昭和47年

年次経済報告

新しい福祉社会の建設

昭和47年8月1日

経済企画庁


[前節] [次節] [目次] [年次リスト]

第5章 新しい発展への出発

2. 物価問題の新局面

(1) 40年代前半における物価動向の特徴

これまでのわが国では消費者物価が持続的に騰貴する一方,卸売物価,輸出入物価は1ドル360円レートのもとでおおむね安定していた。もつとも,40年代に入つてからは,消費者物価と卸売物価が併行して上昇するような場面がみられた。

まず40年代前半に卸売物価の上昇をもたらした主な要因と,それらが最近どのように変化しているかをみよう。

第5-18図 主要民間企業における賃上げ妥結状況

(海外インフレの影響)

第1は,海外インフレの影響である。第2章でみたように43年から45年にかけて輸出入物価が急上昇し,卸売物価もかなり騰貴した。昨年8月の変動相場制移行とその後の円切上げは海外インフレの影響をいつたんは解消し,それによる輸出入物価の低下や輸出需要の鈍化は当面物価安定要因として働くであろう。しかし通貨調整後も欧米主要国の卸売物価はさして騰勢が改まつておらず,今後国内景気の回復とともにふたたび海外インフレの影響がでてこないとは限らない。

(賃金上昇率の高まり)

第2は40年代に入ると賃金上昇が加速し,好況局面においても生産性を上回る傾向があらわれたことである。海外インフレの影響もあつて,好況の長期化から労働需給がひつ迫した43年以降の上昇は大きい。これが賃金コストの上昇を通じて,工業製品など卸売物価上昇の一因となつた。こうした傾向はしだいに日本経済に定着しつつあり,とくに主要企業間の賃上げ率の分散係数の低下にみられるように,賃金決定が社会化,相場化し,これが全体としての賃金の下方梗直性を強めている( 第5-18図 )。

46,47年と賃金上昇率は若干低下をみせたとはいえ,春季賃金交渉において前年妥結額プラスアルファーという賃上げパターンが確立されつつあることに注目しなけれげならない。もちろん成長パターン転換の過程でこれまで賃金上昇を先導してきた重化学工業の成長が鈍化し,これが多くの部門での賃金決定にはねかえるため,全体の賃金上昇率は緩和することになろう。これらの先導的分野ほど今後省力化を進めつつ高い賃金上昇を持続しようとすることも考えられるが,その場合でも雇用を吸収しつつ賃金を引上げてきたこれまでよりも,経済全体への影響は弱まつてこよう。しかし,今後労働生産性の伸びも40年代前半に比べて鈍化する可能性が強く,賃金と生産性上昇率とのギャップが縮小しないおそれもある。この場合,金利,償却コストの相対的低下などから労働分配率が上昇し,それが賃金上昇によるコスト圧力をいくぶん緩和するであろうが,それには限度があるとみられる。

(物価の下方硬直性)

第3は,物価がやや下方硬直的になつてきていることである。もちろんわが国の卸売物価はきわめて需給に感応的であり,諸外国には例の少ないすぐれた特色といえる。ただ品目別にみると最近になるほど需給緩和のなかで価格の低下するものが減り,逆に上昇する商品の割合が高まつている( 第5-19表 )。

45年夏以降の卸売物価は46年12月までに1.3%の低下となり,40年には不況期間中0.8%上昇したのとは対照的な動きを示した。しかし今回不況時においては,需給ギャップがとくに大きく開いた生産財は低下したものの,資本財と消費財はむしろ上昇している。

この点,30年代後半から最近までの生産集中度と製品価格の関係をみると,高集中品目ほど価格は硬直的であり,また,そのなかでも成長性の低い品目ほど硬直性が強いことがわかる。このことは,生産集中度の高い産業については,売上げの成長率が鈍化すると価格支持による収益確保にたよりがちであることを示唆している( 第5-20表 )。

今後産業別,製品別の需給アンバランスが続き,輸出市場での日本品に対する警戒感が強まるなかで,競争制限的動きが広がるとすれば,価格の下方硬直性がさらに強められるおそれがある。

(2) 成長パターン転換と物価上昇のジレンマ

以上のような海外インフレの持続や賃金,物価の下方硬直性の強まりを背景として,成長パターン転換にともなういくつかの新しい物価上昇要因があらわれている。

(国際収支天井と物価)

