平成5年

年次経済報告

バブルの教訓と新たな発展への課題

平成5年7月27日

経済企画庁


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第2章 バブルの発生・崩壊と日本経済

第2節 株価・地価の動きとその背景

本節では,バブル発生・崩壊の経緯とその原因について検討するが,最初に二つの点を指摘しておきたい。

第一は,言うまでもなく,「資産価格の変動」と「バブル」とは違うということである。これは,資産価格変動の背景を考える上でも,その経済的影響を評価する上でも重要な点である。株価や地価の変動は,常に生じていることであり,それが直ちにバブルになるわけではない。一般に,資産を取り巻く経済情勢(ファンダメンタルズ)が変わったとき,資産の価格が変動することは自然である。資産価格も一般の財・サービスの価格と同様,資源配分を効率的に変えるためのシグナルだからである。しかし,80年代後半には,経済的諸条件からは考えられないほどのレベルまで資産価格が上昇した。これこそがバブルである。後述するように,バブルとしての資産価格の変動は,通常の資産価格の変動とは違って,大きな経済的コストをもたらすことになった。

第二は,そのバブルがなぜ発生したのかを分析的に示すことは,言うべくしてなかなか難しいということである。これは,「経済的ファンダメンタルズからかい離した価格の変動がバブルである」,と定義すると,定義的にバブルの発生を経済的条件によって説明することが不可能になってしまうという論理的矛盾があるからである。本節では,こうした困難をも踏まえつつ,今回の株価・地価の上昇・下落の推移を振り返り,バブル発生の背景を整理しようとしている。

1 株価・地価の推移

はじめに今回の株価・地価の上昇・下落の過程を振り返っておこう。株価・地価は83年頃から上昇しはじめ,80年代後半を通じて急速に上昇した。90年に入ると,株価が年初から下落に転じたのに続き,地価も総じて鎮静化し,その後は株価・地価は大幅な下落を続けることとなった( 第2-2-1図 )。

(株価変動の四局面)

80年代以降の株価の上昇と下落は,次の四つの局面に分けて考えることができる。

第一の局面は,82年10月を底に上昇し始めてからブラックマンデー(87年10月)を迎えるまでの局面である。日経平均株価は,84年年初に1万円台にのせた後,85年9月のプラザ合意後の大幅な金融緩和の下で急速に上昇し,87年1月末には2万円を突破した。その後も株価の上昇は続き10月半ばには2万6,600円に達した。

第二の局面は,ブラックマンデーによる下落を経て,再び89年末まで上昇した局面である。87年10月19日のアメリカ市場での株価急落(ブラックマンデー)の影響を受けて,日本の株価も2万1,000円まで急落した。しかし,諸外国で株価が低迷を続けるなかで,日本の株価は88年に入ると急回復に転じた。88年4月にブラックマンデー前の水準を上回った後,89年中もさらに上昇基調は続き,89年末には3万8,915円となった。これが今回の株価のピークであった。

第三の局面は,90年初から10月までの下落局面である。90年に入ると株価は急落に転じ,3月には一時3万円台を割り込んだ。4月から7月にかけて一時やや回復したものの,90年8月の湾岸危機発生後再び下落速度を早め,10月初めにはピーク時の約半分の2万円近くの水準まで下落した。

第四の局面は,90年10月からやや回復した後再び92年の8月まで下落した局面である。90年末から91年初にかけて,株価は,一時回復する場面もあったが,企業業績の悪化や証券不祥事の発覚等もあって,91年末にかけては総じて軟調に推移した。さらに92年に入ると,景気が減速感を強めるなかで,一時金融システム面の懸念が生じたこともあって,株価は下落傾向を強め,3月に2万円を割った後,8月18日には1万4,309円となった。これが,今回の下落局面での最安値となっている。ピークからの下落率は63%である。

しかしその後は,大蔵省による「金融行政の当面の運営方針」の発表や政府の「総合経済対策」の決定を受けて株価は急反発し,8月末には1万8,000円台を回復した。その後,93年2月までおおむね横這いで推移した後,3月に入って景気底入れ期待感の高まり等から上昇し,4月には約1年振りに2万円台を回復した。

この間,こうした株価の上下に歩調を合わせて,株式取引高も増減している。東証一部の一日平均売買高をみると,80年代前半は3億株台だったのが,86年には7億株に急増し,88年には10億株を上回るまでになった。しかし,株価下落とともに出来高も急速に減少し,91年にはおおむね80年代前半の水準まで戻り,さらに92年は2.6億株と極めて低い水準となった。これを投資主体別に見ると,今回の株価の上昇局面では信託銀行・投資信託・生損保などの機関投資家が株式の売買を活発に行っていた。この背景としては,この時期に企業が特金やファントラといった信託商品を使って株式運用を活発化させたほか,個人が株式投資信託や保険商品を大量に購入したことも一因となっている。

(商業地から住宅地へ,都市圏から地方圏へ波及した地価変動)

今回の地価の上昇過程における大きな特徴は,地価の高騰が,用途別では商業地→住宅地,地域別では東京都心→東京圏→大都市圏→地方圏へとかなりのタイムラグを伴いながら波及し,地価高騰が鎮静化するまでに長期間を要したことである。

