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第2回世界における知的活動拠点研究会議事次第

議事録

時:平成12年3月2日
所:経済企画庁官房特別会議室
経済企画庁

第2回世界における知的活動拠点研究会議事次第

平成12年3月2日(木)15:00~17:00
経済企画庁官房特別会議室(729号室)

  1. 開会
  2. 「世界の知的活動拠点」となるための環境整備について~その1
    プレゼンテーター:北原委員、林委員
  3. 閉会

【配布資料】

  • 資料1  世界における知的活動拠点研究会 委員名簿
  • 資料2  世界における知的活動研究会について
  • 資料3  世界に競争力を持って情報発信できると期待される分野の例
  • 資料4  「世界の知的活動拠点」となるための環境整備についての検討テーマとスケジュール(案)
  • 資料5  北原委員 意見発表
  • 資料6  林委員 意見発表

参考資料 「世界の知的活動拠点」となるための環境整備についての論点(案)~その1

世界における知的活動拠点研究会委員名簿

  • (座長) 伊藤元重       東京大学 大学院 経済学研究科 教授
  • 伊藤穣一       株式会社 ネオテニー 代表取締役社長、株式会社 インフォシーク 取締役会長
  • 植田憲一       電気通信大学レーザー新世代研究センター長・教授
  • 加藤秀樹       構想日本 代表、慶應義塾大学 総合政策学部 教授
  • 川島一彦       東京工業大学 工学部 教授
  • 北原保之       AOLジャパン 株式会社 常務取締役
  • 椎野孝雄       株式会社 野村総合研究所 情報・通信コンサルティング部長
  • 杉山知之       デジタルハリウッド 株式会社 代表取締役社長
  • 田中明彦       東京大学 東洋文化研究所 教授
  • 林紘一郎       慶應義塾大学 メディア・コミュニケーション研究所教授
  • グレン・S・フクシマ アーサー・D・リトル(ジャパン)株式会社 代表取締役社長
  • 松岡正剛       編集工学研究所 所長、帝塚山学院大学 教授

〔 座長 〕 それでは、後からもう1名遅れていらっしゃると思いますけれども、お時間ですので始めさせていただきたいと思います。

 本日は、皆さんにはご多忙の中お集まりいただきましてありがとうございました。ただいまから、「世界における知的活動拠点研究会」の第2回会議を開催いたします。

 それでは、早速、本日の議題に入らせていただきたいと思います。本日は、「世界の知的活動拠点となるための環境整備について~その1」として、A委員とB委員から意見発表をしていただき、それを踏まえてご議論をしていただきたいと思います。

 その前に、事務局の方から配付資料についての説明をお願いいたします。

〔 事務局 〕 それでは、最初に資料2をご覧いただきたいと存じます。これによりまして、本研究会の全体像をもう一度ざっとご確認いただきたいと思います。

 1番目に、「『世界の知的活動拠点』の背景とイメージ」、2番目に「『世界の知的活動拠点』を形成する目的」と書いてございますが、これはあるべき姿をもとにしたとりあえずの記述でございます。これらにつきましても、またいずれご議論をいただければと思っています。3番目に「当面の検討テーマとスケジュール」がございます。当面の検討テーマといたしましては、この1にございますように、「『世界の知的活動拠点』となるための環境整備」でありまして、2ページ目の頭からご覧いただきたいと思います。

 我が国から世界に情報発信できると期待される分野を幾つか具体的に想定しながら、ここに書いてございます①から⑥の6項目を設定させていただいておりますが、この6項目に関しまして世界レベルの知的活動を促進するための環境整備のあり方を検討したいと考えております。(2)がそのスケジュールでありますが、本日と3回目、4回目の3回に分けて、これらの6項目についてご議論をいただきたいと思っております。5回目にその段階での中間的な取りまとめをしたいというスケジュールを考えております。

 それから資料3でございますが、ただいま申し上げました、環境整備についての検討に際して想定しておくべき我が国から世界に情報発信できると期待されている分野の例ということで、これまでのお話をもとに整理したものでございます。(1)に「世界共通の課題への対応策」ということで、社会・人文科学から自然科学までの幾つかの内容がございます。(2)が、「世界の最先端の技術開発・研究分野」、(3)が「文化・娯楽分野」ということで、異なった切り口でありますけれども、とりあえずこういったものが想定されるのではないかということで挙げたものでございます。

 資料4でございますが、これは先ほどの資料2の環境整備についての検討テーマ6項目についてのより詳細な小項目つきで示してございまして、2枚目で本日と3回目、4回目にどういうテーマを扱い、その際のプレゼンテーターをお願いする委員の先生を明示してございますので、このようなことでよろしくお願いしたいと思っております。

 資料5と6は、本日意見発表いただきますA委員、B委員からいただいております資料でございます。

 それから、「DHメール」という冊子がございます。これは、本日C委員にお持ちいただいたものでございますので、ご参考までにご覧いただければと思います。

 それから、本日のメインテーマに関しましての参考資料をご覧いただきたいと思いますが、「論点案~その1」ということで、本日ご議論いただくテーマにつきまして、事務局なりに論点案としてまとめてみたものであります。1番目は、「知恵の創造と情報発信を促す経済社会に向けての基本的方向性」ということで、いわば総論事項でありまして、2以下の各論の導入部にも当たるという性格として考えてございます。(1)が、「多様な知の交流と統合」ということで、多様な知が交流して刺激し合うことで新たな知恵が生まれるということ。このために、より多くの人がインターネット上の参加型社会に参加できるようにするということと、世界規模で世界水準の多様な知恵の交流を進めることが重要であり、この際に、さまざまな分野の知の統合あるいは再構築ということが必要ではないかということ。(2)は、こういった知の交流が円滑になされるためには、知の創造から発信に至る一連の過程をつまびらかにする方法論というものを確立して、理解可能性を高める必要があるのではないか。その場合のツールとしては、モバイルコンピューティングあるいはデジタル家電に見られるような日本発のツールというものを開発すべきではないかということ。(3)が評価の問題でありまして、新たな知恵の創造を促すためには、知恵の創造が各方面で正当に評価されて、さまざまな価値観を持った人の評価によって支えられることが重要である。こうした観点から、内外の優秀な才能を大切にして、処遇あるいは国費や寄付金といった多様な資金の確保などの面で魅力的な研究開発環境を作っていくことが重要ではないかということ。(4)が、独創性を重視した知的競争です。知恵の創造が正当に評価され尊敬されるということに加え、ビジネス上の報酬に結びつくことも新たな知恵の創造の源泉となる。こういった観点から、独創性あるいは起業家精神を涵養する教育環境や、知的競争や夢の追求を育むような社会的風土の醸成が重要ではないか。また、知恵を企業戦略の中核と位置づけた独創的なビジネスの展開が可能となるような環境づくりも同時に必要ではないか。(5)が、世界への発信のための言語・ツール・メディアに関する戦略です。世界への情報発信を促すための英語や、インターネット、衛星放送といったツール、それからメディアに関して国際的な情報発信能力強化のための取り組みが重要ではないかということであります。

 2から各論に入っていくわけですが、最初は総論で言えば(1)を受けたような形になります。(1)は、「インターネット上の新しい知の交流」ということでありまして、インターネット上では多様な知恵がアクティブに結合することによって新たな知恵が生まれる。このコミュニティーというのは、いわゆる参加型社会でありますので、多くの人がそこに参加できるようにすることが重要である。これからの知の創造発信の新たな担い手として、この参加型社会にできるボランタリー組織というものが大きな役割を果たしていくのではないかということで、(2)にありますような「ソフト・ ハード両面の基盤整備」が必要であるということであります。①は、いわゆるインターネットリテラシーの向上、②が情報格差(デジタル・ディバイド)の是正と、高齢者や障害者なども使えるという意味での情報のバリアフリー化ということであります。それから、3ページの③になりますが、「通信料金の低廉化・定額化」といった課題があるのではないかということです。インターネットの通信料金につきましては、ご存じのように、この図で言いますと①のプロバイダーに対するインターネット接続料は、料金の低廉化・定額制も比較的進んでいると評価されているわけですが、下の②のプロバイダーのアクセスポイントまでの通信料金が現状ではNTTの電話利用が大半で独占状態であることから、低廉化・定額化が必要ではないかという指摘があるわけです。そのためには、競争状態に置くことが重要ではないかということで、電話回線に依存しないケーブルテレビ、無線などによる接続サービスの導入でありますとか、電話回線を使ったデジタル加入回線によるサービスの提供を促進するために、この回線への接続料の低廉化といったことが必要ではないかといったことが書いてあります。それから、e-rateなどの特別通信料金も幾つか設定されておりますが、外部補助という形でこれを促進すべきかといったような論点もあるのではと思います。

 4ページの④でございますが、知的財産権保護の関係です。デジタル情報の著作権の問題をここでは扱ってございますが、国際調和ということと権利者の保護と利用者の利用しやすさのバランスということがポイントではないかと思われます。国際調和に関しましては、WIPO条約に対応する国内法の整備が完了しておりまして、条約締結の承認を今国会で受ける予定ということで、この条約との関係では日本はかなり進んだ状況にあります。その内容は、ここに絵がございますが、これまでの放送と異なるリクエストに応じて送信するインタラクティブ送信というものに対応して、著作者あるいは実演家・レコード製作者の権利を整備するといったような内容が含まれております。権利者保護と利用者の利用しやすさのバランスということに関しての1つの対応策として、この下の2番目の黒ポツにありますような、著作権の集中管理体制を整備するといった方策がありまして、このための法案が提出される予定と聞いております。

