開始(50年)以来初めてのことである( 第2-4-6図① )。また,同様に家計の名目所得の長期的な推移をみると,労働省「毎月勤労統計調査」による一人当たり現金給与総額(事業所規模30人以上)の伸び率は,92年以降,所定外給与の減少やベア,ボーナスの低い伸びを反映して大きく低下してきており,93年度では前年度比1.0%と,70年の調査開始以来の低い伸びとなっている( 同図② )。

こうした名目成長率の姿が,経済的にみて過去に例をみないほど低いことは,名目成長率と名目金利との対比からも明らかである。 第2-4-7図 は,名目GDPの成長率と長期金利を比較したものである。これによると,今回の景気後退局面では,金利が成長率を上回っており,そのかい離が拡大しつつある。過去をみても,こうした逆転はあまり例がなく,長期国債の大量発行に伴って長期金利が高止まりしていた81~83年に例外的にみられるだけである。こうした成長率と金利の逆転現象の下では,債務残高の増加率(既存の残高×金利)が所得の増加率(前期の所得×名目成長率)を上回ることになるので,このまま推移すれば,企業,家計,政府の債務残高が対所得比で上昇し続けることになる。こうした状況では,債務者が破産を免れようとすれば,所得を実物支出に充てるよりも,優先的に債務返済という後ろ向きの支出に振り向けようとするインセンティブが働く可能性がある。こうした名目成長率と名目金利との関係は,バブル崩壊後のバランスシートが悪化している経済主体にとっては厳しい調整が迫られていることを示唆しているといえよう。

2. ディスインフレの背景

(ディスインフレ要因の整理)

こうしたディスインフレの進行はいかにしてもたらされたのか。この要因を考えるに当たっては,二つの次元からの区別が重要となる。

その一つは,「ホームメード・ディスインフレ要因」(国内に原因がある場合)と「輸入ディスインフレ要因」(海外との関係で発生してくる場合)との区別である。この点は,ディスインフレの影響を考える上で重要となる。ホームメード・ディスインフレの場合は,「誰かが支払うことは,誰かが受け取ることである」という関係が国内で完結しているから,ディスインフレによって物価上昇率が低下した場合には,国内の誰かの名目所得の伸びが低下しているので,生産性の上昇等がなければ基本的には実質所得への影響は中立的である。これに対して,輸入コストの低下の波及などによって輸入ディスインフレが生じた場合は,「国内の誰かの支払いが,海外の誰かの受け取り」という関係となるため,国内販売価格が輸入コストの低下分しか低下しないような場合には,物価上昇率が低下しても,国内では誰も名目所得の伸びが低下しないというケースが発生し,実質所得を増加させることになる(この場合,海外の誰かの名目所得の伸びが低下している)。

もう一つは,「景気変動による需給ギャップの拡大によるもの(短期的・循環的)」か「長期的に継続する生産性の上昇,経済の効率化によるもの(長期的・構造的)」かという区別である。前者の場合,景気が悪化して需給ギャップが拡大することがディスインフレをもたらしているのだから,基本的には一時的なものであり,景気が拡大すればもとに戻ることになる。後者の場合は,例えば,流通部門の効率化など,永続的な生産性の上昇によって生じたディスインフレであれば,長期的に継続することが期待され,生産性の上昇による実質所得の上昇が期待できることになる。

こうした二つの区分によって整理してみると,近年のディスインフレ要因としては,次の四つが考えられる。

第一は,「短期的・循環的なホームメード・ディスインフレ要因」である。今回の場合に則して考えると,景気後退が長期化するなかで,需給ギャップが拡大したことや,企業収益,労働需給が悪化して賃金上昇率が低下したことなどがある。

第二は,「短期的・循環的な輸入ディスインフレ要因」である。今回の場合は,円高の進行が,輸入コストの低下をもたらして,物価の強い安定化要因となったことは,既に第1章でみた。

第三は,「長期的・構造的なホームメード・ディスインフレ要因」である。今回の場合では,ディスカウンターによる価格破壊に象徴される流通業の効率化が進行していること,その背景として消費者の消費スタイル(節約意識,価格志向の強まり)が構造的に変化していることなどがある。

第四は,「長期的・構造的な輸入ディスインフレ要因」である。今回の場合は,アジア経済圏との水平分業の高まりの中で,安価な輸入品の供給圧力が強まっていることなどがある。