地価の上昇は,83年頃に東京都心の商業地から始まった。その後,86~87年には,都区部の住宅地地価の上昇率が高まるとともに,東京圏の商業地,東京圏の住宅地へと地価上昇が波及していった。東京以外の地域についても,87年には大阪,名古屋の大都市圏の商業地で,89年には地方圏で,地価上昇率が高まった。

地価の下落については,まず,88年に入ると,東京圏において地価は鎮静化し始め,90年に入ると大阪圏などで地価は鎮静化し始めた。91年には,大都市圏において地価は下落し,92年1月の公示地価(全国全用途平均)は,前年比4.6%の下落となった。92年に入ると地価は下落テンポを速め,93年1月の公示地価は前年比8.4%の下落となった。

地価上昇のタイミングだけでなく,地価の変動幅も地域によって大きな違いがあり,大都市圏の方が地方圏よりもかなり大きな変動を示した。83年1月の公示地価を基準として,地価公示におけるピークまでの上昇とその後の93年1月の公示までの下落率を地域別(商業地)に比べてみると,東京圏は3.4倍まで上昇し,ピーク時に対する下落率が25%,大阪圏は3.9倍まで上昇し,ピーク時に対する下落率が39%,名古屋圏は2.4倍まで上昇し,ピーク時に対する下落率が20%と,いずれもかなり大きかったが,地方圏では上昇率(69%),下落率(6%)ともに大都市圏よりはかなり小さなものにとどまった。こうした大都市圏での変動が地方圏よりも大きいというパターンは,住宅地でも同じであった。

一方,80年代後半の土地取引の状況をみると,取引件数ベースではそれほど増加しなかったが,取引金額としては大幅な増加がみられた。国土庁の推計によれば,土地の総取引金額は,80~84年度には年平均22~23兆円だったが,85年度には28.3兆円,90年度には59.1兆円へと急激に増加している。この土地取引を主体別にみると,これまでも傾向として個人から法人への所有移転が行われてきたが,特に今回の地価高騰期には東京都区部を中心に法人の所有増加が目立っている(ただし,85年度までの調査と90年度の調査は,推計のベースとなるデータが異なっており,単純な比較はできない)。

2 理論価格とバブル

(収益還元モデルによる理論価格)

「バブル」とは,一般には,資産価格がファンダメンタルズ(経済の基本的要因)から大幅にかい離して上昇することを指している。したがって,バブルを検出するためには,まずファンダメンタルズから決まってくる資産価格(資産価格の理論値)を知らなければならない。

その理論値を考える場合,ここでは資産価格決定についての標準的な考え方である「収益還元モデル」を採用する。これは,株式や土地等の資産価格は,①その資産がもたらす期待収益,②裁定関係にある資産の利子率,③リスクプレミアムという三つの要素によって決まるという考え方である。「その資産がもたらす期待収益」というのは,株式では配当,土地では地代に相当し,期待収益が高いほど資産価格も高い。「裁定関係にある資産の利子率」は,国債利回り等の長期金利に相当する。裁定関係にある資産の利子率が低いほど,当該資産の有利性が高まり,資産価格は上昇する。「リスクプレミアム」というのは,危険資産に求められる追加的な期待収益率のことである。配当や地代といった株式や土地の期待収益は,あくまでも「期待」であって,国債の利回りなどと違って必ずしも将来確実に得られる保証がないため,国債などに比べより高い期待収益率が求められることになる。このリスクが高いほど,資産価格は低くなる。ここでは,この収益還元モデルに基づき,資産の価値は,「資産がもたらす期待収益」を,「裁定関係にある資産の利子率」と「リスクプレミアム」の和で割り引いたものであると考え,これを「理論価格」と呼ぶことにしよう。

このようなファンダメンルズによって与えられる理論価格を,現実の資産価格と比較してみると,概念的には,この理論値と現実値との差がバブルとなるが,以下に見るように,両者の水準は常にある程度はかい離するのが普通であり,また短期的には必ずしも整合的な動きをするとは限らない。これは,現実の相場形成が,ここでみた以外の様々な経済的条件のほか,投資家の期待の振れによっても影響を受けるからである。また,以下の分析では,企業の成長性(それが将来にわたる期待配当額を決める)や地代の期待上昇率及びリスクプレミアムを捨象した極く単純なモデルによって理論価格を求めている。したがって,以下の結果については十分幅を持ってみるべきものである。

(株式の理論価格についての検討)

はじめに,株式についてみてみよう。

ここでは,現実の株価とファンダメンタルズから決まる株価とを比較するため,便宜上,金利修正PERの推移をみることにする。金利修正PERというのは,PER(株価収益率=株価/一株当たりの利益)に長期金利をかけたものである。今,株価の理論値として,将来の企業収益を将来の長期金利で割り引いたものを考えると,金利修正PERは定義的に理論株価に対する現実の株価の比率を示すこととなり,現実の株価が株価の理論値に一致していれば,金利修正PERは変動しないことになる。つまり,金利修正PERが大幅に上昇した場合には,株価が企業収益や長期金利といったファンダメンタルズとかい離して上昇し,バブルの発生を示唆することになる。ただし,将来の収益・金利は正確に試算できるものではない。