 それから最後、5ページの⑤でございますが、「安全性・信頼性を高めるための措置」ということで、最近話題のサイバーテロ対策でありますとか、個人情報に関するプライバシーの保護、違法・有害コンテンツの排除等の問題がございます。これらにつきましては、1つは法律の適用と新しい法制度の整備ということと、フィルタリングシステムなどの技術面からの開発、それから事業者や利用者のモラルを向上する施策。これらの施策を総合的に展開していく必要があるのではないかということです。以上をとりあえずの論点としてご参考までに示しておりますので、先生方の意見発表と併せこれらもご参考にご議論いただければと思います。

〔 座長 〕 どうもありがとうございました。当面の検討テーマのスケジュール、それからそこでのプレゼンターについては、ただいまの資料4 に沿って進めていきたいと思いますので、それぞれの委員の方はよろしくお願いします。

 これから、A委員とB委員からご説明いただいて議論したいと思いますけれども、ただいま出てきた今日の参考資料も、場合によっては、必要であれば議論の中に入れていただければと思います。

 では、まず、A委員からプレゼンテーションをいただきたいと思います。討議時間を確保するということもありますので、20分から30分ぐらいでお願いしたいと思います。よろしくお願いします。

〔 A委員 〕 私は、「知恵の創造と情報発信を促す経済社会に向けての基本的方向性」というタイトルをもらってちょっと考え込みましたが、本日は総論的に述べたいと思います。

 前回も議論に出ましたけれども、日本を知的活動拠点にするというと非常に響きはいいんですが、このままいくら書いて並べたって絵に描いた餅になってしまう。やはり国民全部が、そっちの方向にいかなければ食っていけないんだという意味での必然性というものを感じるようなものにしないと、「ああ、役所が出した文書だ」というだけで、何も実らない可能性がある。言ってみれば省庁を越えてやらなければならないことだと思います。この役所1つで何かの企画が出るというのではなくて、国民の意識革新みたいなものが大前提になるという気がいたします。そういったことを考え、一体その必然性は何だということを整理して、それを皆さんが意識して個別のことを議論してくださればいいのではないかと思って、雑駁な絵ですが資料を作らせていただきました。

 情報覇権、経済覇権という言葉があります。覇権国の通貨は基軸通貨といいますが、どうも円は国際化すらできていなくて、基軸通貨になり得ないのに対し、インターネットではドルが跋扈(ばっこ)しているという中で、ただ観念的にだけ情報化時代だから発信力を強めようというのも、非常に矛盾を感じます。私の基本的なスタンスは経済覇権から次に情報覇権と言われるような時代に、少しでも情報武装を強めたらいいのではないかという考えです。

 1枚目に、まず評価の変革ということに関し、問題意識を整理しました。大きな流れとして、産業、市場あるいは社会の成熟化です。今の合計特殊出生率1.38%という少子化の数字などを見ますと、産業や市場というもの以上に、想像以上に、日本の成熟化というものは進んでいるようでございます。そこで、日本が何らかの指導国として先頭に立とうとすれば、アイデンティティーというものを確立しなければいけないということはだれでもわかるのではないかと思います。

 ネットワーク型というのも、コロニアル時代の末期にあった高度情報化というものと、今日迎えているフラットなネットワーク社会というのは、似て非なるものでして、ここのけじめをしっかりつけないといけない。後者を資本主義と呼んだ新聞社もあれば、ネットワーク社会といっているところもありますけれども、ついこの間から行われた高度情報システムなどというものとは全然違う。はっきり、勝ち組、負け組、究極は1人勝ちというところまでいってしまう。

 それから3つ目、これからは異文化の理解ではなくて、もはや異文化と共存しなければいけない。恐らく、少子化の行方を考えると、アジアの方々にもっと日本に来ていただかなければいけない。そういう意味で、外国の人と日本で一緒に住むというような、異文化の理解ではなくて、共存という突き詰めたところまで迫られるのではないか。

 次の2ページですが、これは前回座長が大臣のスピーチの後、「既にあるいいもの」と「いいものを作る」という整理をしてくださったので、それを参考に2つ書かせていただきました。右側は世界で、それとやはりアジアというものがおのずと重点を持つのではないかと思っております。そこで、日本固有の、メディア、衛星、インターネット、インターネットの上でのJAPAN.COM等、一方的な発信があれば、やはり双方向の交流も重要です。日本人1人が外国人の友達を1人つくっただけでも、随分そういう意味では違ってくると思います。そういう人間の絆から整合的な派遣・招聘、あるいは博覧会、出会いの場というようなイベント機会というものなど、あらゆることをやっていかざるを得ないでしょう。

 3番目に移ります。転機を迎えている日本丸がどっちの方向に行けばいいかということを、私なりに勝手に、縦に政治軸として上が個人中心に対して公あるいは集団中心、横に経済軸として右が市場/競争を強める、その反対側の左側に規制/調和という軸を引いて表してみました。今は、左下から右上の方向へ日本丸は向かっていこうとしているのではないかと思います。日本は集団で豊かな社会になって、1億総中流のような意味で、確かに成熟したと思います。しかし、その後行きすぎて悪療法と言われるようなところまで来たり、あるいはやっと勤勉よりも創意工夫の方が報われる、価値を持つというような言葉も出てまいるところに来ました。しかし、究極はやはりネットワークとグローバル化ということで更に右上に行くのでしょう。

 4枚目を見ていただきますと、同じ軸を基にそこで思い切ってポジショニングを描いてみました。第Ⅲ象限にいる国々は、いわば和を尊び、全体的な幸せということを考えておりますから社会主義国。第Ⅰ象限にいるのは、徹底的に個人中心、競争主義という哲学を持っているアメリカ。日本が、今どこにあるかということを考えると、やはり日本はまだ第Ⅲ象限に軸足があるのではないか。1人の成功者よりも多数の幸せを尊び、役所の規制もまだかなり残っている。規制が残っているだけではなくて、体質的にやはり業界でこうしようとか、役所からの指導はどうだということにすぐに振り向いてしまうというような理由で、第Ⅲ象限に軸足が残っているのですが、これから行くべきところは軸足だけは第Ⅰ象限まで上げてしまうということ。しかし、アメリカとの重なり具合が、これは皆様方ご異論があろうかと思いますけれども、3分の1が重なるのか、2分の1が重なるのか、4分の3が重なるのか、少なくとも重なるべきところと、重ならなくて日本固有でいいと残しておくところを確認する。これはいかにもアメリカ的だなという重なり具合の細部を確認する作業がある意味での社会的コンセンサスになればしめたもので、日本の行くところがおのずと見えてくるような気はいたします。

 次の5枚目は、規格大量生産型の社会から多様な知恵の時代にふさわしいといいますけれども、大胆に言ってしまえば、ハード/モノ生産者優先、企業優先の社会から、消費者優先社会への変革ということでしょう。日本の最大の財産であった国民の勤勉性を否定するわけにはまいりませんが、やはりものづくりの大切さは残しつつ、創造するということの方が勤勉よりもむしろ第一義的に価値を持つ社会だということを徹底するというのは、本当に世直し運動のようで大変なものだと思います。多様な能力評価というものも、運動能力、芸術的な能力、あるいはリーダーシップというようなものも、実は学校教育時代から養われるべき価値なのかもしれません。そういうものがないと、とても優れた政治家が出てこない。はっきり申しまして、ここで我々が知的活動拠点の議論をしたとしても、今の国会の代議士があんな様ではとても日本をある方向に持っていくということができない。やはり、小さいときからリーダーシップというもの、引っ張る力と責任ということを裏表にちゃんと自覚したリーダー、そして社会がそれを立てていく、尊敬するというリーダーなくして、やはりこのタイトルは達成し得ないような気もいたします。

 だんだん経済的な分野に入ってまいりますけれども、一言で言うと、日本は余りにも結果平等であったと思います。ローリスク・ローリターンというよりはほとんどノーリスク・ノーリターンでやっておりました。ここに競争の原理を入れるということは、はっきり言ってハイリスク・ハイリターンになるということ。ハイリスク・ハイリターンと口では言いますが、これは本当にアメリカ社会を見ておりますと、勝ち組と負け組が出てもいいということ。そして、麻雀だと1人勝ちをすると嫌われ、すぐに日本は割り戻しみたいなことをして和を保ってしまうんですが、そうではなくて、アメリカ社会のように、それが若者にとって夢になるような、見事な1人勝ちというものもあるんだよというところを、だれかが言い切っていかないとなかなか難しいように思います。

 やはり、生活レベルが成熟したということ、これが実は根底にある。少子化によって、若者が少人数で大勢の中高年をこれから養っていくという議論がされておりますが、合計特殊出生率は1.38%に落ちている。都市部は、1.1乃至1.0に落ちているという現実を考えると、2人の両親から1人の子供が生まれる。逆に考えますと、2人の親の遺産を1人の子供が引き継ぐというような、典型的な遺産相続社会に日本の若者は入るわけです。このことはつまり、今の若者に労働を強いても全くやらないということ。黙っていれば、親の遺産が国民全部に伝わってくる。大学を出ても、これから不幸が起こるような暗い見方をしていますが、私は全然そんな気は致しません。もはや、生きがいとかやりがいという言葉を自分で見つけないと生きていけないぐらい、日本の社会は成熟しているように私は思います。