以下では,それぞれの要因について検討していく。その際,短期的・循環的要因と長期的・構造的要因の区別はいうべくしてなかなか難しいということに注意する必要がある。例えば,以下では,流通構造の変化,消費者意識の変化は長期的要因という整理をしており,一般にもそのように受け取られる場合が多いが,所得面での制約が厳しくなってくると消費者行動が節約志向,価格志向になるのはある意味では当然だともいえるし(だとすれば,所得上昇率が高まれば,節約志向,価格志向の度合いは小さくなるだろう),そうした状況の下では,低価格を売り物にした流通業者がシェアを伸ばすのも当然だといえる(だとすれば,今後所得上昇率が高まり始めてからも,ディスカウンターがシェアを伸ばし続けるかは疑問だということになる)。企業の側も,需給ギャップが大きく,インフレ期待が鎮静化している状況の下では,売上げを伸ばすには価格を下げるしかない状況に追い込まれているとも考えられるのである。

(ディスインフレ要因の定量的把握)

最初に,こうしたディスインフレ要因がどの程度作用してきたかを定量的に把握するために,工業製品価格の変動を国内卸売物価,消費者物価のそれぞれについて,需給要因,輸入数量,輸入価格要因等で要因分解してみたのが 第2-4-8図 である。

これに基づいて考えると,まず,国内卸売物価は91年以降上昇率が鈍化し,92年以降は前年比のマイナス幅が大きくなっているが,これは,①景気後退の長期化による需給ギャップが拡大するなかで,需給緩和要因(稼働率)が,92年以降一貫して物価の押し下げ要因として作用してきたこと,②93年以降は,円高の進行によって,輸入物価のマイナス寄与が次第に拡大していること,③輸入数量の増加が93年第4四半期以降,価格引下げに効き始めていること,などによるものである。

同様に,工業製品消費者物価は,91年後半以降上昇率が鈍化し続け,93年第4四半期にはマイナスとなったが,これは,①工業製品卸売物価の安定が次第に消費者物価段階に波及してきたこと,②賃金上昇率の鈍化を反映して,労働コスト要因も上昇率押し下げ要因となっていたこと,③円高の影響によって,輸入物価の下落,輸入数量の増加が次第に大きな価格引下げ要因となったこと,などによるものであることが分かる。

以上のような点からみて,近年におけるディスインフレには,景気後退の長期化による需給の緩和,賃金上昇率の低下などが大きく影響しているが,これに加えて93年以降は,円高に伴う輸入物価の下落や輸入数量の増加の影響が徐々に現れ始めていることが分かる。

円高の物価への影響については既に,第1章でみたので,以下では,残されたディスインフレ要因として,製品輸入の国内市場への浸透と流通構造の変化と消費者意識の変化について述べよう。

なお,現実の消費者の購入単価が消費者物価よりも更に大きく下落していることは既にみた。そこで,この購入単価の下落がどの程度従来型の関数によって説明できるかをチェックしてみたのが, 第2-4-9図 である。ここでは,価格破壊がかなり浸透しているとみられる衣料品について,消費者物価を家計調査ベースの購入単価の下落率に置き換えて,上記と同様の要因分解を行った。これによると,92年以降については,現実の購入単価が,賃金,需給,輸入物価などから説明される以上に下落していることが分かる。このことからは,近年の購入単価の下落には,単なる景気要因,円高などの輸入要因だけではなく,消費者の価格志向の高まり,流通の効率化など,長期的・構造的な要因が作用している可能性もあると考えられる。

(輸入数量の増加が物価に及ぼす影響)

次に,近年の輸入品の日本市場への浸透が物価にどう影響してきているかをみよう。今回の円高に加えて,アジア経済圏との水平分業の高まりを背景に,製品輸入が急増し,日本市場への輸入品の浸透度が高まってきたことは既に第1章第9節でみた。

こうした輸入品の増加が,品目別の物価上昇率にどのように影響したかをみるため,輸入浸透度の変化と国内卸売物価の変化を対応させてみると,電気機械,繊維等では輸入浸透度が上昇するなかで,物価が低下しており,輸入圧力が強かったことをうかがわせる。一方,非鉄金属,鉄鋼などについては,輸入浸透度がほとんど変化しなかったにもかかわらず,価格が大きく低下しており,こうした品目については需給緩和要因や輸入物価下落要因の方が,価格に影響していることを示している( 第2-4-10図 )。

