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第3回世界における知的活動拠点研究会

議事録

時:平成12年3月15日
所:共用第二特別会議室
経済企画庁

第3回世界における知的活動拠点研究会議事次第

平成12年3月15日(水)10:00~12:00
共用第二特別会議室(407号室)

  1. 開会
  2. 「世界の知的活動拠点」となるための環境整備について~その2
    プレゼンテーター:植田委員、杉山委員
  3. 閉会

【配布資料】

  • 資料1  世界における知的活動拠点研究会 委員名簿
  • 資料2  世界における知的活動研究会について
  • 資料3  世界に競争力を持って情報発信できると期待される分野の例
  • 資料4  植田委員 意見発表
  • 資料5  杉山委員 意見発表

参考資料 「世界の知的活動拠点」となるための環境整備についての論点(案)

世界における知的活動拠点研究会委員名簿

  • (座長) 伊藤元重       東京大学大学院経済学研究科教授
  • 伊藤穣一       株式会社ネオテニー代表取締役社長、株式会社インフォシーク取締役会長
  • 植田憲一       電気通信大学レーザー新世代研究センター長・教授
  • 加藤秀樹       構想日本代表、慶應義塾大学総合政策学部教授
  • 川島一彦       東京工業大学工学部教授
  • 北原保之       AOLジャパン株式会社常務取締役
  • 椎野孝雄       株式会社野村総合研究所情報・通信コンサルティング部長
  • 杉山知之       デジタルハリウッド株式会社代表取締役社長
  • 田中明彦       東京大学東洋文化研究所教授
  • 林紘一郎       慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所教授
  • グレン・S・フクシマ アーサー・D・リトル(ジャパン)株式会社代表取締役社長
  • 松岡正剛       編集工学研究所所長、帝塚山学院大学教授

〔 座長 〕 それでは、これから遅れていらっしゃる委員がいらっしゃると思いますけれども、時間ですので、第3回「世界における知的活動拠点研究会」を始めます。

 議題に入る前に、A委員が今日初めてのご参加ですので、ご紹介いたします。

〔 A委員 〕 Aでございます。よろしくお願いいたします。

〔 座長 〕 本日は、前回に続いて委員発表の2回目として、B委員とC委員から意見発表していただき、それを踏まえてご議論いただきたいと考えております。

 その前に、事務局から配付資料について説明をお願いいたします。

〔 事務局 〕 それでは、配付資料のご説明をいたします。

 資料2でございますが、これは前回お配りしたものと同じですが、本研究会の全体像を示してございます。1.「『世界の知的活動拠点』の背景とイメージ」、2.「『世界の知的活動拠点』を形成する目的」、3.「当面の検討テーマとスケジュール」といたしまして、世界の知的活動拠点となるための環境整備についての項目と検討スケジュールを書いてございます。

 資料3がその環境整備の検討に当たって、念頭に置くべき、我が国から世界に情報発信できると期待される分野の例を幾つか書いてございます。

 それから、資料4が本日のプレゼンテーターでございますB委員からの発表の資料でございまして、関連して3点の別途資料がございます。

 資料5がC委員からの発表の資料でございます。

 それから、参考資料をご覧いただきたいと思いますが、当面の検討テーマでございます「『世界の知的活動拠点』となるための環境整備についての論点(案)」ということで1枚目と2枚目に全体の構成がございます。3枚目から「論点(案)~その2」ということで、本日ご議論いただくテーマについての論点(案)をご参考までに整理したものであります。

 3.「世界規模の多様な知の交流」ということで、(1)「世界水準の知の交流」とございますが、世界規模で縦横無尽のネットワークを築いた情報交換が必要である。こういったネットワーク上の情報交換をより充実したものとするためには、対面での交流というものが従来以上に重要となるのではないかというのが総論であります。

 以下は各論に入っていきますが、(2)「大学等の国際化と留学生受入れ」の問題で、①「外国人研究者の受入れ促進」ですが、基本的には内外の優れた人材を大切にして確保する。こうした観点から、優れた外国人研究者の雇用招聘を促進していかなくてはならないのではないか。そのためには、相当の対価の支払いでありますとか、外国人が生活しやすいような生活環境の整備・充実が重要である。その具体策としては、国際的な水準に見合った処遇でありますとか、そういった雇用条件に関する大学における自主的な交渉の確保等であります。その他、外国人特別研究員制度の拡充、あるいは生活環境の面でのインターナショナル・スクールの整備等でございます。

 ②「留学生受入れ促進」の方策ということで、国費留学生の拡大でありますとか、奨学金、あるいは宿舎の確保といったことが実際には大きな問題になっているようであります。

 それから、2枚目で(3)「国際的活動」でありますが、国際共同研究でありますとか、研究成果の海外への発表、日本の若手研究者の海外への派遣を積極的に推進していくということで、国際共同研究においては損害賠償権の放棄の円滑化でありますとか、特許権の帰属と配分に関する国際協定の締結の円滑化といったことが実際には問題になっているのであります。

 それから、「また」以下に書いてございますのは、「内外のさまざまな分野の世界水準の研究者の知的交流がなされる国際会議であるとかフォーラムといった場の提供といったことを心がけていくべきではないか」ということでございます。

 それから、4番目が教育の問題ですが、4.「創造性を有する人的資源の育成」ということでありまして、(1)「独創性の重視と起業家精神の涵養」ということで、①「独創性を重視する教育環境の整備」はアイデンティティーや独創性を重視するような教育環境の整備でありますとか、自分の中の創造性を発見できるような教育内容が必要、地域競争のフィールドを大きくしていくことの大事さ、さらには未知のことであるとか、創造することにチャレンジして夢を持つことはすばらしいと認識できるような社会的な基準づくりということも必要ということで、大学としては社会人講師の活用といったようなことも挙げてございます。

 ②「企業家精神を涵養する教育環境の整備」ということで、アントレプルナー教育の問題であるといったようなこと、それからインターンシップの充実といったようなことを挙げてあります。

 それから、(2)「国際的情報発信能力」でありまして、まず①「英語力の強化」ということでございまして、国際共通語としての英語について、「書く」「話す」といった発信機能の向上を図る。

 ②「コミュニケーション能力の強化」は、「伝える」ためのコミュニケーション能力、プレゼンテーション能力、ネゴシエーション能力、それからコンテンツ制作能力といったものを強化していく。

 ③「異文化理解の促進」は国際的なコミュニケーションに向けた異文化に対する理解の促進が重要、その前提として、我が国の歴史文化への理解とアイデンティティーの確立ということも重要という指摘であります。

 それから、5.が大学等における「魅力的な研究開発環境の創出」ということでありまして、(1)「研究・活動資金の確保と産学官連携」は、資金の確保等における産学官の連携ということでございますが、①「研究予算の重点化」は、国として世界をリードしようとする分野などを選択して、その分野に予算を重点化するということです。

 ②「外部資金の導入」の問題でありますが、寄附金でありますとか共同研究、それから委託研究といった外部資金の導入を積極的に推進するということで、寄附金についての税制優遇の拡充でありますとか、国立大学への共同研究費、委託研究費の受入れの円滑化、弾力化、法人税法上課税対象となる学会等の収益事業の範囲の見直しといったことを挙げております。

 ③「人材交流の促進」は、産学官での人材交流の促進ということで、これは既に制度があるわけですが、任期付任用制度の活用でありますとか、国立大学教官の民間企業役員兼任規制の緩和といったことを挙げております。

 それから、(2)「大学経営の効率化」でありますが、①「学内分業等の推進」に書いてありますのは、その効率化のために学内分業や大学間の役割分担が必要ではないかということです。

 それから、②「自主的・機動的運営の確保」と書いてございますが、これは教育内容、定員を適宜見直す。その際に自主的、機動的にできるような規定の見直しということが必要である。

 ③「学術情報基盤の整備」は学術情報基盤や情報ネットワークの整備の推進ということです。

 それから、5ページですが、(3)「研究者の処遇の多様化」の問題であります。これはいわゆるテニュア制の導入であるとか、公募による国立大学教官等への採用の透明化という制度の充実といったこと、研究休職制度、ポスト・ドクター制度についてはいろいろな拡充についての指摘があるところであります。

 (4)「特許取得の促進」は、特許に関する措置であります。研究者や大学における特許取得を促進する必要があるのではないかということで、それはこれらのものの特許申請手続を専門に処理するTLOというものが制度化されておりますが、その設置の促進ということがまず第一。それから大学とか研究者に対する特許料の軽減でありますとか、国有特許についての収入の大学への還元といった措置、それからご承知のように国立大学教官が研究した発明に関わる特許は国に継承される場合があるわけですが、その場合には研究者へは発明補償金が支払われるという仕組みになっていますが、この上限を撤廃するといったことの指摘がありました。

 以上、ご参考までに論点を示させていただきまして、3.「世界規模の多様な知の交流」と5.「魅力的な研究開発環境の創出」につきましてB委員から、4.「創造性を有する人的資源の育成」につきましてC委員からコメントをいただきまして、皆様にご議論いただければと思っております。

 以上でございます。

〔 座長 〕 どうもありがとうございました。

 これからお2人にプレゼンテーションをしていただきたいと思いますけれども、今の資料につきましてもご意見等ございましたら、その時に出していただければと思います。

 初めに、B委員からプレゼンテーションをしていただきたいと思いますが、討議の時間を確保するために20分から30分ぐらいの時間でお願いしたいと思います。

〔 B委員 〕 今論点についていろいろご指摘していただきましたが、私は、研究者から見てどういうふうなポイントがあるかということをお示ししたいと思います。

 ただ、私に与えられたテーマはすごく大きなテーマで、すべてをその背景から書くと、とても長くなったわけです。しかし、こういうものはこれで決まりというわけではありません。むしろ、これは問題提起であって、答えをここに収束させる必要もありません。逆に、いろいろと違った見方も必要だと思います。

 知の交流の原則がどんなものであるかという場合に、私が言いたいのは、「制度があるから交流するわけじゃない。先に交流している事例を見つけて、それをどう育てるかという視点の方が必要なのではないか」ということです。「制度があったらやります」というのは困ります。

 もう一つのポイントです。「世界水準の知の交流」とここに書いてありますが、我々のレベルで言えば、世界的なレベルにある研究者はお互いに知っています。ですから、知らない人は余りいないわけで、お互いに評価しあっているわけです。そのときに、研究者の行う評価のよいところは、個人としての能力を評価しているのであって、どこに属しているかというのは余り関係のないことです。

 ここに示したように研究者同士の接触や論文出版を通じての知的交流ということを自然科学系でやっているわけですが、我が国で非常にやりにくいことは、研究者同士が往来することです。つまり、政府がいろいろなことを補助するのは基本的によいことですが、日本の場合は占有的なんです。「日本で給料を払うから、ここでやれ」ということを決めてしまうわけです。実は、研究交流では、みんなが研究する場所をそれぞれ持っていて、そこでやるからできているわけです。理論屋はどこに行っても仕事ができますが、実験屋はそうはいかないわけで、準備してくるからよい成果が出るわけです。ですから、研究者同士が行ったり来たりすることが共同研究には必要だと考えていただきたいと思います。