こうした考え方に基づいて,ここでは便宜上,東証一部のPERに国債利回りをかけて金利修正PERを求め,その推移をみると( 第2-2-2図 ),86年後半に2.5倍を超えた後,87年夏以降急上昇し始め,ブラックマンデー直前の同年9月には5倍近くにまで達した。さらに,株価,長期金利の変動と共に変動を繰り返し,90年1~2月にかけては再び4倍を超える水準となった。その後は,株価の下落とともに基本的には低下傾向が続き,92年以降はおおむね85年以前の水準に戻っている。

なお,85年以前の金利修正PERのピークは,76年末あるいは84年前半の2.4~2.5倍である。86年後半から91年にかけての株価はこの水準を超えているから,この時期の株価はファンダメンタルズの変化を考慮しても,過去の趨勢に比してかなり割高であったとみることができる。特に,87年のブラックマンデー前と株価がピークをつけた89年末から90年前半にかけては,前記金利修正PERを見るかぎり,現実の株価がファンダメンタルズとの関係から一時的にかい離して上昇していた可能性があるものと考えられる。

(土地の理論価格についての検討)

地価については,理論価格の計測手法として様々なものが存在し,理論価格の水準を具体的に計測するのは極めて困難であるが,現実の資産価格を見る一つの目安として,以下のようにごく単純なモデルによって試算をしてみる。

住宅地の理論地価としては,家賃を住宅ローン金利で割り引いたものを考える。 第2-2-3図 は,今回特に地価の上昇幅が大きかった三大都市(東京,大阪,名古屋)の住宅地について,現実の地価と理論地価との関係をみたものである。ここでは,今回の地価高騰が始まる直前の83年で一応基準化している。

これをみると,東京では,87年頃から現実の地価と理論地価のかい離が目立つようになった。同様に,大阪では89年頃から,名古屋でも90年頃,現実の地価と理論地価のかい離が目立つようになった。その後は,現実の地価が91年から93年にかけて3割程度下落したのに対し,理論地価は金利低下を受けてこのところ上昇しているため,現時点においては両者のかい離はかなり縮小してきている。

次に,同様の考え方により,商業地について,現実の地価と理論地価との関係をみよう。

ここでは,商業地の理論地価として,オフィス賃料を長期金利で割り引いたものを考え,住宅地と同様83年で基準化している。オフィス賃料は,資料の制約上実勢を反映した長期にわたるデータが把握できないため,オフィスの収益性の観点から,床面積当たりの名目GNPに比例して賃料が決まるとして推計した。これは,付加価値額に対するオフィス面積の投入係数を一定と仮定すれば,オフィスの賃料は基本的には単位床面積当たりの付加価値額に対応するとの考え方によるものである。ただし,この仮定のもとでは,今回の商業地地価上昇の一因となったOA化に伴う床面積需要の増加などは捨象されており,83年以降の賃料及び地価の上昇局面で,このオフィス賃料の推計が過少となっている可能性が高いことに留意する必要がある。

第2-2-4図は,東京,大阪,名古屋の商業地地価について,現実の地価と理論地価を比較したものである。これによると,理論地価は,80年代半ば頃から上昇傾向にあり,現実の商業地地価上昇の一部はファンダメンタルズの好転によるものだったことがわかる。しかし,例えば東京では,特に86年頃からは,現実の地価と理論地価とのかい離が目立っている。その後91年以降は,現実の地価が下落する一方,金利低下を反映して理論地価は上昇していることから,最近の現実の地価と理論地価とのかい離は縮小している。

同様に,大阪については88年頃から,名古屋については89年頃からかい離が目立ったが,最近では縮小している。

上記の結果については,この理論地価のモデルがすでに述べたようないくつもの単純化を行っているため結果につき十分な幅をもって見なければならないこと,指数を用いているため83年で現実の地価と一致しているという擬制を行っていること,土地の収益を表すのに家賃等を用いていること等から,現在の地価水準が適正なものとなっているかどうかについての答えを示しているものではない。

3 株価・地価の上昇の背景

80年代後半に資産価格はなぜ大幅に上昇したのだろうか。これまでみたように,当時の資産価格の変動には,①ファンダメンタルズに沿った部分と,②ファンダメンタルズを越えたバブルとがあったと考えられる。こうした株価・地価の上昇の背景についてみていくこととしよう。

(良好なファンダメンタルズの動向)

今回の資産価格上昇期には,資産価格に影響するファンダメンタルズが総じて資産価格を上昇させる方向に作用した。したがって,今回の資産価格上昇のすべてがバブルであったわけではなく,経済的条件から見て当然の結果であるいう面もあったものと考えられる。

