平成6年 年次経済報告 厳しい調整を越えて新たなフロンティアへ 第1章 93年度の日本経済

平成6年

年次経済報告

厳しい調整を越えて新たなフロンティアへ

平成6年7月26日

経済企画庁


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第1章 93年度の日本経済

第2節 大きかった円高のデフレ効果

93年に生じた急激な円高は,日本経済にどのような影響を及ぼしただろうか。円高の影響は多岐にわたるため,ある一面だけをみていると全体の評価を誤ることになる。以下では,今回の円高の影響を可能な限り多面的に把握してみよう。

1. 景気後退下での急激な円高

93年に入ってからの急激な円高をみてみると,93年1月に125円であった対米ドルレートは,8月に一時100円40銭となるまで上昇した。これを,プラザ合意直後の円高局面と比べてみると(以下,円高局面の比較については, 第1-2-1表 参照),85年9月から86年4月までの対米ドルレートの月平均上昇率は4.37%であるのに対し,93年1月から8月までのそれは2.70%と,今回の円高局面の方が上昇率は比較的小さい。にもかかわらず,今回は景気へのマイナスの影響が強く意識されたのはなぜだったのだろうか。その理由としては,次のような点が考えられる。

第一は,プラザ合意前後は円高というよりドル安であったが,今回は円の「独歩高」だったということである。そもそも,アメリカ以外にも日本の貿易相手国はあるわけだから,円高の影響は,通貨ごとのレートの変化を貿易額などのウエイトで合成した「実効レート」でみるのが適切である。この実効レートは,通貨の選び方やウエイトの付け方などの計算方法によってかなり違ってくる。例えば,米ドルに加えて欧州およびアジア諸国の通貨をも考慮した実効レート(実効レート1)の月平均変化率をみると,プラザ合意直後(85年9月から86年4月まで)と今回の円高局面(93年1月から8月まで)との円の上昇率の差は,対米ドルレートの場合よりもかなり縮まり,また米ドルに加え,欧州,カナダの通貨を考慮したIMFによる実効レート(実効レート2)では逆転している。このように,実効レートでみると,93年1月から8月にかけての円高はプラザ合意直後と同様に急激であったことが分かる。

第二は,今回は景気後退が長期化するなかでの円高だったということである。プラザ合意後の円高は,それによって本格的な景気後退が始まったのに対して,今回の円高は,既に景気後退入りしてから2年程度が経過した時点での円高であった。このため,企業は売上が低迷し,減益が続く余裕のない状態で円高を迎えることとなった。これが,企業マインドへのマイナスの影響を増幅させたものと考えられる。

第三は,プラザ合意前後は原油価格が大幅に下落していたということである。プラザ合意前後の円高の頃には,原油の輸入価格が85年から86年にかけて50%程度下落しており,これが交易条件の改善効果を通じて国内物価の低下,企業収益の増加に寄与した。今回も原油価格はやや下落していたが,その程度はプラザ合意後よりはずっと小さなものだった。

2. 円高のマクロ的影響についての論点整理

円高の影響を語る言葉は多様であり,それだけに混乱しやすい。ある人は円高のメリットを強調し,ある人はデメリットのみに気を取られがちである。では,円高のメリット,デメリットというとき,人々は何に着目しているのだろうか。円高をめぐる議論が混乱しやすいのは,この点が不明確なためである。

この場合,重要な二つの指標がある。一つは「実質GDP」であり,もう一つは「購買力」である。円高のマクロ的影響を考えるとき,当面の影響については「実質GDP」に着目するのは当然である。それが,国内景気を端的に示す指標だからである。一方,より長期的な視点で考える場合,「購買力」が重要となってくる。円高はまさに通貨価値の上昇を意味し,それは円の購買力が上昇することだからである。このとき注意する必要があるのは,購買力は必ずしも実質GDPによっては適切に測れないということである。

以下では,まず,円高が国内景気に影響を与える経路について整理してみよう。

(国内景気への影響経路)