 現在は、研究者そのものを論文の数で評価する傾向があります。また、文部省等でも「研究成果が紹介された新聞を持って来い」ということがありますが、私は「新聞発表はしない」という哲学を持っています。むしろ、研究者側から言うと、いろいろな国際会議のプレナリー講演(基調講演)を頼まれるとか、招待講演はどれだけあるのかということの方が研究者同士の評価基準がよく分かります。そのときに日本人に欠けているものは、研究レベルの高さだけではなくて、研究者の発表能力です。

 なぜかというと、基調講演とか招待講演の質で、その国際会議の成功度合いが決まるからです。世界から注目度を集めることを含めて、主催者側の「視点」が入ります。そういうことも研究者の能力の一部なんですね。「いい仕事をして、結果だけ認めてもらえれば、それでよい」ということは必ずしも通らない。そのような態度は学生のような態度で、プロフェッショナルな研究者ではないと思います。

 これから我々が考えないといけないのは「結果」ではなくて、「アイディア」、「コンセプト」を通じた交流です。決して、結果がいいから交流できているわけではありません。それでは、結果が消えたらおしまいで、後に続かないわけです。

 論文出版については、日本の自然科学系の中で困った空気が流れています。「『ネイチャー』、『サイエンス』がトップジャーナルで他よりも絶対的に優れている」というものです。しかし、むしろ、学会が発行しているようなジャーナル、これを"Peer Review Journal"と言いますが、これは学会員同士でチェックをしているものです。そういうジャーナルの方が本来は質が高いと我々は思っています。「ネイチャー」、「サイエンス」等は、ある意味で上からピックアップするジャーナルです。だから、そのように上から評価されて喜んでいることは余り正しくないということです。

 ただ、「ネイチャー」、「サイエンス」はもちろん歴史があり、クオリティーが非常に高い。しかし、あまり、知られていないことは、「数式を出すことをあまり好まない」ということです。このため、すべての分野の最適なジャーナルとは言えません。数式を減らして写真とか図で説明することは、違った領域の方に説明するには都合がいいのですが、証拠を出して「これが本当に正しいかどうか」ということをやっていく種類のジャーナルでは都合が悪い。ですから、総合科学誌ということと、ある分野の専門誌として本当に有意義にやるということとは違うわけです。しかもそれが学会活動とリンクしていて、普段の活動とジャーナルとが循環しながら活動するから、次の段階へとつながるわけです。そういう学会活動との有機的関係は、「ネイチャー」、「サイエンス」、もしくは出版社系ジャーナルにはないと思います。この種の学会活動の価値をもっと高く評価するべきだと私は思います。

 次に、大学の国際化と留学生の話について、少し話そうと思います。学部レベルの環境は非常にいいのですが、私は留学生にとって日本の学部教育はあまり役に立たないだろうと思います。日本に来て、日本の大学に入るということが、本当に役に立つのだろうかという気がしています。むしろ、積極的に受け入れるべきなのは大学院レベルではないかと思います。

 基礎的なレベルでは、それほど産業レベルの高くない国でも十分な学部教育がなされています。それができないような研究レベルが大学院のレベルです。ただし、博士後期課程では、私は日本語は要らないのではないかと思っています。これまでのアメリカを見ても、ドクターコースはほとんど多国籍となっています。そして日本でも既にそうなりました。私の研究室には日本人は1人しかいません。あとは全部外国人ですから、当然、研究室内の公用語は英語になるわけで、たとえ下手な英語であっても通じればいい。そのレベルから始まればいいのではないかと思います。

 ただし、理科系と文科系の大学院は若干違うと私は思っています。理科系の大学院学生の研究は「ジョブ(仕事)」です。その考えを今、日本の大学院にも入れようとしています。つまり、大学院の博士課程、もしくは修士課程でも給料を払う方向が検討され始まりました。給料を払って大学院の運営ができるのかという問題があります。もう少し改善をしないといけない点は評価と実行のあり方です。アメリカでは奨学金の支給や授業料の免除、それから給料の支給に関する事項の全ての決裁者は教授なので、直ちに評価して実行に移ります。学生に対して来月から奨学金や給料をカットしたり、馘首にして研究室から追い出すことが簡単にします。

 ところが、日本では一旦支給を決めると、給与とか、奨学金は学生に帰属します。政府や育英会が学生に提供しているものを先生が勝手に止めることはできないわけで、それでは教官の評価が反映しないわけです。ですから、そういう点で、もっと「ジョブ」に近づけるということが必要で、大学院教育における問題です。

 ただし、アメリカでは昔からポスドクの国際化が進んでいます。最近はアメリカ人はほとんどポスドクには行きません。アメリカは非常に好況ですから、ドクターを取ったらみんなすぐ会社に行ってしまう。そういう意味で、「ポスドクにはネイティブな人はほとんどいないので、英語のコンプレックスはない」と私の研究室からアメリカに移動した卒業生ポスドクは言っております。

 もう一つ、この関連でアメリカの話をすると、むしろ情報系は日本から見てチャンスかもしれません。情報系はものすごく好況です。ドイツもアメリカも含めて大学教育が崩壊しつつあると思います。つまり、卒業しないで学部を中退して就職してしまう。そのため、4年までいて卒業する学生が非常に少なくなっています。確かにそれで社会の役に立つかもしれないけれど、本当に情報科学というものを大学の中でちゃんと確立して教えていかなくていいものなのかと、私は疑問を持っています。

 おそらく、外国人研究者の受け入れについて、一番重要な問題は「ポスドク」です。従来、日本にはポスドクの制度がなかったわけですが、四、五年前から文部省の制度ができました。その前は科技庁のSTAフェローだとかNEDOのフェローなどがありましたが、当初はかなり偉い先生を招聘するための外国人研究者制度でした。

 そのときには、ノーベル賞クラスの人を招聘しようというつもりで制度を作りました。ともかく日本に来てもらうのは大変だから、給料をすごく高くした。それに対して、文部省のポスドクは非常に悲惨な状態にあります。トータル380万円っきりで健康保険もなければ住宅補助、通勤費も何もない。ちゃんとした制度を作らずに非常勤講師と同じような扱いにはめ込みました。まだ何も専用の制度を作っていません。したがって、教官でもない。学生でもない。だから、学生に用意したものは使えない。教官に用意したものも使えない。「非常勤」という名前がついているので、本来的には、「常勤」を持っているはずなのに「常勤の職場」はない。つまり、「非常勤研究員」という名の24時間研究員なのですから、非常に大きな矛盾を生じています。

 それについて、出身国別にみると、アジアの方はとりあえず我慢をします。ヨーロッパ人やアメリカ人を呼んだら、「これは契約違反である」とけんかになって、1年経ったら当然帰ります。ですから、そういう意味で、もう少し国際競争力をつけれるような条件にしないといけない。ただし、ポスドクの給与は欧米とほぼ同じで、3万ドルか4万ドルですから、それ自身はそんなに悪くありません。

 もう一つの問題は待遇ではありません。ポスドクは長くても2~3年ですから、単に給料の多寡の問題で来るかどうかは決まりません。彼らにとって研究キャリアのスタートですから、どれだけ成果が出るか。そこで研究したということが評価されるならば、給料は悪くても集まってくる。逆に、そこにいて3年間無駄になるのだったら、彼らの研究人生が潰れるわけですから来ない。ですから、いかにして彼らを動機付けしながら進めていくかが重要です。

 今までのところ、日本の大学の教官は学生を教えることについては評価があるようですが、ポスドクの指導については、本当の意味では、まだ評価されていません。実は、そこはもっと大事なことです。かなりレベルの高い人を呼んでいるわけですから、ちゃんと結果を出さないといけない。不満足な場合、相手は文句を言わないで去っていきますが、世界の研究者世界には密かに研究評価が広まって行きます。そういう意味で十分に対応しないといけないと思います。

 そこの評価は、今のところ、ほとんどされていません。ポスドクが研究室に居残っているということはダメです。1年以内の短期間に研究室から移動する場合には、よい場合とそうでない場合があり、内容を見なければ外見的な評価はできません。

 それで、この後の宿舎の問題は単なるアイディアです。ユニバーシティ・ホテルというものが本当は必要だと思います。それには、社会人教育を含めた日本の大学の教育制度の中にもう少し別のものを作って、汎用な利用ができるようにしないといけないと思います。

 国際共同研究に関しては、実質的に国際共同研究をやるということはどういうことかということを考えないといけません。偉い人を呼んで、国際共同研究の形でできましたというのでは、本当は困るわけです。実のある共同研究をできる適当なレベルの研究者を半年呼んで、帰国した後も、共同研究が5年、10年続いたら、それは意味がある共同研究といえます。招聘された研究者が「日本はレベルが低いな」と思って、その後熱心にやってくれなかったら、その共同研究は失敗だという評価をしないといけない。ですから、事後の研究活動をどう評価するかということが本当はすごく大事です。

 今はネットワークがありますから、日本に来なくても、日本に来た後も、別にずっと研究室にいなくても、国際共同研究は続けられるわけです。時代が変わったことを理解すべきだと思います。そういう意味では、日本に滞在した短期間でどれだけのことができたかということで、評価するということはおかしい。どうしても日本は、「給料を払って、公務員になったんだから、占有しているのに帰ったら意味がない」と思ってしまうのですが、それは無意味だということです。

 それで、「著名人を招聘するより本当の研究活動の評価が必要」ということの例を示しましょう。1997年にフランス人のChohen Tannoudjiがレーザー冷却の研究でノーベル賞を受賞したのですが、彼のグループと私たちの研究センターはNEDOからお金をいただいて、その受賞より前に日仏の国際共同研究をしていました。国際共同研究の直後にノーベル賞をもらったんだから、本当は日本政府は「どうだ我々はすごく目があるだろう」と宣伝すべきですよね。でも、それは誰もしなかった。つまり、NEDOにとっては、「それは終わったこと」だったのです。しかし、我々から見ればノーベル賞学者を呼んでくるよりは、ノーベル賞をもらう人と一緒に共同研究したということを評価すべきだろうと思うのですが。

日本は評価者そのものが評価されないので、本当の評価が難しいと思います。さらに資料の中に、「基本方向」というのを少し書きました。私は、何か制度を作ったらうまくいくというよりは、やはり、先に自助努力をするということが重要だと思います。それから前回も議論がありましたが、信念に基づく判断というのは、主観評価か客観評価かということです。分子生物学を始めたのは、実はドイツ人なんですけれども、それをアメリカのロックフェラー財団が長期間に渡ってサポートしました。それはロックフェラー財団に1人の数理物理学者のマネージャーがいて、彼は自分の信念でまだ誰も評価していないものをサポートした。新しい種類の研究が必要だと感じ、適任の人はいないかと探し回り、アメリカにいなかったからドイツに行ったわけです。もちろん、これは当たり外れがあるので、そうすれば必ずいいわけではありません。けれども、評価というのはそういう若干恣意的なところがあるのだと私は思います。ですから、そういうことについても、少し日本は見方を変えるべきではないかと思います。

 それで、「魅力的な研究開発環境の創出」というのが書いてありますが、魅力的かどうかというのは実は給料ではない。そこへ行ったらいい仕事ができるかどうかということだけです。ただでも参加したいところがあれば行くだろうし、1万ドルくれようが10万ドルくれようが行ってもつまらないところもあるわけですから。日本はむしろ、そこのレベルを上げるということが今の段階では、すごく大事だと思います。「研究・活動資金」とか「産学官」というのは、それはやはりケース・バイ・ケースで本当に必要なものをやればいいのではないかと思っています。最近の議論は、問題の方向が全部「資金の確保」になっているのが問題です。