その第一は,企業収益(株価にとってのファンダメンタルズ)が大幅な増益基調をたどったことである( 第2-2-5図① )。

株価が上昇を始めた83年以降の景気と企業収益の動向を振り返ってみよう。景気は,第二次石油ショック後の3年にわたる後退期から83年2月を谷として拡大に転じた。企業収益も,82年度下期を底として改善し,85年6月に至る景気拡大期を通じて大幅な増益を続けた。その後,85年9月のプラザ合意を契機として大幅に円高が進むなかで,景気は後退局面に入った。しかし,①金融が大幅に緩和されたこと,②円高による輸入原材料価格の低下がコスト減少要因となったことなどにより,企業全体としての減益幅は比較的小さなものにとどまった。その後は,政府が86年9月の総合経済対策(総事業規模約3兆6千億円)に続き,87年5月には緊急経済対策(総事業規模約6兆円)を策定するなど景気浮揚対策を実施したこともあって,景気は急回復し始め,企業収益も89年度まで大幅な増益を続けることとなった。

第二は,東京都心部におけるオフィス需要の増加である( 第2-2-5図① )。

地価が上昇し始める83年頃から,東京商業地では全国に先がけてオフィスの空室率が低下し,土地に対する需要が高まっていた。これは,①経済の国際化・情報化の進展により情報拠点としての東京の地位が高まり,経済活動の東京一極集中が進んだこと,②金融の自由化・国際化に伴い外国金融機関の東京進出が活発化したこと,③経済のサービス化を反映してオフィスワーカーの比率が上昇したことなどによるものである。こうしたオフィス需要の高まりは,当初は東京の都心3区(千代田,中央,港)に限定されていたが,景気拡大が持続するなかで,オフィスオートメーション(OA)化によるオフィス拡張需要の高まりもあり,東京都区部のオフィスはほぼ満室状態となり,ビル賃料も上昇していった。東京以外の地域においても87年以降オフィスの空室率が低下した。また,内需拡大の観点から推進された民間活力の活用等による再開発プロジェクトやリゾート事業も,土地の利用価値を高める効果を持った。

第三は,金利の低下である( 第2-2-5図② )。

公定歩合は,80年3月以降引下げ局面に転じていたが,86年1月から87年2月にかけて,大幅な円高に伴う景気後退のもとで5回にわたり引き下げられた。その後,景気の足取りは確かとなったものの,公定歩合は89年5月にいたるまで2.5%の史上最低水準に据え置かれた。公定歩合がこのように大幅に引き下げられ,その後も長期にわたり低水準に据え置かれたのは,基本的には,一般物価が,円高・原油安等を受けて極めて落ち着いた推移をたどっていたことが背景にある。また,プラザ合意以降,金融政策の運営に当たって,国際協調が強く意識されるようになっていたことも無視できない。海外からは,対外収支不均衡是正に向けて一層の内需拡大を図ること及び世界最大の債権国として低利の資金供給を行うことが,我が国の国際的な役割として期待されていた。また,急速な円高が進行したため,政策運営上,為替相場の安定にも配慮がなされた。この間,87年2月の公定歩合引下げの直後には,G6において「ルーブル合意」(「為替相場を当面の水準周辺に安定させるべく各国が協調すること」)が成立した。さらに,87年10月のアメリカのブラックマンデーに端を発した世界的な株価急落,ドル安の再然の際には弾力的な市場運営を行ない,主要国との協調の下で為替相場の安定回復に努めた。

この間,長期金利(長期債流通利回り)も金融緩和,期待インフレ率の低下などを反映して大幅に低下した。しかし,①87年5月には,公定歩合が2.5%と低い水準にあるにもかかわらず長期債流通利回りが短期市場金利を下回るという,低金利期としては異例の状況となったこと(低金利期には,短期金利が長期金利を下回るのが普通),②バンクディーリングの解禁(85年6月残存期間制限の撤廃によりディーリングが本格化)等を背景に債券の売買高が急激に増大していることなどを考えると,当時の長期金利の水準が87年春頃を中心にファンダメンタルズからかい離して大幅に低下していた可能性も高い。つまり,資産価格だけにバブルがあったのではなく,資産価格に影響を与える重要なファンダメンタルズである長期金利自体がバブル的な低下を示していた可能性がある。

(価格上昇期待の自己増殖的膨張)

以上のように,80年代後半における資産価格の上昇は,ある程度はファンダメンタルズの動きによって説明することができる。しかし,実際の資産価格はそれだけではとても説明できないほど上昇した。ここではそれがなぜだったのかを考えてみる。それはバブルがいかにして発生したかを考えるということでもある。

バブルの発生に重要な役割を果たすのが,資産価格上昇期待である。フローの財・サービスの価格とは違って,ストックは長期的に残り続けるものであるため,その価格には経済主体がそのストックに関してどのような将来の期待を持っているかが大きく影響する。経済主体がストックの価格について将来的に上昇期待を高めると,キャピタルゲインを狙った投機的な需要が膨張し,それが需給を逼迫させるという形で価格を上昇させることになる。

