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第2章 アジアの世紀へ:長期自律的発展の条件

第4節 アジアの長期自律的発展の条件

2.所得格差の是正の必要性

 近年、アジア地域は目覚しい経済成長を遂げたが、成長を優先した開発政策による発展の歪みも生じており、そうした歪みの一つに所得格差の問題がある。所得格差の拡大は、社会状況及び政治状況を不安定化し、その結果として経済成長を阻害する可能性がある。実際、アジアでは、所得格差を背景に政治問題に発展するケースが多くみられ、各国は格差の問題に直面し始めている。また、前節で検討したように、アジアの新たな成長の軸として域内内需の振興が大きな役割を担うが、所得格差の是正は中間所得層の購買力を高め、アジア市場の拡大に大きく寄与するものと考えられる。以下では、アジアにおける所得格差の現状と格差是正の取組について概観する。
 なお、所得格差には、(i)富裕層、貧困層といった所得階層の概念で捉えた「垂直的格差」と、(ii)国内の地域間における所得格差を捉えた「水平的格差」(地域間格差)の二つの側面がある。本論では、垂直的格差を述べる場合には通常の「所得格差」を用い、水平的格差を述べる場合には「地域間所得格差」を用いる。

(1)所得格差の現状

●世界の所得格差
 世界における所得格差の現状について、ジニ係数を用いてその推移を概観する。ジニ係数は、所得分布が完全に平等であれば0を、完全に不平等であれば1を示す指標である。
 まず、世界における発展段階別の所得格差をみると、低中所得国(lower middle income)、高中所得国(upper middle income)、高所得国、低所得国の順で格差が大きいことが確認できる(第2-4-15図)。これは「発展段階が進むにつれて所得格差は拡大し、一定の所得水準を超えた後は格差は縮小に向かう」ことを示したクズネッツの逆U字仮説(10)と整合的である。また、低所得国グループは、所得格差が最も小さく90年代以降大きな変動はみられない。その他のグループでは格差が拡大傾向にある。また、地域別にみると、アジア地域は、他の地域に比べて相対的に格差が小さいことがうかがえる。ただし、アジア以外の発展途上地域の格差が長期的には横ばいないし縮小しているのに対し、アジア地域は格差が拡大している。アジア地域は、低所得国から中所得国に向けて移行している国が多く、クズネッツの仮説に照らし合わせれば所得格差の拡大期に当てはまるものと思われる。
 一方、国ごとの動向をみると、所得格差の現状は様々である(第2-4-16図)。主要各国のジニ係数の動向をみると、先進国ではフランスを除いた各国で格差が緩やかに拡大しているのに対し、新興国では変化は多様である。中国においては格差が急速に拡大しているが、ブラジル、ロシア、メキシコでは縮小傾向にある。インドではあまり変化がみられない。