 私が資料に書いた中には、資金で解決できる問題とできない問題があります。特に今は、重点化とか競争的な資金の導入がすごく盛んになりました。若干、批判的に見るならば、「競争的」という名前の「無競争の予算」の流入が起こっているように思います。競争に勝って予算が取れるということは研究者にとっても確かにおもしろいことです。

 ですから、この研究予算の重点化の中で、これからは学会ジャーナルと同じくPeer Review システムが本当に必要だと思います。つまり、彼を評価すると自分の予算が減る。だけれども、それを認めざるを得ないというぐらいの厳しいものでないといけない。上から偉い人がお金を配ってやるというような恩恵的なものでは本当の評価はできない。つまり、自分のやっていることと同じ土俵に立って、他者を評価することは、自分にとっては非常につらい。だけれども、あっちの方がいい。だから、自分はそれに負けないものを作ろうというようなシステムでないと本当は厳しい評価はできないわけです。

 それから、もう一つは、日本の研究者は今まで余りお金に恵まれなかったのです。しかし、最近は取れるようになった。逆に、若干、お金主導になっているぐらいです。つまり、お金を取れることはおもしろいんです。大きなお金が取れることもある。それに対して、本当は義務も付いてきていて、お金を取るだけ能力を出さないといけない。今のところ、余り考えられていないので、お金を取れたら喜ぶということもちょっと困ると思います。

 それで、「国立大学における外部資金導入」にはいろいろな問題があります。奨学寄付金というものは見返りの義務を負わないことになっているわけですが、何でそんなものを民間企業がくれるのかは、本当は不思議です。当然、研究を通じて何らかの直接的な見返りを期待しているのは当然です。ですから、建前と本音がずれているところがあるわけです。

 それから、もっと重要なことは、資金だけでなく、大きな研究施設、設備というものをどういうふうにして調達するのか。アメリカでおもしろいと思うことは、不況になると大学の中に研究所や工場ができる。これは民間企業に委託する研究は、膨大な予算を必要とするからです。ですから、大学の中に半導体工場ができ上がっていって、米空軍のための超高速エレクトロニクスは、実は大学の開発というようなことが起こる。

 それから、もう一つ必要なことは、「今はテクノロジーがないと学問が進歩できない」ということです。ジェット推進研究所とコーネル大学に設置されたナノファブリケーション・ラボは、産業界のためではなくて、大学で必要とするような特別のものを一品料理で作ってくれる。そこの人たちはそれ自身を研究しているので、無茶苦茶難しいことを持ち込まれるとそれがおもしろい。採算は全然あわないわけですが、そういうものは日本にも必要です。半導体を教えている先生は半導体を作ったことがないということが現状で、それでよい教育をするのは土台無理です。ですから、そういうことをうまく組み合わせることが必要だろうと思います。

 人材交流に関して言うと、大学と民間との人材交流はもちろんやった方がいいと思います。ただし、長期間に渡って大学の中で、科学技術を学問として教え続けるということはかなりの資質が要ります。大学教官がさぼっているから教育が難しいわけではなくて、教育とは元々、それほど難しいことなんです。

 もう一つは、私もいろいろな学生を指導してきて、日本を代表するような研究者に育ったものもいます。いつでも学生の資質で育つのかというとそんなことはない。私たちは新しいことを始めます。自分もまだ何も分かっていないときに、一緒に研究をしていくと学生は育ちます。というのは、アイディアを出すのも、ミスをするのも、同じ土俵でやります。彼らが間違うこともあれば、我々が間違えることがある。そういうことを一緒にやるからです。それでも、学生のまちがいと教官のまちがいはレベルが違い、どちらが本質的な方向を向いているかは、やっているうちに分かるからです。

 ところが、研究がうまくいって、5年経ったら普通の学生が考えることはみんな我々が過去に経験したことになります。「それはこういう理由で駄目だった。これはやってみたらこういう結果になった」となると、実際にはそういう意識はないんだけれど、それまでの経験が学生の教育のためにはならないこともあります。そういう意味で日本の大学に求められることは、もっと迅速に研究テーマを変えることです。教育は教師も含めた過渡現象の中でうまく行くような気がします。先生が30年もずっと同じことをやっているというのは、実は教育のためには全然意味がないわけです。5年とか10年で必ずテーマを変えるということが必要で、そのためにサバティカル制度はあった方がいい。つまり、日本はのんべんだらりとやってしまうから、外部からの刺激的なアウトプットもないし、方向転換をするチャンスを制度的に作ることをしていない。慣性の法則のようなもので、研究テーマを変えることができない。研究テーマを変えて失敗すれば、それで潰れると思うから恐いのです。だけれども、実はそれは違う。

 それから、もう一つは、「教官における大学間の人材交流」です。国立大学の独立法人化の話がありますが、中身をもし入れ代えるなら別ですけれども、今のままの所属でやったところで限界がある。それが1点。ただし、日本ではやはり連続型と言いますか、下からずっと上がっていく人の方が多いです。ここに示した資料は、ロチェスター大学とアリゾナ大学の光学研究所の教授の経歴をまとめた表です。両大学は光学関係の世界的中心で、アメリカの中で、必ずしも人材の流動が大きくない大学です。しかし、そこの教授の経歴を調べると、学部から大学院への進学に当って、70~80%の教授は違った大学に進学しているわけです。大学を変えます。カリフォルニア工科大学は1,000人の学部定員で1,000人の大学院の定員ですが、そのまま大学院に進学する人はほとんどいません。先生に「このまま、大学院に行きたいです」と、成績のいい学生が言うとすると、「お前は成績はいいけれども、能力がない」と言われます。つまり、ガッツがない。「場所を変えるチャレンジ・スピリットがない奴は研究者としてだめだ」と言われてお終いです。ですから、彼らは必ず大学を動く。そういうことを実は日本でもやるべきです。今のところ、社会的な風土から難しいのですが、風土を変えるには学生を通じた大学間の人材交流が私は必要だと思っています。このような事を、以前から提案している背景には、現在の日本で、18歳で進路を決めることは、おそらく不可能だと私は思います。大学入学の時に自分が何かを見極めていて、自分の視点から進路を決めて、こっちへ行こうとするのは昔の大学です。今の時代は無理だから、大学で4年間、ある程度の教育を受けて、自分が何であるかということがある程度見えてきたら、そこで選ぶ。そうであれば、大学院入試制度の方向を改めて作り直すということが必要です。「東大の大学院に入るためには東大に入ってはいけない」とすればいいだけです。実は、理学部長会議でそれが提案されたことがあります。つまり、同じ大学の学部から大学院に上がる定員を決めよう。「3分の1しか上に上げない」ということですけれども、私の知り合いのその先生以外は全員反対で潰れました。

 それにはいろいろ複雑な事情があると思います。もちろん、日本では特殊な住宅事情があるために、学生個人、親の負担ということから言えばいろいろなことがあります。しかし、本来の大学教育とは何かということから言えば、そういう形で大学の名前とかブランドではなくて、自分のやりたいものが見つかったときに、それをやるにはどこで研究をしているものが一番いいかと選ぶアメリカの方がいいと思います。それは、アメリカは「ジョブ」だからです。そこで給料が貰えて、自分で生活をして自由にやれるからであって、授業料を払って通う大学院ではなかなかそういうことは難しい。

 次に、研究と教育の分業には私は反対であるということであります。大学の教育は専門学校などのように、単なる技術情報だけを教えるものではありませんので、教育と離れていい研究者ができるはずがない。研究から離れた教育者がいい大学教育ができるとは思いません。一般に日本の中では、「国立研究所でいい成果が出ている」と思っている方が多いと思いますが、大学の研究レベルは国立研究所より高いと思います。

 ある程度結果が見えている仕事について結果を出すことには、もちろん能力は必要ですが、ニューアイディアを出してニューフィールドを切り開くということは、やはり大学でやれていますし、今後もやっていくべきことだと思います。ですから、そういう意味で、余りこれを分けるべきではないと私は思います。

 それから、もう一つ、「教育・研究の機動的運営」ということです。「日本の大学教育の中に産業競争がない」ということを指摘したいと思います。アメリカの大学教育の中には、多分にそういう要素があると思います。要するに、アメリカでは、産業分野ごとの競争が産業界から教育への投資に結びついている。日本でも寄附口座みたいなものがありますが、いろいろな設備、建物を含めて、アメリカはもっと大規模にやっています。彼らと話をすると、「トップの人材が産業の将来を決める」と言います。他の産業分野にすごく優れた人が入ると、そこに勝つのはものすごく大変である。したがって、人材獲得競争では、教育の段階でどれだけ優秀な人材を取り込んでいくかということがすごく大事です。採用担当者は、全米の大学の中にどんな学生がいるか、得点のランキングがついた電話帳みたいなデータブックを持っています。

 そういう中で言うと、日本では教育は公教育であるという意識が先に出てきます。「教育された学生を後から企業のニーズに合うように変えましょう」とか「採用してから何かしましょう」というのが多い。それは確かに「大学を尊重している」という言い方もできるかもしれないけれども、企業は金を出さないで、楽な道を選んでいると言うこともできる。米国では、自動車、航空宇宙、飛行機、コンピュータというようにお互いに産業間競争をして、教育の中にも投資をする。そして、そのコースの学生の能力を開発して、そこに優秀な学生が来るようにし、そうして「自分たちの将来の経営者や研究指導者を生み出すためだから、当然の資金投入である」という認識があるわけです。

 だから、本当は、これを日本もやらないといけない。今までみたいに、出てきた学生の中で一番いい学生をどう採用するかということだけを一生懸命考えているようでは、世界に勝てない。やはり、こんな学生が欲しいから、こうやって作ろうということをやるべきです。それは介入かどうかというのはまた別の問題です。それを受け入れるかどうかについては、大学は大学で別の見識を持てばいいわけで、「介入」というより、両者がぶつかるべきです。日本における「公教育に口を出さない」ということと、「何もしない」ということは正しくないと思います。

 また、国内の学術情報基盤ということも、もちろん、すごく大事なのである考えを示しました。

 大学審議会の答申を見て気になることは、「大学問題の重要な視点が抜けているのではないか」ということです。大学審議会の答申では、責任ある大学運営が打ち出されています。誰が大学をコントロールしているかというと、もちろん教官、学生、政府、産業界とお互いにみんながある程度関与しながらやっているわけです。同時に誰が責任を負うのかということもお互いに分担しながらやるわけです。

 実は大学審の答申では、学生についての分析がなかったんです。一番大事な「学生は今どうなっているのか。我々はどんな学生を教えているのか」ということです。つまり、学生というのは粘土ではありませんから、作者の意のままに人形を作り上げるわけには行きません。「大学の制度をこんなふうにすれば、必ずこうなるだろう」ということはないわけです。教えられる対象がどういう状態にあって、それをどういうふうに導くかという議論がなければいけない。大学審をとりまとめた方が大学に来られて講演されました。私はそういう分析をまさかしていないとは思わないから、書いていないだけかと思って、「世間に出すといろいろ叩かれるから書けなかったのではないか」と質問したら、その方は「そういう分析はしてない」と言われたのでびっくりしたんです。つまり、大学教官など、自分たちがコントロールできるところに対象を絞って物事を決めてしまっている。だけれども、本当の問題はそれだけでは、できないのではないかという気がします。ですから、大学教官としても、我々が全体として責任を負うべきことは、全体として発言をし、発言の責任を負っていくべきだろうと思うわけです。

