昭和47年

年次経済報告

新しい福祉社会の建設

昭和47年8月1日

経済企画庁


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第2章 円切上げの影響

3. 産業活動への影響

円切り上げが産業活動に及ぼす短期的長期的な影響についてみよう。

(1) 産業の国際競争力

円切上げの産業活動への影響は,産業の国際競争力によつて異なる。1ドル308円の新基準レートの効果をみる前提として,まずこの点をみよう。

(賃金コストの日米比較)

いま,わが国とアメリカの賃金コストをそれぞれ昭和38年と45年について試算し,その変化率をみると, 第2-9図 のようになる。インフレの進展していたアメリカに対してわが国の賃金コストは7年間に全体として10%以上相対的に有利化していることがわかる。産業別にみると食料,繊維,紙・パルプなどは相対能率賃金コストが悪化しているのに対し,わが国の輸出の主力を占める鉄鋼,電気機器,輸送用機械は相対能率賃金コストの大幅な有利化をみている。その意味で,昨年末の円切上げは,一挙かつ大幅なものであつただけに短期的にはその衝撃は小さくなく,また産業別にはきびしい影響をうけるものがあるとしても,日本の主要輸出産業については,国際競争力の現状からみて,吸収可能なものであつたと思われる。

(輸出依存度と輸出採算)

円切上げの影響は,具体的には切上げ前の輸出依存度や輸出採算のいかんによつて相違してくる。わが国の輸出依存度を,国民総生産に対する輸出等の比率でみると,名目値では最近やや上昇しているものの昭和35年以降11%前後でほぼ一定しているが,実質値(40年価格)では35年の9.0%から46年の14.7%へ上昇している。生産数量に占める輸出比率をみても実質値と同様の傾向にあるが,その内容をみると,①重化学工業の輸出比率が40年不況を機に急速に高まつた一方,軽工業のそれは低下していること,②同じく大企業の輸出比率が上昇し中小企業の輸出比率が低下していること( 第2-10図 ),③ただし中小企業には輸出に特化した業種も少なくないこと,などの点を指摘できる。

重化学工業,大企業の輸出比率の高まりは,輸出採算面の変化とも対応している。

いま40年代前半における卸売物価と輸出物価の動きを対比してみると,総平均では前者が10.5%,後者が9.3%の上昇となつている。これは,輸出産業の生産性上昇が一般産業よりも著しく,その価格が安定していたためであり,輸出が採算上不利になつたことを意味するものではない。卸売物価指数採用品目のうち輸出品の価格とそれに対応する国内向けの価格を対比させてみると40年代前半において国内向けの物価は3.8%上昇したのに対し輸出品の上昇は5.0%となつており40年時に比べ輸出採算は国内向けよりも相対的に好転したことがわかる。

業種別にみると自動車,テレビ,精密機械については,卸売物価は低下している一方,輸出物価は横ばいであり,それだけ輸出採算が好転していたとみられる。また事務用機器,合成樹脂では両物価とも低下しているが最近では輸出物価の低下幅がやや小さい。鉄鋼では同じく輸出物価の上昇幅が大きくなつている。これらの輸出採算好転業種については,先進国のなかでわが国の輸出が占める比率も上昇しており,輸出競争力が強化されていたことを示している。これに対して雑貨,食料品,繊維などでは,発展途上国の追上げなどから輸出物価が上がつていないのに卸売物価は上昇しており,輸出採算の悪化と競争力低下の様相がうかがわれる( 第2-11表 )。

たとえば鉄鋼業については,40年代前半において輸出マージンは国内販売のそれを上回り,とくに今回の不況期には,内需の赤字の一部を輸出の黒字で補つていたとみられる。

以上の業種別にみた競争力の相違は,円切上げ以後の輸出価格,数量の動きとも対応している。これを全体としてみると,わが国の輸出の中心になつている重化学工業については,輸出依存度が高まつてきたため円切上げの影響を強く受ける面があるが,他方輸出競争力の強化が著しく,輸出採算が好転していただけにその影響を吸収する余地も大きくなつていたと考えられる。以上を前提に円切上げの具体的影響についてみよう。

(2) 生産活動への影響と企業の対応

円の切上げは,輸出需要の減退や輸出採算の悪化,為替差損益の発生などを通じて生産活動や企業収益に影響するが,長期的には企業の投資態度や経営戦略にも影響を及ぼすこととなろう。

(生産活動への影響)

