昭和57年

年次経済報告

経済効率性を活かす道

昭和57年8月20日

経済企画庁


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第II部 政策選択のための構造的基礎条件

第3章 新しい国際分業と産業調整

第4節 各国の産業調整の経験(アメリカ,西ドイツ)

1. アメリカ

アメリカが対外通商政策においても自由貿易原則と保護主義的傾向という矛盾した両面を有していることは第3節で指摘したとおりであるが,対内的経済政策においても,例えば反トラスト政策が一方でシャーマン法やクレイトン法における反独占的競争促進政策と,他方ロビンソン・パットマン法における中小企業保護の競争制限的性格という矛盾する側面を有している事は以前から指摘されている。

現実の政策選択の中に多くの相矛盾する要因が含まれることは他の諸国においても同じであるが,アメリカの場合は一方で原則的主張を好む国民性があること,他方同時にチェック・アンド・バランスの上に立った政治体制であることが自由経済原則と保護政策という矛盾した主張の相克を際立たせる結果となっていると考えられる。

アメリカの対内経済政策はいうまでもなく自由市場経済の原則の上に立っており,産業に対する政策は市場機構が十分に機能するための制度的枠組の設定を主眼とし,個別産業分野に政府が関与することは飽くまで例外的な場合に限られるものとされてきた。したがって,アメリカには「産業政策」という概念はないといわれてきたのである。

しかし,一方で中進工業国に対し比較劣位に立つ産業分野が拡大し,他方産業全般に生産性上昇の鈍化傾向が蔓延するに伴って,連邦政府の産業分野に対する政策的関与の程度は顕著に高まってきた。政府の産業に対する政策は,投資減税や雇用促進策といった市場機構の原則内にあるものから,個別産業に対する保護援助,さらに特殊事例としてではあるが,ロッキードやクライスラーといった個別企業に対する限定的援助にまで範囲を拡げたのである。

この中で,特に産業調整政策としての性格を有しているものは,次のものがある。( 第II-3-20表 )

他方産業側の対応としては,全般に政府の介入・援助に対する依存度を徐々に強めてきていることが観察される。

繊維産業の通商的保護措置は,1957年の日米綿製品協定に始まり,その後類似の二国間協定が徐々に拡大し,綿製品短期協定が長期協定となり,結局1974年にいたって,GATTの国際繊維協定(MFA)の締結につながっていった。ここでみられることは,当初限時的であったはずの調整的保護政策の長期化,対象範囲の拡大という現象である。この間の米国繊維産業における産業調整の動きをみると,生産性の上昇が日本や西ドイツに対して相対的に低い(ただし,衣服部門のみに限ってみると必ずしも低くない)のに対し,繊維衣服産業における雇用者の減少率は,はるかに小さい。

鉄鋼業においても輸入規制への動きは既に1960年代後半から強まったが,1977年にはいわゆるソロモン報告書が作成され,トリガープライス制度が導入されるとともに,設備の近代化と必要な転換のための政府の信用保証並びに技術的援助)また雇用転換のための政策がとられている。米国鉄鋼業が斜陽化した最大の要因は,寡占体制下で,1950年代以来設備の近代化に大きく立遅れ,加うるに高賃金が維持されたため,急速に国際競争力を失ったことによる。こうした基本的問題が輸入規制の中で解消の方向に向かったかというと肯定的な答えは出しにくい。76年以降の設備投資は停滞気味で,生産性上昇もはかばかしくない。雇用者数は余り減少を示していない。輸入比率はこの間,1965年の10.3%から1978年の18.1%へと著しく高まった。

自動車産業の場合は,1979年にクライスラー社に対する緊急支援策(15億ドルの融資保証等)が決定された時,それは飽くまで特殊ケースであり,一時的なものであるとされていた。しかしその後になって,問題は同社のみでなく,米国自動車産業全体が困難な状態にあることがはっきりしてきた。自動車産業の例をみると,米国産業の一部がいかに,自己の体質的弱さを,何らかの外部要因に求めようとしたかがわかる。排気ガスの環境規制について,米国自動車業界は国際競争力を弱めるとして,常にその規制緩和を求めてきた。しかし結局は,より厳しい環境基準に対応した日本車の方が市場で優位性を保持しえた。また,彼らは燃費の低減基準に対よっても反対し続け,また,第一次石油危機以後アメリカはエネルギー国内価格の抑制を行ったため,米国車は低燃費化技術の発展に決定的遅れをとり,今日の劣勢を招いてしまったのである。現在,米国自動車産業は対外保護政策のもとで,再生化にむけての努力を続けているが,今後のその成果について慎重に見守っていく必要があろう。