 その他のテーマでは、やはり「評価」がすごく大事だと思っています。日本の大学では、明治以来、立派な先生達だったから、自分でちゃんと評価して、出処進退も自分で決められる人だけが大学教官になったのでしょう。しかし、それができないから第三者が外からやりましょうとなってきています。だけれども、そうは言っても、やはり自分のことを一番よく知っているのは自分です。そこの評価が厳しくならない限り、外から幾ら外部評価が入っても、そんなものをごまかすぐらいはいくらでもできます。

 ですから、本当はそこが直らないといけない。その中でやはり、日本でこれから大事なことは「個」が確立していなくてはならないということです。教官も学生も「自分は何だ」ということが、はっきりしていなくてはいけない。だけれども、そういう「個」を確立するということと、「個」の中の「公」を確立するということは両方必要なのであって、そこがはっきりしなければどっちに行くか分からないという感じがしています。

 その他、いろいろなことがあります。例えば、我々のところに民間の会社の方が来られて、いろいろと情報交換や助言をするわけです。しかし、それは欧米のシンクタンクの人達から、「ただでやるのはだめですよ。やはり、何かしゃべるときには、必ず金をもらいなさい」と言われるわけです。だけれども、それは日本の場合は国立大学なので無料でよい。逆に言うと、そこをもっと利用すればいい。つまり、国立大学ということは、無料でどんどん使えるところであるわけです。何もアメリカの真似をして、お金を取らないとしゃべらないということを真似る必要はない。むしろ、国立大学の教官が外見上、無料のボランティア的な活動を展開し、それを評価するシステムを作るべきでしょう。何しろ、本来的には、すでに給与が支払われているのですから。しかし、いずれにしても、今は米国を真似る方向にずっと行っています。

 特許を出すのはいいと思いますが、実はなかなか特許を大学で取ったところで、それで儲かるようになるには、今は難しいように思っています。今の特許システムでは、生産手段を持たない研究者の特許を有効にさせるのは困難な状況があるからです。

 それで、今日、別にお渡ししたのは、実は、イタリアの新しい種類の大学である「エリチェ・スクール」に関する物です。これはガリレオ・ガリレイの生誕400年記念で創られたNATOの先端的スクールです。その資料に設立の趣旨が書いてありますが、それを見ていただければ、彼らが何をしようとしているかお分かりだと思います。大学再生運動、大学、知的活動拠点というものはどうあるべきかということは非常に議論があって、今の体制でやるかどうかということとは別の問題です。

 それで、そのスクールの中で2週間から3週間、他の学者と一緒に生活をして、朝から晩まで議論をして意見交換し、本を書く。その中で大学院教育をするということは、私としては非常にいい経験でした。

 そのときに、私は、「こういう拠点が日本でも作れるといい」と思って、文部省などに提案をいたしましたが、採用はされませんでした。「エリチェ」というのは、実はシシリー島の山の上にあって、アフリカもヨーロッパも見えるところにあります。カルタゴの時代の紀元前8世紀の町です。ここは城壁に囲まれていて、この町の中にあるレストランは滞在中はサインをするだけで、無料になります。ですから、朝から晩まで他の研究者と分かれることがないわけです。離れる理由がないのです。ホテルに帰って1人でご飯を食べるとか、そういう理由がないから、朝8時に会ったら、夜中の12時までずっと一緒にいなければならない。ですから、それを2週間、3週間も続けると、それは非常に親密な関係ができます。だけれども、この中でお互いを認めるものがあれば、そこから新しい拠点ができて、世界中に拠点の種が蒔かれるということです。こういうことは多分、そんなにお金がかかるわけじゃない。巨大な会議室があるわけでもない。これは元々、教会を改造して、そこを拠点にして小さな教室に30人から100人ぐらいを集めている。だけれども、やっていることは非常に大きな意義がある。いろいろなレベルの知的活動拠点ということを日本は考えていくべきではないかというのが私の考えです。

 それで、もちろん学会側もいろいろなことを考えていまして、資料にお示しめししましたが、国際競争力があるようなジャーナルを作るということがとても重要です。実は、これは幻の原稿です。学会内で否決されたので、これはこのまま載りません。「Peer Review Journalを聞いたことがありますか」というようなことを書いて、「学会とジャーナルの関係はこうあるべきだ」ということを書いたら、「こういうように上から啓蒙するようなことはおこがましい。学会員をもっと尊重しないといけない」と怒られました。私は必要なものは宣言文であって、ある意味、歴史的な一歩を踏み出す新しい取り組みだと思います。これを宣言文だというのは、私は単なる学会の委員ですが、学会の会長になったつもりでこれを書きました。そうしたら、偉い先生に「けしからん」と怒られました。だけれども、本当は、自分たちはたとえ単なる学会の一会員であっても、それで自分が世界を背負っているとか、全体に対してやって行くんだというようなものが必要で、与えられた姿だけでやっていきましょうという姿勢は違うと思っています。

 以上です。

〔 座長 〕 どうもありがとうございました。

 私もいろいろと思い当たることがあるのですが、どういうことでも結構ですので、皆様のご意見をどうぞ。

〔 A委員 〕 本当にいろいろな点で同意することが一杯あっておもしろかったです。最初の方からお話しますと、Invited Paperとか、それからスピーカーとして世界に出ていく機会が少ないということですね。さらに言いますと、こういうものを決める仕組みの中に我が国が入っていくことが非常に重要だと思います。現状では、ここが弱い。

 発表者として決められて、喜んで発表をしたとしても、実は、その「からくり」を作っているコアには入っていない。この点がヨーロッパ、アメリカに対して非常に弱いんじゃないかと思います。学会の中の主流を形成していくといいますか、学会の中できちんとした地位を占めて、実際に各グループの中の一つの戦略を作っていくような立場には、日本人はなっていないと思います。この辺が非常に弱いのではないでしょうか。

 その理由とすれば、いろいろな戦略がやりにくいということがあるわけです。

 例えば、研究の質が大変大事です。研究の質の確保の観点からしますと、やるべき研究をちゃんとやって、そしてそれが論文になっているというわけではなくて、研究資金が非常に少なくて、人材もなくて、やるべきときにやるべきことをやっていない。大体は、小規模な研究による論文はあるのだけれども、しかし、それが将来の一つの方向を形成はしない。そういう論文では、いくら数があってもだめなんです。アメリカの例を見ますと、かなり詰めるべき点を詰めて、実験もして、レポートもかなりできていて、そのエッセンスが論文になっている。

 それから例えば、海外から10人ぐらいを招聘して会議をしようとして、そのための予算要求をするわけですが、日本の場合は、その予算が取れるのかどうか、また、いつ頃とれるのか、すぐには分かりません。例えば5月に開きたいと思っても、今の時期にはまだ分からない。そうすると、そういう活動が全然できなくなるという意見がある。自分たちが主導してやっていこうとするには、手かせ、足かせになることが随分あって、それを克服していかないと苦しいなと感じます。

〔 B委員 〕 おっしゃる通りだと思います。そういう意味では後追いのレベルのところがあって、基本コンセプトが先にないということはまずかった。だけれども、本当はバブルの頃はチャンスでした。アメリカも景気が悪い時には必ずしもそれほどオリジナルではないときがありました。「オリジナルとは何か」というと、研究の先頭に出れば、全てオリジナルなのです。二番手は、前の人がやっていないことをやらないとオリジナルではないのです。ですから、日本は先頭に出た時期があったので、それを続けられれば良かったのですが、結果としてそうはいかなかった。

 国際的な学会などの場で活躍しようと思うと研究だけではだめです。別の意味の見識も必要なんです。つまり、日本の場合は、他のことについての視点をなるべくカットするという変な訓練をしています。だけれども、国際的な学会の中に入るときに、アメリカの学会であっても、世界を見ているという構図がなければそれは一流にはなれない。だから、国際的な学会の中で議論をする場合は、「開発途上国の中の物理をどうするか」とか、「インターネットがない国にどうやって情報を発信するか」という話をするわけです。そういう視点が、やはり物理学者にもなければいけない。日本では、そういう社会的ことをやる訓練は良くないと言いますので、なかなか困難なのですけれども、しかし、そこをこれからやっていかないといけない。何も国の代表として行くわけではないわけですが、国を超えて、彼らと同じ土俵に上がる。そのときには、彼らと同じ論理に立たなければいけない。

 日本においても、「アジアから1人招聘しましょう」というときに、被招聘者を自分たちとは違う人として呼んでいるんです。つまり、自分たちと異種のものとして呼んでいるわけです。しかし、そうある限りはだめで、自分たちの中で同じ発言をし、同じ方向で物事を考えてくれる人でなくてはいけない。

〔 D委員 〕 大変勉強になりました。一つはコメントと、一つはちょっと質問です。

 まず、コメントとしては、やはり日本の経済プレゼンスその他の大きさに比べて、世界で日本発の情報を生かしていただくという努力と機会が非常に少ないことを痛感するわけです。

 それで、とんでもないたとえをするようで変かもしれませんが、バレーボールの「リベロ」という後方の守備専門のポジションが、最近のルール改正でできました。私はおもしろいなと思っていたら、ある雑誌に、バレーボールの国際委員を長くやられ、日本の会長もやられた松平さんの対談記事が出ていました。「リベロ」をあそこまで持っていくのにいかに苦労したかということが書いてありました。メディアを味方につける、観衆を味方につける、さらに国際委員として長く一定の人を送り込んで、その人に個人的なコネクション作りをさせる。どうも「リベロ」の発端は、松平さんが、自分でも昔は一流選手としてバレーボールができたのに、今の選手に比べればすごく背が低い。今は自分のような背丈の者は一流選手としてはバレーボールができない。それは結局見る人、参加する人を少なくしているのではないかという哲学に基づいてやったそうです。

 今、グローバル・スタンダードと言われるいろいろなことがあると思うのですが、非常に身近なところに相通ずるものがあったので、紹介させていただきました。

 これがコメントです。

 2点目は、質問です。自然科学と社会科学は違うかもしれませんが、先生はお金の扱いをどうお考えになっているのか。学者が本業以外で得る収入については、どう考えるべきなのかと思っているわけです。こういうことを個人の問題だとするべきなのか、それとも幾ら何でも本業の給料に比べて考え直した方がいいという考えなのか。

 ですから、研究費も似たようなところがあって、企業と一緒にやらなきゃとても変化についていけないというところもあると思うのですが、片方でそれを物すごくきつく締めてしまうと、「科研費で苦しむ」とういうように、「自分は研究者か事務処理屋か」と思ってしまうようなこともあるし、それ全部が自分の倫理ということになると、国立大学と私立大学とは物すごく差があって、それが「公」と「私」の差だと考えるのか。私には分からないので、先生から何か教えていただければありがたいと思います。