その第1は,円切上げを契機に国際収支面から賃金物価の上昇を規制する条件が大きく後退したことである。これまでわが国の卸売物価が安定していたのは,360円レートを堅持するために産業合理化への努力が重ねられてきたからである。国際収支天井が低い間や輸出拡大への意欲が強かつたときには,賃金,所得の上にも輸出競争力を喪失しないように自づと抑制作用が働いていた。とくにこれまでわが国の賃金上昇を先導してきた重化学工業はそのほとんどが輸出産業であり,輸出競争力の強化という暗黙の合意が労使の間に存在し,それがこれら高成長産業において賃金上昇が生産性を大幅に上回ることを抑制する条件となつていた。

しかし賃金の上昇をおさえることは,世界インフレのなかでは,かえつて国際収支の黒字を大きくし,ひいては平価切上げの誘因になりかねないという見方が今回の切上げを通じて労使の間に広がる気配もある。

さらに,これまで物価抑制に大きな役割を果たしてきた総需要調整政策も,国際収支の黒字が続くなかで,その発動のきつかけをどこに求めるかという問題がおこり,物価上昇と国際収支の黒字というジレンマの中で物価抑制のための総需要調整政策をとりにくくする条件が強まつてきた。

このように,賃金,所得,価格引上げについて有力な抑制要因であつた国際収支天井がとりのぞかれたことは,わが国の物価問題を新局面にたたせるものであるといえよう。

(需要構造の変化と物価)

第2に賃金,物価の下方硬直性をひとつの背景として需要シフトにともなう物価上昇圧力の強まりが懸念される。成長パターンの転換は需要構造の変動をともなうが,すでにみたように,今後需要の相対的に増大する分野は政府支出,住宅,雑費等の消費支出であり,伸びがやや鈍化するとみられるのは輸出,設備投資,耐久消費財への支出である。産業別には需要は重化学工業から建設,サービスへと移動することになろう。新しく需要の増加する分野は労働集約的・土地集約的な性格から生産性向上の困難なものが多く,賃金や地価の上昇にひきずられやすい( 第5-21表 )。これに対して需要の伸びが鈍化する分野はこれまでは大量生産のメリットをいかすことによつてコストを引下げ,卸売物価安定の中心となつてきた分野であつた。しかし需要構造の変化につれて需給ギャップの残存に悩む部門が少なくなく,こうした分野でのカルテルなど競争制限的慣行による価格引上げが行なわれるとすれば,全体としての物価上昇はさらに底上げされることになろう。

一般に,需要が減少してもその分野の価格や賃金があまり下がらず(下方硬直性),需要が増大すると上昇する(上方伸縮性)ような場合,需要が全体としては供給力に見合つていても,需要の構成変化が物価水準の上昇をもたらす。こうした物価水準の上昇は,コストとして織込まれて経済全体の物価上昇傾向をさらに強めることになるのである。

(公害防除コストの上昇)

第3は,公害防除コストの増大が物価を押上げることである。公害を除去し環境を守るという国民的要請はいつそう高まつており,これまで以上に公害防止への努力が払われなければならない。これにともなう公害防除費用の増加が企業の製造原価の上昇をもたらすことはさけられないであろう。水や空気をはじめとする自然資源の汚染破壊に対する反省はいまや世界的なものとなり,PPP(汚染者負担の原則:Polluter-Pays Principle)が各国を通じる共通の指針とされるにいたつたのである。

公害防除にともなうコスト上昇は最大限企業の経営努力によつて吸収されなければならないが,その一部が最終需要者にはねかえることはさけられないであるう。しかも公害産業といわれる部門が主として基礎資材の生産部門であることは,産業連関を通じて全体の価格体系の変動をもたらし,物価上昇要因として作用することになる。試みに,石油等の消費量を現状と同じとして,そのなかにふくまれる亜硫酸ガス除去の費用がどれほどの物価上昇要因になるかを試算すると,防除コストによる上昇分をすべて生産価格に転嫁した場合,それだけで全体の物価を1%程度上昇させる要因となることがわかる。業種別には電力,紙・パルプ,鉄鋼などでの価格上昇圧力が強い( 第5-22表 )。

もちろん,わが国の現状では公害防除は緊急の課題であり,その解決への努力がコストや価格の上昇を理由に遅れるようなことがあつてはならない。

(通貨供給量の増大と物価)

第4は通貨供給量(現金通貨および預金通貨の残高)が増加しやすい局面を迎えていることである。成長パターンの転換の過程では国際収支の黒字と財政収支の赤字が併存することになりがちであるが,これらは通貨,流動性の総量を拡大させ,もろもろの経済活動への影響を通じて物価上昇を招きやすい環境をもたらすおそれがある。もちろん中央銀行の金融政策を通じて通貨調節がはかられており,国際収支の黒字や財政収支の赤字による経済の流動性増加についても,それが過度にわたる場合には何らかの手段で対処していくことが不可能ではない。しかし,現実問題として海外や財政部門からの流動性の供給が全体としての通貨量増大の背景となりがちなことは,諸外国など多くの例がこれを示している。