第1章でみたように,46年8月の変動相場制移行によりそれまで出かかつていた景気回復の芽は摘みとられ,生産・出荷の低迷,製品在庫の増大がみられた。その後,46年末の円切上げ前後から,生産はかなり回復している。これらの動きには,国内景気と国際通貨情勢の二面がからみあつており,また実体的な需要要因のほかに国際通貨不安と関連する心理的要因の作用も加わつている。ここでは,円相場の上昇が輸出の減退を通じて生産活動に及ぼした影響をみよう。

前述の輸出関数による推定では,円切上げは47年1~3月に2.9億ドル(46年4~6月価格)の輸出減少をもたらしたとみられる。これは国民総生産(実質)を直接には0.16%低下させるものであつた。また,乗数効果を考慮すれば0.22%程度,鉱工業生産への影響は0.39%程度であつたと推定される。現実には47年1~3月には国民総生産,鉱工業生産ともかなり回復を示したが,これは他の需要要因の伸びが円切上げの影響を相殺したためである。

業種別には,円切上げは生産活動に相当の影響を与えている。 第2-12表 は,47年1月時点で通商産業省が約100品目について円切上げと不況の生産活動に与える影響を調査したものである。このうち主として円切上げの影響が大きいとみられる14品目の46年度生産実績は,全調査品目の5.3%に相当している。また円切上げの影響がかなり大きいとみられる12品目までふくめるとその比率は8.6%となる。

(企業収益への影響)

円切上げは輸出数量の減少,輸出価格(円)の低下,輸入原材料コストの軽減を通じて企業収益に影響を与える。これらの各要因の変化が46年度下期において売上高利益率の低下にどの程度影響したかを,繊維,鉄鋼,一般機械,電気機械,精密機械,自動車,化学の主要7業種について試算してみると 第2-13表 のとおりである。7業種合計の売上高利益率は前期比0.25%ポイント低下したが,これは主として輸出価格の低下によつてもたらされた。7業種のなかで影響が大きかつたのは繊維,鉄鋼,一般機械であり,少なかつたのは自動車,精密機械であつた。

次に,円切上げにともなう為替差損益の影響をみると,全産業で2.3%の利益減少要因として働いている( 第2-14表 )。平均すればそれ程の額ではないが,石油,商社,鉄鋼では為替差益が生じている反面,造船,海運,一般機械については多額の差損が生じている。なお,46年度下期の決算では,差損が発生したり利益の落込みの大きい業種では,内部留保のとりくずしや土地・株式の売却でこれを穴埋めしており,実勢利益の減少は表面にあらわれた計数よりかなり大きかつたとみられる。

(輸出期待と投資態度への影響)

円切上げは,企業の将来の輸出期待を変化させ,これを通じて設備投資態度にも影響を与える。これは円切上げによつて価格競争力が低下することにもよるが,固定平価への信頼が弱まり,輸出市場がリスクをともなうものであることが見直される結果でもあろう。

当庁,「企業動向調査」によつて企業の輸出・内需期待感の推移をみると,40年代初めには輸出と内需の伸びはほぼ同程度と期待されていたが輸出伸張への期待は年を追つて高まり45年秋の調査では先行き3年間の輸出成長率は23.2%と見込まれ,内需のそれを大幅に上回つた( 第2-15図 )。このことは,40年代前半の高成長の過程で,輸出市場の拡大が積極的な企業活動の前提として組込まれていつたことを示唆している。

それだけに,46年8月の円の変動相場制移行は企業マインドに深刻な影響を与えることになつた。同年秋の当庁「企業動向調査」では,輸出期待感は急速に減退している。この調査は,変動相場制下にあつて円切上げ前に行なわれたものだけに,企業心理の動揺を誇大に示していることも考えられるが,企業が円切上げを契機に自己の輸出依存度のあり方について再検討を迫られたことは確かである。

企業の輸出期待は,これまでの強気の投資態度のひとつの背景であつた。それだけに,輸出見通しの変化は企業の投資計画の変更をもたらす一因となつた。企業の設備投資は長期計画に基づいて行なわれており,継続工事も多いので,短期間では変化しにくい面がある。しかし,47年度の投資計画の変更状況をみると,輸出依存度の高い業種ほど投資計画の削減を行なつている( 第2-16図 )。また,輸出依存度の高い企業についてみると,将来の輸出に強気のものほど投資計画の減税割合が小さく,将来の輸出に弱気のものほど投資計画を大幅に減少させているという関係がみとめられる( 第2-17表 )。円切上げは一方において合理化や製品・市場の転換などにともなう新しい設備投資を誘発する面をもつていると考えられるが,市場拡大を前提としまず設備投資を行ない,その結果製品が過剰となればこれを輸出にふりむけるというような投資態度にきびしく修正を迫るものであつたといえよう。

