平成2年

年次経済報告

持続的拡大への道

平成2年8月7日

経済企画庁


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第1章 長期拡大と経済バランスの変化

第3節 需給バランスの現状と物価

景気上昇局面が長期化するにつれて,景気回復初期には豊富であった供給余力(スラック)が少なくなり,需給バランスは引き締まり基調となっている。

また,労働力需給も引き締まっており,企業の人手不足感にも広がりが,みられる。こうしたなかで,企業収益率は,高水準ながら上昇傾向に頭打ちの感もみられ,平均費用が下げ止まっている可能性もうかがわれる。さらに,為替の円安化が進み,円建て輸入物価の上昇も続いている。本節では,このようなGNPギャップの縮小,労働力需給の引き締まり,為替の円安化がインフル圧力を高める危険性がどの程度存在するかについて検討を加える。

1. GNPギャップの動向

景気上昇局面では,潜在生産力の伸びを需要の伸びが上回り,GNPギャップを縮小させていく。これが長く継続すると最後には供給余力がほとんどなくなり,需要の拡大は賃金,物価の上昇あるいは経常収支の悪化を引き起こすだけの状況になってしまう。今回景気上昇局面は本年7月で44か月続いており,円高不況の後で相当に供給余力がある状態から始まったとは言っても,力強い需要の拡大がGNPギャップを相当縮小させてきたものと推測される。現に,いくつかの産業部門では生産が需要に追いつかないといわれている。

そこで,まず,経済成長が供給側のどのような要因によって支えられているのかをみておこう。このため,資本と質を考慮した労働を生産要素とする生産関数(付注1-1)を計測し,これに基づいて潜在的な供給力を示す潜在生産力を求める。この潜在生産力と現実の生産の差がGNPギャップであるが,このGNPギャップが大きい場合,生産のために利用され尽くされていない遊休生産要素があり,それを活用すれば生産を増加させることができることを意味し,これが小さい場合需給逼迫が起きていることを意味する。その遊休生産要素を実際に投入された生産要素に加えたものが最大可能要素投入量であり,これを実際の要素投入に代えて生産関数に与えると潜在生産力を算出することができる。この潜在生産力から現実の生産水準を差し引いたものがGNPギャップである。

具体的には,まず,技術革新等の資本や労働に還元されない要因による生産性の向上を示す全要素生産性については実績値をそのまま与える。次に,資本サービス投入については,実際の資本ストックに稼働率の過去のピークの値を乗じて最大投入可能量とする。

最後に,労働の最大投入可能量を求めるが,労働投入は就業者数,労働時間,労働者の質からなり,やや複雑になる。就業者数については,労働力が遊休化するのは失業だけでなく,女子を中心に労働市場から退出し労働力人口そのものがかなり変動するという点を考慮に入れる。そこで,次のような手順を踏む(詳細は付注1-2)。①失業率と欠員率の関係から構造的失業率の水準を求め,②労働力率と完全失業率等との関係についての推計式に基づいて①に対応した労働力人口を試算する。③②で求めた労働力人口から①の構造的失業率に相当する失業者数を引いたものを最大就業者数とする。労働時間については,一人当たり所定内労働時間の実績に稼働率と失業率で推計して求めた所定外労働時間を加えたものを最大一人当たり労働時間とする。労働者の質については,景気循環による影響を除くため,5年移動平均をとる。これらを乗じて労働の最大投入可能量とする。

以上の推計により潜在生産力を現実の生産量と比較し,その差であるGNPギャップを求めたのが第1-3-1図である。これをみると,GNPギャップは景気回復が始まった86年度がら88年度にかけてそのギャップは縮小してきていることがわかる。

2. 労働力需給の動向

(労働力需要の拡大)

今回景気上昇局面においては,生産拡大が続くながで,労働力需要は力強く増加している。就業者数に一人当たり労働時間を乗じた総労働投入は高い伸びを続けているが,その増加の内容は一様ではない。第1-3-2図をみると,景気回復初期には所定外労働時間(残業)の増加による短期的な調整がみられたが,景気上昇が軌道に乗るに伴い,就業者数の増加による中長期的な調整へと移行していることが判る。このような労働投入の調整の方法は,不確実な需要の動向に対してできる限り雇用を安定させようという企業の雇用方針によるものであり,今回に限らず全ての景気上昇局面でみられるものである。むしろ,特徴的なのは,今回の景気上昇局面が息長く続いており,かつ,内需主導で雇用吸収力が大きいため,就業者の増加が他の安定成長期の景気上昇局面に比べて著しく大幅なものとなっている点と所定内労働時間の減少幅がやや大きい点である。