アメリカの産業調整の状況を 第II-3-21図 でみると,第1次石油危機以後の米国産業の動きが,日本や西ドイツに比べてかなり硬直的なようにみられる。まず売上高利益率は,日本や西ドイツでは1974年から79年にかけてかなり構造的に変化しているが,アメリカでは余り変化していない。これは第1次石油危機以後,国内エネルギーの低価格政策がとられたこと,インフレ的経済が続いたこと等もあって各産業が各自利益を確保できたことを示しているのではないだろうか。また,この間製造業の雇用は他の国と違って減少しておらず,結果としてみると生産性上昇が主として生産そのものの増大によっている。即ち,第1次石油危機後の後退局面では雇用は他の国と同様に減少をみせたが,その後の生産の回復に際し,他の国と異なり雇用が再び増加を示したのである。一方,アメリカの設備投資の動向をみると,通常いわれている割には,設備投資比率および投資の伸び率とも80年までは一応の水準を維持している。したがって,アメリカの生産性上昇が70年代後半に入って急速に衰えた理由は,設備投資が不十分だったこともあろうが,日本にみられたような減量経営がほとんど進まなかったことによることも影響しているようにみられる。

しかし,他方でアメリカは,NICS輸出の最も大きな吸収市場であった。 第II-3-22表 でみるように,NICS製品の輸入比率はアメリカが日本,西ドイツよりもかなり高く,一方で保護主義的色彩を強めながらも,他の先進工業国以上に結果的に国内市場を開放していることも否定できない。ここにもアメリカの自由貿易主義と保護主義という相矛盾した側面をうかがうことができる。

2. 西ドイツ

西ドイツの産業調整政策は先進工業諸国の中でも,恐らく最も政府不干渉型という性格の強いものである。西ドイツの経済政策の基本的考え方は,いわゆる社会的市場経済の原則の下に,できる限り市場経済原理を貫徹しつつ,社会的公正を追求するというものである。したがって経済法則による構造的変化はむしろそれを出来るだけ円滑に行わしめる環境を整備することが政策的課題であるとされる。

したがって,第一に,個別産業部門あるいは個別企業への政府援助は原則として排除される。ただしこれには多少の例外があることは後に述べる通りである。第二に,対外競争にさらされているという理由から,特定産業部門に保護政策をとることはしないことを原則としている。これについても後に述べるような理由から,農産物,鉄鋼,繊維,陶磁器等については例外的に輸入規制措置が取られているが,EC等の共通規制をはなれて西ドイツが独自に行っている輸入規制はほとんどないといってよい。

市場経済と矛盾しない範囲で連邦政府が行うべき経済政策としては,中小企業政策,雇用促進政策,技術開発,設備投資促進対策及び地域政策が挙げられる。中小企業政策は,中小企業が大企業と対等な条件で競争し得るように技術開発や信用保証等で一定の支持を与えるべきだという考え方に基づいており,また雇用促進策は労働力の転換力を増すため,職業訓練や職業紹介を強化することを目的としている。技術開発に対しても連邦政府はできるだけ直接的な補助や個別プロジェクトに対する援助は避け,間接的かつ一般的な補助形式をとろうとしている。もっとも西ドイツの技術開発がエレクトロニクスや宇宙開発,海洋開発等で立ち遅れ気味なところから,もっと政府援助を強めるべきだという議論があるが,これまでのところ西ドイツは先進工業国の間でも,術開発投資の中に占める政府資金の比重が相対的に低い。地域政策については,各州の政治的独立性が強いこと,またヨーロッパの他の諸国ほどではないが,産業構造の地域特性があることなどから,連邦政府の政策としても非常に重視されている。地域経済の急激な変化や,労働力の大量の地域間移動はできるだけ避けたいという政策意識があり,これは社会的市場経済原理と矛盾するものではないとされているが,時としてやや保護主義的色彩を帯びる場合もないではない。また,各州政府がいわゆる技術ギャップを埋めるべく研究開発投資への助成を高める面もある。