円高が生じると,多くのマクロ変数が同時に,かつ,相互に影響を及ぼしながら変化する。円高の影響の分析に当たっては,こうした相互関係も考慮しなければならないが,分かりやすくするために,以下では円高の影響を次の四つに分類して考えることにする( 第1-2-2図 )。

①円ベースの輸出入価格の変化に伴う「交易条件効果」

②輸出数量が減少し,輸入数量が増加するという「数量効果」

なお,この「交易条件効果」に「数量効果」が加わって,円ベースの純輸出,企業収益の減少が生ずることになる。

③輸入物価が国内物価に波及するという「円高差益の還元」

④個人消費,設備投資など「内需への影響」

これらはおおむね現れる時間的順序に対応しているが,変化に対する反応速度の違いによっては,このとおりの順序で影響が現れるとは限らないことに注意する必要がある。

3. 輸出入と企業収益への影響

(円ベースの輸出入物価の変化に伴う交易条件効果)

まず,円ベースの輸出入物価の変化に伴う交易条件効果について考えてみよう。

円高になると,円でみた輸出物価,輸入物価は共に低下するが,輸入の方が外貨建てで取引される割合が高いため,輸入物価の下落率の方が相対的に大きいのが普通である。つまり,ここでいう交易条件は改善することになる。この時,円ベースの名目純輸出(輸出入収支差)がどう変化するかは,次の二つの条件によって決まってくる。

第一は,輸出入価格への転嫁率である。輸出については,円高分を外貨ベースの価格に反映させる度合いを,輸入については,円高分が円ベースの価格に反映する度合いをそれぞれ転嫁率と呼ぶことにすると,輸出入価格への転嫁率が大きいほど,名目純輸出(輸出入収支差)を増加させる効果が大きい。それだけ,輸出代金の受取減少分が少なくてすみ,輸入代金の支払い減少分が大きくなるからである。

第二は,名目純輸出が円高が生じたときにどのような状態だったかである(初期条件)。財貨・サービスの名目純輸出が当初ゼロであれば,名目純輸出が増加することになる(つまり,当初の輸出金額と輸入金額が等しければ,輸出入収支差は拡大する)。名目輸入金額の減少の方が,名目輸出金額の減少よりも大きくなるからである。しかし,当初の名目純輸出がプラス(輸出入収支差は黒字)であればあるほど,輸出代金の受取減少分が相対的に大きくなるから,名目純輸出(輸出入収支差)の増加度合いは小さくなり,さらには減少することになる。

そこで,この二つの条件に照らしてみたとき,今回の円高局面がどのように位置付けられるかをみてみよう。ここでは,サービスを含んだ国民経済計算ベースで考えてみる。 第1-2-3図 は,横軸に転嫁率の条件,縦軸に名目純輸出(輸出入収支差)の条件(輸入金額の輸出金額に対する比率)をとり,両者のどのような組み合わせによって,純輸出が増減するかを示したものである。円高が生じたときに,図の右下の領域にあると,純輸出は減少し,左上の領域にあると,純輸出は増加することになる。転嫁率は,輸出入物価関数から得られたものを使う(実効レートベース)。輸出の価格転嫁率は,円高後1四半期目で0.15,2四半期目は0.25,3四半期目以降は0.30,輸入の価格転嫁率は当初から0.83である。これによれば,1四半期目から3四半期目まで「減少」領域にとどまるという結果となる。

したがって,円高による円ベースの輸出入物価の変化に伴う交易条件効果に関しては,93年については,サービス貿易を含んだ国民経済計算ベースでみると確実に純輸出にマイナスの影響があったといえる。

(数量効果―輸出数量の減少と輸入数量の増加)