●アジア各国の所得格差
 次に、アジア地域における所得格差の現状について概観する。第2-4-17表は、ジニ係数、最低所得層20%に対する最高所得層20%の所得の倍率(H20/L20比率)を整理したものである。ジニ係数の推移をみると、おおむね上昇を続けるグループ(中国、台湾、インド)、おおむね低下を続けるグループ(フィリピン、マレーシア)、上昇と低下を繰り返すグループ(インドネシア、タイ)など、各国の所得格差の状況は様々である。2000年代に入りタイ及びマレーシアについては所得格差の改善が進んでいるものの、その他の国については格差が拡大している。一方、H20/L20比率をみると、各国ごとに変化は様々であるが、2000年代に入りマレーシア、タイでは所得格差の縮小がみられ、それ以外の国については、格差が拡大している点においてジニ係数の動向と整合している。
 また、第2-4-18図は、所得階層別の一人当たり実質所得の変化をみたものであるが、日本を除く各国では最上層と最下層の格差が非常に大きいことがうかがえる。第2-4-17表のジニ係数でみた場合に、中国及びインドは90年代から2000年代にかけて大きく所得格差が拡大した国であるが、第2-4-18図で所得階層別の平均所得成長率の大きさをみると、低所得層における所得の伸びよりも高所得層における所得の伸びが非常に高い。一方、ASEAN諸国の状況をみると、高所得層よりも低所得層における所得の伸びが高く、中国及びインドに比べて所得の再分配が進んでいることがうかがわれる。発展段階が更に進んだ日本及び台湾をみると、各階層間における所得の伸びに大きな差はない。
 第2-4-19図は、低所得層における所得の変化と経済成長の関係をみたものである。横軸にはアジア各国・地域の2時点間における実質GDP増加率を、縦軸には下層40%の人々の実質所得の2時点間における増加率をプロットしている。点の分布は、GDP増加率と低所得層の所得水準の改善との関係を示すものであり、45度線より上にある国は、下層40%の所得がGDP増加率よりも速く伸びた国であり、所得分配が改善されたことを示す。他方、45度線よりも下にある国・地域は、示された期間に所得分配が悪化したことを示す。各国・地域の状況をみると、すべての国で45度線よりも下にあり、政府による所得再分配が十分でない可能性がある。

(2)地域間所得格差の現状

 既にみたとおり、一国全体の所得格差については全般的には拡大傾向にあるが、各国の地域間所得格差も、一部の国を除いて明確に拡大傾向がうかがえる。アジア各国における国内地域間格差について、一人当たりGRDP(Gross Regional Domestic Product)のジニ係数を測定して比較(11)したのが、第2-4-20図である。日本、韓国といった経済発展で先行している国の水準に比べると、その他の国の地域間格差は比較的大きい。また、日本の高度成長期(1965年)における地域間格差と比較しても、アジア各国の格差は大きい。2000年代における格差の傾向をみると、データの時点には若干のばらつきがあるものの、中国を除いて拡大している。中国では、2000年以降、内陸部の開発を推進しており(西部大開発(12))、こうした取組の成果がうかがえる。また、一人当たりGRDPが最大の地域と最小の地域の倍率をみると、日本や韓国に比べてその他のアジア各国は非常に大きな格差を抱えており、しかも総じて拡大傾向にある。地域間格差の長期的な推移について、一人当たりGRDPの変動係数(標準偏差/平均)を用いてみたものが第2-4-21図である。インド、フィリピン、インドネシアでは、非常に速いペースで格差が拡大を続けているのに対し、中国では地域格差の拡大と縮小の双方がみられる。

(3)経済発展と「格差是正」の基本的な考え方

(i)所得格差
 政府による富の再分配等を通じた所得格差の是正は、経済成長に対して良好な影響を及ぼすものと考えられる。前節でみたとおり、安定した成長を遂げるためには、アジア域内における内需の拡大が不可欠であるが、所得格差の是正は、人々の購買力の向上や社会的な安定化に伴う投資活動の活性化等を通じて更なる市場の拡大を促進する。アジア地域の成長は他の地域よりも速く、アジア域内の所得拡大や格差是正は、アジア自身が生産する輸出財への需要を高める。特に中国とインドの成長は、域内のより小規模な経済に新たな市場をもたらすこととなる。また、初期の発展段階では、所得格差是正は就学率の向上による人的資本の蓄積を通じて経済発展にも資する(13)。こうした観点から、所得格差の是正は、アジアの長期持続的な発展に大きく寄与するものと考えられる。