 長い間、就職といいながら就社という流れがあった。文科系、理工系という分け方も随分雑駁なことをやっていたものだと思います。私の会社では、ほかに専門家もいらっしゃいますけれども、一応職業別の採用で新卒は採用いたしません。あらゆるポストについて、リスポンシビリティーという仕事を肩書にし、それに求められるリクワイアメント、能力、経験を箇条書きにして人を雇うということを試みに始めております。こういう形にすると、経理、財務のような専門職であろうが、営業企画であろうが、セールスであろうが、流動性というものが出てくる。仕事が明確に定義づけられていて初めてよその社に移っていく。あるいは、自分がさらにキャリアをアップするために、給料の高い方にもう1つステップする。日本も文科系・理工系の時代ではなくて、職能ということを意識した真の職業という方向にいかざるを得ない。特に、今回リストラで大変痛い目に遭った親が、必ずこの豊かな社会の世代の子供に対して職能を持たせようと思うので、ここら辺は意外に大きく、10年もたたずして変わっていくような気もいたします。

 次に、私はマスメディアで働いていましたが、今度双方向のネットワークビジネスというところまで来ましたが、この変化は本当にすばらしいと思う。マスの時代の自己否定を伴わないと、こういう双方向のネットワークの時代に対応できない。これは生半可なものではないということを肌で感じております。冗談で「日経から経済記事もらって、朝日から政治記事をもらって、読売からスポーツ記事をもらって、地元の記事は静岡新聞、これでマイペーパーだ」という話を昔から私はしておりましたけれども、まさにこんなことになりそうなぐらいの勢いでパーソナル化ということが進んでいると思います。

 長い間、日本は西欧先進国の一翼だと思ってやっておりますが、どれを見たって日本はファーウエストではなくて、ファーイーストであるということをもう一度肝に銘じて、円の国際化やアジアにおける通貨圏というようなことに話が及ばないと、いつまでたってもどうにもならないのではないかと思います。国に境があるがゆえにあった行政みたいなものを、ボーダーレスといって壊していくというのはなかなか大変だと思います。後からお話が出ると思いますけれども、Eコマースということの現状を考えると、本当に大きな流れだと思います。

 最後のところは、やはり英語論ということがこれからも何回も出てくると思います。よその国の言葉だと思うと腹が立つ人もいようと思いますが、何か国を挙げて新しいことをしようとするときに必要なツールだと思えば、それはそれでやり方もあるような気がいたします。特に「コミュニケーションツールとしての英語」という言葉を書いておきました。異文化の理解と共存というのは、そういう違いです。これまで日本は経済援助に相当なお金を出しておりましたが、これを改めて人のつながりに回すとすれば、かなりの専門家の招聘も、かなりの留学制度も、いろいろなものが程度に応じてできるような気がいたします。

 6枚目は、やはり上(政府)からということも必要ではありますが、下(国民、企業)からの意識革新ということも重要ではないかと思います。教育の革新は、いくらでもこれから議論されると思いますけれども、米国企業で働いてみて、短所を矯正するのではなくて長所を褒めてあげるという教育というものはすばらしいものだと思いました。私が特派員として駐在していたジャカルタに、リトルリーグみたいなものがありまして、メジャーの石油のアメリカ人や日本人たちなど十数チームありました。アメリカ人のお母さん方からは、日本のチームに入れると礼儀正しくなるから入れてくれと私のチームに入ってきました。その時の経験で一番びっくりしたのは、子供がストライク・ボールのボールを1球見送ると、「グッドアイ」と言って褒めるんです。我々からするととんでもないボールを見送って何を言ってるんだという気がしましたが、それを見まして、これはやはり一生ものの教訓を得たと思っています。長所を褒めて伸ばしていく教育と短所を指摘して矯正していくという教育の違いということについて、皆さんは感じているものはいくらでもあると思います。

 7枚目にまいりまして、日本のCS/BSは、BSというのはブロードキャスティング・サテライトだから郵政省が管轄し、CSはコミュニケーション・サテライト、情報産業だから通産省が管轄している。世界にいくと、BSは高出力衛星、CSは中低出力衛星と呼ぶだけの話なんです。電波を放つ力の強さの違いだけなんです。BSなんていうのは、サハリンからサウジアラビアまで、実はレンズを広げれば情報発信できる。ところが、NHKの放送がアジア各国に落ちていると文化侵略と言われるということを気にして、日本の衛星放送はレンズのビームを絞って、極東にしか落ちないようにしている。考えてみれば大変無駄なことで、アジアから日本の企業に研修に来られる方がおりますけれども、もし向こうに居ながらにして日本語の放送が見ることができたら、随分役に立つことだと思います。日本は非常に過敏に反応して、衛星の利用を絞り過ぎているのではないでしょうか。

 メディアについて、どう見ても日本のメディアと欧米のメディアにはやり方に差異があります。日本はファクツと分析、客観と主観、そういうものを分けて使うための基盤ができていないような気がいたします。ファクツを次から次へと発信していく通信社がない。日本の場合には立派な通信社が2社ございますけれども、どちらかというと新聞の締め切りに合わせて出すような通信社でございまして、ちぎっては捨て、ちぎっては捨て、国際的に発信していくというようなファクツのための通信社というのはまだ日本にはないような気がいたします。書く方も、これは客観的なファクツだよ、これは私の主観であるよという署名をつけ、文責を明らかにして書くというような習慣もございませんで、もの書きが会社に所属してしまっているというようなところもある。これらが、情報発信をしていくというときに注意しなければいけない欧米との差異ではないかと思います。文責さえ明らかにすればかなりのことは書けますけれども、文責を明らかにしないで言おうとすると、どうしても何か日本は遠慮がちになって是々非々になってしまうような感じがいたします。

 下から2番目に、消息/社交欄と書いておきました。コミュニティー、人の輪、そういうところから絆を築いて情報発信をしていくというような成熟した社会には、消息欄、社交欄、あるいは消息・社交欄担当記者という者がいて、どこどこでこういうパーティーがありましたよ、こんな人が集まっていましたよ、ということが毎日新聞に報じられるということが必要ではないか。こういうことも、下のレベルでしっかり根づいてくるようにならないと、コミュニティーは、箱を作って、ある期間だけイベントをやって終わりになってしまうという気がいたします。あちこち話が飛びましたけれども、導入の私なりの指摘だということでお許しください。ありがとうございました。

〔 座長 〕 どうもありがとうございました。

 それでは、今のA委員のご報告を踏まえまして、それから先ほどご説明がありました参考資料も見ながら、自由に議論していただきたいと思います。最初ということで、大きなところに話が飛ぶかもしれませんけれども、ご意見いただければと思います。

 発言していただく前に、私の方から1つだけお聞きします。5ページは非常にいろんな大きなことがたくさん書いてあって、こういう流れ方でいなければいけないんだよということだと思います。放っておいても、そうなるような部分が幾つかあると思うんです。例えば、少子化の絡みの中で、若い人たちの話がありました。それから、放っておくわけにはいかない部分もあると思います。全体として、こういう変化をすることによって、「知恵の創造と情報発信を促す経済社会に向けての基本的方向性」として一番ネックになるというか、あえてメリハリをつけるとしたときに、特に議論されたらおもしろそうだという点はありますか。

〔 A委員 〕 2つあると思います。1つは、やはり経済的なインセンティブで引っ張れるもの、それから経済的インセンティブに相当する企業間競争ということによって事実上引っ張っていけるものというものはかなりあると思います。ただ、強いて言えば、意識してやらなければ絶対に実現しないもの、それは異文化との共存というものだと思います。少子化社会の対応策として、1つは児童手当、2つ目に託児所、3つ目に外国人労働力の輸入、ヨーロッパはこれを通り越して4つ目の婚外至宝ということをやっています。結婚で生まれた子供も、結婚外で生まれた子供も一切差別はしないで、国の財産としていく。ここまでいく前に、もう少し先手を取って、アジアの方々に日本にたくさん来ていただけるようなところまでいかないといけない。これだけは強制をもってやらないとなかなか進まないと思います。それ以外の部分は、引っ張っていかれるところと、競争によるところで自然に行ってしまうのではないかと思います。時間はかかるかもしれませんが。

〔 B委員 〕 少子化の問題ですけれども、この影響を一番受けるのは大学その他の教育機関です。子供はハッピーだというのはいいと思うんです。しかし、ハッピーすぎて、世の中をよく見ている。だから、勉強しなくたってどうとでもなると思っているので、信じがたいことが幾つも出てきます。例えば、入学試験をやって終了のベルが鳴る。紙を回収してチェックして持っていこうとすると、1人出てきて、「済みません、ちょっと勘違いしたので直させてくれ」と。これはさすがにどなりつけて、次の時間から出てこなかった。また某大学で非常勤講師をしているんですが、卒業後の就職も内定して、私の単位が取れないと卒業できないので困りますと。こういう競争圧力というのは非常に大事だということを多分A委員もおっしゃっているんでしょうし、僕も同意見です。その競争圧力がなくて、かなりの特権を得てしまったということに対し、インセンティブをどうするのかということに関し、お考えはあるのでしょうか。

〔 A委員 〕 よその国を見ると、歴史の趨勢で歩むところにいくのではないかと思います。別にそのことが悪いわけではない。これからの若者はやりがいや生きがいを自分で見つけなければならず、我々の時代とは違う苦労をするという点だけはかわいそうな気がいたしますけれども、それ以外は同情の余地はないと思います。我々が一度貧しい社会から豊かな社会になった途端、新しい価値観に対して何の判定力もなかったときに、「価値観の多様化」というニュートラルな表現で逃げたような気がいたしますけれども、ここで我々はもう1回そういう場面に出くわしたみたいで、10年も経つとああいうことがあったんだなとわかるようなことが目の前に相当起こってくるのではないかと自分では感じています。