次に,輸出入数量の変化について考える(数量効果)。円高になると,輸出数量が減少し,輸入数量が増加することから,実質純輸出は減少する。

輸出数量については,当初はほとんど変化しないが,時間の経過とともに次第に減少効果が強まる。これは,当初は現地通貨建て輸出物価がそれほど上昇しないため,価格競争力が変化しないが,価格転嫁が進んで現地通貨建て輸出物価が上昇するにつれて現地市場での競争が厳しくなってくるためである。輸出関数を推計した結果によれば,1%の円高は,1四半期目には実質輸出を0.02%しか減らす効果がないが,最終的には(9四半期目)0.41%の減少効果が生ずることになる。

同様に,輸入数量についても,円ベースの輸入物価の下落に伴って,時間の経過とともに増加効果が強まることとなる。輸入関数の推計結果によれば,1%の円高は,1四半期目には実質輸入を0.02%増加させ,最終的には0.33%の増加効果が生ずることになる。

なお,93年における現実の実質輸出,実質輸入の動きを調べてみると,実質輸出は前期比では増減を繰り返しながらも,10~12月期の水準を前年同期比でみると2.2%減であり,上記輸出関数から得られる理論値(各四半期の円高の効果を合成したもの)の1.9%減とほぼ同じとなっている。実質輸入については,前期比で各四半期とも増加が続いた結果,10~12月期の水準は前年同期比で5.5%増に達しており,上記輸入関数から得られる理論値の0.8%増より増加幅がかなり大きくなっている。

(円ベ-スのJカーブとドルベ-スのJカーブ)

以上みてきたような数量効果と交易条件効果を合わせて,円レートが10%だけ上昇したときに,円ベースの純輸出(サービスを含む国民経済計算ベース)がどのように変化するかを描いてみたのが 第1-2-4図② である。これを「円ベースのJカーブ」と呼ぶことにしよう。

この円ベースのJカーブは,①輸出代金の手取りの減少,②輸入代金の支払いの減少,③輸出数量の減少,④輸入数量の増加という四つの効果が総合されたものである。このJカーブの姿をみると,円高は,最初から最後まで純輸出を減少させる効果を持ち続けていることが分かる。

このような結果となるのは,前述のように,日本では輸出金額が輸入金額を大きく上回っているからである。このため,円ベースの輸出代金の受取額の減少が輸入代金の節約額を上回り,ネットの交易条件効果はマイナスになる。時間の経過に従ってそのマイナス幅は縮小していくものの,マイナスであることには変わりはない。また,数量効果も常にマイナスであり,次第に輸出数量が減少するのに対応して,そのマイナス幅は拡大していく。したがって,交易条件効果と数量効果を合計した効果もマイナスが続くことになるのである。

同様の考え方で,「ドルベースのJカーブ」を描くことができる( 同図④ )。ドルベースのJカーブは,1年目はドルベースの輸出価格が上昇する一方で,数量の減少はやや遅れるため純輸出(ドルベースの経常収支黒字)は増加するが,2年目以降は数量効果がかなり大きくなるため減少に転ずる,という姿となる。

このように,円ベースのJカーブは,当初からマイナスの状態からスタートし,ドルベースのJカーブは当初はプラスであるという違いがある。この差は,国際収支面で,後に第9節でみるように,今回の円高の後「円ベースの黒字は縮小し,ドルベースの経常収支黒字は拡大する」という対照的な動きをもたらす要因となり,ひいては,日本の国内からは「円高によって企業が厳しい調整を迫られる」(後述するように,円ベースの黒字は企業収益と密接な関係がある),海外からは「円高にもかかわらず,日本の経常収支黒字は減らない」という認識のギャップを生む背景となっているのである。

なお,本来「Jカーブ効果」とは,こうした円高の初期におけるドルベースの純輸出(輸出入収支差)の増加を指す用語である。したがって,単に「Jカーブ」という場合は,ここでいう「ドルベースのJカーブ」を指すのが一般的である。

(現実にも減少した円ベースの純輸出)