(雇用調整の動き)

46年8月以降,雇用調整の動きが広がつたことも,円切上げにいたる国際通貨危機が企業の経営態度に影響したことを示している。

アメリカの新経済政策発表後,電気機械,一般機械などをはじめ大企業を中心に新規学卒者の求人取消しが続き,46年末までに取消し総数は7万7千人に達した。ただし,学卒者をめぐる労働需給は就職希望者の減少もあり,ほとんど緩和しなかつた。

企業ではこのほか減員不補充,入職抑制に努めた。46年秋に大企業を中心に行なわれた労働省調査では,8月以降雇用調整を行なつた企業は56%に達しており,本年3月に中堅・中小企業を対象に行なわれた当庁調査では,その割合は20%強となつている。雇用調整は輸出依存度の高い産業を中心に行なわれている。また大企業に比べ中小企業での雇用調整が少ないのは,中小企業では人手不足が慢性化しているためであり,むしろこの機会に従業員を増加させたところもあるためである( 第2-18図 )。

労働需給が全体としてひつ迫を続けると見込まれるなかで企業が雇用調整の動きを強めたのは,今後の需要増加に慎重な見方をとつたこと,省力化と生産性向上で賃上げと国際競争に対処しようとしていることなどを示唆するものとみられる。

(競争条件の変化と企業の対応)

円切上げは,内外における競争条件を変化させ,企業に新しい環境への適応を迫つている。主要業種における若干の事例についてこれをみよう。

第1は,競争激化のなかで国内の生産と技術開発体制の早急な強化を迫られているもので,電子計算機,集積回路,オプトロ・エレクトロニクス部品,原子力機器,ソフトウエアなど技術先端分野がその例である。電子計算機の場合,国産機は市場の約半分を占めるにいたつているが,最近アメリカを中心に従来の第3世代機種に比べ数倍の性能・価格比を備えた3.5世代機種の開発が進んでいる。他方,円切上げにより海外メーカーから賃貸料,販売料引下げの動きが強まり,また,その周辺装置の輸入自由化が進み,電子計算機の資本自由化も予定されている。こうしたなかで,国産新機種開発を中心に共同開発体制が促進されようとしている。

また,集積回路については,アメリカにおける軍事支出削減から民需への転換が必要とされ,同時に量産技術の開発が進み,急速な価格の低下と信頼性の向上,高密度化がはかられた。この結果,わが国電機メーカーも輸入品を積極的に活用しようとする動きがみられたが,円切上げはこの傾向を強める一因となつている。反面こうした集積回路の価格低下によつて,これを主要部品とする電子式卓上計算機も大幅に値下がりし,輸出も急増している。円切上げは開放体制下の競争激化を通じて技術集約部門の革新をさらに進める要因となりうるものであり,国際的な技術開発戦略など条件変化への果敢な対応が望まれる。

第2は,製品の高度化を進めつつ,市場の多角化,海外販売網の強化,資本提携,資本進出,円建て輸出の促進などの対応策をとろうとするもので,造船,自動車,精密機械,家庭電器,軸受など多くの業種でこれらの動きがみられる。時計,カメラの例をみると,円切上げ後も高級品は輸出価格(円)を維持しており,また,音響機器,テレビなどについても高級品や自社ブランドの確立したものの輸出が堅調である。

自動車ではわが国の小型車のアメリカ市場での販売価格はやや割高となり,アメリカ製小型車の進出もあつてわが国の輸出は落ちている。こうしたなかでアメリカ資本との提携を背景に輸出を増加させようとするもの,ヨーロッパ市場への多角化をはかるものなどの動きがみられ,さらに無公害車や新交通システムの開発が現実の課題となつてきている。造船の場合,納期,価格の点ではなお競争力があるが,さらに海外への資本進出がはかられる一方,国内ではこれまでわが国があまり乗り出していなかつた液化天然ガス輸送船など技術集約的な船舶建造への体制整備が進められている。軸受についても競争力が強いが,海外への資本進出の動きが目立つ。なお,円切上げを機に円建て輸出が促進される傾向は各業種に共通している。

第3は,国際的摩擦を回避するため,輸出の自主規制の動きが強まつていることである。鉄鋼,繊維その他の業種でも安値輸出の防止や輸出急増の回避への努力がみられる( 第2-19図 )。