80年代後半には,株価・地価の上昇が大幅かつ継続的なものとなるにつれ,国民全体のなかに,さらなる値上がり期待が高まっていった。「財テク」と呼ばれる積極的な金融取引がもてはやされたり,「地上げ」に象徴される不動産の転売益に関心が集まるなど,企業や個人の間では,キャピタルゲイン獲得を目的とした株式・不動産投資がブームとなった。このような自己増殖的な投機行動が,資産価格を経済のファンダメンタルズからは考えられないような水準にまで上昇させ,いわゆる「バブル」を引き起こすこととなった。

当時,株価・地価についての値上がり期待がいかに強いものだったかは,金融機関等から資金を調達して,これを株式や不動産等に投資する動きが各方面で急増したことに端的に現れている。それが,第1節で見たように,80年代後半に企業・家計等で,株式・土地を中心に総資産の増加テンポが加速し,同時に負債の増加テンポも加速するという結果となったのである。ではその具体的な内容はどのようなものだったか。それをまず企業,次に家計についてみよう。

バブル期における企業の特徴的な行動としては,次のようなものがみられた。

その第一は,資金調達面で,大企業において転換社債やワラント債の発行が急増したことである。こうしたエクイティファイナンスの増加は,海外起債の自由化や適債基準の緩和といったそれまでの自由化措置とともに,株価上昇期待の高まりを背景に,表面上低い資金コストで資金調達が可能になったことによるものである。

第二に,株式投資の面では,直接購入以外に,特定金銭信託やファンドトラストを通じた投資が急増した。日本の株式配当利回りはもともと低水準であり(80~86年平均1.2%),80年代後半には株価上昇のなかで一段と低下している(88~90年平均0.5%)。にもかかわらず株式投資が活発化したのは,強いキャピタルゲイン期待(株価上昇期待)があったからと思われる。なお,こうした低水準の配当利回りやそれにともなうキャピタルゲイン狙いの投機の盛行は,日本における法人中心の株式保有構造が下地となっているとも考えられる。さらに,債券としての収益性は低いにもかかわらず転換社債やワラント債が,投資対象として人気を博したのも,株価上昇期待がいかに強かったかを物語っている。

第三に,不動産投資の面では,不動産業のみならず一般の企業においても土地取得の動きが活発化した。その中には当面の事業活動のためというよりは,地価上昇期待に基づく投機的な投資がかなり含まれていた可能性が強い。不動産業の土地取得についてみると,不動産業の土地資産と棚卸し資産(土地が多く含まれている)は,東京で地価上昇が顕著となった85年度以降増加しており,不動産業において,先行的な土地投資が活発化していたことがわかる( 第2-2-6図① )。また,不動産業以外の一般の企業についても,80年代後半には,不動産業以上に不動産投資の増加率が高くなっており,こうした中には一部投機的な土地購入もあった可能性がある( 同図② )。

個人についても,次のような動きがみられた。

第一に,資金調達面では,資金使途自由のフリーローンが大幅に増加した。これには保有不動産の担保価値が増大したことも一因となっている。

第二に,株式投資の面では,直接あるいは間接的に株式での資金運用が増大した。個人の金融資産の増加額を商品別にみると,80年代後半には,株式,投資信託,保険への運用シェアが増加しており,投資信託や一時払い養老保険,変額保険等を通じた形でも,株式値上がり益を享受しようとする動きが活発化していたことがわかる( 第2-2-7表 )。この背景としては,①個人の資産蓄積が進み収益性への関心が高まっていたこと,②金利低下によって預貯金の魅力が薄れていたこと,③NTT株式の売却が87年から始まったことなどにより一般個人の株式投資への関心が高まったこと,などがあげられよう。

第三に,不動産投資の面でも,借入資金によりアパート経営やマンション投資を行う動きが広がった。これには,不動産の値上がり期待のほか,節税対策という側面もあり,こうした経路からも地価高騰は不動産投資を刺激する結果となった。

最後に,当時の世論調査(総理府世論調査:土地88年6月,株式89年2月)によって,当時一般国民が土地・株式についてどのような意識を持っていたかをみると,土地については,回答者の6割以上が「土地は貯金や株式などに比べて有利な資産である」と考えており,また4分の3が「これからも値上がりを続ける」と答えている。また株式についても,保有者の半数は「値上がり益を目的としている」と回答している( 第2-2-8図 )。これによっても,一般国民レベルで資産価格上昇期待が強かったことが分かる。

以上のような,企業,家計における資産価格上昇期待に基づく投資行動の高まりの背景としては,83年頃からの株価・地価の継続的かつ大幅な上昇の下で,今後も値上がりが続くだろうという,値下がりリスクを忘れた安易なキャピタルゲイン期待を指摘できよう。また,こうしたなかで,金融政策が緩和スタンスを持続したことも,価格上昇期待を高めた一因と考えられる。株価については,ブラックマンデーを契機として世界的に株価が下落した後,日本は他国に先がけて一早く株価が回復したが,このことが,日本の株価の底固さを投資家に印象付けるとともに,その後の株価暴落懸念を薄れさせた可能性がある。また,株価高騰時には,Qレシオ(株価/時価評価ベースの一株当たり純資産)のような新たな株価理論が展開されていたこともある。地価についても,土地ほど有利な資産はないといういわゆる「土地神話」の存在が,地価の高値警戒感を失わせたことが考えられる。