以上のような円高の影響は,現実の円ベースの純輸出をどのように変化させてきただろうか。

ここまでは,円高のインパクトを取り出して考えてきた。つまり,ある時点である幅の(たとえば10%の)円高が生じ,以後はそれが継続したと仮定した場合の影響を考えてきたわけである。しかし,現実の経済では,円レートは日々変化し続けており,その変化する円レートの影響が累積する結果として,その影響が現れてくることになる。こうした点をみるために,現実の円レートの動きに対応させて,各四半期ごとのJカーブ効果を重ね合わせてみたのが,いわゆる「合成Jカーブ」である( 第1-2-5図 )。ここでは,急激な円高が始まる前の92年10~12月期を基準として四半期ごとの円ベースのJカーブが描かれている。円高が急速に進んだ93年4~6月期のJカーブはマイナス幅が大きく,93年10~12月期はむしろ円安となったため,プラス方向のJカーブが描かれている。これらを合成すると,10~12月期にはいったん前期比で純輸出が増加するというS字型の曲線が得られる。

現実の純輸出の動きもやはり円高の進展に伴って減少してきており,基本的には合成Jカーブから考えられるような円高の影響が現実化しているものと考えられる。ただ,現実の純輸出の動きと,合成Jカーブの動きを重ね合わせてみると,両者は必ずしも一致しているわけではない。これは,合成Jカーブを描く場合には,為替レート以外は不変という前提があるが,現実には多くの要因が輸出入に影響を及ぼしているためである。

(企業収益の減少)

円ベースのJカーブは,企業収益の動きと密接に関係している。まず,円ベースのJカーブに沿って純輸出が減少するという効果は,短期的にはすべて企業収益の減少として現実化するとみてよいであろう。企業収益(流通業を含む)は,輸出入価格の変化に伴う交易条件効果を考えてみると,輸出代金の手取の減少から輸入代金の節約分を控除した分だけ減少することになろう(ただし,実際には為替予約がなされている場合も多いから,文字どおり瞬時に影響が現れるわけではない。なお,為替予約のリスクを最終的に負う相手方が邦銀であれば,企業部門全体としてはやはり企業収益がすぐに減少する)。さらに,輸出数量の減少と輸入数量の増加も国内生産にマイナスに作用したはずだから,これも企業収益にとってのマイナス要因となったものと考えられる。

以上のように,円高は,少なくとも短期的には全体としての企業収益を減少させたものと考えられるが,産業別にはその影響の現れ方が異なってくる。こうした産業ごとの差は,輸出の減少によって売上がどの程度減少するかということと,円高によって生産コストがどの程度低下するかということの綱引きによって決まってくる。一般に,輸出依存度の高い加工組立型製造業は円高により減益となる場合が多く,投入物価の下落によって生産コストが低下する素材型製造業,非製造業ではむしろ増益となると考えられる。こうした業種別の影響を定量的にみるために,産業連関表(91年)によって10%の円高が生じたときの産業別の企業収益の変化を,以下の3つの場合について試算した( 第1-2-6表 )。

ケースAは,円高が生じた直後の交易条件効果だけを考えたものである。ここでは,輸出金額の減少を計算する際の価格転嫁率として,通関ベースで計測した1四半期目の値(0.31)を使っている。このケースの営業余剰の変化率をみると,加工組立型製造業では15.3%減,素材型製造業では5.0%増,非製造業では0.2%増となった(全産業では0.9%減)。

ケースBは,円高が生じてしばらく時間が経過した後の交易条件効果を考えたものである。ここでは,通関ベースの計測による3四半期目以降の価格転嫁率(0.48)を使っている。この場合は,輸出価格への転嫁が進んでいるため,企業収益へのマイナス効果はケースAよりも小さくなっており,営業余剰の変化率は,加工組立型製造業10.7%減,素材型製造業5.8%増,非製造業0.4%増となった(全産業ではちょうど差引ゼロ)。

ケースCは,ケースBで想定した交易条件効果に加えて,輸出数量の減少の影響も織り込んだものである。この場合,営業余剰の変化率は,加工組立型製造業13.8%減,素材型製造業5.3%増,非製造業0.3%増とやや大きくなる(全産業では0.6%減)。