ここで,わが国における通貨と生産,物価との関連をふり返つてみよう。いま時差相関によつてこれらの関係をしらべると,30年代には通貨が生産,物価に1四半期先行し,かつ三者には強い相関がみとめられた( 第5-23図 )。これに対して40年代には,通貨と生産の相関は著しく低下したのに対し,通貨と物価についてはやや弱まるもののいぜん2期先行の相関がみとめられた。40年代に入つて通貨と生産の相関が弱まつたのは,企業の貯蓄投資バランスが投資超過の程度を低めたこと,国際収支の好調が続いたことから強い金融引締めが行なわれず,企業の流動性に余裕が残されていたこと,40年代には長期好況が続き,生産量自体つねに需要に追われて変動の余地に乏しかつたことなどが考えられよう。

通貨量と物価の間の時差相関は広く各国でもみられている。もちろん通貨供給量と物価の間に相関関係があるからといつて両者の間に一義的な因果関係があるとはいえず,また景気の局面によつては政策的にも通貨供給量の増加をはかる必要があることはいうまでもない。さらにわが国の物価問題の中心である消費者物価安定については,各種の構造対策によつて解決されなければならない面が大きく,金融政策のみに依存することができないことも明らかである。しかし物価安定のために,経済の情勢に応じ,通貨供給量の調整が必要であることは否定できない。

45年夏以降通貨供給量は急増したが,これには短資流入など一時的要因も含まれており,このような過剰流動性状況がつねにみられるとは限らない。しかし国際収支黒字,財政収支赤字などから通貨量の増加テンポが高まる可能性は今後も残されており,賃金,物価の下方硬直性の強まりや需要構造の変化が同時に進行しているだけに,通貨量の動向についてこれまで以上に注意していく必要があろう。

(3) 物価安定の課題

最近の経済動向には,円切上げの効果や経済全体としての賃金上昇圧力の緩和など物価安定要因も作用している。しかし世界的なインフレ傾向やわが国の国際収支黒字など物価上昇を容認しがちな心理的環境が醸成され,また通貨供給量が増大しつつあるなかで,賃金,物価の下方硬直性増大や需要構成の変化などの物価上昇要因が強まつていることにはきびしい警戒をもつてのぞまなければならない。国際化の進展につれて,わが国の物価問題については国際的関連を重視することがますます必要とされるようになる。しかし国際収支の黒字を減らすために,海外インフレに追随して国内物価水準を引き上げるような政策は国民によつて支持されるはずがない。

われわれが現在もつとも警戒しなければならないのは,物価上昇が福祉社会の実現を妨げる点である。これまでも消費者物価の高騰は,老令者世帯,母子世帯など低所得層はもちろん一般に生活の設計を不安定なものとし,消費者の不満を引起こしてきた。しかし,この間実質所得も急速に改善され,消費水準も高まつた。今後,成長率の鈍化とともに,消費者物価上昇は消費水準の向上自体にとつても,より大きな制約となる可能性が大きい。さらに賃金,物価のスパイラル的上昇を引起こすような事態に立ちいたると,福祉実現への社会的協力の基盤を危うくさせ,国民の要望する福祉充実のプログラムは実現されえなくなろう。こうしたことがひいては社会的混乱の原因となることは,近年におけるいくつかの先進国の経験によつても明らかであり,わが国もこのような危険を無視することは許されない。

これまでみたように成長パターンの変化と海外の物価上昇傾向のなかで,卸売物価の上昇はある程度さけがたいものと考えられる。その意味において,わが国の物価体系は消費者物価と卸売物価が併行的な動きを示す欧米型のものに近づくであろう。しかし全面的な物価上昇がいつたん経済体質に組込まれると,そこから脱却することがいかに困難であるかは,欧米諸国の例をみるまでもなく明らかである。

それだけに現在どのような物価対策をとるかは,今後の日本経済の方向を大きく左右するものである。このため低生産性部門の合理化,競争条件の整備促進などを物価安定のため,いつそう積極的に行なうとともに,第2,3章にのべたような輸入構造の是正を通じて,国際分業や平価調整の利益が消費者物価安定に役立ちうるような構造政策をはかることが重要である。

また,物価の安定を対外均衡や福祉の充実と両立させるような新たな政策体系のなかに,総需要調整政策を位置づけていかなければならないといえよう。