(流通構造の変化)

次に,流通構造の変化が物価に及ぼした影響をみよう。

近年のディスインフレの背景として考えられる流通構造面での変化としては,①ディスカウンターに代表される新たな市場参入者が増加して,中間コストの圧縮を武器に安価でニーズに則した商品を消費者に提供するようになったこと,②こうした新規参入企業との競争の高まりのなかで,既存の流通業者も,卸段階数の削減や,マージン率の圧縮を通じて,安価で良質な商品を消費者に提供しようとし始めていることなどがある。

こうした流通構造の変化には,最近の規制緩和(例えば大規模店舗法の見直しによる出店調整や営業時間の弾力化)によって新規参入が容易になってきていること,流通業者が,内外価格差を背景とした消費者の価格志向の強まりを認識するようになってきていること,なども影響していると考えられる。

まず,新規参入者の増加による競争の高まりについてみよう。ディスカウント店の最近の出店状況をディスカウントストア調査(日本経済新聞社「日経流通新聞」)でみると,景気後退の中でも,91年5.1%,92年8.6%と堅調に増加してきており,この間,大型小売店(百貨店+スーパー)の店舗数がほぼ横ばい(91年3.0%,92年0.9%)であったことと対照的である。こうして増加し続けているディスカウント店の売上を既存の業態と比較すると,大型小売店の売上が91年以降鈍化し,うち百貨店では92年以降前年割れとなる一方,ディスカウント店では売上を順調に伸ばしてきている( 第2-4-11表 )。

こうした新たな市場参加者の増加は,それ自身がより効率的な流通を実現しているわけであるが,さらに,こうした新規参入の動きが刺激となって,既存の流通業者も一段と効率化を迫られるようになっており,こうした動きが総合されて経済全体の流通の効率化が進展していることが重要である。もちろん,流通業においてこうした効率化がこれまでも図られてきたことは,消費財に係わる卸売業の卸段階数(総販売額が,販売額から業者間取引等を除いた額の何倍に相当するかをみたもの)が,85年以降データが明らかな91年まで,低下傾向をたどっていることにも現れている( 第2-4-12図① )。ただし,最近みられる流通業における効率化の動きは,まだ商業統計表でみる卸段階数や産業連関表でみる流通業のマージンといった統計で確認することはできない。そこでここでは,卸売業と小売業における実質売上高の伸び率をみてみよう( 同図② )。これは,名目の売上高をそれぞれ総合卸売物価,消費者物価(商品)でデフレートしたもので販売数量の概念に近い。これをみると,92年以降,小売業に比較しても卸売業における実質売上高の低迷が顕著であり,卸段階の効率化を図る過程で,卸段階数の削減等がこれまで以上に実施されている可能性が考えられる。

(消費者の価格志向の強まり)

消費者がバブル期の消費行動を反省して,節約姿勢や価格志向を強めつつあることは,平成5年度の経済白書で既に示したところである。

ここでは,こうした消費者の行動が,一時的なものではなく,構造的なものである可能性を検討してみる。

まず,消費支出に対する価格弾力性をみるために,「被服及び履物」の実質消費を推計期間をかえて実質所得要因と価格要因(CPIまたは購入単価)で回帰してみる( 第2-4-13図① )。これからは,90年までの推計では符号が正で有意でなかった価格要因が,93年まで延ばして推計すると,符号が負で有意に効くことがみてとれる。かつては,価格の変化に販売数量が反応しなかったのが,近年では価格が下がれば販売数量が増えるという関係が明瞭になってきているのである。

次に,こうした消費支出に対する最近の価格弾力性の有意な高まりが,景気後退に伴う所得面の制約といった循環的要因のほかに,消費者の消費スタイルの構造的変化によってもたらされているかどうかを,カルマン・フィルターを使った同様の関数推計でチェックしてみる( 同図② )。これによると,92年を通して-1.5近辺で安定していた価格弾力性が,93年を境に-3を超える水準にシフトしてきており,93年以降,構造的な価格弾力性の高まりが生じている可能性を示唆している。

以上のような検討からみても,消費者が,単に景気低迷による所得の減少からだけではなく,構造的に,商品の価格をみる目が厳しくなっている可能性がある。この背景には,景気低迷に伴う節約志向の強まりに加えて,消費者自身が内外価格差の存在や流通業の効率化の進展を踏まえて,「商品価格はもっと下がってもいいはずだ」と考え始めてきていることも影響しているものとみられる。