(ii)地域間所得格差
 地域間所得格差の是正は、長期自律的発展に不可欠の要素と考えられるものの、短期的な経済発展を達成するための不可欠の手段というわけではない。発展の初期段階においては、経済成長を優先するために限られた資源を特定の地域に集中することもあり、こうした格差の発生はやむを得ないという考え方もある。例えば、中国の「先富論」がこれに該当する。これは、「豊かになるためには、先に条件の整った地域や人々から豊かになることを容認すべきであり、それが国家全体の所得水準の上昇につながる」という考え方であるが、1980年に小平が提唱しその後の中国の発展戦略として取り入れられた(14)。また、地勢に伴う制約から、同時にすべての地域が同じような産業発展や人口集積を目指すことは不可能であり、無理に均等的な発展を目指す場合には、逆に歪みを増大してしまう可能性もある。さらに、グローバル化の進展によりアジア各国間で直接投資の誘致競争が激化する中にあっては、潜在性の高い地域に資源を集中して開発を進めることが経済の発展にとって合理的な場合もある。
 しかしながら、アジアは民族や文化が多様な地域であり、国内における著しい経済停滞地域の存在は、社会不安や政治不安を始め各国の経済成長の阻害要因となり得る。地域間格差の是正は、社会の安定をもたらし投資環境の改善に寄与するものと考えられる。

(4)格差是正に向けた取組の必要性

 アジアの所得格差は他の地域に比べて相対的に小さいものの、個々にみれば格差が非常に大きい国・地域も存在している。また、2000年代以降の傾向としては、所得格差を再び拡大させている国・地域が多くみられる。一方、地域間格差についても、一部の国で縮小がみられるものの、地域全体としては拡大傾向にある。世界銀行が発表した『東アジアの奇跡(The East Asian Miracle)』(15)では、東アジアの経済発展についてその高度成長のプロセスの中で顕著な経済格差を生まなかったことが指摘されたが、今日の動向をみると所得格差及び地域間格差は総じて拡大傾向にあり、格差を取り巻く環境に何らかの変化が生じている可能性がある。
 所得格差をもたらす背景・要因として、既存研究では、産業構造の変化、政府による分配システムの非効率性(税体系、社会保障制度、中央-地方政府間の財政関係)、教育システム(16)、インフラ(17)、各国固有の問題(不平等な土地所有構造、労働移動の制約等)等が挙げられている。例えば、前述(前掲第2-1-12図)の中国における都市部と農村部の大きな所得格差の背景には、産業構造のほか中央-地方政府間の財政関係、労働移動の制約等の問題があると考えられる。また、経済活動が首都を中心とする都市部に著しく集中している国もある。タイではGDPの41%がバンコク圏内で(2008年)、またフィリピンでも37%がマニラ首都圏内で産出されており(2008年)、これら大都市と地方農村の格差は大きい。

●格差是正に向けた取組
 こうした状況を踏まえ、各国では格差是正に向けて様々な取組に着手している。地域間格差の是正に向けては、産業の地方分散政策(産業集積地の形成等)、地方インフラの整備を組み合わせた包括的な投資促進策の推進が不可欠である。その際、資源の効率的利用の観点から、インフラ整備の生産力効果、費用対効果を吟味し、また、発展のポテンシャルを見極めて地域を選択することも必要であり、しっかりとした地域開発戦略の枠組みの中で実施されることが重要である。近年、各国では既存の工業地帯への企業進出が進み、土地代や労働者の賃金の高騰などから、地方に企業が進出する動きが広がっている。しかし、地方では、道路、電力、工業用地等の産業基盤の整備が都市部に比べてかなり遅れており、企業進出の足かせとなっている。こうしたボトルネックが改善されれば、地理的遠隔性という不利性は克服され、用地代、賃金の低さに反応して進出する企業も増加するものと考えられる。
 所得格差に関しては、先進国では、所得税の累進化、社会保障制度の確立など所得格差を緩和するような制度を積み上げているが、発展途上国では政府のガバナンスの問題などを背景に制度面の整備が遅れている。効率的な制度の整備が求められる。また、教育などの公的サービスの充実も格差是正に不可欠の要素である。教育の普及は、貧困層も含めあらゆる所得階層の就業機会へのアクセスを促す。機会の平等を促すことは、格差是正に資するとともに、人的資本の蓄積を通じて長期的な成長力を高める効果も期待される。


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