所定外労働時間(調査産業計)の動向をみると,87年度は前年度比6.8%増,88年度は同5.6%増と大幅な増加がみられたが,89年度に入ってからは,既にかなり高水準となったこともあって頭打ちとなり,最近では出勤日数の滅少もあってやや減少したため,年度全体では同0.6%の微増となった。また,所定内労働時間は,それまでほぼ一定していたものが,88年4月の改正労働基準法の施行による当面週46時間への移行,金融機関の完全週休2日制の実現,中小企業をはじめとする週休2日制の普及等から88年度には対前年度比1.3%の減少となり,89年度には同1.0%の減少となっている。以上の結果,労働者一人当たりの総実労働時間は88年度の0.7%の減少に続き89年度は同1.0%の減少となっている。

これに対して,就業者数の動向をみると,87年度は前年度比1.3%増,88年度は同1.7%増と徐々に伸びが高まり,89年度では同2.1%増と大幅に増加している。男女別にみると,男子が87年度0.9%増,88年度1.5%増の後,89年度は1.5%増とやや高い伸びとなっているのに対して,女子は87年度1.9%増,88年度2.0%増の後,89年度は3.1%増と大幅な伸びとなっている。産業別にみると,サービス経済化を反映してサービス業での増加が著しく,一時減少していた製造業でも増加している。雇用者数も,87年度1.6%増,88年度2.7%増と高い伸びを示した後,89年度には3.0%増とさらに伸びを高めた。

(労働力供給の拡大)

今回景気上昇局面においては,労働力需要の拡大に応じて雇用情勢が改善するなかで,労働力供給も拡大した。労働力人口の推移をみると,男子-が毎年約30~40万人の増加でほぼ一定しているのに対して,女子は,円高不況期に20万人程度となっていたものが,87年度には42万人増と男子の増加数を超え,88年度43万人増,89年度には68万人増となっている。女子の労働力供給がこのように増加のテンポを早めたのは,景気循環を通じて変化する女子の労働力供給行動によるところが大きい。女子就業者の中にはパートタイム労働者等,不況期に就労機会が減少し労働条件が悪化すると,失業者として労働市場にとどまることなく非労働力化したり,また好況期には逆に労働市場に参入してくる動きもみられる。

以上のような労働力人口の動きを15歳以上人口の増加,同人口の年齢構成の変化,各年齢階層別の労働力率の変化の寄与度に分解したのが第1-3-3図である。これをみると,男女とも15歳以上人口の増加の寄与度が,各々約50万人,約30万人とほぼ一定であり,年齢構成の変化もややバラつきがみられるものの,マイナスの寄与を続けているのに対して,女子の年齢階層別労働力率の変化の寄与度が今回景気上昇局面で著しく高いことが判る。89年度の女子の労働力率は49.7%となり,前年度に対して0.7%ポイント上昇した。これまでにも,87年度0.2%ポイント,88年度0.3%ポイント上昇してきているが,さらに加速した。これを年齢階層別にみると,育児年代の30~34歳台では上昇があまりみられないが,25~29歳台,45~49歳台,50~54歳台では著しい上昇がみられる。

このような女子の労働力率の上昇は,女子の就労意欲の高まりが背景にある一方で,雇用情勢が大きく改善し,特に女子の割合が高いパートタイム労働者に対する需要が増加した結果,家庭の主婦層を中心に従来未就業であった者が労働市場に参入し,新たに職に就いたことによる面が大きいと考えられる。この他,最近は年齢構成要因の労働力率押し下げ要因が低いこと,86年の男女雇用機会均等法の施行を契機として女子労働者の活用を図る企業が増えていること等が女子労働力率上昇要因として考えられる。なお,女子の年齢別労働力率のパターンは,先進国間でも様々であり,我が国では結婚・出産・育児期で低い,いわゆるM字型となっており,アメリカでは高原状となっている。我が国でも育児休業制度の確立等,女子の就業環境等が整備されれば,女子の労働力率がさらに高まる可能性があるものと考えられる。

(労働力需給の引き締まり)