こうした消費者の価格志向が消費行動として定着するためには,企業の側の意識も変わらなければならない。そこで,この点についての企業側の意識の変化をみると,例えば,経営者アンケート(日本経済新聞社「日経流通新聞」94年1月1日)によれば,企業家の6割が,商品価格の今後の見通しについて,「下げ止まるが,低価格傾向は長期的(3~5年)に持続する」との見方をしており,95年以降も物価上昇の鈍化が続くとみる経営者も7割程度に上っている。

こうして消費者の意識と企業の意識が一致するようになると,実際に企業が新たに開発した安くて良質な製品が,消費者によって購入され,物価の安定と消費水準の上昇が実現することになる。事実,93年後半から持ち直しの動きを示し始めている家電製品についてみると,価格の低下が販売の持ち直しのきっかけになっている。例えば,白物(冷蔵庫,電子レンジ)やAV機器(VTR)の一部には,93年以降価格が前年を大きく下回るとともに,販売数量も持ち直し,93年後半には約2年振りに前年水準を上回っているものもみられるようになった( 第2-4-14図 )。

3. ディスインフレと実体経済との関係

以上のようなディスインフレは,実体経済活動と相互に関係しながら進行してきた。これまで,インフレの経済的影響については比較的多くの議論の蓄積があり,インフレの未然防止が経済政策の最も重要な目標の一つであるということについてはコンセンサスが得られている。しかし,ディスインフレについては,これまでほとんど例がみられなかったこともあって,その実体経済との関係について語られることは稀であった。

ディスインフレと実体経済との関係については,実体経済→ディスインフレという関係と,ディスインフレ→実体経済という関係とがある。このうち,前者については,実体経済の停滞が需給ギャップを拡大させ,ディスインフレの背景となってきたという点については既にみた。では,ディスインフレが実体経済に及ぼした影響についてはどう考えるべきだろうか。この点を,以下では企業活動への影響,家計への影響という順にみていこう。

(ディスインフレが企業活動に及ぼす影響)

まず,ディスインフレが企業活動に及ぼす影響について考える。一般的にディスインフレは販売価格の低下を通じ企業の売上高の減少要因となると考えられるが,この他にも,以下のようなものが考えられる。

第一は,企業の交易条件(産出物価/投入物価)の変化による影響である。ディスインフレが進行する過程では,物価は一様に上昇率が鈍化するわけではないので,企業の投入物価と産出物価に差が生じ,これが企業収益に影響を及ぼすことになる。

そこで,企業の交易条件の推移をみたのが, 第2-4-15図 である。当然ながら交易条件の改善は,企業収益にとってのプラス要因となる。これによると,近年のディスインフレの過程では,投入物価,産出物価とも下落してきたが,投入物価の下落率のほうが相対的に大きかったため,91年以降企業の交易条件は一貫して改善し,企業収益のプラス要因となっている。特に93年についてはその改善の度合いが大きい。これは,円高によって日本全体の交易条件が改善したことが,企業部門の交易条件の改善にもつながったためだと考えられる。

一方で,卸売物価と消費者物価の下落テンポの違いは,企業の売上高の低下に比べて,消費者物価の伸び率等を基に決定される賃金が下がりにくいことを意味しており,企業収益の改善が遅れる可能性も考えられる。

第二は,物価上昇率の低下度合いと金利との関係から生ずる影響である。ディスインフレが続くと,次第に人々の期待物価上昇率も低下してくるが,これに名目金利の低下が追い付かない場合には,実質金利が上昇し,これが投資を抑制することが考えられる。この点についての検討は,既に第1章で行ったところであり,少なくとも実証的にはむしろ名目金利と実体経済との関係が強いという結果が得られている(第1章第10節参照)。

第三は,実質負債残高の増加を通じた影響である。ディスインフレが進行すると,実質負債残高が増加する。もちろん,逆に実質資産額も増加するわけではあるが,企業部門全体としては負債超過となっていることや,債務者の方が債権者よりも一般に限界支出性向が高いと考えられることから,実質負債残高の影響が強く現れる可能性がある。