なお,現実にはこれに加えて,国産投入財を輸入投入財に代替することによるコスト削減効果と,輸入数量の増加が国内生産を代替することによる収益圧迫効果を考慮する必要がある。

(86年当時とほぼ同じであった輸出の価格転嫁率)

これまでは,価格転嫁率が過去の例と変わらないとして企業収益への影響を調べてきたが,実際の転嫁率はどうであったかをみよう。特に,今回の円高局面に関しては,企業マインドへの悪影響が目立ったことなどから,「輸出の価格転嫁率が低くなっているため,円高率の割には企業収益への打撃が大きいのではないか」という議論が多かったので,以下ではこの点について検討する( 第1-2-7図 )。

まず,対米ドルレートの変化率(前年同期比,以下同様)がどの程度まで財貨・サービスの輸出デフレータ(ドルベースに換算,国内需要デフレータで標準化)の上昇につながったかを計算すると,プラザ合意後の85年10~12月期以降は,四半期ごとに0.42→0.67→0.76→0.82と推移していったのに対し,93年1~3月期以降は,0.03→0.38→0.38→0.47となっており,確かに今回の方が転嫁率が低くなっている。

しかし,同様の計算を実効レート1を用いて行うと(輸出デフレータは実効レートのもととなる通貨バスケットに換算),85年10~12月期以降は,0.29→0.50→0.62→0.69と推移したのに対し,93年1~3月期以降は,0.27→0.44→0.59→0.61となっており,プラザ合意後とほぼ同じ水準で推移している。

輸出先はアメリカだけではないので,やはり転嫁率をみる場合も実効レートベースがより適切である。そうすると,実際に生じていることは,「輸出の価格転嫁率が低くなっているため,円高率の割には企業収益への打撃が大きい」のではなく,「対米ドルレートの変化率がそれほど大きくないわりには実効レートの変化率が大きいため,対米ドルレートの変化率から推測される以上に企業収益が打撃を受けている」ということになる。

(実際の円高に追いつかなかった採算円レート)

ここで,今回の急激な円高がいかに企業収益にとって厳しいものであったかを,経済企画庁「企業行動に関するアンケート調査」における採算円レートによってみてみよう( 第1-2-8図 )。

この調査によれば,輸出企業の採算円レートは93年1月に124円であったが,94年1月には117円まで円高方向に変化している。しかし,実際の円レートは94年の1月で111.51円となっており,急激な円高に対して輸出企業の対応が追いついていないことが分かる。これまで,採算円レートがどのように推移してきたかをみると,プラザ合意後の86年から89年にかけては急テンポで上昇してきたのに対し,今回の場合は上昇テンポが緩やかなものにとどまっており,少なくとも短期的には企業収益にとって厳しいものとなっている。

(原油価格の大幅下落により円ベースの純輸出が増加したプラザ合意後の円高局面)

次に,事後的に観察される円ベースの純輸出の変化(GDP比)について,プラザ合意後(以下では「前回の円高」と呼ぶ)と今回の円高局面を比較してみよう(以下, 第1-2-9図 ,なお,ここでは,事後的な輸出入物価,数量の変化(前年同期比)を使っているため,基準時点からの変化をみたこれまでの分析とはベースが異なっていることに注意する必要がある)。

まず,前回の円高が進んだ86年には,純輸出は増加している。これは,輸出入物価の変化に伴う交易条件の効果がプラスに働いており,このプラス効果の方が,数量効果のマイナスを上回ったためである。しかし,この時の経験を基に,「円高の交易条件のプラス効果は,数量効果のマイナス効果よりも大きいので,円高は総合すればメリットの方が大きい」と結論付けるのは間違いである。事実,今回の円高の場合をみると,数量効果のマイナスの方が,交易条件のプラス効果を上回ったため,93年には純輸出は減少している。では,なぜこのような差が生じたのかを検討するため,同図では,①純輸出の変化を数量効果と交易条件効果に要因分解する,②数量効果を輸出による分と輸入による分に要因分解する,③交易条件効果のうちの輸出による分,④交易条件効果のうちの輸入による分を,為替要因,原油価格要因,その他に要因分解する,という方法をとっている。