このような労働力需要の拡大,特に雇用者数の増加テンポの高まりに応じて求人数は大幅な増加を続けてきたが,雇用者数の増加テンポが高い水準で安定するにつれて,このところ伸びは緩やかになってきている。新規求人数をみると,87年度は23.3%増,88年度は23.6%増と大幅な増加となった後,89年度に入ってからは増加テンポが緩やかとなり,年度全体では同7.7%増と伸びを低下させたが引き続き増加している。有効求人数は87年度に19.0%増と大幅に増加した後,求人が持ち越されることが多くなり,88年度は25.3%増とさらに伸びを高めた。89年度に入ってからはその増加傾向には鈍化がみられるようになり,年度全体では,同9.5%増と伸びを低下させたが引き続き増加している。

他方,雇用情勢が改善するに伴って求職者数は一貫して減少している。新規求職数は87年度の同6.2%減,88年度の同8.9%減に続いて89年度も同9.2%減となった。有効求職数は87年度は同4.0%減,88年度は同11.4%滅,89年度は同9.1%減と減少が続いている。

この結果,新規求人倍率は上昇を続けている。87年度に1.20倍と1倍を上回り,88年度は1.63倍へと上昇した。89年度に入ってからも上昇を続けており,90年1月,2月には2倍を超え,年度平均でも1.93倍と73年度に次ぐ高い水準となった。有効求人倍率も上昇を続けており,88年度には73年度以来15年振りに1倍を上回った。89年度に入ってからは,有効求職者の数はさらに減少を続ける一方で,有効求人数の増加傾向には鈍化がみられるようになり,有効求人倍率は年度前半は上昇を続けたが,最近は1.3倍台でほぼ安定しており,年度平均では1.30倍と73年度に次ぐ高い水準となった。なお,元来やや高いのが通常であるパートタイムの有効求人倍率は.86年度でも1.47倍となっていたが,有効求人の伸びが著しかったため,景気上昇とともに急速に上昇し,89年度では3.93倍となった。もっとも,このところではパートタイムの有効求人の伸びには頭打ちの感もある一方,有効求職者数は増加に転じたため,89年度後半にはやや低下した。

以上のような労働力需給の引き締まりの結果,一時3%台を記録した完全失業率は87年度に2.8%となった後,88年度は2.4%と大幅に低下し,89年度にはいってからも緩やかに低下を続け,年度平均では2.2%となった(第1-3-4図)。

(労働力フローの動向)

今回景気上昇局面においては,労働力需要が力強く増加するなかで,失業率が大幅に低下する一方,新たな労働市場参入者もある。また,中途採用を実施している企業の比率からみて,労働者の移動も活発化しているとみられる。このような労働市場の状況を第1-3-5図の労働力フロー(就業,失業,非労働力の各状態への流入とそれからの流出をいう。ここでは就業と失業の両状態のみを分析)によって詳しくみてみよう。

まず,就業状態のフローをみると,男子では,就業への流入は増加している一方,就業からの流出は88年央から横ばいで推移しており,就業者数の増加幅はやや拡大傾向となっている。流入面では,失業から就業への流入は景気の拡大に伴い87年から88年にかけて増加した後,失業者数の減少を反映して緩やかに減少しているものの,非労働力から就業への流入は大幅に増加している。流出面では,就業から失業への流出がほぼ一貫して減少する一方,就業から非労働力への流出は増加していたものがこのところ頭打ちとなっている。就業から失業へのフローの動きの背景としては,基本的には雇用情勢の改善に伴う非自発的離職失業者の減少が考えられる。なお,自発的な離転職が増加している一方(労働省「雇用動向調査」),自発的離職失業者の減少がみられることから,失業を経ることなく転職する者が増大していることが推察されるが,こうしたことが89年頃の動きに反映しているとも考えられる。また,就業から非労働力へのフローの動きについては,労働力需要が旺盛なことに加え,人手不足への対応もあり,定年延長等により高年齢者の雇用の継続を図る企業が多くなっていること等が考えられよう。

女子では,就業と非労働力との間でのフローが著しく大きいのが特徴である。

就業への流入は大幅に増加している一方,就業からの流出はこのところ減少しており,就業者数の増加幅がさらに拡大している。流入面では,失業から就業への流入は87年央以降わずかに減少していたものが89年には増加に転ずるとともに,非労働力から就業への流入は89年に入ってから大幅な伸びを示している。

流出面では,就業から失業への流出は88年にやや増加していたものがこのところ減少しており,就業から非労働力への流出はほぼ横ばいで推移している。就業から失業へのフローの動きの背景としては男子の場合と同じ要因が考えられる。また,非労働力から就業へのフローの動きは後述のような非労働力から失業への動きと併せてみると,非労働力からの新規参入が失業を経ずに直接就業する形で行われるケースが増えていることを示しているといえよう。