特に,借入れを行った時点に期待していた状態よりもディスインフレが進むと,債務者にとっては,将来の返済負担がより大きなものとして意識されるようになるので,既存の債務残高を圧縮しようとする。こうした動きは,投資意欲にマイナスの影響を及ぼす可能性がある。これは「フイッシャー効果」と呼ばれている。

第四は,在庫評価損や過剰償却による経常利益の変動を通じた影響である。ディスインフレの局面では,在庫の払出し評価額が取得額を下回るため,在庫評価損が生ずる。また,有形固定資産の償却に際しても,償却が取得時価格を基に行なわれるため過剰償却となり,いずれも経常利益の減少要因となる。

こうして発生する,在庫評価損と過剰償却の状況をみたのが 第2-4-16図 である。これによると,ディスインフレが進行するなかで,93年度には在庫評価損が1.1兆円,過剰償却が0.2兆円発生しており,合計で製造業の経常利益に対して1兆4千億円(経常利益の15%)程度のマイナス要因となっていると推計される。ただし,この過剰償却については,企業の内部留保となっているため,設備投資等実体面へのマクロ的なマイナスの影響はないものと考えられる。

第五は,企業マインドを通じた影響である。現実の企業は名目値の世界で経済活動を行っていることを考えると,ディスインフレ下での企業の名目売上,名目利益の低い伸びが,実質的な経済活動の鈍化に加え,企業のマインドにマイナスの影響を及ぼした可能性も考えられる。

(ディスインフレが家計に及ぼす影響)

次に,ディスインフレが家計に及ぼす影響としては,以下のものが考えられる。

第一は,物価の低下により実質所得が下支えされるという影響である。

この点は,ディスインフレのなかで,一方での物価の安定化と他方での名目所得の上昇率の鈍化とをどのように評価するかによって,ネットの実質所得への影響度合いが異なってくる。

この点をみるために,今回のディスインフレの過程で,家計の期待がどのように形成されてきたかをみたのが, 第2-4-17図 である。ここでは,90~93年にかけての家計の消費者物価下落期待と,名目所得下落期待の相対的な強さを比較している。これによれば,今回のディスインフレの過程で,家計の期待インフレ率(ここでは,消費者態度指数の「物価の上がり方」を採用)も名目所得上昇期待(同「所得の増え方」を採用)も低下してきてはいるが,名目所得への期待は期待インフレ率ほどには低下していない。したがって,この間,ディスインフレの過程で家計の実質所得上昇期待は高まったものと考えられ,最近の消費の持ち直しに寄与している可能性もある。

第二は,家計はネットの貯蓄主体であるため,純資産の実質価値が増加することを通じて消費を刺激する経路(資産効果,またはピグー効果)が考えられる。しかしこの点については,基本となる資産価格そのものに関しては,バブル崩壊のなかでむしろ先行き不透明感が強まっていたため,結果的にはディスインフレによる資産効果は表面化することはなかったものと考えられる。

以上整理してきたように,ディスインフレが企業,家計に及ぼす影響には,交易条件の改善や実質所得の下支えといったプラスの面と,短期的には,企業における実質負債残高の増加や企業マインドの悪化の可能性というマイナスの効果が考えられるが,こうしたプラス・マイナスを全体として定量的に評価することは困難である。

いずれにせよ,今後の景気回復を展望するに当たっては,物価下落による実質購買力の増加を通じた最終需要の盛り上がりが一つの鍵を握っていると考えれば,ディスインフレそのものの功罪を論じるよりも,ディスインフレから生じるプラス効果をいかに早く,広く顕現化させて実質購買力の増加に繋げていくかが重要な課題といえる。この観点からも,内外価格差の是正や規制緩和の推進が求められるのである。

(ディスインフレと今回の三つの調整過程)

今回の景気後退過程においても,特に企業の目からみると,ディスインフレの進行がマイナスのイメージで受け取られる面もあったものと考えられる。しかし,それは,ディスインフレそのものの問題というよりも,今回の調整過程の厳しさが,物価との関係で表面化してきていると考えるべきであろう。それは,次のようなことである。

第一に,今回の景気後退の長期化によって,需給ギャップは大幅に拡大した。近年の日本経済はこのギャップを調整する過程にあった。ディスインフレはこのギャップの調整プロセスの中から現れてきた現象でもある。価格が低下することによって実質需要が拡大すれば,実物面でのギャップはそれだけ縮小するが,一方で,それは企業にとっては,「物は売れても利益は出ない」という厳しい調整過程となるからである。その渦中では,「価格が下がらなければ,利益が出るのに」と考える企業もみられる。