こうした資産価格の上昇期待は,実際に投機資金を資産市場に呼び込み,ある程度の期間にわたって期待を実現させる効果をもたらすこととなった。

(金融機関の融資姿勢の積極化)

80年代後半には,金融機関の融資姿勢が積極化し,金融機関による信用供与額は大幅に増加した。このことも,結果的に土地・株式に対する投機行動をファイナンス面から支え,価格上昇期待に基づく投資行動を実現させることにつながった。

当時融資姿勢が積極化した背景としては,長期にわたり大幅に金融緩和がされ,資金需要が高まったのに加え,主に次の様な要因が考えられる。

第一に大企業の銀行離れが進展した。製造業の金融機関借入金依存度は内部資金化率の上昇に伴い,70年代半ばを転機に低下傾向に転じたが,さらに80年代以降,資本市場を通じた資金調達手段の自由化が進展し,株価の上昇とも相まって,大企業の銀行離れが促進された。

第二に,金利自由化の過渡期にあって金融機関において資金調達コストの上昇が意識されたことが挙げられる。

第三に,金融機関においても,土地・株式等資産価格の下落リスクに対する意識が希薄化していたという可能性もある。

このように,リスク管理の重要性が十分に意識されないまま,金融機関は融資姿勢を積極化させ,特に長期貸出や中小企業向け貸出,個人向け貸出,さらには不動産業向け貸出が急増した( 第2-2-9図 )。また,この時期,ノンバンクと呼ばれる金融機関以外の金融業からも,不動産関連の資金が大量に供給されていたが,金融機関はノンバンクに対しても融資を行っており,ノンバンクの積極的融資活動を資金面から支えていたといえる。

以上のように,金融機関が旧来の横並び意識も手伝ってほぼ一律に量的拡大に傾斜したことも,結果的に,投資家に土地・株式に対する投機資金を提供し,バブルの発生を許容する一つの要因となった。

(諸外国におけるバブルの発生状況)

80年代後半にバブルが発生したのは,日本だけではなかったと考えられる。いくつかの国でも当時,地価や株価といった資産価格の大幅な上昇がみられた。特に不動産価格については,外国の理論価格を試算することは日本のそれについてよりもデータの制約等が多いため,一層困難であるが,一応の試算をしてみると,スウェーデン及びイギリスで収益還元モデルによる理論価格をはるかに上回る上昇がみられた他,フランスでも理論価格からのかい離がみられており,これらの諸国ではバブルが発生していたと考えられる。また,アメリカの不動産価格については,全体としては理論値とのかい離は生じなかったが,80年代半ばに南部を中心に不動産価格が急上昇し,その後急落するという動きが生じている( 第2-2-10図 )。

こうした資産価格上昇の背景には,それぞれ様々な事情が影響しているが,その中で共通してみられるのが金融機関の融資姿勢の積極化である。これは,基本的には世界的な金融緩和の持続が影響しているものと見られるが,幾つかの国では,この時期の金融自由化がこうした金融機関行動に影響していた可能性がある。

イギリスでは,70年代前半の金融危機後,一時強化されていた金融規制が80年代に入って解除されたのに伴い,商業銀行と住宅金融組合との間で不動産関連融資の競争が激化した。スウェーデンでは,金融自由化の下で銀行が個人向け融資に積極的に参入したため,従来消費者金融を行っていたノンバンクが不動産貸付を拡大させた。フランスでも,金融自由化により金融機関の不動産貸付がこの時期に高まっている。また,アメリカでも,80年代半ばには,競争激化による運用難や調達コストの上昇に対し,金融機関が企業買収資金貸付や不動産関連の融資を増大させている。これに対し,ドイツ(旧西独地域)では,金融機関の融資行動には80年代を通じて大きな変化はみられず,地価・株価にも目立った動きは生じていない。

こうした各国の状況は,不動産向けを中心とした金融機関の融資姿勢の積極化が,ファンダメンタルズを上回る不動産価格高騰の一因となった可能性を示しており,日本での金融機関行動とバブル発生の関係を強く示唆する結果となっている。

4 株価・地価下落の背景と現状

バブル状態にあった株価・地価に反転のきっかけを与えたのは,基本的には金融環境の変化であったと考えられる。その後,資産価格が下落基調に転じたことが明らかになってくると,資産価格の値上がり期待を前提とした投機的需要は急速に剥落し,一挙に需給バランスが崩れ,資産価格はさらに下落してバブルは崩壊した。

(株価下落のきっかけ)

株価・地価は,ファンダメンタルズから大きくかい離して上昇を続けていたが,振り返ってみれば,国民の間にバブル期待が色濃く残るなかで,相場は大きな反転の局面を迎えていた。相場反転前後の動きをやや詳しくみることで,何がバブル崩壊のきっかけとなったのかをみていこう。