次に,失業状態のフローをみると,男子では,失業への流入は減少しており,また,失業からの流出が88年と比べ89年は減少しているものの,失業への流入を上回っており,失業者数の減少傾向の要因となっている。流入面では,就業から失業への流入が上述のようにほぼ一貫して減少を続けるとともに,非労働力から失業への流出もやや増加しでいたものがこのところ減少している。流出面では,失業から就業への流出が87年から88年にかけて増加した後,やはり上述のように失業者数の減少を反映して緩やかに減少する一方,失業から非労働力への流出は88年にわずかに増加していたものがこのところ減少している。

女子では,失業への流入はほぼ横ばいであったものが,89年に入ってから減少している一方,失業からの流出は増加しており,この結果,失業からの純流出が増加しており,失業者数の減少幅は89年央から再び拡大している。流入面では,就業から失業への流入は88年にやや増加していたものが減少する一方,非労働力から失業への流入は88年に減少していたものが緩やかな増加に転じている。流出面では,失業から就業への流出はやはり上述のように87年央以降わずかに減少していたものが89年には増加に転ずる一方,失業から非労働力への流出は87年から88年にかけて増加した後,減少している。

(労働力需給のミスマッチの状況)

円高不況の下では,安定成長期に入ってからの労働力需給の緩和基調に加え,輸出産業に依存する度合いの高い地域で特に雇用情勢が悪化したことなどから,労働力需給のミスマッチが拡大した。近年では,従来のトレンドに沿って失業率が減少する一方,欠員率が上昇するというマクロの失業率と欠員率の動きからみて,ミスマッチの状況にはあまり変化がないという言い方もできよう。しかし,若干,視角を変えて,地域別,年齢階層別,職種別というセミマクロ・レベルでの求人,求職のバラツキ具合でミスマッチをとらえてみよう。(第1-3-6図,厳密には同図の備考及び付注1-3参照)。このミスマッチ指標はあくまでも一試算であるが,これによると,内需主導の景気上昇がミスマッチの全般的な改善にある程度寄与してきたように見受けられる。しかるに,最近では,労働力需給の引き締まりの結果,一部職種・地域では逆にミスマッチの拡大も指摘できる。

これをやや詳しくみてみよう。まず,地域別には,地域間の景気格差が縮小するなかでわずかに改善がみられたものの,最近では改善傾向には下げ止まりがみられる。これは労働力需給の引き締まりから地域間のミスマッチが拡大する動きがみられることによる。次に,年齢階層別(有効常用,毎年10月調査)にみると,ある程度の改善はみられるが,年齢階層別の有効求人倍率には依然として格差が大きく,特に,高年齢層では有効求人倍率が1を大きく下回っているというように,状況は引き続き厳しい。最後に,職種別(新規常用,毎年8月調査)の動きをみると,全般的な労働力需給の引き締まりのなかで,保安,技能労務,運輸通信など一部職種の求人数が求職者数に比べ著しく増加し,職種間のミスマッチが拡大している。

このように総じてみるとミスマッチの状況はこれまである程度改善してきたが,このところ悪化の兆しもみられるようになっている。全般的な労働力需給の引き締まりのなかでは,ミスマッチの悪化は部分的には労働力需給をさらに引き締めることになり,ボトルネックを発生させることになりかねない。したがって,労働力需給に応じて地域間,産業間,職種間の労働移動が円滑に進むよう労働力の移動性を高めるとともに,不足している職業能力を開発・向上するための政策が必要である。また,高年齢層や,女子の能力発揮のための環境条件の整備などの政策を積極的に推進する必要がある。特に労働力確保が困難となっている分野においては,生産性の向上と労働条件の向上等による魅力ある職場環境づくりを図る必要がある。さらに地域間において均衡がとれた形での雇用機会の確保を図る政策を進める必要がある。

(賃金上昇の動向)

賃金上昇率は労働力需給の引き締まりにもかかわらず落ち着いている。賃金上昇の推移を現金給与総額でみると,前年度比で87年度は2.0%増,88年度は同4.2%増の後,89年度は4.8%増と景気の上昇に従って伸び率が次第に高まる傾向にはあるものの,引き続き安定している。給与項目別にみると,所定内給与は前年度比3.8%増(88年度同3.2%増)と伸びを高めているが,所定外給与は同5.2%増と所定外労働時間の伸びの鈍化を反映して88年度の同8.6%増を下回った。特別給与は前年度比7.4%増と大幅に伸びを高めた88年度の同5.6%増(87年度同0.8%増)からさらに伸びを高めた。産業別にみると,人手不足感が高い建設業と運輸・通信業では引き続きやや高まりがみられるものの,全体としては落ち着いている(第1-3-7図)。