西ドイツ連邦政府の基本的政策原理は以上のようなものであり,個別産業あるいは企業への保護・介入はかなり有効に回避されてきた。このことは西ドイツの産業調整を他の先進工業国以上に推進する上で大きな効果をもったと考えられる。まず西ドイツの製品輸入の状況をみると,国内総生産に対する製品輸入の比率は年代から比較的高かったが,変動相場制移行後は更に上昇テンポを速めた。もっとも,EC諸国の貿易は地域間取引に近い性格があるので,EC以外の地域からの製品輸入に限ってみても同様な傾向がみられる( 第II-3-23表 )。輸入増は60年代では主として労働集約的な消費財部門で生じたが,70年代に入ってからはより資本集約的な一般機械などの資本財及び乗用車やエレクトロニクス製品で目立っている。特に西ドイツの場合目立つことは,幾つかの相対的に労働集約的な品目で製品輸入とその国内市場におけるシェアが急増した場合にも,連邦政府の保護政策はほとんどとられず,企業の自主的調整にゆだねられたことである。こうした例として繊維,カメラ,時計,金属洋食器などが挙げられる。

西ドイツの対外貿易摩擦が少ないのは,このように,競争力の落ちた商品の輸入増大を以前から許容してきたという条件もあると思われる。

また,前掲の 第II-3-21図 にみるように西ドイツの経常利益率は製造業内での変化も大きく,また業種間の分散も大きい。利益率の水準は,業種,業態により異ってくるものであり一概には言えないが,その変化は,各産業が構造的な拡大過程にあるか,衰退過程にあるかの一つのバロメーターとしてみることもでき,先に見たアメリカの場合と異って,西ドイツでは1974年から1979年にかけてかなり構造的に変化していることからそのバロメータがかなり有効に作用していると考えられよう。同時に製造業内で雇用調整がかなり行われ,その結果として各部門の生産性の上昇が維持されていることも 第II-3-21図 から推定することができよう。製造業での雇用量の減少はあとでみるようにサービス業における増加に対応している。60年代まではサービス化比率の相対的に低かった西ドイツの雇用構造も70年代にはかなりサービス部門の比重が高まった。

しかし,代表的な積極的調整政策の推進国である西ドイツでも,近年には民間部門の経済活動に対する政府関与の程度は増大している。西ドイツ5大研究所の産業構造報告は,政府の産業補助費用が1970年から78年までの間に倍増し,その対象は農業,運輸,住宅建設,および石炭産業に集中しており,政府介入の増加が顕著であると批判した。

西ドイツの対外保護措置の多くはECとの共通政策に帰因している。とくに農業政策はそうであるし,工業製品の中にも対域外関税の統一化の過程で関税率の上昇したものがみられた(一次金属,紙,繊維など)。

また地域政策も結果的に産業補助となっている場合がある。最も代表的なものは,ザールの鉄鋼業に対するものであった。ザール地方が石炭と鉄鋼に大きく依存していること,鉄鋼業が設備の陳腐化と立地条件の不利化で競争力を失いつつあったこと,また国境地域にあってしかも他国企業の資本参加があったため,他のEC諸国と鉄鋼業に対する援助政策を統一化する必要があったこと,などが基本的理由となって1978年から5カ年計画の下に連邦および州政府が共同で財政的援助を与えている。第1次石油危機後の不況のあとの造船業に対する補助金も記憶に新しい。ブレーメン,ハンブルグ,およびシュレスヴィッヒ,ホルシュタインなどの沿岸諸州における造船業の一定水準を維持するために,州政府は連邦政府の補給をうけて,財政援助を行った。陶磁器についての輸入割当も生産地の地域的保護を目的としていたし,石炭に対する保護政策も,国産エネルギーの維持という目的と同時に地域対策としての意味をもっている。石炭鉱業に対する援助は73年頃までは顕著に低下したが,石油価格の上昇以後またかなりの増加を示している。以上の他,各州政府は,かなりの地域産業振興対策をとっているとみられる。

1974年から75年にかけて西ドイツの代表的企業フォルクス・ワーゲン(VW)が経営危機に直面した時の政府の救済策も,VWに対する直接的助成策はとられず,VWの工場が立地する地域に対する地域振興策を一時的に連邦と州が共同で強化するというものであった。

以上のように西ドイツの政府補助ないし関与は,地域政策,エネルギー政策あるいはEC共通政策等によって理由づけされる範囲に限られていたが,西ドイツでさえ政府の補助関与を拡げざるを得なくなっていることは注目に値しよう。具体的には,西ドイツは鉄鋼業に対して82年から85年の4年間補助金と減税とを助成措置とした助成計画を策定している。この助成計画は構造調整から研究開発までを含む総合的なものである点,また地域の枠を超えた西ドイツ全域を対象としている点で鉄鋼業という産業を対象とした本格的な産業政策ということができよう。


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