〔 D委員 〕 価値観の多様化について、やはり今日本で欠けているのは、いろいろなことを発表するということだと思います。何が一番初めの策として必要かと思うと、周りを見ていても自分のやりがいを見つけるということに関しても、なかなか見つけられないということが多いと思います。そのやりがいを見つけなさいと言っても、見つけ方がわからない。とりあえず、自分が思っていることを発言、或いは発表する。その発表によってこれは受けた、これは受けなかった、こういう人は反応してくれた、こういう人たちと非常に気が合った、そういうことをどんどん進めないといけない。自分1人で一生懸命考えていても自分の整理は難しくて、やはり人とのインタラクションや、人からどう見られているかということがわかることによって、自分のアイデンティティーが確立するということもあると思うんです。そういうプレゼンテーションをどんどんするということを促進することをしていかないと、なかなかそういう機会が出てこないし、この知的なものを作ってほしいということも促進されないのではと思っています。

〔 座長 〕 プレゼンテーションの場というのは、具体的にどういうようなことですか。

〔 D委員 〕 それは、学校の中でもそうだろうし、やはり社会の中でもそうだろうし、日本で今、例えば公共機関についても公会堂や施設などどんどんと箱物はつくられたわけですけれども、その箱物の中でどういうことをしていくかということは、まだまだ十分ではない。そういう箱物の中での発表の機会をどんどん強制的にやっていく。学校もそういうところに連れていって発表させるというようなことを考えていく。

 そういうプレゼンテーションの機会を得ることで、自分と同じようなことを考えている人がいるんだなという人が見つかっていきます。それで、またそういう自分のアイデンティティーで、自分が強いところでまた発表を、といったようなことも出てくるのではないかと思います。

〔 E委員 〕 メディアについて、評価というものが非常に難しいんだと思うのですが、メディアだけではなくて、いろんな意味でインターネットの社会というのは多分フラットになってきたとおっしゃっていた。その中で、同じく何でもありになってしまったら、きっとどこへいくかわからないわけで、評価は必要だと思うのです。そのときに、我々が日本で考えているのは、何か客観的な評価というのはあるのだというふうに先に決めてしまって、主観を排除すれば客観に近づくという誤解をしているような気がするんです。それは、実はシステムの問題で、多分アメリカにはいろんなシステムがもうあると思いますが、フラットな社会でも客観評価を得るにはどうするかというときに我々の学会の中でやっているようなシステムは主観の重ね合わせをやるわけです。つまり、主観的な評価をやるというのは、間違う事もあるけれど、それをさらに別の形で、もう一度多層化してやっていくということで、その修正をしていくわけです。ですから、たとえ大学の中の教官に対する評価であっても、フォーマットがあって、こんなふうに論文を出して、それに対して私の評価する基準はこれで、この形で私を評価してくださいというふうにレターを書くわけです。今年一番よくやったのはこれで、私の価値から見ればこれが一番大事ですよということを出して、その価値観を含めて評価をしてもらう。いつもだれか第三者の目を気にしながら自分の主観をはっきり出すということが必要だと思うのです。こうした考え方が日本には欠けていて、何か神様がくれるような客観標準があって、誰がやっても正しく評価できるという迷信に陥っているのではないかということが1つ感じるところです。

 それからもう1つ、フラットな社会の中で、ちょっと文化的な違いがあるなと思うのは、例えば研究の場面でいいますと、確かに金銭的な支援というのは重要で、何かインセンティブを与えるべきだということはその通りだと思いますが、中にはちょっと違ったものもあります。例えば、私がやっているのは、非常に安定な周波数を作る、標準を作っていくということが、ヨーロッパでは非常に高く評価される。それはなぜかというと、物理標数を1桁精度を上げるということは、それだけ神に近づいたと彼らは評価する。この世界をつくったのは神様ですという感じがあって、それが必ずしも実用的にどうなるかということとは違って、心の底にそれなりの基準がある程度あるわけです。ですから、ここで議論しているようなフラットな社会で、人間が自由にやっていくといっても、その中に何か歯どめがあるということです。何もなくてやってしまうということとはちょっと違うので、日本の中で非常に自由闊達にやるというときに、あるけじめをつけるのはどこだろうということを考えておかないといけない。例えば漫画の問題があります。勿論漫画は大きなカルチャーだとは思いますが、昔は例えば漫画が今ほど普及していない、今ほどみんなが読んでいないときには、漫画で亡国になるといって罪悪だという議論があった。だけど、マジョリティーになってしまったら言わないわけです。今や、みんなが読んでいて、それを否定するのはとてもできない。

 実は、子供はどういうふうに反応して、若者がどう反応して、入社試験でどうなって、会社の方でどう教育していくかというものも、気がついたら教育的な感じの新入社員が実はマジョリティーになってしまったということでしょう。そこから「さあ、どうするんだ」と言っても、実は競争力が働かなくなっている。ですから、そういうものの客観的なものはどこにあるんだろうということを追求していかないと、単にフラットで自由にやれば何かが出てくるかもしれないというだけでは、難しいのではないかという気がします。

〔 A委員 〕 いろいろな言葉を挙げたときに、公正中立なメディアというのが左側に常に置いてあったのはそういう意味ではありました。私は、むしろ今の後段の話、そういうときに何も言葉がないので、志を持っているかとか、そう言っていつも逃げていた。

 アメリカの人というのは、どうしてあれだけ多様性を持っていながら、そういうところが全体としてはうまくいくのかという、今のお2人のご質問に何か答えていただけませんか。

〔 F委員 〕 今のご質問に参考になるコメントはできないと思いますけれども、A委員のこのプレゼンテーションをお聞きして感じたことを申し上げたいと思います。

 「世界の知的活動拠点」ということを考えた場合、私は日本がそうした役割を果たすためには、コンテンツの話と、論理あるいはプレゼンテーションの話と、語学力という、少なくとも3つの側面があるのではないかと思います。自然科学のことは私は余り詳しく知らないので、社会科学あるいは人文科学の分野に限ってお話したいと思います。アメリカやヨーロッパから日本の知的活動を見て、どういうことがあれば魅力的かといいますと、やはり多様性だと思います。例えば、意見の対立があるとか、自由な論議であるとか、刺激的であるとか、オリジナリティー、創造性、あるいは新しいことがあるとか、ある意味では普遍性といいますか、ほかにもいろいろあると思いますけれども、そういう幾つかの要素がなければ、知的活動が魅力的だというふうには見えにくい。そう考えますと、幾つかの面で、今の時点では単なるプレゼンテーションや英語力、あるいはインターネットの活用とか、そういう媒体の話だけではなくて、やはり中身、コンテンツの面でそういうことを育てる必要性があるのではないかと思います。その中で、最も知的活動に対する魅力を生み出すためには、これはまた私なりの見方かもしれませんけれども、個人あるいは組織間における意見の対立と自由な競争の2つがなければ、少なくとも欧米型の視点からは社会科学的あるいは人文科学的な分野においては魅力を感じないのではないかと思います。

〔 座長 〕 水平的なところでいろいろな意見が出てきて、E委員が評価やけじめみたいな話は一緒だと言うんですけれども、それはどういうことなのかちょっとよくわからない。経済活動であれば、それは例えば世の中に受け入れられたところは需要が出てきて利益も上がってくる。それから、世の中に受け入れられないものを出したところはだんだん見捨てられていく。それがいいかどうかは別として、そういうことでおのずから、評価は変わってくる。そういうお金勘定ができないようないろんなものがあると思うんです。例えば、学会の業績評価みたいなことであれば、その人が書いた論文を何人の人が読むかとか、その人がやった仕事を次の何人の研究者が広げていくかということ、ある種の評判だとかあるいは採点者とか、指導だけで済むようなところもあると思います。あるいは、NGOの社会活動みたいなもので利益に関係ないところであれば、そういう活動にどれだけの人が共感するかということになるわけで、フラットな社会だったらフラットな社会なりの、ある種いい方にいくかどうかというのは別の問題として、評価みたいなものはあるんだろうと思うんです。そこに何かけじめみたいなものを、上からスーパーインポーズする必要があるのかどうかということで、けじめという言葉をおっしゃったものですから、何かお考えがあっておっしゃっているのか、もうちょっと説明していただくといいんですが。

〔 E委員 〕 どうすればいいかというのは非常に難しい問題だと思うんですが、情報系の方とお話をしていると、情報系はいわゆる従来のエンジニアリングとは違うというお話がよくあります。今おっしゃったようなことも、確かに結果として評価をされているということはあるかもしれません。だけど、その評価は、正しい評価かどうかということについてはわからないわけです。誰かがタレントを連れてきた。このタレントが売れるかどうかというのは、売れてから見たらいろんな理由がつきます。だけど、本当に売れるかどうかという中にちゃんとした理屈があるかというと、それはかなり怪しげなものです。そういうときに、例えば大学の中で教育をしよう、こういうものを通じて次の人を育てようというときには、ある種ロジックや、これがという物差しがなかったら教育はできない。ともかくやってみたら売れるものは勝つんだよという話であれば、経済活動も、人の気持ちをいかにつかむ場合に、正しくつかんでいる場合とごまかしてつかんでいる場合と、そのテクニックだったら同じかもしれない。だけど、それは似て非なるものだったら、似て非なるものだということを教育できなければ、それは学問にもならないし、大学の中で次の人を育てるためのツールにならないと思います。それが科学であったり学問であるということには、その中にそれなりに自己判定できるようなものが組み込まれていて初めてそうなる。つまり、商業活動だったら、そんなことはどうでもいいということがあるかもしれませんが、日本が知的活動をこういう形で築いていくんだというときには、違うでしょう。最初に誰かが成功すればそれに続きなさいというのだったら、それは同じことができるかもしれない。だけど、次に新しいことを生むにはこういうベースが必要ですよといって準備するというには、それなりの評価するものが中に入るべきだろうということがある。