90年の春季賃上げ率(労働省調べ,主要企業)は前年比5.94%と89年の同5.17%を上回り,これで3年連続で前年水準を上回ったが,物価上昇圧力という観点からみるとその水準はそれほど高いものではない。

このような賃金の安定の背景には,まず,物価が安定していることがある(実質賃金では比較的堅調な伸びとなっている)。次に,パートタイム等の相対的に賃金が低い労働力を活用していることが平均賃金の伸びを抑えていることがある。さらに,安定成長期に入ってからは,労働力需給が賃金上昇に与える影響が小さくなっていることがあり,このことは,労働力需給が緩和基調で推移したことや,石油ショック等による経済環境の激しい変化を経験する中で,より長期的な視点に立った賃金決定がなされるようになってきていることを反映しているものと考えられる。推計期間を変えた賃金関数の計測によると,安定成長期においては,労働力需給が賃金上昇に与える影響は小さくなっているどいう結果が得られる(第1-3-8表)。

(「物価上昇が加速しない失業率」)

失業率の水準が賃金上昇率に影響を及ぼし,他方賃金上昇コストが物価上昇率に影響を及ぼすというモデルについては,「物価上昇が加速しない失業率(Non AcceleratingInflationRate of Unemployment 通称NAIRU)」の水準を計算することができる。これが「物価上昇が加速しない失業率」と呼ばれるのは失業率がNAIRUを上回っていれば,物価上昇率は加速しないが,NAIRUを下回った場合は,長期的に想定された物価上昇率よりも加速することになる。ただ,加速するといっても,加速が続くのではなく,長期的に想定された物価上昇率よりもやや高いところに収束することになる。なお,NAIRUの水準は,NAIRUの推計方法,価格期待形成のあり方,許容し得る物価上昇率の水準,輸入物価,労働生産性の上昇率の想定などによって得られる結果が異なってくることにも十分留意する必要がある。

このNAIRUの考え方に基づいて,最近の物価と失業率の動向についてみると,失業率は低下してきているが,物価上昇が加速するような状況にはないと判断される(付注1-5)。

(人手不足の状況)

労働力需給の引き締まりの結果,中小企業を中心に企業の人手不足感には広がりがみられる。企業の人手不足感を日本銀行「全国企業短期経済観測」の雇用人員判断DIでみると,回復初期には引き続き雇用過剰感がみられたが,88年度に入ってからは過剰とする回答を不足とする回答が上回るようになり,89年度後半からは人手不足感が一段と広がっている。特に,中小企業の人手不足感には著しいものがあるが,大企業でも非製造業ではかなりの広がりがみられる。産業別にみると,非製造業では建設業,サービス業,小売業で人手不足感が高く,製造業では輸送機械,一般機械,鉄鋼などで高くなっている。また,職種別の人手不足の状況を労働省「労働経済動向調査(90年2月調査)でみると,従来から不足勝ちであったサービス業の専門・技術職,サービス職,卸売・小売業,飲食店の販売職で不足感がさらに高まり,景気回復初期にはやや過剰感のあった製造業の技能工,単純工で不足感が87年末から急に高まっている(第1-3-9図)。

このような人手不足は企業経営にも大きな影響を与えている。前記「労働経済動向調査(89年11月調査)」における特別調査によれば,事業の拡大が難しくなっているばかりでなく,小規模の製造業を中心に既存事業の維持運営が相当難しくなっているところもみられる。

同調査によると,このような状況に対応して,ほとんどの企業はこれまでにも何らかの対処を実施してきており,今後も対処を強化する姿勢がうかがわれる。まず,事業運営上の対処としてこれまでに実施してきたものは,製造業では,「下請け・外注の活用(62%)」が最も多く,次いで「省力化の推進(58%)」となっている。これを規模別にみると,規模が大きくなるほど「省力化の推進」が多く,「下請け・外注の活用」は小規模で多い。小規模では「受注量の削減及び納期延長」もかなりみられる。また,卸売・小売業,飲食店では,「省力化の推進(29%)」が,サービス業では,「外注・下請けの活用(55%)」が最も多くなっている。

将来的には,製造業で「省力化の推進(69%)」への取り組み強化がみられる。卸売・小売業,飲食店では,「省力化の推進(34%)」,サービス業では,「外注・下請けの活用(58%)」への取り組み強化がみられる(第1-3-10表①)。