この結果から,前回と今回の差が生じた理由として次のような点を指摘することができる。

まず,数量効果については( 同図② ),今回は93年4~6月期までは比較的小さかったものの,10~12月期には輸入が急増したこともあって86年のピーク時(7~9月期)の約4割の寄与度となっている。しかし,総じてみれば,今回は輸出がそれほど落ちていないことから,86年当時と比較してその影響はかなり軽微であるといえる。

次に,輸出入物価の変化に伴う交易条件効果については,今回の方が円高率が小さかったことを考慮しても,圧倒的に小さい( 同図① )。交易条件の変化をもたらした要因のうち,輸出価格については今回は前回の4割程度の寄与度であるのに対し(同図③ ),輸入価格については1/3~1/4程度の寄与度となっている( 同図④ )。このように輸入価格の寄与度に大きな違いがみられるのは,前回は原油価格の下落が大幅であったためである。86年における原油価格の下落の寄与度は4~6月期以降毎期おおむね1%であり,これによって86年と93年における円ベースの純輸出の前年差のGDP比の違いは大部分説明できる。

つまり,前回の場合は,「円高の交易条件のプラス効果が,数量効果のマイナス効果よりも大きかった」のではなく,「円高の交易条件のプラス効果に原油価格下落による交易条件のプラス効果が上乗せされたため,結果的に円高の数量効果のマイナス効果が目立たなかった」ということになるのである。

4. 国内物価への波及

(円高差益が完全に還元された場合)

円高は,輸入コストを低下させ,国内物価を安定化させる効果がある。この効果の大きさをみるために,仮に円高による生産コストの低下が完全に末端価格に反映されたとした場合を考えてみよう。

92年から93年にかけて円ベースの輸入物価/契約通貨建て輸入物価で計算された円レートは10.3%上昇し,円ベースの輸入物価は全く同じ10.3%低下した。円レートの上昇は,契約通貨建て輸入物価が一定であれば同率だけ円ベースの輸入物価を引き下げるはずだが,現実には為替転嫁が不完全なことや海外需給要因から契約通貨建て輸入物価が変化するので,両者が一致するとは限らない。92年から93年にかけて為替レートの上昇率と現実の円ベースの輸入物価の下落率とがぴったり一致したのは,契約通貨建て輸入物価が保合いとなったためである。以下では,こうした円ベースの輸入物価の下落の影響が100%波及し尽くした場合,生産者価格がどの程度下落するかを産業連関表(SNAベース(以下同様),92年)によって推計してみる( 第1-2-10図 )。ただし,同じ輸入物価の下落でも,それが円高による場合と,石油・石炭・天然ガス(以下,石油等)の契約通貨建て輸入物価の下落による場合では波及経路や程度が大きく異なるため,両者を分けて計算を行った(ただし,こうした処理をすると,円高の影響と石油等価格の下落の影響は考慮する一方,その他の品目の契約通貨建て価格の上昇分を無視することになるため,下落率はやや過大に推計されている)。この結果によれば,今回の円ベースの輸入物価の低下は,全産業ベースの生産者価格を0.8%引き下げるだけの効果があり,そのほとんどは円高によるものであった。業種別には,素材型製造業2.2%,加工型製造業1.0%,非製造業0.5%となっており,輸入コスト依存度の高い素材型製造業への影響がより大きなものとなっている。

これをプラザ合意前後と比較するため,85年から86年にかけての輸入物価下落率35.8%に対応する生産者価格の下落率を同様の方法(産業連関表は85年)で推計すると,全産業では4.5%の下落であるが,そのうち1.9%が石油等価格の下落によるものであった(業種別には,素材型製造業12.6%,加工型製造業3.8%,非製造業2.8%)。これは,第一に,当時は円レートの上昇率より石油等価格の下落率が大きかったためであるが,第二に,コスト構造がより石油依存型であったことも反映していると考えられる。そこで,同じ10%の円高,石油等の価格の下落があったとすると,プラザ合意前後では円高で1.13%,石油等で0.56%全産業ベースの生産者価格が下落するのに対し,今回は円高で0.68%,石油等で0.20%となっている。これをみると円高の波及率と比較して石油等価格の波及率の低下割合が大きくなっており,かつてのコスト構造がより石油依存型であったことが浮き彫りにされている。