輸出カルテルの適切な運用等は必要であるが,これがさらに進んで国際カルテルへの参加などにより国際競争の制限にいたるとすれば大きな問題であろう。すなわち,そこでは業界以外の利益が無視されるのみならず,自由貿易の原則がくずれ,世界的なインフレ傾向も加速され,ひいては国内における寡占体制が強化されるおそれなしとしない。国際協調の推進に当たつても,このかねあいに配慮しなければならない。

第4は,輸出依存度を引下げ,内需への転換をはかる動きである。脱輸出後の方向としては,住宅産業,レジャー産業などが選ばれており,こうした傾向は多くの業種にみられたが,とくに目立つたのは商社,合成繊維等の動きであつた。

以上は円切上げによる競争条件変化とそれへの企業の対応の一端にすぎないが,円切上げの効果は多面的なものであることがわかる。これを将来の発展への刺激として受けとり,競争体制のメリットを活かしていくことか重要である。

(3) 中小企業輸出産地への影響

すでにみたように,中小企業の輸出依存度は大企業のそれを下回つており,中小企業一般については円切上げの直接の影響はそれほど大きくないが,中小企業のなかには輸出に著しく特化した業種があり,またそれらが地域的に集中して輸出産地をなしている場合が少なくない。こうした中小企業輸出産地への円切上げの影響を次にみよう。

輸出比率が10%をこえる産地は全国で120ヵ所存在し,その輸出額は45年で8千億円,中小企業全輸出額の3割を占める。これら120産地だけをみると,輸出比率は41.6%,うちアメリカ向け輸出の比率が50.6%に達している。こうした条件にあるため,46年8月のアメリカ新経済政策(とくに輸入課徴金の実施)と円の変動相場制への移行は,これらの産地に大きな衝撃を与え,当初は輸出成約が落込み,生産抑制の動きが急速に広がつた。しかし秋に入ると中小企業緊急融資や中小企業為替予約制の実施もあり,1ドル320円程度の自主レートで商談が復活する動きがみられるようになつた。年末の円切上げ以後は輸出成約も前年なみ程度に回復し,生産も活発化しはじめている( 第2-20図 )。またこの間の企業心理の変化は,46~47年度の輸出見通しが46年10月から12月にかけてやや回復していることにもあらわれている。

このように円の変動相場制移行から切上げに到る過程は,中小企業産地に大きな心理的動揺を与えたが,実体的な摩擦はそれほど表面化しなかつた。発展途上国の追い上げなどもあり,競争力も必らずしも強いとはみられないこれらの中小企業について,円切上げにともなう摩擦が比較的少なかつた理由は何であろうか。

第1は,国際通貨情勢の激変期が国内の金融の大幅緩和期と重なつたことである。第2は,政府の中小企業緊急対策や為替予約制実施が,中小企業に態勢を立て直す時間的余裕を与えたことである。第3に,この間に業界の整理が進み,製品の高級化によつて新たな販路が開拓されたことである。

第2-21図 繊維二次製品の価格形成過程(輸出価格を100として)

このほかすでに商品が輸出先市場の大きなシエアを占めているため,切上げがあつても相手国の側で急速にこれに代る供給源を見出すことがむづかしい場合も少なくなかつた。

しかしその反面において,これらの輸出産地では輸出数量を維持するため円ベースの輸出価格を引下げるとともに,これに対して単価工賃の切下げ,労働時間の延長等によつて対処する動きもみられた。それはこうした産地には,摩擦を表面化させることなく輸出価格の引下げを吸収しやすくする仕組みが存在していたことにもよる。第1に,これらの産地の多くでは生産から輸出までに商社,メーカー,下請,家内工業等多数の段階をへている。たとえば繊維二次製品についてみると 第2-21図 のようになる。このため輸出価格の引下げや加工賃の削減が各段階に拡散され,ひとつひとつの段階ではそれほどのマージン圧縮幅とはならない。第2に,下請の末端には内職的なものが少なくないうえ,これら産地の労働者の多くが家庭婦人や農業従事者によつて占められており,賃金の削減,労働時間の延長,転廃業等につながりやすいという事情がある。

円切上げの衝撃は,こうした仕組みによつてもやわらげられた。しかし輸出価格を引下げ,輸出数量を確保することは,生産性向上によつて裏づけられないかぎり,長続きするものではない。輸出産地を中心とした中小企業については,発展途上国の工業化,特恵関税の供与,国内労働力不足進行などの条件変化への適応を迫られており,円切上げはこれを加速化するものである。中小企業がこれまで養つてきた転換能力を活かし,産業調整の要請にこたえて,さらに近代化の道を歩むことが期待される。