次に,雇用面での対処としては,いずれの産業でも,「臨時・季節,パートタイム労働者の増加」,「若年常用労働者の中途採用の増加」が多くなっているが,小規模製造業,サービス業では「中・高年常用労働者の中途採用の増加」も多い。また,全般に,「出勤日,労働時間の増加」で対処しているところも比較的多い(第1-3-10表②)。最後に,労働者確保のための対処としては,「賃金引き上げ」,「年齢制限の緩和」が多くなっているが,中小製造業,サービス業では「出勤日,労働時間の短縮」,大規模製造業では,「福祉施設の充実」も多い。

ところで,建設業等を中心に人手不足から生ずる供給制約がみられる。たとえば,建設業では建設労働者の不足から建設工事の工期が延長されたり受注残高が積み上がる事態が発生している。製造業でも一般機械のように受注残の積み上がる例がみられる。このような供給制約は,これまでのところ,他の産業の生産を制約したり,一般物価の上昇へと波及するような動きはみられていないが,今後の推移には注意を要しよう。

設備投資に対しては,建設業や一般機械の受注残の積み上がり等により,計画から完工までの期間が遅れるという影響が現れている。また,運輸業では運転手の不足から車両の増加が見送られるという影響も出ている。このような供給制約による設備投資計画期間の長期化を資本財の受注から出荷までの時差相関関係の変化でみたのが第1-3-11図である。これをみると,機種構成が変化していることも考慮しなければならないが,景気回復初期には当期または翌期にしか明確な相関がみられなかったものが,計測期間を最近に近づけるほど2期後,3期後との相関が高まり,直近では5期後でも相関がみられる。これは,受注から出荷までの期間に相当ばらつきが生じていることを示唆しておリ,平均すると同期間が長期化していると解釈できよう。しかし,これは,設備投資を平準化させることによって景気の過熱を防止し,むしろ,景気拡大を長期化させるように作用しているものと考えられる。また,運輸業における運転手の不足も車両の大型化,簡易な移動体通信を活用した管理システム(MCAシステム,詳しくは第2章第5節参照。)などの設備投資を促進する面もある。

3. 企業収益からみた費用の動向

企業収益は費用の観点からみると資本に掛かる費用であるとみることもできるが,実際には企業部門が交易条件の変化や生産水準の変化の緩衝役(バッファー)となるので,企業収益が増加しているときにはむしろ物価の環境も良くなっていることが多い。たとえば,景気の下降局面では企業はすぐには雇用調整を行わないので,生産一単位当たりの人件費負担が増加し,収益が悪化する。

そして,上昇局面では生産拡大とともに人件費等の固定的部分の負担が軽減されるので,少々のコスト圧力は容易に吸収されてしまう。また,景気が成熟し,労働力需給の引き締まりから賃金等のコストが上昇すると,コスト上昇分ほどには製品価格を上げられず収益は悪化する。

今回景気上昇局面においても,これまでの景気上昇局面と同じく,企業収益の大幅な増加がみられた。これは,景気上昇のなかで売上げが増加する一方,コストの面での好ましい状況が続いていることを反映しているものと考えられる。すなわち,賃金が安定し,輸入原燃料の価格も大幅な円高の下で低下したことに加え,生産が拡大するなかで人件費等の固定費用の生産一単位当たりの負担が軽減され,平均費用が低下したことによるものと考えられる。さらに,非製造業や中小製造業では金融緩和による金融費用の低下も貢献していよう(第1-3-12図)。

ところが,最近では,売上高経常利益率でみると,改善傾向に頭打ちの感がみられる。これは,これまでは生産の拡大が平均費用の逓減に寄与していたが,稼働率がすでに高い水準に達し,生産増が固定費用の増大を要するようになってきた結果,平均費用が下げ止まるようになってきたことが大きいものと考えられる。これはGNPギャップの縮小とも符合している。

また,円安の傾向は,一方で輸出品の採算を向上させるが,他方で,輸入原燃料の価格の上昇は,投入コストの上昇を招き,投入産出相対価格の悪化を通じて企業収益にマイナスに働く。そして,金利の上昇は,自己資金が充実した大規模製造業では収益にあまり影響しないが,借入れ依存の高い非製造業や中小製造業では利益を低下させる要因になると考えられる。

このように企業収益を取り巻く環境をみると,これ以上利益率が上昇する余地が少なくなっていると思われ,コスト上昇が物価上昇圧力につながり易くなってくるおそれもある。しかしながら,日本銀行「主要企業短期経済観測」で企業の製品価格に対する見通しをみると,仕入価格は引き続き強含みで推移すると見込まれているものの,自社製品の価格見通しは引き続き慎重なものとなっていて,コスト増を転嫁する動きはいまのところみられていない。