第二に,今回の景気後退プロセスは,バブルの崩壊への調整でもあった。ここ数年の企業は,バブル期に積み上がった負債を適正な水準に引き下げるという,厳しいバランスシート調整の下にあったことは本章で既に詳しく述べた。負債はインフレによって調整しやすくなるが,ディスインフレは逆に負債の調整をより厳しいものにする。「物価が上昇するような環境の下であれば,負債の調整はもっとスムースに進むのに」と考える企業もみられる。

第三に,長期的な視点からみても,企業は,規制緩和に伴う流通業の効率化や消費者の価格志向の強まりといった構造的な流れに対応して,これまでの経済行動を新しい時代の要請にあったものに変えていくという調整の過程にある。ディスインフレは,こうした長期的な調整過程の中で生じている現象でもある。その調整下にある企業は,当然厳しい競争に直面し,難しい対応を迫られることになり,「この厳しい価格引下げの動きがなければ,経営ももっと楽になるのに」と考える企業もみられる。

こうして,大きな需給ギャップと悪化したバランスシートを抱え,さらに長期的な構造変化に直面している企業にとって,ディスインフレの過程は厳しいものとなるという面がある。しかし,同時にディスインフレの中に,消費スタイルの新しい姿や新たな流通の担い手など,厳しい調整過程を抜け出していく萌芽もみられてきている。また,こうした過程を経て初めて実質購買力の増加が可能となり,景気回復の契機となる最終需要の持ち直しに繋がっていくことが期待されている。こうしてみると,需給の調整もバランスシート調整も構造調整もいずれも避けて通れない道であり,そのプロセスを経ないとバランスのとれた成長は実現できないといえる。

物価は,それ自体が単独で変動するものではなく,経済全体の各分野の動きとバランスが総合された結果として変動するものである。だからこそ物価は経済を写す「鏡」だといわれるのである。今回の景気後退の中ではその鏡に,厳しい調整過程がディスインフレという姿となって写しだされたのだといえよう。


コラム

(物価上昇率の低下の経済学的整理)

物価上昇率の低下が実体経済に及ぼす効果としては,以下のような点が指摘されている。

(ピグー効果)

物価の下落は,名目表示の資産の実質的な価値を増加させ,それが消費を刺激することとなる。つまり,名目で価値が固定されている金融資産などについては,物価の下落によってその資産による購買力は増大することになる。ただし,負債の実質価値も同様に増加することから,ピグー効果とは純残高の実質的増加が消費を刺激することをいう。

(フィッシャー効果)

ピグー効果が資産から負債を除いた純残高において議論されるのに対して,実質負債残高自体の影響に着目したのがフィッシャー効果である。すなわち,債権者と債務者では,債務者の方がより高い限界支出性向を持っていると考えられ(第2章4節参照),かつ,純残高と負債額とでははるかに負債の方が大きいことから,これが消費抑制に働くという効果である。一般的には,物価上昇率が低下する局面では,短期的にはフィッシャー効果が,長期的にはピグー効果が強く作用するといわれている。

(実質金利上昇効果)

物価上昇率の低下は期待物価上昇率を下落させるが,名目金利がこの期待物価上昇率の低下テンポに合わせて低下しないような場合には,実質金利を上昇させることとなる。これがIS曲線の下方シフトを通して投資に対して抑制的に働き,名目金利と所得を減少させるのである。マンデル効果とも呼ばれる。

(ケインズ効果)

物価上昇率の低下によって,マネーサプライは実質で増加することになり,その結果金利が低下し,所得が増加する(LM曲線の下方シフト)。つまり,貨幣の取引需要が物価の下落によって減少し,その貨幣が証券などの金融市場へ流れ利子率が低下することとなる。こうして低下した金利は投資を実質的に増大させることとなり,雇用,所得を増加させると考えられる。

(貨幣需要増大効果)

物価の下落が進行している状態では,財に対して貨幣をより魅力的にさせるため,貨幣需要を増大させる効果を持つ。こうした効果が,ピグー効果や物価下落による実質所得下支えによる消費刺激効果を上回る場合には,買い控えにみられるように消費を抑制する方向に作用すると考えられる。