〔 B委員 〕 これも人によって違うと思いますが、いわゆる実験系の研究者から言いますと、「『科研費』でできることはたかが知れている」。あれは既に世の中にあるものを単に組み合わせて何かするぐらいのレベルの実験しかできないわけです。本当に先端の科学技術を使おうと思うと、非常に高額な先端の研究設備等が要るわけです。そのときには、ある意味でお金の額では決まらない。つまり、「自分はただでもいいから民間企業が一緒にやってくれる」というぐらいのところまでアイディアを高めないといけない。金で動かすことができないものがかなりあります。

 ですから、そういうものと普通に大学の研究室が自分たちをマネージするということとはちょっと違っていて、そこは個人のモラルみたいなものがかなりあると思います。ただし、昔はなかなか研究予算が取れなかったのに、最近は何千万円クラスのものだったら割と取れるようになってきました。それに有頂天になっている傾向がちょっとあるので、危険だと思っています。

 もう一つは、やはり「公」の意識。学問や科学は本来、どこかで社会そのものに寄与するということがないといけない。自分にフィードバックがかかっているだけでは不満足だと思う気持ちが研究者のどこかにないと困ります。しかし、社会へフィードバックをかけようとすると、大学の科研費や研究室そのものは非常に小さな単位ですから、そこで幾ら頑張っても社会への波及効果は小さい。ですから、お金の問題とは別に、人間的な関係でつながるネットワークが広がっていないといけない。そのために、これからは無形のサポートが要るのだろうと思います。それをお互いがお互いを評価し合って、「あの人はよくやっているからみんなで支えよう」というように、自然発生的に出てきたものに後から公的サポートがつくことが最も理想的だと思うのですが、そんな理想郷みたいなことは現実的ではないかなということです。

 コンフィデンシャルについて言うと、実は私が書いたレポートの中で、政府支援データベースの作成プロジェクトで科技庁のJ-stageの話があります。これはいろいろと問題があると思います。日本とアメリカが学会ベースと政府でやっていることが、これからは同じ定義にならないと、やはり日本の交渉力がなくなる。少々、不都合なことがあっても、やはり日本は日本なりの努力をしていますが、その整合をとる時期に来たなと感じます。

〔 座長 〕 社会科学の経済学は少し自然科学と近いところがあると思うのですが、自然科学とアカデミックな部分は割と結果がクリアに現れる性質がある。世界的なジャーナルに論文が掲載されたかどうかで研究者は評価されるべきであって、そうではない学者はどんなにまじめに勉強していようとも評価されるべきではない。まず、Peer Review Journalに論文が掲載され、それが引用され、会議に招待される。もちろん、後継者としても優秀な学生を育てなくてはいけない。

 そう考えると学外で行う活動をどうするかということは、もちろん、モラルの問題がありますから、全く自由というわけではないですが、考え方としては、いい研究をして、いい学者を育てればいいという発想でないと、なかなか「学問」というものはできないのではないかと思います。

 むしろ、今の実際の日本の大学というのがどうなっているかと言うと、朝から夕方まで部屋にいる。部屋の中で何をやっているかは知りませんけれども、教授会にまじめに出てくる。学生とは一生懸命会っても、茶飲み話をしている。それで仕事は全くしないという人が一番安全なんですよ。しかし実は、何も貢献していない。

 ですから、こういうところが非常に重要で、Peer Review Journalをどういうふうに評価するかということをきちんと考えていかないといけない。

 私はそんなにたくさんパブリケーションをしているわけではないですが、例えば、アメリカの主要な雑誌に論文が掲載されても、学会の仲間の一部が評価してくれるだけです。一方、日経新聞に10行の原稿を書くと途端に電話がかかってくる。一般紙に書くことは重要ですけれども、ただ、やはりきちんと学問的なことをどういうふうに評価するかということを考えないといけないと感じます。例えば、ノーベル賞を取った人は、ある意味で「終わりの人」です。ノーベル賞を取ってやっと評価される。ノーベル賞を取った人を呼んで、講演を聞くと彼が30年前にやったことの話をしている。何か非常におかしな評価システムで、挙げ出したらきりがないぐらいです。

〔 E委員 〕 今のB委員のお話で、「評価」という言葉がたくさん出てきました。企業経営の中の評価方法として、今、言われていることは2つあります。「360度評価」と「アウトプット評価」というものがあります。これはB委員のお考えに通じると思います。「360度評価」というのは、従来の上司からだけの評価だけじゃなくて、部下からや同僚からも評価される。そして、それを合計で評価するということです。例えば、大学の教授は誰から評価されるのか、そのルールをきちんと決めるということです。また、理科系であれば、企業の採用担当なり、企業の上司から評価されるような学生を育てたかという観点からの評価、学生からの教授の評価、同じ研究者である横の教授からの評価もあるといったように、評価の方向を360度化するということです。

 さらに、「アウトプット評価」ということで、実際にジャーナルに論文をどれだけ出したかとか、それによってどれだけ論文が引用されたかとか、有能な学生をどれだけ輩出したかとか、そういったようなアウトプットの評価手法の確立も必要だと思います。

 やはり「知的活動拠点」の場では、「評価の仕組み」と「評価を公表する場」が伴っていないと、やはりうまく回らないと思います。日本の中では、これまで余り競争が好まれていなかったということもあって、「評価の仕組み」や「評価を公表する場」が作られなかったということです。それを作ることによって、知的活動が活性化するかもしれない。

 例えば、企業の評価には「勝手格付け」というものがあって、S&Pのように評価機関が企業を勝手に格付けしていて、投資家がそれらを見て、どの格付け機関がいいかと選ぶわけです。それと同じ理屈で、例えば、プロフェッサーの評価にしても、日本が世界中のプロフェッサー、例えば、世界中の物理学のプロフェッサーについて、評価して結果をネットで公表してしまうとか、評価の理由を付けて勝手評価をどんどんやっていくことで、日本に注目が集まるとか、日本のやり方がさらに評価される。そういったようなことも考えられるのではないかと思います。

〔 F委員 〕 インターネットをやっていて、一番感じることがインターネットのフリー・ソフトウェアの業界が完全なアカデミック・モデルなんです。「リナックス」を見ても、"Peer Review"があります。ソフトウェアの場合は、「動いたらいい」という簡単な評価のシステムがあるわけですが、それが「エレガントかどうか」という基準があります。なぜ2,000人もの人達がリナックスのソフトウェアをただで書いているかというと、リナックス・コミュニティの中での評価を取るためにやっています。ほとんどのソフトウェアが作られる過程はアカデミズムの世界のそのままを辿っているようです。レファランスについても、自分の作ったソフトをみんなが使って、またさらにソフトを作ると、どんどん評価されていくという形です。我々のインキュベーターは、およそ10人に1人はフリーソフトの研究員にしていて、社員の契約書の中にフリー・オープンソースが入っています。

 彼らが書くソフトは全部をコミュニティに返す。会社の中での評価基準は、そのソフトが今後コミュニティで使われていくかどうかとか、例えば、リナックスのディベロッパーに認定されるかどうかという形です。そこでインターネットのフリーソフトとコミュニティとのインタフェースを作るという部署もあり、ネット社会では、そういう評価システムが自然に生まれてきています。

 もう一つは、ホームページ検索でも、検索したホームベージを出してくる順序の問題があります。実は、これはすごく難しくて、今までは単語の並んでいる順序とか、「いつどの単語が出ているか」ということでやっていました。例えば、検索条件として「IBM」を入れると、IBMのホームベージが上に出てくるのか、IBMの総会屋のページが出てくるのかとなかなか難しかった。

 最近、すごく好評な手法としては、そのサイトに対して、どのぐらいレファランスがあるかどうかということを評価基準にしたら、関連性が高いサイトの順に上に出てきている。インターネットは近い将来に、新聞に近いメディアになってくると思います。そうなると、「何が1面に出るか」といえば、編集者が選ぶ方法もありますが、「いかにみんなが評価するか」ということで上に行く。購買でも似たビジネスモデルがあって、「イー・オピニオンズ」というものがあります。カタログに商品がたくさんあって、それに対してオピニオンを書きます。そのオピニオンが役に立ったかどうかをみんなが投票するんです。そうすると、一番人気のあるオピニオンが一番上に出てきて、商品の評価をするという形がある。「評価」というのは、技術的にはインターネットで集中している分野なので、すごくおもしろい実験がたくさん出てくるのではないかと思います。

〔 B委員 〕 今おっしゃったようなインターネットの世界はかなり開かれた社会だから、そういう形の"Peer Review"でいけるのだと思います。

 学問の世界はちょっと違うところがあります。"Peer Review"のもう一つの意味は、「評価する人がまた評価される」ということが重要なんです。日本は審査員は審査される人の上にいます。この審査員がさらにまた誰かに評価されて批判されることがない。

 私はアメリカン・ジャーナルのエディターをやっています。そうすると、ある論文を載せるかどうかということは、私が決められるわけです。ところが、その判断に対してクレームが来ることがある。そうなると、今度はエディター・ボードの上に、またそれをレビューする委員会があって、時々、そこから「お前はこの論文を落としたけれども、文句が出ているぞ」とか、「どういう理由で落としたんだ」というものが当然来ます。それに対して、戦うことは裁判と同じようなものです。著者とエディターは対等の立場で戦って、著者に勝てなければエディターは間違ったわけですから、エディターに×がつくわけです。ですから、評価者が、さらにまた別の形で評価されるという意味では、双方が同じ土俵に乗っているわけです。

 ですから、経験に鑑みて、ある程度、評価者のレベルが高いということがあったとしても、地位で物事が決まってしまい、一方向で物事が流れるようなものではないということが大事だと思います。おそらくインターネット等の社会では、現実のマーケットがあって、大衆がある程度判断してしまうからいいのでしょうが、学問の世界では必ずしも多数決で物事が決まるわけではなくて、ごく少数でも正しいものは正しいので、それをどうやって保証するかということが実はすごく重要です。ですから、日本では、評価する側、評価される側が一方向に固定されているということに問題があるのではないかと思います。

〔 G委員 〕 3点ほど申し上げたいと思います。

 第1点は、B委員の発表に関する感想です。大変中身があって、とてもおもしろく、また、たくさんいろいろな問題点を指摘されて、勉強になりました。しかし、私が一つ伺いたいことは、問題点はたくさんよく整理されているのですが、「何が目的で、何が目標で、それを達成するためにどういう手段をとったらいいか」ということが、私にはよく分からなかったのです。たくさん指摘された問題点を伺って、私もアメリカの大学と比べたら、「なるほど、日本の大学あるいは研究所がこういう面でいろいろ問題を抱えているのか」ということは理解できましたが、その問題の優先順位がまだ理解できていません。つまり、それが日本の政府、日本の国民、あるいはこの研究会にとって、「何が最も重要な問題であって、その目標や目的が何で、それを達成するためにどういう手段をとるのか」ということがよく分かりませんでした。

 例えば、一つの単純な例を申し上げますと、先程のお話にあった日本人のブランド志向については、学会だけの問題でなく、日本の社会では、一般的に中身ではなく、むしろブランドとか飾りを優先させて判断することがあるように見えます。先程のノーベル賞学者のお話でもありましたが、例えば、私も日本の研究所とか大学があるテーマについて、「アメリカから誰かを呼びたいから、推薦してくれないか」と言われることがよくあります。私は、余り名前を知られていなくても、むしろ最も先端的でおもしろいことをやっている人の方が中身としてはおもしろいからという意味で提案するのですが、全然、受け入れられません。とにかく、日本では「ビックネーム」でなければダメなようです。