〔 座長 〕 何か具体的なイメージはありますか。

〔 E委員 〕 内部評価のときに、我々の情報系がかなり多くて、今までの自然科学と同じやり方でやってはだめだよという話があって、かなり喧嘩になったことがあります。やはり、それは勝てば官軍というのは必ずしも正しくないんでしょうね。その中に、やはり客観的なものを見つけていくということが、自分たちの学問とか、その分野が大事であれば、それを出すべきだろうなと思っているんです。私は物理の出身ですが、物理がすごくわかりやすいのは、ある意味ではお釈迦様の手の上でやっている。つまり、あるはっきりした限界があって、自然の法則もあるし、公理的な法則な拘束があります。それに反しない限りは、いくら自由にやっても構いませんということがあるので自由に発想できるのですが、それでもお釈迦様の手のひらからは出ていかないということです。そこに非常に安定な世界を作っているから、トレーニングとして頭をいくらでも発展させられる。だけど、問題は、こういう世界では自分が正しい範囲に入っているのか、ある分水流を越えて奈落の底に今、走り始めているのかというのを自分自身で判定しないと怖いのではないかという気がするんです。そういうようなものが、インターネットなり、もしくはこういう情報発信というものが、かなり社会を強くコントロールするようになったときに、自分自身の中にどういう種を埋めておけばいいのかということは関心事で、どうすればいいかは今のところちょっとわからない。

〔 A委員 〕 F委員にお聞きしたいんですけれども、コンテンツとプレゼンテーションと言葉の3つが大事だとおっしゃいました。コンテンツは何となくわかるような気がするんですけれども、言葉はなぜ大事なのでしょうか。

〔 F委員 〕 言葉つまり言語力とは、単に外国語例えば、英語です。前から感じていますが、日本では特に書く英語の難しさが正しく評価されていないと思います。よく日本では、辞書で調べた英語の言葉を並べたらそれでいいと言われていますが、アメリカ人が、ある英語の文章を見たら、大体どのぐらいの教育程度の人が書いたかというのがわかってしまいます。ところが、よく日本でいろいろな政府の組織でも民間でも、ネイティブではない英語で、そのままネイティブの人に出すと違和感を感じるような、あるいは全く理解できないような英語の文章というのがたくさんあるわけです。

 人によっては、「英語というのはアメリカ英語だけではなくて、世界各国の英語があるから、日本人が使いたい形の英語でいい」のではないかという考えがあるようです。それも一理ありますが、ただ、やはり考えを相手に伝えて説得して違和感を感じさせないように、まさにツールとして英語を使う場合は、やはり一定のルールというものがあります。その英語の難しさというものが余りにも過小評価されているので、それは問題だと思います。

 ですから、3番目の言葉とは、単なる英語のことを私は考えたんですけれども、先ほど申しました2番目の論理といいますか、プレゼンテーションというものも、日本ではちょっと過小評価されていると思います。というのは、日本語でもともと書かれた文章を、日本語を読める外国人は少ないですから、普通は日本の人が英訳をし、そしてさらに英語が母国語の人がチェックをするというのが普通のやり方だと思うんです。もともと日本語の文章を、いくら上手な人が翻訳しても論理的に英語として成り立たない場合が普通なんです。ですから、いくらいい翻訳をしても、もとの日本語が論理の展開が異なっていて、そもそも説得力に欠けていることが多い。論理の展開といいますか、どうしたら英語で、あるいはほかの言語で、相手を説得するかということを考えると、その2番目の論理あるいはプレゼンテーションということに対する関心が少ないと思います。つまり、いくら中身がすばらしくても、論理と英語がちゃんとしていなければ説得力はないわけです。ですから、その3つの要素がすべて非常に重要だと考えます。

〔 座長 〕 1つ1つの要素を重要視して、しかも3つが揃わないとまずいという話ですね。

 どうですか、C委員と僕が一番若い人たちをたくさん見ているんだと思うんですけれども、何か感想でもあればよろしくお願いします。

〔 C委員 〕 コンテンツという話が出ていますけれども、やはり自分がつくりたいものが見えるという人と、見えないという人とがいるわけなんです。では、どこにその差があって、何がその差を築いたかというのは結構わからない。本当に、小さい時からのいろんな条件の中で育ってきている。みんながクリエイティビティーを持つというのは、勿論そう簡単なことではないんです。でも、みんなどこかにクリエイティビティーがあるんだということを認めていかなければ、本当の意味での、個人個人がそれなりの価値観を築くことは無理で、その世の中に対する見方がなければコンテンツは発生しないと思うんです。

 そうなると、やはり教育論になってしまうのかなという気がします。日本は、これはこういうものなんだと、最初からすり込みすぎなのかなという感じがします。例えば20代から40代、50代になる人たちにはなかなか難しいです。どうしても少子化があり、これだけ手間も暇も子供にかけられるのであれば、これまでとは違う教育体系をやってしまうのでは。もし、今までの小中高がその変化に堪えられないとすれば、多分、僕らもそうですけれども、そういう民間のある種の教育というよりも学習支援みたいなことをやる会社が続々と出てきてしまう。

 それで早めに気がついた親、特に東京なんかはもうそうなんですけれども、バブルのときも含めて、非常に今の親たちは海外で暮らす経験を持った人が多いんです。その人たちが必ずぶち当たる問題は、子供の教育です。大体海外に行って働いた人の息子や娘が、日本の通常の学校の中で問題児になるんです。それで先生から呼び出されるが、自分の子供がしていることの方が正しいと大抵の親は思うんです。それで、大体親と先生がぶつかって転校するというパターンが続いてるんです。その辺を考えても、やはり多様性なんかは全然受け付けていない。

 そうなると、先生の問題かなとも思っています。実は、教育カリキュラムというのは、現場にいる先生の資質の問題なのではないかと考えると、先生を入れかえる方法はあるのではないかなと思う。それこそ、社会でいろんな勉強をしてきた人が小中学校の先生になって戻れるのではないのか。何も大学出た後、いきなり小学校の先生をさせることもないのではないか。専門教育をやるのであれば、現場のエンジニアたちである程度して、世の中には管理職はやりたくないという連中はたくさんいますから、どうしてそういう人を中高等のそういう現場教育に戻せないんだろうかとかと思います。大学でも、先生を作るための教育学部というのは必要なのかというようなことを考えています。

〔 G委員 〕 全体を含めて私は配られた資料を何遍も読んでみるんですけれども、この会の目的は何なのかなと、やはりわからない。参考資料も例えば後半にあるような制度の整備とか、通信料金を安く下げるとか、こんなものはいわば議論の段階ではないと思うんです。やるかやらないかであって、勿論やるに当たっていろんな問題があるということはあるにしても、恐らくこの場でそれを具体的にこうやっていけばいい解決策が見いだせるというような議論は余りできないのではないか。ただ、そういうものがあるということがやはり含まれているわけですね、本編の中に。一方で、今の教育のようなお話もありますし、先ほどE委員がおっしゃたような、非常に基本にかかわるようなある種の歯止めというんですか、そもそもどういう枠組みで我々は考えるのかという話がありますし、どのレベルで考えたらいいのかというのがすごく私の頭の中では全然整理ができないものですから、それで何を考えて、何を言えばいいのかなと思っておるのが正直なところです。

 幾つか、こんな感じで断片的に申し上げますと、ダボス会議というのがありますね。これは、皆さんよくご承知の、経済問題について世界中からいろんな種類の人が集まって議論する場所で有名になって、ここ数年急激に日本でも多くの人が知るようになって大規模になってきている。スイスは、このダボス会議にかかわらず、国際連盟を引っ張ってきたことも同じことだと思いますし、要するに場所貸しをしている。いろんな人が集まって議論する、自分たちは小さい国だし、永世中立というような立場をとっているし、それを担保する手当てとしても、とにかく集まって議論してくださいと。これは1つの知的活動の拠点のあり方だと思うんです。ですから、何も白か黒かで分ける必要はないにしても、そういうある種の器の提供を主に考えるのか、あるいはコンテンツで勝負するのかだと思うんです。そういった知的活動拠点となるための環境整備というものを、もうちょっと整理して考えた方が恐らく有意義な議論ができるのではないかと感想を持っております。

 また違うことを断片的に申し上げますと、競争というのが1つキーワードになっている。私は、競争が最大のキーワードになっているということ自体にかなり懐疑的ではあります。日本は競争は行われていない。しかし、ちょっと前まではあれだけ護送船団と言われていた銀行の人に聞いても、俺たちは世界一苛酷な競争をしていると言っていたわけです。私もそのとおりだと思います。今の日本の子供たちだって、大変に過激な競争を行っているわけで、ただ競争の仕方が偏差値という、あるいは資金量をふやすという非常に一元的なところで、競争が行われているわけです。ですから、日本は競争を排除する社会では決してないわけです。ただ、さっきE委員がおっしゃった評価軸を1つにとりあえず決めて、その中でやりましょうということが非常に広範に行われているということです。だから、評価軸をふやしていくということが必要ではないか。競争、競争と必ずしも言わなくても、評価軸をふやすということで、あとはむしろ放っておけば人間というのは、日本人だってアメリカ人だって、いろんな欲望があるわけですし、やりたいことがあるわけですし、競争しろなんて尻をたたかなくたって、放っておいても競争するんだと思います。