(円高差益が還元されるプロセス)

完全競争の下では,円高差益は完全に還元されるはずであるが,実際には以前からの在庫を保有していたり,値下がりした原材料の国内流通に時間がかかったり,あるいは,寡占的な市場になっていたりするため,還元に時間がかかったり,長期においても完全には還元されない場合がある。

そこで,物価関数を用いて10%の輸入物価の下落(為替転嫁率が0.82~0.83であることを考慮すると12%の円高に相当)が国内卸売物価にどのように波及していくかを推計してみると,最終的には1.2%下落するという結果が得られる( 第1-2-11図 )。この最終的な下落率に到達するまでのラグは3四半期である。同様に,消費者物価について推計すると,1年程度で0.7%下落するという結論が得られる。「円高のメリットが現れるまでには時間がかかる」といわれるのはこのためである。ただし,3四半期まででも0.4%近くまで下落することを考えると,今回の円高局面では,93年中に顕在化した物価安定化効果は決して小さくはなかったといえよう。

5. 内需への影響

次に,円高が内需にどう影響するかを考えてみよう。

(遅れて現れる個人消費へのプラスの影響)

まず,個人消費にどう影響するかを考えよう。

円高が消費に影響する第一のルートは,実質所得を通じるものである。円高によって国内物価が下落し,実質雇用者所得が増加するという効果だけを考えれば,円高によって実質消費は増加する。前述のように,10%の輸入物価の下落(12%の円高)は1年程度で消費者物価を約0.7%下落させるという結果が得られているから,実質可処分所得の1年後の上昇率も0.7%となり,平均消費性向を一定とすれば実質個人消費も0.7%程度増加させると考えることができる。このモデルに実際の円レートの動きをあてはめると,前年同期比で実質個人消費に93年4~6月期0.1%,7~9月期0.2%,10~12月期0.4%という増加寄与があったことになる。このことは,最近における消費の持ち直しの一因となった可能性がある。

第二のルートは,消費者マインドを通じるものである。マインドの変化は,所得面への影響とは異なり,タイムラグなしに直ちに表面化するものと考えられる。円高と消費者マインドとの関係については,①円高は,将来の実質所得の増加を期待させ,これを先取りして平均消費性向が上昇するという効果,②円高によって企業収益の減少,雇用調整の進展などについての先行き不安が強まり,消費性向が低下するという,相反する可能性が考えられる。そこで,試みに為替レートと消費者マインド(ここでは便宜的に経済企画庁「消費動向調査」の消費者態度指数をとる)の関係を計量的にチェックしてみよう。消費者態度指数は五つの構成項目からなるが,このうち平均消費性向に比較的影響すると考えられる「雇用環境」を取り上げ,その動きを,円レートと所定外労働時間で説明する回帰分析を行ってみると,円高は「雇用環境」指標を低下させるという関係がみられる( 第1-2-12図 )。ただし,所定外労働時間に比べれば,その影響力はずっと小さく,平均消費性向への寄与度をみると前年同期比で93年4~6月期,7~9月期,10~12月期とも-0.2%となっている。

円高が個人消費に及ぼす影響としては,これらのほか,企業収益の減少を受けて名目雇用者所得の伸びが鈍化することにより消費が抑制されるということも考えられる。

以上のように,円高が個人消費に影響を及ぼす経路は多様であり,その影響が全体としてプラスかマイナスかを先験的に知ることは困難である。

(大きい製造業の設備投資へのマイナスの影響)