 これは日本社会の相当根が深い問題であって、これを克服するためには相当抜本的に日本の文化とか日本の物の考え方を変えなければ乗り越えられない問題ではないかと思います。そうしたことにつきまして、繰り返しになりますが、何が問題で何を解決しなければだめかということがよく分からないということが全体の感想です。

 第2点は、留学生に関してです。私も二、三回ほど日本の大学に留学した経験がありますので、それに基づいて簡単に申し上げますと、3つほど大きい問題があります。一つは「日本の教育、日本の大学の中身が、どれだけコンテンツとして魅力的なことを教えているか」ということです。例えば、それがどれだけ他の国で通用するか、どれだけ普遍性があるか。日本語でいろいろな学問的な勉強をしても、日本でしか使えないということがありますので、日本の教育機関が提供している中身そのものに関する問題が一つあると思います。

 2つ目は、日本の大学、あるいは社会全体の受け入れ体制です。私が知っている限り、アメリカ、ヨーロッパ、特にアジアからの留学生は受け入れ体制に関して相当不満を持っているようです。中国からの留学生がある日本の会議でこんな発言していました。「アメリカに留学している中国からの学生は、10人のうち9人がアメリカのことを好きになる。しかし、私の知っている限り、日本に留学する中国からの留学生は、10人のうち9人が日本のことを嫌いになって帰る。日本は非常に損をしていて残念なことだ」と。これは多分極端だと思いますけれども、そういう要素がある。

 そして、3点目の問題点としては、日本で教育を受けてから日本で就職することを期待して来ている学生が、アメリカやヨーロッパからもいると思いますけれども、特にアジアからの学生が、保証人の制度とか、その他、いろいろな意味でせっかく日本で勉強しても、それを日本で必ずしも使えないということです。留学生の問題について、私がお聞きしたいことは、日本に留学している学生に対する定期的なアンケート調査があるのかどうか。どういう問題があって、それをどう解決するのが最もいいのか検討するようなアンケート調査があるかどうか、ぜひ教えていただきたいというのが第2点です。

 第3点は、これは皆さんのご参考までに申し上げますが、アイバン・ホールというハーバード大学で博士論文を書いた歴史学者で、日本でも学習院大学と慶応義塾大学と筑波大学で教えた経験のある人ですが、二、三年ほど前に、「カーテル・オブ・ザ・マインド(知の鎖国)」という本を出版しました。アメリカでは結構評価された本ですが、日本でも毎日新聞社から出版されているはずです。著者の話では、内容が日本に対して厳しいので、日本でほとんど書評としては取り上げられなかったということです。彼はこの本の中で、大学と研究機関とジャーナリズムと法曹会の4つの分野において、いかに日本は閉鎖的かというテーマで書いていますので、もしご関心がありましたら、読んでいただきたいと思います。

 最後に、単純な質問なんですが、B委員の資料の中にある"Japanese Journal of Applied Physics"これは本当にあるものなんですか、それともこれはフィクションですか。

〔 B委員 〕 あります。その分野の引用論文数で世界第3位のジャーナルです。

〔 G委員 〕 なぜそういう質問をしたかと言いますと、これは科学とは全く違う分野になるんですけれども、「JAP(ジャップ)」という言葉、「J‐A‐P」、ここでは「J‐J‐A‐P」ですけれども、「JAP(ジャップ)」という言葉は、特にアメリカ、あるいはヨーロッパでは、日本、あるいは日本人のことを蔑視する言葉として昔から存在しています。この問題は全く科学とは関係ない分野ですが、普通のアメリカ人が見ると、これは「日本人が自分たちのことを気にしないでこうやって使っているのか」と、ちょっと「はっ」とするような部分ですから、ご参考までに申し上げたいと思います。

〔 B委員 〕 最後のことから言いますと、実は"Japanese Journal of Applied Physics"というのは、もちろんあります。それで、実はこの分野ではトップジャーナルは"Applied Physics letters"という"AIP"が出しているもので、その次が"JAP"です。"Journal of Applied Physics"というものがアメリカに実際にあります。それがこの分野ではトップ2のジャーナルでして、実は"Japanese Journal of Applied Physics"が世界第3位のジャーナルです。ですから、サイテーションというか、論文の引用数では世界第3位です。もちろん、純粋物理の分野はまた別です。

 ですから、そういう意味では我々もそれを考えています。今度、新しく作る刊行協会は"J"はありませんで、「IPAP(アイパップ)」といって"Institute of Pure Applied Physics"という名前になって"Japanese"は抜きます。もちろん、それにはいろいろな意味があります。今のご指摘のこともあるし、もう一つは"Japan"を抜いて、「世界に出て行く」ということがあります。

 先程の、「留学生に対するアンケート調査があるか」ということは、今はかなりやっていると思います。特に、いろいろな意味で「宿舎」に問題があるわけです。確かに「臭いがつく」とか、いろいろあって、それで里親制度というのもありますし、皆さん苦労しておられるわけです。そういうものは常にフィードバックをかけておかないといけない。日本の家庭にお願いをするにしても、「どういう状況にあって、今後はどう水準を上げていくのか」ということは大学にとっても重要です。「短期留学生度」というのも新しくできていますが、そういうものはかなり短期勝負でやらないといけない。その都度、どういう結果だったかということをフィードバックさせる必要がある。特に、アメリカから来る方に関しては、向こうの大学にも報告しないといけないということがあって、そのようになっていると思います。

 「宿舎」に関しては、やはり、日本の社会ではうまくいきにくい側面があるので、公的なものだけではなくて、日本の社会としてどう対応するかという姿勢が大事だと感じます。それで、私が「退官教授がアパート経営をやれ」というのは、やっておられる方が現におられるからです。そういうものを制度化して、ノンプロフィットに政府がサポートしないと、一般の大家さんにお願いをするだけでは難しい。大学の中の教育とか研究というものにかなり理解のある大家さんがまず始めて、それから日本の社会に広めて行くということにしないと難しい問題があるのだろうと思うので、いろいろとインターフェースを作りたいと思います。

〔 座長 〕G委員のご質問で、前回の議論に非常に関係があるので、もし何かイメージがあればお答えいただきたいのですが、こういうことを考える目標とそのための手段、方法のようなものがありましたらお願いします。

〔 B委員 〕 私が敢えてこういうことを出したのは、むしろ逆に言うと、日本の中の公的な議論に不満があるからです。日本でも実は、「目標」、「手段」、「結果」ということをすぐに求める議論が多い。私は、むしろ「理念」先行であるべきだと思っています。先に理念を確立させて、次にどうそれを実現するかという議論をしないといけない。理念は横に置いておいて、問題を解決する方がいいという議論が多すぎます。

 ですから、私は、もちろんこのまま議論を進めたいと思っております。これがある程度議論を呼ぶというのは目的でもあります。

 ブランド志向に関して言うと、日本が改めなければいけないことは、先程言ったように、偉い人を呼んでくるタイプのものでは結果が出ません。彼らの方が優位に立っているからです。こちらが優位に立ったときに、本当の共同研究ができる。こっちのポテンシャルが高くて、こっちに来たいという人がいる、もしくは向こうが何か困っているというときに一緒にやれたらいいわけです。向こうが何も困っていない偉い人で、物見遊山的にやらせて国際共同研究が続くはずはないわけです。ですから、後の評価をしっかりとやることで、「偉い人を呼んだけれども、あそこは何も成果が出なかった」という指摘できるわけで、「評価でフィードバックをかけるべきだ」ということが私の視点です。国際共同研究では、若い人や困っている人を呼ぶべきです。

〔 座長 〕 どうもありがとうございました。

 まだ、他にもいろいろ議論がまだあると思いますけれども、次回以降も続けたいと思いますので、次の議題に進みます。

 では、C委員、どうも大変お待たせいたしました。「創造性を有する人的資源の育成」というテーマで、20分から30分程度でご発表願います。

〔 C委員 〕 先程、B委員にご発表いただいたことは、私も19歳の時から23年間大学におりましたが、すごくもやもやしていたものが、「そうだったよな」とすっきりした感じがしました。

 僕は大学と民間の両方をやっていた時期がもう10年ぐらいなりまして、今は、民間の立場で会社をやっています。ある種の教育に関わっているという点で、どんなふうに世の中を見ているかということで資料を作ってきました。

 内容はレビューみたいなもので、多分、10分程度で終って、せっかくこれだけの人が集まっているので、その内容についての議論をやったらおもしろいと思っています。

 やはり、「インターネット関連の企業は本当にとんでもないことになっている」とお考えの方がいらっしゃると思います。AOLとタイムワーナーについては、日本では「合併」と言っていましたけれども、アメリカの放送を聞いているとAOLがタイムワーナーを買ったと言っています。「そういう時代かな」と見たとき、「次はここだ」とインターネット業界の人が思うということです。この時代だからあり得る話で、これらのほとんどは教育に関わっています。「大学」と「専門学校」とあります。こういうものも「インターネット革命」みたいなものによって、「本当にいろいろと大きなところに巻き込まれてしまうのではないか」と日々考えています。

 せっかく2000年になったということで、20世紀の総括を考えてみたいと思います。2億人も、随分、人が殺されたよね。随分、Dも減ったよね。それから教育で言えば、一般人がこの100年間で教育を受けられるようになったということは事実でしょう。「500年前のニューメディア」と書きましたが、「活版印刷が登場」し、そういう中で教科書、教師、それから読み書き、計算能力、集合教育の誕生ということがあったと思います。この100年間は本当に生産性の向上に寄与したと思います。

 グーテンベルグが活版印刷に成功したことから「情報伝達手段の発達」があって、そして「市民文化の誕生」、「宗教権威の失墜」などがあったと思います。ワットやカートライトによって産業革命がもたらされ、「肉体労働生産性の向上」が機械によって実現し、「資本主義路線」に突っ走っていったということだと思います。それから、電話などが一つのきっかけでしょうが、「通信能力が向上」していく。それから、ラジオ、テレビとつながり、そして現在が「インターネットの情報革命」になっているという流れです。

 そして、「知性ネットワークの発達」とか「人間の脳と外部脳との接続」とかが、今よく言われている言葉だと思います。そのときに、「『マス』の失墜」とか、「知本主義」というのものが言われている。この「知」の部分が教育やそれを育てることと関係してくると見ているわけです。

 「ニューメディア権威失墜の法則」というのは、皆さんよくご存知だと思います。マクルーハンは、「新しいメディアの登場はその性質上、必ずその時代の権威を破壊はするけれども、新たな権威をまた生み出す」と言っています。「印刷技術」の例で言えば、もちろん聖書をたくさん印刷したのは良かったが、ローマ教皇の権威が失墜していろいろな宗教革命が起きて、たくさんの宗派が出てきました。しかし、最大限、新しいメディアの特性を活かして革命を成功させたということは事実だと思います。