4. 物価の動向

(落ち着いた物価の動き)

今回景気上昇局面では,物価は極めて落ち着いている。国内卸売物価は,前年度比で87年度1.7%の下落,88年度0.5%の下落の後,89年度は2.6%の上昇となった。消費者物価は同じく前年度比で87年度0.5%の上昇,88年度0.8%の上昇の後,89年度は2.9%の上昇となった。このような物価の安定化の傾向は安定成長期後半からみられるようになったものであるが,今回景気上昇局面ではその傾向がさらに強まった。この背景には,安定成長期に成立した賃金と物価安定の好循環に加えて企業の価格設定行動が慎重であること,プラザ合意以降の大幅な円高の下で「輸入の安全弁」効果が働いていることがあるものと考えられる。89年度に入ってからは,税制改革に伴う一回限りの価格上昇はあったものの,為替レートの円安傾向が続き,原油価格も上昇したにもかかわらず,国内卸売物価は落ち着いた動きとなり,消費者物価も安定した動きとなった。

この間の各要因と物価の関係を第1-3-13図の国内卸売物価と消費者物価の変動要因分解によってみてみよう。まず,国内卸売物価は,税制改革による一回限りの価格上昇分を除くと,輸入物価要因と単位労働コストがプラスに転じたが,需給要因による引き,上げがほとんどなくなり,輸入数量要因もやや小さくなってはいるものの引き続き引き下げ要因になっているため,落ち着いた動きを続けたことがわかる。また,消費者物価は税制改革に伴う一回限りの価格上昇がみられたが,これを除くと,賃金要因がやや高まり,輸入物価要因がプラスになっているが,需給要因による引き上げが小さくなり,輸入数量要因も小さくなってはいるものの引き続き引き下げ要因となっているため,88年度に比べるとやや高まりがみられるが引き続き安定した動きとなったことがわかる。

以上を総合すると,89年度においても物価が引き続き落ち着いていたのは,円安による輸入物価上昇とやや高まった賃金上昇の影響はあったものの,高めの成長から巡行速度での成長へと移行するながで需給がさらに引き締まる程度が徐々に小さくなり,これまでの円高による「輸入の安全弁」効果が持続したためと考えられる。

(「輸入の安全弁」効果)

「輸入の安全弁」効果とは,第一に,輸入の増加によって国内需給の引き締まりによる物価上昇圧力が放出される効果,第二に,大幅な円高の下で海外がらの競争圧力が強まっていることが物価上昇を抑制する効果,第三に,円高によって輸入原材料価格が下落しコスト面から物価上昇を抑制する効果が考えられる。89年度においては,これらのうち,第三の効果が円安のために働かなくなったが,85年以来でみれば大幅に円高になった為替レートの下で,他の2つは引き続き物価上昇を抑制する効果を現したものと考えられる。円安による輸入物価の上昇が国内物価の上昇をもたらすのではないかと懸念されたところであったが,実際には,国内需給のひっ迫が回避され,国内物価の安定が保たれてきた一因はここにあるといえよう。

国内卸売物価というマクロのレベルで,この効果が働いていることは,先の第1-3-13図の要因分解でみたが,ここでは,それをミクロ・レベルで明らかにしよう。まず,第一の効果を第1-3-14図①で輸入が急増した品目について国内出荷の動向をみると,掘さく機,旋盤などでは需要が強いため国内の供給も大幅に伸びたが輸入もそれ以上に急増したとみられる一方,ポリプロピレン,クレーン,メッキ鋼板では需要が強いにもかかわらず,国内の供給の伸びが充分でなく,輸入の急増によって需要が満たされたものと考えられる。前者でも国内需給の引き締まりを輸入増が緩和したものと思われるが,後者では特に輸入増が物価安定に果たした役割が大きかったと考えられる。

次に,第二の効果を財別の国内卸売物価指数と財別の輸入浸透度の関係でみてみたのが第1-3-14図②である。これをみると,エチレン,電卓など製品差別化の影響の少ない品目では輸入浸透度があまり高まらずに価格の低下がみられるが,その他の品目では輸入浸透度の高まっている品目ほど価格の低下幅が大きいという傾向がみられる。

(サービス価格の動向)

