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1.郊外化とその後の都市回帰

(人口増加に伴う郊外化の進行)

戦後から70年代半ばまでの間に首都圏に向けて大量の人口が流入し、首都圏への集中が進んだことは、補論1でみた。こうした人口の急激な膨張により、住宅数の絶対的不足が明らかとなり、住宅の確保が喫緊の課題となったことから、郊外における住宅地開発や住宅建設が急速に進められた116。東京都の多摩地域で66年に着工し71年から入居開始した多摩ニュータウンの建設は、その典型である117。これにより、東京を中心とする都市圏では周辺部が外延を続けた。

首都圏へと流入した人々は、住居を求めて都心部から離れて郊外へと転出した。このため、第4-2-1図でみるように、都心部は人口が60年の831万人から70年の884万人に増加したが、80年には835万人へと減少に転じた。一方、郊外では、この転入による社会増で人口が増加するとともに、彼らが子どもを産み育てることによる自然増でさらにそのスピードが加速することとなり、60年に560万人であった郊外の人口は70年に1,068万人、80年に1,449万人、90年には1,688万人へと急速に増加した118

第4-2-1図 首都圏内の人口の推移
第4-2-1図 首都圏内の人口の推移
(備考)
  1. 総務省「国勢調査」及び厚生労働省「人口動態統計」より作成。
  2. 自然増減及び社会増減数は住民基本台帳に基づく人口、人口動態及び世帯数調査により試算。
  3. 市区町村の合併は、総務省「廃置分合等情報」に従う。
    1960~70年については、1970年時点で存在する市区町村のみ記載。

特に若年層の移動が顕著であり、例えばベビーブーム世代の移動を前掲第4-1-7図でみても、70年にこの世代の12.9%が都心部に居住していたが、80年には7.5%へと低下した。その後も90年には6.4%へと低下しているのに対し、都心部以外の首都圏に住む者は、70年の16.2%から80年19.3%、90年20.3%へと増加していることが確認できる。

(郊外化の終焉と都心回帰の動き)

しかし、70年代に入ると、前掲第4-1-1図でみるように、首都圏への人口流入の動きが緩和するとともに、ベビーブーム世代等のUターン行動などにより首都圏からの流出の動きが高まったことも相俟って119、首都圏内での郊外化の勢いも幾分収まりを見せ始める。

さらに、第4-2-1図下段をみると、それまで郊外化に伴い人口が郊外へ流出超過であった都心部では、90年代央からは、郊外への転出が減少したことに加え、郊外からの転入も増加したため、90年代後半に両者がほぼ均衡し、その後、流入が超過する傾向に転じた。人口の都心回帰の動きである。都心部では、90年代前半の5年間に25.1万人の社会減から、90年代後半には13.7万人の社会増となった。なお、都心部では合計特殊出生率が東京都全体よりもさらに低く、人口の自然増は大きくない120

こうしたことから、都心部の人口は90年代前半の5年間に2.4%減であったのが、90年代後半には2.1%増、2000年代前半には4.4%増、2000年代後半には5.4%増となった。特に都心部の中でも、中央区(2000年代後半5年間で24.8%増)、千代田区(12.8%)、港区(10.4%)、新宿区(6.7%)といった中心業務地区(CBD)のほか、江東区(9.5%)、足立区(9.4%)、墨田区(7.1%)、台東区(6.5%)、荒川区(6.3%)といった城東方面、あるいは豊島区(13.6%)、文京区(9.0%)といった地域で、近年人口増加の動きが顕著になっている。

(都心と郊外の人口移動)

都心部と郊外との人口移動についても、経済的要因や人口学的要因が絡み合いながら影響していると考えられる。

まず第1に、首都圏人口の急増と経済機能の東京への一極集中が80年代にかけて進行し、都心部の地価が急騰を続ける中で、人々は住宅を求めてより郊外へと移転した結果、住宅地域が外延し、その不動産価格も上昇した121。立地が都心から離れていることから、通勤に長時間を要する住民も多く、例えば多摩ニュータウン在住者の半分は、通勤時間が1時間超となっていた122

しかし、いわゆるバブル景気が崩壊する90年代前半以降、地価は低下を続け、都心部の不動産価格は低位で推移している。これに伴い、かつては住宅を求めて郊外へと向かった人の流れは落ち着き、むしろ都心部に住居を取得する者が増加した。特に90年代半ばからの都心部での分譲マンションの大量供給が、都心回帰の原動力となっている123。第4-2-2図で東京都区部のマンション供給戸数をみても、バブル崩壊後の91年には5千戸に止まっていたのが、90年代終わりから2000年代前半にかけて年3万戸台で推移するようになった。マンション価格も、都区部では同期間に平均価格が5千万円を切っており、平均住戸面積もバブル崩壊後の92年の56m2から、2000年代前半に70m2前後へと改善している(第4-2-3図)。

第4-2-2図 首都圏におけるマンション供給戸数の推移
第4-2-2図 首都圏におけるマンション供給戸数の推移
(備考)
国土交通省「首都圏整備に関する年次報告」(2010年度)より作成。
第4-2-3図 首都圏の分譲マンション平均価格・面積の推移
第4-2-3図 首都圏の分譲マンション平均価格・面積の推移
(備考)
  1. (株)長谷工総合研究所資料により内閣府作成。
  2. 東京都区部の1992年以前のデータは6,500万円超で、1992年は6,941万円、56m2である。

第2に、人口学的要因として、かつて首都圏に上京し、郊外に新たに開発された住宅地に移り住んだ若年層が育てた子どもの世代、すなわち団塊ジュニア世代(あるいはその前後世代)が、結婚・子育て等を機に離家していくことになるが、そうした若年世代が、地価の低下を背景に、都心からの近さ等立地条件が良く魅力的な居住先を求めて、都心やその近郊へ転出していることが指摘できる。


116 1950年住宅金融公庫法成立、51年公営住宅法成立、55年住宅建設十箇年計画策定、同年日本住宅公団設立など、戦後の住宅政策の本格的な推進がスタートした。
117 多摩ニュータウン開発の推移や関係者の証言等については、細野・中庭(2010)。首都圏の大規模ニュータウンは、後掲第4-2-4図を参照。
118 本節では、首都圏を都心部(東京特別区)、郊外(東京特別区を除く都心から40km圏内)、その他の首都圏地域(1都3県の都心部、郊外を除く地域)に分けて、議論を行う。
119 ベビーブーム世代の70年代における都市圏在住者の割合の低下については、前掲第4-1-7図を参照。
120 東京都区部の合計特殊出生率は、全国的に見て低位である東京都全体の率よりもさらに低く、2000年1.00、2005年0.95と2000年代前半は1を切って推移していたが、このところ回復して2009年には1.06まで戻している。東京都全体の率の推移は、前掲第4-1-10図。
121 80年代の地価高騰の原因については、郊外で引き続き住宅需要が旺盛であったことだけではなく、経済の情報化・国際化・サービス化等経済構造の変化に伴い、都心のオフィス需要が増大して都心商業地の地価が上昇し、そのビル用地に土地を売却した者が代替地を求めたため、住宅地にも地価上昇が波及したこと、そしてそうした実需要因以上に、土地への投機が大幅な高騰を引き起こすことによりいわゆる‘バブル’が発生したこと、などが挙げられる。野口(1989、1992)、佐和(1988)、伊東(1989)など。なお、都市の土地利用及び地価を決定する付け値地代(bid rent)の理論については、黒田他(2008)など。
122 国土交通省国土計画局が2004年2~3月に実施したアンケートによる。国土交通省(2003)。
123 東京都(2004)。
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