次に,円高と設備投資の関係についてみよう。円高は,少なくとも製造業の設備投資を短期的に抑制する効果を持つであろう。円高に伴う輸出数量の減少と輸入数量の増加は国内生産量を抑制するが,それは円高が生じた時点だけでなく将来に対する企業の需要見通しをも暗くするからである。そこで,内需,外需,前期末ストックに加えて実質実効為替レートを含んだ投資関数を推計したところ,いくつかの業種で,為替レートの変化が設備投資を抑制するという関係がみられている。こうして得られた設備投資関数について,為替レートに対する弾性値(1%の円高で設備投資が何%減少するか)をみると( 第1-2-13図 ),製造業全体では0.6となっており,業種別には電気機械(1.9),一般機械(1.6)が特に高い値を示している。

この結果を用いて,為替レートが設備投資に及ぼす影響度合いをみたのが 第1-2-14図 である。これによると,円高の進行にしたがって93年1~3月期以降為替要因の寄与度が増大しており,この期間の設備投資の減少幅の2割程度は円高によって説明することができる。特に,94年1~3月期には,円高の影響が1年余りのラグを伴って現れるため,-7%程度の寄与度となっており,この頃の設備投資へのマイナス効果が大きかったことが分かる。

6. 購買力を測る指標

最後に,長期的な視点から円高の影響を捉えるための概念として,購買力について考えてみよう。

購買力というのは,所得(フロー)あるいは資産(ストック)でどれだけの財貨・サービスが購入できるかを示すものである。ただし,あくまでもその所得等で購入可能な量を示すものであって,実際に今すぐ購入しなければならないわけではない。すなわち,購買力は将来の購入に当たっての原資という意味を含めた概念であり,それゆえにこの概念を用いた議論は長期的な視点に立ったものとなる。

まず,所得の源泉はGDP(厳密にはGNPであるが,GDPでおおむね近似できる)であるから,その適切な実質化の方法を見い出すことによって購買力を測ることを考えよう。購買力は,その所得を使って何を買う(つもり)かによって決まる。GDPは,個人消費,設備投資などの国内需要に向けられるほか,純輸出(輸出-輸入)に回される。この純輸出は,購買力という観点からは,将来において財貨・サービスを輸入するための原資として用いられると考えるべきものである。したがって,国内需要分については国内需要デフレータで,純輸出分は輸入デフレータで実質化し,これを合計してGDPの実質購買力とするという方法が考えられる。こうして得られた指標を,「実質コマンドGDP」と呼ぶこととしよう(「コマンド」とは,自在に利用する力のこと)。

実質コマンドGDPの増加率は,実質GDPの増加率に,交易条件(輸出物価/輸入物価)の改善(上昇)による購買力の増加を加えたものとなる。これが,一般に「円高により購買力が増加する」といわれる現象を定量的にとらえたものである。実質コマンドGDPの成長率を実質GDPの増加による分と交易条件の変化による分に分けてみると( 第1-2-15表① ),プラザ合意後の86年度には交易条件の改善による寄与が,実質GDPの増加による分を上回っていたことが分かる。93年度については,実質コマンドGDPの増加のほとんどすべてが,交易条件の改善によってもたらされている。ただし,これまでみてきたように,円高は実質GDPの方を減少させる効果があるので,総合的な円高の効果は,必ずしも購買力を高める方向に働くわけではない。

対外ストック面についても,財貨・サービスを輸入するための原資として用いられると考えて,コマンドGDPと同様に,前述の純輸出の累積額を輸入デフレータで実質化することによりその購買力を測ることができる(「実質コマンド累積純輸出」)。円高と対外資産の関係については,しばしば「円高によって対外資産が目減りする」という指摘がみられる。確かに,円高になると,外貨建ての対外純資産(対外資産-対外負債)は円ベースでみると目減りすることは間違いない。しかし,一つの試算としての実質コマンド累積純輸出の概念で考えると,円の増価幅と最終的な輸入デフレータの下落幅がほぼ見合うため,「目減り」はほとんどないことになる( 同表② )。