 最初にA委員が言葉を並べて大変うまく整理していただいているわけですから、それを、私が今申し上げた例で言いますと、競争における何が問題かというようなことで、もう少し中身を整理していくということをやっていけば、議論が集約できるのかなと思います。中身ではなくて、プロセスみたいなことばかりお話ししましたけれども、とりあえずそんな感想を持っています。

〔 座長 〕 どうもありがとうございました。E委員やF委員の話にも関係あると思うんですけれども、知的活動として何を考えるかということは、もうちょっときちんと整理しなければいけないのかなと思います。受け皿を提供することなのか、コンテンツなのかということもあるでしょうし、F委員がおっしゃったように、コンテンツを比べるというレベルの話と、外とのネットワークを活性化させるという話がある。それがプレゼンテーションなのかゲームなのか、あるいはもうちょっと他のものを取り入れるというようなものなのか、いろいろなレベルがあると思います。だからこの辺は少し議論しておかないといけない。是非今回に限らずそういう議論をガンガンしていただきたいと思います。

 それから、WHATの議論をしているのか、HOWの議論をしているのかということは結構大事なのかもしれません。今日のHOWの議論ですか、例えば電気料金の話とかそういうような話も、レベルによってはこれを早くやらないと非常にネックになるというような話もあれば、もうやることは決まっているからそういう議論をするよりは、もうちょっと何を議論すべきかということにするのかということがある。その辺のところは、また皆さんのご意見を伺いたいと考えています。

 今日は、B委員からもプレゼンテーションの準備をしていただいていますので、残りの時間をいただいて、B委員の方から20分か30分程度ご発言をいただいて、それから議論してただきたいと思います。よろしくお願いします。

〔 B委員 〕 A委員のものがよく整理されていたので、私は参考資料というまとめに対してコメントするような部分に集中して20分ぐらいで終わるようにしたいと思います。

 まず1としまして、「インターネットを通じた新たな社会への参画、新しい交流形態」と書いてあります。参考資料でいきますと、2ページの2の(1)のところについてです。これは、ほとんど余りコメントもないし異論もないんです。念のためですけれども、「ネットワーキング」という言葉を、初めてかどうかはわかりませんが、使った本としてリックナックスタンプスの「ネットワーキング」という本があったんです。企画庁の方が訳されたと思いますが、「もう1つのアメリカ」という標題だったと思います。それ以来、ネットワークを使ってエンパワーメントするというのは主張としてずっとあるし、インターネットもそれは強化されていると思います。さらに、それがH委員たちがやっているボランタリーエコノミーという話になったり、NPOになったりしているというふうに思いますので、これはこれでいいと思います。

 それから、2の「ハード・ソフト両面の基盤整備」は、こちらの参考資料の2の(2)の①、②、③、④、⑤とずっと並んでいることころについてのコメントです。異論があるところもありますので、若干コメントさせていただきます。

 (1)から(6)がひとまとまりだと考えていただきます。まず、情報発信力ですけれども、情報化社会になれば、特にインターネット的な分散処理型のシステムが入れば、多極分散型の社会ができるかと思いきや、むしろ東京一極集中とか、世界規模でいえばアメリカの1人勝ちとかそういうふうになっていると思います。一見、早い話がというか、逆にいえば当たり前というか、こういうふうになりがちだということをまず認識しておく必要があると思います。それがもう少し技術よりに考えると、デファクトスタンダードの世界を支配しているというようなことになっています。

 私は、デファクトの研究もしてるんですが、実はデフォルトという問題もあります。何をデフォルトにするかということが事実上世界を支配するということになっている。

 たばこを吸うことを許す方をデフォルトにするのか、禁煙をデフォルトにするのかと、これは今後日本社会にとっては大変大きな問題だと思うんですけれども、そういういろんなことがデフォルト的に決まっていく。

 その上、今世界で問題になっている最大のものが英語デフォルト問題というか、デファクト問題ということではないかと思うんです。私は、これはビジネスの世界では当たり前だし、英語を使えるようにした方がいいのではないかと思っていますし、機械翻訳も活用したらいいのではないかと思っています。これを今研究テーマで少しやっています。ただ、私たちのグループは割とプラグマティックで、いわゆる電話の自動翻訳ということを志しておられる方がおられますが、私どもは全くそれは考えていません。それは当然、そんなことをやれば裁判になって、瑕疵責任を問われることになるだろうと私は思っておりまして、またやるべきではないと思っています。そうではなくて、一旦訳しているのを見て、それがよければそのまま使うとか、そういう下訳的に使うということは当然あってもいいのではないかと思っています。

 これを使いまして、日米両国の政府サイトを自動翻訳して自動要約して自国語で読めるようにするというプロジェクトをやっています。今年中に何かデモンストレーションできるようにしたいと思っていますが、これからだんだんわかってくると思います。

 その過程で常に思いますのは、今の若者は試験の偏差値のところで育っているということです。いつも、私は自由回答的というか、レポート的なものを出して、例えば私の講義で何を得たかとか、私の講義を受けてどう思ったかとか、少しずつ変えながらやっているわけです。ところが、ゼミの発表とかそういうことで、私が何も問題の取り上げ方を言わない、要はこれについてどう思うか、適当にやってこいと言うと、絶対に半分以上の生徒は、「先生、どういう取っかかりをつくったらいいかわからないので、まずそこを教えてください」と言ってくる。多分、ほかの先生方もかなりの一方通行というのがあると思います。

 それで、実は資料の後ろに、富士通総研のFRIReviewというものに私が書いた「IT産業の国家戦略を考える」という資料をつけさせていただきました。この7ページに、「コンセプチュアライゼーション」というのがあります。これも、実は私は原典を見ておりませんで、企画庁さんの経済研究所がお出しになった本に引用されたものを孫引きしているだけで申しわけありませんが、今をときめくグリーンスパンが、95年ごろに、これからの情報知識集約型の社会ではコンセプチュアライゼーションが大事だということを言っています。勝てば官軍ではないですが、核心を突いた概念なのではないかという気がします。

 よく考えてみると、実は「情報化社会」という言葉は日本語でございまして、ローマ字でそのまま「情報化社会」と言っても通じるぐらいの段階になったんです。その割には、本当に情報化社会が来たときに日本が何か第2の敗戦とか第3の敗戦とか言われて何だろうかというのが、ケーススタディーとしての知的作戦を考える原点ではないかというのが私の感じです。

 「デジタルディバイド」という言葉は、アメリカでは所得格差とかなりの相関性があるということで懸念されていますが、日本はほとんど世代格差と同義になりはしないかということを懸念しています。かつて、テレビ一世、二世という言葉を発明された社会学者がおられました。自分が育ち終わってからテレビが来たというのが一世です。二世はテレビとともに育った。パソコン世代は、一世、二世、ドッグイヤーですので今三世ぐらいになっているのではないかと思います。一世と二世・三世の間の問題というのはもう解決不能だからあきらめた。問題は二世と三世のところにあって、案外古いコンピューター寄りで考えていた人というのは、今の新しいものに同調できないという、もっと深刻な問題が出ているんだろうというようなことをレポートしているものもあります。これですべてが語れるかどうかはわかりませんが、リテラシーとよく言うんですけれども、これは今のを念頭に置いて考える必要があるのではないかというのが私の主張であります。情報を発信する、コンセプトを作って、それを先ほどのF委員のアイデアでは3層構造を全部まとめた形でどうしていくのかということではないかと。このデジタルディバイドというのは、ある考えで書いたみたいなんですが、これは「デジタルディベート」と変えていただいたらどうでしょうか。つまり、ディベートをするということが大事ではないか。

 (7)、(8)、(9)は問題点はこだわるとちょっと深くなりますので、簡単にそこだけやって、大きな3に続けていかせていただきたいと思います。

 7は、実は接続料と同時に私が今議論していることで、ほとんど問題はインターネットのことなんです。電話料金を下げたらインターネット料金が下がるなら、それはよしなんですけれども、電話料金を下げてくれという要望はないわけだし、携帯電話に至ってはもっと高いものを平気で使っているわけです。ということは、問題はインターネットにあるので、インターネットをどうするかという問題であれば、電話料金を下げるという間接的手法を講ずるよりも、インターネットをどうするかという直接的手法を講じた方がいいというのが私の視点です。

 それから、知的財産制度については私は大変異端の考えを持っておりまして、事務局にこれは差し上げておきますが、コピーライトというCマークはそろそろ変えて、デジタル創作物というDマークというのをつくったらどうかと。これは、現在の著作権と両立可能な制度として作るというアイデアなんですけれども、その基本的な発想はどうしてもボイスが大きいのは権利者の側なんです。権利者の側の声が大きいので、それに惑わされているんです。本当にこれから大事なのはユーザーの視点で、ユーザーは通常声なき声しか出さない。したがって、権利の拡大という一方的な点に気を付けていただきたいということ。それから、データベースの保護の拡大も、これはひょっとすると利用を促進する効果もありますが、場合によっては利用をとめてしまうという側面があるということにご留意願いたい。つまり、アメリカの著作権の判例では、今までは額に汗をしただけで創作性がないものに著作権は与えないということにしていたのが、ヨーロッパ側が巻き返して、額の汗でも権利を与えようということが今のデータベースの保護の方向なので、それはいい面もあるけれども危ない面もあるとお考えいただけないかと思います。