はじめに株価についてみると,90年以降の本格的な金利の上昇が,株価上昇期待の鎮静化に大きく影響したとみられる( 第2-2-11図 )。すなわち公定歩合は,87年2月以降2年3か月にわたって2.5%で据え置かれてきたが,89年5月,景気過熱によるインフレ発生を未然に防止する観点から,9年ぶりに引き上げられた。これを受けて,一時5月から8月にかけては株価に高値警戒感が台頭し,模様眺めの展開から売買高が減少する局面もみられた。しかし,その後年末にかけては再び売買高も増加し,株価は一段と上昇基調をたどった。89年後半に至っても,転換社債やワラント債の発行額,株式投信の設定額が高水準だったことをみても,依然として強い株価上昇期待が残っていたと考えられる。

この時期,公定歩合の引上げにもかかわらず,株価上昇期待が依然として根強かった理由としては,次のような点を指摘できる。第一は,長期金利の上昇が89年中緩やかなものに止まったことである。これには,アメリカの長期金利が89年中低下傾向をたどったため,日本の長期金利についても先行き低下期待が根強く残っていたということが影響している。第二は,企業の業績が引き続き好調だったことである。89年中における企業収益予測をみると,89年度についてはなお増益が予想されており,その増益幅も収益予測が改訂されるたびに上方修正されていた。さらに,景気過熱の兆しがうかがわれていた時期だけに,ある程度の公定歩合引上げはむしろ景気の持続に寄与するとして株式の買い材料として受け止める向きもあった。

こうした状況は,90年以後の本格的な金利上昇とともに大きく変化することとなった。公定歩合は,89年10月,12月及び90年3月とたて続けに3回引き上げられ,5.25%とプラザ合意前の水準にまで戻った。こうした金融政策はインフレを未然に防止する措置として実施されたが,資産価格是正を念頭においた「バブルつぶし」との受け止め方が国民の間に広がった。また,90年に入ると,アメリカで物価上昇率の高止まりから長期金利が上昇し始め,ドイツでも東西統一による資金需要の高まりから長期金利が一段と上昇した。このため,日本でも長期金利の先行低下期待は急速に薄れ,長期金利の上昇と同時に株価の下落が始まった。3月には,長期金利の上昇(債券安)が続くなかで,海外資金需要の高まりや日本の経常黒字の縮小から円安が進行し,株安とあわせて「トリプル安」と呼ばれる状況が生じた。その後4月から7月にかけては,やや値戻しの場面もみられたが,8月初に湾岸危機が発生し,インフレ期待から長期金利が上昇する中で,8月末には公定歩合が0.75%引き上げられ,株価はさらに大幅に低下することとなった。こうした90年中の株価の動きを通じて,投資家の株価に対する過剰な値上がり期待は薄れていったのではないかと考えられる。

(地価下落のきっかけ)

次に,地価下落のきっかけをみよう。東京圏の地価高騰については,88年から鎮静化し始めたが,多くの地域では,その後むしろ上昇率は拡大した。地価のバブルが本格的に解消に向かったのは,90年前後に相次いでとられた,土地基本法以降の税制面の見直しや金利の引上げ,土地関連融資の総量規制の導入などの措置によるところが大きいとみられる。

86年以降,当時地価高騰が顕著だった東京を中心に地価抑制策がとられてきた。87年8月には,国土利用計画法に基づく土地取引に関する監視区域制度が導入され,地価が急激に上昇している区域等においては,小規模な土地取引についても届出の対象とすることができることとされた。また,税制面では,87年9月に短期の土地売買による所得に対して超短期重課税制度が導入されたほか,金融面でも,87年10月より大蔵省が不動産関連融資の特別ヒアリングを実施し,投機的土地取引に関連する融資の厳正化を図った。こうした一連の措置により,88年中は,東京では地価はやや下落に転じた。しかし,大阪,名古屋をはじめとする大都市圏の地価上昇はむしろ88年に顕在化し,その後地方圏へと波及していった。これは,低金利と好景気という良好なファンダメンタルズのもとで,土地の値上がり期待が強く,東京の地価に比べて割安感のある地域に順次資金が流入していったことによると考えられる。

このような状況の下で,地価に対する総合的な政策の必要性が求められ,89年12月には,土地についての基本理念を定めた土地基本法が成立し,91年1月には総合土地政策推進要綱が閣議決定された。これらを受けて税制面では,地価税の創設,土地譲渡益課税の適正化や土地の相続税評価の適正化・均衡化が図られたほか,固定資産税の評価の均衡化・適正化や特別土地保有税の全般的見直しなどの措置が講じられた。また,土地のより適正な利用及び優良な賃貸住宅の供給も考慮して,91年9月に借地・借家法の見直しが行われた( 第2-2-12表 )。

また,金融面からは,先に述べたように89年5月より引締め局面に転じるとともに,90年4月より各金融機関の不動産業向け貸出について,公的な宅地開発機関等に対する貸出を除き,その増勢を総貸出の増勢以下に抑制するいわゆる総量規制が実施された。これ以降不動産関連の資金の流入が大幅に抑制された。