 それと同じように考えられる「ニューメディアとしてのインターネット」は、直近の例で言えば、「テレビの登場」で、「親」とか「教師」とか「大人」とか「教育」とか「政治」とか「宗教」などが、ある程度、「権威失墜」してきていると思います。特に戦後のこの30年間ぐらいのことでしょうか。1950年代からテレビが出てきてからは、正にそうだと思います。マスメディア自体が権威のようになって、さっきのお話でもあったように、「いい論文を書くよりも、日経新聞に10行の原稿を書く方が問い合わせが多くなる」という現象は確かにあると思います。「情報革命」、「インターネットの登場」ということになるわけですが、結局このパターンで行けば、「マスコミ」とか「知識人」とか「言論人」というのは権威が落ちてくるのではないか。

 そうすると、新たな権威とは何だろうなと思いますが、「『思想』とか『倫理』というものになっていけばいいな」というのが望みです。こういうときに「理念」が大事だということは本当だと思います。「グローバリズム」が「アメリカ」ということかどうかはよく分かりませんが、今はかなり似て議論されます。「『知性』、『個性』が大事だ」と言われますが、クリントン政権を見ますと、確かに「資本主義」から「知本主義」だと言っています。いろいろな見方があると思いますが、結局、「政策として一番大事なことは『教育』である」ということをかなり強調しつつ、次にバトンタッチしようとしているのではないかと僕らには見えます。

 そういう中で教育を見た場合に、「情報革命の教育業界への影響」ということですが、「既存権威としてのマス教育の失墜」があることと、「学歴観の変化」、「大学側の入試観の変化」が見てとれます。実は、どんどん「青田買いへの傾倒」がいろいろなところに見えていると思います。日本の大学、それからアメリカの大学もそういう感覚だろうと思いますが、「コスト削減としての入試離れ」があるのではないか。ネットなどが後押ししながら、共通のテストから離れていく。そういう「入試観」も「一つ一つの学校が自分の学校に必要な人材を丁寧に選んでいく」という時代は終わっているような気がします。

 それから、「ネット教育システムによるクローズド囲い込み」です。例えば、小さいうちからネットの教育システムに取り囲まれて、自動的にその中で育てていこうという試みをしている方たちもいます。もしかしたら、我々もそうかもしれません。

 それから、これから一番どうなるんだろうと僕たちが見ていることは、「国立大学が独立行政法人化後にどうなるのだろうか。私立を猛追するのだろうか。そのときに、国立でもそういう『囲い込み』があるのだろうか」ということです。今までの私立大学には、小学校から大学までつながっていくシステムがたくさんあるわけですが、この辺を注目しています。

 「グローバル指向による既存権威が低下」していく中で、例えば、こんなこともあるだろう。スタンフォード大学と日本の国立大学の提携とか、スタンフォードが京都校を作ってしまうとか、ハーバード大学が東京校を作ってしまうなんてこともないとは言えない。むしろ、そういう刺激があった方がいいのかなという気もします。

 もう一つは、情報革命で「財閥」が現れるのかなという気もしています。これまでの産業革命と同じ流れという前提ですが、全く同じではないのかもしれないですが、日本銀行を作った渋沢さんのような人がいたらとか、「汽船」とか「鉄道」と「インターネット・サイト」を比べるとどうなるのだろう。「物の流れ」としての「流通」、「商社」と「E-Commerce」、「カネの流れ」としての「金融」と「E-Finance」のような対応が当然として見られるだろうと思います。今までの歴史も明治の流れから財閥を形成しましたし、今後もあるかもしれない。そういう動きが見えるので、また財閥が作られるのではないかという気がしています。

 「インターネット革命後の産業界」ということで見ると、「革命後」についてはどこまで行くと「後」なのか分かりませんが、どういうふうに見るかというと、「プロダクション」としての「制作能力」、「編集能力」を作るグループと、そしてそれにくっつく「流通、インフラ」です。これはもちろん「インターネット革命後」ですから、何らかの「イノベーション」があって、常にそれぞれの分野での「NO.1」企業しか残れない。これが相互に扶助した形で産業界があるのだろう。

 そのときに、資料中で「資本市場」との間に、「キャピタルメディア」という新しい言葉を入れましたが、そのようなものがうまく動いてくる。もちろん、このキャピタルメディア自体がインターネットに乗っかった形で、非常に大きな一つのメディアとして高い流動性を持って動く部分となって、この間にはさまると見ています。この中で私の会社はこういう位置にあるだろう。「教育」と言っても、やはり、何らかのこういう位置関係に自分たちの学校を見ていこうと思っています。

 「教えていく」、「何らかの人たちをサポートしていく」という意味で、「ライフタイム」になってしまう。だから、「子ども向け」、「受験生向け」、「大学生向け」、「一般向け」といろいろなタイプの教育サービスであったり、学習支援サービスであったりというものが大量に出てくると思います。そういう中で、もちろんそれに付随したいろいろなもの、サービスが全部あって、その場、その場での人々の生活や環境を支えていく。こういうもの全部が、教育産業と多分一緒になってくっついてくるものだと思います。

 ですから、受験生ということであれば、「入試時宿泊」のようなことまで含めてです。そういう環境の全部が多分、民間側がやることだろうと思います。大学生であれば、もちろん求人情報などはとっくに民間側に相当来ている。一般向けにしても、いろいろな意味で医療情報であったり、結婚サポートであったりとかを含めて、人が育っていく、生きていく回りに全部くっついていく。「教育」の回りにくっついてくる学習支援みたいなものがたくさんある。

 資料に「先進的教育産業のミレニアム」と書きましたが、結局、僕たちはどうなろうとしているかと言うと、「総合教育コンテンツプロダクション」みたいな形を考えています。それで、キーワードは「ライフタイム」、そして「編集」、「エディティング」ということと「個人」、つまり「インディビジュアル」に合わせていく。それから、スケールメリットをインターネットの世界で活かしていきたい。もちろん、物理的にみんなが来やすい場所に校舎が幾つもあるということもありますが、そのようなことを考えています。21世紀には「ヒューマニズム」と「自己啓発」ということを一つキーとして、こういうことをやっていくべきだろうと思っています。

 それで、先程の議論で言うと、「我々が教育コンテンツをどう考えているか」と言えば、大学との関係では、僕も大学を経験してきて思うのですが、ある程度基本的なことは、大学の先生が教えるよりはいいカリキュラムを使ってしまった方が、早く効率的に学べるものもあるということです。B委員がおっしゃるように、研究者は教育の現場を捨てるべきではないということは僕も大賛成ですが、その意味するタイプのものと短期間にきちんと理解するというような形で覚える方がいいものもある。

 日本の今の情報関係教育、大学を見ても、非常に良くないです。例えば、言語を操れるようになるということに関しては、大学の先生はすごく昔のことを知っていらっしゃいますが、なかなか今の状態を知らないということがある。だから、そういうときこそ、民間の役目があると思います。

 例えば、「富士通ラーニングシステムズ」という会社があります。ここには、言語系だけで800コースぐらいあります。それは通常、いろいろな会社の技術者教育用としてカリキュラムが出ているわけですが、そういうカリキュラム、例えばそういう情報産業界の人たちが作ったカリキュラムの方が「言語をきちんと学んでいく」という意味ではよくできています。したがって、そこに棲み分けがあるのではないか。

 だから、例えば、我々のコンピュータ・グラフィックスであったり、インターネットの何らかのカリキュラムという部分は、僕らのように現場、プロダクション機能を持った人たちが作ったカリキュラム、つまり、正に現場の人たちが作ったカリキュラムの方がおそらく分かり易いし、うまくいくと思います。

 だから、一部の専門性を持つ技術のようなものは、大学は民間が作ったカリキュラムも単位としてある程度は認定した方がいいのではないかと思います。そういうもの全部をある程度持った上で、大学3年、4年でゼミに入ってきて、大学院に残れば、日本の研究もやり易くなるのではないか。

 僕が大学で一番大変だったことは、僕はたまたま建築学科なので、そんなにプログラミングができる方ではないわけですが、学生が大学院に入ってから言語をゼロから教える必要があるということです。例えば、学科に電子演算という言葉のプログラミングがあるのですが、研究していくためにはかなり高いレベルでプログラムが組めないと研究が進まない。しかし、そこから一緒に勉強していくというのでは、なかなか世界的なレベルの研究までは、大学院の2年ぐらいでは追いつかないし、博士課程まで来てくれて「やっと」というところです。

 ですから、そういう意味では、産業界に行こうと研究者になろうと、通常は当然持っているべき部分として、そういう民間の教育システムを大学は取り入れてもいいのではないかと思います。具体的な話としては、我々が作ったカリキュラムを、大学が単位認定してくれるとおもしろいことが始まると思っています。ですから、そういう立場で民間から攻めていこうと思っています。

 以上で発表を終わらせていただいて、あとは議論をしたいと思います。独創的な人を育てるといっても、僕が一番感じるのは、「おもしろい」とか「おもしろくない」ということが、若い人たちの人生の行く末をすごく左右し易い状態にあるということです。学問などのおもしろさが分かるということは、「基本的なおもしろさ」が伝わっていなければいけないところがあって、実は、ここが結構難しい。

 大学3年までは大抵の学生たちは、自分が教わっている先生の専門が何であるかとか、本当はおもしろいことを考えているということも全然知らされていなくて、ゼミに入ってから初めて、本当はすごいことを考えていた先生だと分かるようなことがある。でも、その時点では、もう手遅れというようなこともあります。

 大学3年の終わり頃から就職戦線に行ってしまいますので、自分が「これはおもしろいな」と気が付いたときに、大学院博士課程まで行ってやるような時間の区切りになっていないのではないか。

 先程、B委員からあったように、18歳ではとても専門性は決められないと思います。ですから、もっと世の中のいろいろな部分を効率よく学生たちに分かってもらうために、案外、民間が作ったカリキュラムを使用して、その上で発展していく方がいいのではないか。そうでないと、大学では学生たちがほとんど授業をまともに受けていないという場合が多いので、そういうところがもったいない。授業を受けていない理由は、特に1、2、3年ぐらいは、「授業に出ても余りおもしろくないから」です。だから、その辺について、もっと我々のようなグループがやれることがあるのではないかという気がします。

 それから、大学を出て社会人になった後に、我々の学校などに現実にたくさんの人が来るのですが、これは正に社会人になってからやりたい方向が違うと気がついたという人が来たということであって、そういう意味では、僕らの学校に「社会的な機能もあった」と思っているこの5年間の歴史です。

 これで終わりたいと思いますが、独創的な子たちが生まれたか生まれてないかということは、ちょうど今週の土、日と我が校の卒業製作展があるので、もしお時間があれば、日本の20代後半ぐらいの人たちがどんなものをやろうとしているかを見ていただければと思います。

 以上です。

〔 座長 〕 どうもありがとうございました。

 それでは、今のC委員のご報告、参考資料の4.「創造性を有する人的資源の育成」の部分について、それからさらに先程のB委員に対するコメントも含めて、ご意見をどうぞ。

〔 F委員 〕 私は大学に行ったら、みんながお金のことしか考えていないということにすごく不信感を感じて大学を中退しました。学生時代に福井謙一先生が僕に言っていたことは、「サイエンスはなくなった。単なるテクノロジーである。金銭的に価値があるサイエンスしか結局は認められない。ノーベル賞もそうなってしまった。本当のサイエンスは世の中にはもうない。世の中のことを考えて学者が動かなくなったことが大きい」ということです。先生は、特に物理学にそういう感じを持っていたようです。そこまでいかないにしても、円の担保になっている文化とか本当の意味での日本の国の資産はなかなかお金では評価できないものがあります。