 それから、コンテンツ規制について、何気なく「違法・有害コンテンツの排除」という言葉をお使いになっていますが、これは自殺行為ではないかと思いますし、法的にも有害なものを規制するということは、憲法上の論点があるのかということではないかと思います。これは、Reno(ジャネット・レノ司法長官)vsACLU(ACLU:American Civil Liberties Union、米国市民自由連合)1&2という、1というのはコミュニケーション・ディーセンシー・アクト(通信品位法)を違憲としました判決で、これは最高裁の判決です。2というのは、チャイルド・オンライン・プロテクション・アクトというCOPA(オンライン児童保護)法というものを今でも争っています。私は、このACLUの会長と親しいので、これに肩入れするわけではありませんが、この判決を読むとやはり規制しない方がいいのではないかと考えております。その辺は、お読みいただいて検討いただければと思います。

 ここでやはり日本の比較があって、これから重点的に何かやろう、では何がいいかということをある程度想定していくんだとすれば、それは2つあると思うんです。1つは、まずテレビのデジタル化でございます。これは、世界中うまくいっておりません。世界中仕切り直しになります。キーは、テレビ受像機でインターネットと接続するようにするかしないかということなんです。今の日本の放送業界は、心情的にしたくないという態度をとっており、結果として、今できて3月から使おうかと言っているソフトウエアは、それを使ってもインターネットにはつながりません。したがって、それをデジタルテレビとして売るのであれば、それは製造物責任として訴えるぞと言って今脅かしているだけですけれども、大問題になると思います。ということは、これはニューディールになるので、ほとんど用意ドンになる。インターネットのホスト数だとか、いろんなものでアメリカに遅れてしまったんですけれども、ここだけはスタートラインが同じということです。

 私どもは、今インターネットプロトコルベースでテレビが見られるようにするというプロジェクトをやっています。テレビにインターネットを取り込むというよりも、もうインターネットがあるんだから、その中にテレビが入っていくというアイデアでございます。これは何とかいけるのではないかと思います。それから、もう1つやっているプロジェクトに、日本情報を英語で発信するプロジェクトがあります。

 最後に、パソコン上にプレステのハードと同じ状況をつくりまして、プレステのソフトが使えるというものを売り出したコネクティックスという会社をソニーが訴えた裁判につきまして、ついこの前控訴審の判決が出ました。これは、リバースエンジニアリングはフェアユースだから、著作権違反ではないという判決です。この判決が、既にレキシスネキシスというデータベースから検索可能だということを私は知らないでいたんです。きのう教えてもらったので、けさやってみましたら、簡単に出てきます。

 要するに、今、日米で一番、立法、司法、行政の3権全分野における情報公開というものを進めるというのが、この知的活動のベースを提供する原点ではないか。その中で、立法と行政はまがりなりにも少しずつ来ているんですが、司法は今司法制度改革もあって、ちょっとどこで取り上げているのかがわからないんですが、最高裁もおくればせながら、著作権だけは早く判例が欲しいでしょうというのでホームページで見られるようになっているんです。その他の判例、特に過去の判例です。レキシスネキシスは19世紀の判例まで検索可能です。それに追いつくのは大変なことです。それがあることによって、これがいい判決かどうかというのを我々は見なければ議論できないわけで、資料がなくてディベートしようというのは土台無理ではないかと思うので、その辺をあわせてお考えいただけないかというのが私の意見です。ありがとうございました。

〔 座長 〕 どうもありがとうございました。今のことについて、ご質問でもご意見でもいただければと思います。

〔 A委員 〕 ネットの社会に多少かかわるようになって感じたのは、今、B委員がおっしゃったように、皆二面性を持っているということ。一極一元化するということは、要するにアイデンティティーがますます欲しくなるというような具合になる。そこへ持ってきて、もう1つ、経済にしろ何にしろ、こんなペースにいっておった経済が、情報化になって短命化というんですか、企業の方からすると商品寿命の短命化とよく言われますけれども、はやり廃りがあっという間に来てしまって、振れ幅が大きくなる。このことが、冷静に考えれば人間本性のことのように思える。厳密な議論をするにはB委員みたいなちゃんとわかっている人の意見を聞かないと、もうさっきの有害情報のような、よく考えてみたら何でもないことを、ものすごく雑にいこうとしているところがある。

 ちょっと具体的な例ですけれども、私がインターネットの会社にいて、新聞記者上がりだというので、「警察庁が風俗営業法でプロバイダーを取り締まると言っているけれども、どうですか」と聞かれ、「当然じゃないの」と言うと、「えっ」というのが日本のマスコミのかなりの多くの方の反応なんです。だけど、紙の上でわいせつなものは、裸で歩いたってわいせつだし、ネットの上だけで許されることは何もないんじゃないのか。だから、別に自然に、本性にさかのぼってやればいいだけの話ではないのというような議論をすることが往々にしてある。ネットが余りにも現状の変革を攻める力が強いばかりに、よくよく見極めないといけないし、さっき言ったように、データベースの話なんかもそうだと思います。では、それをなまじデータベースでつくろうとすると、これが実は商売的には全く合わない。そういうデータベースが欲しくなるけれども、そんなデータベースをみんなが作っても、ちっとも飯の種にはならないとか、ネットの世界というのは非常に二面性を持っている。

 それから、本来人間的な原則に立って考えればいい問題がある。私どもの会社は不良会員は月に50人ぐらい、理由のいかんを問わず退会処分にしてしまう。 100人ぐらいは、イエローカードで始末書を取って、二度とやりませんといった会員だけ継続させる。これを、実は警察庁のプロバイダーと警察の会議に行って聞かれまして、警察庁の方が「ところでお宅のプロバイダーさんはどう?」と、「うちは電話の利用者ですから、そういう人を追放処分にするということはあり得ません」。「一番犯罪に使われる最大手のあなたのプロバイダーさんのところはどうです」、「いや、表現の自由がありますから、かといって警察で逮捕して起訴したものを残しておくわけにはいかないから、月に1人か2人ぐらいしか」という議論になる。でも、私どもの会社はアメリカで訴訟社会で鍛えられているはずですから、利用規則に従って退会処分にしたというようなことが、憲法の表現の自由に触れるという話ではない。もっと健全な常識で運営されている話だと理解して、私たちは平気で毎月50~60人を一方的に、理由も聞かず追放している。何か、この世界を非常に特殊に見てしまうところがあるんですけれども、この辺は本当に落ち着いて、本当にデフォルトかデファクトかも、見るべきだと思います。

〔 D委員 〕 タイトルが、「インターネットによる知の交流」というところを見ながら、今のA委員の話を聞いていて感じたんですけれども、先ほどから出ている話で、場を作るというようなこと、場ができればこういう交流が進んで、コンテンツができて、それなりの評価が得られるといったような段階があるわけです。やはり、場をつくっただけではなかなか話題が盛り上がらなかったりするというようなことがあるので、マッチングの技術みたいなことをうまく作ってあげないと、その話も進まない。外国人のパーティーに行って、そのパーティーのホストが、「あなたはこの人と話すといいですよ」と紹介してくれて話すと、またそこで話が盛り上がるということがある。日本の場合は、なかなかマッチングをうまくするということが得意ではなくて、少ないと思う。

 実際に、例えば生物の場合には、微生物を育成するときに、同じものが集まると単独で放っといても育つとか、そこにまた変なのが入るときは育たなくなるとか、ちょっと違うのが入ると余計に育つとかといういろいろな現象がある。自分が誰としゃべったらいいかというのはなかなか探せないんだけれども、それをうまく誘導してくれる人がいれば、そこでどんどん新しい知が発掘される。

 特に、インターネットの世界だと、相手の顔が見えないし、プロファイルもわからないし、何を考えているのかもわからないというところがあって、今チャット的なものがはやっているとは思うんですけれども、その中でうまく人と人を会わせる技術かテクニックというものがどんどん要請されると思うんです。そういったところが開発して、インターネットの社会に持ち込むことで、余計知が盛り上がっていくところもあるのではないか。そういった技術の開発も今後必要になってくるのではないかと思います。

〔 座長 〕 具体的に、どんな例があるか、どういうふうに交流を深めるような技術がありますか。

〔 D委員 〕 例えばその人がどういうことを発言したか、どういうことを考えているかということなど、過去のプロファイルを全部持ってくる。例えば、インターネット上のゲームの世界ですと、過去の対戦履歴からあなたはどのぐらいのレベルだよという判定をしてくれて、将棋とか碁のゲームがそうですけれども、だからあなたは入ってきたこの人と戦うとちょうどおもしろいよというのを推薦してくれて、それでその人と一緒に対戦することで盛り上がる。その結果をもとに、またその人の、ゴルフのハンディみたいなものですけれども、レベルが上がっていって、今度はまた別の人と対戦する。それが、ただ単に勝ち負けだけではなくて、例えば将棋の差し方とか、卓球で言えばストレートを打ったり、いろんな打ち方や特性、そういったようなことも含めて、だれと勝負したらいいかというのをうまくマッチングしてくれるという仕組みもあるわけです。そういった力とか知恵とか、そしてこういった学問の世界でいけば、その学問の今まで勉強してきたものといったようなところで、同じ人同士でも話せるし、ちょっと違ったということを発表している人とマッチングをやってあげるような技術が必要だと思います。

〔 E委員 〕 情報発信力のところで、「我が国は東京一極集中、世界ではアメリカの一人勝ち」となっていますけれども、基本的にはネットはこういうふうになるべきではなかったわけです。ただし、世界で見ればアメリカの一人勝ちかもしれませんが、アメリカの中はかなり分散したというか、どこにいてもいいという感じになっているという気がするのですが、これは必ずしもネットの問題ではなくて、かなり背景があるような気もするんです。