既に見たとおり,地価は東京圏においては88年,大阪圏などでは90年に上昇が鎮静化し,91年以降大都市圏から本格的に下落に転じている。しかし,土地取引の状況をみると90年半ば以降減少しており,この頃から土地の需給や投機の流れは変わりつつあったものと考えられる。これには,本格的な土地政策の推進や土地関連融資の総量規制の導入に加えて,金融政策の引締めスタンスが明確化してきたことも,地価の一方的な上昇期待の解消に大きく寄与したものとみられる。

(バブル崩壊のメカニズム)

ひとたび資産価格が下落しはじめると,今度はバブルとは逆のメカニズムが作用しはじめ,値下がり予測が投機的な需要を抑制し,それが需給を緩和させて実際に価格を下落させることとなった。バブルが崩壊したのである。

まず,需要サイドの動きを見ると,資産価格が下落に転じたことで,資金の流入が止まった。資産価格に対する楽観的な見方は一掃され,値上がり期待による仮需がなくなったばかりか,これまでの価格上昇がバブルだったという認識が高まり,一般の投資マインドも急速に冷え込んでいった。こうした動きに,心理的に影響したこととして,土地・株式等の資産取引に絡む様々な事件や不祥事等の発覚があった。まず,90年夏以降,仕手集団による不正株式売買事件や,一部企業の不動産・株式等に絡む乱脈経営が発覚するとともに,これに大手金融機関が関与していることが明らかとなった。91年6月には,大手証券会社が大口顧客の株価下落に伴う損失を補填していたことや暴力団と関わりを持っていたことが明らかとなった。また,7月には,大手金融機関において,ノンバンク等からの融資の担保とするために預金証書が偽造されていた事件も発覚した。その後,損失補填問題は証券各社に広がりをみせ,また関西の中小金融機関において総預金量に匹敵する規模の預金証書が偽造されていたことが明らかとなった。こうした一連の証券・金融不祥事の発生は,一般国民の証券・金融システムに対する信頼を失わせ,投資マインドの急速な冷え込みにつながっていくこととなった。

資産価格上昇期には,借入資金等の負債と株式・土地等への資産投資が両建てで増加したことは既にみたが,後に詳しくみるとおり金利上昇で金融コストが高まる一方,資産投資の収益率が低下したため,個人も企業も両建て取引を解消する動きが活発となった。また,企業は,決算対策上,資産価格の下落に伴う売買損・評価損を相殺するために,価格がピーク時より下落したとは言え,なお含み益のある株式や不動産についても売却する動きをみせ始めた。このような両建て解消や決算対策に伴う特金・ファントラの解約,保有不動産の処分は,売りが売りを呼ぶかたちで,さらに資産価格の下落を招くこととなった。

次に供給面をみると,資産価格の上昇期には,値上がり期待により需要に対応して資産の供給増も図られてきたが,いざ仮需がなくなってみると,供給の過剰が急速に顕在化し,資産価格の下落に拍車をかけることになった。

株式市場では,大量のエクイティファイナンスが行われたが,このなかには,実際に株式の発行増となったものの他に,転換社債やワラント債として発行されたものがある。株価下落により,転換社債は転換されないまま,ワラント債の新株引受け権は行使されないまま残存しており,仮に株価が転換社債やワラント債の発行時に期待されていた水準まで上昇した場合には,追加的な株式発行につながることが予想される。

不動産についても,都心部のオフィスをみると,92年に入って空室率が上昇している。さらに,オフィス供給では計画が作成されてから,実際にビルが完成してオフィスが供給されるまで,かなりの年数を要することから,今後供給予定のオフィスも多数存在し,長期にわたって供給超過の状態が続くことが予想されている。

(資産価格の現状)

株価の最近の動きをみると,92年8月末に総合経済対策等を受けて急反発した後,93年2月にかけては,総じて横ばいで推移した。この間政府は,総合経済対策の一環として,株式運用規制の見直しを行い,郵貯,簡保等の公的資金については,財政投融資の追加分と合わせ2兆8,200億円の株式組入れ比率を制限しない新たな単独運用指定金銭信託(指定単)を設けた他,NTT・JR・JTの政府保有株式等の売却の凍結・見送り,個人投資家の長期安定的な株式投資のための株式累積投資制度の創設等の施策を講じた。その後,93年3月以降,93年度当初予算の年度内成立や4月の総規模約13兆2,000億円の「総合的な経済対策」の策定の他,景気指標の一部に回復の兆しを示す動きが見られてきたことから株価は大幅に上昇し,4月には約1年ぶりに日経平均で2万円を回復した。また,こうした株価の上昇を受けて,3月以降東証一部の一日平均売買高も5~6億株に達するなど,取引も活発化している。

一方,地価については,93年入り後,大都市圏においては引き続き下落しており,地方圏においても横ばいまたは下落の傾向にある。用途別にみると,商業地では,オフィスの供給過剰を背景に東京都区部中心部で著しく下落しているのをはじめ,大都市圏においては引き続き下落しており,地方圏においては下落又は横ばいの傾向にある。これに対し住宅地では,大都市圏で総じて下落基調が続いているが,価格水準の低い地域を中心として下落幅が縮小しており,地方圏においては,横ばい又は下落の傾向にある。