サービスは,総費用に占める人件費の比率が高く,財貨よりも賃金コスト上昇による価格上昇の影響を受け易いと考えられる。賃金上昇率は安定しているとはいえ徐々に高まってきており,前述の消費者物価上昇の要因分解でみたように賃金上昇要因の寄与度も高まりをみせるなど,その影響には注視が必要であろう。また,サービスでは貿易を通じた海外との競争がないので,「輸入の安全弁」効果の作用にも限界がある。そこで,消費者物価指数(総合)とサービスの消費者物価指数(以下,サービスCPIと略)の上昇率の動向を比較してみよう (第1-3-15図)。

サービスCPIと一言でいっても,その内容にはかなりの違いがあるので,まず,その内訳をみてみよう。個人サービス料金の上昇率は87年度,88年度と前年同月比で2%台前半で推移した後,89年度に入っては同5%弱となっている。

公共サービス料金の上昇率は電力・ガス料金の引き下げで88年度に前年同月比で1%を下回り,89年度に入っては同2%強となっている。外食の上昇率は87年度,88年度に前年同月比おおむね1%弱で推移した後,89年度に入っては同4%台半ばとなっている。この他に,ここでは示されていない家賃,帰属家賃分があるが,以上のような各項目の推移の結果,サービスCPIの上昇率は87年度に前年同月比2%程度で推移していたものが,88年度中には同1%台半ばまで低下し,89年度は同3%台半ばとなっている。これに対して,CPI総合の上昇率は85年以降の急激な円高の進展の下で大きく低下し,一時はマイナスを記録したが,87年度から88年度にかけて前年同月比1%未満で推移し,88年度後半には同1%強,89年度には振れ幅が大きいが同3%前後となっている。

以上のように,サービスCPIの上昇率は輸入物価の下落を背景として安定を示しているCPI総合のそれを一貫して上回っているが,両者の乖離幅をみると,プラザ合意以降の円高の下で上昇率が拡大し一時は3%以上に達した後,徐々に縮小し,最近では生鮮食品が大幅に上昇したため,一時的とは思われるが,ほとんど差がなくなっている。サービスCPIのなかでも賃金上昇の影響が大きいと考えられる個人サービス料金でも乖離幅の拡大はみられないし,外食については,税制改革の影響の現れ方の違いを考慮に入れれば乖離はほとんどないものと考えられる。このように,これまでのところ賃金上昇の高まりがサービスCPIの上昇率を押し上げる明らかな兆候はみられていない。しかしながら,今年4月以降の動向を前月比でみると,総じて安定した動きを続けているものの,サービス料金の改訂期にあたる4月は個人サービスを中心に大幅な上昇となるなど,サービスCPIの動向には引き続き注視が必要である。

(地価高騰が物価に与える影響)

地価が高騰した場合には相前後して家賃,地代の上昇が起こることが多い。そこで,家賃,地代の上昇が生産コスト増をもたらして物価上昇につながるおそれについても検討が必要である。土地の利用度が高く,地代・家賃支払いが総費用の重要な部分を占めると考えられるサービス価格(付表1-8)の動向をみたのが第1-3-16図である。これをみると,他のコスト要因が含まれることには留意する必要があるものの土地利用型サービス価格の上昇ペースは家賃とともに消費者物価指数(総合)よりも明らかに高いが,このところ加速したとはみられない。また,総合指数との乖離にしても土地利用型サービスがとくに他のサービスCPIの動向と異なるとは思われない。以上からみて,地価高騰が物価に与える影響はこれまでのところ限られたものとなっている。

地価と地代,オフィス賃料,家賃等との関係については,将来の需要増大による地代等の上昇が見込まれることが地価上昇の一因になると考えられる一方,地価上昇が地代等を上昇させる要因になることもある。したがって,今後の地代,賃料,家賃等の推移が注目,される。また,ここに示した消費者物価指数の家賃には既存契約分が含まれており,今後,家賃・地代の更改時に引き上げられると,地価高騰の影響が徐々に出てくるおそれもある。オフィス賃料についても同様に新規分は既にかなり上昇している(第3章第1節参照)が,既存分は契約更改時まで影響が出るのが遅れているのでコストの増加という点では今後も影響が続くと考えられる。したがって,今後の土地利用型サービス価格の動向には引き続き注視が必要である。

以上,総合すると,GNPギャップの縮小や労働力需給の引き締まりなどが直ちにインフレにつながる危険性は大きくないものと考えられるが,企業収益を取り巻く環境をみると,コスト圧力が高まると物価上昇につながり易くなってくるおそれもあるので,物価の動向には注視が必要である。