 例えば、研究所を作るというと、アメリカは都市から離れた郊外にみんな作る。日本やヨーロッパは、割と便利なところに作る傾向があって、街の中につくれるならつくりたい、だけどそこは高いからちょっと横に行っているというぐらいのものです。ですから、そういう背景があるのかなという気がするのと、東京一極集中というのは、まだ本当の情報発信力で勝負していないからで、別のつき合いのあり方からそこにあるのかなという気がします。

 もう1つは、実は翻訳問題です。先ほどF委員がおっしゃったように、言葉の成り立ちが違って論理の成り立ちが違いますから、日本語を英語に訳するというのでは多分無理だと思います。文章そのものを全部入れかえて、後ろのものを前に持ってきて、前のものを後ろにしないといけないから、単に翻訳してもだめです。そういう意味では、自然科学の社会では必ずしも翻訳はしていないわけで、当然論文を書くには英語で書かないといけないので、日本語の原文は作ることがないわけです。それは、初めから論理が違うわけで、先にできたそれはどうこうという後から説明づける言葉と、前置きを延々とやって最後に結論がある言葉とは違います。そういう意味では、翻訳も必要だとは思いますが、そういう成り立ちの違いというか、ロジックの構造を変えながらやらないと交流というのはかなり難しいのではないかという気はします。

〔 座長 〕 一極集中の話と翻訳の話についていかがですか。

〔 B委員 〕 一極集中は、私の理想としてはもっと分散してほしいなと思っている。地域情報化政策などいろんなものがあって、私もいろんな県で頼まれてやってきたこともあります。象徴的に言えば、これを我々の親分として推進している先生によく申し上げるのですが、先生が故郷に帰って仕事をしようということにならないと、やはりこれは成功したということは言えないのではないか。これが今までのところ残念ながら現実ではないか。

 私がニューヨークにいた時に、ジャストシステムが出版部門を持っておられますが、そこがインタビューをしたいと言うので、これはいいぞと思ってお会いしました。「徳島から成田経由で来られて大変でしたね」と言ったら、「いや、私たちは品川の方にいるんですよ」と。やはり、これがメディアがものすごく集中している現状をあらわしているんです。

 2点目の翻訳問題ですけれども、私はビジネスを中心にと申し上げました。例えば、ビジネス用の英語の手紙を書く紙もそれこそデフォルトのものというのはいっぱいあります。それから、スペルチェックなどいろいろありますけれども、一覧としては相当役に立つんだろうと思います。何で我々が日米のサイトをやろうとしたかというと、残念ながらアメリカの政府のサイトにはいろいろな種類があって、それを見たいという日本側の方というのはかなりいるんです。だけれども、その方が必ずしも英語が得意ではないので、例えば今話題のデジタルディバイドについてのおもしろい報告書が2つも出ているけれども、それを見た人というのは余りいない。そうすると、ある品質が確保できているのであれば、母国語で見るということを1次アクセスとして提供することも悪くないかなというようなことを考えています。ただ、うまくいくかどうかは、私が研究代表者なので、編集長ということになっていまして、編集長が最後にどう編集するかにかかっていると思いますが、ある程度は役に立つと思っています。

〔 C委員 〕 今インターネットによる知の交流とあるんですが、全体的には徐々にそういう状況ができつつあるような気がするんです。いろんなところで、国のお金も動いてますし、自治体のお金で、これだけは誰でもが見られるべく扱っておいた方がいいのではないかというようなものは割と紹介という意味ではコレスポンデンスになってきているのではないかと思います。

 あとは、今インターネットビジネスということで、初期段階ではプロとしてそれをつくれる人がどんどん増えているわけですけれども、それ自体が今は自治体の方にも行きますし、40歳、50歳、60歳になってもみんなできるだろうというふうに、間違った方向には余り進んでないのではないかとは思います。

 ここまで広がると、なかなか誰かがこういうふうにやれという形で指導するのは不可能な状態になる。そういう意味でも物凄くビジネスに使って成功する人がいれば、事業の活動で1つのポイントの中でインターネットを使う人も勿論いますし、多種多様なものが出ていると思う。違法・有害コンテンツの排除という部分では、子供たちのことを考えると、それなりのフィルタリングのサービスもたくさん出てくるだろうと思っています。

 デジタルディバイドの話は、B委員のお話を伺って一番関心があって、一世はあきらめて二世、三世の中でもディバイドがあると、そういう見方もあるなと思いました。一番思っていることは、国がよくお年寄りのためにインターネットをという形で言いますけれども、僕は余り賛成していない。インターネットをやるのは、リテラシーという言葉が出てくるように、割といつも使う表現で出てくるものがあるので、根本からそれを入れかえるというのは、歳取ってからではなかなか面倒くさいと思う。読み書きは、断然簡単な機械でというふうにチャンスは与えるとしても、無理やりいろんなお金を突っ込んで、お年寄りを連れてきてみんなでインターネットをしましょう、とやらなくてもいいのではないか。そういうお金があるのであれば、そういうことをしていかないと仕事が見つからなかったり、それから大学でもそういう設備を入れられない大学がいくらでもありますから、そういう方向へお金を持っていって、それこそ 2.5世というか、その辺を充実させたらいいのではないかと思います。

〔 G委員 〕 今のお話とほとんど同じことなんですけれども、私はこれまたやや中身よりもこの会が目指すものみたいな話になってくるんですけれども、世の中でIT革命とか競争だとかベンチャーだとかと言い出すと、これまた結局わっとそっちにいっているわけです。それは、結局、1つの基準で競争しようということの延長線上のような気がしてならない。私は、週刊誌や新聞がそういうことでわあわあ言うのは、大体日本のマスメディアというのはその程度ですから、それで仕方ないし、それでいいんだと思うんです。経済企画庁を含めて、政府が何をするかということでいくと、私はIT革命や、インターネットを大いにやろうというのが最終目標ではなくて、恐らく、なるべく多くの人が幸せに暮らせるようにという当たり前のことが最終目標だと思う。

 そうであれば、英語ができない人に無理やり英語を今からやれとか、パソコンは扱えないし扱いたくない人に、やれというのは大変酷な話であって、むしろ将来への広い意味での投資ということを考えると、若干犠牲が伴うのはいたしかたない。いたしかたないにしても、英語を無理やり習えだとかいうかわりに、あなた方はこういうことをやって、それで引き続きハッピーでいてほしいということもあわせて提示しないと、単なる、右往左往になってしまうというのが非常に気にかかる。余り、そういうことでおたおたしない方がいいのではないかと常に思っております。

 それで、1つだけ、どこかでどなたかにお答えいただきたいと思うのは、今の話とも関係があるんですが、今このまさにインターネットの世界を含めて猛烈な勢いで変わりつつあるのは間違いないわけです。そして、この変わっているのが一時的なのか、相当長期に続くのか、恐らく過去数十年とか 100年、いつごろからなのかわかりませんけれども、20世紀の初頭のどこかで猛烈に世の中が変わった時代があるわけです。そのときは、本当に刻々経済なり社会の状況が変わっていた。それと同じことを我々は経験しているわけです。それが、例えば数年とか5年とか続けば、また落ち着いて、それを枠組みとした社会の中でペースがもとに戻るのか、恐らくなかなかそうはいかなくて、動き出したらとまらなくて、こういう状況が数十年はこういう勢いでどんどん変わるのか、そのあたりのことについて一度伺いたいと思っております。それによって、恐らく我々が何をやるかというのはまた変わってくるのではないかと思います。

〔 座長 〕 今の最後のこの大きな流れをどう見たらいいのかと、数十年続くものなのか、あるいは3~4年で落ち着くものなのかというのは、なかなか答えは見つかりにくいかと思いますが、皆さんがそれぞれどう考えているかということを少なくとも出していただいて、また会議の報告書の中で、大事だと思いますので、そういうことにまた触れていただきたいと思います。

 B委員の報告で、もう1つのアメリカということは恐らくもう1つの社会ということだと思うんですが、そういうこととも関係があるので、今のお2人の論点にも非常に関係があると思うので触れたいと思います。要するに、こういうインターネット革命とか情報革命によって、今までのところにプラス何か新しい社会、コミュニティーができるのか、それとも今までの社会がガラッと変わって新しい社会にいくのかということでも随分違うのかもしれません。だから、そういう意味では、もし前者であれば、新しくできるインターネットを集中して、今までプラス新しいのができたところをうまく利用して社会の活力をふやしていくとか、そういうのに向いた産業が出てくるような仕組みを作っていくということで済む話なのではないか。A委員の報告を、素直に読みますと、むしろイメージとしては今までとは違う、ガラッとかわって新しい社会が出てくるというイメージ。そうだとすると、確かにおじいちゃん、おばあちゃんがインターネットをするかどうかは別の問題として、相当真剣に新しく変わることに対して淘汰の見方を出さなければいけない。我々がそれを出すかどうかは別として、少なくともそういうことを背景に考えなければいけない。二者択一ではないんでしょうけれども、随分イメージが違ってくるんだろうと思います。少なくとも、次回いろいろお話を伺えればと思います。

 では、時間も来ていますので、もし意見等がございましたら、事務局までファクスあるいは電子メールでいただきたいと思います。とにかく、問題がうまく設定されていない、非常に難しい問題をやっておりますので、断片的なご意見、あるいはご質問で結構ですから、ぜひいただければと思います。

 次回は、3月15日の水曜日を予定しておりますので、よろしくお願いいたします。それでは、本日の会議はこれで終わりにしたいと思います。本日は、どうもありがとうございました。

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