 一つ気になっていることは、「自分の報酬を高くするためのスキルとして勉強すること」と、「余りお金のことを考えないで本当に中長期のこととして勉強すること、つまり、勉強している内容が直接、お金に関係ないもの」の関係です。特にインターネット業界では、お金を考えないで走っていた人たちが、実は最後に一番お金持ちになったりするケースがあります。リナックスみたいに本当にお金では買えない資産が、実はインターネット上で一番重要な資産になってきている。気になるのが「経済」と「学問」、それと「サイエンス」と「テクノロジー」の関係性、そこをきれいに分ける部分もあるのではないかということです。例えば、お金を考えない部分もC委員の学校のような民間でやるべきなのかどうかというのに関してご意見を聞きたいと思います。

〔 C委員 〕 これは今のところは難しいですね。いつかは我々自体がうまくいったら、大学院大学みたいなものにも関われたらいいとは思っています。ただ、現状では、社会に出た後、「自分は違うことをやりたい」という人が来て、我々がその方の学習支援をしてあげるという立場にとどまっている状態です。ただ、いつか5年、10年後には、そういうこともやりたいなと思います。

〔 B委員 〕 C委員と逆の立場で、「民間との協同」を大学の中で提案したことがあります。それは、「現状の大学の情報教育などは大学の中でやっていてもしょうがないから、場合によってはアルバイトを単位に認めよう。つまり、大学が外からソフトウエアを受注してきて、それで学生がいいソフトを作って役に立ったら、単位を与えるようにしたらどうか」という話をしました。たまたまうちの大学のすぐ近くに、マイクロソフトが移ってきたことがあって、「マイクロソフトの受注を全部やればいい」と言いましたが、それはもちろん反対されました。

 民間カリキュラムを利用することは興味深く拝聴しました。多分、今のように技術が急速に進歩している状況では、現実の産業のニーズと結びつかない限りは、先生はどうしても昔のことを教えるわけです。

 ただ、単位認定ということは最後はあったらいいのかもしれませんが、必ずしも本質的ではないと思います。先ほどの話で、同時に私が大学の中で言ったのは、「単位なんかなくてもいいじゃないか」ということです。先程の「制度があるから…」という話と同じで、今の大学で単位を貰うために勉強するのは不純だと公言しています。ですから、大学の中でいろいろな塾を作ったり、スクールを作ったりして、民間の方を呼び込みながらやっていくことができるわけです。国立大学が無料でやる分には、何も文句はないわけで、今でもそれができます。大学が大事で本来の大学を守りたければ、みんながやればいいわけです。

 そういう意味では、「単位認定をされないでやること」の方が逆に本当の必要性が見えていて、それが卒業単位にあるからやるということは本当にいいかどうかわからない。もちろん形式的には単位を出した方がよいと思います。C委員のように外から大学の中にそういうものを持ち込まれるということと、大学の中からそういうもののためにインターン制度などを活用していくこと。むしろ、インターンシップではなくて、大学の中にいてもよいから、金もうけも考える。ソフトウェア研究だったら儲かるソフトぐらい作れということでも私はよいのではないかと思います。

〔 H委員 〕 先程の伊藤さんのお話に関して、リナックスの話をされました。開発したソフト自体は自分に帰属せずに、それは世の中でパブリックなものになる。それを作った質と量で評価される。これはとても大事だと思います。今、ビジネスの手法自体に特許をかけていこうとする仕組みがあります。ですから、これは正に全てを囲い込もうということであって、非常に危ないことです。

 ですから、そういうことのルール作りということを非常に急がないといけない。これはアメリカの企業なり、あるいはアメリカ社会全体がそういうことを今非常に急激に囲い込もうとやっている中で、日本人が「それはみんなのものだから一緒にやろう」と言うと負け犬の何とかみたいに聞こえるかも分からない。しかし、例えば日本からそういうことを言っていかないと、だれも言わないということになってしまう。ですから、具体的にどうやるかというのは大問題ですけれども、まさにパブリックなことをパブリックに開放するということのルール作りが非常に大事だと思います。ですから、例えばこういう場所で、そういうことを議論できるといいのではないかと思いました。

〔 A委員 〕 私は最後の部分に大変関心を持ってお聞きしていました。大学の授業の中で情報教育など、教官が介在しなくてもいい部分は随分あるような気がします。私たちが見ますと、学部教育はかなり大変です。教育自体が大学院重点化ということになっていますが、学生が学部に入ってきて、卒論を書くまでがかなり大変で、そこから修士なりドクターなりで本当の研究をする。そう考えると、学部教育ということは随分大変な部分があります。最近、「ゆとり教育」云々でかなり教育の単位数が下がってきていますけれども、問題なのは、それに伴って学生が選択するコースがないことです。たくさんあるけれども、実際には彼ら関心を持つコースがないわけです。

 そう考えると、やはり単位を取るのはそれでいい。だけれども、関心があったら十分勉強しなさいというものがない気がします。場合によっては、全然勉強しなくても卒業になってしまうわけです。海外を見ますと、大学時代にいろいろな職を見つけるとか、知識を見つけるとか、考える方向を与えるとか、やることを見つけるとか、いろいろな情報を出しているわけです。情報を出すということは、もし教官が直接しなくてもできるものであれば、随分それに民間企業が参画できるのではないかという気がします。

 例えば、いろいろな実験であっても、丁寧に概念を紹介する、見せるとういことや、仮想、バーチャルでやるということであればうまくできるだろうし、最後に単位の認定を大学がすればいいわけですから、現状でもそれが入ってくる可能性は随分あると私は解釈しています。

〔 C委員 〕 そうですね。そういうふうに思ってやり始めています。ただ、僕が助手という立場で学生と長く携わってきた経験から、「学生にモチベーションをいかに持たせるか」ということはすごく難しいと思っています。

 ですから、例えば、インターネットの中にいろいろな科目があって自由に取れるといったものがあっても、学生が自分でそれをうまく自分なりに設計して受講できるのだろうか、自分でそのパターンを見つけられるのか。そういう時に、大学教員がそういう相談に乗ってあげるということはできないのか。「こういうふうに君と話していると、こういうふうに単位を取ったらいいと思うよ」というようなことです。なかなか学生を放っておいて、ただカリキュラムをずらっと並べてもうまくいかない。やはり学生は取りやすいものを並べて100個にしようみたいな発想になりがちであって、その辺が難しいと感じます。だから、設計プランみたいなものは現場の先生が一緒にやってあげないといけない。手取り足取り、こんな大変なことをやっていられないとおっしゃるかもしれないけれども、そう感じます。

〔 A委員 〕 それは学生の自己責任でしょうね。教育にしても何にしても、「情報としてはあげる。ただ、それを学生自身が将来の自分たちの生活にどう活かすか」ということです。それは自己責任ですから、そこをどこまでも下げてしまうと、どこまでも教育が低廉化するだけです。だから、「自己責任」という中で「情報として差し上げる」という体制は可能だと思います。

〔 C委員 〕 そうですね。ですが、「自己責任である」ということで高校までに教えられていればいいのですが。

〔 A委員 〕 しかし、それが原則でしょう。

〔 D委員 〕 実は、前回発表の機会がございましたが、私がオフィスをお借りしている組織のデータベースが、どれだけ多数あるかということの紹介を忘れましたので、この場で説明させていただき、今の議論に関連して、コメントを一言申し上げたいと思います。

 お配りした3枚ものの資料は、ホームベージのトップページですけれども、ここに大変たくさんの情報が入っていまして、しかもかなりの部分が英語化されている。最近はこの1ページ目の一番下にあります”Views From Japan”というもので日本人がこう考えているということを何とかたくさん出していこうとしています。そのページでは、映像も含めてかなりいろいろなことをやり始めております。それから、これのサーチ・エンジンができまして、かなりの程度で過去に蓄えたものが引き出せるようになりました。

 実は、C委員との関連で、私はこういうことをやろうとしています。来季、大学の授業の教科書はここに掲載してしまいまして、紙はない。それで、もちろん、フェイス・トゥ・フェイスの授業も大事ですから、それは充実してやる。今は単に教科書がこれに代替したぐらいですが、もっと先にいろいろと進めていきたいと思っています。そのようにやらないと、私の大学のレベルでもC委員の学校に競争上、負けてしまいますので、そういうことを考えています。

〔 H委員 〕 今、話に出てきた「モチベーション」と「自己責任」についてですが、私は大学で教えていると、つくづくそれを感じます。これでは単なる高級カルチャーセンターになってしまうのではないか。そうなると、例えば、「日米貿易摩擦について」という講義があればそれを受ける。そうすると、テーマ別で、新聞に書いてあることをちょっと詳しく半年間勉強するという程度です。

 ですから、本当は「それをやるには最低限法律のこの部分は知らないといけない」、あるいは、「行政なり経済の基礎的な理論のここは知らないといけない」ということでやらないといけない。しかし、私はそれを今の大学生に求めることは無理だと思います。それを自己責任でやれということは、ほとんど不可能ではないのか。これは「今の学生のレベルが低い」とか、「モチベーションが少ない」ということだけでなくて、「土台、あの年の子たちには無理なのではないか」と言うことです。

 例えば、オックスブリッジでもそういうことを、いろいろと工夫をしながらやっているわけです。「公教育」というのは、その手間を惜しまずにやるというところに重要な点があるわけです。ですから、例えば、先生が最低ワンタームに自分の時間を何時間かずつ各学生に与える。それは自分の教科を取っているかどうかでなくてもいいと思います。「お前は一体何を勉強しているのか」、「これとこれとこれを取っているのなら、少なくともこういう基本的なことをやらないといけない」、「それが自分の大学になければ、他のキャンパスや他の大学で勉強して来い」という仕組みを作る必要があると思っております。

 それから、「モチベーション」ということで言えば、私はそのようにやっていくことが学生の「モチベーション」につながって、やがて、「学問」がつながる。「ストーリー性」を持たせないで、「単なる知識の羅列」だけでは幾らやってもおもしろくない。ですから、そういう意味で、基本的なところとテーマを結びつけていくところから「おもしろさ」が出てくる。それで、その後に、「応用の方に行くか、理論の方に行くかということを考えればいいのではないか」と思います。

 それから、「モチベーション」のところでもう一つ言うと、日本全体が「教育」に対して「金儲け」をモチベーションにしようという方向に、今、物すごく走っていると思います。だから、これは長い目で見ると、決してサステーナブルではないし、国力や経済との関連で見ても、短期的には効率よさそうですが、長い目で見ると落ちる方向、力を失う方向に行くのではないかと思います。

〔 座長 〕 それでは、時間がなくなっておりますので、今日の議論はこの辺にしたいと思います。事務局の方は、できるかどうか分かりませんが、G委員のおっしゃった留学生に対するアンケートの話とか、それからH委員がおっしゃったビジネスモデルを含めた特許の話についておまとめいただき、その議論ができればと思います。

 追加意見等がございましたら、いつものことですが、事務局までFAXまたは電子メールにてご提出いただければと思います。次回は4月14日、金曜日を予定しておりますので、よろしくお願いします。

 どうも今日はありがとうございました。

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